限りなく透明に近いふつう

やさしい鬼です お菓子もあります お茶も沸かしてございます

客商売の店員の名札に書く名前って、偽名でよくないか?

 

皆様こんにちは。

今日は私、コンビニバイトを辞めてだいぶ経つんですけど、今だに当時を思い出すとモヤる話があるんで書きます。

ある日私が出勤すると、オーナーの奥さん(以前もこのブログに書いたことのある、例の一癖ある「おばちゃん」)にこんな事を言われました。

「そういえば昨日、いつもよく来る男のお客さんが『桜島さんの電話番号教えて』って言ってきたのよ〜。私ちょっと悩んだんだけど、言わないでおいたからね~。」

 おばちゃんは肉まんを補充しながら片手間に、まったく普通のトーンで、まるで「今日から、コロッケ50円引きセールだから多めに揚げていいからね~」のトーンで私にそう告げました。

これに対し私は2つの意味で「は!?」となった。

1つ目の「は!?」はもちろんその男性客に対して。

確かに仕事中の私は愛想が良いので、常連さんと仲良くなることはこれまでもあったし、連絡先を貰うことも1.2回はありました。

でも「自分の連絡先を差し出す」のと「人の連絡先を聞く」って、後者のほうが圧倒的に迷惑度高いじゃないですか。

だから、その男性が私の不在時に他の店員づてに自分の連絡先のメモなり名刺なりを渡していったってのなら、ビックリするけどまだ理解できるんですよ。

なのに、そうじゃなくて桜島さんが居ない」→「じゃあ他の人から連絡先聞こうっと。」と思ったその人って…

は!?なにその矢印!?なにその思考回路!?聞き出せると思ったの!?どういう常識?理解できない、こええよ!!!

と思ってしまいました。

2つ目の「は!?」はおばちゃんの「ちょっと悩んだ」という部分への「は!?」です。

私の常識だと、「本人の許可を取らずに電話番号を第三者に教える」ということはまずありえないことです。

だから「教えない?or教える?」なんて選択肢は「10対0」で「教えない」に決まってます。天秤にかけるまでもなく悩まずに「教えない」の1択しかないってことです。

でもおばちゃんは「ちょっと悩んだ」と言いました。

それって一瞬でも「教えるor教えない」の天秤がおばちゃんの中に生まれたってことを意味してますよね。

だから、え?なんで悩む余地あんの?教えないの一択じゃないの?どういう常識でそこに1ミリでも「教える」の可能性感じてんの?みたいな「?」がもう生まれまくりですよ。

 で、男性客にもおばちゃんにも「は?なんだそりゃ!?」となった私だったのですが、とりあえず男性客は目の前に居ないから、まずはおばちゃんに聞いてみたんです。

「なんで『ちょっと悩んだ』んですか?言わないのが当然ですよね?」と。

するとおばちゃんはいつも通り「アラ私あんまり何も考えてなかったわ」的なニュアンスで「あはは、そういえばそうだったね~^^」と笑ってごまかして行ってしまいました。

ようするにおばちゃんはあんまり何も考えていなかったらしい。

 

お世話になった人にこんな言い方するのは本当に忍びないけれど、このおばちゃんは本当にいつもこういう「基本なんも考えてないのでは…?」となる言動が多かった。

その為、この頃の私は、おばちゃんとまともに話したらこっちが疲れるから色々腑に落ちなくても諦めることにしてました。

だからもう追及はしなかったのですが、この時のコレは本当に解せなかったです。

でも私はこういうのを後からぐじぐじと考える性格なもんで、バイトしながら色々考えてたら不安要素がいくつも思い浮かんでくるわけですよ。

「おばちゃんはもし私が独身だったら教えてたのでは?」とか。

「下の名前くらいだったら教えてたのでは?」とか。

「いや、おばちゃんじゃなくても高校生のバイトちゃんですら、大人の男性客に強く聞かれたら断れずに下の名前くらいは教えてしまうんじゃ?」とか。

 

つまり、今回はセーフだったけど、状況が違ったら個人情報が簡単に漏らされる可能性があるわけで「そのセーフさが『運』に左右されてる感じ」がすごい危なっかしくて怖い、と思いました。

 何年か前、コンビニの女性店員がバイト帰りに男に刺殺された事件がありましたよね。あれ、私の生活圏内のコンビニだったこともあって、当時だいぶショッキングでした。

あの事件についての報道の中には「男は知人に『近所のコンビニにかわいい店員がいる。』と話していた」という話もあったので、そういうのを聞くと、自分も含めて客商売の店員の置かれている状況に、危なっかしさを感じました。

しかも、そんなことを考えながら思い返してみると、そういえばコンビニで働き始める時にそういう(従業員の個人情報を勝手に口外してはいけない。)注意って一切なかったな、と思い出しました。

初期の研修期間に少しだけ、仕事内容とは別の「心得」みたいなのを教育される時間はあったんですが、その中には「従業員以外の人を事務所に入れてはいけない。」とか「仕事中に私用の買い物をしない。」みたいな、ごく基本的な注意点だけでした。

「従業員の個人情報を勝手に口外してはいけない。」ってのは無かった気がします。

よそのコンビニではそういう教育もちゃんとしてるのかもしれませんが、私の働いてたところはそういう教育が無かったし、私がこれまで働いてきた職場は10数か所あるのですが、その中で「他の従業員の個人情報をもらさないこと」とあえて、初めに注意された職場は1つしかありませんでした。

もちろんそんな事って、本当はわざわざ職場が従業員に教えるまでもなく、働けるような年齢に達しているなら「人として踏まえているべき常識」だとは思うんです。

だからコンビニの上層部もマニュアルに載せてない項目なのだと思いますが、でも、こうやっておばちゃんみたいな危なっかしい人を職場で目の当たりにすると「職場として各従業員にあえてちゃんと釘を指すべきなのでは?」って気もします。

自分で言っておきながら、そんな事をわざわざ教えなきゃならないなんて、「人間同士の信用が薄れた社会」って感じがしてちょっと空しいなぁ、とも思います。

でも、今の時代ってフルネームが判明したらfacebookで色々探ることも出来ます。

SNSやってなくても、名前とか電話番号が漏れたら住所が分かる方法なんてすぐ見つかりそうな時代です。

だから、接客業という、不特定多数の他人と接する業種なら、初めにちょっとその点の注意をする必要があるんじゃないかと思います。

ファーストフード店とか居酒屋チェーンとかコンビニは「若い子が初めに社会経験を積む場」になりがちな職種なので、特に。

 

もちろん、全員が個人の判断で「それはやったらマズイこと」と分かるのが理想なんですが、学生時代にもいませんでした?

勝手に友達の番号を人に教えちゃって「彼氏の男友達に〇〇子のプリクラ見せたら超気に入ってたから番号教えちゃったからね~、〇〇子も彼氏欲しいって言ってたからいいよね~?」みたいな事後報告してくる危なっかしい子。

多分、そういう人ってどんな世代にも一定数居て、しかもそういう風に勝手に他人同士をカップリングするのが好きな人は、悪意ではなくて本当に「良かれと思って」くっつけたい人同士の個人情報(電話番号まではいかなくても「下の名前」や「年齢」程度なら特に)を流したりするんですよね。

もしそういう人が職場にいたらたまったもんじゃないよな、と思います。

 

 

あと、これも関連することなので書いておきますが、以前私はTwitterにこういう発言を載せました。

この時、私にしては珍しい数のリプライを頂いて、同じように思う方が多いようでした。

中にはご自身や同職場内の人のストーカー被害経験を書いてくださっているものもあったりして、やはり「名札で店員の本名バレ」「執着した客とトラブル」というのは実際にわりと起こりうるもんなんだなぁと実感しました。

ストーカー気質の人にしてみれば、「一つ分かったらもっと知りたい」みたいな心理も働くと思うので、「名字ですら本名を掲げるのは抵抗ある」って人は私以外にも居るんですね。

 

好意が元になるようなストーカー以外にも、店員はどうしても客に都合の悪い事を言わなきゃいけない場合があるのに、変な客が相手だと、「この店員ムカつくなー、名前は○○か、後で検索してやれ」ってなる可能性を考えると尻込みしてしまう、という事もありますよね。

だから、客商売の店員が名札に書くのは本名じゃなくて、源氏名(ビジネスネーム)にしちゃっていいんじゃないかと私は思います。

 

しかも、私はこんなふうに「名前ですらヤダ」って思うのに、世の中には店員・社員の個人情報を「晒させられる職場」って結構あるんですよ。

私が仲良くしてる着物屋さんは店員がマンツーマンというか、最初に応対した店員さんが担当になって、毎月イベントやセール情報の書いたチラシと手紙を送ってくるというシステムがあるんです。

私の担当は22.3歳の新卒のとても可愛らしい感じの女の子だったのですが、その子からその手紙が初めて来た時、びっくりしました。

だって、その子のプロフィールとして、名前と生年月日と血液型と趣味、さらには翌月のシフトまで載せてあって、「私はこの日に出勤です!(^^)!遊びに来てくださいね!」とか書いてあったんですよ。

その手紙は印刷物だったので、担当してる客みんなに送ってるそうなんですが、

「これ、怖くないのかよ?」と思いました。

後日、その子に個人的に「あれって、自主的にやってるの?」と聞いたら、

「あれ、お店のシステムなんですよぅ。入社して、このお店の配属になってすぐ、店長に『お客さんによく知ってもらう為に、いっぱいプロフィール書いてね』って言われて書かされたんです。私らは、毎月のコメント文を書いて店長に渡したら、店長がシフトとかレイアウトして印刷してるんです。」と言うので、「どひゃー」と思いました。

「嫌じゃないの?」と聞いたら「最初嫌だったけど、そういうものだって慣れちゃいました。」と言っていて、なんつうか、22.3歳なんて社会人としてヨチヨチの頃にこんなことに慣れさせるなんて、その会社が怖いと思いました。

もちろん、そういう風に情報を晒したい店員がするのは自由だけど、「会社に入ってみたらそれが慣例だったからやらされてる。」というのは、可哀想ですよね。

それで、その子が変な客に個人的につきまとわれたりしても会社は責任とってくれないだろうし。

もうちょっと、職場自体が自分のとこの社員の個人情報に対して「デリケートであれ!」と思います。

 

ちなみに、コンビニバイトのその日、私はおばちゃんへの態度がつい冷たくなっていたのだと思います。

それでおばちゃんもさすがにちょっと悪いと思ったのか、私が帰るときにおばちゃんは「ごめんね」と言ってきました。

それで私も「いや、今回のはもういいんですけど、連絡先聞かれたりしたら、悩む余地が無くダメなことだっていう認識は持ってください。」と言いました。

そしたらおばちゃん

「うんうん、桜島さん結婚してるんだから、当然教えちゃダメよねぇ」と言ってきて、

 

「わかってない…!!」と思いました。ぎゃふん。

 

独身でも彼氏募集中でも、ダメなんだよ!!!

 

 

まぁ、このおばちゃんは特殊な例だと思いますが、これを読んでる高校生とか若い子の中には、もしかしたら分かってない子がいるかもしれないので、改めて書いておきますね。

「人の個人情報は勝手に第三者に教えちゃだめですよー」

 

じゃ長くなりましたが、今日はこのへんで。

ではまた。

 

女装男が笑われる理由が分からないという話

 

私はこのブログを始めた当初「思いついたことを思いついた時に文章にして人に見せて心すっきりしたいなぁ」と思ってました。

でも実際は、思いついたことを頭の中で煮詰めに煮詰めて、もはや煮崩れてる?いや、腐ってる…?みたいな不安が漂うまで料理した末に「食べられるといいんですけど…」みたいな気持ちで公開するのが習慣になってしまって、当初の目標が全然達成できてないことに「とほほ」と思ってます。

というわけで、今年こそは思いついた事が半煮えだろうと、とりあえずは皿に乗せてしまえば料理だろう的な精神で、ブログを書いていこうと思います。

今年もよろしくお願いします。

 

さて、最近、昔に比べて「警視庁24時」的な番組がしょっちゅうやってる気がします。

しょっちゅうやってるので、いつの放送だったか忘れたけど、昨年やってた警視庁24時的な番組にムカついた場面がありました。

それは、下着泥棒が連発しているという地域を巡回するパトカーにカメラが同行してる時でした。

夜道を歩く、ミニスカートを履いた背の高い人物の後ろ姿が映し出されて、「深夜、パトロール中に怪しい人影を見つけた」というシブい声のナレーションが入りました。

警察官達がその人に職務質問をする段になると、画面右上には「深夜に怪しい人影…実は○○」というテロップが出て、顔にモザイクのかけられたミニスカートの人は、ややゴツい脚の形から察した通り、女装した中年男性でした。

ナレーションは、同番組で車から大麻が見つかった時の深刻なトーンとはちょっと違う、少し茶化した感じの声で「なんと女性の正体は、男!」と言い、警察官も「あれ、あんた男かい!?」と半笑いのような感じで言いました。

そして警察官はさっきまでの形式的な口調から急にくだけた口調になって「なんで夜中にこんな格好してるの?」「下着は女物なの?」とズケズケ聞いて、女装おじさんの持ち物検査が始まりました。

「この男、怪し過ぎる…」というナレーションが入って、持ち物検査の場面が進みましたが、結局、女装おじさんには何の非も無く、単に夜中に女装して歩くのが好きなだけのおじさんでした。

しかし、それが分かって解放されるくだりになっても警察官は「お父さん、そんな足出して寒くないのかい笑」「こんな格好してないで、もう帰りなさいよ」という、一応「心配する警察官」の体裁を取ってはいるものの、よく考えたらよけいなお世話だと言いたくなるようなことをおじさんに言い、闇夜に消えてゆく女装おじさんの後ろ姿と「まったく人騒がせな女装男であった」というナレーションでそのくだりは締めくくられていました。

これを観ていて私、ムカムカしました。

だって、結局女装おじさんは何も悪いことしてなくて、好きな格好して夜出歩くのが趣味なただの市民だったんですよ。

そこを職質されて、まぁそれが普通の警察官としての礼儀正しい職務質問だったらまだ許せるものの、警察官は軽く小馬鹿にしたような見下すような口の利き方になってたし、シロと分かった後もそれが続いてて、なんかそれがおじさんに対してとても失礼だと思いました。

テレビもテロップやナレーションで散々「怪しい」と煽っておいたんなら、最終的におじさんがシロなら「巡査の勘が外れた」と言うならまだしも、「人騒がせな女装男だ」と、まるでおじさんのせいみたいなナレーションで締めくくってて、私は「勝手に騒いだのはそっちだろうが、おじさんに謝れ」と思いました。

 ようするに私は「女装男の市民権が低く見積もられておる!」という事に、ムカついたんです。

警察官の口調には「女装なんかしてる中年男にまともな口を利くのが馬鹿らしい」というような意識が透けてたし、番組の編集にも「女装してる中年男」の存在を「悪人ではないけど、こういう変態の応対も警察官の仕事にあるんですよ〜」みたいな、箸休め的な役目に使ってる感じがして、私はそこで世の中から「普通の市民」として存在することを認められない女装男性の扱いに、ムカついたんです。

 なんで私は腹が立ったのかなぁと考えてみると、そもそも、私は昔から「男の人がスカートを履くと笑われる」という現象がいまいち理解出来ない子供でした。

中学校と高校の文化祭の出し物で、男子が女装してステージで踊るみたいな演目があったのですが、男子がその姿で登場した時、その日1番の大きな笑いと歓声が起こると、私は「えっ、ここ笑う所なの?」という感じがして「みんな何が面白いんだろう?」と本当に不思議でした。(今も不思議です。)

私は子供の時から「女の人はズボンを履いても笑われないのに、男の人がスカートを履くと笑われる。」という、非対称性にしっくり納得出来てなくて、いつもそういう場面で笑ってる同級生とかは、私が保育園や小学校を休んだ日に「男が女の格好をしたら変なんですよ。そういうのを見た時は笑いましょう。」という風に先生に教えられたりしたのでは?と思ってしまうくらい、なんでそこで揃いも揃ってみんなが女装男のことを「変」とみなしてるのか、本当に分からないんです。

だって、服装なんて個人の自由で、私も履いてるスカートを、男の人が履いたら「変なのー」と言う理屈が分からないんですもん。

「スカートを履いてること」が変なら、「スカートを履いてる私も変」ということになるんですもん。

どうも私には「男なら男にふさわしい格好、女なら女にふさわしい格好」という概念が無いらしく、「私は女だからスカート履いていいの、男はダメなの」という理屈に、性別で決められた特権を振りかざす匂いがして、「なんかヤダ」と思ってしまうんです。

世の中に同意見の人数が多いことが「普通」とされるなら、私の方が普通ではないのは分かってます。

でも最近テレビを観てると、綺麗な女装姿の男の子がよく見られます。

今、ドラマで月9の「海月姫」と、NHKの「女子的生活」を観てるんですが、たまたまこの2つの作品には女装男性が出てきます。

女装した瀬戸康史くんも志尊淳くんも、まぁ素晴らしく綺麗で、普通に私は「似合うなぁ」と思って観てて、Twitter観ててもそれは皆、同感らしくて、沢山の人が彼らの女装姿を褒めてます。

それで、私ははじめのうち、世の中に昔よりは女装に対して「笑う」以外の受け止め方が生まれてきたのかな、と少し嬉しくなりました。

でも、Twitterの中には「瀬戸康史の女装アリだな」という、その人の中での「アリ・ナシ」判定をクリアしたのだと分かる発言もよく見かけるようになってきて、「やはり、女装姿というのは『ナシだったら笑う』で『アリだったら笑わない』という判定を用いられてしまう対象なんだな」と思いました。

「アリだったら笑わないけど、ナシだったら笑いものにする」という判定は、昔から女の人の容姿には用いられてきたひどく失礼な判定です。

女装男性が出てくるドラマが増えてきて、私は世の中で女装はポピュラーなものになりつつあるというか、「女装=物珍しいもの、変態」といった見方が無くなってきた感がして、少し嬉しくなったものの、それは決して世の中に私みたいな「男の人が女の格好をして何が面白いのか?」という人が増えたわけではなく、単に「見た目が綺麗なら自由な言動が許せる」という、昔から女の人が世の中にされてきた判定が、女装男性にも適用されるようになってきただけのことなのかなと思いました。

だから「女装したおじさんは笑い者にされて、女装した綺麗な男子は笑われなくて済む」という現象に落ち着いてるだけで、世の中が決して「服装は個人の自由、性別ごとの服装縛り?バカらしー」という意見に変わってきたわけではないから、なんだ、やっぱり私とおんなじ気持ちの人ってあんまし居ないのかなーと、ちょっと寂しくもなりました。

別に、私は同意見の仲間が沢山欲しいわけではないけど、少なくとも、女装してる人がおじさんだっただけで、小馬鹿にする警察官とか、馬鹿にしたような編集をする番組が沢山あるのは、嫌だなと思います。

普段は普通に男の格好して働いて、夜は時々可愛いスカート履いて出歩いて、ウキウキした気分を味わって息抜きしたいおじさんは何も変じゃないし悪くないですもん。

まぁ、ようするに、性別というものがあやふやになってきてる今、あやふやでもそれぞれが苦労して出した「答え」に沿って生活してるなら、お互いに人数の多さや少なさで、威張ったり、萎縮したりするのは馬鹿らしい気がするんです。

服装というのは、その「答え」が見えやすいところだから、そこを理由にとやかく言ったり、バカにしたりするのは「人の生き方に口出しする他人」ていう、超ダサい存在なような気がして、ダサいことしないほうがいいんじゃないの?っていう感じです。

 

煮詰まってないただの感想なんですが、そういうのを出してくことにしたので今日はここで終わります。

ではまた。

 

 

なんでセクハラはなくならないのか。

 

このところ、セクハラ関連の話題をよく耳にしますね。

最近のセクハラ被害のニュースの多さや「#MeToo」の声の多さに、驚いたりショックを受けている人もいるかと思います。

このたび私はそういう驚きやショックはありませんでした。

というのも、以前に、自分の痴漢された経験をもとにした考えをここで書いた時、その反響で「私も…」という声をかなり多く頂いて、その時にすでに「私以外にもこんなに…」という驚きとショックを私は先に経験していたのでした。

だから最近#MeTooの声がたくさん上がってきても、多すぎるとも思わなくて「皆の堪忍袋の緒がとうとう切れたんだな」と思いました。

 私自信が痴漢や痴漢っぽいことや、セクハラやセクハラっぽいことをされていたピーク期はもう10年くらい前なので、自分の中ではふだんはそれほど意識しないで暮らしているのですが、普段は意識しなくなっても、経験が無くなるわけではないから、意識の奥の方では怒りとか理不尽さみたいなものがずっとくすぶっているような気がします。

そして、私がそういう目に遭わなくなっても、世の中にはやっぱりセクハラや性被害がいまだにあるという事に嫌気がさしてきますし、今日もどこかで誰かが過去の自分のように苦しんでいると思うと、私はとても悲しくなります。

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それにしても、私は謎です。

どうして何十年も前から女が「嫌だ嫌だやめてくれ」と訴えているのに、

世間常識的にも「セクハラは悪いこと」だと知れ渡っているのに、

セクハラ事件は起こり続けるんでしょうか。

※今回の文を書くに当たって、セクハラが「男→女」に限定した行為という書き方になってしまう事をお許しください。世の中には勿論女→男、男同士、女同士のセクハラ事件もあります。ですが、全部のケースを視野に入れた内容は私の文章力ではどうしても読みにくい文になってしまうので、一番多い男→女のケースに焦点を当てて書かせて頂きます。他のケースによる被害で苦しまれている方にとっては不快かもしれませんが、申し訳ありません。ご容赦ください。

 「なぜセクハラは無くならないんだろう?」

私はここにきてシンプルに疑問に思えてきました。

個人間で「なぜセクハラが起きたのか?」という話ではなくて、社会の中で「なんでセクハラがいつまでも無くならないのか?」という疑問です。

それについて考えていたら、私はまた一つ引っかかることが出てきました。

それは「一部の男がクズだという理由だけで、果たしてここまでセクハラという1つの悪習が、存続するものだろうか」ということです。

どういう意味かというと、

私はこれまで「セクハラは誰のせいで起きるんだろう?」と考える時に、漠然と「性欲の自制が効かないタイプのクズい男がいるからだ」と思っていたんです。

でも、よく考えてみたらそれだと私の中の辻褄が合わない、と気が付きました。

なぜなら、私は世の中の男性には、ちゃんと性欲の自制が効く人のほうが絶対多いと思うからです。(統計を取ってないのでただの持論だけど)

たしかに性欲の自制が効かないタイプの男は、発言力があったり目立つ言動をする傾向があって、彼らがよく「男代表」みたいな顔で「男は~」と語るから、世間ではつい彼らの方が多数派と認識されがちだけど、私は性欲の自制が効く男性の方が多数派だと思うし、そう信じてるんです。

だから「性欲の自制が効かないクズい男」は男性の中で一部のはずなのですが、どんな流行りも文化もそんな一部の人間のみが支持するだけではこんなに長続きしないとも思うんです。ここが辻褄が合わないところ。

そんなわけで私は「そんな一部の少数派の男の支持だけで、セクハラという1つの悪習が、ここまで長きにわたって存続するものなんだろうか?」という点が引っかかったのです。

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そのあたりについてぼんやり考えてたら、私はある女性のことを思い出しました。
その女性は、当時私の働いていた介護施設の施設長で、いくつかの施設を運営している我が社の中では数少ない女性役職者の1人でした。

40代後半の仕事の出来る女性で、私は彼女の事を上司として尊敬していたし、人としても通じ合うものがあって、好きでした。

彼女の方も、なんとなくですが他のスタッフよりも私に目をかけてくれていたような気がします。彼女の事はCさんと呼びます。
ある時、私の職場施設の建物が新築されることになって、そのお披露目会のような宴席が設けられました。

会社のお偉方や、そのお偉方の招いた外部のお客様も来るような会でした。
私は同僚達と共にただヘラヘラと宴会の準備をしていたのですが、そこへCさんがやってきて、さりげない感じで私だけを端に呼んで言いました。

「今日、すごく偉い人とかがいっぱい来るから、桜島さんうまいことやってね。」

私は、ただ「雑用は任せるから」的な意味だと思い「はいはーい」と軽く返事をしたのですが、Cさんの言った「うまいことやる」というのは、どうも違うニュアンスも含んでたようなのです。

それが分かったのは会が始まってからでした。

私はCさんに命ぜられるまま、お偉方のいる席に行って酒を注いだり、話し相手をすることになり、そこまでは「まぁ仕事だ仕方ない」と思って笑顔でこなしていました。

でもお酒が進んだ頃、来賓のおじさんの一人がむんずと私の手を取って「細そっこいなぁー、折れちまうんでねぇか、ガハハ」と笑いました。

私は介護職なので、人肌に触れること自体はそんなに抵抗が無いほうなんですが、反射的に「こういうのはやだ」と思いました。

しかし、他のおじさんもそれに続いて遠慮なしに私の手を掴んで自分の手の平と合わせて、小さいだの細いだの言ったり、足はどうなってる?と私のズボンの裾を軽くめくって足首を掴んでまたガハハと笑ったりはしゃいでいます。

私は、もうこんな酔っぱらいおじさんの相手は仕事じゃないぞ、と思って席を離れるべく腰を浮かせつつも、一応気になってCさんの方を見ました。

するとCさんは私に向かって両手で「まぁまぁおさえておさえて」のジェスチャーをしていました。表情は「嫌だろうけど頑張って」的な、目と眉毛は困ったような、口元は微笑で。

「えーやだよー」という表情ジェスチャーをする私に「がんばれー」みたいな表情ジェスチャーをするCさん。

この時私は、Cさんが言っていた「うまいことやって」には「こういう場面におけるホステス的な役割を任せる」という意味が含まれていたのだと気が付いたのです。

結局、ほどなくしてトイレを言い訳に席を立った私がそのまま偉い人のテーブルに戻らずにいると、Cさんが代わりにその席に座って偉い人のお相手を引き継いだ形になりました。

私は会が終わるまで、Cさんに対して「私にそんな役目を任せやがって」という恨みがましい気持ちが半分と、逆に「Cさんに言われたことを遂行出来ずに悪かったな」という気持ちが半分の複雑な気持ちでいました。

もしそれまでの関係でCさんのことを好きじゃなかったら、後者の気持ちは生まれていなかったと思いますが、Cさんのことを好きだったのでそうも思ったのです。

それで、会が終わって後片づけをしている時に、後者の気持ちをフォローするようなつもりで、私は「うまくやれなくってなんかすいません」みたいにCさんに謝りました。

するとCさんはこう言いました。

「いいよー。でもこういうチャンスはあんまりないからさ、もったいなかったよ。せっかく上に気に入られるチャンスだったのに。」

 若かった私は正直この時、Cさんが何を「もったいない」と残念がっているのか、ピンと来ませんでした。

それに、普段私に目をかけてくれて、何かと親切にしてくれていたCさんが、この時ばかりはこうした嫌な役目を私だけに押し付けた事が、謎でした。

でも「もう済んだことだしいいや」と思ってこの時は思考停止して、今日まで深く考えずにきました。

しかし今こうしてこの出来事を思い出してよく考えてみると、その謎の答えが分かるような気がします。

私がCさんのお気に入りだったことや、Cさんの「もったいなかった」という台詞から察するに、彼女がまるで遣り手婆のようにお偉いさんの男達の中に私を放り込んだのは、けして「嫌な役目だから桜島さんにやらせよう」という悪意からではなかったのです。

悪意どころかむしろその逆で「せっかく、お偉方に売り込めるチャンスだから桜島さんが彼らに気に入られるように御膳立てしよう。」という、上司として、働く女性の先輩としての親切心から、私にその役目を命じたんじゃないかと思います。

でも私は、仕事上の権力者男性にホステスのような「女」としての役割を求められるのは嫌でした。

ですから、結果的にはCさんの「親切」は私にとって「ありがた迷惑」だったのですが、Cさんから発せられた時点でのそれは「親切」であったと私は思うのです。

ではなぜ、一つのことが、Cさんには「親切」で、私には「迷惑」というように、真逆の意味を持つ結果になってしまったのかというと、おそらくCさんと私では「仕事をする上での『女』という性別の置き所」みたいなものが根本的に違うからじゃないかと思います。

どういうことかと言うと、Cさんの「チャンスだったのにもったいなかった」という言葉は、Cさんが「女を使うことで権力者の男性に気に入られる術は、女にしかできない裏ワザなのだから、そのチャンスがあるなら活かさなきゃもったいない。」という考えがある人だからこそ出た台詞だと思うのです。

つまり「仕事上の権力者男性に、時として『女』の役割を求められる」ということを私は「女だから遭遇してしまう、邪魔くさいこと」だと思っていますが、Cさんはきっとそれを「女だから得られた、気に入られるチャンス」と思っているんだと思います。

私は「仕事では女という性別を抜きに、ただの人として存在したい」けど、

Cさんは「女という性別を活かして仕事をしないともったいない。」という風に、私達は「仕事をする上での『女』という性別の置き所」がそのように違っていたんだと思います。

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そんなような事を考えていたら、私はふと、冒頭の疑問が解けた気がしました。

私はセクハラ行為について、「一部の、性欲の自制が効かないクズい男だけが支持しているのでは、支持層が少なすぎるのではないか」と引っかかっていました。

しかし、世の中にCさんのように「上に行けるならセクハラをある程度容認する女性がいる」という発想を得てみると、話がちょっと変わります。

そう、「セクハラをある程度容認する女性」がいるならば、さらにその上に「セクハラを積極的に利用したい女性」もいるんじゃないかと思えてきたのです。

つまり「権力者の男と寝る毎に大きな仕事を貰えるなら、是非その流れに乗りたい!」という女性や、さらにはもっと「アタシは積極的に女を使ってテッペン登りつめたるんじゃい!!セクハラ!?かかってこいや!」みたいな女性だって、きっといるはずだということです。

そういう女性は、もし仮に世の中の男性が一切セクハラをしない、極めて紳士的な男性だけだったら、今より仕事が上手くいかず、100%仕事の実力のみで評価される社会の中で「あー、女使えればもっとラクなんだけどなー」と思うはずでしょう。

だから、そういう女性達も「セクハラが蔓延している世の中の恩恵を受け、それを良しとしている」点では、セクハラ行為の支持層に含まれるのではないかと思ったのです。

こうして、新たに「一部の女性もセクハラ行為を支持している」と考えると、セクハラ支持層は先ほどより増え、「支持層が少なすぎるのでは?」という私の引っかかりは解消されました。

そして私はこれによって、そもそもの疑問「なぜセクハラがなくならないのか?」にも答えを出すことができました。

もしも、全ての女性がセクハラに断固「NO!」の姿勢を持っていたら、下心を持ったセクハラ男がそのつもりで女性に接触するごとに毎回断られ、時に訴えられ、悪評が立ち、女性が離れていく一方なので、さすがに時代の経過と供にセクハラ男人口は減っていくと思うのです。

しかしいつの時代も一部セクハラを良しとしている女性が実在することで、セクハラ男はたまに「OK」な女性に当たることになり、その経験がまた別の女性に対しても「この子もOKなんじゃないか?」という気を起こさせ、セクハラ男の間で、その行為が継続していくのではないでしょうか。

「だから、いつまで経ってもセクハラが世の中からなくならないのか!」

私は1人ガッテンしました。ガッテンガッテン! 

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 さて、ここで話が終わると、私は「セクハラ男」と「セクハラ容認女性」の両方を悪者にして終わることになりますが、私はその両者が同罪では無いと思ってます。

セクハラする男が悪いというのは言わずもがなですが、「セクハラ容認女性は悪いのか?」と問われると私は「悪い」とまでは思えません。

まぁ、「推奨はしないけど、悪いことでもない。」という感じでしょうか。

 でも、彼女達がもしその行為や価値観を人に押し付けたとしたら…話は別です。

自分が自由にしていいのは自分の身体だけですから。

自分がいくらセクハラが平気だからといって、他の女性にも「こんなのこの世界じゃ普通だよ」とか「なんでそれくらい耐えられないの?」とか言ったり、自分と同じように「女性性を使うこと」を強制したりしたら、その時点で、その女性は他人の領域に土足で踏み入るセクハラ男と同じだと思います。

また、そういう事を求めていない男性に対しても「男はこういうのが好きなはず」という風に当たり前のように己の女性性を押し付けるような真似をして、もしその男性がそれを迷惑に感じたら、その女性はセクハラをしていることになります。

「男はみんなこういうのが好き」と思ってどんな男性にも迫るのは「他の女もイケたからこの女もイケる」と勘違いしてどんな女性にも迫るセクハラ男と、思考回路が同じだからです。
そうなったら、私はセクハラ男と同様にそのセクハラ容認女性のことも悪だと思います。

でもこのように自分以外がセクハラを受けるように仕向けたりしない限りは、その女性がセクハラを容認していようと、歓迎していようと、私は良いと思います。

「そういう女にもその姿勢を改めさせたほうが良いのでは?」という意見もあるかと思いますが私はそう思いません。

なぜなら、私はセクハラは無くなって欲しいけど、それと同じくらい、女の人一人一人の行動や考えが自由であることを願っているからです

つまり、いくらセクハラが無くなって欲しいからと言って、全部の女性に「仕事で女を使うべきではない」「女は断固セクハラを拒むべき」と求めると、それはそれで私の嫌いな「女はこうあるべき」の押し付けになってしまうと思うんです。

だから、どれくらいいるか分かりませんが、セクハラを容認する女性も、セクハラ歓迎の女性も、それはそれで本人の生き方だし、本人の身体なので、自分と相談してどこまで自分の女性性を使うかその女性の自由でいい、と思うんです。

まぁ、仕事の実力ではなく「女を使う」といった裏ワザ的な方法で仕事がうまくいったとしても、後々困る事態が必ず来ると思うんですが、そうなって困るのも込みで、その人の人生なわけですから、本人の好きにすればよいんじゃないでしょうか。

ただ、Cさんのように本当に良かれと思って人に押し付ける場合もあると思うので、もしこれを読んでる中に、そういう女性がいたら、そこのところは気を付けて欲しいです。

最後に、セクハラ男が誤解しないように書かないといけないことがあります。

これを読んでセクハラ男が「よし、セクハラがOKな女もいるってことはセクハラ辞めなくていいんだな」と都合よく解釈されても困りますので。

セクハラ男の人、大事な事なのでよく聞いてください。

「セクハラを迷惑じゃない女性がいる」ということで「セクハラを迷惑だという女性がいない」ということにはなりません。

あなたにとって都合の良い種類の女性が存在するとしても、女性は一種類ではありませんので、どの女性もあなたに都合の良い性格や考え方をしているわけではありません。

だから例え1人の女性にセクハラが受け入れられたからといって、他の女性にも同様に迫っていいという理由にはなりません。

以前うちの近所に、サモエドという大型犬を飼っているおじさんがいました。

そのサモエド犬は、いつも散歩の時に口輪を付けていました。

 ある時、いつものように散歩中のその犬を私が触らせてもらっていると、犬も喜んでフガフガ言ってて、私は口輪が窮屈そうに思えてきたので「いつもなんで口輪してるんですか?」と聞いてみました。

するとおじさんは「うん、この犬は噛むってことは無いんだけど、こういう大きい犬は怖がる人いるでしょう。ただでさえ大きくて怖いのに、口が開いてたらもっと怖がらせちゃうんじゃないかと思って、それで悪いから散歩の時だけ口輪つけてんだ。」と言いました。

私が「じゃあ口輪外した顔観てもいいですか?」と聞くと、おじさんは「いいけど怖くない?」「顔舐められるよ」と何度も私に確認しながら口輪を外してくれて、犬はもう案の定ハッハベロベロハッハベロベロと私の顔を舐めまくりました。

おじさんは「よかったなー」とニコニコして、私も犬と戯れられてとても嬉しかったです。

 と、なんで急にこの話を書いたのかというと、この話のポイントは、私のように、犬を歓迎する人はいるけど、怖がる人もいる以上、おじさんは怖がる人に基準を合わせて犬に口輪を付けて散歩しているというところです。

大きな犬はただ散歩をしているだけでも怖がる人がいる。

だからおじさんは、自分は飼い主なのでもちろん犬が怖くはないし、私のように歓迎する人がいても、怖がる人に合わせて怖くないように犬に口輪をしてるんですよ。

私は下心や性欲というものも、そういう扱いをするべきだと思います。

たとえ、自分の下心や性欲を歓迎してくれる人がいたとしても、それを嫌がる人、迷惑な人もいる以上、人と接する時は嫌がる人のほうを基準にするほうが周りに迷惑がかかりません。

歓迎の人とは後から合意をとって仲良くすればいいだけのことですし。

自分が下心を出す時は、おじさんが口輪を外すとき、何度も慎重に私に確認したのと同じように、相手が本当に嫌でないのか慎重に確認を取ってください。

相手の反応を考慮しないで性欲を露わに向けるのは、相手が近寄ってもいないのに大型犬の紐を放してけしかけるのと一緒です。とても迷惑だからやめてください。

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すごく、わかりにくい話を書いてしまってちょっと反省しています、すいません。

8か月ぶりにブログを書いたから全然文章がうまく書けなくて困ってます。

でも最後にちょっと言いたいことがあります。

MeTooについて、誰かが「MeTooブーム」と称しているのを読んだのですが、私はそれが嫌でした。

たしかに、いま、盛んになり始めたものは、ひと時は「ブーム」に見えます。

でもブームという言葉を辞書で引くと、

【あるものが一時的に盛んになること。爆発的に流行すること。】とあります。

つまりこの流れが「一時的」であり「ただの流行」と捉えられているということです。

でも私は、これはブームで終わらせてはいけないものだと思います。

MeTooを書いている人達は、皆それぞれに思いがあって書いてると思うんです。

自分の気持ちの整理や区切りの為かもしれないし、他の人へ勇気を与える為かもしれないし、他の人も書いてるからつい書いちゃったという人もいるかもしれないけど、とにかく起きた出来事が嘘ではないなら、#MeTooの言葉にはそれぞれ背景があって、重いものが乗っかってると思うんです。

だから私はそれがブームという、軽い風に乗って訪れたお洒落な感じの意味合いで称されるのが嫌だと思いました。

お洒落や流行でこんなこと、吐き出せる人ってそんな居ないでしょう。

人におもちゃにされた経験ってつらいですもん、本当に。

MeTooが出来たことで、これまで吐き出せなかった事を吐き出せて、人の発言に勇気をもらったり励まされたり癒されたり、と救われた人は多いと思います。

だから#MeTooは一時的な流行(ブーム)ではなく、いつまでも繋ぎ続ける動き(ムーブ)でないといけないんじゃないかなと思う。

でも本当のこと言ったら、私はもっとその先には「MeToo(私も)」の声が、聞こえなくなることを願ってます。

それは、皆が声を殺すから聞こえなくなるのではなくて、そもそも「私もこんな被害体験がある」と誰も言わなくて済む、被害体験が起きない社会になって、MeToo(私も)の声が聞こえなくなって欲しいという意味です。

なんだか綺麗ごとのようですが、年の瀬なので大目に見てください。

ではまた。

 

 

男子座りション問題について本気出して考えてみた。

 

はじめに

こんにちは。

突然ですが、皆様のお宅でトイレ掃除はどなたの役目でしょうか?

一人暮らしの方のほとんどはご自分でされていることでしょうし、「うちはお父さん(夫)がやっている。」「当番制にしている。」「気が付いた人がやっている。」なんていうご家庭もあるでしょう。

しかし、やはり圧倒的に多いのは「お母さん(妻)がやってる。」というお宅ではないでしょうか。

実際、某製薬会社のアンケート調査によるとトイレ掃除をやる男女比率は「男性6割、女性9割」だそうです。

つまり、女性はほとんどの方が日常的にトイレ掃除をやるけど、男性は4割もトイレ掃除にノータッチの方がいるということなんですね。

この割合の差には少し驚きますが、まぁ考えてみれば、現状、家事全般を女性の役目としている家庭が多いので、トイレ掃除も当然そこに含まれるわけですから、当たり前といえば当たり前ですね。

「日本の男女の家事分担割合が偏ってる」ということは個人的に気になる点ではありますが、今日は本題が違うのでそこはとやかく言いません。(家事を分担するか、どう分担するか、というのは各家庭で良い具合がそれぞれ違うものですし)

ただ、このように「トイレ掃除が主に主婦の仕事になっている」という現状があるがゆえに、ここ数年巷でよく聞かれるようになった家庭問題の一つが、私は気になっています。

 それはずばり、「家庭内男子座りション問題」です。(名称が長いので今日は「座ション問題」と略します。)

これだけで何の話かピンとくる方もいると思いますが、まったく初耳の方のためにざっくり説明しますと、家庭内座りション問題というのは、家庭内でトイレ掃除を請け負う妻が「立ちションだと汚れて掃除が大変だから座ってして!」と夫に求めるも、夫は「男が座りションなんかできないよ!」と拒否したり、しぶしぶ承諾しても口だけで行動が伴わなかったりして、そのことが原因で夫婦が揉めてしまう状態のことです。

今日はこれについて思う事がたまってきたので書きたいと思います。

 

トイレクイックルのCMにモヤる

少し前、私はこういうツイートをしました。

 

これは、現在放送中のトイレクイックルのCMが流れ始めた当初の感想を述べた呟きでした。

このCMは主婦役の木佐さんの叫びからはじまって

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 「また立ったままやったな!?」と怒る木佐さんが振り返ると、夫と息子役の二人が「やっべえ」と萎縮して

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「ジャーン!拭くだけで、尿ハネが原因で発生する臭いを予防するよ!」という紹介説明が入った後、木佐さんが掃除をして

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 最後は綺麗になったトイレを見ながら木佐さんが「次からは!?」と言うと、夫と息子が「気を付けま~す」と言って、ちゃんちゃん、という感じに終るものです。

このCM、放送開始当初は今書いた内容で、私にとってツッコミどころ満載でした。

でもこのブログを書くのに日数がかかってるうちに最近流れているのを見たら、冒頭の「また立ったままやったな!?」のシーンがカットされて、その分ラストに「夫が床を拭くシーン」が追加されてました。

おそらくですが、立ちション派の男性からの「立ったままやって何が悪い」とか「いきなり怒られてるみたいで気分悪い」みたいなクレームが多かったんじゃないかと思います。(あと女性からの「男の尿ハネなんて自分で拭かせろや」って言う声も)

確かに、立ちション派の男性がこのCMを見たら「世間が立ちションをタブー扱いしはじめた印象」を受けるでしょうし、CM自体も「女に立ちションを禁じられた男達が、それに素直に従って一件落着」というストーリーですから、一部の男性はさぞ不快だったことと思います。

そして女である私も、このCMの当初のバージョンには全体的に「なんか違う」と思ってモヤモヤしていました。

どういうモヤモヤかというと、

なにこれ、「また立ったままやったな!?」と怒られるってことは「立ちションして怒られる家」という設定なの?なら、この家は基本全員が座りションルールなんだから「尿ハネ臭予防クイックル」の出番がさほど無い家ってことにならない?わざわざこのCMの為の架空家族がなんでそんなメインターゲットからズレた設定背負ってるの?

「これからは気を付けます」って言ってる男子は何に気を付けるつもりなの?「立ちションしないように気を付けます」なの?ならあんた達、この立ちション尿ハネ臭対策のクイックル要らなくない?それとも「汚したら拭いて出てくるように気を付けます」なの?なら、今汚れてる床を男子が拭かず木佐に拭かせるのはホワイなぜに?

っていう感じです。

この私のくどくどモヤモヤは、冒頭の「立ったままやったな!」→「また汚したまま出てきたな!」で、「妻が床を拭く」→「夫か息子が床を拭く」だったら解決するのに、と思ってたので、後からその二か所が変更になったバージョンを見て、「やはり人の思うところは一緒か」と思いました。

 また、私も一番「げっ」と引いたのは「立ったままやったな!?」のシーンなのですが、私の場合は男性とは違った意味でそこを嫌だと思いました。

私が嫌だと思った理由は、本来、人のションスタイルってものは、本人の自由であるべきだし、そこについて他人(家族といえど)が命令や指示する、っていうのは「人権侵害に値するレベルの理不尽な行為」だと思うからです。

だからそういうシーンをCMで堂々と流して「立ちションを叱る=市民権を得てる行為」みたいな印象になるべきではない気がしたんです。

でも私は、実在する「家で立ちション禁にしたり、それを破った家族の男子に怒る、世の主婦達」までも批判するつもりはありません。

というのは、周りの主婦の声を聞いていると、彼女たちはなにも一方的にそのような理不尽な要求をしてるわけじゃないんですよね。

あくまで、ほとんどの妻は夫がトイレ掃除の役割自体も引き受けないし、立ちション後に床が汚れてても拭かないから、終始自分が汚してないトイレの後始末ばかりさせられている。」という理不尽さを先に受けているからこそ、やむをえず「トイレを自分で拭かないならせめて立ちションをやめて」という注文を男性に出してる。

最初に相手が理不尽だから、こっちも多少理不尽な注文にならざるを得ない、というか。

「家事は妻の役目」で「トイレ掃除は家事に含まれる」ということが、いくら夫婦で合意してたとしても、毎日毎日自分のせいじゃない尿ハネ拭いて家じゅうの男子に「それが当たり前」って顔されてたら、妻は自分の自尊心が削り取られる感覚が湧くと思います。

特に夫の尿ハネなんて「子供のならまだしも、なんで大の大人の尿ハネを拭かされてんの私…」ってなるでしょう。

だから、各家庭が座ション問題に至るまでに、そういった事情やいきさつがあることを考慮すると、CMでそういったシーンが流布されることは責めるけど、各家庭に実在する「また立ったままやったな!」と怒る妻のことまで私は責める気にはならないのです。

でも、CMを見る人の中には、実際に各家庭にある事情を考慮できる人ばかりではないので、そういう人が木佐さんの演じる妻を見て「男性のションスタイルまで決めようとするただのヒステリーチックな鬼嫁」という部分だけを抽出して、一般的な主婦像を歪んで捉えたり、「ただでさえ、最近の女は偉そうなのに、男の立ちションまで否定しはじめたのか!」という思いを植え付けたりするのが私は嫌だと思ったのです。CMが無駄に男女の対抗意識に火をつけてる感じがして。

そもそもですね、周りの主婦の声を聞いていると、ほとんどの女性は立ちション行為そのものを「忌み嫌っていたり、否定したい」なんて思ってないんですよ。

私も含め、多くの主婦たちが男性のションスタイルに関してどう思っているかと言うと「無関心でいさせてくれよ」です。

ですから、座ション問題で怒ってるほとんどの女性も、べつに「立ちション行為そのもの」を否定したいわけじゃなくて、単に「尿ハネを自分で拭かないのに、立ちションをし続けるその精神」がイヤなだけなんです。

 なのに、このCMでは女性が「立ちションを嫌う、立ちションを許さない存在」って感じに描かれてるように見えるので、私は「そうじゃないんだよな……」という不快感を感じていました。

 

私は「トイレの清潔を保つにはどうしたらいいのか」という課題の解決には、本来ションスタイルは関係なく、「汚した人が後始末する」という極めて基本的な生活ルールを男女供に守ればいいだけのことだと思います。

でもその基本的なことを守らない夫のせいでションスタイルにまで口出しをさせられて、鬼嫁みたいに言われる主婦。基本的な事を守りさえすれば立ちションも思いのままにしていいのに、立ちション自体が「世の中的に禁じられた行為」と思わせられる男性。両方損してる感じ。

当初バージョンのCMは、そういった意味で「誰得なの?」な内容だったように思います。

 

私が座ション問題を気にする理由

で、長くなりましたがここまでは前置きです。

先ほども書いたように、そもそもトイレクイックルCMがこうなったのは、ここ数年の「座ション問題」に関する主婦の声を映像に反映させようとしたからだと思うんです。

確かにここ3.4年くらいの間に、自分の周りの主婦の方からこの話題が出るのを良く聞きますし、テレビやネットでも取り上げられるようになっていると思います。

実は当の我が家ではこの問題が起きてないのですが、私は巷でよくこの話が聞かれるようになってから、関心を持って見ています。

なぜなら、本来「汚した人が後始末する」というこんなシンプルなルールで解決することが夫婦で折り合いがつかず、そこかしこの家庭で問題化するということは、そこにやはり多くの家庭内で男女の力関係の差とか、男性の傲慢さが存在するように思うからです。

私は、家庭を円満に保つためには、「外で働いてお金を得る」とか「家事や育児をやる」という「夫婦それぞれが家の為にしてること」に対して、お互いに感謝し、その意を示しあっていく必要があると思うのですが、やはり「収入を支えている男性」が家で威張っていて、妻に感謝もしていないケースはよくあると思います。

さらにタチが悪いのは、収入面でさしたる差はないのに、なぜか「男だから」という無意味な理由を根拠に家で妻に威張っている男性。意味わかんないです。

そういう男性は、幼児でも守れる「自分で出したお道具は自分でしまいましょう」とか「自分がこぼしたお水は自分で拭きましょう」といったルールさえ家で守らずに妻にやらせますから、当然、自分が立ちションで飛び散らかした尿ハネを妻が拭き掃除することも「当たり前」と思っていることでしょう。

これが、一昔のように男女供に「女性が男性の後始末をすることが当たり前」という頭であれば、夫がいくら立ちションで汚そうが、妻は「汚すのはあなただからあなたが掃除をして」とか「掃除がいやなら、せめて汚れにくいように座りションにして」という注文をつけず、従順に掃除し続けるので衝突は起きません。

つまり夫婦で衝突が起きて、世の中に「座ション問題」が浮上するようになったのは、「ひたすら従順だった女性」の数が減り、「不満があれば声を上げる女性」が増えたことの証であり、時代が少しは進んだ証なのではないかと私は思うんです。

しかし進んだと言っても、まだ揉めている段階ですから、これからもっと時代が進み、「立ちションしたら自分で掃除するのが当たり前でしょ。」とか「掃除が妻の担当なら、座りションするのがマナーだよ。」と言う男性が増えてくると、今度は座ション問題は減ってゆく、という希望的観測を私はしています。

ようするに、座ション問題についての動向は、私がふだん関心を持っている「この国の男女同権の進歩具合や、家庭内の男女のパワーバランス」について変化が読み取れる指標、のように思えるので、私はそこに関心を持たずにいられないのです。

これからも見守っていこうと思います。

 

「男は座りションできない」のではなく「俺は座りションしたくない」だけ

 ところで、テレビで座ション問題を取り上げる時には、かならず「男の座りション!あなたはアリ?ナシ?」みたいなタイトルの街角インタビュー映像が流れますが、そこで私はだいたいいつも気になる人が現れます。それはこういう人です。

 

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 (2015年NHKためしてガッテンより。※モザイクは私がかけました。)

どの番組の街角インタビューでもこのような「男は座りションが出来ない生き物なんじゃい!」という主張をされる男性がなぜか一人はいます。

もちろん毎回同じ人ではなく年齢層は様々なので、おそらく「世の中にこういう男性が一定数いる」ということだと思いますが、私はこういう声を聞いて「はて?」と思います。

なぜなら、先ほど我が家には座ション問題が起きていないと書きましたが、その理由は私の夫は、結婚前に自ら「なんか立ちションってすごい周りに飛び散ってるらしいって聞いてから、立ってするのが気持ち悪くなっちゃって、座るようになったわ。」と言ってた人なので、誰が促すまでもなく座りション派だからです。

つまり、夫は男だけどすすんで座りションをする。だからそれを知ってる私にとって「男は座りションできひん」は事実ではないと分かるし、「いや、男ひとくくりにしないで」という感じなのです。まさしく主語がデカい案件。

私は彼らがそれぞれ「俺は座りションできないんすよ。」と言うなら、異論はないんです。「ああ、そういう人なんだな。そういう人もいるよな。」と思うだけなんです。

でも、テレビで見かける彼らは必ず「男は出来ない」という風に言うので、まるで「これは男の総意だから。女から見たら不満でも、男はそういうものだから。」という風に聞こえ、私はその語り口が「性別の壁があるから諦めてくれ」という主張を通そうとしているように思えてくるのです。

確かにこの世には「出産する役目」のように「性別の壁があってどうしても越えられない問題」というのは存在します。でも、なんでもかんでも問題を性別の壁のせいにして問題の本質から逃れて思考停止する性質の人は、男女どちらの場合でも私は好きではないです。

女性が「女だから」に逃げるのも嫌だし、男性が「男だから」に逃げるのも嫌ですが、私の主観ではこれまでの人生で男性が「男だから」に逃げる場面を見る方が圧倒的に多くありました。

座ション問題では、妻という一番身近な異性のパートナーが「日々不満を持っている」という問題が起きているのに、そこを解決しようとせずに「男は座れないんじゃ、諦めんかい」と言って「性別の壁で自分も思考停止、妻にもそれを強要」する男性は、パートナーとしての誠実さに欠けているように思います。

 もちろん持病があるとか、身体のなんらかの事情で「本当にどうしても座ションできない」という男性もいると思いますが、そういった特別な事情がない人の「座ションしない理由」はただ「妻が不満でも俺がそうしたいからいいんだ」という「おのれの意志のみ」だと思います。

それならいっそ、正直に「俺ってそういう人間なんだ」ということを背負って明かせばいいのに、それ言ったら批判されるのは分かってるから、代わりに「男」や「性別の壁」という一見太刀打ちできそうもないものをかざしてまで、おのれの体裁を繕おうとするその精神が、ズルくて卑怯で嫌。

一人が「男はそういうもんだ」で誤魔化す場面をテレビで流すと、私は、お茶の間で「ホラ、こういうもんだって他の人も言ってるじゃん」と、妻をねじ伏せる男性が後に続く気がします。

だからこういうインタビューの映像を見ると嫌な気持ちになり、「どうせ言うなら「男はできない」と言わず「俺はしたくない」と言えばいいのに」毎回思いながら観ています。

 

 「だって男だもん仕方ないじゃん」が、どれだけアホっぽい言い訳か。

さて、立ちション派男性に嫌がられるようなことを散々書いてきましたが、私は「そうは言っても立ちションしたいぜ。」とおっしゃる男性の気持ちも少しはわかります。

なぜなら、男性は排泄器がホース状なので「そりゃ立ったままやるほうがラクだろうな」というのは道理として分かるからです。

ラクだから古来から男性はごく自然に立ちションをするわけで、今の成人男性が子供の頃は、まだ男児に「座ってしなさいね」と教える親もさして居ませんし、ほとんどの成人男性は小さな頃から立ちション当たり前で育ってると思います。

それなのにわずかここ数年で「立ちションはダメ!」という新常識みたいな声が巷に出回ってきて、納得しきってないうちに、妻に「○○さんちの旦那さんは座ってするらしいよ。あなたもして」という言われ方をしたり、「立ちションは怒られる行為なんです」と言わんばかりのクイックルCMみたいなものを観たりしたら、そりゃ不愉快でしょうし、怒りたくもなりますよね。

私だってもし仮に、ここ数年の間に世の中に「女の座りションはダメ」という新常識が出回って、女が「座ったままやったな〜!」と怒られるCMが世に出たらきっと「は?知るかよ」ってなりますもん。

子供の頃から自他供に「OK」とされてきたものを、急に「NG」に振り分けるのは、自分が納得しなければ、なかなか出来る事ではないですから、人から押しつけられるのは本当に嫌だろうと思います。

しかしですね、近年、立ちションにおける尿ハネの数がデータで明かされて、もう世間的に「立ちションは1日2千滴の尿ハネになり、本当に汚い」ということが徐々に知られてきています。それを知った以上は、人として「立つなら拭く、拭かぬなら座る」を守るのがパートナーへの愛の証じゃないかと思うんです。

もし「床を拭くのも掃除の担当になるのもヤダ!立ちションも辞めない!」を通すなら、妻にそれそうとうの我慢を強いていることは自覚して欲しい。

妻が不満を抱いているのに、無視や適当にあしらい続ける、という態度はパートナーとしてどうかと思います。

ましてや、その反論が「だって、男だから仕方ないよ」とか「男だもん、立ちションするよ。」とかだと、言われた妻は本当に怒りを通り越して脱力します。

だって、納得できる言い訳ならまだしも、その言い訳アホっぽすぎるんですもん!

私は、この台詞を言ってしまう男性は、その言い訳のアホっぽさや頓珍漢さに「まだ気が付いてないだけなのでは?」と思います。

だって男性が全員バカなわけありませんから。単に上の世代の男性がいつも「だって男だもん。」を免罪符に使い「これ言うと、わりと女が諦めてくれる」という実例を観て育ったが故に、なんとなく自分もつい言ってるだけで、「その言い訳のアホっぽさ」に気が付いたら使わなくなる理知的な男性も大勢いると私は思うのです。

ですから、そういった方がそのアホっぽさ・言われた側のムカつきや脱力感が実感できるように、ひとつ置き換え話をしたいと思います。

どなた様も自分に置き換えてお読みください。

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あなたは共稼ぎ夫婦の夫で、世帯収入の割合は自分7、妻3くらいです。

家事の分担を妻と話し合った結果、自分3、妻7に落ち着き、この分担自体には特にお互い不満はありません。

洗面所の掃除はあなたの分担で、具体的な掃除の回数にルールは設けなかったものの「夫婦にとって綺麗な状態に保とうね」という暗黙の了解はある感じです。

さて、ある時あなたは洗面台の掃除をしていて気が付きます。

「うちの洗面台とか床って、いつもすげー髪の毛落ちてるな」

あ、書き忘れましたが、あなたはスキンヘッドで、妻は小雪ばりのサラサラヘアーです。

それでもあなたは新婚のうちは「小雪、髪長いからな~」と、さほど気にしませんでしたが、ある時、洗面所を使う妻の姿をなんとなーく見るともなしに眺めていると、妻の行動に「え…」と思う所がありました。

妻は、髪を乾かし丁寧にブラッシングをした後、そのまま洗面所を出てきたのです。

あなたがなぜ「え…」と思ったかというと、それまでてっきり「ブラッシングなどで、目の前で洗面台に落ちた分の髪の毛は妻が自分で拭っている。」と思っていたからです。

あなたはそれが、人として最低限のマナーだと思っていたのに、妻がそれをしていないことに少し引きました。

無意識に落ちる分の髪の毛は、洗面所の掃除担当が自分だからもちろん掃除をする気でいましたが「目の前に今落ちた分までこいつはそのままにしてたのか」と知ると、あなたはそこまで人にやらせる気でいる妻の神経を疑ってしまいました。

その夜、あなたは妻に言います。

「あのさ、洗面所で髪とかした後の髪の毛くらいは、自分で拭いてきてくんない?」

すると妻は言います。

「え、でも洗面所の掃除はそっちの担当でしょ?」

あなた「いや、そうなんだけど、全体的な基本の掃除はもちろん俺の仕事だけど、俺は髪の毛落ちないじゃん。小雪の分で常に洗面所が汚い状態になって、掃除がめっちゃ大変なんだから、せめてブラッシングの後その時に落ちた分くらい自分で掃除してよ。」

妻「えー洗面所掃除の役割じゃないのに、私がやるの不公平じゃないー?」

あなた「じゃあ、洗面所掃除自体をそっちの家事の何かと交換する?そんで自分の担当にしたら不公平じゃないでしょ。」

妻「嫌!洗面所は私イヤなの!」

あなた「じゃあ、掃除しないなら髪切ってよ。短ければまだ掃除が楽だから。」

妻「無理!」

あなた「なんで!?」

「だって女だもん。髪は女の命なのよ!」

************************************

 

ハイ、今の感情どうですか?

小雪、アホっぽくないですか?

怒りを通りこして脱力しませんか?

その感情なんですよ。「男だもん、仕方ないじゃん」て言われた相手は。

私はこの夫婦の話をそのまま「洗面所→トイレ」「落とした髪→尿ハネ」「髪切ってよ→座りションしてよ」に置き換えたものが、座ション問題だと思うんです。

つまり「立ちションは男の尊厳じゃ!」みたいな言葉も「だって髪は女の命なのよ!」も、言われた相手にとって「おま、何言ってんの?」でしかない。

だって「座りションして」も「髪切って」も、そもそも素直に相手が「汚したら自分で後始末する」っていう人としての基本を実行してくれたら、こっちだって言う必要ないんですから、それ言わされて、それに対して「性別の壁を超えて意見しないで!」とキレられたって「そんな話じゃねーよ」なんです。

ようするに、相手の話の核である「汚した人が後始末する、という基本的な生活ルールやマナーを守れないあなただけど、ずっと一緒に暮らすんだから守ってくれないか?」という提案を「性別の壁」で遮断して、うやむやにしようとしてるだけなんですよ。

ホント、話それますが、不倫の話題とかでも「男だからしかたないんです!」とか開き直ってる人の場面みると「ちゃんと『俺は性欲の前では妻への思遣りなんてふっ飛ぶ理性の利かない人間なんです』って言えばいいのに」と思いますもん。

男という性別のせいにしないで、やるなら自分個人で背負え、って。

簡単に「男」を理由にして通ると思ってるのって、他のちゃんとしてる男にめちゃくちゃ失礼だと思いますし、話の通じない人間にしか見えなくなるからやめた方がいいと思いますよ。

私の稚拙な文章で全員に伝わるものではないと思いますが、そのことが分かる人がちょっとでも増えたらいいです。

 

さいごに

今回は、自分が当事者で困っていないのになぜ座ション問題について書いたかというと、やはり私は問題の根底にある家庭内での男女の力関係の差が気になるからです。

人によっては「威張ってるくらいの男性が好き」ということもあるでしょうが、それでも根拠なく威張ってる人と暮らすのって、最初は出来ても長期に渡るとストレスすごいと思うので、基本は対等関係から大きく外れないほうが良いと私は思います。

座ション問題の不満を話す主婦の方には「我ながらこんなことで夫婦喧嘩するの情けないわ。」とか「しょーもないことでイラついてる自分もちっちゃいんだけどね。」という言う方をする方も多く、私はそこに謙遜というか「こんなことで不満言っちゃいけない」という彼女たちの意識を感じていました。

私はその「これくらい我慢しなきゃね」と自らに課す精神には懐の深さを感じるし、美徳でもあると思いますが、でも同時にその精神がエスカレートしないように気を付けて欲しい気持ちも生まれます。

たかがトイレ掃除のことと言いますが、「自分の苦労が無いものにされてる感じ」とか「尿ハネすら自分で後始末しないのになにかと偉そうなパートナーの態度を見逃す」といった日常の中の小さな「なんかヤダ」は、やっぱり無視してはいけない心のサインだと思うんですよ。

確かに、夫婦はお互いに多少の欠点には目をつぶり、悪いところもある程度は「おたがいさま」の精神で許容しあう必要があると思いますが、「なんかヤダ」と思うってことは、すでに自分の中で「おたがいさま」の範囲を超えてるよ、っていうサインかもしれないんです。

そのサインを受けて、よく考えた結果に「どう考えても私の負担が大きくない?なんか尊重されてなくない?」という結論に達したら、それがどんな些細な内容でも声に出すことも必要だと思います。それには勇気がいるけど、その勇気は自分を守るためだから、そこは頑張ってほしい。

「我慢」と「勇気出して抗議する」は、我慢の方が全然楽な選択肢に見えるから、ついやりがちだけど、我慢の副作用はじわじわ来て、ヤスリでちびち削るようなやりかたで、自尊心が減っていくんです。

「殴る蹴る」といった分かりやすい暴力は、心にドリルで穴を掘られるような破壊力ですが、ヤスリで何十年もちびちび削り取られることの破壊力だって、最後に「壊される」という点では同じなんですから、「ちっちゃいこと」と自分に言い聞かせて無理な範囲の我慢までしないで欲しい。

でも座ション問題については「こんなくだらないことで…」と引っ込めてしまう主婦が多そうなので、私は「このテーマでこまでマジになんか言ってる人もいるよ。くだらなくないよ。我慢しすぎないでね。」という意味で書いてみました。

座ション問題に悩むご家庭が、少しでも減っていくことを願ってます。

 

ではまた。

 

 PS,私ごとで別に書かなくてもいいんですけど、来月からぼちぼち介護職に戻ろうと思います。更新頻度は変わらないか、増えるのを目指してます。まぁ基本スローペースなのですが、今後もよろしくお願いします。

 

 

宗教にまつわる雑多な話

 

「政治と宗教の話は利用者さんとしないこと。」

これは、ヘルパーの資格を取る教育課程で先生に言われた台詞。

その後、実習先でも勤務先でも最初に同じことを言われて、最初は「なんでだろう?」と微かに思った。

でも確かに、もし政治と宗教の話で人と意見がぶつかってしまった場合、それは他の話題で意見がぶつかってしまった時より、「取り返しのつかないことになるような感じがする」というのは直感で感じた。

だから「トラブル回避のため、そういうことになってるんだな」という理解で、その時は落ち着いた。

政治の話は今回置いといて、宗教の話というのは確かに自分の身の回りでも「声を潜めてする話」という暗黙の了解があるような気はする。

私はこれまでも職場で「ねぇ、○○さんって学会員らしいんだけど、知ってた?」というような、ひそひそ話をされたことが数回ある。いずれも違う人に。

「学会員」というのは「創価学会」という宗教団体の信者を指す言葉だ。

つまり、人が「誰かが創価学会の信者かもしれない」という話を職場でもちかけてくる時、それは必ず内緒話として、された。

私が「さぁ?気になるなら本人に聞けばいいじゃないですか?」と答えると、どの人も「ぃやーだ!聞けるわけないじゃん!!」というようなリアクションだった。

その「ぃやーだ!」は、援助交際の噂がある女子高生に直接『エンコ―してるの?』なんて聞けるわけないじゃん」と同じ意味の「ぃやーだ!聞けるわけないじゃん!」だと思う。

つまり、ふつうの人にとって創価学会の信者である=大声で言えない、うしろめたいことをしてる人」とされている印象を受ける。

でも創価学会の信者数はとても多い。

実際、だいぶ仲良くなった友人に後から「実は、信仰心はないけど3世なんだ。」と言われたこともあるし、日本人の10人に1人はそうだと聞くし、スポンサーが創価学会のCMだってしょっちゅう流れているし、政党だってある。

だから「創価学会という大きな宗教団体があって、日本にもたくさん信者がいる」というのは、もはや周知の事実だと思う。

それなのに、多くの信者は身を潜めていて、職場では魔女狩りのように「あの人、もしかしてそうじゃない?」なんてひそひそ話の対象にされているのだ。

私はずっと前からこの現象に「なんか変なの」と思っている。

いや、別に「学会員もみんな堂々とすりゃいいのに」と言いたいわけではないよ。

ただ、信者一人一人が隠しているような宗教なら、団体自体もひっそりと活動してそうなのに、そうではなく、「名も知れた大きな団体で活動も隠してないわりに、信者は忍者のように(駄洒落になってしまった)身を潜めている」というそのアンバランスさに「なんか変なの」と思うだけだ。

しかもこれを「なんか変」と言う事すらタブーのような空気を感じるので、私はこれまでこのことを人に言ったこともない。

でも「世の中に私と同じように思ってる人は少なくないんじゃないかな」と思う。

(私が特別に特殊な発想をする人間ではないと思うので、私が思うようなことは、すでに何万人も思ってるはずだから。)

*********

 

んで、今回なんでこのようなことを書いてるかというと、お察しの通り、テレビが清水富美加さんの話題で持ちきりだからだ。

今週はテレビを見ているだけで、なんとなく自分の中でこれまで保留にしてきた「宗教に対する姿勢」について、よく考えてしまった。

今回私は別に清水さんの擁護や批判をしたいわけでもないし、なにか問題提起をしたいわけでもないんだけど、なんというか、色んな報道や人々のリアクションを見てると「宗教」にまつわる、たくさんの疑問が浮かんできたので、忘れないように書いとこうと思ったから書いてる。

 

清水富美加さんの出家引退がここまでメディアで大騒ぎになるのは

・彼女が「仕事をほっぽり出したこと」が最大原因なのか?

・だとしたら、もし事務所ときちんと折り合った上で辞めてからの出家宣言ならここまで批判されなくて済んだのか?

・彼女が信仰しているのが、「幸福の科学」だということが最大原因なのか?

・だとしたら「仏教に目覚めたから尼になります」だったら、応援されるんだろうか?

そんなような疑問がいくつも浮かんでくる。

でも、いくら考えたって答えが出やしない。

答えが出ない理由は簡単で、それは私が「これまで生きてきて漠然と宗教に関する話題を避けたり、あまり深く考えないようにしてきたから」だと思う。

自分の頭の中にある百科事典の「愛」とか「人生」とか「戦争」とかのページには、それなりにこれまで生きてきた中で見聞きしたり、考えたりした内容が載っているのに、「宗教」のページだけは、わざと編集してこなかった感じ。

 

過去、私にも宗教関連のエピソードはいくつもあった。

オウム真理教の事件はリアルタイムで見ていたし、架空のカルト集団を描いた山本直樹の漫画「ビリーバーズ」も読んだし、友人が実は学会員だったこともあったし、母が近所の人が入ってる宗教の集まりに来ないかと何度も誘われてるし、神社に初詣は行くし、我が家のポストには毎月エホバの証人が薄い冊子を差し込んでくる。

冒頭に書いた「政治と宗教の話は利用者さんとしないこと」の件もそうだ。

そういう風に「宗教」にまわつわる事柄は、本当は私のすぐそばにいつも存在していたのに、私はいつも「触らないに限る」という箱に入れて、心の隅に放置してきた。

だから、今更その整理されていない箱を覗いても「なにがどうなってんのやら」となるのはあたり前なのだ。

さきほど挙げた疑問を解くには、もっと自分の中の宗教観をまとめあげたり、世の中ももっといろんな人の宗教観が気軽に話題にされたりしないと、いけないんだろうなとは思う。

でも、「政治と宗教の話題は気軽にできない」というのも事実だから、なかなかそれも叶わないのかなとも思う。

*********

 

ところで、私は今回の清水さんの件で「目を覚ましてふみカス!」みたいな声を観て、これを言う人は自分の中の宗教観がちゃんとあって、ふみカスの出家を止めてるのかなぁ?とちょっと思った。

どういうことかというと、

例えば、熱心なクリスチャンや瀬戸内寂聴が「目を覚まして、その神は間違ってる!」とふみカスを止めるのは分かる。

「自分の信仰している宗教に比べて、歴史も浅く、金の匂いもすごいする。そんなのは金儲け集団だ。操られてるだけだ。」みたいにハッキリと「止める理由」がそこにはあるから。

または、無宗教でも「過去になんらかの宗教活動に関わって嫌な思いをして、もう宗教自体に関わらないと決めた」という「覚悟あっての無宗教」の人が、その経験を理由に「ふみカスに同じ経験して欲しくない!」と止めるのもわかる。

でも、私みたいに「なんとなく宗教には関わらないようにしてきた故の無宗教」の人(日本人にはとても多いはず)が、止めようとするのって、私だったら「我ながら効力なさそうだな」と思う。

なぜそう思うかというと、どんな宗教でもそうだけど「ある特定の宗教に目覚めちゃった人」から見たら、「神社に初詣にも行き、寺にお参りも行き、クリスマスは祝い、十字架のアクセサリーも付ける」を全部同時進行でやってしまう、無宗教な日本人のほうが「寝ぼけているように思えるんじゃないか」と思うから。

以前なにかの番組(バラエティーだったか、ドキュメントだったか忘れたが)の、外国でのロケで「これからちょっと危険な目に遭うかもよ」という場面で外国人男性のガイドが、日本人のタレントだかディレクターに「お前の神に祈ってな!」みたいに言って、タレントだかが「ノーゴッド(そんなの居ない)」と返事をしたら、そのガイドがものすごく驚いて「マジか?それでお前、生きてこれたのか!?信じられないぜ!」と言ってたんだけど、ようは、「神がいて当たり前」の人から見たら「神を信じてない人間」のほうが、「あたま大丈夫かお前?」ってことなんだと思う。

清水富美加みたいにもう「大川隆法が私の神」と決定して、自分の中の宗教観がガッチリ成立した人は、私のように「心の中で放置してる箱」が無い状態で、そういう人の宗教観はブレない強さを持ち、無敵状態といえる

そんなふみカスに「目を覚まして」と言ったところで、逆にふみカスに「じゃあ何の宗教だったら反対しないの?」とか言われたら、多分私だったら言い返す言葉がない。

この時点で私の一発KO負け。

自分の「宗教観の箱」を探せば、なんか言い返せる材料があるかもしれないけど、今まで整理してこなかったから、そんなすぐ出ないだろう。

だから言うとしても「そんなうさんくさい宗教やめなよ」みたいなぼんやりした反対意見しか言えないだろうし、そんなの開眼したふみカスには響かないと思うから、私は「ふみカスの心がこれで安定してるなら仕方ない」と思ってしまう。

なので、自分が無宗教でも「目を覚まして!」と止める人は、よっぽどそういう理屈抜きで、清水さんを思って言わずにいられないのかもしれない。

******

 

話がまとまらない。

とりあえず、あと思ったことは、多くの無宗教の人にとって、もし身近な人がある日突然「私、○○教に入りたい」と言い出したら、それは必ずしも「やめな!」と言うべき事態なんだろうか?

ということ。

オウム真理教の事件以降、日本では「新興宗教の信者=ヤバいやつ」 みたいな扱いが普通となっているように思うけど、宗教というのは本来、人の心の安定にすごく一役買っているものだと思う。

無宗教の私がこれを実感したのは、親友のある言葉だった。

親友(仮にAちゃんとする)のお母さんは何十年も、とある宗教(三大宗教ではない)の信者だった。

学生時代からしょっちゅうAちゃんの家に遊びに行っていた私は、Aちゃん母の人柄が性に合っていて、Aちゃん抜きでもよくおしゃべりをした。

A母は一度もその宗教に誘ってきたことはないし、彼女の家でもそのお母さん以外はその宗教を信仰していなかった。

A母がその宗教活動をしていても、別に家計を圧迫するような出費もしていなかったそうだし、月に数回集まりに行くだけだったので、父親だけは最後まで良くは思っていなかったものの、Aちゃんは「もうこれが母だし」という感じでさほど関知していなかった。

で、そんなA母は、だいぶ前に大病を患い、長きにわたる闘病生活を経て昨年亡くなったのだけど、ずっと介護していたAちゃんは、お母さんが亡くなる直前こんなことを言っていたのだ。

「お母さんさ、医者にあと3か月って宣告されても、安らかなんだよ。ふつう、自分があと数か月で死ぬって分かったら、怖いとか気弱になったりするじゃん。

あの人、その時期が無かったの。『神様の世界はどんなかしら~、楽しみだわ~』って、それだけ。子供の前だけ心配させないように、そう装ってるんじゃなくて、あれは本心だと思う。私、宗教って、この為にあるのかなって思ったわ。」

 

これを聞いたあと、私は亡くなる1か月前のA母にお見舞いに行ったのだけど、Aちゃんの言ってたのは本当だと思った。

A母は、ガリガリに痩せていたけどケロリとしていて、無理に明るくしているわけでもなく、悲壮感もなく、本当に昔から安定のA母のままだった。

私はこの時、ああ、何らかのカミサマを信じることで、こんなに心が強くあり続けられるなら「宗教」って人を救ってくれるものなんだな、としみじみ思った。

だからといって、私はA母の入っていた宗教に入りたいと思うわけではないけど、「宗教」と聞くだけで「悪いこと、ヤバいこと、転落人生、洗脳」と、マイナスイメージが先行していた自分は、少し偏っていたのかもな。と思うようになった。

 

そしてこの偏りが、行き過ぎると宗教差別に繋がるのかな、と思った。

イスラム教の信者が、アメリカで迫害されるのは、一部の過激な思想の人が悪事を行うからであって、イスラム教徒が全員悪人なわけではないから、ひどいことだと思う。

自分の知らない宗教について、人は不信感を抱いてしまうものなのかもしれないけど、「なにか私の知らない宗教を信仰している」という一部分だけでその人の中身を全部判断するのは偏見だと思う。

私は、自分が普段接している人がたとえどんな宗教を信仰していようと、変に私を引きずり込もうとしてきたりしないのであれば、付き合いはやめようと思わないし、「その人がその宗教を信仰する」ということはちゃんと尊重したいと思う。

その人が自分のカミサマを信じることで、心が安定できて、穏やかに生きやすいのだったら、何も信仰しないで悩み事で自殺したり、自暴自棄になって犯罪を犯したりするよりは、良いような気がする。

 信仰の自由は、人権に含まれているから、私の「信仰しない自由」を守ってくれる相手ならば、こちらも相手の「信仰する自由」を守って、フェアでありたいという感じ。

でももちろん、世の中には信者がお金をむしりとられたり、壺を買わされたり、交友関係を制限されたり、それまでの生活を土台から壊さないといけなかったりする、本当に悪い宗教もある。

家族や大切な人がもしそういう明らかに実害がある宗教に入りたいと言ったら、縁をかけて止めるだろうけど、そうじゃなかったら、とりあえず話は聞くと思う。

たぶん「意味がわからない、やめて」とは言わない。

なんとなく、それは差別っぽいから。

それまでの人生で何も信じずに生きてこれた人が、何かのカミサマを信じたくなる事態というのは、その人の精神が極端に弱っている時の可能性が高いから、大事な人なら、とりあえずカミサマ云々は抜きにして、身の回りの事情を聴きたいと思う。

*********

それにしても、今回、「宗教と日本人の関係」というのはつくづく不思議なもんだなと思った。

幸福の科学大川隆法が、いろんな故人や偉人の霊や清水富美加の守護霊をおろしてしゃべる内容を本にしている」のは、うさんくさくいインチキ宗教家扱いなのに、三輪明宏が「あなたの守護霊、とても強いわね」と言うのはテレビで流すし、言われたタレントも「うわぁ、そうなんですか」と喜んでたりする。

別に幸福の科学の肩を持つわけではないけど、「守護霊がどうの」が、片方では「これが出たらヤバい認定ワード」なのに、片方では「ありがたいお言葉扱い」になるという、その統一感の無さが私は気持ち悪い。

「守護霊」や「精神世界」や「前世」や「カルマ」といったスピリチュアルワードも、発する人間によって、即座に嫌悪したり、逆にありがたがったりする、その統一感のなさ、とか境界線のあいまいさが気持ち悪い。

そういうあいまいでゆるゆるなところが放置されていることからみても、多くの日本人の「神様を信じてるのか、信じてないのか」の部分は、すごくふわふわ。(私も含めてだけど)

最近は、世界の多くの戦争や紛争は、宗教の対立が基で勃発することが多いから、日本人のこの「ゆる~い宗教観は逆に見習うべき」とされている、という話を聞くし、確かにそれは一理ある。

でも、無宗教でゆる~い宗教観の日本人は、ただそのままでいればいいかというと、私はちょっとそれも危険だと思っていて、ゆるいなりに、一人一人がもうちょっと自分の宗教観とある程度向き合ったほうがいいのかなと思う。

そうじゃないと、もしもすごく危ない思想を持った宗教に目をつけられた時に、あんまりにも宗教に関する部分の知識や見解が赤ちゃんのようにまっさらだったら、それが見抜けない気がするから。

「かつてのオウム真理教は、東大の合格発表の日に門の前で張っていて、今落第したばかりの学生を勧誘する」という話を聞いたことがある。

これはすごく巧妙な手口だ。

すごくショックな事が起きて、それまで築き上げてきたものが崩れた時に、人は脆くなって支えが欲しくなるから、その瞬間を狙ってくる宗教団体はゴマンとあると思う。

人生には、失恋や失業や家族の死や自分の病気など、ガクっとなる瞬間が誰でも訪れるものだから、無宗教の人は特にそういう時にカモにされる。

カモにされない為には、宗教に関してある程度の知識や自分なりの線引きが常日頃から必要なんじゃないかと思ってる。

 

清水さんの今後がどうなるかは分からないし、迷惑がかかっている仕事関係者は可哀想だと思うけど、彼女がもし「死ぬかこうするか」の二択でこっちを選んだのだとしたら、とりあえず「死ななくて良かった」とは思う。

 

今の私の宗教観をゆるいなりになんとか形にしたおぼろ豆腐のような話になってしまいました。

ほんとうにまとまらない内容ですいません。

こういう話題を軽く出さないほうがいいのか、出してもいいのか、その判断すら迷ったけど、同じ気持ちの人がいて、読んでスッキリすることがあるかもしれないと思ったので公開します。

ではまた。

 

2月18日追記

心の安定の他にも宗教の良い点を思いついたので書く。

心の中になんらかのカミサマを置くこと」は、自分が悪いことをしそうな時にブレーキをかけてくれる役割もあると思う。

昔の人って、子供によく「お天道様が観てるよ。悪いことしたらバレるんだよ。」とか言ってたけど、あれって「たとえおまえが1人の時でも、おまえの行動を観てる存在はいるよ。」と釘を刺すことで、子供の自制心を育てようとしてたんだと思う。

 

コントとかで、よく道で1人で財布を拾った時に、天使の自分が「交番に届けるのよ!」と言って、悪魔の自分が「ネコババしちまえよ!」って言って、葛藤する場面があるけど、ああいう時の「天使」になる存在が、人によっては自分のカミサマなんだと思う。

それは単に「良心」と言い換えることが出来るのかもしれないけど、すごくストレスがたまってたり怒ってたりすると、ただの良心は、所詮自分のものだから、ぞんざいに扱ってしまうことがある。

人間は、そうやって良心が隠れた時に悪い事をするんじゃないかと思う。

だから、自分以外のカミサマみたいな存在に「見守られる」とか「監視されてる」っていう感覚があると、良心ひとつで自制心を操るよりも、ラクなのかもしれない。

だから、宗教を信じることで、自制心が強く持てて、それが結果的に「悪の道に進まずにいられた」となるなら、それは宗教の素晴らしいところだと思う。

 

 

 

 

奇妙なカップルになりたくない

 

先日、夫と小旅行に行ってきました。

行先はどことは言いませんが日本を代表する温泉街です。

夕食付きのホテルではなかったので、夜「何食べようか」とネットで調べてたら、近くに良い回転寿司屋さんがあるっぽいのでそこへ行くことにしました。

時刻は夜の8時ごろ、人気店らしく5組ほどの客が入口のベンチで待っていました。

「へぇ、夕食時を外してきたのに待ってるもんだなぁ」と思いながら店内を見ると、なるほど人気の理由も分かる気がします。

そのお店は回転寿司とは言いつつも、「みょうにお洒落」なんです。

どういうことかというと、まずふつうの回転寿司屋というものは酢飯のにおいがたちこめ、蛍光灯の煌々とした明るさのもとレーンに乗った皿が回っているものですよね。

家庭用流しそうめんマシンを見るとなぜか「ハハハ」と笑えるのと同じ道理で、私は「食べ物が回る」という事態が、どこか間抜けに見えます。だからその時点で回転寿司屋という空間の「おしゃれ指数」は「おもしろ指数」に負けてます。

さらに、ふつうの回転寿司屋で『活き〆カンパチ』を注文すると、ねじりハチマキ姿の板さんに「ぃよっ!カンパチいっちょぉーう!」「カンパチ入りゃああーす!」と必要以上の雄叫びを上げられ、こっちは「あの…食べるネタをいちいちバラさないで…なんか恥ずかしいから…」みたいになります。その気恥ずかしさは、いちいち同行者と何の会話をしてたか忘れさせ、まともな話なんかゆっくりできたもんじゃないです。

おそらくふつうの回転寿司屋がプロデュースしたいのは「お祭りわっしょい空間」なので、その雄叫びもしかるべき演出なわけで、ようするに店側だって店内空間のおしゃれ指数なんかさほど気にしてないってことです。

もちろんそれでいい。客だってほとんどの人は回転寿司屋におしゃれ感は求めてないのだから。

簡単に言うと「イタリアンレストランでプロポーズしようとする人は沢山いるだろうが、回転寿司屋でプロポーズしようという人はほとんどいない」ってことですかね。

回転寿司屋というのはそういう場所だと私は思うし、世の中の人もたいていそう位置付けしてるものだと思います。

が。

その店は違った。

まず外観がかなりオシャレで、こじんまりとしたカフェにしか見えませんでした。(あまりにカフェっぽいので、ナビが「目的地周辺です」と言うのに私らは「嘘つけ、カフェしかないじゃん」と一回通り過ぎてしまったほど。回転寿司屋の記号である、のぼり旗も無い。)

店内も茶色い木製の壁にかかった黒板にチョークで書かれた手書きメニュー、灯りはすべて間接照明で、姫野カオルコ氏の言葉を借りて言うと「『敵機の襲来を恐れているのか?』というくらい暗い。」だったし、店員はねじりハチマキなどせずに、ラーメンズの衣装のごとく上下黒のシャツとズボンに黒のギャルソンエプロンをしていました。

これだけでも「おっしゃれー」なんですが、さらに決定的なのは、レーンが止まっているんです。食べ物が回ってないから空間が間抜けになってない!

「じゃあなんであるんだ?」という疑問は浮かびましたが、とにかく真ん中にあるU字型のレーンは回っておらず、客席から見える場所には板前もおらず、注文は紙に書いてラーメンズに渡し、ラーメンズがそっと席まで持ってきて給仕してくれるスタイルだっったのです。もちろんラーメンズは何を注文しても雄叫びを上げない。助かる!

私は「回転寿司屋はおしゃれじゃない」という常識を覆す、こんなムーディでお洒落な回転寿司屋(正確には回転してないんだけど)の店は初めてだったので、「ほぅ」と感心しました。冒頭に書いた「人気の理由に納得した」というのはこういうことです。

おそらくその店は、地元でも「ムーディな回転寿司屋」で評判なのでしょう、時間帯のせいもあったとは思いますが、客層がファミリーよりデートカップルのほうが割合が多かったように思います。

そこで私は1組の奇妙なカップルの姿を見ました。

彼らは私達の前に待っていて、なんとなく漏れ聞こえる会話を聞く限りどうもまだ本格的に交際している仲ではない様子でした。

女性は会話中に「単位」や「ゼミ」といった単語を出すことから女子大生かと思われます。

茶色くゆるふわな髪を後ろでくるりんぱして金色のバレッタで留めて、白のニットとプリーツスカートを着てて、ギャルでもなく地味でもなく、一言で形容するなら「MARYが見れなくなっちゃってさみし~(>_<)」みたいな子です。

男性のほうは彼女に比べずいぶんと年上に見えました。

痩身で背が高い方だったのでパッと見は、べつに「おじさんと若い女の子」には見えなかったものの、頭髪がやや薄いのと肌の感じや服装から判断して私より少し年上、おそらく39、40歳かと思いました。アンガールズ田中に少しだけ似てました。

年齢だけで言ったら「おじさんと若い子」のカップルです。

2人の会話はあまり弾んでおらず、女の子(以下メリーちゃんと称す)がはじめ大学の勉強についての話をした後は、さして実のある話はしていませんでした。

時々沈黙に耐え切れないメリーちゃんが「雨降らなくてよかったですね」とか「今日、外あったかいですね」とか言うものの、田中は「そうだね」とか「昨日は寒かったけどね」とか返事をして終わり。

でも田中はかなり頻繁にメリーちゃんの横顔をチラ見することから判断して「好きだけどうまく話せない」的なやつで、2人で会うのはまだ初回か二回目くらいといった所でしょうか。

で、この2人のどこが奇妙だったかと言うと、店に入ってからのことです。

私も終始彼らに注目していたわけではないので、カウンターの隣同士になったものの、初めは特に彼らのことを気にも留めてませんでした。

しかし食事中盤、ラーメンズが私の隣のメリーちゃんの前に給仕した大トロ4カンの見た目のインパクトが強すぎて、思わず私は彼らのカウンターに注視してしまいました。

そしてその時、彼らの前には「高級ランクの皿だけが積み上がっている」ということに気が付いたのです。「わ、」と思いました。

そのお店はネタのお値段が130円、200円、260円、300円、500円の5段階設定だったのですが、メリーちゃんと田中の前には260円以上の皿しかなかったんです。

こういう時心の中で「わ、」となりますよね、え、なりません?私はなります。「わ、」て。

でも別にそこが奇妙要素なんではなくて、私が「あれ?」と思ったのは彼らの注文の決め方なんです。

その店のメニューはこんな感じだったのですが

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大トロをもぐもぐしているメリーちゃんの横で田中が「次なんにする?」と見せているメニューは②と③のページだけなんです。安い130円200円のネタが載ってる①のページは折り返して裏にしてて見えない状態なんですね。

その段階では私はその事を別に何も思わなかったのですが、メリーちゃんがメニューを自分で観たそうに「んー」と手を伸ばすと、なぜか田中はメニューを手放さないんですよ。

その時、私は初めて「あれ?」と思いました。

まるで田中が「ここから選んで」と無言の圧力をかけている感じがしたんです。

メリーちゃんもそれを感じるのか、まだ我が出せる関係性ではないのか、出した手をひっこめて高級ネタの中から「じゃあ、ヒラメを…」と言って、田中は嬉しそうに「ヒラメね」と注文用紙に書いていました。

この光景、一度だけなら気にならなかったのですが、その後何度もあって、ここまで毎回メリーちゃんの伸ばした手を無視する田中に対し、私は「なぜ?」と気になってしまいました。

そんな感じで少しだけ2人のことを気にしながら食事をしていると、決定的に「あ、田中わざとやってるんだ!」と思う場面があったのです。

それは私が玉子焼きを食べた時の事。

その店の玉子焼きがすごく美味しかったんで、私、思わずわりと大きめな声で「うわーおいひー」と言っちゃったんですね。

そしたら、メリーちゃんがそれに反応してチラ見されて、たぶんメリーちゃんも玉子を食べたくなったんだと思うんですよ。

そこにちょうど田中が「次、どれ?」とメリーちゃんにメニューを見せてきたんですけど、玉子ってたいてい寿司ネタで一番安いじゃないですか。

だからメリーちゃんも裏面になってる安ネタのページを見ようとして、かつてない力強さでメニューを掴もうとしたんですね。

そしたら田中、グッと自分のほうにメニューを引き寄せてメリーちゃんにメニューを渡さないんですよ!

その瞬間、メリ―ちゃんと私、多分同じこと思いましたよね。

「なぜだ、田中!?」

しかしメリーちゃん、ここで初めて我を貫きました。

再度メニューに手を伸ばしながら「あの、玉子が…」と「玉子が食べたい意志」を口に出したんです。

しかしそれに対してなんと田中はフッと笑って「遠慮しないで、ここから選びなよ」と言い、メニューをメリーちゃんから死守したのです!

またもメリーちゃんと私の心はシンクロしてたと思います。

「なんなんだ田中!?」

それでもメリーちゃんは大人しい性格なのか、奢られる事が決まっていてその引け目なのか「あ、はい…」と玉子を諦め、他のものを注文していました。

 

この光景を見た時、私はふと自分の過去の記憶が頭に浮かびました。

それは、若い頃に歯科助手をしていた時のことです。

私の勤めていた歯科医院は基本、院長(30代男性)とその奥様(20代女性)と私、の3人しかスタッフが居なかったのですが、院長夫妻は私の事をとても可愛がって下さり、3ヶ月に一回くらい良い御飯に連れてってくれました。

その時、いつも「なんでも好きなの頼みなよ」状態だったのですが、院長は「好きなの頼みなよ」と言いつつ、実際は私が好きなものを頼むことが出来なかったんですよ。

なぜかというと、院長は高いものしか頼まさせてくれなかったんです。

何かのコースで「松・竹・梅」と3段階あるとしますよね。私が「梅か竹がいいな~」と思いながらそのあたりのメニュー詳細を見てると、院長が「なーに遠慮してんの!松にしなさい!」とニッコ二コで言ってきます。

そしてその笑顔からは、なにか無言の圧力を感じます。

まぁ「上司ってそういうものだよな」ですし、奢ってもらう人が奢ってくれる人の「気分を接待する」っていうのは大人のマナーかなと思っているので、もう「奢られる前提」で一緒に店に行ってる限り、私は院長に従ってたんですよね。

私が「へへ、じゃあ松でお願いします。」と言うと「そうそう、初めからそう言いなさい^^」と満足気な院長。

こうした場面を振り返ると、院長達との食事は、表面的には「今日は日頃の慰労もかねて美味しいものを食べて親睦を深めよう」という建前がありつつも、水面下には「私の食事代」と「院長の満足感」の交換会みたいな部分があったんだな、と思います。

でも、こういうのは仕事関係の相手となら、避けて通れない道だとは思いますし、私も沢山ご馳走されて良い目を見てますから、別にいいんです。

ただ、プライベートな男女関係で食事をしている時にそういった部分があると、私はゾワっとしてしまいます。

なんで、ゾワっとするかという説明に、田中とメリーちゃんの関係を使わせてもらいますね。(二人の考えが私の想像通りだったと仮定して)

ぶっちゃけ、田中がしているメリーちゃんへの「おもてなし」は、ズレてると思うんですよ。

田中はメリーちゃんに対して「好き」なのか「今夜キメたい」なのか、その両方かは分かりませんが、とにかくメリーちゃんにお寿司を奢ることで自分の好意を示す、おもてなし中なわけです。

「食事を奢る」というおもてなしは、好意と経済力が同時に示せるし、好きな人がなんか食べてる所を見るのは楽しいので、みんなよくやると思います。

私はそれ自体は別に悪いこととは思いませんが、田中がズレてるのは、その「奢る=おもてなし」のクオリティを高めることに集中するあまり、肝心の「メリーちゃんの意志」をないがしろにしているところです。

田中がその夜「高級寿司ネタだけを遠慮なく頼ませてあげる俺の経済力、気前の良さ、優しさでメリーちゃんをメロメロにしよう」といくら頑張ってたとしても、私がメリーちゃんの立場なら、感想は「玉子食わせろ」なんですよ。

「玉子が食べたい」というメリーちゃんの意志を鼻で笑い、メニューを渡さない田中。

つまり田中はメリーちゃんの意志より、自分の「メリーちゃんに高い寿司を食べさせたい意志」のほうを尊重しちゃってるんです。

田中は「今日はだいぶ良いものばかりご馳走したし、大人の魅力を見せられたな」と満足かもしれないけど、メリーちゃんが帰り道「玉子食べたかったなー」と思うかもしれないことに思い及ばない。

田中はそこがズレてると思う。

メリーちゃんが好きなら、メリーちゃんにメニューを渡すんだ田中!

メリーちゃんに選択の自由を!

あなたはメリーちゃんをもてなしてるつもりでも、それは自分の「メリーちゃんに気持ち良く奢りたい欲」を満たしてるだけなんだよ…!!

そこに気が付かない限り、メリーちゃんは心もお股も開かないよ…田中!

 

なんの話でしたっけ。

ああ、私がこういうのにゾワっとする理由ですよね。

それはたぶん私はこういう奢り方をする人からは「自分が道具にされてる感」を感じるからだと思います。

どういうことかと言うと、プライベートなのに、こういう時にもうひと押し「遠慮じゃなくて、素で玉子食べたいんでメニュー見せてくださいよ。」と言えない女の子って、多分「アレ」が怖いんだと思うんですよ。

「アレ」とは何かと言うと、昔飲み屋で働いてる時に何回か遭ったことがあるんですが、「金持ってます」な男性が「なんでも頼めやー」をしてきた時に、こっちが素で好きなメニューを言ったら「なんだそんな安いの頼んで!俺を馬鹿にしてるのか!?」って怒られるやつ。

過去に私は奢ってくれる男性が、こんな風に激高はしないまでも、ちょっとこれと同じ空気を出してくることが実体験としてありました。

仮にその男性をAさんとします。

私は牛肉より鶏が好きなので焼肉屋で鶏を多めに頼もうとしたら、Aさんは「もっと好きなの頼んでよ、なんか俺のこと貧乏だと思ってない?笑」(冗談ぽく言うのに目が笑ってない)と言うんです。Aさん以外にもこういう事を言われることは何回かありました。

私はコレに出くわす度「なんなんだろう、この思考回路」と思ってました。

院長の無言の圧力も、口に出して言わないだけでこれなんですよね。

食べ物を値段じゃなくて、料理の味として見てれば、安い食べ物が本気で欲しい時だってあるじゃないですか。

なのに「安いメニューを選ばれた→そんな金額しか出せない男だと思われてる?→俺を馬鹿にしてる!!?」って、なんでそう思うんでしょう。

せっかくAさんが「金額に制約なく今日は食事を楽しもう」の席を設けてくれたので、こちらはありがたく「じゃあ今日は二人で好きなものを楽しく食べましょう」の気持ちで挑んだんです。

それなのに実は「安いものを頼まれたら男が馬鹿にされてる気分になるからダメ」っていう制約が存在してて、しかもその制約は表立っておらず、マナーとしてあらかじめ奢られる女が踏まえていないといけない、っていう感じの圧力。

こういう人って「高いものを奢りたい」と思うなら、初めから「高いもの頼め」って言えばいいのに、それだと自分が下品っぽくなるから「好きなの頼め」って言うんだと思うんですが、でもその「好きなの」って、私の「好きなの」だから、私がどの値段の食べものが好きかはまだAさんは知らないんですよね。

Aさんが本当に私に好意があって「好きな食べ物知りたいな」みたいに私の中身に興味を持って「好きなの頼んで」と言ってくれているなら、私が鶏ばかり頼もうが「鶏のほうが好きなんだねー」で済むのが筋なのに、安いものを望んだら「みくびってない?」的なことを言われ「奢り甲斐ないなぁ」と残念がられたりする。(人によっては「馬鹿にするな」とまで言われる)

それって、結局「好きなもの食べさせたい」より、自分が『女に金使ってやったぜー』ていう気持ちになりたいがために「女に奢る」という手段を使ってるだけで、そんなの「私、道具じゃん」という感じがしちゃうんですよ。

私は自分が人間扱いされなかった時、それが一番ゾワッとなります。

100年の恋も醒める。そういう人とは恋愛できないと思う。

Aさんにとっては「好きなの頼め」って言われたら「えーじゃあ、ウニといくらと大トロ!Aさんと来なきゃ、私こんなお寿司食べられなかった~うれしー」っていう奢られ方が出来る女の子が理想だったのかもしれないけど、それは私が院長に提供してた「満足感」の交換会の時のやつだから、仕事関係みたいに「割り切った自分」にならない限り私はしたくなかった。

私は「恋愛に発展するかしないかの男女が一緒に食事をする意義」というのは、相手の好きな食べ物を互いに知ったり、食事の席で色んな話をして性格を知ったり、食べ方や店員への態度がどうだっていうのを目の当たりにしたりして「この人とやっていけるかな」と考える材料を「互いに入手するため」だと思うんですよ。

だから、そういう食事の時に「金額の制約は僕が外すから大いに2人で好きなもの食べて、新しい面を見せ合おう」という意味での「奢り」なら、すごく歓迎できることだけど、相手に貸しを作るつもりとか、奢ってあげる優越感が欲しいっていう思惑が潜んでいて、しかもそれが相手に見えちゃう「奢り」だったら、関係発展のためには逆効果だと思います。

田中とメリーちゃんの話なので、つい「男が女に奢る話」になってしまいましたが、男女が逆でももちろんそうですし。

田中とメリーちゃんは一見「これから」を感じさせるデート中の2人っぽかったのに、その制約、無言の圧力がガチガチに潜んでて、でもそれは「ないもの」としてデートが進行しているところが、少し奇妙に見えたので、頭に「1組の奇妙なカップル」と書いてしまいました。

ちなみに2人は最後、メリーちゃんがデザートを一つ選ぶのに「どれにしよう…」と楽しげに悩んでたら、田中は「悩んでないで、全部頼んじゃえばいいじゃん。」と言ってデザート5種全部を頼み、結局メリーちゃんは1皿しか食べず、田中が「もう無理」とか言いながら食べてました。なんか、ゲスい…。

食べきれないほどのデザートを見た時のメリーちゃんの引きつった笑顔と棒読みの「わーすごい」が忘れられません。

そういうとこだぞ、田中。

 

 

※メリーちゃんと田中はもしかしたら仕事関係の付き合いだったのかもしれませんが、事実はわからないので、全部私の妄想として書いてます。

 

私はカンニング竹山のすべらない話が笑えなかった

 

 

あのですね、新年一発目から人様の悪口に聞こえるような話はあんまりしたくないんですけど、土曜にテレビ見てたらちょっとあまりにもひっかかった場面があったので、今日はそのことについて書きます。

それは「人志松本のすべらない話」の中でカンニングの竹山さんがしていた「前田健の葬儀にて」という話。

番組を観ていない方の為に、どういうお話だったかとざっくりと文字起こしします。

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竹山「去年に、僕の親友だった前田健ていう芸人が亡くなっちゃったんですね。彼と僕は同い年でテレビ出だした時期も一緒で、色んな悩みとかも相談して、まぁ親友みたいなもんだったんですね。で、彼はテレビで俺の事が好きだってのもよく話してたんですよ。まぁ、男が好きなマエケンでしたから。

そんなマエケンが去年の5月に突然亡くなっちゃったんですけど、あまりに突然で僕もどうしようか戸惑っていたら、友達の青木さやかから連絡来て『葬儀は何日か後にやるんですけど、とりあえず今晩マエケンさんの実家で身内だけが集まる仮通夜があるので、竹山さん大丈夫だと思いますよ。(特に親しかった竹山さんなので身内だけの集まりに行っても大丈夫でしょう、という意味)』と。

で、夜、仕事終わってから初めてマエケンの実家に行ったんです。そしたらもう、普通のお葬式ですよね。近所の方とか親戚の方がいっぱい来てる。

で、マエケンのご遺体の寝ている頭のところにお父様が座ってらっしゃった。

僕、初めてマエケンのお父様を観たんです。まぁ、お父様がご立派な人で、弔問に来た人に『健はね、頑張りましたよ』『健は人生まっとうしましたよ。』って一言ずつをかけてて、感動したというか、ああ、お前良い親父に育てられたなぁって思ってたんですよ。

(この後、マエケンのご遺体が生前いつもかぶってた帽子を脱いだ状態で思った以上にハゲてたけど笑っちゃいけないから我慢しながら順番を待った、というくだりがあるが省略)

で、やっと自分の番が来たんですよ。ものすごく悲しかったですよ、親友が亡くなっちゃって。で、香典出してご焼香してたらその気丈なお父さんが急に『う“ぅぐうぅー』って泣きだしたんですよ。で、僕の手をこうグワーと掴んで『竹山くん!竹山くん!!』って。

周りの方たちも気丈なお父さんが急に泣き出したから『えっ?』ってなってたら、お父さんが『竹山くん!竹山くんっ!!健はね…竹山くんのことを愛してたんだよお!!!』(ここで会場大笑い)」

松本「話変わってきたね」 

千原Jr「親公認だったん(笑)」

竹山「いや、知らねぇし。周りの人も『ええっ?』って…(会場の笑い続き)

で、すいません!すいません!っつって逃げ出したって話です(笑)」(会場爆笑)

松本「あ、そうだったんやな、ちょっとそういう想いが強かったんやなー。」

竹山「だからマエケンはお父さんに話してたんですかね。」

松本「好きな人がいるって」(会場笑う)

竹山「そう、好きな人がいるって(笑)でも僕お父さんと会ったこともないし、いきなりお父さんにそれお葬式で言われても…(苦笑い)」

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と、文字だと多少印象変わっちゃうかもしれませんが、竹山さんのお話はこういう内容だったんですね。

で、私一人で観てたんで他の人がどう思ったかはこの時点でまったくわからなかったんですけど、この話、純粋に1ミリも笑えなかったんです。

しかも、頭の中で「不謹慎な!」みたいに、即「こういう理由で笑えない」っていう答えも出ない笑えなさなので「けしからん!」的な怒りでもなくて、笑えない自分とテレビの中の大爆笑のチグハグさにただひたすら「なんだ?なんだこれ??」って戸惑う感じになったんですよ。

で、ちょっと考えて思ったことをツイートしたのがこちらなんですが。

まぁ説明しますと、とりあえず私は自分が笑えなかった原因をちょっと考えてみたんですね。

まず推測するに、竹山さんが「このエピソードを『すべらない話』でしよう」と思ったからには、竹山さん的にこのエピソードに「ここが面白いぜ、笑えるぜ」って部分があったからだと思うんですね。

で、それはおそらくマエケンの俺への好意はネタではなくマジの領域の愛であり、それを葬儀の席でその父親から超本気で明かされた状況」だと思うんです。

それで、その状況を滑稽に感じたポイントはマエケンも俺もいい年した男同士」ってことと父親にまでそんな話してたマエケンの2点なのかなと思うんですよ。

そう考えると、話終わりに松ちゃんが「好きな人がいるって」と言ってさらに笑いが起きたのも、『好きな人』っていう一般的に「男女間の甘酸っぱい恋心」を連想させる響きに、周囲が「当事者おっさん同士なのにね(笑)」ってなった(松ちゃん自身もそう思ってる)からこそ起きる笑いとして理解できたんです。

これは私の解釈なので、もしかしたら竹山さん本人や他の人も「笑いどころそこじゃねぇよ」って思うのかもしれませんが、「お笑いの解釈は見た側の個人でしていい」って通説に甘えさせて貰いまして、私はそう解釈したので、それで話を進めますね。

それで、その解釈をしてみると私が笑えなかった理由に説明がついたというか、自分で納得できたんですよ。

私が笑えなかったのは、私の中で「男同士の恋愛感情を笑う」っていう感覚が無いからなんですよね。

つまりこの「マエケンが竹山さんを本域で愛していた事が、亡くなったからこそ父親によって明かされた」っていう話は、「男同士でしかもおっさん同士で恋とかウケるwww」っていう発想が無い私にとって、「すべらない話(笑える話)」のカテゴリーではなくて、ラベル付けするなら「切ない話」なんです。

「故人が生前に冗談めかしてしか言えなかった気持ちは、実は本域の秘めた愛情で、亡くなったことで初めて第三者からそのことを明かされた」って話ですもん。切ないですよ。

でも竹山さんは笑い話として提供し、会場も笑い話として消化してた。

だから、この話が笑える人っていうのは、もしかしたら「男同士の恋愛が滑稽に見える感覚の人」なのかなと思いました。バラエティでよくある男同士のキスシーンに素直に「あはは、男同士でキスしてんの、ウケるww」って思う人。

それで私とそういう人は感覚の差があるわけだけど、じゃあこの話「もしマエケンさんが男性ではなくて女性だったとしたら、今笑ってる人って、全員そのまま同じテンションで笑うんだろうか?」と疑問に思ったんです。

私の頭の中では、ある中年女性芸人さんでシミュレーションしてみましたが、ご存命の方なのでここで名前は書けませんから、仮に「いつもテレビではブスいじり独身いじりされている中年芸人A子さん」にすり替えてみます。

皆さんも想像して欲しいんですけど「竹山さんの親友だったA子さんが、急死されて、竹山さんがお通夜に行ったらお父様に『A子はね…竹山くんのことを愛してたんだよぉ…!!』と告白されたんですよ。」って話。

笑えますかね?私はとうぜん笑えないし、多分ですけど、マエケンさんでは笑えてた人も半分くらいは笑えなくなる気がするんです。

んで、これがさらにA子さんを「若くて綺麗めな女性芸人」にすり替えてシミュレーションしてみると、もう笑い話どころではなくなるから竹山さんもそれを「笑い話」として公の場に出さない気がするんですよ。

なんか他の方の感想ツイート読んでたら「両者とも芸人だから笑いに変えることで報われる」っていう意見も見て、それも一理あるのかなとは思うんですが、そうだとしたら若い綺麗めな女芸人が亡くなって、まったく同じことが起きて、竹山さんが芸人として笑い話にして披露した場合、見た人はマエケンさんの話と同じテンションで笑って、「芸人だから笑い話にされて報われるね」ってならないとおかしいと思うんですよ。

でも、ならないでしょ多分。

もし若い女性芸人が急死して通夜行って父親に「娘はあなたの事を愛してたんですよ」って泣きながら言われた話をすべらない話で竹山さんがしたら「これを笑い話にするって、竹山サイコパスかよ」みたいな非難轟轟になると思うんですよ。

ようするに、話の受け手側の中で、竹山さんへ向けられる恋心として

「男から=ありえないウケる」

「中年女性から=ウケるけど一応女だしありえる」

「若い女性=ありえる」って感じに、判別しちゃってるんじゃないかと思うんです。

その上で、「マエケン(男)からの愛、しかもおっさん同士で、ウケる」という風にマエケンさんの竹山さんへの愛情を「ありえない異質なことだから笑っちゃうわ」と無意識に判断してるんじゃないかと思ったんです。

でも私は、人の恋心って馬鹿にしたり笑いにしないほうがいいんじゃないかと思います。

だからマエケンさんが竹山さんへ抱いていた愛情も滑稽なことではないし、自分の父親に本心を明かしていたのも、いい親子関係で素晴らしいことだし、笑う意味がわかりません。

しかし世の中には漫画で見かける、ブサイクな女子が男子に告白して「まじ、あのブス、あの顔でよく告ってくるよな、家に鏡無いんじゃねーのww」みたいに男子が友達と笑いあう場面とか、男子が男子に告白したら「きめぇーコイツwwホモだったのかよ!」と茶化したりする事例が実際にも起こってるんですよね。私はそういうことを考えると胸がぐわぁって痛くなる。

恋愛対象じゃないとしても相手を人として尊重した断り方があるのに、「ありえねー」みたいに人格ごと否定した断り方って、本当に人の尊厳が傷つくと思うんで。

で、漫画だと、こういう男子は終盤痛い目に遭うオチがあったりして「そういう事言うのはダメ」って教訓込みだからいいんですけど、私にとって、漫画の中の悪者男子の「まじあのブスの告白ウケるww」「まじ男のくせに告ってきてウケるww」っていうのと、竹山さんの「マエケンの本域の愛情wしかも父親から聞くとかウケるw」っていうのは、同じだったのに、竹山さんの話は「すべらんなぁ」の流れに乗って編集の壁を越えて公共電波の中で「ああ面白かったね」として人々に届いているわけじゃないですか。

だから、その状況に「ええ?これはありなの?なしでしょ?」となったし、ツイートの最後の「男同士だから笑うんだとしたらひどいよ」の酷いっていうのは、そういうことです。

これを読んだ人のうち何割かに、「全部お前の頭の中の想像じゃん」とか「竹山さんの真意は違うはず」とか思われるのは分かってるんですけど、自分の中でこの話がモヤッとしてたし、同じように感じている方も多くいたみたいなので、整理するために書きました。

ちなみに、この竹山さんの話に否定的な方の中には「人の死を笑いにするなんて不謹慎」ていう意見もあるかと思いますが、私がひっかかった部分はどうもそこではないっぽいです。

というのも竹山さんが以前、亡くなった相方のことをネタにしたトークを聞いたときは、今みたいなひっかかりを感じなかったからです。

じゃあ、どこがひっかかってるのかというとやっぱしテレビの中でマエケンさんは男だからみんなが笑ってもいい扱いしてるところ」ですかね。

でもフォローというわけではないんですが、私は竹山さんがマエケンさんからの愛情や、葬儀でお父さんに号泣告白をされたことに「おもしれぇ」と一人で笑う事自体は酷いと思わないです。

なぜかというと竹山さんは、もっと若い頃に相方を亡くされてて、親しかった人間の死というのは、本当に強く影響があるもので、天命の短さへの怒りとか、喪失感、悲しみ、今後の自身の芸能活動への不安…そういうありとあらゆる負の感情が竹山さんを襲ったと思うんですが、彼はそれをバネにお笑い芸人として生きています。

つまり当時の竹山さんにとって、相方の死の苦しみから逃れられる唯一の方法が「なんとかこれも笑い話に換えてやる!」っていう精神を持つことだったんじゃないかと思うので、今回のマエケンさんの死の辛さも、同じように乗り越えようと試みたのかなと思うんで、そこは理解したいです。

あの年ですでに親友が2人も亡くなるなんて経験は、たぶん多くの人がしていないし、私もしていません。

だからその辛い経験をした竹山さんの「乗り越え方」を外側から「それは無しでしょ」と、否定できないんです。辛かった人が辛さを乗り越える為に生み出した手段を辛くない私が馬鹿にしたりはできない、ってことです。

なので、マエケンさんの葬儀のエピソードを、竹山さんが一人心の中で「マエケン、本気で俺の事好きだったのかよウケるなぁ。」と思うところまでは、竹山さんなりの悼み方としてアリと思うんです。

でも竹山さんはこの話をすべらない話に選んだし、放送局もカットせず流した。

私が問題に思っているのはそこだけです。

なぜかというと、この「マエケンさんが竹山さんを実は本気で愛してた」って話を、テレビで「笑い話」としてやるには面白いポイントが「マエケン(男)から竹山(男)への愛情が面白い」ってことになってる気がするんですよね。

それって、結局今のテレビの中で、ちょっとナヨっとしてる男性をすぐ「あれ?そっち?w」と突っついて「オネェ疑惑!?」とテロップをつけたり、「おかま」は道化としてしか存在を許されていない現状があるからですよね。

私はそういう現状が嫌だと思ってるほうなんで、この話をすべらない話で「男同士の愛笑えるでしょ」って意味合いのまま放送されてるのを観て、相変わらず「テレビはセクシャリティがノーマルではない人のことは笑いものにするぞ」って姿勢だなぁ、と思いました。

色んなところで「LGBTに理解のある社会を」といくら呼びかけても、男同士のキスを罰ゲームとして流すテレビがふつうにやってたら、「同性愛者は笑いものなんだ」という認識は下の世代に受け継がれていってしまう気がする。私はそれが怖いし嫌。

このエピソードで笑ってもいい人って、竹山さん本人とごく親しい周辺の人だけだったんじゃないかって思うんですよ。だからこれを流したテレビも、それをそのまま笑うって感覚も、ちょっと自分とは違う、信じられないと思いました。

走り書きなので、支離滅裂かもしれませんが、そんな感じです。

今年もよろしくお願いします。

ではまた。