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限りなく透明に近いふつう

やさしい鬼です お菓子もあります お茶も沸かしてございます

やかんとちりとりとポスター

ほのぼの読み物 雑記

「今年買って良かったもの」

今年我が家は3年ぶりに引っ越しをしました。

引っ越しをすると、間取りや生活様式が変わるので必然的に買い物も増えて、例年に比べ今年は生活用品をたくさん買ったように思います。

そんな中、今日は私が「これは買って良かった」と思うモノを3点ご紹介します。

 

その① ゴッホのポスター

実家に自分の部屋がなかった私は、10代の頃ずっと「大人になったら絶対1人暮らしして部屋に映画のポスターを飾るんだ!」ともくろんでいました。

そして私は20歳になるやいなや、お金もないフリーターのくせに家を飛び出して1人暮らしを始め、引っ越した翌日には電車に乗って隣街の駅ビルにあるLOFTにポスターとフレームを買いに行ったんです。

当時はまだインターネットが普及してなかった時代。

一般人が「事前にネットで値段をチェックする」という習慣はなく、売り場でフレームの値段を観た私は、愕然とした記憶があります。

思ったよりもずっと高かったんですね。

私の欲しいポスターサイズが収まるフレームは90センチ×70センチくらいのもので、確か4千円くらいしました。

ポスターも買うと総額5千円を超えてしまい「全部で3千円くらいで済むかな〜」と甘く見積もって来た私は、売り場でしばし立ち尽くしてしまいました。

サイズをひとつ下げれば2500円くらいのものがあったのですが、私はどうしても憧れの映画ポスターをででーんと部屋にかっちょよく飾りたかった。

なので4千円のフレームと映画「ベティブルー」のポスターを、清水の舞台から飛び降りるつもりで「えーい、ご飯なんて何日か抜いても死なない!」と思いながら買いました。

ポスターがニョキリと突き出てた大きなフレームの入った袋を抱えて電車で帰るのは少々骨が折れましたが、幸せの黄色いハンカチならぬ幸せの黄色いLOFT袋といった感じで、念願のものがやっと手に入った幸福感に酔いしれたことを覚えています。

さてそのフレームですが、最初は「ベティブルー」のポスターを飾り、飽きた後は映画「時計じかけのオレンジ」のポスターを飾りました。

 

時計仕掛けのオレンジ [P-601] [ポスター]

時計仕掛けのオレンジ [P-601] [ポスター]

 

その後は私がイラストのコンテスト用に描いた自作のイラストを飾っていました。

それで2011年までは自作イラストを飾ってきたのですが、震災の時に我が家もわりと揺れてフレームが落下し、後ろのパーツがちょっと欠けてしまったんですよね。

ボンドで修繕すれば直りそうだったのですが、時間がある時に直そうと思って一旦フレームを物置にしまうと、なんとそのまま5年も放置してしまいました。

5年の間には何度か「直すの面倒だし、捨てようかな。絵なんか飾らなくたって死なないし。」と、20歳の頃とは真逆の事を思った時もあったのですが、取り出してフレームを観るとやはり買った時の思い出がこみ上げてきて「いや!捨てられない!!」とまた戻していました。

実は私は30代になってからモノを持たない主義になったので、たいがいのものは躊躇なく捨てられるのですが、独身の貧乏時代に思い切って買った記憶がある物はやはり特例な思い入れで、捨てられないんですよね。

そんなわけで、ずっとしまってあったフレームなのですが、今回引っ越した部屋には玄関にちょうど物をかけるフックがついていたので、「よし!フレーム直してちゃんと飾ろう!」と 思い立ちました。

それでフレームは直したのですが、中の絵が自作のイラストなことがちょっと恥ずかしくなりまして、いえ、あの、イラスト自体は好きなのですが「客人と『これ、描いたの?』『昔ちょっとね…』みたいなやりとりをしたいが為に自作イラストを飾る人」な感じが自分では恥ずかしくなってきたというか、たぶん20代の頃に好きなものを部屋中にちりばめてインテリアでバリバリに自己主張をしてきた反動かもしれませんが、歳をとったら「あんまり部屋に特別な意味を持たせたくなくなった」んですね。

で、絵は変えようと思ってさっそくAmazonで検索。

イラストや写真よりも正統派の画家の絵がいいな~と思い、そうなると私は画家の中でとりわけゴッホが好きなので、とりあえず「ゴッホ ポスター」で検索しました。

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わーいっぱいある。8000件くらいヒットして、数々の名画から選べました。

「星月夜」が好きだけど玄関に飾るのでなるべく明るい色味にしたいし、かと言って「ひまわり」だとベタすぎてなんか嫌、いっそゴッホやめてモネにする?いや、モネを飾るほど格調高い家ではない…ああゴッホのチューリップ畑の絵すごいいいわー、でもサイズ小さいのしかないじゃん、なんだよちくしょー

そんな感じでなんやかんやと1週間ほどかけて楽しく選び、結局私が買ったのはこちらのポスターです。

 あえてゴッホの代表作は避けて探し、明るい色味で牧歌的な雰囲気の絵にしました。

ちょっと私の地元にある梅林に景色が似ているところもホームシック気味の心にグッと来たので、これにしました。

フレームにおさめて玄関に飾ったところ↓

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 うん、いい。

眺めててぼんやり思ったのは「たしかに絵なんか飾らなくても死にゃあしないが、こうやって好きな絵を飾って眺める度にいちいちキュンとなる作用が積み重なって、人間の寿命が延びるとかって、あるのかもしれんなぁー」ということ。

上手く言えませんが、毎日家の出たり入ったりの度に「あ、この絵、好き」と思うことが「心と体良さそうな感じがした」というか、使い古された言葉ですが「金銭的ではない豊かさ」?みたいなことを「実践してるなぁ、自分」という悦に浸れました。

フレームも5年ぶりにまた活躍できて心なしか良いことをした気分になりました。

ゴッホのポスター買ってよかったです。

 

その② 野田琺瑯のドリップケトル

野田琺瑯は「のだほうろう」と読みます。

野田ほうろうは「『前前前世』の印税で放浪の旅に出そうな野田洋二郎」の略ではないです。

ウィキペディアによると琺瑯とは

琺瑯(ほうろう)は、アルミニウムなどの金属材料表面にシリカ(二酸化ケイ素)を主成分とするガラス質の釉薬を高温で焼き付けたもの。「ホーロー」と表記されることも多い。英語では Enamelエナメル

だそうです。

鍋や食器でよく見かける「金属なの?陶器なの?」みたいなやつで、山の中の滝とか湧水のそばに「これで飲めば?」的に置いてある謎のコップもよくホーロー製だったりします。あと年寄りの家の歯磨き用コップもホーローが多い。

で、野田琺瑯のドリップケトルを買ったいきさつなんですが、私は数年前までコーヒーが飲めなかったんですね。

今思えば、初めて飲んだコーヒーが缶コーヒーで、それが美味しくなかったせいで「コーヒーはマズい」と擦りこまれて、なるべく避けてきた上にたまにやむを得ず飲んだコーヒーも多分インスタントコーヒーだったのか、やはり「わざわざ飲むほどのもんじゃないな」という感想でした。

ですが、数年前にコンビニのドリップコーヒーが出た当初、夫が飲んでいるブラックコーヒーをなんとなーく飲んでみたところ、あら美味しい!

それで「豆から挽いたコーヒーは美味しい」ということをこの時実感したんです。

なんか、それまでもその説は聞いていたものの、豆から挽くコーヒーはちゃんとした喫茶店でしか置いてなくて、喫茶店のコーヒーって500円くらいするし「お試しに飲んでみて不味かったらヤダ」ってことでお試しすら出来なかったんですよね。

でもコンビニコーヒーを知ってから、コーヒーが飲めるようになって結構好きになってきたわけです。

そうなると、自宅でもドリップコーヒー飲みたいなーとなり、道具がないので買いそろえることにしました。

コーヒーミルとコーヒーサーバーは普通のお店で気に入るものがあって買ったのですが、ドリップケトルの良いのがそのへんで売ってない。

ちなみにドリップケトルとはふつうのやかんに比べて注ぎ口が細長く、お湯が冷めにくい構造をしているもので、まぁ「コーヒーを淹れるのに都合良くなったやかん」だと思って下さい。

ふつうのやかんでもコーヒーは淹れられますが、我が家にはもともとやかんが無く、コーヒーの為に新たに買うので、ドリップケトルにしようと思いました。

んでAmazonで探しに探して好みものを吟味して最終的に買ったのがこちら。

 こちらは黒なのですが、実はコレの色違いで紺色でわりと程度の良い品がメルカリ(フリマアプリ)で売ってたんですね。

私はメルカリの売上金があったので、メルカリで買えば新たな支出にはならないからそうしたかったのですが、メルカリのやつが2800円。Amazonの新品が約3800円。

差額1000円分のメリット(安い、支出にならない)とデメリット(中古、色は黒が第一希望なので紺だと嫌ではないが決めかねる。)を天秤にかけて「どっちだどっちだ~?」と悩んで悩んで1週間。

なんと私は寝言でも「ケトル…」と言っていたらしく、見かねた夫が

「ニニちゃんの性格だとさー、1000円浮いたことはしばらく経ったら忘れそうだけど、『黒が良かった』ってことは紺色のやかんを観るたびに思い出すんじゃない?この先ずっとやかんを観るたびに『黒が良かったな~』ってチラッと思う後悔は1000円以上のダメージなんじゃない?倍くらい値段が違うなら迷うけど、1000円くらいだったら高くても黒の方買った方が俺は良い気がするけどな~。」と助言をしてくれて「たしかに!!」と納得しました。

そうなんですよね。私の場合、買った物の値段は結局すぐ忘れるので、安くても嬉しいのはその時だけ。第一希望の物を買えば、その時は出費が辛く感じるけど、それを観て生活する「嬉しい」がずっと続くんだからいいのか!と思い、納得したので、Amazonで買いました。

このケトルは本当に使いやすいです。持ち手があまり熱くならずに素手で持てるし、形の安定性と美しさは申し分ない。2か月使ってますが、毎朝起きてコイツを観るたびに「あ、かわいい」と思ってキュンとします。

そしてこれで念願の自宅コーヒーを飲むたびに「あー幸せ」となるので、差額1000円のデメリットはすでに埋まった気がします。

やかんは基本出しっぱなしで、鍋やフライパンが出てると台所に散らかった感が出ますが、このやかんはそんなに散らかった感がないのでやはりシュッとした黒のおかげかと。

こんな。

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うん、かわいい。

野田琺瑯のドリップケトル買ってよかったです。

 

その③ 白木屋傳衛商店の「はりみ」ちりとり

引っ越しの時にそれまで使ってたふつうの100均のほうきを捨てたので、引っ越してすぐに新しくほうきを買いました。

100均のものはふつうに全長が90センチくらいなので、掃除の時いつも腰を曲げたお辞儀スタイルで使っていたのですが、新しいのを選ぶ時に夫が「あなた腰弱いんだから、立ったまま履けるほうきが良いのでは?」というアドバイスをくれたので柄の長い棕櫚(シュロ)ぼうきというのを買ってみました。

こういうやつ↓(Amazonではなく近所のホームセンターで購入。)

 

高砂 棕櫚ほうき 長柄7玉 NSZ430

高砂 棕櫚ほうき 長柄7玉 NSZ430

 

 

これだと確かに柄が長く、お辞儀スタイルではなくレレレのおじさんスタイルで掃けるので、腰に負担がかからず「良かったね」となったのですが、この棕櫚のほうきは見た目が大変美しいんですね。機能美というか。

なので、それまで使ってたこれまた100均の黄緑色なプラスチックちりとりと並んで置いておくとなんだかアンバランス。

ほうきセットはなるべくすぐ使えるように常時台所に出しておきたかったので、見るたび「ちぐはぐだ」と思うのが嫌になってきて「ちりとりも買い換えよう」と思いました。

それで毎度お馴染みAmazonさんの出番。

「ちりとり おしゃれ」で検索すると、数々のちりとり画像が出てきました。

最初いいなと思ったものはアンティークなブリキ風のもので、それを買おうかと思ったのですが、洋風のアンティークブリキのちりとりが純和風な棕櫚ぼうきと並んだところを想像すると、やはりどこかちぐはぐな気がしました。

せっかく見た目を追求して買い換えるのに、ちぐはぐではいけない。

私はこのへん執念深いので、しつこく1日がかりで探すもなかなか見つからず、諦めかけたその時、ふと「棕櫚ほうき ちりとり」で検索してみたらよいのでは…?と思いつきました。

そもそも「棕櫚ほうきに合うちりとりを」という目的で探していたので、初心に戻ってそのワードで検索してみました。

そして出てきたのが「はりみ」というこちらのちりとり。

【白木屋傳兵衛商店】 はりみ 大 穴付

【白木屋傳兵衛商店】 はりみ 大 穴付

 

 一目見た瞬間に「あ、これだ」と思いました。

説明書きとレビューの高評価を読みさらに惚れこみ、即決で買いました。

届いてさっそく使ってみると、これがまぁ使いやすいこと!

厚紙を張りあわせて柿渋を塗った紙で出来ているので、ヘリが薄くて床にぴったりと沿って、ゴミがスムーズに中に入る。

棕櫚ほうきと合わせて使う人が多いとレビューで読んだ通り、ほうきの毛幅と入り口のサイズが相性ばつぐん。

そして紙製のため静電気が起きにくく、ゴミを捨てる時もゴミがスッと離れて落ちる。もう完璧。

極め付けは、棕櫚ほうきと並んだ姿のしっくり感!

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これどうですか、お似合い過ぎてもはや熟年夫婦ですよね?

「君たちはおしどり夫婦なのかい?桑田圭祐と原坊なのかい!?さてはペーパー夫妻なのかーい!!??」と語りかけてしまうほど長年連れ添ったパートナー感に、私は感動すら覚えました。満足。

白木屋傳兵衛商店の「はりみ」買ってよかったです。

 

とまぁ、以上3点が私が今年買って良かったと思う品でした。

この3つはやかんとちりとりとポスターという、まぁ「無くてもなんとかなるっちゃなる」な物なんですが、無くてもなんとかなるものをわざわざ買うからにはこだわりたかったんですよね。

で、一点一点買う時に悩んで探して考えたせいか、愛着のあるペットみたいな感覚で我が家に存在してます。

夫婦2人暮らしなので、家族の人数が多いお家に比べたらにぎやかではないかもしれませんが、愛着のある物に囲まれて楽しく暮らせたらいいなと思います。

 

ではまた。

理想の家庭は「個人」で決めたい。(少なくとも私はサザエ家が理想じゃない。)

 

時間が無いので走り書きになってしまうかもしれませんが、このタイミングで書いておかないといけないと思った件なので書いておきます。

昨日のヤフーニュースで見たこちらの件

mainichi.jp

 

記事内容をざっくりまとめると自民党を支えている保守団体『日本会議』が、この度、日本の家庭のありかたとしての理想は『サザエさん一家』だと示した。」という内容です。

これに対してははすでにtwitterでも「なにそれ?」と怒りの声がたくさん見られていて、私も同じように「なにそれ?」って思いました。

それでつぶやいたツイートがこちら。

 

 

今回書きたい事は、まぁこのツイートに要約されているんですが、憲法24条や「家族のありかた」については7月に深澤真紀さんの記事を読んでから私も考えるようになったので、この機会にツイートでは書ききれないことを書いておこうと思います。

あ、深澤さんの記事は素晴らしいので、ぜひまたこの機会に多くの方に読んで頂きたいです。

 

憲法24条を「女だけの問題」にしてはいけない(深澤真紀)|ポリタス 参院選・都知事選 2016――何のために投票するのか

 

私はこの問題を中高生のような若い方にもよく考えて欲しいので、今日はここから中高生でも読めるようにやさしい文章で書いてみます。

まず、「日本会議」という団体は、一言でいうと「古き良き日本」を大事にしている団体です。そして安倍総理大臣がいる自民党を支えている団体です。

日本国憲法」とは、国内の様々な事柄について「国としてはこんな風に考えてますよ。」という考え方を示したもので、今の日本の法律は、その考え方に外れないように作られているので、わかりやすくいうと、憲法は「法律の素」みたいなものです。

その中の憲法24条には「婚姻や家族に関すること」が書いてあります。

「結婚は男女2人がお互いに『したい』と思った場合だけにするもの。」とか「結婚相手を選んだり、住むところを決めたり、結婚や家族に関する法律は個人の尊厳を大事にしたものじゃなきゃいけません。」というようなことを「国としてはそう考えていますよ。」と示した内容です。

私達の身近にある結婚に関する決まり事といえば、皆さんも「男は18歳、女は16歳にならないと結婚できない」「同じ性別の人とは結婚できない」ということはすぐ思い浮かぶと思いますが、そうした決まり事、法律は全て憲法の考えをもとに作られているのです。

ですから憲法はけして他人事でも、どこかで頭の良い偉い人達だけがこちゃこちゃ話し合って勝手に決めることでもなく、もっと国民一人一人が「自分たちの生活を左右することなんだ。」と思って接するべきことだと思います。

 

さて、では日本会議の人達がこの度「サザエさん一家が理想の家庭像だ」と示したことに、私や多くの大人たちがどうして「なにそれ?」と思ったのかをお話しします。

日本会議というのは先ほども書いた通り、自民党を支えていて、自民党と仲良くしている、いわば「どこかにいる頭の良い偉い人達」です。

仮にその人たちが「こうしたい」という希望があれば、ゆっくり年月をかけて政治に働きかけることで国全体で「こうしたい」が実現できてしまう可能性もあると私は思います。

そのように国を動かす力が強い団体の、理想の家庭像が「三世代同居のサザエさん一家」と言う事は、どういうことだと思いますか?

それは、日本家庭についての在り方を「国としてはそっち方向でいくように考えてます」という意思表示だと私は思えます。「そっち方向」とは

「今の日本は親と別居している核家族が多いけど、ゆくゆくは昔みたいにじじばば、父母、子どもたちみんなで暮らす大家族が多くなるといいな。サザエさん家みたいに。」

という方向です。

「別に大家族は賑やかで、いざと言うときみんな一緒に暮らしている方が助け合えるし、それが理想なのは悪いことではないんじゃない?」と思う人もたくさんいるでしょう。

私もべつに大家族に反対だというわけではありませんし、それを望んで三世代で暮らして「家族皆が幸せだという家庭」が将来増えること自体は良いことだ思います。

でも、それは国民の一人一人が社会の環境と自分たちの暮らしについて考えて、「そうするほうが幸せだから」と自分の意志でそちらを選ぶ人が増えて、自然とそうなった「結果なら」良いことだと思うだけで、あくまで、国が「それが幸せで、それが理想なのですよ。」と誘導するのはおかしいことだと思うのです。

 

家庭や暮らし方というのは、その人の人生のあり方そのものに直結するとても重要な部分だと思います。
だから国としてはそこに対して「一人一人で違う事情や考え方がありましょう。どんな立場であろうとそれぞれのお考えは等しく尊重しますよ。」というだけで留まるの正解だと思います。

なのに、こうやってサザエさん一家というモデルを挙げて「家庭の理想像はこれだから、そっち方向行くように国を動かしていくから」みたいなことを言われると、まるでそうでない家庭は国にとって理想的ではないと言われているように感じます。

それにそうやって国が「家庭単位」での理想を指し示すのは、実は昔の憲法の考えに近いことをやっているように思います。

どういうことかと言うと、今から70年前、太平洋戦争以前の日本は、日本国憲法ではなく大日本帝国憲法という憲法で動いていました。

この憲法は、天皇陛下がこの国では神様のように一番上に立つ存在で、国民も「個人」よりも「家単位」で見るものでした。

そして「個人」は、家や国の為にはどういう犠牲を払っても我慢するものとされていたので、今のように「どんな人も一人一人の人権を重んじよう」という考え方は無く、人権は性別や立場によって重く見られたり軽く見られたりすることがあったのです。

だから今よりもっと沢山の男女差別、身分差別に苦しんでいる人もいたし、「家の為に私は我慢する」という風に、個人よりも「家」を大事にするのがその時代の当たり前でした。

つまり、今の私達が当たり前に「個人の考え」で人生を決めていることそのものが昔は当たり前ではなくて、家の為、国の為に自分の意志を我慢する人が、その我慢も「当たり前」として生きていたわけです。

そして、第二次世界大戦が終わった70年前、戦争に負けた日本に対してアメリカが「新しい憲法作って、国を建てなおしなさいね。」と示していったのが今の日本国憲法なのですが、アメリカからすれば日本は「無謀な戦争をして負けた国」なので、日本人が二度と同じ過ちをしないために、日本国憲法大日本帝国憲法とは内容を変えました。

「飛行機事故を起こした航空会社が、また同じ事故を起こさないように、国が会社のマニュアルごと変えるように指導する。」みたいなことですね。

そうして出来た日本国憲法では国民に対して、かつての「家を重んじる」よりももっと「個人を重んじよう」という方向でした。

個人を重んじるというのは「国民一人一人がみんな等しく同じ人権を持って、どんな人も自分の意志決定で生きるのが当たり前の社会にしましょう。」というようなことです。

だから日本は70年かけてようやく戦争の前よりは男も女も平等で、出身地や立場による差別なども減り、「家の為に私は我慢する」という考え方も今時はあまり聞かなくなっているのです。

昔は家の為とあれば「長男長女は家を継ぐ、親の老後をみる」は当たり前ですし、女の人は「さっさと結婚して相手の家に尽くせ」と言われ、しかもその相手も「実家に都合の良い相手を親が勝手に決めてくる」なんてこともよくあることで、さらに嫁ぎ先の家でお姑さんにいじめられたり旦那さんに殴られたりと辛いことがあっても離婚するのは「家の恥」と言われるので、それも我慢する。

といった具合に、「家」を重んじるためには、その家を成り立たせている個人が人権を侵されていてもそこはお構いなしだったわけですから、今の世の中は日本国憲法のおかげで救われている人がたくさんいると言えます。

私が普段気にかけている女性差別についても、まだまだ差別が完全になくなったとは言えませんが、それでも日本国憲法が出来て70年で、ようやく少しずつマシになっているかなとは思っています。

だからこれからもそうやってこっちの方向で、個人を尊重した社会で暮らしたいと願っている矢先に、どこかの偉い人達が「家庭の理想像は昔ながらのサザエさん一家」と、また「家」単位で、国民の生き方を指図してきたので、「なにそれ?」となったのです。

国が国民のことを一人一人の「個人」でなく、「家族単位」でまとめたがっている。

それも「家族の絆、家族の助け合い」といった耳触りの良い言葉で、さも素晴らしい事のように。

その一見耳障りの良い言葉選びや、サザエさんのようなほがらかアニメの力を借りて「憲法を変えようよ。昔に戻ろうよ。」と優しく説得されているような感じが、私は怖いと思いました。

 

私が思うに「昔の大家族は良かった」と考える人たちは、昔のお嫁さんが家族の中でただ「働き手」としてコキ使われて苦しんでいたことは無いことにしています。

だから今の社会にある介護の問題、少子化の問題、待機児童の問題などを解決するのに「昔はそういうことは家族で助け合っていたからなんとかなったんだ。昔みたいに皆で暮らせば丸くおさまる。」と思ってしまうんだと思います。

でも、国の動きとして「こっち」と示された方向に進んで行って、問題が沢山でてきたからと言って「昔」という逆方向に戻るのは、すごく浅かな考えだと思います。

 日本会議は記事にもある通り「個人の尊重や男女の平等だけでは祖先からの命のリレーは途切れ、日本民族は絶滅していく」という考えらしいのですが、私としては日本民族が絶滅する」も確かに怖いことではありますが、それと同じかそれ以上に「人権が踏みにじられて我慢しながら一生を終える人をたくさん作りながら日本民族が生き残っていく」というのも怖いことだと思います。

だから簡単に「このまま個人主義が進んだら、男も女も好きなように生きて結婚しない、子供も生まれない、日本人滅びるから、個人じゃなくて家族を重んじさせろ!」と国がそっち方面に舵を切るのはやめてほしいです。

少子化については私もよく考えてて、身近な女性に意見を聞くと、実は「産みたくない」とか「予定もない」と同じくらい「いける限り産みたい」もいるんですよね。

いける限り産みたい女性は、みんな金銭的な理由で子作りを3.4人で止めてるらしいのですが、私はそれを聞いたら「国は、生みたくない人とか予定のない人に産め産めと迫るより、こういう産みたい人が好きなだけ産めるように動くほうが早いのでは…?」と思ったりするので、そういうのなんとかしてほしいです。

あと、特別養子縁組の制度ももっと変えて里子制度が身近になるといいと思うし、要介護者を抱える家族が数家族寄り集まって暮らせるグループホームの家族ごと版みたいな施設もあるといいなとか考えたり、ようするに誰かと助け合わないと無理が出る社会なら、その誰かを「家族」に限定するのではなくて、もっと個人が自由に選んだ相手と助け合いことができるようにすればいいのでは?と思ったり、私ですらそういうの考えるからもっと頭の良い人がみんなで考えたら、なにも昔に戻ろうとしなくても、「未来なんとかなるんじゃないの?」って思うんです。

なんというか、単純に諸々の社会問題を「昔に戻れば解決」じゃなくて、なんかもっと「時代が進んだからこそ出てくるアイデアを頭絞って考えて活路を見出そうよ、そういうの考えるのが政治家でしょ、昔に逃げないでよ」っていうのが今の気持ちで、今日書きたかった一番のことかと思います。

 

あと最後に書いておきますと、サザエさん一家が幸せそうに見えるのは、①サザエの実家だからサザエがのびのびと自由な言動をしていて、②さらにマスオさんがお人よしな性格で妻の実家でもそれなりにマイペースに暮らし、③フネも波平もまだ元気に動けて、④カツオもワカメもタラちゃんも非行に走らず健康優良児だから、ハタから観れば幸せそうなだけであって、実際に今の日本で「さぁ三世代同居始めなさい!」と言われてもこの①~④の条件が揃う家庭はなかなか少ない気がします。

誰も年を取らずに「幸せな一時期」を永遠に繰り返しているアニメの家庭像を持ち出し、「こうなれよ」と言われても、私たちは現実に歳を取りますから素直に「そうだよね」と思えません。

私達は「理想の家庭像がどんな風か?」も人それぞれみんな違う頭で考えて生きている人間だから歳を取るし、時間の流れは止ま らなくて進むので、どうか国の在り方を考える人たちも「古き良き」の良かった所だけ見て理想化しないで、こっち方面で先を観て活路を考えるようにしてもらいたいです。

そして、中高生の皆さんも政治や社会や憲法のことを、もっと身近に考えてみてくださいね。

よろしくお願いします。

 

急いで書いたので乱文ですみません。

ではまた。

 

若い女はいつまで「みっともない」と脅される立場でいなきゃいけないだろうのか(車内化粧について思うこと)

ジェンダー 考察

 

 

 はじめに

 じわじわ炎上しているCMがあるとTwitterで流れてきたので観てみました。東急電鉄のマナー広告。 

youtu.be

 

こちらの動画「歩きスマホ編」の後にある「車内化粧編」がそれだということなのですが、動画で見てみると音楽とダンスのインパクトが強くてあれよあれよと進むせいか、私は先日の「うな子」の時に比べれば一見「ふつうのCM」という感じがしました。

ただ、私も動画を観るより前に画像広告の「都会の女はみんなキレイだ、でも時々みっともないんだ」というコピーだけを目にした時は「ん?」となりました。

このCMにすでに怒りの声を上げている方もたくさんいるようですが、私の場合それは「怒り」というより「違和感」というか「なんか違くない?」という感じでした。

これはいつものことですが、炎上CMって「無関心」以外に3段階の感想を生むものだと思うんですね。

「①怒る」と、「②怒りではないけど、ヘンだと思う箇所はあるなぁ」と、「③どこに怒る要素があんの?」と。

その①②が「通常より多いぞ」という結果が声になり、その事態が各種まとめや話題の見出しになると「〇〇炎上!」とひとくくりになるのかなと思うのですが。

それで、私の場合、わかりやすくダメなことを突きつけられたら瞬時に「ここが腹立つ!」と「ここ」への怒りを言い表すことができるけど、わかりにくいダメなことを突きつけられた時って「どこかに変なところがある気がする」くらいの違和感しかないので、とりあえずはじめ②でして、このCMへの感想評判のまとめ↓ を観ても②の人が多い印象なんです。

 

「炎上」と称されると、つい「みんなが怒り狂ってる」みたいなイメージを喚起してしまいますし、今の自分の「ん?」という気持ちを書いて人様に「桜島さんが炎上に加担」とされるのも本意では無いのですが、あまり人様の評を気にすると書くものも書けないので、そこはあまり気にせず今の時点でこのCMに対して思ったことを書いておこうと思いました。そんなわけでよろしくお願いします。

 

一見ふつうめなのに見過ごせなかった理由

 今回の広告のコピーは「東京はきれいな人が多い。でも時々みっともない。」となっていて、「時々」は「電車内で化粧をしている女性」を指しています。
つまり電車内で化粧することに対し「どんなにきれいな女性でも電車内で化粧をして、きれいになっていく過程を他人に見せるのはみっともないことだからやめましょうね。」というのが、この広告の伝えたいメッセージだと思います。

それでこのCM、「ニクい」というか私も「さすがにそこまでバカじゃないか」と感心したのは、このメッセージを劇中で女の子に言わせてるところなんですね。
だってこれ、仮に主人公が男性でこのメッセージを発していたら…と想像すると、多分もっと即座に大炎上になってると思うんです。
でもさすがにそうしなかったのは、偶然ということももちろん考えられますが、「今の時代、そのレベルの事はたいていのCM制作者は予測できるからかな」と思いました。

だから、「女の子を起用してのこの台詞と台本」という所に、一応私は「作り手の思惑」が見て取れるように感じました。(そのレベルすら分かってなかったのがルミネと志布志うな子)

このCMはその巧妙さゆえに、ぐわっと大炎上はせず、また見る人によっては「どこが怒る要素なの?」と「流し見」もできてしまう範囲の普通っぽいCMに仕上がっているのかな、と思います。

 でも私とか、ジェンダーアンテナが立っちゃってる人は見過ごせないものなんです。
だって、仮におかしなメッセージだった場合の「おかしさ」って、男女どちらが言ったって本当は同じ「おかしさ」であるはずです。

つまり、アンテナ張ってると、そもそも「男性役者が言ったらダメだけど、女性役者ならOK」みたいな「男なら・女なら」っていう「男女で扱いが変わる事象」そのものに違和感を感じるので、「女の子が言ってるから見過ごす」という風に「女の子」で誤魔化されないんですね。
分かりやすく言うと、たとえば道で肩がぶつかった相手にいきなり「前観て歩けタコ」と言われたとして、「言ってきたのがおっさんなら言い返すけど、女子高生なら許しちゃう」みたいな個人的なジャッジがありますよね。
そういう判断って日常の個人間ならありえるし、私もまったくしないわけではないけど、ジェンダーアンテナの張っている心の中では「相手の性別でものごとを判断すること」自体に疑問を抱く今日この頃なので、なるべく「減らせる場面では減らすべきかな」と思ってるんです。

それで、公共交通機関の発信というのは社会性が強いので、私としてはこれからの社会のためには、公共機関の発するメッセージも同じく「性別で状況が変わる」であって欲しくないと思ってるんです。

つまり「ぶつかった相手にいきなり『前見て歩けタコ』と言う人間の『失礼さ』」は、「おっさんでも女子高生でも『等しい』」とするのが公共機関の態度として正しいのでは?と私は思うんですね。

だから「男性を起用せずに女の子に言わせてるから、そんなに女性に怒られることもないだろう」みたいな「女の子で逃げる感」みたいな部分があると「公共機関が発信するものが、そういう『女の子だから許してねパワー』頼っちゃうー?」という失望を感じて私は見過ごせなかったんだと思います。

それが、私がはじめに感じた「ん?」という違和感の原因の1つかなと思います。

 

「みっともない」という切り口への違和感

 さて、私がこの広告に感じた違和感のもっとも大きな原因になっているところはどこか。

それは「みっともない」という切り口をチョイスした所かな、と思いました。

「みっともない」を辞書で引くと

みっとも な・い  【見っともない】〈 形〉

〔「見とうもない」が変化した「見ともない」の促音添加〕
とても見ていられない。体裁が悪い。見苦しい。【三省堂 大辞林より】

とあります。
つまり「他者からは見苦しくてとても見ていられないさま」のことを「みっともない」と言うのですね。
ということは、広告のコピーを言い換えると「東京の女性はきれいだ。でも時々見苦しくてとても見ていられない。」となります。

…わかると思いますが、多分これだとネットでは女性達の「じゃあ見るな」「誰も『見て』とは言ってない」というような声で今よりさらに荒れる結果になっていたと思います。

つまり、今回「女の子に『みっともない』というオブラートな形容詞を用いて言わす」作りにしてるので、このCMは世に出て少し炎上するくらいで済んでいますが、言ってること自体は「電車化粧をする女は見苦しくて見ていられない。」というメッセージなんですね。

 で、私が「みっともない」という言葉選びが良くなかったんじゃないか?と思う理由は、一言で言うと公共マナーに関して、公共機関という立場からの注意の仕方で「みっともない、みっともなくない」を持ち出すのは適切ではない気がするからです。

その理由は次の章からくわしく書きます。

 

「客観的事実と主観的事実」

 私がなぜ上記のことを「適切ではない」と思うかというと「みっともない=他人が見苦しく感じる」か否か、の判断は極めて個人的主観に基づいていることだからです。

 どういう理屈か説明しますと、人は物事を判断する時に「客観的事実」と「主観的事実」の両方を加味して判断するんですよね。

分かりやすく例えると「地面に穴があいている」とします。

それは客観的事実(誰がどう見てもそのように見える様子)では例えば「円形で直径5m深さ1mの穴があいている」と表せますが、見る人が普段ビルの工事現場等で、もっと大きな穴をいつも見ている人なら人に言う時「あそこ、ちょっとした穴があいてるなぁ」と言うでしょう。また、子供が見たら「うーんと大きい穴が空いてるの」と言うでしょう。

このように「受け手の感覚の違いでどのようにも変化しうる事実」が主観的事実です。

だから裁判などの公的な場では、「たくさん殴られた」という被害者の主観的事実だけで罪の重さは決めずに(「たくさん」の感じ方は人それぞれ違いますから被害者次第で同じ行為の量刑が変わる事態は避けなくてはならないので)出来る限りの「客観的事実(目撃者の「あの人は何発、何分間くらい殴られてた」という証言や怪我の診断書など)」で、状況を判断するわけですね。

で、その穴の大きさが何かこれからの決定事項に関係している場合、その穴について正確に事実をみんなで共有して判断したいなら報告書には誰がどう読んでも誤解が起きないようにきちんと数値で穴の大きさを書き記し(客観的事実)、さらに「大きい」とする方が都合が良いなら「円形で直径5m深さ1mの大きな穴があいている」小さいほうが都合が良いなら「円形で直径5m深さ1mの小さな穴があいている」という風に最後に書き手が主観的事実をちょちょっと付け足したりすることがあるわけです。

ものごとの判断の時にはこんな具合に客観的事実と主観的事実の両面から判断すると、より正確になるというルールで私たちは生活しているわけですが、件の「みっともなさ=見苦しさ」については公的な定規がありませんよね。

物の大きさにはセンチやメートル、音の大きさにはデシベルやホーンといった客観的事実を伝えるすべがあるのに、みっともなさを指し示す「拾い食いは8みっともない、人前でのゲロは10みっともない」みたいな単位はありません。

だから、私が屁理屈人間なせいも多分にあるとは思いますが、「公共性が高い=出来る限り正確な情報を発信して欲しい機関」からの注意を、そんな個人の判断にまるっきり左右される「みっともなさ」が基準でやられると「そんなあやふやなことで注意されんのー?」という疑問が残り、そもそも「みっともない」を用いることに不適切さを感じてしまうのです。

 

改めて考えた時「人前での化粧」は見ていて不快なのか?

 そんなわけで、私は「人前での化粧のみっともなさ」について改めて考えてみました。

皆様にもこの機会に一度よく考えてもらいたいのですが、「化粧をする工程を見ること自体」を「みっともない」と感じるかは非常に個人差があると思います。

「みっともないと思う」「気にならない」とそれぞれいるでしょうし、逆に「面白い」と思う人もいるかもしれませんね。

私は「人前で化粧」という行為について考えたところ、確かに「あまり人前で大っぴらにやる行為ではないな」と思いました。

しかし、それはあくまで自分が化粧をする立場だった場合を想定して「自分が恥ずかしいと感じるか否か」の感覚で言った場合に、自分はちょっと恥ずかしいので「自分は人前で大っぴらにやらない行為」に分類しただけです。

今回よく考えてみると、私は他人様に関しては「どこで化粧をしていようとなんとも思わない」という事に気が付きました。

その理由は、別に動き自体がまわりにぶつかるとか、なにかパウダーが飛び散るというあきらかな「害」がなければ、化粧をする動き自体は自分で見慣れているものだから「げっ」とは思わないですし、本人が恥ずかしくないからしているんでしょうから、私が自分の感覚で「やらない」に分類している判断を「あなたも恥ずかしく思わないのヘンだよ!」と押し付けようと思わないからです。

 ちなみにこの理屈で言うと「露出狂も自分が恥ずかしくない人が出してるんだから許すのか?」となりますが、露出狂や公然わいせつは、ほとんど本人以外の全員が「不快」に感じる行為で、度が過ぎているので公に「ダメ」とするべきだと思います。

「公共の場での化粧」も「ほとんど誰でも不快だろ!」と言う人も多いと思いますが、私は不快には感じませんし、国勢調査したわけではないので「ほとんど」が今現在国民の何割なのかは誰も分からないでしょう。

そして、今現在「自分は不快だよ」と言う意見が「国民のほとんど」だと思ってる人が多いとしたら、それは昔から意見の通りやすい層にとっての「ほとんど」だった名残りだと思います。

つまり、昔からこの国で意見の通りやすい「男性」の多くから見て「人前で化粧をするなんてはしたない、みっともない、良くない」という意見が主流だからです。

もちろん女性でも同じように思ってる方もたくさんいると思いますが、中には「男性の作る意見の社会の大きな流れには沿うものだから」が考え方の根底にこびりついていて、無意識に男性と似た判断をするような価値観でそうなっている方もいるんではないかと思います。

実際、私自身も今回のことがある以前に改めて「人前で化粧をする行為って見てて不快か?」と自問自答したことはありませんでした。

つまり「人前での化粧」って、実際に目の前で誰かが化粧をしていて、「見ててキレられた」とか「肘が当たって嫌だった」とか「粉が飛んで喘息の発作が出そうだった」とか、何か実害をこうむったことのある人以外の大多数の人にとって、そもそもこんな異論反論オブジェクションみたいに「不快か否か!?」と題する議題ですらでなく、特別に「是非を問う」というところまで意識が及ばない程度の行為なんじゃないの?という気がしました。

 だから余計に、東急がそれをマナーCMの2つめにしてることに「???」となりました。次の章ではもうちょっとそこについて詳しく書きます。

 

「みっともない」のは化粧だけではない

では、話を東急の広告に戻して今回、公共マナーの注意として「みっともない」という切り口が選ばれたことがどうして私は「変だな」と感じるかという話をします。

まず、「みっともない」を理由に人の行動を改善させる注意のやり方は、一言で言うと「人様の視線に考慮しなさい。」という「躾」のような注意だと思います。

人前で化粧をする行為の「何がどういけないか?」という事を人に諭す時に「躾」という切り口でやると、注意している点は「人前で、その行為に至る他者への配慮意識の低さ」ということになります。

つまり「そういう仕草は、人様が見たら不快に感じるからやめなさいね。」というニュアンスの注意です。

そして、東急電鉄が全部で何種類の「マナー違反行為」に対してCMを作る気かはわかりませんが、第一弾の「歩きスマホ編」に続く第二弾がこの「社内化粧編」なわけで、(第三弾はこれから公開の整列乗車編)歩きスマホ編は「線路に落ちる、人にぶつかる」などの「実際に起こりうる本人、他者への害」を挙げて注意をしているので、これは分かります。

が、先ほども書いたように「人の行動が原因で電車周辺で起きる害」としてその次に打ち出す注意がこの「車内化粧」というのに私は「なんで?」となりました。

なぜなら、電車内で繰り広げられる人間の「みっともないさま」というのは他にゴマンとありますよね。

床に座る。匂いのする食べ物を食べる。座席に荷物を置いて確保する。

シャツをはだけた酔っ払いの酒くささや嘔吐や千鳥足でのぶつかり歩き。

主におっさんに多い大股開き座り。

肘をガツガツ隣人に当てても新聞を読む意思を貫くおっさん。

くしゃみを手で覆わずに豪快に唾を飛ばしてなぜか満足気なおっさん。

エンドレスで鼻くそをほじり指をシートで拭くおっさん。

後半、おっさんばっかになってしまいましたが、とにかく「みっともない、見苦しい」という行為を挙げ連ねたら車内化粧の他にこんなにもあります。

また話が込み入るので今回痴漢のことはあえて書くのは避けようと思いましたが、痴漢に類似した行為で「みっともない、見苦しい」の範囲を超えている、肘で身体を「ぶつかってる?触ってる?これどっち?」という動きをしてくる男性や、雑誌で隠してるけど自分の股間をさすり続けている男性みたいな場面もあります。

そういった、他に実害すら伴ってる「みっともない」がいっくらでもあるのに、東急電鉄が「歩きスマホ」の次に注意したいと選んだのが「車内で化粧をする女」ですよ。

もう「なんでそこぉ?」としか言いようがありません。

確かに「車内化粧を迷惑に感じる人が多い」というのはわかるんですが、「みっともなさ」の切り口で責めるなら、みっともない車内行為の対象者は老若男女どの層だってあるわけです。

それを一番に「みっともなさ」の注意対象として「若い女」がやりがちな「車内化粧」を選んだのは、その判断する人が頭ん中で「若い女性は人目を配慮する心を持ってこそ!」と思ってるからじゃないですか?あとぶっちゃけ、若い女が「注意しやすい相手」だからでしょ?

もちろん、「人目を配慮する心」というのは誰しも持っていることが望ましいとは思います。

でもあくまで「誰しもがおんなじくらいに持ってることが望ましい」と思うんです。

だから広告は「東京のおじさんはかっこいい。でも時々みっともないんだ。」で、あの女の子が「鼻をホジホジ、威厳は誇示!でもシートで指を拭くのはNO!」とか歌い踊ったっていいわけです。

でも、そんな案が通らないどころか、提出もされないのは人々が共通認識としてすでに「おっさんは人目を配慮する必要はない」とうっすら思ってるからですよね。あ、あと注意しにくい相手だからですよね。

つまり私は、「誰しもがおんなじくらいに持ってることが望ましい」他人からの視線を配慮する心のはずなのに、そういう風に「若い女はもっと人目を気にしろ」と「おじさんは人目なんか気にしなくていいんだ」の差があるところに「なんでだよぉ!!?」なんですよ。

だから、その差を当たり前のように無視して、「みっともなさ」を車内化粧の注意だけに持ち出すこと自体がそもそも変だという結論に至ったんです。

以上が私の「公共マナーの注意として『みっともない』という切り口が適切ではない」と思う理由でした。

 

代案を出すなら

さて、「批判するなら代案を」の精神が私にもあるので、「こうだったら良かったのでは?」と思う案を書きますね。

そもそも「車内化粧」がわざわざ取り上げる話か?っていう気はしますが、そこは目をつぶって、仮に私がお上の命令でどうしても「車内化粧編」を作らなきゃならないCM製作者だったらどうするか?という代案です。

それは単純な話「歩きスマホ編」と同じ切り口でいいと思うんです。

「実際に起こりうる本人、他者への害」を挙げて注意、それだけで。

「みっともない」は言いっこなしです。

「肘が隣人にぶつかる、粉が飛ぶ、匂いが強い(香水以外でそんなに匂いが強い化粧品を私はまだ知らないが)」というような事が「害」です。

あと、一段階深刻な害としては、化粧品に含まれる防腐剤、アルコール、香料がなどは喘息の発作を誘因することがあるので、隣の人が喘息持ちの可能性もありますから、そこは確かに知らずに化粧をしている方へは注意を促していいところだと思います。

「見苦しいからやめるべき」という、個々で異なる主観的事実を根拠に注意をせずに、「肘が子供の顔にぶつかった人がいた。隣席の化粧品で喘息発作になりかけて駅員室にかけこむ人がいた。」という事実が本当にあるのなら、そういう客観的事実を根拠に注意をするのが公共機の切り口としては適正かと思うので、私ならそのようにすると思います。

 

最後に

さて、一連の話をつきつめてまとめさせていただきます。

なぜ今回、車内化粧行為が「みっともない」という不適切な切り口で注意されたのかと考えてみると原因はやっぱりいつものことだと思うんですよね。

そう、女性への「女らしさ」の押し付けです。

みっともない行動は世の中にゴマンとあるのに、ターゲットを「若い女性」に絞ったみっともなさが真っ先にやり玉に上げられるのは、結局「女性は容姿や仕草を他人に評価してもらってナンボ」という考えが昔からこの国の共通認識にされていたからだと思います。

多くの男性が女性に「恥じらいを持ち、奥ゆかしく、つつましい言動に努める女であれ」という理想を求め、当てはまる女性は「やぁ、なんと素晴らしい大和撫子か」と愛玩し、当てはまらない女性は「はしたない、生意気で下卑た女ども」と罵って、そういう風に男性目線から見た「女らしさ」を基準に「女性の選別」をすることを、この国では長いこと「アリ」にしてました。

そして、それは人によってはもはや意識するレベルでもないほどに深く浸透しているから、女性(とりわけ若い女性に)

対しては、男性に比べて「みっともないことをするな」と諭すことが当たり前のことになっているのだと思います。だからこそ女性に対する躾のような切り口の、今回の広告が生まれてしまったのだと思います。

今回、この広告怒っている女性に対して、恒例のように「またうるさいフェミが過剰反応でCM叩きか」「やつらは何にでも怒りやがる」「たかが一CMの内容に何をそこまでうるさく言う必要がある?」と思う人もいるでしょう。

でも、怒っている人が怒ってるのは「たかがCMの内容」にではないんです。

これだけ日々、世の中は変わっていき、「女性の地位向上」やら「女性が輝く国へ」やら、政府すら一応は言うようになってきて、「男女の差を埋める」「男女共に人として扱う」へ動こうとしているはずなのに、まだちょいちょい「女性は女らしくなきゃ人にあらず」という精神が透けて見えるCMが出て来てしまう、その「土壌の整ってなさ」に怒ってるんです。

私は「まぁいいや」と、女性がお望みどおりの従順さで、小さいことを怒らず見過ごしていくと、時代は簡単にかつての男性優位時代に戻ってしまう気がします。

それが嫌だから怖いから、面倒だけど、声をあげるようにしてるんです。

「ヤマトナデシコ」が理想な人も多いのは分かりますが、そうでない女性をいじめる&いじめていいとする空気はもういい加減に終わりましょう、という提案です。

たかがCMですが、されどCMというか、CMってすごく「お国柄が出る」ものだと思うので、今回このようなことを書いてみました。 

久しぶりなので、ちょっと書こうと思ったのにまた長くなってしまいましたが、長文お付き合いいただき、ありがとうございました。

ではまた。

 

10月27日追記

 

サラダを取り分けなくたって女の恥ではない。

 

小学校高学年の頃、近所に住んでいた友達カヨちゃん(仮名)の誕生日会に行った。

確か男女取り混ぜて7.8人のクラスメイトが来ていた。

みんなですごろくとかテレビゲームをやって、そろそろお昼になろうかという時に、カヨちゃんのお母さんが「女の子はちょっと来てー」と言って、カヨちゃんを含めた私ら3.4人の女子が台所に呼ばれた。

台所のテーブルには太巻きとか唐揚げとか、いわゆるご馳走が並んでいて、私たちは「おいしそー!」と沸いた。

それで私達はカヨちゃんのお母さんに言われるまま、その料理を居間のテーブルに運んだりテーブルを拭いたり冷蔵庫から飲み物を出したりした。

男子はその間ずっとテレビゲームをしていた。

いよいよ、さぁみんなでいただきますの前、私の目前に麦茶の入ったピッチャーがあったのを1人の男子が手を伸ばして取り、コップに麦茶を注いだ。

なんの気もなく私がボケーとそれを見てたら、カヨちゃんのお母さんが言った。

「あら、それはカヨ子がやらなきゃ。」

そう言われたカヨちゃんは「しまった」という顔をした。

そこに続けてお母さんは言った。

「こういう時は、女の子が注いであげるといいのよ。」

 

その時、私はかすかに心がチクっとした。

気のせいかもしれないけど、2言目はカヨちゃんに向けた言葉じゃない感じがしたから。

お茶が1番近くにあったのは私で、しかも私は「女の子」に含まれるから、「女の子が注いであげるといい」は、カヨちゃんではなく、ボケーっと見てた私に向けられた言葉のように感じた。

思い返してみると、私の母は幼少期から私にこういうことを一切言わない人だった。

「女の子だからみんなの飲み物を注いであげなさい。」とか「女の子だから食事の準備を手伝いなさい。」とか「女の子だから木登りはやめなさい。」とかを言わなかった。

それが必要な時は「女の子だから」ではなくて、「一番近くにいるんだから」とか「手が空いてるんだから」とか「危ないから」とか、そういう言い方だった。

だから私は「女の子が注いであげるといい」と聞いた時に、正直「なんで?」と微かに思った。

でも当時は子供。まして、よその大人の言う事につっかかるような性格じゃない私なので、そのまま誕生日会は無難に進行していった。

でもその時のなんとなく恥ずかしいようなバツの悪い感じの一瞬が、私は妙に忘れられなかった。

 高校生になった私は、アルバイト先が飲食店だったから日々たくさんの飲み会の席を観た。

男女混合のグループに私が瓶ビールを運ぶと、必ずと言っていいほど女性客が受け取ってお酌をしていた。

男女混合のグループでは、サラダを取り分けるのも、空いた皿やグラスをテーブル脇に出してくれるのも、「替えの灰皿下さい」と言いにくるのも、誰かが飲み物をこぼしておしぼりを貰いにくるのも、大酔っ払いしたグループの帰り際に「うるさくしてすみませんでした。」と厨房に言いに来るのも、ほとんど女性だった。

自分が飲み会に参加する年になると、私は人から「気が利くね」とよく言われるようになった。

どうやら私は「飲み会における模範的な女性の動き」が同年代の他の女子より出来るらしかった。でもその理由は簡単。

なんせ、酌をする、灰皿を交換する、料理を取り分ける、空いた皿を下げるといった「飲み会での気が利く行動」は、動き自体はたいしたことなくて、ただそれに気付く目線でそこに居るか居ないかだけのことだからだ。

つまり私は高校3年間で散々色んな女性の手本を見てきたから、たまたま他の子よりは数年早く「気付く目線」が身に付き、気付いたからやっていただけだった。

それは偉いことでも無いし、私が特別「女の子なんだからやらなきゃ」と自分に課したための行動でもなく、単に「得意なゲームだからやってる」みたいな感覚だった。得意だから好きで、好きだから得意。ただそれだけのことだった。

ところが成人して少し経ってから、当時の彼氏とその男友達&彼女達で開かれた飲み会に行った日のこと。

すでに過去にもそういう飲み会は何度かあって、いつもの私はそういう「気が利く立ち回り」をしていたのだけど、その日はそれをやらなかった。

わけは、単純にその日はすごく疲れていたからだ。

たしか、お盆休み期間だったので彼氏達は休みだったけど、私はその日仕事だった。

仕事終わりに彼氏から電話がかかってきて、どうも「遠くに住んでいる大事な先輩が地元に帰ってきている」だとかで、急きょ集まることになったらしい。

はじめ私は「疲れているから」と断ったが、彼氏が「彼女持ちはみんな彼女連れてくるから!」とお願いしてくるので仕方なく行った、そういう飲み会だったのだ。

私は皆の話には参加して愛想は保っていたが、皿を下げたり飲み物を作ったりといった面倒事は他の彼女らが率先してやるので任せていた。

その帰り道、彼氏が不機嫌そうに言った。

「お前さ、今日の態度なんなの?」

私は、自分ではそこまでひどい態度ではなかったと思っていたので、この言葉に少しびっくりした。

すると彼は、近くの先輩のグラスが空いてるのを私が放置してたことや、料理のとりわけを1度もしなかったことなどを「女としてあれはない」とくどくど言い、挙句の果てには「〇〇の彼女なんか、〇〇が汚すの見越して替えのTシャツまで持ってきてたんだぜ。お前にああいう気遣いできる?」と言ってきた。

〇〇とは彼の友達で、酔っぱらうと手元が狂い、しょっちゅう飲み物を浴びている男だ。その日も案の定やらかしたのだが、その時〇〇の彼女はすかさずバッグの中から替えのTシャツを取り出していた。

私は彼氏の言葉に「替えのTシャツて、子供かよ。」と思ったし、疲れていたのもあってかなりカチンと来た。それで言った。

「あのさ、今日とか私仕事終わりですごい疲れてんの知ってるじゃん。そんなにいちいち私がやらなかったことに気が付く位なら、皿を下げるとか、飲み物作るとかをさ、自分がやればよくない?」

すると彼は言った。

「お前はそれでいいの?」と。

 

意味がわからなかった。

彼は続ける。

「だから、皆の前でもし俺がそういう事をして、彼女のお前がただ座ってる姿を観られんのは、女として恥ずかしくないの?」

 

私はフリーズした。

思わずポカーンとなって、頭の中で「なんで?」がぐるぐる回ったまま、なんとか「は、恥ずかしくないけど。」という一言は返したが、それ以上は何も言葉が出なかった。彼氏は不服そうに「あっそう」とだけ言ってその話は終わった。

 

今の私は、彼が言っていた不可解な言葉の意味が分かる。

彼の頭にはきっとこんなルールがあるんだろう。

・男が面倒に感じるこまごましたことは、女の役目。

・男がそれをやるのはみっともない。

・女がそれをやらないのもみっともない。

だから彼の「女として恥ずかしくないの?」という言葉を丁寧に言い換えるならば

「お前(女)がやるべき仕事を、人前で彼氏(男)にやらすなんて、俺(男)の恥とお前(女)の恥のダブルパンチなんだぞ。俺は男として恥ずかしい。女としてお前は恥ずかしくないのか?」という意味だったんだろう。

でも私は、やっぱり彼の言う事には今も「なんで?」と思う。

頭が混乱していた当時は「なんで?」の一言しか浮かばなかったけど、今はちゃんと続きの言葉がわかる。

なんで、そもそも酒の席での面倒な役目は女がやるべきことになってるの?

なんで、あなたが代わりにやることで、私が恥じなきゃならないの?と。

 私は、酒の席での細々とした面倒な事を、別に「どちらかの性別の役目」だとは思わない。

面倒な事の面倒くささは男にとっても女にとっても同じものだから、その場を囲む仲間内で、男も女も無く「1番料理に近い人」とか「メインで話してない人」とか「そういうのが好きな人」が、適当にやればいいと思う。

あくまで「1番料理に近い女」でも「メインで話してない女」でも「そういうのが好きな女」でもなく、「人」だ。

だから、その夜のことで言えば「仕事で疲れてる女(私)」と「疲れてない男(彼氏)」がその場にいたのなら、私がやれてないことに気が付いた彼氏がやればいいだけのことだったと思う。

でも彼には「男は男らしく面倒な事をしない」&「女は女らしく面倒な事をしなければならない。」というルールがあった。

だからこそ、後から「お前、この男女間ルールを破って恥ずかしくないのか?」と言わんばかりに私に「女としてあれはない」とダメ出ししてきたのだ。

今思うと、私もポカーンだったけど、彼もポカーンだったのかも。

彼の中の男女ルールは、きっと彼の中では「万人共通、このルールが根付いてるものだ」と信じてたんだろうから。

私達は根本的にジェンダー観がだいぶ違う2人だったということが、後になってこういう場面をいくつも思い出してからしみじみわかる。別れてよかった。やれやれ。

 

ところで、ここのところ、ネットや雑誌の女性向け記事では「女の子ならこれができなきゃ恥ずかしいぞ♡」「モテ子になるにはこれをマスターして♡」というノリで、「男性に好かれるには女性はこのような事をマスターしましょう。」と指南するものが目につく。

もともとそういったことを女性に求める空気は世の中にあったけど、本や雑誌以外にインターネットで雑文が溢れる時代になってから、特にそういう内容のものが量産されて、私の目につきやすくなった感じ。

でもそういう記事を目にしていつも思うのは「なんでこういう内容は、ほとんど女性向け記事なんだろう?」ということ。

私は「モテる方法をレクチャー」系の記事自体がそもそも面白くないけど、(全部「そんなの相手によるだろ!」と思ってしまう…)髪型やメイクやファッションなどの外見についてなら、100歩譲ってまだ「女性向け」「男性向け」と分けられるのは、わかる。

でもこの頃よく見かける「食事の場では料理を取り分けましょう」だの「男性の空のグラスに気付ける女になろう」みたいな「内面も男性ウケ用に作り込むべし」という女性向け記事が、ちょっとわからない。

確かに、大勢でテーブルを囲んだ時そういうことをこまごまとやってくれる人がいたら、してもらった方がしてくれた人に「おお、優しいな、気が利くな、ありがたいな、好きだな」等の好感を抱くことがあるのは当たり前のことだと思う。

でも、その当たり前って、男女共通の感覚だよね?

つまり「男だって女だって目の前の雑事を誰かが代わりにやってくれたらありがたいし、好きになる可能性は高まる」ということ。

だから、「サラダを取り分けましょう」だの「空いた皿を下げましょう」だのの教えって、別に「女のコはこれができなきゃ♡」ではなく『男女ともに向けた教え』であるべきだと私は思う。

だから「男も女もこれが出来る人って、好感度高いですよ〜」ということで、「サラダを取り分けましょう」だの「空いた皿を下げましょう」だのが挙げてあるなら全然良いと思うんだけど、なぜか「女のコなら」と限定されてるから腑に落ちない。

 なんで私が腑に落ちないかというと、多分そうやって「こまごました面倒なことをやるといい女だよ♡」と女性だけにアナウンスする意図には「男が面倒に感じるこまごましたことは、女の役目。」という、私の彼氏の考えと同じやつが透けて見えるからだと思う。

 ようするに、ああいう記事を読んだ時、私は書き手の思考回路が

「面倒な雑事をやるのは女性の役目だよね。→だから他の女のコよりもそれが出来れば、女らしいって思われるよ。→女らしさが高いほど男にはモテるよ。」

なんだろうなって思えてしまう。

だから、記事を読むたび前と同じように私はこの疑問がこみ上げる。

「なんで、そもそもそのへんの面倒な役目は女がやるべきことになってるの?」と。

 

でも、その答えはきっと簡単で、「昔からそういうものだから」なんだと思う。

つまり、ずっと昔から、男は「戦場、職場」女は「家庭」に居場所を分けられていた時代に、男女がそれぞれの場にふさわしい人間になるように躾けられてきた慣習があるからなんだと思う。

 

だからこそ20年前、カヨちゃんのお母さんは「飲み物は女の子が注いであげるといい。」と私たちに教えたんだろう。「女の子が注ぐといい」と言われた時、正直、何に対して「良い」なのか、当時の私にはわからなかったけど、それは「世の中にたくさんいる『女の子がそういう事をするべき』と信じてる人」にとっての「良い」なんだと思う。

 世の中には「女の子がそういう事をするべき」と信じてる男性がたくさんいるから、彼らが「良い」とする行動をして、彼らに好かれ愛されることが、女性にとっても「良い」なのよ。

きっとカヨちゃんのお母さんは、そういう意味合いを込めて、私達女子のためにご教授下さったわけで、それはきっと数多の女性向け記事と同じ意図だ。

悪意ではない。

でも、それはもう今の時代の一部の女たちを縛るものになってきている。

 「女らしく」に疑問を持つ女たちを。

 私は、以前も書いたけど普段ただ「人」として暮らしているつもりで、別に自分の性別を特別に「女だ」と意識して暮らしてはいない。

でも、そうやって暮らしていた若き日、たまたま疲れていた日の飲み会で料理を取り分けなかっことを「女の役目をしなかった」と彼氏に責められた。

人だから仕事をして帰ってきたら疲れているのは当然だと思う。

でも、彼氏からしたら、その飲み会での私は「疲れた人」として存在することは許さず、「料理取り分けの役目を果たす女」として存在しないといけないらしかった。

「なんで彼はそんな考えの持ち主に?」

と推測すると答えは簡単で、彼もまた子供の頃「女の子はこうするべき」と躾けられる周囲の女子を「外側から見ていた男子」だったからだと思う。

 そう、この国では女の子に「女の子の役目」を教える大人は、同時に男の子には「男の子の役目」を教える。

食事の準備は免れても、男の子は男の子用に「男の子だから泣かないの。」「男の子だから怖がらないの。」「男の子だから運動や勉強が出来なきゃ恥ずかしいよ。」などと、女の子には課さない内容をしつける。

そうやって、昔の人は「男の子は強くたくましく外で働く人間に」「女の子は可愛らしく従順に家庭を守る人間に」になるべく、子供たちそれぞれの性別に合わせた教えをしがちだった。

 ちなみに彼氏の母親は専業主婦で、私は1度彼の家に行った時、彼の部屋は掃除が行き届いていて、ドアの空いた妹の部屋は散らかっていたので、言うと、彼は「俺の部屋は母ちゃんが、掃除するから綺麗なんだよ。妹には自分で掃除するよう言ってるみたいだけど、アイツ(妹)やんねーから汚いんだ。」と言っていた。

そのことから察するに彼の母親も「娘は女だから、娘だけに家庭的教育をする」人だったんだろう。

そういう教えで育った彼だからこそ、飲み会でこまごまとした雑事を女性がやることを本当に「女性の役目だ、そういうものだ」とする大人になったのだと思う。

 

さて、彼はたまたまそういう教えを受け入れて大人になった男性だけど、世の中にはそういう「男の子用」の教えに縛られて苦しむ男性もいると思う。

私が「女の子用」の教えに縛られることが苦しいのと同様に。

私は、普段「女性が不公平な現状」を取り上げてものを書くことが多いけど、この点については、そうした「男の子用」の教えに縛られて苦しむ男子達もまた被害者側だと思う。

そんな私達は、女性なら「女らしいとされているもの」男性なら「男らしいとされているもの」から、そんなにハミ出たらいけないんだろうか。

 男が「戦場、職場」女が「家庭」に居場所を分けられていた時代に、男女がそれぞれの場にふさわしい人間になるように教えられてきた教えを、そのまま下の世代に課していいんだろうか、と私はいつも疑問に思う。

 今の私達は、男女が同じ居場所で生きていて、男女という2分の性別にくくられない人だってたくさんいる。

今の私達の生活に必要なあらゆる活動は「性別ごとの役目」に囚われていたら、追いつかないほど多種多様にたくさんある。

そんな世の中では「性別ごとの役目」を忘れ、その都度目の前にいる人と互いに快適に過ごせる「人」として存在することの方が私達の「役目」なんじゃないかと思う。

 

もちろん、家庭的でありたい女性はそれを目指すのも自由。

でも、同時に家庭的でありたくない女性が、家庭的にならない自由もあって欲しい。

「女は家庭的ではないことを恥じろ」と押し付けられる社会は、たくさんの女性に窮屈さを感じさせ生きにくくさせる。

男性も同様に「家庭的なことをしたくない」人は、自分がそう生きるのは自由。

でもそういう男性が他の男性に「家庭的なことをするのは男の恥だぞ」と押し付ける社会は、たくさんの男性に窮屈さを感じさせ生きにくくさせる。

 ようするに、古い時代の「性別ごとの役目」を果たすのも果たさないのも、個人の自由だけど、果たさないことを「恥じるべき」と押し付ける社会がそろそろ終わる事を私は望んでいる。

 あの時、彼氏に言われた

「皆の前でもし俺がそういう事をして、彼女のお前がただ座ってる姿を観られんのは、女として恥ずかしくないの?」

に対してろくに言葉が出なかった私は

今ならまっとうに返事ができる。

 「恥ずかしくない。『そういうことをできない女は恥ずかしい』っていう価値観を人に押し付けることのほうがよっぽど恥ずかしいよ。」と。

 

「女のコはサラダを取り分けよう♡」記事に関して何か書こうと思ったら、思いのほか壮大な話になってしまいました。

長々とお付き合いいただきありがとうございました。

ではまた。

 

 

 

「男子のムラムラ防止のために女子を縛る」はおかしいよねって話

 

 

かれこれ20年くらい前の話なんですけど。

私の通ってた中学に、ちょっと変な校則があったんですよ。

女子の髪型に関する校則なんですが、「前髪は眉毛の上まで」とか「脱色やパーマをしてはいけない」ってのは、たいていの学校の校則でもあるじゃないですか。

でも、うちの学校はそれにプラスして「肩につく長さを超えたら、2つに結うこと」ってのがあったんです。

 これ、一見「別に普通じゃん」って思うかもしれませんが、わざわざ「2つに結う」と限定されているのがポイントで、ようは肩より長い髪の「1つ結び」は禁じている校則なんですね。

それでも 「別に1つ結びも2つ結びも大差ないじゃん」と思う方もいると思います。

でも髪の毛を2つに結うのと1つに結うのって、本人の感覚的にはちょっと違うものなんですね。

夏場の暑い時に両肩に感じる熱感とか、スポーツする時の煩わしさとか、微妙にですけど1つ結びと2つ結びでは「邪魔ぐあい」に差があって、あとその年頃の子って、「限られたルールの中でも自分なりの好きな見た目でいたい」っていう洒落っ気全開な時期じゃないですか。

だから女生徒の中では「1つ結び」を禁じられて「2つ結び」の1択になることを「大差」に感じる子も多くて、その校則への不満の声は入学当時からよく聞かれていました。

 また、不満の原因はその校則が「うちの学校だけ」って所も大きかったと思います。

うちの学校が特に厳しい私立だとか、もしくはその付近のどこの公立学校でも同じく「1つ結び」が禁じられていたなら、まだうちの学校の生徒も納得できたと思うんです。

でもうちは公立中学だし、付近の他校には別にそんな校則はなくて、ただ「結べばいい」ってだけだったので「なんで同じ公立中学なのに、うちの学校だけその校則があって、私らは従わなきゃならないの?」ってなっちゃったんですね。

それで、徐々に塾とか部活の試合とかで他校の女生徒を見る機会がある女子達を中心に、学内ではその校則への不満の声が高まっていきました。

 私自身はショートヘアだったので、そこまで強く不満を抱く程では無かったけど、『同じ公立学校同士なのに、校則でよそとうちの違いがある』って事には「そうなんだ、なんでだろう?」くらいの疑問はありました。

 多分、不満の声を強く上げる子達も「せめてそこに自分達が納得の出来る理由が添えてあったら諦める。」って感じだったと思うんです。

でも生徒手帳には理由まで書いてないから「そこを知らないまま、ただ校則に従いたくはない。大人の言うことをただ鵜呑みにはしたくない。」みたいな、中学生特有の尾崎イズムが発動してたのかもしれません。ギリ尾崎世代なんで。

 んで、この動きがどうなったかというと、生徒会の先輩女子の方々を中心に学内で「1つ結び解放運動」が本格的に始まっていったんです。

全校アンケートで、

・この校則は変だと思うか?

・この校則に不満を感じるか?

・1つ結びが禁止である理由が知りたいか?

みたいな内容の設問にそれぞれ「Yes/no」のマルを付けるみたいな用紙のやつをやったりして。

ちゃんと生徒会も動いての事だったんで、先生達も無視できずに、結局しばらくして先生側からその校則がある理由について、回答があったんです。

その回答は1枚のプリントとなって、生徒会室の廊下に貼ってありました。

正確な文面は忘れてしまいましたが、私はその回答が予想のナナメ上を行くものだったので読んだ時、「えっ」となったのだけはよく覚えてます。

学校側の回答はこんな感じでした。

当校、校則の○条『女子の髪型の指定について』の制定理由は、『女子生徒のうなじがあらわになることにより、男子生徒及び男性教員へ悪影響があると考えられる』からである。本来この規定は、うなじがあらわになるポニーテールの髪型を禁ずる目的だったが、ポニーテールか否かを判定する基準は“結び目の高さ”という曖昧なものなので、誰の目にもこれを判別できるよう、1つ結び自体を禁止したものである。

 これを読んだ時、私は小さく「ん?」となりました。

そして、さらにこの学校側の回答プリントとは別に、すでにこれを受けて生徒会と先生が交わした質疑応答が書いてあるプリントも貼られていました。

そこには私が1枚目で「ん?」と思った点についてさらに突っ込んで書かれていました。

 質問「男子生徒及び男性教員に与える悪影響とは具体的にどんなものですか?」

回答「女子のうなじは、男子を誘惑するものであるため、勉学の妨げになる事が悪影響と言える。」

 こんな感じでした。

ここで私は「えっ?」となったんですね。

ようは、簡単に言うとこの校則って「女子のうなじは男を誘惑するものだから、それが見えるポニーテールはダメ。でもポニーテールかただの1つ結びかの判定が紛らわしいから、いっそ1つ結び自体をダメってことにしましょうや」ってことなんですよね。

 学校側の回答はもっともらしい気もするけど、でもなんか変。

当時の私は、そう思いました。

でもその「なんか変」というモヤモヤを「何がどう変なのか」を深く考えて言葉に出来る力がまだ中学生の私にはありませんでした。

とりあえず先にことの顛末を書くと、その後に生徒会がさらに頑張って先生と直談判を続けたらしくて、結局2年になった年にうちの学校の校則は変わり、晴れて1つ結びが解禁になりました。

私は相変わらずショートヘアだったので「やったぜ!」って感じではなかったものの、髪の長い友達がすごく喜んでいたのは嬉しかったし、「生徒発信でも校則が変わるもんなんだなぁ」ってところに感動したのは青春の1ページとして記憶に残っています。

で、昔話はここで終わりなんですが、なんで今日こんな古い話を持ち出したかというとですね、最近私、その時は言葉にできなかった「モヤモヤ」の正体がなんだったのか、なんとなく分かってきたからです。

あの時の「なんか変」というモヤモヤは一言で言うと「その校則の作られた発想があまりに男性中心過ぎることに対する不満」だったんだと思います。

 

どういうことかと言うと、ここ数年、私は以前より女性の人権について意識をして生活していて感じることがあるのですが、それは、簡単に言うとやっぱし世の中の常識や空気がまだまだ「男性有利な部分が多いなぁ」ということでして。

例えば、性犯罪のニュースの話題では、加害男性を責める声と同時に「そんな時間にひと気の無い所にいる女も悪い」「ミニスカートを履いてるのも悪い」みたいに、被害女性の非を責める声も上がったり、そういう「被害女性の落ち度」が原因で加害者男性に有利な判決が下る現状があります。

これがもし食い逃げ事件だったら「先払いシステムにしない店が悪い」という声はほとんど上がらず、食い逃げ犯を責める声が大多数だし、空き巣事件だったら「そんな金のありそうな家に住んでいてセコムしてない家主が悪い」って声もあんまり出ずに、泥棒が責められるだけのことが多いと思います。

でも性犯罪事件だけは違う。

被害者の非を責める声は他の事件に比べて多く上がるし、「加害者の動機を作った被害者にも責任がある」と言わんばかりの判決になることもあって、つまり性犯罪だけが他の犯罪に比べて「被害者の非」を取り沙汰されやすいような空気を感じるんです。

それって、いわば被害女性がただそこに居ただけだとしても、加害者目線のある男性に「お前のせいだ。お前がそんな恰好してるから。お前が誘っていたからだ。」って言い訳さえされてしまったら、簡単に「双方に責任が」にされてしまう空気が蔓延してるってことだと思うんです。

そうなると、この国において「男性から女性への性犯罪」というのは、男性には逃げ道いっぱいで、女性は狙われたら必ず泣きを見る事態なんですよね。

もちろん、全ての人が「男性から女性への性犯罪」に対してそういう風にすぐ「女も悪い」的な発想をする人ではないですが、世の中にはすぐ「でもそんな女も落ち度あるよな。」な発想をする人もたくさんいます。

それで、そういう声を耳にするたび、私は例の校則を思い出すようになりました。

それは「発想」が同じだから。

つまり、どういうことかというと

 女のうなじは男がムラムラするもの→学校で男子や男性教師がムラムラさせられたら困る→だから女のうなじは隠すべき→女のうなじを隠すルールを作ろう

 これが、例の校則が作られた発想だと思うんですが、これってようするに

「男がむやみにムラムラさせられない工夫のため」に「女に規則を科す」って考え方で、極端に言えば「男に不都合が生じないために、女がなんとか頑張れ」ってことなんですよね。

私はこの「男をむやみにムラムラさせられない工夫のため」に「女に規則を科す」って発想がおかしいと思うんですが、これがどれだけ変な発想なのか分かりやすく例えると、定食屋の表に日替わりランチの料理が1つ見本で出してあることがあります。

アレに対して「こんなもの、腹が減ってる人が観たら食べたくなるじゃないか!でもこの見本を食べたらいけないことになってるんだから、国はこういう見本は禁止させろ!」って言ってるようなもんだと思うんですよ。

「食いしん坊の食欲がムラムラさせられない工夫のため」に「定食屋に規則を科す」って、「いや、それ店に規制することじゃないじゃん。食いしん坊が自制することじゃん。」ていう感じですよね。

でも、こんなおかしいことが、なぜか「男女」だとまかり通っちゃうのが「おかしいな」と。

 そして私は、この発想が根っこにある人が性犯罪事件の時に「女も悪い」を言うタイプなんじゃないかと思うんです。

つまりこの発想がある人って、思考の流れが

 男性から女性への性犯罪事件が起きる→性犯罪事件は男に不都合な事態→女は男に不都合が起きないために頑張らなきゃいけなかった→頑張り不足の女も悪い

 ってことになってるんじゃないかと思うんです。

だからそういう人は被害者女性がどんな人であれ「全面的に男が悪い!」という発想にならず「女も悪い」となるんじゃないかな、という気がします。

 で、校則のことに話を戻しますと、この「男に不都合が生じないために、女がなんとか頑張れ」という発想は、やっぱり昔の男性優位時代の名残りだと思うんです。

きっと校則が作られた時代はその空気が当たり前だから、すんなりと「男子をムラムラさせてしまう髪型をすることは女子に禁じましょう」となったんじゃないかと思います。

でも、これに対して私は「ムラムラする、しない」のは男子一人一人の意識の問題だと思うんです。

だから、そこに学校が口を挟むなら、女子に縛りを与えて一件落着じゃダメなんです。

なぜなら、学校がいくら「女子への縛り」を作って「男子に不都合を与えない環境」を用意しても、その環境が一生続くわけじゃないからです

生徒が大人になって社会に放たれた時、社会には服装規定などありませんから自由な恰好の女性がたくさんいるわけで、それは、女性も人間だから男性と同じく、それぞれに好きな服を着て、それぞれの生活ペースで生活して同じ世の中に生きている存在だから当たり前のことなんです。

でも、性犯罪に走ってしまう男性は、それが「ムラムラする姿の女だった」という理由で、相手に性欲をぶつけて、そして捕まった時には「相手が誘っているように見えた」とか「性欲を我慢できなかった」と言い訳をします。

これは「自分の我慢の無さ、性欲の自制の効かなさ」という非を棚に上げて、まるで「校則を守らずに男子をムラムラさせた女子も悪い」という風に「女子の非」にすり替える考え方で、まさしく、根底に「男に不都合が生じないために、女がなんとか頑張れ」の発想が受け継がれてしまっている証拠だと思います。

 

私がもし教育者だったら、生徒たちが今後の人生で「男女とも性犯罪の被害者にも加害者にもならないため」には、「男子がムラムラさせてしまう髪型をすることは女子に禁じましょう」という風に「女子に縛りを与えて一件落着」にはしません。

なぜなら学生時代にそれをやるということは、生徒たちに「男子のムラムラ防止のためには女子が縛られなくてはならない。」という誤った環境見本の場を与えることになると思うからです。

もちろん、女子にもある程の風紀を重んじた規律は必要ですが、正直私は「男子生徒に悪影響」だからといって「うなじを隠す、隠さない」みたいに細かい校則作ってもたいして意味ないと思うんですよね。

うなじに欲情するか、足首に欲情するか、指先に欲情するかなんて男性1人1人違うわけだから、全方位的に「男子がムラムラしない女子」を作ることなんて不可能なわけで、それを作ろうとすることは女子全員をひどく縛ることになるし、学生時代にいくらそうやって女子の身体を隠しても、社会に出たら関係ないし。(社会に出た女性までそれを強要するんだとしたら、それこそ女性に不自由な社会です。)

だから、どっちかというと生徒たちには「ムラムラすることは人として仕方ないけど、そのムラムラをコントロールするのも人として学ばなければいけない」とか「性欲を誰かに一方的に向けることは暴力である。」ていうことを社会に出る前に叩き込む場になるのが、学校とか校則の役目じゃないかな、と思います。

 女性は、男性に都合よく生きてもらうために存在してるわけでなく、その人その人の人生を男性と同じように送っているだけで、それは学校内でも、社会に出ても同じことだと思います。

自分の生徒には、そそる相手からの誘惑があるように見えても、その時に「まてよ、自分がムラムラしてるからそう見えるだけ?本当に相手は嫌がってない?ムラムラしてるから自分に都合よく解釈してないか?」という自制が働く大人になって欲しい。

そのためには、あえてわざわざ女子のうなじを隠す校則を作るより、ある程度普通に男女が過ごせる環境で、ムラムラせざるを得ない状態でも自制する練習が出来る環境のほうが良いんじゃないか、という気がします。

自制が効く大人が増えて、ミニスカートを観ても「あんなに足をだして男好きに違いない、男を誘ってやがる」みたいな発想をせず、「本人がしたい恰好してんだな」ってすんなり思う人が増えてくれると性犯罪が少しは減るのかな、とも思うので、そうなったら嬉しいです。

 

今は無き校則ですが、昔モヤモヤしてたことの正体が分かるようになったので、まとめるために今日は書いてみました。

 

ではまた。

  

 

奥さんが高島礼子でも高島礼子じゃなくてもダメなもんのダメさは同じでしょう。

 

 

前々から書こうと思ってたことが結構たまってるんですけど、昨日、ちょっとちっちゃいことで愚痴りたい事があったので、今日はそのちっちゃいことが旬のうちにざざっと書いときます。

 私、コンビニでバイトしてるんですけど、そこのオーナーの奥さんが60代で、性格は明るく朗らかでおしゃべりで、基本的には優しくて世話焼きで「ザ・おばちゃん!」って感じのおばちゃんなんです。

で、おばちゃんは普段から私らパートによくおしゃべりをしてくる人で、けして悪い人では無いんですが、私はたまにこの人の言うことに「ん?」となることがあるんですよ。

 昨日のことなんですけど。

おととい高知東生氏が逮捕されましたよね。

まぁ、そのことには私はそんなに興味が無いんですが、昨日バイトに行ったら早速そのオーナーの奥さん(以下、おばちゃんと書く)がこんな事を言ってたんですね。

「もぉ〜まったく高知東生は許せないね!あんな綺麗な奥さんがいるのにあんな悪いことして!」

 おばちゃんは、おばちゃん学校の模範生みたいな人なんで、普段からこういうゴシップ話が大好きなんです。

芸能週刊誌とかスポーツ紙に書いてある見出しを観てはいつも「ベッキーは悪い子だね!」とか「清原もまったくしょうがない奴だね!」みたいに、超分かりやすい短絡的な感想を嬉しそうに話してくるんです。

たぶん、そういうのもいつもたいして考えずに喋ってんだろうなぁと思うし、おばちゃんもべつに真剣な返答を期待してるわけでないだろうから、こっちも話半分で「そうですねぇ」と相槌打っとけばいいんでしょうけど、週3回会うたびにこれなので、時々こっちも嫌気が刺すことがあります。

世代の違いとか、考えの違いとか、その両方があるのかとは思いますが、とにかく言ってることが全体的にマスコミの意図通りをまんま受け止めた「浅め」なことが多いので。

 昨日の「あんな綺麗な奥さんがいるのにあんな悪いことして!」も、聞いた時にすぐ私は「奥さんが綺麗とか汚ないとか関係なくないか?」って思いました。

 だってその言い草だと「綺麗じゃなかったらいいんかい!」ってなるじゃないですか。

 

それでもいつもなら流すところなんですが、昨日は私も少々虫の居所が良くなかったので、ちょっといじわるして「奥さんが綺麗だから悪いことしちゃダメなんですかね?」と聞き返したんですね。

そしたらおばちゃんの「そりゃそうよぉ、高島礼子が可哀想じゃない!」

という答えになってないお答えが返ってきました。ぎゃふん。

 しかもおばちゃんは火が付いてしまったのか、言い続けました。

「だいたいね、私、ああいうの大っ嫌いなの!乙武の時もまぁ腹が立ったもんだわよ!まったくあんなカラダで、ろくに動けないくせに、女遊びだけはいっちょまえにやってたんだから、奥さんへの裏切りもいいとこじゃない!」

 

ひえー超差別的なんですけど。

 私は「おばちゃんがテレビコメンテーターだったら一発で炎上間違いなしだな」と思いました。

おばちゃんの中には「不倫は良くない。覚せい剤使用は良くない。」というのが大前提の常識としてあって、そこまでは理解できるんですけど、私は「悪いこと」というのは「誰がしてもその悪さは同等に悪い」と思うんですね。

だから、誰が罪を犯しても「それをやった事自体の悪さ」を観るべきなので、私としては高知東生は、奥さんが高島礼子だとかいう点は関係なく「覚せい剤をやってたから悪い」だし、乙武さんの不倫に関しては夫婦の問題で「奥さんも同意の上」みたいな話もチラッと出てたので「悪いも良いも判断しようもない」という感じに思ってました。

司法的には、その「やったこと自体の悪さ」だけでなく、「悪いこと」に至った動機や経緯によって情状酌量されたり、罰が重くなったりしますが、それは様々な事情を全部出せるだけ引き出した結果を踏まえて専門家が判断することです。

だから、私ら素人はそういう動機や経緯なんかの細かな事情が届く立場に居ない時点で、「悪いことはその悪さ自体についてしかどうこう言えない気がする」って感じで、まぁ私はそうなんですね。

でもどうやらおばちゃんは違うんです。

おばちゃんは「やった事自体の悪さ」を考える際に、「綺麗な奥さんがいる」とか「奥さんに世話になってる身」という情報だけでも、一気にその罪をふつうより重く見積もる習性があるようなのです。

 だから多分、その罪を語る時、真っ先に「綺麗な奥さんがいるのに!」「奥さんに世話をしてもらってるのに!」という言葉が出ちゃうんだと思うんです。

 

私とおばちゃんは、これまでも色んな芸能人のニュースや、私たちの身の回りの知人の話などをたくさんしてきてるんですが、私は時折見せるおばちゃんのこういう面がちょっと怖いし「なんかやだな…」と思います。

 

なぜなら、覚せい剤のことは別として、「不倫の悪」について考える時、

仮に、誰から見てもみすぼらしい奥さんがいたとして、その旦那さんは不倫をしてるけど高給取りで奥さんに何不自由ない生活をさせてた場合、おばちゃんの理屈だと「それなら仕方ないね〜」と、「不倫の悪」が無しになっちゃうからです。

つまり、おばちゃんの中にある「不倫しちゃいけない理由」が「綺麗な奥さんがいるんだから」とか「奥さんの世話になってるんだから」なので、そうである以上、それは裏を返せば「綺麗じゃない奥さんなら不倫されても仕方ない」「旦那さんの世話を怠ってる奥さんなら不倫されても仕方ない」というルールにもなると思うんです。

それってけっこう変な話じゃないですか?

 でも、そこまで考えてて気が付いたんですけど、おばちゃんに限らず、この世代の女性の多くは、旦那さんがよそに女を作った時に、すぐ「奥さんは妻としての役目を果たしていたのか?」ってことに話の焦点を絞る特性があるんですよね。

 

その不倫された奥さんは

妻として容姿に気を使っていたか?

妻として夫の世話に務めていたか?

裏として帰りたくなるハウスキーピングができていたか?

 

それらの項目をまず知りたがって、それらの項目に「落第点」が無かった場合は「そりゃ旦那が悪いわ」と言うんですが、1つでも落第点があると「そんなら仕方ないじゃない。妻としての役目を果たせてない奥さんも悪いよ。」って言う。

 私は、「不倫の悪」について考える時、妻の方がそれらの項目に落第点があったとしても、不倫する前に「別れる」という選択肢を取らず1人で「不倫する」を選択した夫の非のほうがずいぶん大きいと思います。

でもおばちゃんは、奥さんのほうに落第点がひとつでもあったらそれで「夫婦おあいこ」にしちゃうんですよ。

しかも、これ、理不尽なのは「奥さんのほうが不倫している場合」は、なぜかおばちゃん、夫の落第点について言及する前に奥さんを責めるんです。

夫がアル中で無職でみすぼらしくて、ようは落第点だらけだとしても、その奥さんが不倫していたとなると「そんなダメ夫なら仕方ない」とはならずに「女が不倫するなんて子供が可哀想じゃないの!不倫するくらいなら別れりゃ良かったのよ!」って言うんです。

「不倫するくらいなら別れりゃいいのに、そうしないで不倫する人が悪い」って考えは女の不倫時にはまっさきに思うのに、なぜか不倫したのが男の場合には、そこは責めない。不思議。

「不倫したら子供が可哀想」なのは、母親の不倫でも父親の不倫でも同じじゃないですか。

その点を父親の時は「不問に処す」で、母親の時だけ「そこが問題」とする。

男の不倫時は、「おあいこ」になるための女のアラ探しをまっさきにして、女の不倫時は「男にどんなアラがあろうともまず不倫する女がダメ」とする。

なにこの不平等?ホワイジャパニーズおばちゃーん!!ですよ。

 

あと、おばちゃんの怖いところは、こういう時に一見すると高知東生を責めたり乙武さんを責めたりしているから「女性の肩を持ってる風」に見えるんですけど、実はその考え方は全然「女性に平等」ではないところです。

普通に分かりやすく「男尊女卑意識が丸出しのおっさん」なら、若い女性も家庭の相談など持ちかけないと思うんですが、こういうおばちゃんて職場の若い女性が「家庭のことで何か悩んでいそう」という空気を感じると「女の先輩として話聞くよ。おばちゃんに話してごらん。」みたいに優しく寄り添ってくれるんですよね。

で、若い女性が心を開いて相談したら、根っこにあるこのおばちゃんナイズな不平等意見でグサっとくることを言ってくるので、受けた方は結構致命傷になる。

これがこわい。

私はこのおばちゃん以外のおばちゃんに過去すでに何度もそれをやられてるので、何気に「男尊女卑意識丸出しおっさんより、おばちゃんの男尊女卑意識のほうが潜伏系で怖いかも!」というのは学習しましたが、若い子はこれからもグサグサやられるかもしれません。

 

でも、おばちゃん自身はたぶんこの自分のジャッジの不平等さに、気が付いてないと思うんですよね。

べつにおばちゃんは「女に厳しく」と意識してこういうジャッジをしてるんじゃなくて、ひと昔前の世の中に今より根深く充満していた「女のほうが我慢する」ベースな空気の中で若き日を過ごして来て、こういう不平等ジャッジが感覚的に「そういうもの」として染みついちゃっているんだと思うんです。

きっとおばちゃんだけでなく、当時の女性は、夫に落第点があったとしても離婚して自立することが難しかったから、多くの女性が離婚を選択できなかったんですよね。

離婚は出来ないけど、夫の不貞に怒りが収まらない。

だけど、その夫のそばで生活は続けていかなきゃいけない。

そういう女性達がなんとか気持ちの落としどころとして見つけた行き先が、女の方にアラを見つけて「これでおあいこ」と思い込む習性だったのかな、って気がします。

だから、おばちゃんもそういう時代の被害者というか、そういう時代の女性だからそんな習慣なのも仕方ないっちゃ仕方ないんですが、いまも若い人にその考えをバリバリ波及させるような発言を平気でするので、本人も無自覚とはいえ、私は聞くたびに「なんかやだな…」ってなるんです。

 

ちなみに、お店の近くに私の女友達が住んでいるんですが、こないだおばちゃんは彼女についても「ん?」という事を私に言ってきまして。

彼女はシングルマザーで、絵に描いたような「旦那が酒乱で、自分も暴力を振るわれていてしばらく我慢してたけど、とうとう子供にも手を上げた事を機に離婚した」という経緯での離婚だったんですね。

その事情はもちろん私しか知りません。

それで、彼女は近所なのでたまーに、子供を連れてコンビニに来ることがあるんです。

子供はすごく顔も性格も可愛らしい女の子です。

それで、こないだも彼女達親子が来て買い物をして、私と少ししゃべって「じゃあねー」と帰って行ったんですね。

 

おばちゃんは彼女のことは、近所に住んでる子として子供の頃から名前と顔くらいは知っています。

離婚したことも彼女のお母さんから聞いて知っていますが、詳しい事情は知らないという状態です。

彼女が帰った後、おばちゃんは開口一番で私に「○○ちゃん(友達の名前)もシングルマザーなのよねぇ…」と言いました。

私はその含みのある言い方に(なんか来たぞ…)という予感がしつつ、そこは流す感じで「はぁ」と返事をしました。

そしたら案の定おばちゃん

「あんなに子供が可愛い子なのに、なんで離婚なんかしちゃったのかしらねぇ…」

 

でたー、子供の可愛さと離婚関係ねぇー!!

子供ブサイクだったら離婚していいんかーい!

 

でも、その日はもうおばちゃんのこれ系発言にツッコむ気力が無い日だったんで、私は聞こえないふりをしました。

私は、彼女が「子供が可愛い(容姿だけのことではなく存在として)からこそ、その子を守る為に離婚した」って思ってます。

だから心の中でだけ「おばちゃん、『子供が可愛いのになぜ離婚するの?』じゃないんだよ、『可愛い子供のためだから離婚する人もいるんだよ』」って言いました。

 なんか話が最後ズレちゃいましたかね。

とりあえず、こういうおばちゃんのような不平等ジャッジが染みついている人が、今後の世代には少なくなっていくといいなと思います。

今日書きたかったのはとりあえずそんな感じです。

ではまた。

 

 

専業主婦の夫にあまりにもモラハラが多いので

雑記 ジェンダー

 

今日は思いついたまま書くのでまとまりがないかもしれませんが、良かったら読んでください。

読売新聞に「人生案内」という、読者からのお悩み相談コーナーがあるのをご存じでしょうか。

そこは毎日老若男女問わず色々な人からの相談が寄せられているのですが、月に数回ほど「ひどい夫案件」があるんです。

それはたいてい妻からの「こんな夫と生活していくのに耐えきれないけけれど、子供の為に家庭は維持するべきか?」みたいな相談なのですが、日々読んでいると「これ、こないだと同一人物じゃない?」と思うことがよくあります。

実際には同じ人の投稿はダメみたいなので、みんな別人なんですが、まるで妻たちが1人のダメ夫について話してるのかと思えるほど、どの夫も根底の部分に同じ精神を共有しているというか「マザーコンピューターで脳の意識が繋がってる」かのようにそれらのダメ夫は同じことを妻に言ったり、やったりしてるんです。

2016年1月26日

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2016年6月17日

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こんな感じ。

これらの夫って、たぶん一般的に「モラハラ夫」と言われてるやつだと思います。

で、このコーナーの相談を観ててやっぱり実感するのは「こういうモラハラ夫の家庭って、奥さんが専業主婦が多いな」ということです。

もともと私は実生活でも友人や親類の女性から家庭の相談を受けることがあるのですが、やっぱりそこでもここ数年は同じことを感じていて、新聞を観て「改めてそうよなぁ」という感じです。

中には完全な専業主婦ではなく、週に3回くらいパート勤めをしている女性もいるのですが、やはり生活のメインが家事育児なので、本人達も「専業主婦」に属している感覚があり、その夫もパート勤めを「労働」というより「息抜き」くらいに位置付けているようです。

ようは、妻も正社員で夫と同じくらいに外での稼ぎがある場合以外は、夫婦共に

「夫→お金を稼ぐ人、妻→家事育児をやる人」という役割意識がやっぱりあるみたいなんですね。

 

近頃は「女性も出産後に職場復帰が出来る社会」とさかんに言われていて、もちろん私もその動きに賛成ですが、仮に妻が「職場復帰」しなくとも、その夫婦ごとに双方が役割分担に納得していて、「夫が仕事、妻が家庭」となっていても、それ自体は悪いことだとは思いません。

それで夫婦が互いの役割に「ありがたみ」を感じあって、双方が「互いに大変だけどよくやってるよね、お互いガンバロー」と思ってれば、どちらかがどちらかを「下に見る」ことは無いと思うからです。

 

でも、この人生案内のモラハラ夫に関する相談件数の多さや、身近な主婦の方の悩みの数を観てるとやっぱり「下に見る」が起きちゃってるんですよね。

そして、その要因はやはり外でお金を稼ぐ男性の中に「金を稼ぐ人間が偉い」という意識があるからかな、と思います。

 

私にとってその1番身近な例は、私の育った家庭でした。

うちは4人きょうだいで母はずっと専業主婦、父は典型的な仕事人間だったので、この手の愚痴は母から耳にタコが出来るほど聞かされてきました。

モラハラ夫定番の「誰が養ってると思ってるんだ」という台詞も、幾度となく母は父の口から聞いたそうです。

母が父からそれを言われていたのは、およそ20年前くらいのことですが、こんなに時代が変わってもその台詞は死語になっていないということに私は「あーあ」となります。

 現に、今年に入って私が相談を受けている、妻も夫も私とそんなに歳が変わらない(40代前半)2つの家庭でも、奥さん達は最近その台詞を夫に言われたと言っていました。

あーあ、ですよ。

最近は「専業主婦の労働を賃金に換算すると月収40万くらいになる」というようなデータでもって、このような「専業主婦を下に見るな」という話題が世間でもなされることが増えています。

でも、そのデータだけでは納得出来ない男性の声もあるようで「ちゃんとやってる主婦ならその金額だが、うちの妻の家事レベルはそこまでない」とか「金銭に置き換えるとか言い出したら、妻の分の宿泊費や食費などを考慮したら妻の働きなんぞ0かマイナスなくらいだ」という言い分もあるようです。

こうなってくると、私としては「夫婦ってそういうもんじゃないじゃん…」という感じになってきて、悲しくなります。

なんつーか、「妻の維持費」とか「妻の労働を賃金換算」とかを言い出す段階って、「もうその家庭には愛が無いから一緒にいないほうがいいよ」って感じがするんですが、お子さんがいる家庭はそう簡単に別れることが出来ないので、みんな仕方なく現状維持をしてるんですよね…。悲しいっす。

 

ところで、私はこないだこんなツイートをしました。

 

これは、他の方のツイートで「育児の大変さを理解するには、海外で実践されている『卵の宿題』をやらせてみてはどうか」というのを見て、そこから思ったことです。

『卵の宿題』というのは私も初耳でしたが、内容は「生徒に何日間か生卵を割らないように持ち歩かせる」という課題らしくて、ようは生徒はその課題中、自分の生卵の安全に24時間留意しないといけないわけです。

自分が遊びに行く時などは卵を人に預けてもいいのですが、預ける相手を見極めないと、相手は簡単に卵をほったらかしにして割ってしまうかもしれませんし、預け相手選びから油断ならないので、とても大変そうです。

他の方で、この宿題を実践した方も「卵は自分から動くわけでも泣くわけでもないけど、課題中は神経を使って大変だった」とツイートされていました。

 でも世の中には、「卵を一週間持ち歩く宿題が大変なんだよ。」とだけ聞いたら「卵なんて静かだし自分から動き回らないし重くもないし何が大変なんだ?」と思う人がいると思います。

 私はそれがちょうど、主婦に対して「子供の遊びの相手してるだけじゃないか」「食事や風呂や寝かしつけも、一日中手間取る内容じゃない」という風に軽んじた発言をする人と同じ精神だと思ったのでこのツイートをしました。

 

卵の宿題の大変さは先述した通り、ただ「重さ60グラムの生卵を持つ腕の疲労」だけではなく、どちらかと言えば、卵の安全に24時間何日間も留意し、責任を背負いながら過ごさなきゃならない「精神的負担の大変さ」がメインです。

だから、学校がこの宿題を出す意図は、たぶん生徒に「自分以外の生き物の安全に留意し続けて生活することが、どれだけ大変か実感して知りたまえ」ということだと思います。

そこに気が付かずに「何が大変なんだよ?」と言うことは、想像力の欠如です。

自分のしていない役割をしている人の大変さをおもんばかるのは、想像力のなせるわざです。

私は常日頃「親切」とは「想像力」のことだと思っています。

だから、もし専業主婦に対して「ろくに働きもせんと」と小ばかにする気持ちがある人は「すべての主婦の大変さを想像しろ」とは言いませんが、せめて自分が愛して結婚した奥さんに対しては「それくらいの想像力を使ってあげなよ。」と思います。

 

この話を書いてて思い出したのでついでに書きますが、この手の「奥さん側の精神的負担」を感じ取らないわりに「働く側の精神的負担は感じ取って欲しい。」と言う男性に私は出会ったことがあります。

 以前、職場にいた男性なのですが、その方は生後数ヶ月の赤ちゃんが居て奥さんがその時は専業主婦でした。

彼とは仕事では普通に気のいい同僚として働いていましたが、ある時、仕事のことで彼と意見が食い違うことがありました。

いきさつを簡単に言うと「上が指示する方針と、現場でやりたいこと」が少し違ったので、私は「現場の声として、上に言ったほうが良いと思う」と言ったのですが、彼は「簡単にいうけどそれは大変なことだよ。自分は上には立て付けない。」と言うんですね。

さらに彼は「桜島さんは、ここで一生働かないから簡単にそういう事が言えるんだよ。」と言うんです。

よくよく話すと、この仕事の件について、彼はすでに家でも何度か奥さんに愚痴ったりしていたらしく、奥さんにも「上に言えばいいのに」とアッサリ言われてたらしいんです。

それで、その後の彼の話を要約すると

「女は『一生その場所で働き続ける』という経験をしてないから、男が『一生誰かを養わなきゃ』というプレッシャーを抱えながら一生務めるつもりの職場で仕事く辛さを理解できない。だから女に仕事の話をすると簡単に『こうすれば』と言ってくる。男はそれが出来ないから辛いのに。もっと、こっちの立場を分かって言って欲しい。」

ということでした。

つまり、彼は「家族を養う」のも「今の職場で働く事」も両方一生ものだと思っているから、一生ものを2つ抱えた人間の精神的な負担は「仕事を一生もの」と思ったことがない女性には分からないと言いたかったようです。

これは一見すると、これまでの話と主旨が違うように見えますが、彼がこう思った背景まで書くと2つがつながるかと思います。

 

彼は仕事についての話以外にも、以前から家で家事について奥さんに少し文句を言ったら「あなたは仕事に行ってる時間だけが仕事だからいいでしょ。育児は一日中なの!だから大変なの!」という喧嘩がたびたびあったそうです。

喧嘩の際に彼は奥さんにうまく言えないそうなのですが、彼の中にはそういうことを奥さんに言い返される度に「外で働くということは、仕事に行ってる間だけのことを指すのではない。『一生外で働かざるを得ない立場』という重圧が24時間何年ものしかかっているのに。」という思いがあったそうです。

だから彼の意見としては「仕事の大変さ」のことを持ち出すならば、そこにまつわる『一生外で働かざるを得ない立場』の精神的な負担も考えて欲しい。というわけです。

 

まぁ、彼の言い分も分かりますよね。

でも、彼の場合、それを言うなら自分も奥さんの育児について「24時間何年も精神的な負担」を強いているものだと思ってあげないとフェアじゃない気が私はします。

 なぜなら彼は職場では奥さんのことを「帰ると家の事なんもしてない。サボりすぎ。」とか「昨日も子供寝かしつけて一緒に寝てただけとか言ってた。」と、しょっちゅう愚痴っていたり、妊娠して辞める同僚に「これでゆっくり出来るね〜」と言ってたのです。

だからやはり「この人、育児をナメてるな」という風に見て取れました。

自分は育児にまつわる精神的な負担を考慮せず、奥さんの実労働だけ評価してるくせに、奥さんには実労働だけ評価されるのを不満に思い、「もっと精神的な負担を評価してくれ」というのは虫が良すぎます。

奥さんも彼もそこは「お互い大変だよね~ガンバロー」じゃないと。

ここん家は幸い、奥さんの気が強いから言い返せているけど、女性の性格によってはそのまま「お前は家にいてロクに働いていない」という夫の意見をうのみにして自分から「養ってもらってるし、言う事聞かなと…」と下に下がっていく人もいると思います。

そうして、だんだん「人として守られなければいけないもの」まで夫に奪われ続けて、ある時我慢ができなくなった人が読売新聞に相談することになるんだと思います。

 

まだ、誰かに相談しようと思う人はマシで、そのまま精神を病んでしまったりストレスで病気になってしまったりしたら本当にかなしいことです。

だから、私は彼や、世の中にいるかもしれない彼のような男性に言いたいのは、外で働く側の大変さを「その責任重圧ごと理解して優しくしろ」と奥さんに求めるなら、自分も育児に関して「自分以外の生き物の生命維持責任を持ち続けて生活する責任重圧を理解して」ということです。

 

夫婦になった時点で、お互いに対する愛情があるはずです。

そういう相手とは「こっちのほうが大変だ!」と大変さ合戦をしあわないで、「こっちも大変だけど、そっちも大変だよね。」と労わり合って暮らしたいじゃないですか。

最近、あんまりにも身近な女性や人生案内にこの手のケースが多いので、そんなことを思いました。

 

以上です。

ではまた。