限りなく透明に近いふつう

やさしい鬼です お菓子もあります お茶も沸かしてございます

男子座りション問題について本気出して考えてみた。

 

はじめに

こんにちは。

突然ですが、皆様のお宅でトイレ掃除はどなたの役目でしょうか?

一人暮らしの方のほとんどはご自分でされていることでしょうし、「うちはお父さん(夫)がやっている。」「当番制にしている。」「気が付いた人がやっている。」なんていうご家庭もあるでしょう。

しかし、やはり圧倒的に多いのは「お母さん(妻)がやってる。」というお宅ではないでしょうか。

実際、某製薬会社のアンケート調査によるとトイレ掃除をやる男女比率は「男性6割、女性9割」だそうです。

つまり、女性はほとんどの方が日常的にトイレ掃除をやるけど、男性は4割もトイレ掃除にノータッチの方がいるということなんですね。

この割合の差には少し驚きますが、まぁ考えてみれば、現状、家事全般を女性の役目としている家庭が多いので、トイレ掃除も当然そこに含まれるわけですから、当たり前といえば当たり前ですね。

「日本の男女の家事分担割合が偏ってる」ということは個人的に気になる点ではありますが、今日は本題が違うのでそこはとやかく言いません。(家事を分担するか、どう分担するか、というのは各家庭で良い具合がそれぞれ違うものですし)

ただ、このように「トイレ掃除が主に主婦の仕事になっている」という現状があるがゆえに、ここ数年巷でよく聞かれるようになった家庭問題の一つが、私は気になっています。

 それはずばり、「家庭内男子座りション問題」です。(名称が長いので今日は「座ション問題」と略します。)

これだけで何の話かピンとくる方もいると思いますが、まったく初耳の方のためにざっくり説明しますと、家庭内座りション問題というのは、家庭内でトイレ掃除を請け負う妻が「立ちションだと汚れて掃除が大変だから座ってして!」と夫に求めるも、夫は「男が座りションなんかできないよ!」と拒否したり、しぶしぶ承諾しても口だけで行動が伴わなかったりして、そのことが原因で夫婦が揉めてしまう状態のことです。

今日はこれについて思う事がたまってきたので書きたいと思います。

 

トイレクイックルのCMにモヤる

少し前、私はこういうツイートをしました。

 

これは、現在放送中のトイレクイックルのCMが流れ始めた当初の感想を述べた呟きでした。

このCMは主婦役の木佐さんの叫びからはじまって

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 「また立ったままやったな!?」と怒る木佐さんが振り返ると、夫と息子役の二人が「やっべえ」と萎縮して

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「ジャーン!拭くだけで、尿ハネが原因で発生する臭いを予防するよ!」という紹介説明が入った後、木佐さんが掃除をして

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 最後は綺麗になったトイレを見ながら木佐さんが「次からは!?」と言うと、夫と息子が「気を付けま~す」と言って、ちゃんちゃん、という感じに終るものです。

このCM、放送開始当初は今書いた内容で、私にとってツッコミどころ満載でした。

でもこのブログを書くのに日数がかかってるうちに最近流れているのを見たら、冒頭の「また立ったままやったな!?」のシーンがカットされて、その分ラストに「夫が床を拭くシーン」が追加されてました。

おそらくですが、立ちション派の男性からの「立ったままやって何が悪い」とか「いきなり怒られてるみたいで気分悪い」みたいなクレームが多かったんじゃないかと思います。(あと女性からの「男の尿ハネなんて自分で拭かせろや」って言う声も)

確かに、立ちション派の男性がこのCMを見たら「世間が立ちションをタブー扱いしはじめた印象」を受けるでしょうし、CM自体も「女に立ちションを禁じられた男達が、それに素直に従って一件落着」というストーリーですから、一部の男性はさぞ不快だったことと思います。

そして女である私も、このCMの当初のバージョンには全体的に「なんか違う」と思ってモヤモヤしていました。

どういうモヤモヤかというと、

なにこれ、「また立ったままやったな!?」と怒られるってことは「立ちションして怒られる家」という設定なの?なら、この家は基本全員が座りションルールなんだから「尿ハネ臭予防クイックル」の出番がさほど無い家ってことにならない?わざわざこのCMの為の架空家族がなんでそんなメインターゲットからズレた設定背負ってるの?

「これからは気を付けます」って言ってる男子は何に気を付けるつもりなの?「立ちションしないように気を付けます」なの?ならあんた達、この立ちション尿ハネ臭対策のクイックル要らなくない?それとも「汚したら拭いて出てくるように気を付けます」なの?なら、今汚れてる床を男子が拭かず木佐に拭かせるのはホワイなぜに?

っていう感じです。

この私のくどくどモヤモヤは、冒頭の「立ったままやったな!」→「また汚したまま出てきたな!」で、「妻が床を拭く」→「夫か息子が床を拭く」だったら解決するのに、と思ってたので、後からその二か所が変更になったバージョンを見て、「やはり人の思うところは一緒か」と思いました。

 また、私も一番「げっ」と引いたのは「立ったままやったな!?」のシーンなのですが、私の場合は男性とは違った意味でそこを嫌だと思いました。

私が嫌だと思った理由は、本来、人のションスタイルってものは、本人の自由であるべきだし、そこについて他人(家族といえど)が命令や指示する、っていうのは「人権侵害に値するレベルの理不尽な行為」だと思うからです。

だからそういうシーンをCMで堂々と流して「立ちションを叱る=市民権を得てる行為」みたいな印象になるべきではない気がしたんです。

でも私は、実在する「家で立ちション禁にしたり、それを破った家族の男子に怒る、世の主婦達」までも批判するつもりはありません。

というのは、周りの主婦の声を聞いていると、彼女たちはなにも一方的にそのような理不尽な要求をしてるわけじゃないんですよね。

あくまで、ほとんどの妻は夫がトイレ掃除の役割自体も引き受けないし、立ちション後に床が汚れてても拭かないから、終始自分が汚してないトイレの後始末ばかりさせられている。」という理不尽さを先に受けているからこそ、やむをえず「トイレを自分で拭かないならせめて立ちションをやめて」という注文を男性に出してる。

最初に相手が理不尽だから、こっちも多少理不尽な注文にならざるを得ない、というか。

「家事は妻の役目」で「トイレ掃除は家事に含まれる」ということが、いくら夫婦で合意してたとしても、毎日毎日自分のせいじゃない尿ハネ拭いて家じゅうの男子に「それが当たり前」って顔されてたら、妻は自分の自尊心が削り取られる感覚が湧くと思います。

特に夫の尿ハネなんて「子供のならまだしも、なんで大の大人の尿ハネを拭かされてんの私…」ってなるでしょう。

だから、各家庭が座ション問題に至るまでに、そういった事情やいきさつがあることを考慮すると、CMでそういったシーンが流布されることは責めるけど、各家庭に実在する「また立ったままやったな!」と怒る妻のことまで私は責める気にはならないのです。

でも、CMを見る人の中には、実際に各家庭にある事情を考慮できる人ばかりではないので、そういう人が木佐さんの演じる妻を見て「男性のションスタイルまで決めようとするただのヒステリーチックな鬼嫁」という部分だけを抽出して、一般的な主婦像を歪んで捉えたり、「ただでさえ、最近の女は偉そうなのに、男の立ちションまで否定しはじめたのか!」という思いを植え付けたりするのが私は嫌だと思ったのです。CMが無駄に男女の対抗意識に火をつけてる感じがして。

そもそもですね、周りの主婦の声を聞いていると、ほとんどの女性は立ちション行為そのものを「忌み嫌っていたり、否定したい」なんて思ってないんですよ。

私も含め、多くの主婦たちが男性のションスタイルに関してどう思っているかと言うと「無関心でいさせてくれよ」です。

ですから、座ション問題で怒ってるほとんどの女性も、べつに「立ちション行為そのもの」を否定したいわけじゃなくて、単に「尿ハネを自分で拭かないのに、立ちションをし続けるその精神」がイヤなだけなんです。

 なのに、このCMでは女性が「立ちションを嫌う、立ちションを許さない存在」って感じに描かれてるように見えるので、私は「そうじゃないんだよな……」という不快感を感じていました。

 

私は「トイレの清潔を保つにはどうしたらいいのか」という課題の解決には、本来ションスタイルは関係なく、「汚した人が後始末する」という極めて基本的な生活ルールを男女供に守ればいいだけのことだと思います。

でもその基本的なことを守らない夫のせいでションスタイルにまで口出しをさせられて、鬼嫁みたいに言われる主婦。基本的な事を守りさえすれば立ちションも思いのままにしていいのに、立ちション自体が「世の中的に禁じられた行為」と思わせられる男性。両方損してる感じ。

当初バージョンのCMは、そういった意味で「誰得なの?」な内容だったように思います。

 

私が座ション問題を気にする理由

で、長くなりましたがここまでは前置きです。

先ほども書いたように、そもそもトイレクイックルCMがこうなったのは、ここ数年の「座ション問題」に関する主婦の声を映像に反映させようとしたからだと思うんです。

確かにここ3.4年くらいの間に、自分の周りの主婦の方からこの話題が出るのを良く聞きますし、テレビやネットでも取り上げられるようになっていると思います。

実は当の我が家ではこの問題が起きてないのですが、私は巷でよくこの話が聞かれるようになってから、関心を持って見ています。

なぜなら、本来「汚した人が後始末する」というこんなシンプルなルールで解決することが夫婦で折り合いがつかず、そこかしこの家庭で問題化するということは、そこにやはり多くの家庭内で男女の力関係の差とか、男性の傲慢さが存在するように思うからです。

私は、家庭を円満に保つためには、「外で働いてお金を得る」とか「家事や育児をやる」という「夫婦それぞれが家の為にしてること」に対して、お互いに感謝し、その意を示しあっていく必要があると思うのですが、やはり「収入を支えている男性」が家で威張っていて、妻に感謝もしていないケースはよくあると思います。

さらにタチが悪いのは、収入面でさしたる差はないのに、なぜか「男だから」という無意味な理由を根拠に家で妻に威張っている男性。意味わかんないです。

そういう男性は、幼児でも守れる「自分で出したお道具は自分でしまいましょう」とか「自分がこぼしたお水は自分で拭きましょう」といったルールさえ家で守らずに妻にやらせますから、当然、自分が立ちションで飛び散らかした尿ハネを妻が拭き掃除することも「当たり前」と思っていることでしょう。

これが、一昔のように男女供に「女性が男性の後始末をすることが当たり前」という頭であれば、夫がいくら立ちションで汚そうが、妻は「汚すのはあなただからあなたが掃除をして」とか「掃除がいやなら、せめて汚れにくいように座りションにして」という注文をつけず、従順に掃除し続けるので衝突は起きません。

つまり夫婦で衝突が起きて、世の中に「座ション問題」が浮上するようになったのは、「ひたすら従順だった女性」の数が減り、「不満があれば声を上げる女性」が増えたことの証であり、時代が少しは進んだ証なのではないかと私は思うんです。

しかし進んだと言っても、まだ揉めている段階ですから、これからもっと時代が進み、「立ちションしたら自分で掃除するのが当たり前でしょ。」とか「掃除が妻の担当なら、座りションするのがマナーだよ。」と言う男性が増えてくると、今度は座ション問題は減ってゆく、という希望的観測を私はしています。

ようするに、座ション問題についての動向は、私がふだん関心を持っている「この国の男女同権の進歩具合や、家庭内の男女のパワーバランス」について変化が読み取れる指標、のように思えるので、私はそこに関心を持たずにいられないのです。

これからも見守っていこうと思います。

 

「男は座りションできない」のではなく「俺は座りションしたくない」だけ

 ところで、テレビで座ション問題を取り上げる時には、かならず「男の座りション!あなたはアリ?ナシ?」みたいなタイトルの街角インタビュー映像が流れますが、そこで私はだいたいいつも気になる人が現れます。それはこういう人です。

 

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 (2015年NHKためしてガッテンより。※モザイクは私がかけました。)

どの番組の街角インタビューでもこのような「男は座りションが出来ない生き物なんじゃい!」という主張をされる男性がなぜか一人はいます。

もちろん毎回同じ人ではなく年齢層は様々なので、おそらく「世の中にこういう男性が一定数いる」ということだと思いますが、私はこういう声を聞いて「はて?」と思います。

なぜなら、先ほど我が家には座ション問題が起きていないと書きましたが、その理由は私の夫は、結婚前に自ら「なんか立ちションってすごい周りに飛び散ってるらしいって聞いてから、立ってするのが気持ち悪くなっちゃって、座るようになったわ。」と言ってた人なので、誰が促すまでもなく座りション派だからです。

つまり、夫は男だけどすすんで座りションをする。だからそれを知ってる私にとって「男は座りションできひん」は事実ではないと分かるし、「いや、男ひとくくりにしないで」という感じなのです。まさしく主語がデカい案件。

私は彼らがそれぞれ「俺は座りションできないんすよ。」と言うなら、異論はないんです。「ああ、そういう人なんだな。そういう人もいるよな。」と思うだけなんです。

でも、テレビで見かける彼らは必ず「男は出来ない」という風に言うので、まるで「これは男の総意だから。女から見たら不満でも、男はそういうものだから。」という風に聞こえ、私はその語り口が「性別の壁があるから諦めてくれ」という主張を通そうとしているように思えてくるのです。

確かにこの世には「出産する役目」のように「性別の壁があってどうしても越えられない問題」というのは存在します。でも、なんでもかんでも問題を性別の壁のせいにして問題の本質から逃れて思考停止する性質の人は、男女どちらの場合でも私は好きではないです。

女性が「女だから」に逃げるのも嫌だし、男性が「男だから」に逃げるのも嫌ですが、私の主観ではこれまでの人生で男性が「男だから」に逃げる場面を見る方が圧倒的に多くありました。

座ション問題では、妻という一番身近な異性のパートナーが「日々不満を持っている」という問題が起きているのに、そこを解決しようとせずに「男は座れないんじゃ、諦めんかい」と言って「性別の壁で自分も思考停止、妻にもそれを強要」する男性は、パートナーとしての誠実さに欠けているように思います。

 もちろん持病があるとか、身体のなんらかの事情で「本当にどうしても座ションできない」という男性もいると思いますが、そういった特別な事情がない人の「座ションしない理由」はただ「妻が不満でも俺がそうしたいからいいんだ」という「おのれの意志のみ」だと思います。

それならいっそ、正直に「俺ってそういう人間なんだ」ということを背負って明かせばいいのに、それ言ったら批判されるのは分かってるから、代わりに「男」や「性別の壁」という一見太刀打ちできそうもないものをかざしてまで、おのれの体裁を繕おうとするその精神が、ズルくて卑怯で嫌。

一人が「男はそういうもんだ」で誤魔化す場面をテレビで流すと、私は、お茶の間で「ホラ、こういうもんだって他の人も言ってるじゃん」と、妻をねじ伏せる男性が後に続く気がします。

だからこういうインタビューの映像を見ると嫌な気持ちになり、「どうせ言うなら「男はできない」と言わず「俺はしたくない」と言えばいいのに」毎回思いながら観ています。

 

 「だって男だもん仕方ないじゃん」が、どれだけアホっぽい言い訳か。

さて、立ちション派男性に嫌がられるようなことを散々書いてきましたが、私は「そうは言っても立ちションしたいぜ。」とおっしゃる男性の気持ちも少しはわかります。

なぜなら、男性は排泄器がホース状なので「そりゃ立ったままやるほうがラクだろうな」というのは道理として分かるからです。

ラクだから古来から男性はごく自然に立ちションをするわけで、今の成人男性が子供の頃は、まだ男児に「座ってしなさいね」と教える親もさして居ませんし、ほとんどの成人男性は小さな頃から立ちション当たり前で育ってると思います。

それなのにわずかここ数年で「立ちションはダメ!」という新常識みたいな声が巷に出回ってきて、納得しきってないうちに、妻に「○○さんちの旦那さんは座ってするらしいよ。あなたもして」という言われ方をしたり、「立ちションは怒られる行為なんです」と言わんばかりのクイックルCMみたいなものを観たりしたら、そりゃ不愉快でしょうし、怒りたくもなりますよね。

私だってもし仮に、ここ数年の間に世の中に「女の座りションはダメ」という新常識が出回って、女が「座ったままやったな〜!」と怒られるCMが世に出たらきっと「は?知るかよ」ってなりますもん。

子供の頃から自他供に「OK」とされてきたものを、急に「NG」に振り分けるのは、自分が納得しなければ、なかなか出来る事ではないですから、人から押しつけられるのは本当に嫌だろうと思います。

しかしですね、近年、立ちションにおける尿ハネの数がデータで明かされて、もう世間的に「立ちションは1日2千滴の尿ハネになり、本当に汚い」ということが徐々に知られてきています。それを知った以上は、人として「立つなら拭く、拭かぬなら座る」を守るのがパートナーへの愛の証じゃないかと思うんです。

もし「床を拭くのも掃除の担当になるのもヤダ!立ちションも辞めない!」を通すなら、妻にそれそうとうの我慢を強いていることは自覚して欲しい。

妻が不満を抱いているのに、無視や適当にあしらい続ける、という態度はパートナーとしてどうかと思います。

ましてや、その反論が「だって、男だから仕方ないよ」とか「男だもん、立ちションするよ。」とかだと、言われた妻は本当に怒りを通り越して脱力します。

だって、納得できる言い訳ならまだしも、その言い訳アホっぽすぎるんですもん!

私は、この台詞を言ってしまう男性は、その言い訳のアホっぽさや頓珍漢さに「まだ気が付いてないだけなのでは?」と思います。

だって男性が全員バカなわけありませんから。単に上の世代の男性がいつも「だって男だもん。」を免罪符に使い「これ言うと、わりと女が諦めてくれる」という実例を観て育ったが故に、なんとなく自分もつい言ってるだけで、「その言い訳のアホっぽさ」に気が付いたら使わなくなる理知的な男性も大勢いると私は思うのです。

ですから、そういった方がそのアホっぽさ・言われた側のムカつきや脱力感が実感できるように、ひとつ置き換え話をしたいと思います。

どなた様も自分に置き換えてお読みください。

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あなたは共稼ぎ夫婦の夫で、世帯収入の割合は自分7、妻3くらいです。

家事の分担を妻と話し合った結果、自分3、妻7に落ち着き、この分担自体には特にお互い不満はありません。

洗面所の掃除はあなたの分担で、具体的な掃除の回数にルールは設けなかったものの「夫婦にとって綺麗な状態に保とうね」という暗黙の了解はある感じです。

さて、ある時あなたは洗面台の掃除をしていて気が付きます。

「うちの洗面台とか床って、いつもすげー髪の毛落ちてるな」

あ、書き忘れましたが、あなたはスキンヘッドで、妻は小雪ばりのサラサラヘアーです。

それでもあなたは新婚のうちは「小雪、髪長いからな~」と、さほど気にしませんでしたが、ある時、洗面所を使う妻の姿をなんとなーく見るともなしに眺めていると、妻の行動に「え…」と思う所がありました。

妻は、髪を乾かし丁寧にブラッシングをした後、そのまま洗面所を出てきたのです。

あなたがなぜ「え…」と思ったかというと、それまでてっきり「ブラッシングなどで、目の前で洗面台に落ちた分の髪の毛は妻が自分で拭っている。」と思っていたからです。

あなたはそれが、人として最低限のマナーだと思っていたのに、妻がそれをしていないことに少し引きました。

無意識に落ちる分の髪の毛は、洗面所の掃除担当が自分だからもちろん掃除をする気でいましたが「目の前に今落ちた分までこいつはそのままにしてたのか」と知ると、あなたはそこまで人にやらせる気でいる妻の神経を疑ってしまいました。

その夜、あなたは妻に言います。

「あのさ、洗面所で髪とかした後の髪の毛くらいは、自分で拭いてきてくんない?」

すると妻は言います。

「え、でも洗面所の掃除はそっちの担当でしょ?」

あなた「いや、そうなんだけど、全体的な基本の掃除はもちろん俺の仕事だけど、俺は髪の毛落ちないじゃん。小雪の分で常に洗面所が汚い状態になって、掃除がめっちゃ大変なんだから、せめてブラッシングの後その時に落ちた分くらい自分で掃除してよ。」

妻「えー洗面所掃除の役割じゃないのに、私がやるの不公平じゃないー?」

あなた「じゃあ、洗面所掃除自体をそっちの家事の何かと交換する?そんで自分の担当にしたら不公平じゃないでしょ。」

妻「嫌!洗面所は私イヤなの!」

あなた「じゃあ、掃除しないなら髪切ってよ。短ければまだ掃除が楽だから。」

妻「無理!」

あなた「なんで!?」

「だって女だもん。髪は女の命なのよ!」

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ハイ、今の感情どうですか?

小雪、アホっぽくないですか?

怒りを通りこして脱力しませんか?

その感情なんですよ。「男だもん、仕方ないじゃん」て言われた相手は。

私はこの夫婦の話をそのまま「洗面所→トイレ」「落とした髪→尿ハネ」「髪切ってよ→座りションしてよ」に置き換えたものが、座ション問題だと思うんです。

つまり「立ちションは男の尊厳じゃ!」みたいな言葉も「だって髪は女の命なのよ!」も、言われた相手にとって「おま、何言ってんの?」でしかない。

だって「座りションして」も「髪切って」も、そもそも素直に相手が「汚したら自分で後始末する」っていう人としての基本を実行してくれたら、こっちだって言う必要ないんですから、それ言わされて、それに対して「性別の壁を超えて意見しないで!」とキレられたって「そんな話じゃねーよ」なんです。

ようするに、相手の話の核である「汚した人が後始末する、という基本的な生活ルールやマナーを守れないあなただけど、ずっと一緒に暮らすんだから守ってくれないか?」という提案を「性別の壁」で遮断して、うやむやにしようとしてるだけなんですよ。

ホント、話それますが、不倫の話題とかでも「男だからしかたないんです!」とか開き直ってる人の場面みると「ちゃんと『俺は性欲の前では妻への思遣りなんてふっ飛ぶ理性の利かない人間なんです』って言えばいいのに」と思いますもん。

男という性別のせいにしないで、やるなら自分個人で背負え、って。

簡単に「男」を理由にして通ると思ってるのって、他のちゃんとしてる男にめちゃくちゃ失礼だと思いますし、話の通じない人間にしか見えなくなるからやめた方がいいと思いますよ。

私の稚拙な文章で全員に伝わるものではないと思いますが、そのことが分かる人がちょっとでも増えたらいいです。

 

さいごに

今回は、自分が当事者で困っていないのになぜ座ション問題について書いたかというと、やはり私は問題の根底にある家庭内での男女の力関係の差が気になるからです。

人によっては「威張ってるくらいの男性が好き」ということもあるでしょうが、それでも根拠なく威張ってる人と暮らすのって、最初は出来ても長期に渡るとストレスすごいと思うので、基本は対等関係から大きく外れないほうが良いと私は思います。

座ション問題の不満を話す主婦の方には「我ながらこんなことで夫婦喧嘩するの情けないわ。」とか「しょーもないことでイラついてる自分もちっちゃいんだけどね。」という言う方をする方も多く、私はそこに謙遜というか「こんなことで不満言っちゃいけない」という彼女たちの意識を感じていました。

私はその「これくらい我慢しなきゃね」と自らに課す精神には懐の深さを感じるし、美徳でもあると思いますが、でも同時にその精神がエスカレートしないように気を付けて欲しい気持ちも生まれます。

たかがトイレ掃除のことと言いますが、「自分の苦労が無いものにされてる感じ」とか「尿ハネすら自分で後始末しないのになにかと偉そうなパートナーの態度を見逃す」といった日常の中の小さな「なんかヤダ」は、やっぱり無視してはいけない心のサインだと思うんですよ。

確かに、夫婦はお互いに多少の欠点には目をつぶり、悪いところもある程度は「おたがいさま」の精神で許容しあう必要があると思いますが、「なんかヤダ」と思うってことは、すでに自分の中で「おたがいさま」の範囲を超えてるよ、っていうサインかもしれないんです。

そのサインを受けて、よく考えた結果に「どう考えても私の負担が大きくない?なんか尊重されてなくない?」という結論に達したら、それがどんな些細な内容でも声に出すことも必要だと思います。それには勇気がいるけど、その勇気は自分を守るためだから、そこは頑張ってほしい。

「我慢」と「勇気出して抗議する」は、我慢の方が全然楽な選択肢に見えるから、ついやりがちだけど、我慢の副作用はじわじわ来て、ヤスリでちびち削るようなやりかたで、自尊心が減っていくんです。

「殴る蹴る」といった分かりやすい暴力は、心にドリルで穴を掘られるような破壊力ですが、ヤスリで何十年もちびちび削り取られることの破壊力だって、最後に「壊される」という点では同じなんですから、「ちっちゃいこと」と自分に言い聞かせて無理な範囲の我慢までしないで欲しい。

でも座ション問題については「こんなくだらないことで…」と引っ込めてしまう主婦が多そうなので、私は「このテーマでこまでマジになんか言ってる人もいるよ。くだらなくないよ。我慢しすぎないでね。」という意味で書いてみました。

座ション問題に悩むご家庭が、少しでも減っていくことを願ってます。

 

ではまた。

 

 PS,私ごとで別に書かなくてもいいんですけど、来月からぼちぼち介護職に戻ろうと思います。更新頻度は変わらないか、増えるのを目指してます。まぁ基本スローペースなのですが、今後もよろしくお願いします。

 

 

宗教にまつわる雑多な話

 

「政治と宗教の話は利用者さんとしないこと。」

これは、ヘルパーの資格を取る教育課程で先生に言われた台詞。

その後、実習先でも勤務先でも最初に同じことを言われて、最初は「なんでだろう?」と微かに思った。

でも確かに、もし政治と宗教の話で人と意見がぶつかってしまった場合、それは他の話題で意見がぶつかってしまった時より、「取り返しのつかないことになるような感じがする」というのは直感で感じた。

だから「トラブル回避のため、そういうことになってるんだな」という理解で、その時は落ち着いた。

政治の話は今回置いといて、宗教の話というのは確かに自分の身の回りでも「声を潜めてする話」という暗黙の了解があるような気はする。

私はこれまでも職場で「ねぇ、○○さんって学会員らしいんだけど、知ってた?」というような、ひそひそ話をされたことが数回ある。いずれも違う人に。

「学会員」というのは「創価学会」という宗教団体の信者を指す言葉だ。

つまり、人が「誰かが創価学会の信者かもしれない」という話を職場でもちかけてくる時、それは必ず内緒話として、された。

私が「さぁ?気になるなら本人に聞けばいいじゃないですか?」と答えると、どの人も「ぃやーだ!聞けるわけないじゃん!!」というようなリアクションだった。

その「ぃやーだ!」は、援助交際の噂がある女子高生に直接『エンコ―してるの?』なんて聞けるわけないじゃん」と同じ意味の「ぃやーだ!聞けるわけないじゃん!」だと思う。

つまり、ふつうの人にとって創価学会の信者である=大声で言えない、うしろめたいことをしてる人」とされている印象を受ける。

でも創価学会の信者数はとても多い。

実際、だいぶ仲良くなった友人に後から「実は、信仰心はないけど3世なんだ。」と言われたこともあるし、日本人の10人に1人はそうだと聞くし、スポンサーが創価学会のCMだってしょっちゅう流れているし、政党だってある。

だから「創価学会という大きな宗教団体があって、日本にもたくさん信者がいる」というのは、もはや周知の事実だと思う。

それなのに、多くの信者は身を潜めていて、職場では魔女狩りのように「あの人、もしかしてそうじゃない?」なんてひそひそ話の対象にされているのだ。

私はずっと前からこの現象に「なんか変なの」と思っている。

いや、別に「学会員もみんな堂々とすりゃいいのに」と言いたいわけではないよ。

ただ、信者一人一人が隠しているような宗教なら、団体自体もひっそりと活動してそうなのに、そうではなく、「名も知れた大きな団体で活動も隠してないわりに、信者は忍者のように(駄洒落になってしまった)身を潜めている」というそのアンバランスさに「なんか変なの」と思うだけだ。

しかもこれを「なんか変」と言う事すらタブーのような空気を感じるので、私はこれまでこのことを人に言ったこともない。

でも「世の中に私と同じように思ってる人は少なくないんじゃないかな」と思う。

(私が特別に特殊な発想をする人間ではないと思うので、私が思うようなことは、すでに何万人も思ってるはずだから。)

*********

 

んで、今回なんでこのようなことを書いてるかというと、お察しの通り、テレビが清水富美加さんの話題で持ちきりだからだ。

今週はテレビを見ているだけで、なんとなく自分の中でこれまで保留にしてきた「宗教に対する姿勢」について、よく考えてしまった。

今回私は別に清水さんの擁護や批判をしたいわけでもないし、なにか問題提起をしたいわけでもないんだけど、なんというか、色んな報道や人々のリアクションを見てると「宗教」にまつわる、たくさんの疑問が浮かんできたので、忘れないように書いとこうと思ったから書いてる。

 

清水富美加さんの出家引退がここまでメディアで大騒ぎになるのは

・彼女が「仕事をほっぽり出したこと」が最大原因なのか?

・だとしたら、もし事務所ときちんと折り合った上で辞めてからの出家宣言ならここまで批判されなくて済んだのか?

・彼女が信仰しているのが、「幸福の科学」だということが最大原因なのか?

・だとしたら「仏教に目覚めたから尼になります」だったら、応援されるんだろうか?

そんなような疑問がいくつも浮かんでくる。

でも、いくら考えたって答えが出やしない。

答えが出ない理由は簡単で、それは私が「これまで生きてきて漠然と宗教に関する話題を避けたり、あまり深く考えないようにしてきたから」だと思う。

自分の頭の中にある百科事典の「愛」とか「人生」とか「戦争」とかのページには、それなりにこれまで生きてきた中で見聞きしたり、考えたりした内容が載っているのに、「宗教」のページだけは、わざと編集してこなかった感じ。

 

過去、私にも宗教関連のエピソードはいくつもあった。

オウム真理教の事件はリアルタイムで見ていたし、架空のカルト集団を描いた山本直樹の漫画「ビリーバーズ」も読んだし、友人が実は学会員だったこともあったし、母が近所の人が入ってる宗教の集まりに来ないかと何度も誘われてるし、神社に初詣は行くし、我が家のポストには毎月エホバの証人が薄い冊子を差し込んでくる。

冒頭に書いた「政治と宗教の話は利用者さんとしないこと」の件もそうだ。

そういう風に「宗教」にまわつわる事柄は、本当は私のすぐそばにいつも存在していたのに、私はいつも「触らないに限る」という箱に入れて、心の隅に放置してきた。

だから、今更その整理されていない箱を覗いても「なにがどうなってんのやら」となるのはあたり前なのだ。

さきほど挙げた疑問を解くには、もっと自分の中の宗教観をまとめあげたり、世の中ももっといろんな人の宗教観が気軽に話題にされたりしないと、いけないんだろうなとは思う。

でも、「政治と宗教の話題は気軽にできない」というのも事実だから、なかなかそれも叶わないのかなとも思う。

*********

 

ところで、私は今回の清水さんの件で「目を覚ましてふみカス!」みたいな声を観て、これを言う人は自分の中の宗教観がちゃんとあって、ふみカスの出家を止めてるのかなぁ?とちょっと思った。

どういうことかというと、

例えば、熱心なクリスチャンや瀬戸内寂聴が「目を覚まして、その神は間違ってる!」とふみカスを止めるのは分かる。

「自分の信仰している宗教に比べて、歴史も浅く、金の匂いもすごいする。そんなのは金儲け集団だ。操られてるだけだ。」みたいにハッキリと「止める理由」がそこにはあるから。

または、無宗教でも「過去になんらかの宗教活動に関わって嫌な思いをして、もう宗教自体に関わらないと決めた」という「覚悟あっての無宗教」の人が、その経験を理由に「ふみカスに同じ経験して欲しくない!」と止めるのもわかる。

でも、私みたいに「なんとなく宗教には関わらないようにしてきた故の無宗教」の人(日本人にはとても多いはず)が、止めようとするのって、私だったら「我ながら効力なさそうだな」と思う。

なぜそう思うかというと、どんな宗教でもそうだけど「ある特定の宗教に目覚めちゃった人」から見たら、「神社に初詣にも行き、寺にお参りも行き、クリスマスは祝い、十字架のアクセサリーも付ける」を全部同時進行でやってしまう、無宗教な日本人のほうが「寝ぼけているように思えるんじゃないか」と思うから。

以前なにかの番組(バラエティーだったか、ドキュメントだったか忘れたが)の、外国でのロケで「これからちょっと危険な目に遭うかもよ」という場面で外国人男性のガイドが、日本人のタレントだかディレクターに「お前の神に祈ってな!」みたいに言って、タレントだかが「ノーゴッド(そんなの居ない)」と返事をしたら、そのガイドがものすごく驚いて「マジか?それでお前、生きてこれたのか!?信じられないぜ!」と言ってたんだけど、ようは、「神がいて当たり前」の人から見たら「神を信じてない人間」のほうが、「あたま大丈夫かお前?」ってことなんだと思う。

清水富美加みたいにもう「大川隆法が私の神」と決定して、自分の中の宗教観がガッチリ成立した人は、私のように「心の中で放置してる箱」が無い状態で、そういう人の宗教観はブレない強さを持ち、無敵状態といえる

そんなふみカスに「目を覚まして」と言ったところで、逆にふみカスに「じゃあ何の宗教だったら反対しないの?」とか言われたら、多分私だったら言い返す言葉がない。

この時点で私の一発KO負け。

自分の「宗教観の箱」を探せば、なんか言い返せる材料があるかもしれないけど、今まで整理してこなかったから、そんなすぐ出ないだろう。

だから言うとしても「そんなうさんくさい宗教やめなよ」みたいなぼんやりした反対意見しか言えないだろうし、そんなの開眼したふみカスには響かないと思うから、私は「ふみカスの心がこれで安定してるなら仕方ない」と思ってしまう。

なので、自分が無宗教でも「目を覚まして!」と止める人は、よっぽどそういう理屈抜きで、清水さんを思って言わずにいられないのかもしれない。

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話がまとまらない。

とりあえず、あと思ったことは、多くの無宗教の人にとって、もし身近な人がある日突然「私、○○教に入りたい」と言い出したら、それは必ずしも「やめな!」と言うべき事態なんだろうか?

ということ。

オウム真理教の事件以降、日本では「新興宗教の信者=ヤバいやつ」 みたいな扱いが普通となっているように思うけど、宗教というのは本来、人の心の安定にすごく一役買っているものだと思う。

無宗教の私がこれを実感したのは、親友のある言葉だった。

親友(仮にAちゃんとする)のお母さんは何十年も、とある宗教(三大宗教ではない)の信者だった。

学生時代からしょっちゅうAちゃんの家に遊びに行っていた私は、Aちゃん母の人柄が性に合っていて、Aちゃん抜きでもよくおしゃべりをした。

A母は一度もその宗教に誘ってきたことはないし、彼女の家でもそのお母さん以外はその宗教を信仰していなかった。

A母がその宗教活動をしていても、別に家計を圧迫するような出費もしていなかったそうだし、月に数回集まりに行くだけだったので、父親だけは最後まで良くは思っていなかったものの、Aちゃんは「もうこれが母だし」という感じでさほど関知していなかった。

で、そんなA母は、だいぶ前に大病を患い、長きにわたる闘病生活を経て昨年亡くなったのだけど、ずっと介護していたAちゃんは、お母さんが亡くなる直前こんなことを言っていたのだ。

「お母さんさ、医者にあと3か月って宣告されても、安らかなんだよ。ふつう、自分があと数か月で死ぬって分かったら、怖いとか気弱になったりするじゃん。

あの人、その時期が無かったの。『神様の世界はどんなかしら~、楽しみだわ~』って、それだけ。子供の前だけ心配させないように、そう装ってるんじゃなくて、あれは本心だと思う。私、宗教って、この為にあるのかなって思ったわ。」

 

これを聞いたあと、私は亡くなる1か月前のA母にお見舞いに行ったのだけど、Aちゃんの言ってたのは本当だと思った。

A母は、ガリガリに痩せていたけどケロリとしていて、無理に明るくしているわけでもなく、悲壮感もなく、本当に昔から安定のA母のままだった。

私はこの時、ああ、何らかのカミサマを信じることで、こんなに心が強くあり続けられるなら「宗教」って人を救ってくれるものなんだな、としみじみ思った。

だからといって、私はA母の入っていた宗教に入りたいと思うわけではないけど、「宗教」と聞くだけで「悪いこと、ヤバいこと、転落人生、洗脳」と、マイナスイメージが先行していた自分は、少し偏っていたのかもな。と思うようになった。

 

そしてこの偏りが、行き過ぎると宗教差別に繋がるのかな、と思った。

イスラム教の信者が、アメリカで迫害されるのは、一部の過激な思想の人が悪事を行うからであって、イスラム教徒が全員悪人なわけではないから、ひどいことだと思う。

自分の知らない宗教について、人は不信感を抱いてしまうものなのかもしれないけど、「なにか私の知らない宗教を信仰している」という一部分だけでその人の中身を全部判断するのは偏見だと思う。

私は、自分が普段接している人がたとえどんな宗教を信仰していようと、変に私を引きずり込もうとしてきたりしないのであれば、付き合いはやめようと思わないし、「その人がその宗教を信仰する」ということはちゃんと尊重したいと思う。

その人が自分のカミサマを信じることで、心が安定できて、穏やかに生きやすいのだったら、何も信仰しないで悩み事で自殺したり、自暴自棄になって犯罪を犯したりするよりは、良いような気がする。

 信仰の自由は、人権に含まれているから、私の「信仰しない自由」を守ってくれる相手ならば、こちらも相手の「信仰する自由」を守って、フェアでありたいという感じ。

でももちろん、世の中には信者がお金をむしりとられたり、壺を買わされたり、交友関係を制限されたり、それまでの生活を土台から壊さないといけなかったりする、本当に悪い宗教もある。

家族や大切な人がもしそういう明らかに実害がある宗教に入りたいと言ったら、縁をかけて止めるだろうけど、そうじゃなかったら、とりあえず話は聞くと思う。

たぶん「意味がわからない、やめて」とは言わない。

なんとなく、それは差別っぽいから。

それまでの人生で何も信じずに生きてこれた人が、何かのカミサマを信じたくなる事態というのは、その人の精神が極端に弱っている時の可能性が高いから、大事な人なら、とりあえずカミサマ云々は抜きにして、身の回りの事情を聴きたいと思う。

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それにしても、今回、「宗教と日本人の関係」というのはつくづく不思議なもんだなと思った。

幸福の科学大川隆法が、いろんな故人や偉人の霊や清水富美加の守護霊をおろしてしゃべる内容を本にしている」のは、うさんくさくいインチキ宗教家扱いなのに、三輪明宏が「あなたの守護霊、とても強いわね」と言うのはテレビで流すし、言われたタレントも「うわぁ、そうなんですか」と喜んでたりする。

別に幸福の科学の肩を持つわけではないけど、「守護霊がどうの」が、片方では「これが出たらヤバい認定ワード」なのに、片方では「ありがたいお言葉扱い」になるという、その統一感の無さが私は気持ち悪い。

「守護霊」や「精神世界」や「前世」や「カルマ」といったスピリチュアルワードも、発する人間によって、即座に嫌悪したり、逆にありがたがったりする、その統一感のなさ、とか境界線のあいまいさが気持ち悪い。

そういうあいまいでゆるゆるなところが放置されていることからみても、多くの日本人の「神様を信じてるのか、信じてないのか」の部分は、すごくふわふわ。(私も含めてだけど)

最近は、世界の多くの戦争や紛争は、宗教の対立が基で勃発することが多いから、日本人のこの「ゆる~い宗教観は逆に見習うべき」とされている、という話を聞くし、確かにそれは一理ある。

でも、無宗教でゆる~い宗教観の日本人は、ただそのままでいればいいかというと、私はちょっとそれも危険だと思っていて、ゆるいなりに、一人一人がもうちょっと自分の宗教観とある程度向き合ったほうがいいのかなと思う。

そうじゃないと、もしもすごく危ない思想を持った宗教に目をつけられた時に、あんまりにも宗教に関する部分の知識や見解が赤ちゃんのようにまっさらだったら、それが見抜けない気がするから。

「かつてのオウム真理教は、東大の合格発表の日に門の前で張っていて、今落第したばかりの学生を勧誘する」という話を聞いたことがある。

これはすごく巧妙な手口だ。

すごくショックな事が起きて、それまで築き上げてきたものが崩れた時に、人は脆くなって支えが欲しくなるから、その瞬間を狙ってくる宗教団体はゴマンとあると思う。

人生には、失恋や失業や家族の死や自分の病気など、ガクっとなる瞬間が誰でも訪れるものだから、無宗教の人は特にそういう時にカモにされる。

カモにされない為には、宗教に関してある程度の知識や自分なりの線引きが常日頃から必要なんじゃないかと思ってる。

 

清水さんの今後がどうなるかは分からないし、迷惑がかかっている仕事関係者は可哀想だと思うけど、彼女がもし「死ぬかこうするか」の二択でこっちを選んだのだとしたら、とりあえず「死ななくて良かった」とは思う。

 

今の私の宗教観をゆるいなりになんとか形にしたおぼろ豆腐のような話になってしまいました。

ほんとうにまとまらない内容ですいません。

こういう話題を軽く出さないほうがいいのか、出してもいいのか、その判断すら迷ったけど、同じ気持ちの人がいて、読んでスッキリすることがあるかもしれないと思ったので公開します。

ではまた。

 

2月18日追記

心の安定の他にも宗教の良い点を思いついたので書く。

心の中になんらかのカミサマを置くこと」は、自分が悪いことをしそうな時にブレーキをかけてくれる役割もあると思う。

昔の人って、子供によく「お天道様が観てるよ。悪いことしたらバレるんだよ。」とか言ってたけど、あれって「たとえおまえが1人の時でも、おまえの行動を観てる存在はいるよ。」と釘を刺すことで、子供の自制心を育てようとしてたんだと思う。

 

コントとかで、よく道で1人で財布を拾った時に、天使の自分が「交番に届けるのよ!」と言って、悪魔の自分が「ネコババしちまえよ!」って言って、葛藤する場面があるけど、ああいう時の「天使」になる存在が、人によっては自分のカミサマなんだと思う。

それは単に「良心」と言い換えることが出来るのかもしれないけど、すごくストレスがたまってたり怒ってたりすると、ただの良心は、所詮自分のものだから、ぞんざいに扱ってしまうことがある。

人間は、そうやって良心が隠れた時に悪い事をするんじゃないかと思う。

だから、自分以外のカミサマみたいな存在に「見守られる」とか「監視されてる」っていう感覚があると、良心ひとつで自制心を操るよりも、ラクなのかもしれない。

だから、宗教を信じることで、自制心が強く持てて、それが結果的に「悪の道に進まずにいられた」となるなら、それは宗教の素晴らしいところだと思う。

 

 

 

 

奇妙なカップルになりたくない

 

先日、夫と小旅行に行ってきました。

行先はどことは言いませんが日本を代表する温泉街です。

夕食付きのホテルではなかったので、夜「何食べようか」とネットで調べてたら、近くに良い回転寿司屋さんがあるっぽいのでそこへ行くことにしました。

時刻は夜の8時ごろ、人気店らしく5組ほどの客が入口のベンチで待っていました。

「へぇ、夕食時を外してきたのに待ってるもんだなぁ」と思いながら店内を見ると、なるほど人気の理由も分かる気がします。

そのお店は回転寿司とは言いつつも、「みょうにお洒落」なんです。

どういうことかというと、まずふつうの回転寿司屋というものは酢飯のにおいがたちこめ、蛍光灯の煌々とした明るさのもとレーンに乗った皿が回っているものですよね。

家庭用流しそうめんマシンを見るとなぜか「ハハハ」と笑えるのと同じ道理で、私は「食べ物が回る」という事態が、どこか間抜けに見えます。だからその時点で回転寿司屋という空間の「おしゃれ指数」は「おもしろ指数」に負けてます。

さらに、ふつうの回転寿司屋で『活き〆カンパチ』を注文すると、ねじりハチマキ姿の板さんに「ぃよっ!カンパチいっちょぉーう!」「カンパチ入りゃああーす!」と必要以上の雄叫びを上げられ、こっちは「あの…食べるネタをいちいちバラさないで…なんか恥ずかしいから…」みたいになります。その気恥ずかしさは、いちいち同行者と何の会話をしてたか忘れさせ、まともな話なんかゆっくりできたもんじゃないです。

おそらくふつうの回転寿司屋がプロデュースしたいのは「お祭りわっしょい空間」なので、その雄叫びもしかるべき演出なわけで、ようするに店側だって店内空間のおしゃれ指数なんかさほど気にしてないってことです。

もちろんそれでいい。客だってほとんどの人は回転寿司屋におしゃれ感は求めてないのだから。

簡単に言うと「イタリアンレストランでプロポーズしようとする人は沢山いるだろうが、回転寿司屋でプロポーズしようという人はほとんどいない」ってことですかね。

回転寿司屋というのはそういう場所だと私は思うし、世の中の人もたいていそう位置付けしてるものだと思います。

が。

その店は違った。

まず外観がかなりオシャレで、こじんまりとしたカフェにしか見えませんでした。(あまりにカフェっぽいので、ナビが「目的地周辺です」と言うのに私らは「嘘つけ、カフェしかないじゃん」と一回通り過ぎてしまったほど。回転寿司屋の記号である、のぼり旗も無い。)

店内も茶色い木製の壁にかかった黒板にチョークで書かれた手書きメニュー、灯りはすべて間接照明で、姫野カオルコ氏の言葉を借りて言うと「『敵機の襲来を恐れているのか?』というくらい暗い。」だったし、店員はねじりハチマキなどせずに、ラーメンズの衣装のごとく上下黒のシャツとズボンに黒のギャルソンエプロンをしていました。

これだけでも「おっしゃれー」なんですが、さらに決定的なのは、レーンが止まっているんです。食べ物が回ってないから空間が間抜けになってない!

「じゃあなんであるんだ?」という疑問は浮かびましたが、とにかく真ん中にあるU字型のレーンは回っておらず、客席から見える場所には板前もおらず、注文は紙に書いてラーメンズに渡し、ラーメンズがそっと席まで持ってきて給仕してくれるスタイルだっったのです。もちろんラーメンズは何を注文しても雄叫びを上げない。助かる!

私は「回転寿司屋はおしゃれじゃない」という常識を覆す、こんなムーディでお洒落な回転寿司屋(正確には回転してないんだけど)の店は初めてだったので、「ほぅ」と感心しました。冒頭に書いた「人気の理由に納得した」というのはこういうことです。

おそらくその店は、地元でも「ムーディな回転寿司屋」で評判なのでしょう、時間帯のせいもあったとは思いますが、客層がファミリーよりデートカップルのほうが割合が多かったように思います。

そこで私は1組の奇妙なカップルの姿を見ました。

彼らは私達の前に待っていて、なんとなく漏れ聞こえる会話を聞く限りどうもまだ本格的に交際している仲ではない様子でした。

女性は会話中に「単位」や「ゼミ」といった単語を出すことから女子大生かと思われます。

茶色くゆるふわな髪を後ろでくるりんぱして金色のバレッタで留めて、白のニットとプリーツスカートを着てて、ギャルでもなく地味でもなく、一言で形容するなら「MARYが見れなくなっちゃってさみし~(>_<)」みたいな子です。

男性のほうは彼女に比べずいぶんと年上に見えました。

痩身で背が高い方だったのでパッと見は、べつに「おじさんと若い女の子」には見えなかったものの、頭髪がやや薄いのと肌の感じや服装から判断して私より少し年上、おそらく39、40歳かと思いました。アンガールズ田中に少しだけ似てました。

年齢だけで言ったら「おじさんと若い子」のカップルです。

2人の会話はあまり弾んでおらず、女の子(以下メリーちゃんと称す)がはじめ大学の勉強についての話をした後は、さして実のある話はしていませんでした。

時々沈黙に耐え切れないメリーちゃんが「雨降らなくてよかったですね」とか「今日、外あったかいですね」とか言うものの、田中は「そうだね」とか「昨日は寒かったけどね」とか返事をして終わり。

でも田中はかなり頻繁にメリーちゃんの横顔をチラ見することから判断して「好きだけどうまく話せない」的なやつで、2人で会うのはまだ初回か二回目くらいといった所でしょうか。

で、この2人のどこが奇妙だったかと言うと、店に入ってからのことです。

私も終始彼らに注目していたわけではないので、カウンターの隣同士になったものの、初めは特に彼らのことを気にも留めてませんでした。

しかし食事中盤、ラーメンズが私の隣のメリーちゃんの前に給仕した大トロ4カンの見た目のインパクトが強すぎて、思わず私は彼らのカウンターに注視してしまいました。

そしてその時、彼らの前には「高級ランクの皿だけが積み上がっている」ということに気が付いたのです。「わ、」と思いました。

そのお店はネタのお値段が130円、200円、260円、300円、500円の5段階設定だったのですが、メリーちゃんと田中の前には260円以上の皿しかなかったんです。

こういう時心の中で「わ、」となりますよね、え、なりません?私はなります。「わ、」て。

でも別にそこが奇妙要素なんではなくて、私が「あれ?」と思ったのは彼らの注文の決め方なんです。

その店のメニューはこんな感じだったのですが

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大トロをもぐもぐしているメリーちゃんの横で田中が「次なんにする?」と見せているメニューは②と③のページだけなんです。安い130円200円のネタが載ってる①のページは折り返して裏にしてて見えない状態なんですね。

その段階では私はその事を別に何も思わなかったのですが、メリーちゃんがメニューを自分で観たそうに「んー」と手を伸ばすと、なぜか田中はメニューを手放さないんですよ。

その時、私は初めて「あれ?」と思いました。

まるで田中が「ここから選んで」と無言の圧力をかけている感じがしたんです。

メリーちゃんもそれを感じるのか、まだ我が出せる関係性ではないのか、出した手をひっこめて高級ネタの中から「じゃあ、ヒラメを…」と言って、田中は嬉しそうに「ヒラメね」と注文用紙に書いていました。

この光景、一度だけなら気にならなかったのですが、その後何度もあって、ここまで毎回メリーちゃんの伸ばした手を無視する田中に対し、私は「なぜ?」と気になってしまいました。

そんな感じで少しだけ2人のことを気にしながら食事をしていると、決定的に「あ、田中わざとやってるんだ!」と思う場面があったのです。

それは私が玉子焼きを食べた時の事。

その店の玉子焼きがすごく美味しかったんで、私、思わずわりと大きめな声で「うわーおいひー」と言っちゃったんですね。

そしたら、メリーちゃんがそれに反応してチラ見されて、たぶんメリーちゃんも玉子を食べたくなったんだと思うんですよ。

そこにちょうど田中が「次、どれ?」とメリーちゃんにメニューを見せてきたんですけど、玉子ってたいてい寿司ネタで一番安いじゃないですか。

だからメリーちゃんも裏面になってる安ネタのページを見ようとして、かつてない力強さでメニューを掴もうとしたんですね。

そしたら田中、グッと自分のほうにメニューを引き寄せてメリーちゃんにメニューを渡さないんですよ!

その瞬間、メリ―ちゃんと私、多分同じこと思いましたよね。

「なぜだ、田中!?」

しかしメリーちゃん、ここで初めて我を貫きました。

再度メニューに手を伸ばしながら「あの、玉子が…」と「玉子が食べたい意志」を口に出したんです。

しかしそれに対してなんと田中はフッと笑って「遠慮しないで、ここから選びなよ」と言い、メニューをメリーちゃんから死守したのです!

またもメリーちゃんと私の心はシンクロしてたと思います。

「なんなんだ田中!?」

それでもメリーちゃんは大人しい性格なのか、奢られる事が決まっていてその引け目なのか「あ、はい…」と玉子を諦め、他のものを注文していました。

 

この光景を見た時、私はふと自分の過去の記憶が頭に浮かびました。

それは、若い頃に歯科助手をしていた時のことです。

私の勤めていた歯科医院は基本、院長(30代男性)とその奥様(20代女性)と私、の3人しかスタッフが居なかったのですが、院長夫妻は私の事をとても可愛がって下さり、3ヶ月に一回くらい良い御飯に連れてってくれました。

その時、いつも「なんでも好きなの頼みなよ」状態だったのですが、院長は「好きなの頼みなよ」と言いつつ、実際は私が好きなものを頼むことが出来なかったんですよ。

なぜかというと、院長は高いものしか頼まさせてくれなかったんです。

何かのコースで「松・竹・梅」と3段階あるとしますよね。私が「梅か竹がいいな~」と思いながらそのあたりのメニュー詳細を見てると、院長が「なーに遠慮してんの!松にしなさい!」とニッコ二コで言ってきます。

そしてその笑顔からは、なにか無言の圧力を感じます。

まぁ「上司ってそういうものだよな」ですし、奢ってもらう人が奢ってくれる人の「気分を接待する」っていうのは大人のマナーかなと思っているので、もう「奢られる前提」で一緒に店に行ってる限り、私は院長に従ってたんですよね。

私が「へへ、じゃあ松でお願いします。」と言うと「そうそう、初めからそう言いなさい^^」と満足気な院長。

こうした場面を振り返ると、院長達との食事は、表面的には「今日は日頃の慰労もかねて美味しいものを食べて親睦を深めよう」という建前がありつつも、水面下には「私の食事代」と「院長の満足感」の交換会みたいな部分があったんだな、と思います。

でも、こういうのは仕事関係の相手となら、避けて通れない道だとは思いますし、私も沢山ご馳走されて良い目を見てますから、別にいいんです。

ただ、プライベートな男女関係で食事をしている時にそういった部分があると、私はゾワっとしてしまいます。

なんで、ゾワっとするかという説明に、田中とメリーちゃんの関係を使わせてもらいますね。(二人の考えが私の想像通りだったと仮定して)

ぶっちゃけ、田中がしているメリーちゃんへの「おもてなし」は、ズレてると思うんですよ。

田中はメリーちゃんに対して「好き」なのか「今夜キメたい」なのか、その両方かは分かりませんが、とにかくメリーちゃんにお寿司を奢ることで自分の好意を示す、おもてなし中なわけです。

「食事を奢る」というおもてなしは、好意と経済力が同時に示せるし、好きな人がなんか食べてる所を見るのは楽しいので、みんなよくやると思います。

私はそれ自体は別に悪いこととは思いませんが、田中がズレてるのは、その「奢る=おもてなし」のクオリティを高めることに集中するあまり、肝心の「メリーちゃんの意志」をないがしろにしているところです。

田中がその夜「高級寿司ネタだけを遠慮なく頼ませてあげる俺の経済力、気前の良さ、優しさでメリーちゃんをメロメロにしよう」といくら頑張ってたとしても、私がメリーちゃんの立場なら、感想は「玉子食わせろ」なんですよ。

「玉子が食べたい」というメリーちゃんの意志を鼻で笑い、メニューを渡さない田中。

つまり田中はメリーちゃんの意志より、自分の「メリーちゃんに高い寿司を食べさせたい意志」のほうを尊重しちゃってるんです。

田中は「今日はだいぶ良いものばかりご馳走したし、大人の魅力を見せられたな」と満足かもしれないけど、メリーちゃんが帰り道「玉子食べたかったなー」と思うかもしれないことに思い及ばない。

田中はそこがズレてると思う。

メリーちゃんが好きなら、メリーちゃんにメニューを渡すんだ田中!

メリーちゃんに選択の自由を!

あなたはメリーちゃんをもてなしてるつもりでも、それは自分の「メリーちゃんに気持ち良く奢りたい欲」を満たしてるだけなんだよ…!!

そこに気が付かない限り、メリーちゃんは心もお股も開かないよ…田中!

 

なんの話でしたっけ。

ああ、私がこういうのにゾワっとする理由ですよね。

それはたぶん私はこういう奢り方をする人からは「自分が道具にされてる感」を感じるからだと思います。

どういうことかと言うと、プライベートなのに、こういう時にもうひと押し「遠慮じゃなくて、素で玉子食べたいんでメニュー見せてくださいよ。」と言えない女の子って、多分「アレ」が怖いんだと思うんですよ。

「アレ」とは何かと言うと、昔飲み屋で働いてる時に何回か遭ったことがあるんですが、「金持ってます」な男性が「なんでも頼めやー」をしてきた時に、こっちが素で好きなメニューを言ったら「なんだそんな安いの頼んで!俺を馬鹿にしてるのか!?」って怒られるやつ。

過去に私は奢ってくれる男性が、こんな風に激高はしないまでも、ちょっとこれと同じ空気を出してくることが実体験としてありました。

仮にその男性をAさんとします。

私は牛肉より鶏が好きなので焼肉屋で鶏を多めに頼もうとしたら、Aさんは「もっと好きなの頼んでよ、なんか俺のこと貧乏だと思ってない?笑」(冗談ぽく言うのに目が笑ってない)と言うんです。Aさん以外にもこういう事を言われることは何回かありました。

私はコレに出くわす度「なんなんだろう、この思考回路」と思ってました。

院長の無言の圧力も、口に出して言わないだけでこれなんですよね。

食べ物を値段じゃなくて、料理の味として見てれば、安い食べ物が本気で欲しい時だってあるじゃないですか。

なのに「安いメニューを選ばれた→そんな金額しか出せない男だと思われてる?→俺を馬鹿にしてる!!?」って、なんでそう思うんでしょう。

せっかくAさんが「金額に制約なく今日は食事を楽しもう」の席を設けてくれたので、こちらはありがたく「じゃあ今日は二人で好きなものを楽しく食べましょう」の気持ちで挑んだんです。

それなのに実は「安いものを頼まれたら男が馬鹿にされてる気分になるからダメ」っていう制約が存在してて、しかもその制約は表立っておらず、マナーとしてあらかじめ奢られる女が踏まえていないといけない、っていう感じの圧力。

こういう人って「高いものを奢りたい」と思うなら、初めから「高いもの頼め」って言えばいいのに、それだと自分が下品っぽくなるから「好きなの頼め」って言うんだと思うんですが、でもその「好きなの」って、私の「好きなの」だから、私がどの値段の食べものが好きかはまだAさんは知らないんですよね。

Aさんが本当に私に好意があって「好きな食べ物知りたいな」みたいに私の中身に興味を持って「好きなの頼んで」と言ってくれているなら、私が鶏ばかり頼もうが「鶏のほうが好きなんだねー」で済むのが筋なのに、安いものを望んだら「みくびってない?」的なことを言われ「奢り甲斐ないなぁ」と残念がられたりする。(人によっては「馬鹿にするな」とまで言われる)

それって、結局「好きなもの食べさせたい」より、自分が『女に金使ってやったぜー』ていう気持ちになりたいがために「女に奢る」という手段を使ってるだけで、そんなの「私、道具じゃん」という感じがしちゃうんですよ。

私は自分が人間扱いされなかった時、それが一番ゾワッとなります。

100年の恋も醒める。そういう人とは恋愛できないと思う。

Aさんにとっては「好きなの頼め」って言われたら「えーじゃあ、ウニといくらと大トロ!Aさんと来なきゃ、私こんなお寿司食べられなかった~うれしー」っていう奢られ方が出来る女の子が理想だったのかもしれないけど、それは私が院長に提供してた「満足感」の交換会の時のやつだから、仕事関係みたいに「割り切った自分」にならない限り私はしたくなかった。

私は「恋愛に発展するかしないかの男女が一緒に食事をする意義」というのは、相手の好きな食べ物を互いに知ったり、食事の席で色んな話をして性格を知ったり、食べ方や店員への態度がどうだっていうのを目の当たりにしたりして「この人とやっていけるかな」と考える材料を「互いに入手するため」だと思うんですよ。

だから、そういう食事の時に「金額の制約は僕が外すから大いに2人で好きなもの食べて、新しい面を見せ合おう」という意味での「奢り」なら、すごく歓迎できることだけど、相手に貸しを作るつもりとか、奢ってあげる優越感が欲しいっていう思惑が潜んでいて、しかもそれが相手に見えちゃう「奢り」だったら、関係発展のためには逆効果だと思います。

田中とメリーちゃんの話なので、つい「男が女に奢る話」になってしまいましたが、男女が逆でももちろんそうですし。

田中とメリーちゃんは一見「これから」を感じさせるデート中の2人っぽかったのに、その制約、無言の圧力がガチガチに潜んでて、でもそれは「ないもの」としてデートが進行しているところが、少し奇妙に見えたので、頭に「1組の奇妙なカップル」と書いてしまいました。

ちなみに2人は最後、メリーちゃんがデザートを一つ選ぶのに「どれにしよう…」と楽しげに悩んでたら、田中は「悩んでないで、全部頼んじゃえばいいじゃん。」と言ってデザート5種全部を頼み、結局メリーちゃんは1皿しか食べず、田中が「もう無理」とか言いながら食べてました。なんか、ゲスい…。

食べきれないほどのデザートを見た時のメリーちゃんの引きつった笑顔と棒読みの「わーすごい」が忘れられません。

そういうとこだぞ、田中。

 

 

※メリーちゃんと田中はもしかしたら仕事関係の付き合いだったのかもしれませんが、事実はわからないので、全部私の妄想として書いてます。

 

私はカンニング竹山のすべらない話が笑えなかった

 

 

あのですね、新年一発目から人様の悪口に聞こえるような話はあんまりしたくないんですけど、土曜にテレビ見てたらちょっとあまりにもひっかかった場面があったので、今日はそのことについて書きます。

それは「人志松本のすべらない話」の中でカンニングの竹山さんがしていた「前田健の葬儀にて」という話。

番組を観ていない方の為に、どういうお話だったかとざっくりと文字起こしします。

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竹山「去年に、僕の親友だった前田健ていう芸人が亡くなっちゃったんですね。彼と僕は同い年でテレビ出だした時期も一緒で、色んな悩みとかも相談して、まぁ親友みたいなもんだったんですね。で、彼はテレビで俺の事が好きだってのもよく話してたんですよ。まぁ、男が好きなマエケンでしたから。

そんなマエケンが去年の5月に突然亡くなっちゃったんですけど、あまりに突然で僕もどうしようか戸惑っていたら、友達の青木さやかから連絡来て『葬儀は何日か後にやるんですけど、とりあえず今晩マエケンさんの実家で身内だけが集まる仮通夜があるので、竹山さん大丈夫だと思いますよ。(特に親しかった竹山さんなので身内だけの集まりに行っても大丈夫でしょう、という意味)』と。

で、夜、仕事終わってから初めてマエケンの実家に行ったんです。そしたらもう、普通のお葬式ですよね。近所の方とか親戚の方がいっぱい来てる。

で、マエケンのご遺体の寝ている頭のところにお父様が座ってらっしゃった。

僕、初めてマエケンのお父様を観たんです。まぁ、お父様がご立派な人で、弔問に来た人に『健はね、頑張りましたよ』『健は人生まっとうしましたよ。』って一言ずつをかけてて、感動したというか、ああ、お前良い親父に育てられたなぁって思ってたんですよ。

(この後、マエケンのご遺体が生前いつもかぶってた帽子を脱いだ状態で思った以上にハゲてたけど笑っちゃいけないから我慢しながら順番を待った、というくだりがあるが省略)

で、やっと自分の番が来たんですよ。ものすごく悲しかったですよ、親友が亡くなっちゃって。で、香典出してご焼香してたらその気丈なお父さんが急に『う“ぅぐうぅー』って泣きだしたんですよ。で、僕の手をこうグワーと掴んで『竹山くん!竹山くん!!』って。

周りの方たちも気丈なお父さんが急に泣き出したから『えっ?』ってなってたら、お父さんが『竹山くん!竹山くんっ!!健はね…竹山くんのことを愛してたんだよお!!!』(ここで会場大笑い)」

松本「話変わってきたね」 

千原Jr「親公認だったん(笑)」

竹山「いや、知らねぇし。周りの人も『ええっ?』って…(会場の笑い続き)

で、すいません!すいません!っつって逃げ出したって話です(笑)」(会場爆笑)

松本「あ、そうだったんやな、ちょっとそういう想いが強かったんやなー。」

竹山「だからマエケンはお父さんに話してたんですかね。」

松本「好きな人がいるって」(会場笑う)

竹山「そう、好きな人がいるって(笑)でも僕お父さんと会ったこともないし、いきなりお父さんにそれお葬式で言われても…(苦笑い)」

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と、文字だと多少印象変わっちゃうかもしれませんが、竹山さんのお話はこういう内容だったんですね。

で、私一人で観てたんで他の人がどう思ったかはこの時点でまったくわからなかったんですけど、この話、純粋に1ミリも笑えなかったんです。

しかも、頭の中で「不謹慎な!」みたいに、即「こういう理由で笑えない」っていう答えも出ない笑えなさなので「けしからん!」的な怒りでもなくて、笑えない自分とテレビの中の大爆笑のチグハグさにただひたすら「なんだ?なんだこれ??」って戸惑う感じになったんですよ。

で、ちょっと考えて思ったことをツイートしたのがこちらなんですが。

まぁ説明しますと、とりあえず私は自分が笑えなかった原因をちょっと考えてみたんですね。

まず推測するに、竹山さんが「このエピソードを『すべらない話』でしよう」と思ったからには、竹山さん的にこのエピソードに「ここが面白いぜ、笑えるぜ」って部分があったからだと思うんですね。

で、それはおそらくマエケンの俺への好意はネタではなくマジの領域の愛であり、それを葬儀の席でその父親から超本気で明かされた状況」だと思うんです。

それで、その状況を滑稽に感じたポイントはマエケンも俺もいい年した男同士」ってことと父親にまでそんな話してたマエケンの2点なのかなと思うんですよ。

そう考えると、話終わりに松ちゃんが「好きな人がいるって」と言ってさらに笑いが起きたのも、『好きな人』っていう一般的に「男女間の甘酸っぱい恋心」を連想させる響きに、周囲が「当事者おっさん同士なのにね(笑)」ってなった(松ちゃん自身もそう思ってる)からこそ起きる笑いとして理解できたんです。

これは私の解釈なので、もしかしたら竹山さん本人や他の人も「笑いどころそこじゃねぇよ」って思うのかもしれませんが、「お笑いの解釈は見た側の個人でしていい」って通説に甘えさせて貰いまして、私はそう解釈したので、それで話を進めますね。

それで、その解釈をしてみると私が笑えなかった理由に説明がついたというか、自分で納得できたんですよ。

私が笑えなかったのは、私の中で「男同士の恋愛感情を笑う」っていう感覚が無いからなんですよね。

つまりこの「マエケンが竹山さんを本域で愛していた事が、亡くなったからこそ父親によって明かされた」っていう話は、「男同士でしかもおっさん同士で恋とかウケるwww」っていう発想が無い私にとって、「すべらない話(笑える話)」のカテゴリーではなくて、ラベル付けするなら「切ない話」なんです。

「故人が生前に冗談めかしてしか言えなかった気持ちは、実は本域の秘めた愛情で、亡くなったことで初めて第三者からそのことを明かされた」って話ですもん。切ないですよ。

でも竹山さんは笑い話として提供し、会場も笑い話として消化してた。

だから、この話が笑える人っていうのは、もしかしたら「男同士の恋愛が滑稽に見える感覚の人」なのかなと思いました。バラエティでよくある男同士のキスシーンに素直に「あはは、男同士でキスしてんの、ウケるww」って思う人。

それで私とそういう人は感覚の差があるわけだけど、じゃあこの話「もしマエケンさんが男性ではなくて女性だったとしたら、今笑ってる人って、全員そのまま同じテンションで笑うんだろうか?」と疑問に思ったんです。

私の頭の中では、ある中年女性芸人さんでシミュレーションしてみましたが、ご存命の方なのでここで名前は書けませんから、仮に「いつもテレビではブスいじり独身いじりされている中年芸人A子さん」にすり替えてみます。

皆さんも想像して欲しいんですけど「竹山さんの親友だったA子さんが、急死されて、竹山さんがお通夜に行ったらお父様に『A子はね…竹山くんのことを愛してたんだよぉ…!!』と告白されたんですよ。」って話。

笑えますかね?私はとうぜん笑えないし、多分ですけど、マエケンさんでは笑えてた人も半分くらいは笑えなくなる気がするんです。

んで、これがさらにA子さんを「若くて綺麗めな女性芸人」にすり替えてシミュレーションしてみると、もう笑い話どころではなくなるから竹山さんもそれを「笑い話」として公の場に出さない気がするんですよ。

なんか他の方の感想ツイート読んでたら「両者とも芸人だから笑いに変えることで報われる」っていう意見も見て、それも一理あるのかなとは思うんですが、そうだとしたら若い綺麗めな女芸人が亡くなって、まったく同じことが起きて、竹山さんが芸人として笑い話にして披露した場合、見た人はマエケンさんの話と同じテンションで笑って、「芸人だから笑い話にされて報われるね」ってならないとおかしいと思うんですよ。

でも、ならないでしょ多分。

もし若い女性芸人が急死して通夜行って父親に「娘はあなたの事を愛してたんですよ」って泣きながら言われた話をすべらない話で竹山さんがしたら「これを笑い話にするって、竹山サイコパスかよ」みたいな非難轟轟になると思うんですよ。

ようするに、話の受け手側の中で、竹山さんへ向けられる恋心として

「男から=ありえないウケる」

「中年女性から=ウケるけど一応女だしありえる」

「若い女性=ありえる」って感じに、判別しちゃってるんじゃないかと思うんです。

その上で、「マエケン(男)からの愛、しかもおっさん同士で、ウケる」という風にマエケンさんの竹山さんへの愛情を「ありえない異質なことだから笑っちゃうわ」と無意識に判断してるんじゃないかと思ったんです。

でも私は、人の恋心って馬鹿にしたり笑いにしないほうがいいんじゃないかと思います。

だからマエケンさんが竹山さんへ抱いていた愛情も滑稽なことではないし、自分の父親に本心を明かしていたのも、いい親子関係で素晴らしいことだし、笑う意味がわかりません。

しかし世の中には漫画で見かける、ブサイクな女子が男子に告白して「まじ、あのブス、あの顔でよく告ってくるよな、家に鏡無いんじゃねーのww」みたいに男子が友達と笑いあう場面とか、男子が男子に告白したら「きめぇーコイツwwホモだったのかよ!」と茶化したりする事例が実際にも起こってるんですよね。私はそういうことを考えると胸がぐわぁって痛くなる。

恋愛対象じゃないとしても相手を人として尊重した断り方があるのに、「ありえねー」みたいに人格ごと否定した断り方って、本当に人の尊厳が傷つくと思うんで。

で、漫画だと、こういう男子は終盤痛い目に遭うオチがあったりして「そういう事言うのはダメ」って教訓込みだからいいんですけど、私にとって、漫画の中の悪者男子の「まじあのブスの告白ウケるww」「まじ男のくせに告ってきてウケるww」っていうのと、竹山さんの「マエケンの本域の愛情wしかも父親から聞くとかウケるw」っていうのは、同じだったのに、竹山さんの話は「すべらんなぁ」の流れに乗って編集の壁を越えて公共電波の中で「ああ面白かったね」として人々に届いているわけじゃないですか。

だから、その状況に「ええ?これはありなの?なしでしょ?」となったし、ツイートの最後の「男同士だから笑うんだとしたらひどいよ」の酷いっていうのは、そういうことです。

これを読んだ人のうち何割かに、「全部お前の頭の中の想像じゃん」とか「竹山さんの真意は違うはず」とか思われるのは分かってるんですけど、自分の中でこの話がモヤッとしてたし、同じように感じている方も多くいたみたいなので、整理するために書きました。

ちなみに、この竹山さんの話に否定的な方の中には「人の死を笑いにするなんて不謹慎」ていう意見もあるかと思いますが、私がひっかかった部分はどうもそこではないっぽいです。

というのも竹山さんが以前、亡くなった相方のことをネタにしたトークを聞いたときは、今みたいなひっかかりを感じなかったからです。

じゃあ、どこがひっかかってるのかというとやっぱしテレビの中でマエケンさんは男だからみんなが笑ってもいい扱いしてるところ」ですかね。

でもフォローというわけではないんですが、私は竹山さんがマエケンさんからの愛情や、葬儀でお父さんに号泣告白をされたことに「おもしれぇ」と一人で笑う事自体は酷いと思わないです。

なぜかというと竹山さんは、もっと若い頃に相方を亡くされてて、親しかった人間の死というのは、本当に強く影響があるもので、天命の短さへの怒りとか、喪失感、悲しみ、今後の自身の芸能活動への不安…そういうありとあらゆる負の感情が竹山さんを襲ったと思うんですが、彼はそれをバネにお笑い芸人として生きています。

つまり当時の竹山さんにとって、相方の死の苦しみから逃れられる唯一の方法が「なんとかこれも笑い話に換えてやる!」っていう精神を持つことだったんじゃないかと思うので、今回のマエケンさんの死の辛さも、同じように乗り越えようと試みたのかなと思うんで、そこは理解したいです。

あの年ですでに親友が2人も亡くなるなんて経験は、たぶん多くの人がしていないし、私もしていません。

だからその辛い経験をした竹山さんの「乗り越え方」を外側から「それは無しでしょ」と、否定できないんです。辛かった人が辛さを乗り越える為に生み出した手段を辛くない私が馬鹿にしたりはできない、ってことです。

なので、マエケンさんの葬儀のエピソードを、竹山さんが一人心の中で「マエケン、本気で俺の事好きだったのかよウケるなぁ。」と思うところまでは、竹山さんなりの悼み方としてアリと思うんです。

でも竹山さんはこの話をすべらない話に選んだし、放送局もカットせず流した。

私が問題に思っているのはそこだけです。

なぜかというと、この「マエケンさんが竹山さんを実は本気で愛してた」って話を、テレビで「笑い話」としてやるには面白いポイントが「マエケン(男)から竹山(男)への愛情が面白い」ってことになってる気がするんですよね。

それって、結局今のテレビの中で、ちょっとナヨっとしてる男性をすぐ「あれ?そっち?w」と突っついて「オネェ疑惑!?」とテロップをつけたり、「おかま」は道化としてしか存在を許されていない現状があるからですよね。

私はそういう現状が嫌だと思ってるほうなんで、この話をすべらない話で「男同士の愛笑えるでしょ」って意味合いのまま放送されてるのを観て、相変わらず「テレビはセクシャリティがノーマルではない人のことは笑いものにするぞ」って姿勢だなぁ、と思いました。

色んなところで「LGBTに理解のある社会を」といくら呼びかけても、男同士のキスを罰ゲームとして流すテレビがふつうにやってたら、「同性愛者は笑いものなんだ」という認識は下の世代に受け継がれていってしまう気がする。私はそれが怖いし嫌。

このエピソードで笑ってもいい人って、竹山さん本人とごく親しい周辺の人だけだったんじゃないかって思うんですよ。だからこれを流したテレビも、それをそのまま笑うって感覚も、ちょっと自分とは違う、信じられないと思いました。

走り書きなので、支離滅裂かもしれませんが、そんな感じです。

今年もよろしくお願いします。

ではまた。

 

田嶋さんが怒るのも分かるけど、私は逃げ恥が面白かったです。

 

 

  昨日「逃げ恥面白かったな~」と余韻に浸ってたらこの記事を目にしました。 

どうやら田嶋さんは逃げ恥お気に召さなかったらしい……。

田嶋さんについて、私が基本どう思ってるかは依然twitterで書きました。

 

 まぁ、ようするに私は田嶋さんについて、それまで日本では「学問として一部の人は知っている」レベルだった「フェミニズム」を一般人に分かるレベルまで広めていった功績者としては尊敬してるし、感謝もしてる。

でもその一方で、いまフェミニズムの考えの外側にいる人にとっては田嶋陽子がウザいからフェミってウザい奴ばかり」と思われたり、フェミ二ズムの入口にいる人にとっても田嶋陽子みたいになりたくないし、彼女に似てると周囲から思われたくないからフェミニズムはやめとこう」と思われたりしてんじゃなかろうか、という状況も感じる。

なんというか、すごい強面の鬼武将が、城を陥落させる時には「切り込み隊長」として効果抜群だったけど、そのまま門番に居たら怖くて仲間すら近寄れなくて困る、みたいな感じ。

なので、私は田嶋さんのことを日本のフェミニズムにとって「功績者であると供に足枷」のような存在だなぁ」と思ってる。あ、この言い方だと田嶋さんが不愉快になるので「足枷に感じることもあるけど功績者として尊敬してる。」と書いたほうがいいかもしれない。

とにかくそういう風に思ってます。

 で、田嶋さんが逃げ恥に「まだこんなことしてんの?」と怒ったという記事を読んで、私は「彼女が怒るのも無理はない」とは思いました。

なぜかというと、田嶋さんは今の日本の社会でする「結婚」は「女が不利になりがち」だということにずっと怒りの声を上げてきた人だから。

たいてい女性の方が名字が変わる。夫の転勤で仕事を辞めるのは妻ばかり。出産で手放したキャリアは戻らない。専業主婦は寄生虫とまで言われる。

田嶋さんはそういう「女性が結婚でこうむる不利益」についてずっと「変だよ!」と訴えてくれている。身を粉にして「もっと社会全体の仕組みを変えてそういうの無くしていこうよ!」と訴えてきたのに、30年経ってみて世間が「面白い面白い」と褒めたたえているドラマが、事実婚での契約結婚という「既存の結婚制度の裏ワザ」みたいなのを駆使してこちゃこちゃやってる男女の話だった。

そりゃ彼女の立場なら「こんな裏ワザ見つけて喜んでないで、根本的な解決のために社会を変えるように動かなきゃでしょうが!!」という怒りが湧くのも無理はない気がします。

ただ、私はそういう田嶋さんの気持ちもわからなくはないけど、「逃げ恥」はとても面白かった、と言いたい。

ちょっとここまで、つい田嶋さんの話ばかり書いてしまったけど、私は今日は単純に逃げ恥の感想が書きたかったんですよ。だからここからは感想。

最終回、すべて大団円で本当に良かったです。

みくりと平匡の出した答えは「一人でも二人でいても人生は面倒くさい。面倒くさいけど、好きな者同士なんだから一緒に悩んだり話し合ったり、時間をおいたり、たまに逃げたりしながら、一緒に未来を歩みましょうや。」というシンプルなものでした。

未婚の方はもしかしたら拍子抜けしてしまうほどシンプルな結論だったかもしれませんが、私も結婚生活8年やってて色々あったことから痛感したのは「夫婦っていう関係性は、死ぬまで微調整が必要だな」ってことだったんで、二人が最後「模索は続きます」と言って終わったのが、じーんとしました。

夫婦はどちらかが上でどちらかが下という関係ではなく、「家庭という会社を切り盛りしていく共同経営者」という平匡の考えも、実は我が家では5年前から実施している考え方だったので、平匡があのボードに書いた時「おっ」と思いました。

ちなみにあんな業務的ではないですが、うちも「ほう・れん・そう」を怠るのは夫婦最大のタブーにしているので、まめまめしくなんでも相談して決めてまして、それまでは買う物とか予定とかを片方が決めて事後報告が多くてそれが原因でモメる事もあったんですが、その頃に比べると格段にモメ事は無くなりました。ほう・れん・そうは家庭でも大事だな、と思います。

あとみくりが「主婦の報酬 最低賃金+愛情」と書いたところでは「最高の離婚」のワンシーンを思い出しました。

最高の離婚では、小野真知子と瑛太夫婦が喧嘩するシーンで小野真知子が「外でご飯たべたらお金払うでしょ!うちでご飯食べたら『ごちそうさま』って言うの!言わなかったら食い逃げなの!」と怒るんですが、みくりが「報酬」と捉えている「愛情」って、日常で表すとしたらこういうことなんですよね。

私は夫に「愛してる」なんて何年言われなくてもいいけど、そういう風な「ごはんを食べたら『ごちそうさま』」とか「なにかやった時の『ありがとう』」とかがもし無かったら、夫婦やってけないだろうな、って常々思っていたので「愛情」が報酬の一部だというみくりの話にも「わかる」と思いました。

それにしてもこの二人は、険悪なムードの時でもちゃんと話し合いを持つところがもうすでにすごいんですよね。

現実にはああやって平匡みたいに、まともに話し合うことすらハードルが高い夫婦も世の中には多いですから(特に『旦那さんが話し合いに応じない』という声はよく聞く)本当は小学生のうちから学校で「相手の発言はさえぎらない。途中で投げ出さない。大声を出してごまかさない。」みたいに話し合いの基礎を教えて欲しいくらいですけどね。(でも国会ですらあんなヤジばっかりで話し合いの出来ない大人が回してる国だからなぁ…)

まぁ主人公二人の結末はいいとして、ジェンダー的な視点で私が語りたいのはやっぱりゆりちゃんパートのところですね。

若さの真っただ中、「この世は男が女を消費するだけの世界」だと思い込んでいて、「どうせ男に消費されるなら、若くて綺麗な女であることを武器に、とことん男につぎ込ませてこっちが男を消費してやる。」という気概バリバリの小娘に喧嘩を売られたゆりちゃんの場面。

これまでのドラマだったら、こういう「若い女VS熟女」のタイマンは、小娘が「若さゆえの美貌」を武器にしたら、熟女は「大人の女のテクニック」を武器にやりかえしてたように思います。

でもそれって結局は、小娘も熟女も「男から見た女の価値」というリング上に居て、それぞれ違う手法で「自分の方が価値が高い」だということを相手にぶつける戦いだったんですよね。

そこをこのドラマでゆりちゃんは「女の価値」というリングから「若さ」を武器に「あんたにはもうこの武器無いもんね~」と挑発してきた小娘に「そんなところから降りなさいな。」と諭すように言いました。

「今あなたが価値がないと切り捨てたものは、この先あなたが向かっていく未来でもあるのよ。自分が馬鹿にしていたものに自分がなる。それってつらいんじゃないかな」と。

つまり「小娘が『価値が無い』と切り捨てたもの=若さを失った女」で、それは確実に小娘がいつか迎える未来の姿なんですよね。

女性の若さや未熟さに特別な価値を見出すのは、たいてい「自分が扱いやすくて綺麗な玩具としての女が欲しい」と思っている男性ですから、ゆりちゃんの言葉は「そういう男性が作り上げた価値観の世界に染まって『女のリング』に居続けたら、やがて後からくるもっと若い女に打ちのめされるだけよ。そんな辛いところからは降りちゃえば?」みたいな意味なのかなと思いました。

ゆりちゃんは「女VS女」の戦いには参加せず、「戦うこと自体が馬鹿げている」ということを伝え、その上でさらにこうも言います。

「私たちの周りにはね、たくさんの呪いがあるの。あなたが感じているのもその一つ。自分に呪いをかけないで。そんな恐ろしい呪いからはさっさと逃げてしまいなさい。」

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小娘は「呪い」の意味が分かってなかったように見えましたが、私としては「呪い」というのは「男のくせに」「女のくせに」みたいに「その性別らしくないことを辞めさせたがる圧力」だったり、「女は若くなければ価値が無い。」とか「女は男にモテてこそ価値がある。」みたいに「男性の理想をすべての女性に求める圧力」を指しているように思いました。

ちなみにゆりちゃんが怒った自社の化粧品の広告にも「○○を使ってモテよう」みたいなダサいコピーが付いていましたが、ゆりちゃんが怒って取りやめさせた気持ちがよくわかります。

「よそがそういうコピーでやるのはかまわないけど、自分の会社が呪いの言葉を発信したくはない。」ということだったんでしょうね。

小娘に喧嘩を売られても、その小娘の為になる言葉を差し出すゆりちゃんは本当に大人だと思いました。(でもあのポジティブモンスター、ゆりちゃんの歳を49歳と知ってても「おばさん」じゃなくて「おねえさん」と呼んでたので、それくらいの気は使うんだ、と思った。)

で、ゆりちゃんの恋の実り方がまたよかったです。

結局はゆりちゃんが「今の気持ちに従おう」と理屈抜きで自分の感覚を頼りに決断したら風見との関係が成り立ったわけだけど、ふつう年齢が上の人の方が理屈で恋愛して、若いほど感覚で恋愛しちゃうものなのに、若いみくりの恋が「理詰め」で、ゆりちゃんが「感覚」で成り立っててその対比が面白ろ良かった。

まだ書きたいこといっぱいあったし、ぜんぜんまとまらない内容なんですけど、とりあえず感想はそういう感じです。

とにかく「やりがい搾取」とか「好きの搾取」とか、これまで「うっすらモヤモヤを感じてたけど原因がなんなのか掴みきれなかったもの」が解明されてハッとした人の多いドラマだったと思います。

田嶋さん一話から見ればいいのに…。

追記:そういえばあの日産JUKEの紛らわCM、最終回の最後だけ風見が「帰りは僕が観ちゃおっかな、ゆりさんの寝顔」と運転手がゆりちゃんであることを明かしてましたね。あのCMほんと紛らわしかった…。

 

やかんとちりとりとポスター

「今年買って良かったもの」

今年我が家は3年ぶりに引っ越しをしました。

引っ越しをすると、間取りや生活様式が変わるので必然的に買い物も増えて、例年に比べ今年は生活用品をたくさん買ったように思います。

そんな中、今日は私が「これは買って良かった」と思うモノを3点ご紹介します。

 

その① ゴッホのポスター

実家に自分の部屋がなかった私は、10代の頃ずっと「大人になったら絶対1人暮らしして部屋に映画のポスターを飾るんだ!」ともくろんでいました。

そして私は20歳になるやいなや、お金もないフリーターのくせに家を飛び出して1人暮らしを始め、引っ越した翌日には電車に乗って隣街の駅ビルにあるLOFTにポスターとフレームを買いに行ったんです。

当時はまだインターネットが普及してなかった時代。

一般人が「事前にネットで値段をチェックする」という習慣はなく、売り場でフレームの値段を観た私は、愕然とした記憶があります。

思ったよりもずっと高かったんですね。

私の欲しいポスターサイズが収まるフレームは90センチ×70センチくらいのもので、確か4千円くらいしました。

ポスターも買うと総額5千円を超えてしまい「全部で3千円くらいで済むかな〜」と甘く見積もって来た私は、売り場でしばし立ち尽くしてしまいました。

サイズをひとつ下げれば2500円くらいのものがあったのですが、私はどうしても憧れの映画ポスターをででーんと部屋にかっちょよく飾りたかった。

なので4千円のフレームと映画「ベティブルー」のポスターを、清水の舞台から飛び降りるつもりで「えーい、ご飯なんて何日か抜いても死なない!」と思いながら買いました。

ポスターがニョキリと突き出てた大きなフレームの入った袋を抱えて電車で帰るのは少々骨が折れましたが、幸せの黄色いハンカチならぬ幸せの黄色いLOFT袋といった感じで、念願のものがやっと手に入った幸福感に酔いしれたことを覚えています。

さてそのフレームですが、最初は「ベティブルー」のポスターを飾り、飽きた後は映画「時計じかけのオレンジ」のポスターを飾りました。

 

時計仕掛けのオレンジ [P-601] [ポスター]

時計仕掛けのオレンジ [P-601] [ポスター]

 

その後は私がイラストのコンテスト用に描いた自作のイラストを飾っていました。

それで2011年までは自作イラストを飾ってきたのですが、震災の時に我が家もわりと揺れてフレームが落下し、後ろのパーツがちょっと欠けてしまったんですよね。

ボンドで修繕すれば直りそうだったのですが、時間がある時に直そうと思って一旦フレームを物置にしまうと、なんとそのまま5年も放置してしまいました。

5年の間には何度か「直すの面倒だし、捨てようかな。絵なんか飾らなくたって死なないし。」と、20歳の頃とは真逆の事を思った時もあったのですが、取り出してフレームを観るとやはり買った時の思い出がこみ上げてきて「いや!捨てられない!!」とまた戻していました。

実は私は30代になってからモノを持たない主義になったので、たいがいのものは躊躇なく捨てられるのですが、独身の貧乏時代に思い切って買った記憶がある物はやはり特例な思い入れで、捨てられないんですよね。

そんなわけで、ずっとしまってあったフレームなのですが、今回引っ越した部屋には玄関にちょうど物をかけるフックがついていたので、「よし!フレーム直してちゃんと飾ろう!」と 思い立ちました。

それでフレームは直したのですが、中の絵が自作のイラストなことがちょっと恥ずかしくなりまして、いえ、あの、イラスト自体は好きなのですが「客人と『これ、描いたの?』『昔ちょっとね…』みたいなやりとりをしたいが為に自作イラストを飾る人」な感じが自分では恥ずかしくなってきたというか、たぶん20代の頃に好きなものを部屋中にちりばめてインテリアでバリバリに自己主張をしてきた反動かもしれませんが、歳をとったら「あんまり部屋に特別な意味を持たせたくなくなった」んですね。

で、絵は変えようと思ってさっそくAmazonで検索。

イラストや写真よりも正統派の画家の絵がいいな~と思い、そうなると私は画家の中でとりわけゴッホが好きなので、とりあえず「ゴッホ ポスター」で検索しました。

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わーいっぱいある。8000件くらいヒットして、数々の名画から選べました。

「星月夜」が好きだけど玄関に飾るのでなるべく明るい色味にしたいし、かと言って「ひまわり」だとベタすぎてなんか嫌、いっそゴッホやめてモネにする?いや、モネを飾るほど格調高い家ではない…ああゴッホのチューリップ畑の絵すごいいいわー、でもサイズ小さいのしかないじゃん、なんだよちくしょー

そんな感じでなんやかんやと1週間ほどかけて楽しく選び、結局私が買ったのはこちらのポスターです。

 あえてゴッホの代表作は避けて探し、明るい色味で牧歌的な雰囲気の絵にしました。

ちょっと私の地元にある梅林に景色が似ているところもホームシック気味の心にグッと来たので、これにしました。

フレームにおさめて玄関に飾ったところ↓

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 うん、いい。

眺めててぼんやり思ったのは「たしかに絵なんか飾らなくても死にゃあしないが、こうやって好きな絵を飾って眺める度にいちいちキュンとなる作用が積み重なって、人間の寿命が延びるとかって、あるのかもしれんなぁー」ということ。

上手く言えませんが、毎日家の出たり入ったりの度に「あ、この絵、好き」と思うことが「心と体良さそうな感じがした」というか、使い古された言葉ですが「金銭的ではない豊かさ」?みたいなことを「実践してるなぁ、自分」という悦に浸れました。

フレームも5年ぶりにまた活躍できて心なしか良いことをした気分になりました。

ゴッホのポスター買ってよかったです。

 

その② 野田琺瑯のドリップケトル

野田琺瑯は「のだほうろう」と読みます。

野田ほうろうは「『前前前世』の印税で放浪の旅に出そうな野田洋二郎」の略ではないです。

ウィキペディアによると琺瑯とは

琺瑯(ほうろう)は、アルミニウムなどの金属材料表面にシリカ二酸化ケイ素)を主成分とするガラス質の釉薬を高温で焼き付けたもの。「ホーロー」と表記されることも多い。英語では Enamelエナメル

だそうです。

鍋や食器でよく見かける「金属なの?陶器なの?」みたいなやつで、山の中の滝とか湧水のそばに「これで飲めば?」的に置いてある謎のコップもよくホーロー製だったりします。あと年寄りの家の歯磨き用コップもホーローが多い。

で、野田琺瑯のドリップケトルを買ったいきさつなんですが、私は数年前までコーヒーが飲めなかったんですね。

今思えば、初めて飲んだコーヒーが缶コーヒーで、それが美味しくなかったせいで「コーヒーはマズい」と擦りこまれて、なるべく避けてきた上にたまにやむを得ず飲んだコーヒーも多分インスタントコーヒーだったのか、やはり「わざわざ飲むほどのもんじゃないな」という感想でした。

ですが、数年前にコンビニのドリップコーヒーが出た当初、夫が飲んでいるブラックコーヒーをなんとなーく飲んでみたところ、あら美味しい!

それで「豆から挽いたコーヒーは美味しい」ということをこの時実感したんです。

なんか、それまでもその説は聞いていたものの、豆から挽くコーヒーはちゃんとした喫茶店でしか置いてなくて、喫茶店のコーヒーって500円くらいするし「お試しに飲んでみて不味かったらヤダ」ってことでお試しすら出来なかったんですよね。

でもコンビニコーヒーを知ってから、コーヒーが飲めるようになって結構好きになってきたわけです。

そうなると、自宅でもドリップコーヒー飲みたいなーとなり、道具がないので買いそろえることにしました。

コーヒーミルとコーヒーサーバーは普通のお店で気に入るものがあって買ったのですが、ドリップケトルの良いのがそのへんで売ってない。

ちなみにドリップケトルとはふつうのやかんに比べて注ぎ口が細長く、お湯が冷めにくい構造をしているもので、まぁ「コーヒーを淹れるのに都合良くなったやかん」だと思って下さい。

ふつうのやかんでもコーヒーは淹れられますが、我が家にはもともとやかんが無く、コーヒーの為に新たに買うので、ドリップケトルにしようと思いました。

んでAmazonで探しに探して好みものを吟味して最終的に買ったのがこちら。

 こちらは黒なのですが、実はコレの色違いで紺色でわりと程度の良い品がメルカリ(フリマアプリ)で売ってたんですね。

私はメルカリの売上金があったので、メルカリで買えば新たな支出にはならないからそうしたかったのですが、メルカリのやつが2800円。Amazonの新品が約3800円。

差額1000円分のメリット(安い、支出にならない)とデメリット(中古、色は黒が第一希望なので紺だと嫌ではないが決めかねる。)を天秤にかけて「どっちだどっちだ~?」と悩んで悩んで1週間。

なんと私は寝言でも「ケトル…」と言っていたらしく、見かねた夫が

「ニニちゃんの性格だとさー、1000円浮いたことはしばらく経ったら忘れそうだけど、『黒が良かった』ってことは紺色のやかんを観るたびに思い出すんじゃない?この先ずっとやかんを観るたびに『黒が良かったな~』ってチラッと思う後悔は1000円以上のダメージなんじゃない?倍くらい値段が違うなら迷うけど、1000円くらいだったら高くても黒の方買った方が俺は良い気がするけどな~。」と助言をしてくれて「たしかに!!」と納得しました。

そうなんですよね。私の場合、買った物の値段は結局すぐ忘れるので、安くても嬉しいのはその時だけ。第一希望の物を買えば、その時は出費が辛く感じるけど、それを観て生活する「嬉しい」がずっと続くんだからいいのか!と思い、納得したので、Amazonで買いました。

このケトルは本当に使いやすいです。持ち手があまり熱くならずに素手で持てるし、形の安定性と美しさは申し分ない。2か月使ってますが、毎朝起きてコイツを観るたびに「あ、かわいい」と思ってキュンとします。

そしてこれで念願の自宅コーヒーを飲むたびに「あー幸せ」となるので、差額1000円のデメリットはすでに埋まった気がします。

やかんは基本出しっぱなしで、鍋やフライパンが出てると台所に散らかった感が出ますが、このやかんはそんなに散らかった感がないのでやはりシュッとした黒のおかげかと。

こんな。

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うん、かわいい。

野田琺瑯のドリップケトル買ってよかったです。

 

その③ 白木屋傳衛商店の「はりみ」ちりとり

引っ越しの時にそれまで使ってたふつうの100均のほうきを捨てたので、引っ越してすぐに新しくほうきを買いました。

100均のものはふつうに全長が90センチくらいなので、掃除の時いつも腰を曲げたお辞儀スタイルで使っていたのですが、新しいのを選ぶ時に夫が「あなた腰弱いんだから、立ったまま履けるほうきが良いのでは?」というアドバイスをくれたので柄の長い棕櫚(シュロ)ぼうきというのを買ってみました。

こういうやつ↓(Amazonではなく近所のホームセンターで購入。)

 

高砂 棕櫚ほうき 長柄7玉 NSZ430

高砂 棕櫚ほうき 長柄7玉 NSZ430

 

 

これだと確かに柄が長く、お辞儀スタイルではなくレレレのおじさんスタイルで掃けるので、腰に負担がかからず「良かったね」となったのですが、この棕櫚のほうきは見た目が大変美しいんですね。機能美というか。

なので、それまで使ってたこれまた100均の黄緑色なプラスチックちりとりと並んで置いておくとなんだかアンバランス。

ほうきセットはなるべくすぐ使えるように常時台所に出しておきたかったので、見るたび「ちぐはぐだ」と思うのが嫌になってきて「ちりとりも買い換えよう」と思いました。

それで毎度お馴染みAmazonさんの出番。

「ちりとり おしゃれ」で検索すると、数々のちりとり画像が出てきました。

最初いいなと思ったものはアンティークなブリキ風のもので、それを買おうかと思ったのですが、洋風のアンティークブリキのちりとりが純和風な棕櫚ぼうきと並んだところを想像すると、やはりどこかちぐはぐな気がしました。

せっかく見た目を追求して買い換えるのに、ちぐはぐではいけない。

私はこのへん執念深いので、しつこく1日がかりで探すもなかなか見つからず、諦めかけたその時、ふと「棕櫚ほうき ちりとり」で検索してみたらよいのでは…?と思いつきました。

そもそも「棕櫚ほうきに合うちりとりを」という目的で探していたので、初心に戻ってそのワードで検索してみました。

そして出てきたのが「はりみ」というこちらのちりとり。

【白木屋傳兵衛商店】 はりみ 大 穴付

【白木屋傳兵衛商店】 はりみ 大 穴付

 

 一目見た瞬間に「あ、これだ」と思いました。

説明書きとレビューの高評価を読みさらに惚れこみ、即決で買いました。

届いてさっそく使ってみると、これがまぁ使いやすいこと!

厚紙を張りあわせて柿渋を塗った紙で出来ているので、ヘリが薄くて床にぴったりと沿って、ゴミがスムーズに中に入る。

棕櫚ほうきと合わせて使う人が多いとレビューで読んだ通り、ほうきの毛幅と入り口のサイズが相性ばつぐん。

そして紙製のため静電気が起きにくく、ゴミを捨てる時もゴミがスッと離れて落ちる。もう完璧。

極め付けは、棕櫚ほうきと並んだ姿のしっくり感!

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これどうですか、お似合い過ぎてもはや熟年夫婦ですよね?

「君たちはおしどり夫婦なのかい?桑田圭祐と原坊なのかい!?さてはペーパー夫妻なのかーい!!??」と語りかけてしまうほど長年連れ添ったパートナー感に、私は感動すら覚えました。満足。

白木屋傳兵衛商店の「はりみ」買ってよかったです。

 

とまぁ、以上3点が私が今年買って良かったと思う品でした。

この3つはやかんとちりとりとポスターという、まぁ「無くてもなんとかなるっちゃなる」な物なんですが、無くてもなんとかなるものをわざわざ買うからにはこだわりたかったんですよね。

で、一点一点買う時に悩んで探して考えたせいか、愛着のあるペットみたいな感覚で我が家に存在してます。

夫婦2人暮らしなので、家族の人数が多いお家に比べたらにぎやかではないかもしれませんが、愛着のある物に囲まれて楽しく暮らせたらいいなと思います。

 

ではまた。

理想の家庭は「個人」で決めたい。(少なくとも私はサザエ家が理想じゃない。)

 

時間が無いので走り書きになってしまうかもしれませんが、このタイミングで書いておかないといけないと思った件なので書いておきます。

昨日のヤフーニュースで見たこちらの件

mainichi.jp

 

記事内容をざっくりまとめると自民党を支えている保守団体『日本会議』が、この度、日本の家庭のありかたとしての理想は『サザエさん一家』だと示した。」という内容です。

これに対してははすでにtwitterでも「なにそれ?」と怒りの声がたくさん見られていて、私も同じように「なにそれ?」って思いました。

それでつぶやいたツイートがこちら。

 

 

今回書きたい事は、まぁこのツイートに要約されているんですが、憲法24条や「家族のありかた」については7月に深澤真紀さんの記事を読んでから私も考えるようになったので、この機会にツイートでは書ききれないことを書いておこうと思います。

あ、深澤さんの記事は素晴らしいので、ぜひまたこの機会に多くの方に読んで頂きたいです。

 

憲法24条を「女だけの問題」にしてはいけない(深澤真紀)|ポリタス 参院選・都知事選 2016――何のために投票するのか

 

私はこの問題を中高生のような若い方にもよく考えて欲しいので、今日はここから中高生でも読めるようにやさしい文章で書いてみます。

まず、「日本会議」という団体は、一言でいうと「古き良き日本」を大事にしている団体です。そして安倍総理大臣がいる自民党を支えている団体です。

日本国憲法」とは、国内の様々な事柄について「国としてはこんな風に考えてますよ。」という考え方を示したもので、今の日本の法律は、その考え方に外れないように作られているので、わかりやすくいうと、憲法は「法律の素」みたいなものです。

その中の憲法24条には「婚姻や家族に関すること」が書いてあります。

「結婚は男女2人がお互いに『したい』と思った場合だけにするもの。」とか「結婚相手を選んだり、住むところを決めたり、結婚や家族に関する法律は個人の尊厳を大事にしたものじゃなきゃいけません。」というようなことを「国としてはそう考えていますよ。」と示した内容です。

私達の身近にある結婚に関する決まり事といえば、皆さんも「男は18歳、女は16歳にならないと結婚できない」「同じ性別の人とは結婚できない」ということはすぐ思い浮かぶと思いますが、そうした決まり事、法律は全て憲法の考えをもとに作られているのです。

ですから憲法はけして他人事でも、どこかで頭の良い偉い人達だけがこちゃこちゃ話し合って勝手に決めることでもなく、もっと国民一人一人が「自分たちの生活を左右することなんだ。」と思って接するべきことだと思います。

 

さて、では日本会議の人達がこの度「サザエさん一家が理想の家庭像だ」と示したことに、私や多くの大人たちがどうして「なにそれ?」と思ったのかをお話しします。

日本会議というのは先ほども書いた通り、自民党を支えていて、自民党と仲良くしている、いわば「どこかにいる頭の良い偉い人達」です。

仮にその人たちが「こうしたい」という希望があれば、ゆっくり年月をかけて政治に働きかけることで国全体で「こうしたい」が実現できてしまう可能性もあると私は思います。

そのように国を動かす力が強い団体の、理想の家庭像が「三世代同居のサザエさん一家」と言う事は、どういうことだと思いますか?

それは、日本家庭についての在り方を「国としてはそっち方向でいくように考えてます」という意思表示だと私は思えます。「そっち方向」とは

「今の日本は親と別居している核家族が多いけど、ゆくゆくは昔みたいにじじばば、父母、子どもたちみんなで暮らす大家族が多くなるといいな。サザエさん家みたいに。」

という方向です。

「別に大家族は賑やかで、いざと言うときみんな一緒に暮らしている方が助け合えるし、それが理想なのは悪いことではないんじゃない?」と思う人もたくさんいるでしょう。

私もべつに大家族に反対だというわけではありませんし、それを望んで三世代で暮らして「家族皆が幸せだという家庭」が将来増えること自体は良いことだ思います。

でも、それは国民の一人一人が社会の環境と自分たちの暮らしについて考えて、「そうするほうが幸せだから」と自分の意志でそちらを選ぶ人が増えて、自然とそうなった「結果なら」良いことだと思うだけで、あくまで、国が「それが幸せで、それが理想なのですよ。」と誘導するのはおかしいことだと思うのです。

 

家庭や暮らし方というのは、その人の人生のあり方そのものに直結するとても重要な部分だと思います。
だから国としてはそこに対して「一人一人で違う事情や考え方がありましょう。どんな立場であろうとそれぞれのお考えは等しく尊重しますよ。」というだけで留まるの正解だと思います。

なのに、こうやってサザエさん一家というモデルを挙げて「家庭の理想像はこれだから、そっち方向行くように国を動かしていくから」みたいなことを言われると、まるでそうでない家庭は国にとって理想的ではないと言われているように感じます。

それにそうやって国が「家庭単位」での理想を指し示すのは、実は昔の憲法の考えに近いことをやっているように思います。

どういうことかと言うと、今から70年前、太平洋戦争以前の日本は、日本国憲法ではなく大日本帝国憲法という憲法で動いていました。

この憲法は、天皇陛下がこの国では神様のように一番上に立つ存在で、国民も「個人」よりも「家単位」で見るものでした。

そして「個人」は、家や国の為にはどういう犠牲を払っても我慢するものとされていたので、今のように「どんな人も一人一人の人権を重んじよう」という考え方は無く、人権は性別や立場によって重く見られたり軽く見られたりすることがあったのです。

だから今よりもっと沢山の男女差別、身分差別に苦しんでいる人もいたし、「家の為に私は我慢する」という風に、個人よりも「家」を大事にするのがその時代の当たり前でした。

つまり、今の私達が当たり前に「個人の考え」で人生を決めていることそのものが昔は当たり前ではなくて、家の為、国の為に自分の意志を我慢する人が、その我慢も「当たり前」として生きていたわけです。

そして、第二次世界大戦が終わった70年前、戦争に負けた日本に対してアメリカが「新しい憲法作って、国を建てなおしなさいね。」と示していったのが今の日本国憲法なのですが、アメリカからすれば日本は「無謀な戦争をして負けた国」なので、日本人が二度と同じ過ちをしないために、日本国憲法大日本帝国憲法とは内容を変えました。

「飛行機事故を起こした航空会社が、また同じ事故を起こさないように、国が会社のマニュアルごと変えるように指導する。」みたいなことですね。

そうして出来た日本国憲法では国民に対して、かつての「家を重んじる」よりももっと「個人を重んじよう」という方向でした。

個人を重んじるというのは「国民一人一人がみんな等しく同じ人権を持って、どんな人も自分の意志決定で生きるのが当たり前の社会にしましょう。」というようなことです。

だから日本は70年かけてようやく戦争の前よりは男も女も平等で、出身地や立場による差別なども減り、「家の為に私は我慢する」という考え方も今時はあまり聞かなくなっているのです。

昔は家の為とあれば「長男長女は家を継ぐ、親の老後をみる」は当たり前ですし、女の人は「さっさと結婚して相手の家に尽くせ」と言われ、しかもその相手も「実家に都合の良い相手を親が勝手に決めてくる」なんてこともよくあることで、さらに嫁ぎ先の家でお姑さんにいじめられたり旦那さんに殴られたりと辛いことがあっても離婚するのは「家の恥」と言われるので、それも我慢する。

といった具合に、「家」を重んじるためには、その家を成り立たせている個人が人権を侵されていてもそこはお構いなしだったわけですから、今の世の中は日本国憲法のおかげで救われている人がたくさんいると言えます。

私が普段気にかけている女性差別についても、まだまだ差別が完全になくなったとは言えませんが、それでも日本国憲法が出来て70年で、ようやく少しずつマシになっているかなとは思っています。

だからこれからもそうやってこっちの方向で、個人を尊重した社会で暮らしたいと願っている矢先に、どこかの偉い人達が「家庭の理想像は昔ながらのサザエさん一家」と、また「家」単位で、国民の生き方を指図してきたので、「なにそれ?」となったのです。

国が国民のことを一人一人の「個人」でなく、「家族単位」でまとめたがっている。

それも「家族の絆、家族の助け合い」といった耳触りの良い言葉で、さも素晴らしい事のように。

その一見耳障りの良い言葉選びや、サザエさんのようなほがらかアニメの力を借りて「憲法を変えようよ。昔に戻ろうよ。」と優しく説得されているような感じが、私は怖いと思いました。

 

私が思うに「昔の大家族は良かった」と考える人たちは、昔のお嫁さんが家族の中でただ「働き手」としてコキ使われて苦しんでいたことは無いことにしています。

だから今の社会にある介護の問題、少子化の問題、待機児童の問題などを解決するのに「昔はそういうことは家族で助け合っていたからなんとかなったんだ。昔みたいに皆で暮らせば丸くおさまる。」と思ってしまうんだと思います。

でも、国の動きとして「こっち」と示された方向に進んで行って、問題が沢山でてきたからと言って「昔」という逆方向に戻るのは、すごく浅かな考えだと思います。

 日本会議は記事にもある通り「個人の尊重や男女の平等だけでは祖先からの命のリレーは途切れ、日本民族は絶滅していく」という考えらしいのですが、私としては日本民族が絶滅する」も確かに怖いことではありますが、それと同じかそれ以上に「人権が踏みにじられて我慢しながら一生を終える人をたくさん作りながら日本民族が生き残っていく」というのも怖いことだと思います。

だから簡単に「このまま個人主義が進んだら、男も女も好きなように生きて結婚しない、子供も生まれない、日本人滅びるから、個人じゃなくて家族を重んじさせろ!」と国がそっち方面に舵を切るのはやめてほしいです。

少子化については私もよく考えてて、身近な女性に意見を聞くと、実は「産みたくない」とか「予定もない」と同じくらい「いける限り産みたい」もいるんですよね。

いける限り産みたい女性は、みんな金銭的な理由で子作りを3.4人で止めてるらしいのですが、私はそれを聞いたら「国は、生みたくない人とか予定のない人に産め産めと迫るより、こういう産みたい人が好きなだけ産めるように動くほうが早いのでは…?」と思ったりするので、そういうのなんとかしてほしいです。

あと、特別養子縁組の制度ももっと変えて里子制度が身近になるといいと思うし、要介護者を抱える家族が数家族寄り集まって暮らせるグループホームの家族ごと版みたいな施設もあるといいなとか考えたり、ようするに誰かと助け合わないと無理が出る社会なら、その誰かを「家族」に限定するのではなくて、もっと個人が自由に選んだ相手と助け合いことができるようにすればいいのでは?と思ったり、私ですらそういうの考えるからもっと頭の良い人がみんなで考えたら、なにも昔に戻ろうとしなくても、「未来なんとかなるんじゃないの?」って思うんです。

なんというか、単純に諸々の社会問題を「昔に戻れば解決」じゃなくて、なんかもっと「時代が進んだからこそ出てくるアイデアを頭絞って考えて活路を見出そうよ、そういうの考えるのが政治家でしょ、昔に逃げないでよ」っていうのが今の気持ちで、今日書きたかった一番のことかと思います。

 

あと最後に書いておきますと、サザエさん一家が幸せそうに見えるのは、①サザエの実家だからサザエがのびのびと自由な言動をしていて、②さらにマスオさんがお人よしな性格で妻の実家でもそれなりにマイペースに暮らし、③フネも波平もまだ元気に動けて、④カツオもワカメもタラちゃんも非行に走らず健康優良児だから、ハタから観れば幸せそうなだけであって、実際に今の日本で「さぁ三世代同居始めなさい!」と言われてもこの①~④の条件が揃う家庭はなかなか少ない気がします。

誰も年を取らずに「幸せな一時期」を永遠に繰り返しているアニメの家庭像を持ち出し、「こうなれよ」と言われても、私たちは現実に歳を取りますから素直に「そうだよね」と思えません。

私達は「理想の家庭像がどんな風か?」も人それぞれみんな違う頭で考えて生きている人間だから歳を取るし、時間の流れは止ま らなくて進むので、どうか国の在り方を考える人たちも「古き良き」の良かった所だけ見て理想化しないで、こっち方面で先を観て活路を考えるようにしてもらいたいです。

そして、中高生の皆さんも政治や社会や憲法のことを、もっと身近に考えてみてくださいね。

よろしくお願いします。

 

急いで書いたので乱文ですみません。

ではまた。