限りなく透明に近いふつう

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読んで!山岸凉子のフェミ二ズムを感じる漫画4選。

 

はじめに

 

今、私の中で山岸凉子さんの漫画がアツいです。

いや、もう今に限らず昔からアツいんですけど、最近また私の中に郷ひろみが宿ったかのごとくアーチチ・アチ状態なんです。

なので今日は彼女の作品を皆様に紹介して熱を発散したいと思います。

山岸凉子さんの代表作やどれほどのベテラン作家か、という基本情報は私が書かなくてもネットを調べればいくらでも書いてあるので各自お調べください。

山岸凉子 - Wikipedia

作家生活49年の彼女の作品は、歴史もの、バレエもの、ファンタジー、ホラーetc…実に様々なジャンルに渡り、長編の「日出処の天子」や「アラベスク」といった代表作も素晴らしいんですが、私が今日紹介したいのは90年代以前の短編作品達です。

なぜ私がこれらの作品をピックアップするのかというと、この時期の山岸凉子作品は、根底に流れるフェミニズム精神が実にアツいんですよ!

壮大な世界観のファンタジー作品の面白さとはまた違って、身につまされる思いを味わう系というか、楽しい話ではないものが多いんですが、もう痛いほどに「それな!」という共感の嵐に陥れます。

 フェミニズム精神を感じるメジャーな小説はいくつもありますが、漫画はそれに比べて少ないような気がします。

もし私以外にそういう作品をお探しの方がいたら山岸作品は是非おすすめしたいです。

紹介で多少ネタバレしてしまうかもしれませんが、ご容赦くださいませ。

ではご紹介しま〜す!

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鬼子母神  (′93年発表作品)

まずはこちらの作品から。

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主人公は双子の兄を持つ少女、瑞季ちゃん。(向かって左)

瑞季は天性の明るさを持った少女なのですが、優秀な兄と比べられながら育ちます。

瑞季達には両親がいますが、父親の影は非常に薄く、家のことは母親のワンオペ状態です。

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最後のコマ、母の背中が切ない……。

ストーリーは、双子の成長に伴う母との関係性を瑞季視点で語っていく感じで、母の行き過ぎた期待と理想像を背負った兄が崩壊していく様と、瑞季の成長が見物です。

この中で私が紹介したいのは、母から瑞季への「女の子教育」がうざったい、こんなシーンもあるんですが

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 「お嫁にいかない女の子なんていませんよ」って、言い切る母ちゃんのヤバみ……。

やはり終盤で、ずっと家庭を顧みなかった父親に実は愛人がいたことを瑞季が知るシーンがすごいですね。

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子供と同レベルで家庭に対して無責任な父親なのに、しっかり名字は背負ってるという皮肉の効いたイラスト。

「これらはみーんな子供がおかあさんに言うセリフ」というさりげない書き文字。

「妻に自分の母親がわりをおしかぶせ、永遠に子供のままで父親になれない男の姿がここにある」というナレーション。

もうね、的確。的を射てる。 

うちの母は父に「お母さん」と呼ばれると「あんたなんか産んでない!」とよくキレてたんですが、あれは今思えば、呼び方が気に入らないとかいうレベルの話ではなく、「父親のくせに子供面して面倒を丸投げしてくるメンタル」に怒ってたんでしょうね。

「妻を『おかあさん』と呼ぶ=ちゃっかり子供の立ち位置にいる甘ったれ根性の現れ」としてムカついてたんだと思います。

妻を自分の母親役に仕立ててる男性はけっこう世の中に多くて、そこにモヤモヤやイライラを感じている女性も多いと思うので、このシーンはそこをバッサリ描いてくれてる爽快感があります。

ストーリー全体は、母と兄の歪んだ親子関係がメインなので、こんな両親のもと、瑞季や兄がどんな人間になっていくのか?というのが見所です。

とても面白いのでぜひ皆様にも読んで頂きたいです。

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パイド・パイパー(’90年発表作品)
さてお次の作品はこちら。
幼い2人の子を持つ専業主婦、道子が主人公のサスペンスな話です。

物語は、夫の社内不倫で地方左遷となった一家が、道子の郷里であるM市に引っ越してくるところから始まります。
そこは道子にとってただ懐かしいだけの土地ではなく、幼少期に忌まわしい事件に巻き込まれた苦い記憶のある場所でした。
ストーリーは、道子の娘の誘拐事件を、道子が自ら解決していく動きを軸に、M市で20年前にも起きた幼女誘拐事件の真相が明らかになっていく構成で、とても読み応えのある作品です。

その中で取り上げたいページはこちら。

エピローグで、事件中に不倫相手とこっそり旅行に行っていて何も協力しなかった道子の夫が謝るシーンからの道子の独白です。

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「この人は女が自分と同じ人間に見えていないのね、男だから許されて女だから許さねばならないと思っているのだわ」

「男はそういうものなんだ」と言えば、女を説き伏せられると思い込んでいる夫の声を聞きながら、道子は誘拐犯の甘い声を思い出します。

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事件の犯人像を探る中で道子は「幼い子供の警戒心を解き、つい子供が従ってしまうような優しい語りかけが出来る大人の男とは、一体どんな人物なのだろう?」と疑問を持っていたのですが、ここでその答えを見つけます。

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「あの声は自分以外の意志や感情を認められない者がささやく、限りなく自己中心的な声だったのです。」

夫の話を聞きながら、道子がこの答えにたどり着くという事は、山岸先生は「誘拐犯でありながら、優しい声を出せる人間」と、「不倫しておきながら、平謝りで『男の性』を盾に説きふせようとしてくる夫」は、根底が同じだと伝えたいのかな、と私は思いました。

確かに、両者は「自分に都合の良い存在なら愛する」という自己中心的さが共通しているように思います。

「逆らわない限り愛する」という条件付きの愛情の持ち主は、たとえ優しげに接してくる事があっても、対等な人間として愛しているのではなく、お気に入りの玩具やペットみたいに、所有物として愛しているだけなんですよね。

「自分の所有物は自分の悪事は許すべきで、逆らわず、意見もしない。だだ愛らしく自分の側にいて自分に従うこと。」

こんな条件を、生きて感情や意志がある人間に叶えさせるのは無理な話です。

でも彼らはそんな条件を満たしそうな相手、人間じゃなく所有物になってくれる相手を求め、甘い声で囁きます。

それは愛情の証のような甘い声に聞こえるとしても、実は所有物を手に入れたり、手放さない為のエサでしかありません。

女や子供も当然それぞれに人格がある人間ですから、エサで釣って思うように動かせる存在ではないのです。

この作品には「そんな当たり前のことを理解しない人間に騙されてついて行ってはいけないよ」という山岸先生のメッセージが込められているのかな、と思います。

推理モノとしても楽しめる作品なので、こちらもぜひおすすめです。

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ブルーロージス (′91年発表作品)

さて、お次はこちら。

傷つくのが怖くて男性と向き合えない30歳のイラストレーター、黎子(たみこ)が、一人の男性に愛され成長していく物語です。

まぁ、この恋人となる男性も実はワケありで予想外のラストにはなるんですが、それはおいといて、私の好きなシーンを。

身内の法事の手伝いに行った黎子は親類のオッさんから言われます。

「なんだお前いつまでたっても色気がないな」

「ボンヤリせずに、ほれお酌!」

「もう少し愛想よくできないの、東京行って少しは変わるかと思ったら。そんなんじゃ男に愛されませんよ」

オッさん、いきなりのセクハラ3コンボです。ファック!!

でも黎子はピシャリと言い放つ。

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「そんな男はこっちから願い下げ!」

そう、その通りだよ黎子!よくぞ言ってくれた!

黎子は過去を振り返って、オッさんの言う「男の悲哀」とやらが、ただの「子供っぽいエゴを正当化させるための言い回し」だと気が付きます。

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私は「男のロマン」とか「男の悲哀」って、本人が1人でその言葉を唱えて悦に浸るのは自由だと思いますが、周囲の人間(特に女)に我慢を強いてまで追い求める物では無い気がするんです。だから黎子の台詞は、まさに「それな!」です。

さらにこの後、「あの人は毒舌だけど悪気はないのよ」と、オッさんをフォローする妹に黎子は反論し、会話の流れで自分に結婚を意識している交際中の男性がいることを明かします。

すると妹のリアクションは…

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妹ひどい。

黎子は「そうだ、これに類する言葉をいくつ聞いてきただろう……」と過去に人から言われた言葉を思い起こします。

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「これは呪文だ! わたしを縛り付ける呪文」

「男にとって都合よく立ち回らないというだけでかけられる呪文なんだ」

めっちゃ良い台詞。掛け軸にしてほしい。

ここ、まさに黎子の「フェミニズムの目覚め」という感じで、アツいです。

こういったことをこんな風に分かりやすく漫画にできる山岸先生にシビれます。感謝です。

さらにこのシーン、妹の「すっかり怒ってるわ、どうするのよ姉さん」という台詞も注目ポイントなんですよね。

暴れて迷惑をかけてるのはオッさんなのに、妹の台詞はまるで「怒らせた黎子が悪い」と言わんばかり。

これは「無礼な男」よりも「無礼を受け流せない女」を悪いとみなす行為で、いわゆる「男社会で上手く立ち回る術に長けてしまった人」にありがちな考え方だと思います。

妹も悪人ではないし、仲の悪い姉妹という設定でもないのに、男性優位を「当たり前」と取るか否かによって、女性同士でも実はこんなに理不尽な言葉を投げかけているというのがさりげなく描かれていて、すごいです。

このあたりはストーリー的には「特に重要!」というシーンではないんですけど、私としては心に刺さる場面なので、ぜひ作品を通してこちらは読んでもらいたいです。

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 天人唐草(′91年発表作品)

さぁ、最後はやっぱりこちらの作品です。これを紹介せずには終われません!

知る人ぞ知る名作「天人唐草」ですよ。この話はすごいです。

主人公は、マッチョイズム全開の父親と貞淑な良妻賢母である母親を持つ、響子という女性です。

 響子は両親から、それはもう、こってこての「女の子教育」を叩きこまれて育ちます。

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これとか。

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これとか。

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好きな男子にラブレター送っただけでこの叱責とか。

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社会人になってもこのあり様で…。

この話はもう「見所がどこ」というレベルで語れません。

「女とはこうあるべき」という教育を骨の髄まで叩き込まれた響子が、どんな人生を送るのか? ぜひ見届けて欲しい、それだけです。

ちなみに私が最初に読んだ山岸先生の作品がこちらでして、確か小学生か中学生だったと思うんですが、子供ながらに「面白さと恐ろしさ」という相反する感情の両面から惹き込まれました。

ホラーとも呼ばれているこの作品、ぜひ人々にそう言われる理由を確かめて頂きたいです。

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終わりに

いかがでしたか?

拙い紹介だったので、他の山岸先生ファンの方に怒られないか心配ですが、自分の好きな気持ちを込めて書いたので、勘弁してください。

 

私は、以前も書きましたが「ドS男子にドキドキ♡」系の漫画が苦手です。

理由をざっくりと言えば「若い女の子の男性観が歪む要因の一つになっている気がするから」です。

とはいえ、漫画も表現活動の一種であり、私は表現の自由をとても尊重したいので、ありとあらゆる作品が生み出されること自体は認めなければ、と思います。

だから「そういう作品を生み出すな!」とまでは言いませんが、それでも常々思います。

漫画には映倫のような分かりやすい「倫理感を審査する機関」が無いので、特にティーン向けの作品には大人一人一人が責任を持って取り扱わなければならないんじゃないかと。

漫画が人格形成に与える影響は計り知れません。

だから既に大人である私達が漫画に触れるとき「この作品は世に出していいか、世に広めていいか、この作品を世に広めることでどういう影響が出るか」という倫理審査員のような視点を一人一人が持つ必要があるんじゃないかと思います。

それを怠るのは、若い世代に与える悪影響を野放しにするようなことで、大人として少し無責任な気がするので。

 

今回、書いてたらあまりに長くなりすぎたので泣く泣く4選に絞ったのですが、本当は8選ありました。

・30代半ばの婚活を描いた「二口女」

・妻と別れない男性との不倫話「月氷修羅(げぴょうしゅら)」

・元愛人から正妻になった主人公の生活を描いた「貴船の道」

・子供への性的虐待をテーマにした「緘黙(しじま)の底

載せられなかったけど、この4作品もすばらしいです。

どれもだいたい90年代以前の作品ですが今読んでも時代錯誤感はなく、むしろ今の時代にフィットていてると思うので、過去作品として埋れてしまったら、もったいないオバケが出ます。

世の中に沢山の作品がある時代なので、どんな作品を手に取るか、影響を受けるかは全く個人の自由です。

ですが、私はここに紹介した山岸先生の作品のように、女性を労わり、勇気付け、解放してくれるような作品がもっと世に広く受け入れられといいな、と思います。

 

ではまた~

天人唐草 (山岸凉子スペシャルセレクション)

天人唐草 (山岸凉子スペシャルセレクション)

 

 

 

 

その場で怒れる人になりたい

 

今日、私はむしゃくしゃしている。

原因は夫だ。

一昨日と昨日、夫婦で長くドライブする時間があった。

はじめは夫が運転していたが、朝も早かったので途中で夫が「運転代われる?」と聞いてきた。

私は「嫌だな」と思ったけど、前半寝ていて体力温存していたので、断るのは悪いと思い運転を代わった。

私は運転自体が嫌なわけではない。

むしろ運転は好きだ。

しかし私は、夫を助手席に乗せて運転するのが嫌なのだ。

なぜなら、夫は、普段は口調も性格も優しいのに、なぜか私の助手席に居る時だけはむちゃくちゃ嫌な奴に変貌するからだ。

夫は分かり切ってる事をいちいち言ってくる。

やれ「そこ一時停止」だの「中央線に近づきすぎ」だの「遅いから後ろ詰まってきてるよ」だの、教習所の威圧的な教官かよ!?というくらいうるさい。

私は自分の運転にさほど問題があるとは思っていない。

免許を取ってから早20年、ほぼ毎日運転をしてるけど、これまで一度も大きな事故をしたことはないし、介護の仕事で送迎車を運転していた時も、スタッフや利用者さんに「桜島さんは安全運転で良いね。」と言われていた。

そもそも、法定速度50キロの道路で60キロで走っているのに「遅い」と言われる意味がわからない。

ルールは出来るだけ守りたい主義で生きてるので、50キロ以上出してるほうが法定速度違反なのに、法定速度に近い私の方が怒られたりイラつかれたりする事態に納得がいかないのだ。

 

だから、多少人より速度が遅いとしても私は違反切符を切られたことはないし、細かい運転技術が上手くはないとしても標準くらいの運転技術だという自覚はある。

 

なのに、夫は私の運転で車に乗る時、まるでペーパードライバーや、免許取りたての人に注意するかのごとく、ものすごく口やかましい。

しかもその時だけは普段の紳士的な口調ではなく、威圧的な上から野郎の口調になるので、私はものすごくムカつく。

案の定、一昨日も昨日も私が運転をしている最中、夫は口やかましく注意してきた。

すごいムカついた。

しかし、私がむしゃくしゃしてる原因は、私自身にもある。

なぜなら、私がもし夫からの指図にムカついた時にすぐ「いちいちうるさいよ!」と言えていれば、私の怒りはその場で発散できるはずだからだ。

その場では喧嘩になるかもしれない。

でも、不満や怒りというのは、放出するだけで半分くらいは減るものだと私は思う。

怒りは、怒りの対象者に受け止めてもらえば100%無くなるけど、単に放出するだけでも半分くらいは無くなるものだというのが、私は経験則として感じている。

だから夫と喧嘩になることもいとわず、私がその場で怒って言い返せていれば、今の私のイラつき度は今より少ないはずだと思うのだ。

でも私は言い返せなかった。

ものすごく不機嫌そうに返事をして、途中から返事をしなくなる、という程度にしか自分の怒りを表現できなかった。

つまり私が今日むしゃくしゃしてるのは、半分は夫のせいで半分は私自身の言い返せない性格のせいなのだ。

 

私はこれまでもこういう「言い返せなかった後悔」を抱える度に、思い出す人物がいる。

以前、私が介護施設で働いていた頃の先輩ナースのおばちゃん、飯田さんだ。

飯田さんは、怒りっぽかった。

例えばこんなことがあった。

泊まりの利用者さんの部屋のカーテンはデイサービスが終わってからスタッフが施設内の掃除をして、最後に閉めて回ることになっていた。

私はその頃、新人さんの教育係をしていて、新人さんが教えた通りに掃除の終わり際にカーテンを閉めて回るか本人に任せてみた。

新人さんは、あんまり物覚えの良くない人だったので、案の定カーテンを閉め忘れていたようだった。

しかし私がそのチェックをする前に、飯田さんが部屋を見に行って、カーテンが開けっ放しであることに気がついてしまった。

別の仕事をしていた私や他のスタッフのところにドスドスという、飯田さんが怒った時にだけ立てる足音が近づいてきて、飯田さんはマックスの怒り口調で「◯◯さんの部屋掃除したの誰!?」と聞いた。

部屋掃除をしたのは私だったので、私が「私です。」と言うと飯田さんは「カーテン閉めてないんだけど!!!」と怒った。

私が「新人さんがちゃんとやるか試していたところだった」という説明をしようと「あの、今日は新人さんに…」と説明すると、飯田さんは途中で言葉を遮り「言い訳なら聞かないから!!」と言い放ち、「私、素直に謝らない人嫌いなの!!言い訳する間にカーテン閉められるでしょう!!」と言いながら自分でカーテンを閉めにドスドスと歩き去ってしまった。

 

私は呆然となり、私の新人教育の意図も分かっていた他の同僚は「あぁ、飯田さんああなると人の言葉受け付けないから…」と慰めてくれた。

私が呆然としたのは、いきなり人からマックスの怒りをぶつけられた事によるショックからだけではなかった。

私は、人は「あれ?これおかしくない?」と思った場合、その状態がどうして起こったのか事情を確認をして、その事情に納得がいかなかった時に怒りが沸くものだと思っていた。

しかし飯田さんは事情を確認する前に一人でマックスの怒り状態になっていた。

私はそのことに驚いて呆然としたのだ。

飯田さんは「カーテンが閉められていない」という事実だけが怒りの蓋を開ける理由となった。

「カーテンが閉められていないのはなぜか?」という事情など知ったこっちゃない、というほど怒っていた。

私が呆然としたのは、飯田さんの怒りの蓋の、その軽さにだった。

私はその頃からすでに、「その場で怒れない自分に後から後悔する」という自分の性質を分かっていた。

だから飯田さんの、その問答無用の怒りっぷりに、素直に「う…うらやましい」と思った。

飯田さんは、職場では「すぐ怒るけど根に持たない人」という認識があった。

私は飯田さんがそういう人だという話は聞いていたけど、目の当たりにするのは初めてだったので、「これが、飯田さんなんだ」と知ると共に、その怒り蓋の軽さがとても羨ましいと思った。

私は、飯田さんが落ち着いた時に改めて「さっき、カーテンすいません。あれ、実は新人さんに…」と説明しに言ったが飯田さんは、「あーもういいから(笑)夕方忙しいもんね!」とまたも私の言葉を遮って、晴れ晴れとした笑顔で話を終わらせた。

私はその後腐れの無さに美徳を感じ、ナチュラルにそういう言動が出来る飯田さんのことをまた「う…羨ましい」と思った。

 

「事情なんか知ったこっちゃない、私が怒る理由がそこにあった。だから私は怒る。」

飯田さんの言動からは、そんな意気込みを感じた。

飯田さんは職場において迷惑な人かもしれない。

でも飯田さんは毎日ご機嫌で仕事に来ていた。

「その日の怒りはその日に消化」

飯田さんを観てると、そんな格言が思い浮かぶし、何より前日の怒りを持ち越さない飯田さんの性格には江戸っ子のような潔さを感じ、その場で怒らない&怒れない自分に後悔してイライラすることが多かった私は、「飯田さんのようになりたい」と願わずにはいられなかった。

すぐ怒る人は怒りっぽいことを欠点と思ってるかもしれないけど、私にとってその性質は才能のように思える。

 

だから今日も私は飯田さんのことを羨ましく思っている。

私たち夫婦は、何度もこんなこぜりあいや話し合いをしてきている。

私の夫への不満のパターンは、小さいことで徐々に溜まっていき、だんだん不機嫌で無口な日が続き、そのことに気が付きつつ口火を切れない夫がだんだん無口になり、お互い無口な日が数日続き、私がそのことに嫌になり長文のメールを夫の仕事中に送り、帰ってから沈黙の夕食があって、食後夫が「メールのことだけど」と話し出してやっと私が最近の怒りを説明し、ひとしきり説明し終えると夫もそのことへの見解を述べて、「まぁこれからはこうしよう」的な話が出て仲直りする、というプロセスがある。

これが足掛け2週間くらいかかる。

つまり私は、2週間くらいかけて1つの爆発が終わるわけだけど「これがもし私が飯田さんなら1日で終わるんだな」と思うと、その時短を可能にしている飯田さんが羨ましくなる。

それに私は、1つの怒りを放出するのにこんなに時間を要する妻より、飯田さんのように短期決戦できる人の方が楽だろうに、と夫に対して申し訳なくなる。

でもその場で私は怒れない。

なぜだか分からないけど、その場で怒れない。

怒りをすぐ露わにする人に、私は「みっともない」と思う感情が少し働いているのかもしれない。

私はそのみっともない人に自分がなりたくない、という見栄が働いている気がする。

でも、怒りを露わにする人は、多分私よりノンストレスで生きていると思う。

40歳も近づき、残りの人生の時間をなるたけ笑って楽しく過ごしたい思いが高まりつつある私は、飯田さんのように短期決戦が出来てノンストレスで生きたいという思いがある。

「人は年を取ると丸くなる」と言うけど、もともと丸めの性格なので、私の場合は年を取ったら角ばっていく方向でもいいのかもしれない、と思う。

私は自分のすぐ怒れない性質を恨めしく思うと共に、とりあえずこの性格でもメリットはないか?と考え、今この文章を書いている。

すぐ怒れない性質のモトを取るためには、すぐ怒れない性質の人にしか共感できない文章を書いて、私と同じ性質の人に「わかるわかる!」と思ってもらうしかないからだ。

というわけで、今日はこんなことを書いてみた。

だいぶスッキリしたので、ブログって楽しいなぁと思った今日このごろなのでした。

おしまい。

 

 

兄がアル中になった。その2

兄の酒量が普通ではないと私が初めて感じたのは、5年前でした。

私は10年前に結婚と同時に夫の転勤で他県に引っ越していたのですが、その後5年ぶりの転勤で偶然にも故郷に戻ることになったのです。

恥ずかしながら私の母は典型的な片付けられない人間でして、もともと乱雑な家ではありましたが、5年ぶりにまじまじと見る実家は、実にエスカレートしたゴミ屋敷と化していて、私は故郷に戻るなり、これからは頻繁に実家の掃除に通うことを決めました。

何度目かの掃除で実家を訪れた際のこと、2階の両親の居住部分はわりとマシな状態になったので、兄は不在の昼間の時間帯でしたが、私は出来心で階下の兄の居住部分の様子も見てみることにしました。

戸を開けるとムワッと鼻に付くタバコの匂いと共に、おびただしい量の「いいちこ」の空き瓶と紙パックが目に入りました。

「空き瓶でボウリングが出来そうだな…」と思ったので、瓶を並べてみたら3レーン分くらいありました。

どれくらいの期間、ゴミ捨てをサボったらこれだけの空き瓶や空きパックが溜まるのかは分かりませんでしたが、私は希望的観測で、兄はずいぶん長いことゴミ捨てをサボっているのだと思うことにしました。

しかし、希望的観測は外れました。

それからわずか1週間後に私が兄の部屋を訪れた時、一瞬「デジャヴかな?」と思ったほど、似たような光景がありました。

前回より若干数は少ないものの、そこら中に散らばるカラのいいちこ

私は思わず「いくないちこだよ!」と意味不明な叫びを上げていました。

 

それから兄の部屋を掃除して帰ると、夜に兄から「部屋が綺麗になってるよ〜!(^^)ニニちゃんが掃除してくれたんだってね!ありがちょ〜♪」みたいなメールが来ました。

私は酒量のことを聞こうかと少し思いましたが、なんとなくそのことを突っ込んで聞くのが怖く感じました。

なぜなら、そのことを聞くと、兄の人生の闇の部分に足を突っ込むことになる気がしたからです。

我が家は父も母も下戸で、親族にも特に酒が強い人が居たという話は聞いたことがありません。

兄も私が一緒に住んでいた頃(18年前まで)は、たまーに会社や友人との飲み会で飲んでくることはありましたが、日常的に飲酒する習慣は無い人でした。

ですから、根っからの酒好きではない我が家の人間が、今現在、毎日それだけの量のお酒を飲む生活をしているということは、そこになにか「酒に頼らざるを得ない事情」を抱えているという現状を私は察したのです。

根っからの酒好きではない人がお酒に溺れる毎日を送るということは、本人がお酒による酩酊状態を欲している、ということが伺えます。

つまり簡単に言えば、日常あれやこれやと考える自分の頭の動きを止めたいから、お酒を「思考停止する手段」として使っているということです。

それは言うなれば、兄がお酒による現実逃避をしながらでなければ、日々が送れない状態であるということを意味していて、その頃の私はそういう状態かもしれない兄にそこまで関わる気がありませんでした。

そのことと向き合うのが怖かったのもあるし、自分の生活でいっぱいいっぱいだったのもあるし、ここでは省きますが、他の理由もあります。

とにかくその時の私はとりあえず兄のメールに「いいよー、あんまりお酒飲みすぎないでね!」程度の返事をして、兄の酒量のことは気にしないようにしました。

 

今思えば、この頃から私ももっと兄とお酒の関係について向き合えば良かったというか、酒量が普通じゃないと思った時点で、家族として、そうなっている兄の心に親身に向き合う必要があったんじゃないかとも思います。

でも、兄の人生史を客観的に観ると、私は兄がこうなって当然の人間のような気もしています。

それは、兄には実にロクでもない人間な部分が多分にあるからです。

兄の名誉のため、あまり悪くは書きたくありませんが、私の兄は実にロクでもない男なんです…。

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つづきます。

 

 

兄がアル中になった。

兄が肝臓を壊しました。

10年以上に渡る過度の飲酒習慣があった人なので、アルコール依存症も発症しました。

さらに、アルコール依存症と併発しやすい鬱も発症しました。

「肝炎、アル中、鬱」この魔の3点セットに兄が蝕まれていることが判明したのは今年の1月半ばでした。

 

兄は母と実家で同居してますが、建物は二世帯住宅になっていて、一階と二階に分かれて住んでいます。

兄が正月休みにインフルエンザにかかり、その後体調が戻らない。仕事も休み続けてる。病院は数回行ったが、良くならない。昼夜を問わず叫び声を上げたり大声で泣き喚いている。母が、病院に再度行くように言ったり、前回受診時に何かの検査は受けたそうなので、結果はいつ聞きにいくの?と訪ねたりするも、兄は生返事や泣き声まじりにボソボソとしか話せない。高齢の母にはそれが聞き取れず、聞き返すと兄が激昂するので会話にならない。ニニちゃんから病院行くように言ってくれる?

 

母からこんな電話相談を受けたのが1月半ばで、この時に私は兄の異常を知りました。

母ははじめ兄のことをアル中だとは思っておらず、とにかく微熱が続き、吐き気や頭痛や目眩をひどく訴えるので、なにか原因不明の病気を罹っているんじゃないか?と不安がっていました。

私はすぐ兄に電話しました。

「体調悪いんだって?」

「うん、死んじゃいそう。つらい。」

「病院はなんて?」

「びょ、病院はさ、なんもしてくれねぇんだよ〜!!(泣きはじめる)」

この時点で明らかにいつもの兄ではありませんでした。

それでも泣きながら話す兄から事情を聞き出すと、さきほど母から聞いた流れの話があり、とにかく体の部位という部位全てが痛く、吐き気、目眩に襲われていて、眠りたくても眠れずとにかくツラいと言っていました。

この時までは私も何か原因不明の病気なのか?と思いましたが、兄が言った次の言葉で「おや?」と思いました。

兄が「幻覚も見えるんだよ」と言ったからです。

 

それでも泣き止んだ兄は少し落ち着いて「だいじょぶ」と繰り返したのちに「話すの、疲れたから、切るね、ありがとう」と言って電話を終えました。

私は、兄が明らかにふつうの体調不良の域を超えている状態だと思いました。

いくら人間、病気の時には気が弱くなってしまうものだとしても、大の大人がツラくて泣き喚いてしまうというのは、あまり普通では考えられないことです。

 

しかし私は「なぜこんなことに!?」とは思いませんでした。

思ったのは「来るべき時が来たのかもしれない」でした。

ずっと、明るくて仕事が出来て社交的で、子供の頃は自慢の兄でしたが、私は兄がいつかこうなることを予感していた気がします。

 

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自分の気持ち整理のために書いているのですが、疲れてきたので続きはまた今後にします。

間にふつうの記事を載せることもあるかもしれませんが、家族がアルコール依存症になったという事実と私はきちんと向き合っていけたらと思うので、今後も記録していきたいと思います。

同じような境遇の人は良かったらたまに見に来て下さいまし。

私は元気なので心配しないで下さいましね。

ではまた

 

なぜマツコデラックスのセクハラは許されるのか?

 

 

はじめに

一昨日テレビでおしゃれイズムを観てたら、マツコデラックスが藤木直人にめちゃくちゃセクハラしてて、正直げんなりしました。

ロケ中ことあるごとに藤木直人に抱きつくマツコ、「ダメとわかってるのにー」と言いつつも藤木直人の尻を触るマツコ、きわめつけは仰向けの体勢になる筋トレマシーンを藤木直人に試させた場面で、ハァハァと息切れした藤木直人に上からかぶさる姿勢をとって「疑似体験できたわ」と喜ぶマツコ。

上田晋也がそのつど「やめろ!」的なツッコミを入れて笑いに変換させてたんですけど、最後のは「今、あんたとのセックスを疑似体験したわ」って意味なんで、上田晋也のツッコミ力を持ってしても、私はセクハラを目の当たりにした時の「うげぇ」感が拭えませんでした。

「なにをいまさら。マツコってもともとそういうキャラじゃん」と言う方もいらっしゃると思いますが、ここ数年のマツコの露出頻度はすごいです。

もうテレビで見ない日は無いんじゃないかという勢いで出てるので、毎回ではないにしてもマツコが男性タレントとか素人男性の身体に無遠慮に触れる場面は、けっこうよく目にする光景になってるんですよね。

だから「数が少なきゃしていい」って事でもないんですが、頻繁に見るからよけい目に余る状態で、私はげんなりしてしまったんです。

 

そして、げんなりついでにふと疑問が浮かびました。

それは「なんでマツコのセクハラは今のテレビ界においてもこんなにオープンに許されているんだろう?」という疑問です。

というのも、最近は何かあると速攻SNSで叩かれるという背景もあって、テレビを作る人やテレビに出る人から「迂闊なセクハラが無いように気をつけます!」という雰囲気がビシバシ伝わります。

そのおかげで昔のテレビに比べたら、意味のない水着姿の女性アシスタントも見ないし、大物男性司会者が女性タレントに気軽にエロいことを言う光景も、ちゃんと激減してます。

つまり「一億総セクハラ注意時代」とも言える現在日本なんですが、その中でマツコのセクハラは取り残されたかのようにオープンに行われているように思います。しかもあまり叩かれてない。

私はなんだか急にこの現象が不思議に思えてきました。

なので今日はそのことを書きます。

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前はマツコが好きだった

この話をする前に、はじめに断っておきますと、私はマツコをテレビでよく目にするようになった当初から数年間は結構マツコのことが好きだったんですよ。

マツコのテレビ初出演は2000年で、私が好きになったのは多分2005年あたりだと思います。

今でこそマツコはすっかりお茶の間の人気者の座に君臨していますが、その頃はまだ違いました。

特に私の周りの少し年配の人にはマツコの歯に衣着せぬ物言いや「ゲイの女装家」という部分に露骨に拒否反応を示す人がいて、職場である介護施設のテレビでもマツコが映ると年配のスタッフや利用者さんが「この人下品だから嫌い」とか「男だか女だか分からん、気持ち悪い」と言ってチャンネルを変えたがる事がよくあったのを覚えています。

私は基本「性別の枠から外れる人間の言動は、ハナから受け入れない」という姿勢は偏見的で嫌なので、マツコの言うことを聞きもせずにマツコが「女の見た目をしてるゲイ」だというだけで、年配の人に嫌われてることに少し同情的な気持ちがありました。

「マツコ面白いのに、マツコ良いこと言ってるのに見た目とかオカマ(本人が自称する表現)だからってハナから拒否るのひどいよ」みたいな。

まぁ、私がマツコを好きになったのはそういう同情的な部分を一切抜きにして、単純に当時のマツコの言ってることには「そうそう!」と共感できる回数がすごく多かったからなんですが、ここ数年のマツコに対しては「共感から得られる好感」よりも、「その言動に引いてしまう感」のほうが上回るようになってしまい、好きだった人を好きじゃなくなる悲しさを覚えていたところでした。

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女のセクハラはギャグ?

で、本題の疑問 なぜマツコのセクハラはオープンに許されているのか?について考えてみると、その理由はまず単純に「見た目が女性だから」というのが大きいと思います。

昔は男性から女性へのセクハラすら笑いにしていたテレビ界ですが、「もうさすがにそれは笑いにならない」という常識が一般化しつつあります。
しかしながら、女性から男性へのセクハラについてはまだその意識が適用されておらず、女性がセクハラしてる場面はギャグ扱いになることが許されているように思います。

マツコ以外にも大久保さんとか岩井志麻子先生が、男性タレントの股間を触る場面もギャグのひとくだりとしてよく見かけますしね。

 

しかしもちろん、女性だからってセクハラをして良いわけじゃありません。

世の中には実際に、女性からのセクハラに悩む男性だっているのですから、本来セクハラ問題とは、「被害者加害者の性別に関わらず深刻な問題として考えなければいけないもの」だと思います。女から男でも、男同士でも、女同士でもセクハラはセクハラ。

だから今の様に「女性から男性へのセクハラはギャグですよ」「女性だから、女性の見た目だからこれは問題ないんです」という常識でテレビが作られていく姿勢は、本来は感心できないことだと思います。多分今の段階でも不快な人はいるでしょうし。

もちろん、それはタレントだけの責任ではありません。

全てのテレビ番組には台本があり、彼女達も製作者側から「ここで男性にグイグイ絡んで、ひと笑いお願いします!」みたいに、そういう役目を求められるからやっているんだと思うので、演者だけの責任とは言えないのです。

でもマツコについては、あそこまで売れていて弁の立つ方だから「私はしたくないの。100%テレビにやらされてるのよ」という言い分は通らないんじゃないかと私は思うので、やはり多少は本人がしたくてしてる言動なんじゃないかと思うんですよね。

そうなると、「セクハラしたい人がセクハラしてる場面がそのままテレビで放送されてる」ってことなので、その頻度の高さも手伝って私は不快に思ってしまいます。

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「特別枠」が意味するもの

さて、ここまでは テレビを作る側の話でしたが、ここからはテレビを観る側の話をしたいと思います。

世の中には「同じ発言内容でも言う人によって周囲の反応が違う」ということが実によくありますよね。

分かりやすい例で言えば、ものすごい美人が「やっぱ彼氏はイケメンじゃなきゃありえない。」と言うと周囲も「こんだけの美人ならまぁそうだよなぁ。」と多少納得するのに対して、不美人が言うと「お前が高望みすんな!」とヤジが飛んでくる、みたいなことです。

私はそれもルッキズムという容貌差別の範疇に入ることだと思うので、自分は極力しないように注意しているところなのですが、容姿以外の、職業とか生活態度とか、その人の持つ要素を全て気にせずに、いつも発言内容だけに反応しているかと問われれば、自分は出来ていると思いませんし、周りの人を見ていても、それが出来ている人はほとんど居ないように思います。

つまり、「同じ台詞でも相手次第で許せる場合と許せない場合がある」というのは人の道理なのかもしれません。

 

ではここで改めて「なぜマツコのセクハラは許されてるのか?」と考えてみますと、マツコのセクハラが人々に怒られないのは、観ている多くの人の心の中に「マツコは特別枠」という意識が働いてるからじゃないかな?と私は推測します。

それで私は、マツコが「特別枠」となる理由について、観ている人が全員「マツコの言うことは特別共感できるから、マツコが特別好きだから多少の嫌な部分も気にならない」という意味での特別扱いなら問題には思いません。

それは「えこひいき」ではあるけど、愛情由来のえこひいきを完全にしないのは自分にも無理だし、そういう不条理なところもあるのが人間だと思うからです。

 

でも、そういう理由ではなく、人々がもしマツコのセクシャリティを理由に特別枠扱いしてるのだと仮定したら、そこに私は抵抗を感じます。

これがどういう抵抗感なのかということは、次で説明します。

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抵抗感の正体

 

私は以前、誰かが「男が言ったら叩かれる発言はオカマに言わせりゃカドが立たない。」と言っているのを聞いた事がありました。

確かに観察してみると、女性は男性から「あんたブスだな」と言われると怒ったり悲しくなったりするけど、オネェという立ち位置の人に「あんたブスね」と言われても笑って済ませてる様子が見受けられます。

これは私の勝手な推測ですが、多くの女性が「ブス」と言われてムカッとくる度合いは「男性>女性>ニューハーフ」という順番なんじゃないでしょうか。

 

私もこのことについては今回初めて意識したのですが、意識してみると、新たに「なんでニューハーフの人の言葉は聞き流せるのだろう?」という疑問が浮かびました。

もちろん、そうなる原因が「個人的にそのニューハーフの人を特別好きだから」という理由なら「えこひいき」なのでいいのですが、先程の「男が言ったらダメなことはオカマに言わせりゃカドが立たない」という言葉を踏まえてみると、私はそれがやはり「発言者が既存の性別外で生きている人」だということに由来するような気がするんです。

つまり女性が「ブスだわねー」とか「女らしくしなさいよ」とニューハーフから言われた時、その女性は無意識だとしても心の根底には、ニューハーフの人に対して「この人は望む性別に生まれなかった可哀想な人だから」とか「この人は、女として正規に生まれついたくせに女らしくしてない女に対して『せっかく生粋の女なのにもったいない!』みたいな悔しさがあるんだな」と同情を感じて、それが理由で許している。という現象が起きているんじゃないか、ということです。

私が抵抗を感じるのは、その同情が実は差別的なもののように思えるところなんです。

 

だって、その同情って子供に「バカ」と言われても「子供の言うことだから」と気にしないのと同じ構造で、つまり、ニューハーフの人のことを、「可哀想な人だから」と自分より一段下に位置付け「大人なのにまともに数に入れない」ことのように思えるからです。

私は、男や女という既存の性別に縛られず生きる人を心から応援したいけど、そういう人をあえて「普通の人とは違う苦労をしてるんだから応援してあげましょう」みたいに特別扱いするのは、なんか違う気がします。

私は、彼ら、彼女らが社会に求める、ジェンダーレスという概念は「普通とは違う性別の人にも優しくする社会」なのではなく、そもそもの「男に生まれて女を愛して生きる男性、女に生まれて男を愛して生きる女性だけを普通とする常識」が取り払われた社会だと思います。

だから、セクシャリティが原因で「特別枠」とすることには「普通ではない可哀想な人だから特別に優しくする」みたいな、実に上からの施し感がしてしまうんです。

本当にフェアに生きてる同士なら、ムカつくことを言われたらムカつくものだし、セクハラをしてたら「ダメだよ!」と怒られるものだと思います。

それを、セクシャリティが既存の男女じゃないからといって「この人は仕方ないよ」と見逃すのは、優しさではなく、「本気で相手にしない」という、1番酷な事なんじゃないかと私は思います。

その酷なことが人々の中で無意識に行われてるから今マツコが言う「ブスばっかりね」といった侮辱語も、マツコがするセクハラも、すべてギャグで済まされてるんじゃないかという気が私はします。

 

これが、今回考えて一応出た私なりの「マツコのセクハラが許されてる理由」です。

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マツコを女叩きの道具にしてない?

あと最後についでだから書きたいことがあります。

私は先の「男が言ったら叩かれる発言はオカマに言わせりゃカドが立たない。」発言に見られるように「マツコの意見はあまり叩かれない」という部分に便乗して、メディアもマツコを「女叩きの道具に使ってるんではないか?」という疑いを持ってます。

マツコは女性に対してキツい意見を言うことがままあります。
夏目ちゃんが泣いた「女は出産年齢を考えたらタイムリミットがあるのに今の女は結婚先送りで自由に暮らしてていいと思ってるの?」みたいな意見とか「インスタやってるのはみんなブス」「今のアイドルはブスばかり」「オルチャンメイク流行でブスが増えた」といった一連の「こういう女はブス」という意見ですね。

こうしたマツコの発言は、一部の男性にとって「思ってたけど言ったら叩かれるから我慢してたんだよ!マツコが言ってくれてスカッとした!」と喜ばれる内容だと思うので、「マツコならば叩かれない」という利点を逆手に取り、いつもそのまままメディアで流れているような気がしてならないのです。

もちろん、マツコがそう思い、そう発言するのは自由なんですが、普通の男性タレントが言っていたら番組制作スタッフも「この発言はちょっとアレなんでカットで…」となるような審査が、マツコに対しては行われていないんじゃないか?と思えるほど、マツコは女性に対して侮蔑的な発言も取り上げられているように思えます。

もしそうなら、先ほども書いたように、それは本当の意味で人間としてマツコの意見を支持してるのではなく、マツコの『オカマ』という立ち位置をいいように利用してるだけのような気がします。

だから、テレビを作る人も「マツコの意見だからみんな許すだろう」ではなく、マツコの意見だろうと「これは傷つく女性が多いだろうから流さない方向で」みたいな審査が行われるほうが正しいんじゃないかと思います。

まぁ、これは単なる私の妄想で、ちゃんと審査された上で今の状況なんだとしたら、もう私は「そうですか」とマツコの出ている番組を見なくなるだけのことなんですが。

ただこれは前々から思ってたことなのでついでに書かせてもらいました。

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最後に

私はマツコを見ていると時々悲しくなることがあります。

それはマツコが「こんな男だか女だか分からない人間をこうしてテレビに出させていただけるなんてありがたいことですよ」と、必要以上にへり下り、自分を卑下したことを言う時です。

好きだった頃から今も同じように私は悲しくなります。

だってそれは「男だか女だか分からない人間は日陰にいるべきなのにテレビまで出させていただいてありがたい」という風に聞こえてしまうんですもん。

だから聞くたびに「そんな事ないよ!男だか女だか分からない人間とかそんなことは気にしなくていいよ、マツコ面白いんだから、才能あるんだから、『男だか女だか分からないからどうしたっていうの?』くらい堂々としてていいのに!」という切ない気持ちになります。

 

あと、マツコは「アタシなんてどうせ独りでのたれ死ぬのよ」とか「こんな人間好きになる奴どうかしてるでしょ」みたいに、ひどく自尊心が低いようなこともよく言います。

私は、それがたまたま本人の生まれついた性格なら仕方ないと思うけど、マツコがこれまでの人生の生きづらさからそんな風に自虐的になっているのだとしたら、やはり今の社会がセクシャルマイノリティの人の自尊心を奪う仕組みであることを改めて感じ、悲しくなります。

だから、マツコがテレビで生き生きとした姿を見せてくれることには、本来私は応援したい気持ちがあるんです。

 

でもマツコはある意味シンボル的な立ち位置にいるので、マツコの言動はその一つ一つが、「ああ『オカマ』の人達ってこういうもんなんだな」と判断の材料にされる部分があると思います。

もちろん、そういうのはマツコ一人を勝手に代表だと思いこむほうがいけないんですが、それでもやはりマツコの影響は大きく、マツコが常に男の尻を触りたがるのを見て、どこかのゲイの人が「お前俺の尻狙うなよ笑」みたいな傷つくギャグを言われることだってあると思うんです。

だから、マツコにはマツコなりの好きな活動をして欲しい気持ちがある反面、度の過ぎたセクハラはやっぱり許せないと思います。

 

しかしこうしてマツコについて書いてみると、私はやはりマツコを嫌いになりきれない自分がいることに気がつきました。

だっていつもなら嫌な発言を同じ人から2、3聞いたら私はとっととその人に見切りをつけてしまいますもん。

でもやっぱりそれが出来ないのはマツコのなんらかの魅力に私が魅せられてるからなんだと思います。

確かに私がマツコを好きになった頃、マツコが言ってた「誰でもキラキラした生き方に憧れてるわけじゃないんだよ!」みたいな考え方は今も同感ですし、マツコの一定時間内にいくつも笑いどころを作れるトーク力は本当に凄いと思います。

だから私は今のテレビ界で、マツコに対して「マツコだから無罪放免」という歪んだ評価がなされるのではなく、マツコが時に正しく批判され、時に正しく評価されることを願っている、もしかしたらただのマツコの一ファンなのかもしれません。

 

長くなりましたが、お読みいただいた方はありがとうございます。

ではまた。

 

 

日常と非日常のさかいめ

 

 

こんにちは。

一昨日3月11日は、7年前に東日本大震災が起きた日でした。

皆が震災について思いを馳せた1日だったのではないかと思います。

私も7年前のあの日以来、災害時の行動について時々考えるようになりました。

自然災害というのは、本当にいつ何時起こるか分かりません。

地震以外にも大雨による土砂災害や洪水、竜巻、大雪、火山の噴火などもあると考えると、私たちは常に非常時について備えをしていないといけないと思います。

でも私は「常日頃から非常時に備えましょう。」と聞くと、深く考え込んでしまいます。

だって、備えって、ただ食料や防災グッズなどを買い揃えればいいだけのことじゃなくて、「いざという時の心構えがある」ってことも大事じゃないですか。

私は実は、後者の備えのほうが、命に直結する重要さを感じるんですが、7年考えてもあまり心構えが出来てません。

色々考えてしまうんですよね。

 

その災害が『誰もが認める大災害』なら、これはもう迷いなく私も「逃げるぞ!」という判断を下せるだろうけど、中途半端な災害の場合に、私は避難するか迷うだろうなとか。

例えば仕事場に向かって車を走らせている時に大きめの地震が来たら?と考えてみる。

それが震度7くらいで、地割れが起きて建物もドカドカ崩れてたらそりゃあ私だって車を置いて広場に逃げたり、海沿いだったら高台に走るでしょう。

でも、震度5くらいだったら私は揺れがおさまったら、避難所じゃなくて仕事場に向かう気がします。

 

つまり震度7くらいなら非日常に突入で、震度5くらいなら日常に戻るんじゃないか」って気がする。

でも、そうなると「震度6ならどうなるんだろう?」ですが、私は震度5弱までしか経験したことがないので、震度6がどんな状態なのか想像付きません。

なので、震度6の時の周りを見て、自分の頭が日常モードを保とうとするのか、非日常モードに即座に切り替わるのかも検討がつかないんです。

 

それでもまだ、地震のように「震度」という尺度があるのはマシなほうです。

それが大雨だったら?竜巻だったら?などと、他の災害の場合を考えてみると、それぞれ、どういう状態が本当に非難するべきヤバい事態なのか、地震よりも想像がつきません。

「過去の災害から学ぶ」系の番組を見ても、実際自分の身に降りかかる災害が、過去のケースとは地形も建物も時間帯も違ったら、私はオリジナルで対処しなきゃいけない気がするし。

もちろん、防災サイレンで避難の呼びかけもあると思いますが、「警戒レベルでも逃げるのか、避難指示があってから逃げるのか」は個人で選択しなきゃなので、そこでも多分私は迷うでしょう。

 

私が怖いのはそういう風に、分からなくて迷ってモタモタしてるうちに手遅れになることです。

避難したほうが良いような非日常事態なのに、頭がうっかり日常モードのまま仕事に行こうとして、怪我したり死んだりするのが怖いです。

 

そして私は一昨日のテレビを観てて、もう1つ怖いというか、心配することが出来てしまいました。

それは「その避難は正解か!?」という「避難したのに避難先で犠牲者が多数出てしまったケース」に焦点を当てて検証するドキュメント特番でした。

その中で取り上げられていた宮城県七十七銀行女川支店のこと。

 

七十七銀行の行員達は、避難マニュアルにのっとり、支店長の指示のもと銀行の屋上に避難したのですが、想定を超える高さの津波に襲われ、ほとんどの方が犠牲となりました。

もちろん、屋上に留まる指示をした支店長が全面的に悪いわけではありません。避難マニュアルに従っただけですから、1番悪いのは「マニュアルの想定が甘かったこと」だと思います。

でも、この番組はタイトルが「その避難は正解か!?」なので、避難には「正解・不正解」があり、このケースは後者ということで、「あと少し高台に移動していれば助かったのに、まだ避難する時間はあったのに、逃げなかったから想定以上の津波にのまれてしまった悲しいケース」として出ていました。

 

私はとりあえず、「その避難が不正解」というのは、事が終わって結果を知ってる、いわばカミサマ視点を持った人が後から判断した結果論だよなぁ、と思いました。

だから当事者は最後の瞬間まで皆、正解であることを祈ってその避難をしていたと思うので「辛いなぁ…」と思いながら観てました。

すると夫がポツリと言います。

「これ、みんな揃って本心でここに留まりたかったのかなぁ?」と。

 

その一言で私は、「自分がこの場面に居たら?」と置き換えて真剣に考えてしまいました。

 

私は、それが本当に全員が揃って「屋上が安全なはず」と信じていた避難なら、まだ良いというか、良くはないけど、まだ私が当事者なら、最後の瞬間は自分を呪うだけだからいい、と思いました。

 

でも、仮に自分が下っ端の人間で、自分は「もっと高台に避難したほうがいい」と思っていたのに、上の人の「屋上に避難すれば十分だ」という指示に従った結果、津波に飲まれたんだとしたら、最後の瞬間に、意見を押し切らなかった自分自身を恨むと同時に、上司のことも恨んでしまう気がします。

私はどうせ自分が死ぬなら、人を恨みながら死にたくなくて、自己責任だけを感じて死にたいんです。

だからそういう事態になるのが本当に怖い。

それで、夫に

「ねぇもし、自分が職場でこういう状況になって、自分は別の場所に避難したいのに上司が留まれって命令してきたらどうする?逆らう?」と聞きました。

 

そしたら夫もしばらく考えて

「うーん、難しいかもなぁ。確実な大災害だってことをその瞬間にはまだ分からないから、人間、元の生活に戻った時のこと考えちゃうもんね。イヤーな上司だったら『あん時、お前逆らったよな』みたいに目付けられそうだし…。」

と言いました。

 

ほんとそう、同感です。

日常モードの私達は、上司の命令には基本従うし、仕事中に勝手な個人行動はしてはいけないという頭で生きています。

だから、私も「もっと高台に逃げたい」と思ってたとしても、頭が日常モードを残していたら「元の日常に戻った時の心配」をして上司に逆らうことを躊躇ってしまう気がするんですよね。

だって、もし1人で逃げたとしても、津波が想定内の高さで済んで、元の日常が戻ったら、私はその職場で「上司に逆らった奴、1人で勝手に逃げた奴」という扱いの日常が始まるわけで、私はそうなるのが嫌だという心配をしちゃいそうです。

ここで「命にかかわる非常時に、上下関係なんて気にするか?気にしなくていいだろ!」と思うのは確かにごもっともな意見です。

命を落とす事に比べたら、こんなの、ちっちゃいちっちゃい心配ですもん。

 

でも、災害直後の当事者は事の全容が分かりません。

それが局地的な災害なのか、広い地域にわたる大災害なのか、どのくらいの人が巻き込まれてるのか、死者が出るほどの災害なのか。

情報が無くて、ほとんどその場で見えてる事しか分からないはずです。

 

つまり、その事態が「命にかかわる非常事態」って認識ができるのも、カミサマ視点の意見です。

後からみれば結果として「紛れもない非日常」と言える大災害でも、直前まで日常モードで暮らしてる私達は、希望的観測も手伝って「皆が生き残れる、日常はすぐ戻る」と思い「命に関わる非常事態」と認識するのが遅れてしまうんじゃないでしょうか。

こういう、日常と非日常の境目に正しい行動がとれるかが、生死を分けるポイントだと思いますが、私は自分がうまくモード切り替えできる自信がありません…。

 

しかもたとえ、私が出来たとしても、その場にいる全員が同じように非日常モードに切り替わらなかったら、意思が揃わずモメそう。

津波に対しては「とにかく高台へ」という教訓が浸透したけど、ほかの災害は、まだ「このレベルならこうしろ!」みたいな指針が整ってないから、災害時に「この程度ならそこまで焦らなくても」という人と「これは一大事だ!」という人、絶対個人差出てくると思うんです。

これも「災害時、命にかかわる決断時に人とモメるモメないを気にしてられっか!」って話なんですけど、日常では「人と揉めたくない」っていうのは結構気になる事じゃないですか。

だから、日常モードの「人と揉めたくない」という頭を、災害時だからと言って私はそんなアッサリバッサリ切り落とせるんだろうか?と思うと、出来そうもない気がして、それで「むずいよなぁ…」と頭を抱えてしまいました。

 

しかもそんな事を考えながら番組を観てたら、まさに「日常モードであの場に居た人」が出ていました。

番組内で流れた津波映像の1つは、七十七銀行の側にあるマリンパル女川という商業施設の職員の男性が、震災直後からずっと撮影していたものだったんですが、その方は、初めから津波の様子を撮ろうとしてカメラを回してたわけじゃないそうです。

彼は「この後仕事に戻った時、自分が施設の壊れたところの補修作業に当たるはずなので、亀裂部分を記録しておいた方が後々仕事がやりやすいから」撮影してたそうなんです。

でも、結局は想定以上の津波に襲われて、地面の補修どころの話ではなくなってしまったわけですが、(ご本人はギリギリで避難してご無事でした。)

これって、まさに彼「日常モード」じゃないですか?

あんな大きな地震の直後なのに「この後の自分の仕事がしやすいように」と考えて動くというのは、日常モードの思考があった証拠だと思います。

だから私は、人が日常から非日常に瞬時にモードを切り替えるのは、やはり難しいことなんじゃないかと思いました。

 

私もいざという時には、ちゃんとモード切り替えしたいとは思うけど、でも自分が正しいタイミングで非日常モードに切り替われる人なのかどうかなんて、実際その時にならないと分かりませんよね…。
だからどっかにそういう訓練施設が出来たらいいのに、と思ったりします。

まぁ、施設がなくても、日頃から色んな場面を考えて「この場合は、どうしたら?」と考えるのも少しは頭の訓練になるでしょうね。

「備えあれば憂いなし」と言いますが、私は「憂う」ことも備えだと思うので「憂いなし」の状態は備えてないということになり、「備えあれば憂いなしパラドックス」が起きて頭がもうクワンクワンしてきます。

でも、考えないといけないですね。

考えて、忘れないようにし続けていきたいと思ってます。

 

ではまた。

 

 

 

 

「女らしさ」ってなんですか?

 

こんにちは。

昨日3月8日は、国際女性デーでした。

というわけで、今日は1日遅れてしまいましたが、この機会に私が皆様にぜひ読んで頂きたい文章を紹介します。

それは与謝野晶子さんの「女らしさとは何か」という作品です。

与謝野晶子の「作品」というと短歌を思い浮かべる方が多いと思いますが、こちらは大正から昭和にかけて発行されていた「婦人倶楽部」という雑誌で1921年に発表された彼女の随筆で、今で言うコラムかエッセイといった文章です。

「へー与謝野晶子って、そんなのも書くんだ。」と思った方、驚くのはまだ早い!

この文章が凄いのは「女らしさとは何か」というそそるタイトルもさることながら、その内容!

例えば一部分を抜粋すると、

我国の男子の中には、まだこの点を反省しない人たちがあって、いわゆる豪傑風を気取った前代の男子の悪習を保存し、自分自身は粗野な言動を慎まないのみならず、その醜さをかえって得意としながら、唯だ女子にばかり、愛と、優雅と、つつましやかさとを要求します。

ってな感じで、当時の男尊女卑社会に対する痛烈な批判が綴られているんですね。

もう、読んでて同感な部分が多すぎて「晶子!スタバ行ってちょっと話そ!」ですよ。

この文章が100年近く昔に書かれたものなのに、現代にも通じる内容なのは、実はちょっと悲しいことでもあります。

でも悲しいからといって目を背けていても仕方ないので、私はこの作品を皆様に読んで頂きたいです。この作品は埋もれさせておくにはもったいなさすぎます。

青空文庫でどなたでも無料で読めますので、是非読んでください。

青空文庫とは、著作権切れの過去の名作を無料で電子書籍化したサイトです。合法です。)↓

青空文庫 Aozora Bunko

この作品のページ↓(上部右にある「いますぐXHTML版で読む」をクリックすると、ファイルダウンロード無しでそのまま直で読めてラクです。)

図書カード:「女らしさ」とは何か

 

さて「読んで頂きたい」とは書きましたが、こちらの作品、やはり100年近く前の文章なので、人によっては少しとっつきにくいかな、と思います。

私が10代の頃なら少しとっつきにくく感じてたと思います。

でも私は特に若い子に読んで欲しいんです!

そこで今でこそフェミニズムに興味を持っている私が「もっと若い頃にそういうことを知っていたかったよ!」と思う後悔をふまえて、多くの人に届くように方法を考えました。

今日はこの場を使って、この作品を私が勝手に少しばかり噛み砕いた表現に書き変えて載せたいと思います。

現代の若い子に気軽な気持ちで読んで欲しいから!

これを読んでから与謝野さんの原文を読んでもいいし、原文を読んでからこれを読んでもいいし、とにかく一人でも多くの方にこの作品が知って頂けたらという思いで書いてみますので、よろしくお願いします。

【ルール】

内容は変えずに現代口語版にする感じです。読みやすいように節分け、節ごとのタイトルは私が勝手に足します。太字強調部分の選択も私が勝手にします。

 

でははじまりはじまりー。

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「女らしさ」ってなんですか?

by与謝野晶子

 

はじめに

日本人って、昔から仏教とか儒教の教えを叩き込まれてますよね。

んで、「世の中の物事の移り変わりは早いもんだ」とか「毎日新しい心に入れ替えて生きよう」みたいな大事なことを学んできたけれど、どうもそれを狭い視野で解釈してるせいか、全然活かせてない気がします。
「万物流転」(物事が移り変わっていくこと)に関しては、ドーンと構えて「そういうもんでしょ!」と思えばいいのに、どうも世の中にはそれが出来ない人ってのがいるみたいなんです。
最近は日本にも外国から新しい情報がどんどん入ってきてて「世の中変えていこーぜ!」って流れなのに、そういう人達って、カビの生えたような古い習わしばっかし守ろうとしてて、なんか後ろに目が付いてるみたいな感じ。
目の前にある現実と向き合うことをサボって、先のことを見通すのも怖がってるみたいな。
しかもそういう人達って、バリバリの保守派の中にいるだけじゃなく、一見「進歩的な考え方じゃん」ってグループの中にも実は混じっていたりするから厄介なんです。

桜島注・「そういう人達」には呼称を付けたほうが読み易いので今後はそういう人達を「古石頭」と書くことにしますね。)

それで、私がこのごろ気に食わないのは、古石頭がよく「女性の中性化」って言葉を使って今話題の「女性の解放運動」に反対しているってことなんです。
だいたい古石頭って、はなっから女が人間的に進化することが気に入らないみたいなんですよ。
しかも奴らは「人生は決まったルールとか法則に従って生きるもの」っていう古い考え方に囚われてるから、それを守るためにわざわざ他人の嫌がる言葉を掲げて女を威嚇して、女のリーダーが出ないようにしたりもします。

そんで世の中の流れが良いほうに向かっててもそれをかき乱すようなこと言ったりして、とにかく女性の解放運動にこれ以上みんなが賛同しないように圧力をかけてるんです。
私はそういうのって、卑劣なやり方だと思います。
だからそれについてちょっと言いたいことを書かしてもらいます。

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「女らしさ」ってなんですか?

とりあえず、古石頭の主張をまとめると「女が男と同じ高レベルな教育を受けたり、男と同じ仕事できるようにしたりすると、女性特有の『女らしさ』とゆう性質が無くなって、女でもない男でもない、よくわからない変態人間が出来るからよくない」ってことらしいです。

でもこれ、「は?」って感じじゃないすか?
まず聞かせて欲しい。

これって何を根拠に言ってるんでしょう?
一般女子に中学レベルの教育しか受けさせない上に、女は市町村議員になる権利さえ与えられてないこの国で、何を根拠に勝手にそうなると決めつけてるんでしょうか?誰かその、変態人間とやらを観たんですか?
勝手に決めつけで言ってんじゃないよ!って私は思います。


でも、それよりももっと古石頭に聞きたいのは、そもそも女は本当にあなた方が言う「最上の価値を持つ『女らしさ』」ってのを持っているのか?ってことです。
奴らは「女らしさ」ってやつを女の性質の一番の項目に挙げていて、ほかの性質はその下に従ってくっつけてるだけです。
だから、ある女性がどんなに優れた沢山の性質を持ってても、彼女にただ一つ「女らしさ」という部分が無かったらそのせいで、古石頭は「彼女の人間的価値はゼロ。彼女は独立した人格者ではない。」とみなしてきます。

 

ここで私、聞きたいんですけど、「女らしさ」って、そんなに最高に良いもんなんですか?
「女らしさ」って、そんなに女の人格全体を支配します?
そもそもその「女らしさ」の正体っていったい何なんですか?

 

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「男のすること・女のすること」に分ける必要はない

 

日本って、女が大股で歩いたり、活発に動き回って遊んでるとすぐ「女らしくない」って責められたり笑われたりします。
つまり、女は内股でちょこちょこ歩き、人形みたいにおとなしくしてんのが「女らしさ」の一つの条件になってるんですね。

でも日本ではそうでも外国の女性はどうでしょう?
外国の女性はことごとく大股で颯爽と歩くし、欧米では戦後、女子学生も男子と同じ体操着でスポーツをするようになっていますが、欧米では彼女達に向かって「女らしくない!」という非難の声は上がっていません。
ってことは、古石頭がありがたがってる「女らしさ」ってもんは、世界共通のものではなく、日本人だけに通用するものってことじゃないですか?
古石頭は「男のやることを女がやると、女らしさを失う」と言いますが、人間の活動に「男のする事・女のする事」みたいに、「先天的に決まっているもの」があるんでしょうか?
私は女が「妊娠する」という一点を除けば、男女が性別によって決められている宿命が別々にあると思えません。

 

政治や軍事は男の分野とされてますが、日本にも過去には女帝や女性政治家はいましたし、先の戦時中は弾丸製造などの働き手に多くの女が駆り出されました。

でも彼女達は「中性化した女だ!」と非難されていません。

だからここにきて今更「男子のすることを女子がすると女らしさを失う」というのは的外れな意見に思えます。

それに、もし男女の性別によって歴史的に定まった職業の領域が分けられて固まってるなら、男が服職人や料理人や洗濯業者となるのも女の領域を侵すものとして「男子の中性化」が論じられなければならないはずじゃないですか?
それこそ紀貫之だって「女が書く」とされていた「日記」を書いてたんですから、同じ理由で「男らしさを失った人間」として批難されてないとその理屈は通らないのに、彼は歌人として、また国語で文章を書いた先駆者として尊敬されているのはどういうわけでしょう?

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「人間らしさ」を男女不平等に言い換えた言葉が「女らしさ」である。

 

古石頭達は「女らしさ」とは「愛と、優雅と、つつましやかさとを備えていること」だと言い、逆に「女らしくない」というのは「無情、冷酷、生意気、半可通、不作法、粗野、軽佻等を意味する」だとも言います。
でも、私思うんですけど「愛と、優雅と、つつましやかさ」って、男にも必要な性質じゃないすか?
「愛と、優雅と、つつましやかさ」ってのは、「特に女にだけ」求めるべきものじゃなく「人間全体に共通して」欠くことの出来ない人間性そのものなんじゃないでしょうか。
だからそれを備えていることは「女らしさ」でもなければ「男らしさ」でもなく、「人間らしさ」と言うべきなんじゃないでしょうか。

人間性なんて、男女の性別によって違う性質のものじゃないですから、もしそれが欠けてる人がいたら「人間らしくない」として、男女にかかわらず批難されるものなんじゃないでしょうか。

でも昔から男はそれが見過ごされて、女だけが「女らしくない!」って言葉で厳しく批難されます。

それって不公平過ぎると思いませんか?

 

この国の男の人の中には、まだこの点を分かってない人達がいて、彼らは昔の豪快な武将にでもなったつもりか知りませんけど、自分自身は粗雑な言動をしているのに、女には「愛と、優雅と、つつましやかさ」を求めてきます。

また、さっきも言ったような「無情、冷酷、etc」の欠点は、男でも許しがたい欠点なのに、女にばかりそこを責めます。

そんな人達の様子からは「女には俺達に都合よく、性的玩具や炊事マシンとしての役目を負わせたい。柔順で無気力な立場に置いておきたい。」って男のワガママが見え見えなんです。

 

こんな風に考察してみると、古石頭の言う「女性だけが持っていて、それが人間的価値の最高標準となるべき『女らしさ』」なんてもんは、この世に存在しないただの奴らの幻想じゃん、って私は思います。

 古石頭が「女らしさ」と言ってるものは、人によっては「一地方的なもの」でもあるし「時代によって変化するもの」でもあるし、ようするに「決して私たちの生活を支配するような権威を持っているものじゃない。」ってことです。

だから「女らしさ」は「女子特有のものでなくて、人間全体に一貫して備っている人間性そのもの」だってことを私は言いたいです。

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女にも「教育と労働の自由」を。

 

私は人間性っていうのは「愛と、優雅と、つつましやかさ」に限らず「創造力と、鑑賞力と、その他の重要な文化能力」とかも含んでいると思います。

この人間性は誰にでも備っているけど、「教育と労働」があるとさらに円満に引き出されるような気がします。

だからこそ私は普通の人々にも「高等教育を受けることの自由」と、「職業選択の自由」がないといけないと思うし、

古石頭が女への高等教育を拒み、労働区域の制限をかけようとするのは全く正当な理由のない迷惑行為だって思います。

男になら「人間性の啓発となる教育と労働」なのに、女にとっては「逆に人間らしさを失くす結果になる」なんて矛盾する理屈は通らないですから。

 

私のこんな意見に対して、古石頭達は現在の女教師や女学生や職業婦人に共通する生意気な態度や粗野なところを挙げて、「これだから女はダメだ!」って言ってくるかもしれませんが、でもそれって逆に古石頭の墓穴を掘ることになると思いますよ。

だって、現在のそういう女性達は、確かに人間性の不足している所が多少あるかもしれないけど、それって、結局は「彼女達に人間らしい教育があまりに与えられず、人間らしい労働があまりに狭くしか許されてない。」が原因だと思いますから。

試しに女に「男性と同程度の教育」と、「地位のある立場でその手腕を思う存分振える職業に就くこと」と、明治以来の男に与えて来た「激励と設備と年月」を与えてみてください。

日本女性の人間性のポテンシャルの高さはきっと驚くべきもので、決して欧米の女性に劣るものではないはずです。


現在女性にまだ粗野さや生意気さが残っているように見えるのは、男子の中学卒業にも当らないような程度の教育でストップしていて、一番生意気な年齢からそれ以上に人間性が育つ仕組みじゃないからだと思います。
女性の職業範囲が少しずつ広がっているといっても、まだ女は小学校の校長にさえなれないし、どこへ行っても「女性である」って理由だけで男の下に付くようにさせられています。

今の女性は「実力が優れてても、男性の下に立つことしか許されない」という有様だから、女性自身もその人間性を鍛える機会を失っているのかもしれません。

だから私はその制限をとっとと取り払って欲しいと願っています。

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「子供話は女に任せる」って風潮やめませんか?


さて、好き言わせてもらってますが、こんな私の主張に対して、私は「古石頭がこんなことを言ってくるだろうな〜」ってことも想定してます。

それはきっと

「子供を生み、育てることは女性でなくては出来ない。したがって『女らしさ』の主要条件は母となることである。
そして女子解放運動は、女性のその母性を失わせるから良くない。
これからの新しい女性は母になることを回避してしまう。」 

ってな感じのことだと思います。

でもこの意見に対しては私も言いたいことがあります。

それは、そもそもこの「『母になる云々』の話を『女らしさ』で語る前提やめません?ってことです。


ちょっとややこしい書き方しちゃいましたけど、つまりどういうことかと言うと、確かに、女でなければ妊娠することが出来ないのは事実として認めます。
でもそのせいで「生殖のことは女性にお任せ」と思うのは大間違いだってことです。

だって、そもそも妊娠は、男の協力なくして出来ません。
そして子供が生まれてからも、育てて教育していく中には父母両者の愛情、父母両者の労力を合せる必要があるんです。

なのに昔からそこについて「父性」ってものがあまりにいい加減に扱われてきてると思います。
だから女にだけ重荷となる母性を課して、「育児は女だけの任務」と誤解されてきてるんだと思います。

本当はこの事もまた、男女に共通した「人間的活動」の話です。

もちろん、実際の育児の手間だけを考えて「男性には軽く、女性には重大な任務である」と決めるのもよくないです。
人の親になることは、父母両者に取って共に重大な任務でしょう。
だから育児を母性任せにして「女らしさ」の主要条件とするのはおかしいんです。

人がたとえ男女で父と母に分れたとしても、親としての精神は男女同一で、「親をやる」ってことは男女どちらにとっても人間性の現れるところですから「女らしさ」という言葉を使って「女に特定した話題」みたいに扱うのは変だと思います。

だから親業について語るなら、そもそも「女らしさ」なんて言葉を出さずに

男女両者を統一した「人間性の表現」もしくは「人間的活動」という言葉を持って表すべきだと私は思います。

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 親になりたい欲求は「女性解放運動」では削がれない。

 

さて、そこを踏まえた上で古石頭の言う「『女子解放運動』が、女性の母性を失わせる。」という理屈について反論してみると、私はその意見が全く根拠のない、ただの思い過ごしだと断言します。


なぜなら、女性の活動を自由にすることは、女性が古来からの奴隷的位地から抜け出し、独立した一個の人格として、あらゆる「人間的活動」を完成しようとする自己改革の動きだと思うからです。

つまり、人間的活動の結果、女性は生殖に対しても回避するどころか逆に愛と聡明と勇気とに満ちた、より完全な母となることを熱望するようになるものだと私は思います。
古石頭は「母性を失う」というような言葉をやたら使うけど、「親となること」の欲求は、昔から人間の内部に備っている最も強烈な本能の一つでもあって、つまり人間性の内容として重要な位地を占めているはずです。
だから教育が進歩すれば、それはますます「動物的な親性」から「人間的な親性」へと進化して行く気がします。
昔に比べて現代の父母が、どれほど子に対する愛情が深まっているかは、皆さんもご存知でしょう。

だから私は女性が自由になるための活動をしても「そのことで母性がなくなる」なんて理屈は、実に的外れだと思います。

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結婚、出産しない男女が増えたのは、「別の社会問題」のせい

 

さて母性について書いてきましたが、ここで私はさらに声を大にして言いたいことがあります。

それは「人間は必ずしも人の親になると定まっていない」ということです。

既に言ったように、人間には親となることへの熱烈な本能があるはずだから、高度の教育によって人間性を精錬された男女は、最も理想的な父母になりたいという意欲も沸いてくるものだと思います。

でもたとえ大多数の男女がその本能に従って親になるとしても、今の時代、世間にはいろいろの事情で結婚をしなかったり、結婚をしても子供を生まない男女だってあります。

その理由は恐らく「社会経済の不公平さから」だと思います。

不公平な社会の中で、資本階級によって搾取されてしまった無産階級の生活は、子供を育てるどころか、結婚をするのも難しい場合があります。
現に結婚が難しい人は年々増えていて、多数の男性が自分一人の生活さえいっぱいいっぱいで、とてもじゃないけど妻子を養う経済的余裕が無く、やむをえず結婚をしないでいる人もいるんです。


だから「女子解放運動が母性を失わせる」っていう批難は、本当の社会問題である「経済の不公平」に気付かせない為に話をすりかえをしているだけなんじゃないかと私は思います。

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 そもそも皆が自由に生きていい。


さて、そんなわけで経済的な理由で結婚や出産を諦める男女が多いのは確かですが、私が思うに、もし仮に経済的に問題のない新しい社会になったとしても、「人間は必ずしも結婚して親とならねばならない」なんて事はないと思います。

この先、もっと皆が好きに「人間的活動」に励むようになって、それに参加する自由と機会が万人に与えられる社会になったら、女も適材適所で生きる方が絶対良いですよね。
特に私の期待している新社会では、恋愛が結婚へのステップになるだろうから、恋愛対象をうまく見つけない限り、結婚から遠ざかる男女が出てくるのは当然のことだと思いますし。
(でも男女交際がもっと自由な新社会では、恋愛対象を慎重に自分で選択できるから、恋愛や結婚から遠ざかる男女は極めて少なくなるんじゃないかと想像します。) 

 あと、社会には昔から何らかの活動に専念して、わざと家庭を持たない男女もいますが、そういう人達も個人の自由意志に任すべきだと思います。

周囲がそういう人たちに無理に「結婚しろ」だの「子供を作れ」だのと強要することはもう辞めてほしいです。
その人たちは、家庭の楽しみ以上に、自分の好きなことをして生きていきたいと思っているんだし、自由にさせてあげることこそ、その人たちの人間性が完全に表現されるんだから周囲がむやみに邪魔しちゃいけないですよ。
私達の社会は、世界中のそういう人たちの貢献や功績があってこそ文化の飛躍をしてきたんだから、世界人類の中にそういう人たちが存在することは、非難するどころか逆にありがたく受け止め、肯定するべきことだと思います。

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まとめ
以上は本当に私の勝手な考察だけど、こうして詰めて考えることによって私は、古石頭の言う「女らしさ」というものが特に女性の上に存在しないものってことを改めて知ることが出来ました。
「女らしさ」というものは、要するに私に言わせれば「人間性」の一部に過ぎません。

「女性を男性と差別し、女だけの生活の原理のように決めつけて、それが備わっていることが女性の最高の価値だ」なんていう戯事は、全くの幻想だと分かりました。
私は、私達が「女らしさ」という言葉から解放されることは「女が機械性から人間性に目覚めること」だと思います。

それはつまり、「人形から人間に帰ること」を意味します。
もしこのことを古石頭が「女性の中性化」と呼ぶなら、私達はむしろそれを名誉に受けとめようじゃありませんか。
「女らしくない」という一語は、昔から、どれだけ女性の活動を圧制して来たか分かりません。
習慣というものは根強いもので、今でも「女らしくない」と言われると、一部の女性はヘビでも投げつけられたように恐縮してしまいます。
でも現代の女性の大多数は、もはや「女らしくない」という言葉なんて恐れない存在です。
それは、もっと恐ろしい言葉に通じることを彼女達が直感しているからかもしれません。

もっと恐ろしい言葉とは「人間らしくない」という言葉です。

「人間らしくない」とは、人間性の破滅を意味します。

私はそれが何よりも現代人にとって、恐ろしい結果であると思わずにはいられないのです。

おわり。
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いかがだったでしょうか。

時代を隔てているせいか、考え方の違いのせいか、与謝野さんのお話の中にはいくつか私の考えとは異なる部分もあります。

(「親になる欲求は人間に備わってるから、女性は完璧な母親になりたがるもの」とか「自由恋愛の時代になったら結婚したがらない男女は少ないはず」とか)

でも全体的な「自由を求める為の主張」は同感できますし、「人々が生殖を避けるようになったとしたら、それは女のせいじゃなく社会の仕組みが悪い」って部分なんて、現代を見透かされてるようで先見の明を感じます。

そしてなにより特筆すべきは与謝野さんの頭の柔らかさ!
特に「出産育児話は女限定の話題じゃないでしょ」とか「本人の好きなことやって生きていきたい人には、無理に結婚を押し付けなくたっていい」という考え方なんて、現代ですら出来ない人もいますもん。
固定観念がガチガチに固まってて、女性が「女の幸せは結婚」とか「結婚したらさっさと子供産まないと!」と言われるのが常の時代に、ちゃんとそれを「うぜぇ」と思う感覚があるのがすごいです。

そして、思うだけでなくそれを発信してたんですから、本当に頭が柔らかいのに心は強くて、まさにハイブリットな人です。

与謝野晶子・ハイブリット・晶子と呼びたい!

 

もし与謝野さんやその後の誰もが「女子解放運動」を起こさなければ、現代の私達の暮らしはもっと窮屈だったと思うので、ずっとこういう声をあげてきた方々に私は感謝してもしきれません。
ありがとう与謝野さん。


と言っても昨年の日本の男女平等ランキングは144国中114位で、まだまだ下から数えたほうが早く、先進国の中ではダントツ最下位です。(与謝野パイセンに会わせる顔がないですね…)

女性に対する性犯罪の被害も後を絶ちません。

さらに世界に、未だ家畜のように娘の婚姻をやりとりする常識だったり、誘拐婚のように女性の人権が全く無視された婚姻方法が残る国もある、ということにも私は胸が傷みます。

 

国際女性デーは昨日で108回を迎えました。

くしくも煩悩の数だけ年月を重ねた今、一人でも多くの方が、我が国や世界で不遇な状況に耐えている女性の身になって未来を考えることが出来ればいいなと思い、今日はこのような話を書きました。

 

与謝野晶子の原文ファンの方、勝手にすみません。

長々とお読み下さった方、ありがとうございます。


ではまた