限りなく透明に近いふつう

やさしい鬼です お菓子もあります お茶も沸かしてございます

兄がアル中になった。

兄が肝臓を壊しました。

10年以上に渡る過度の飲酒習慣があった人なので、アルコール依存症も発症しました。

さらに、アルコール依存症と併発しやすい鬱も発症しました。

「肝炎、アル中、鬱」この魔の3点セットに兄が蝕まれていることが判明したのは今年の1月半ばでした。

 

兄は母と実家で同居してますが、建物は二世帯住宅になっていて、一階と二階に分かれて住んでいます。

兄が正月休みにインフルエンザにかかり、その後体調が戻らない。仕事も休み続けてる。病院は数回行ったが、良くならない。昼夜を問わず叫び声を上げたり大声で泣き喚いている。母が、病院に再度行くように言ったり、前回受診時に何かの検査は受けたそうなので、結果はいつ聞きにいくの?と訪ねたりするも、兄は生返事や泣き声まじりにボソボソとしか話せない。高齢の母にはそれが聞き取れず、聞き返すと兄が激昂するので会話にならない。ニニちゃんから病院行くように言ってくれる?

 

母からこんな電話相談を受けたのが1月半ばで、この時に私は兄の異常を知りました。

母ははじめ兄のことをアル中だとは思っておらず、とにかく微熱が続き、吐き気や頭痛や目眩をひどく訴えるので、なにか原因不明の病気を罹っているんじゃないか?と不安がっていました。

私はすぐ兄に電話しました。

「体調悪いんだって?」

「うん、死んじゃいそう。つらい。」

「病院はなんて?」

「びょ、病院はさ、なんもしてくれねぇんだよ〜!!(泣きはじめる)」

この時点で明らかにいつもの兄ではありませんでした。

それでも泣きながら話す兄から事情を聞き出すと、さきほど母から聞いた流れの話があり、とにかく体の部位という部位全てが痛く、吐き気、目眩に襲われていて、眠りたくても眠れずとにかくツラいと言っていました。

この時までは私も何か原因不明の病気なのか?と思いましたが、兄が言った次の言葉で「おや?」と思いました。

兄が「幻覚も見えるんだよ」と言ったからです。

 

それでも泣き止んだ兄は少し落ち着いて「だいじょぶ」と繰り返したのちに「話すの、疲れたから、切るね、ありがとう」と言って電話を終えました。

私は、兄が明らかにふつうの体調不良の域を超えている状態だと思いました。

いくら人間、病気の時には気が弱くなってしまうものだとしても、大の大人がツラくて泣き喚いてしまうというのは、あまり普通では考えられないことです。

 

しかし私は「なぜこんなことに!?」とは思いませんでした。

思ったのは「来るべき時が来たのかもしれない」でした。

ずっと、明るくて仕事が出来て社交的で、子供の頃は自慢の兄でしたが、私は兄がいつかこうなることを予感していた気がします。

 

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自分の気持ち整理のために書いているのですが、疲れてきたので続きはまた今後にします。

間にふつうの記事を載せることもあるかもしれませんが、家族がアルコール依存症になったという事実と私はきちんと向き合っていけたらと思うので、今後も記録していきたいと思います。

同じような境遇の人は良かったらたまに見に来て下さいまし。

私は元気なので心配しないで下さいましね。

ではまた

 

なぜマツコデラックスのセクハラは許されるのか?

 

 

はじめに

一昨日テレビでおしゃれイズムを観てたら、マツコデラックスが藤木直人にめちゃくちゃセクハラしてて、正直げんなりしました。

ロケ中ことあるごとに藤木直人に抱きつくマツコ、「ダメとわかってるのにー」と言いつつも藤木直人の尻を触るマツコ、きわめつけは仰向けの体勢になる筋トレマシーンを藤木直人に試させた場面で、ハァハァと息切れした藤木直人に上からかぶさる姿勢をとって「疑似体験できたわ」と喜ぶマツコ。

上田晋也がそのつど「やめろ!」的なツッコミを入れて笑いに変換させてたんですけど、最後のは「今、あんたとのセックスを疑似体験したわ」って意味なんで、上田晋也のツッコミ力を持ってしても、私はセクハラを目の当たりにした時の「うげぇ」感が拭えませんでした。

「なにをいまさら。マツコってもともとそういうキャラじゃん」と言う方もいらっしゃると思いますが、ここ数年のマツコの露出頻度はすごいです。

もうテレビで見ない日は無いんじゃないかという勢いで出てるので、毎回ではないにしてもマツコが男性タレントとか素人男性の身体に無遠慮に触れる場面は、けっこうよく目にする光景になってるんですよね。

だから「数が少なきゃしていい」って事でもないんですが、頻繁に見るからよけい目に余る状態で、私はげんなりしてしまったんです。

 

そして、げんなりついでにふと疑問が浮かびました。

それは「なんでマツコのセクハラは今のテレビ界においてもこんなにオープンに許されているんだろう?」という疑問です。

というのも、最近は何かあると速攻SNSで叩かれるという背景もあって、テレビを作る人やテレビに出る人から「迂闊なセクハラが無いように気をつけます!」という雰囲気がビシバシ伝わります。

そのおかげで昔のテレビに比べたら、意味のない水着姿の女性アシスタントも見ないし、大物男性司会者が女性タレントに気軽にエロいことを言う光景も、ちゃんと激減してます。

つまり「一億総セクハラ注意時代」とも言える現在日本なんですが、その中でマツコのセクハラは取り残されたかのようにオープンに行われているように思います。しかもあまり叩かれてない。

私はなんだか急にこの現象が不思議に思えてきました。

なので今日はそのことを書きます。

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前はマツコが好きだった

この話をする前に、はじめに断っておきますと、私はマツコをテレビでよく目にするようになった当初から数年間は結構マツコのことが好きだったんですよ。

マツコのテレビ初出演は2000年で、私が好きになったのは多分2005年あたりだと思います。

今でこそマツコはすっかりお茶の間の人気者の座に君臨していますが、その頃はまだ違いました。

特に私の周りの少し年配の人にはマツコの歯に衣着せぬ物言いや「ゲイの女装家」という部分に露骨に拒否反応を示す人がいて、職場である介護施設のテレビでもマツコが映ると年配のスタッフや利用者さんが「この人下品だから嫌い」とか「男だか女だか分からん、気持ち悪い」と言ってチャンネルを変えたがる事がよくあったのを覚えています。

私は基本「性別の枠から外れる人間の言動は、ハナから受け入れない」という姿勢は偏見的で嫌なので、マツコの言うことを聞きもせずにマツコが「女の見た目をしてるゲイ」だというだけで、年配の人に嫌われてることに少し同情的な気持ちがありました。

「マツコ面白いのに、マツコ良いこと言ってるのに見た目とかオカマ(本人が自称する表現)だからってハナから拒否るのひどいよ」みたいな。

まぁ、私がマツコを好きになったのはそういう同情的な部分を一切抜きにして、単純に当時のマツコの言ってることには「そうそう!」と共感できる回数がすごく多かったからなんですが、ここ数年のマツコに対しては「共感から得られる好感」よりも、「その言動に引いてしまう感」のほうが上回るようになってしまい、好きだった人を好きじゃなくなる悲しさを覚えていたところでした。

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女のセクハラはギャグ?

で、本題の疑問 なぜマツコのセクハラはオープンに許されているのか?について考えてみると、その理由はまず単純に「見た目が女性だから」というのが大きいと思います。

昔は男性から女性へのセクハラすら笑いにしていたテレビ界ですが、「もうさすがにそれは笑いにならない」という常識が一般化しつつあります。
しかしながら、女性から男性へのセクハラについてはまだその意識が適用されておらず、女性がセクハラしてる場面はギャグ扱いになることが許されているように思います。

マツコ以外にも大久保さんとか岩井志麻子先生が、男性タレントの股間を触る場面もギャグのひとくだりとしてよく見かけますしね。

 

しかしもちろん、女性だからってセクハラをして良いわけじゃありません。

世の中には実際に、女性からのセクハラに悩む男性だっているのですから、本来セクハラ問題とは、「被害者加害者の性別に関わらず深刻な問題として考えなければいけないもの」だと思います。女から男でも、男同士でも、女同士でもセクハラはセクハラ。

だから今の様に「女性から男性へのセクハラはギャグですよ」「女性だから、女性の見た目だからこれは問題ないんです」という常識でテレビが作られていく姿勢は、本来は感心できないことだと思います。多分今の段階でも不快な人はいるでしょうし。

もちろん、それはタレントだけの責任ではありません。

全てのテレビ番組には台本があり、彼女達も製作者側から「ここで男性にグイグイ絡んで、ひと笑いお願いします!」みたいに、そういう役目を求められるからやっているんだと思うので、演者だけの責任とは言えないのです。

でもマツコについては、あそこまで売れていて弁の立つ方だから「私はしたくないの。100%テレビにやらされてるのよ」という言い分は通らないんじゃないかと私は思うので、やはり多少は本人がしたくてしてる言動なんじゃないかと思うんですよね。

そうなると、「セクハラしたい人がセクハラしてる場面がそのままテレビで放送されてる」ってことなので、その頻度の高さも手伝って私は不快に思ってしまいます。

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「特別枠」が意味するもの

さて、ここまでは テレビを作る側の話でしたが、ここからはテレビを観る側の話をしたいと思います。

世の中には「同じ発言内容でも言う人によって周囲の反応が違う」ということが実によくありますよね。

分かりやすい例で言えば、ものすごい美人が「やっぱ彼氏はイケメンじゃなきゃありえない。」と言うと周囲も「こんだけの美人ならまぁそうだよなぁ。」と多少納得するのに対して、不美人が言うと「お前が高望みすんな!」とヤジが飛んでくる、みたいなことです。

私はそれもルッキズムという容貌差別の範疇に入ることだと思うので、自分は極力しないように注意しているところなのですが、容姿以外の、職業とか生活態度とか、その人の持つ要素を全て気にせずに、いつも発言内容だけに反応しているかと問われれば、自分は出来ていると思いませんし、周りの人を見ていても、それが出来ている人はほとんど居ないように思います。

つまり、「同じ台詞でも相手次第で許せる場合と許せない場合がある」というのは人の道理なのかもしれません。

 

ではここで改めて「なぜマツコのセクハラは許されてるのか?」と考えてみますと、マツコのセクハラが人々に怒られないのは、観ている多くの人の心の中に「マツコは特別枠」という意識が働いてるからじゃないかな?と私は推測します。

それで私は、マツコが「特別枠」となる理由について、観ている人が全員「マツコの言うことは特別共感できるから、マツコが特別好きだから多少の嫌な部分も気にならない」という意味での特別扱いなら問題には思いません。

それは「えこひいき」ではあるけど、愛情由来のえこひいきを完全にしないのは自分にも無理だし、そういう不条理なところもあるのが人間だと思うからです。

 

でも、そういう理由ではなく、人々がもしマツコのセクシャリティを理由に特別枠扱いしてるのだと仮定したら、そこに私は抵抗を感じます。

これがどういう抵抗感なのかということは、次で説明します。

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抵抗感の正体

 

私は以前、誰かが「男が言ったら叩かれる発言はオカマに言わせりゃカドが立たない。」と言っているのを聞いた事がありました。

確かに観察してみると、女性は男性から「あんたブスだな」と言われると怒ったり悲しくなったりするけど、オネェという立ち位置の人に「あんたブスね」と言われても笑って済ませてる様子が見受けられます。

これは私の勝手な推測ですが、多くの女性が「ブス」と言われてムカッとくる度合いは「男性>女性>ニューハーフ」という順番なんじゃないでしょうか。

 

私もこのことについては今回初めて意識したのですが、意識してみると、新たに「なんでニューハーフの人の言葉は聞き流せるのだろう?」という疑問が浮かびました。

もちろん、そうなる原因が「個人的にそのニューハーフの人を特別好きだから」という理由なら「えこひいき」なのでいいのですが、先程の「男が言ったらダメなことはオカマに言わせりゃカドが立たない」という言葉を踏まえてみると、私はそれがやはり「発言者が既存の性別外で生きている人」だということに由来するような気がするんです。

つまり女性が「ブスだわねー」とか「女らしくしなさいよ」とニューハーフから言われた時、その女性は無意識だとしても心の根底には、ニューハーフの人に対して「この人は望む性別に生まれなかった可哀想な人だから」とか「この人は、女として正規に生まれついたくせに女らしくしてない女に対して『せっかく生粋の女なのにもったいない!』みたいな悔しさがあるんだな」と同情を感じて、それが理由で許している。という現象が起きているんじゃないか、ということです。

私が抵抗を感じるのは、その同情が実は差別的なもののように思えるところなんです。

 

だって、その同情って子供に「バカ」と言われても「子供の言うことだから」と気にしないのと同じ構造で、つまり、ニューハーフの人のことを、「可哀想な人だから」と自分より一段下に位置付け「大人なのにまともに数に入れない」ことのように思えるからです。

私は、男や女という既存の性別に縛られず生きる人を心から応援したいけど、そういう人をあえて「普通の人とは違う苦労をしてるんだから応援してあげましょう」みたいに特別扱いするのは、なんか違う気がします。

私は、彼ら、彼女らが社会に求める、ジェンダーレスという概念は「普通とは違う性別の人にも優しくする社会」なのではなく、そもそもの「男に生まれて女を愛して生きる男性、女に生まれて男を愛して生きる女性だけを普通とする常識」が取り払われた社会だと思います。

だから、セクシャリティが原因で「特別枠」とすることには「普通ではない可哀想な人だから特別に優しくする」みたいな、実に上からの施し感がしてしまうんです。

本当にフェアに生きてる同士なら、ムカつくことを言われたらムカつくものだし、セクハラをしてたら「ダメだよ!」と怒られるものだと思います。

それを、セクシャリティが既存の男女じゃないからといって「この人は仕方ないよ」と見逃すのは、優しさではなく、「本気で相手にしない」という、1番酷な事なんじゃないかと私は思います。

その酷なことが人々の中で無意識に行われてるから今マツコが言う「ブスばっかりね」といった侮辱語も、マツコがするセクハラも、すべてギャグで済まされてるんじゃないかという気が私はします。

 

これが、今回考えて一応出た私なりの「マツコのセクハラが許されてる理由」です。

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マツコを女叩きの道具にしてない?

あと最後についでだから書きたいことがあります。

私は先の「男が言ったら叩かれる発言はオカマに言わせりゃカドが立たない。」発言に見られるように「マツコの意見はあまり叩かれない」という部分に便乗して、メディアもマツコを「女叩きの道具に使ってるんではないか?」という疑いを持ってます。

マツコは女性に対してキツい意見を言うことがままあります。
夏目ちゃんが泣いた「女は出産年齢を考えたらタイムリミットがあるのに今の女は結婚先送りで自由に暮らしてていいと思ってるの?」みたいな意見とか「インスタやってるのはみんなブス」「今のアイドルはブスばかり」「オルチャンメイク流行でブスが増えた」といった一連の「こういう女はブス」という意見ですね。

こうしたマツコの発言は、一部の男性にとって「思ってたけど言ったら叩かれるから我慢してたんだよ!マツコが言ってくれてスカッとした!」と喜ばれる内容だと思うので、「マツコならば叩かれない」という利点を逆手に取り、いつもそのまままメディアで流れているような気がしてならないのです。

もちろん、マツコがそう思い、そう発言するのは自由なんですが、普通の男性タレントが言っていたら番組制作スタッフも「この発言はちょっとアレなんでカットで…」となるような審査が、マツコに対しては行われていないんじゃないか?と思えるほど、マツコは女性に対して侮蔑的な発言も取り上げられているように思えます。

もしそうなら、先ほども書いたように、それは本当の意味で人間としてマツコの意見を支持してるのではなく、マツコの『オカマ』という立ち位置をいいように利用してるだけのような気がします。

だから、テレビを作る人も「マツコの意見だからみんな許すだろう」ではなく、マツコの意見だろうと「これは傷つく女性が多いだろうから流さない方向で」みたいな審査が行われるほうが正しいんじゃないかと思います。

まぁ、これは単なる私の妄想で、ちゃんと審査された上で今の状況なんだとしたら、もう私は「そうですか」とマツコの出ている番組を見なくなるだけのことなんですが。

ただこれは前々から思ってたことなのでついでに書かせてもらいました。

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最後に

私はマツコを見ていると時々悲しくなることがあります。

それはマツコが「こんな男だか女だか分からない人間をこうしてテレビに出させていただけるなんてありがたいことですよ」と、必要以上にへり下り、自分を卑下したことを言う時です。

好きだった頃から今も同じように私は悲しくなります。

だってそれは「男だか女だか分からない人間は日陰にいるべきなのにテレビまで出させていただいてありがたい」という風に聞こえてしまうんですもん。

だから聞くたびに「そんな事ないよ!男だか女だか分からない人間とかそんなことは気にしなくていいよ、マツコ面白いんだから、才能あるんだから、『男だか女だか分からないからどうしたっていうの?』くらい堂々としてていいのに!」という切ない気持ちになります。

 

あと、マツコは「アタシなんてどうせ独りでのたれ死ぬのよ」とか「こんな人間好きになる奴どうかしてるでしょ」みたいに、ひどく自尊心が低いようなこともよく言います。

私は、それがたまたま本人の生まれついた性格なら仕方ないと思うけど、マツコがこれまでの人生の生きづらさからそんな風に自虐的になっているのだとしたら、やはり今の社会がセクシャルマイノリティの人の自尊心を奪う仕組みであることを改めて感じ、悲しくなります。

だから、マツコがテレビで生き生きとした姿を見せてくれることには、本来私は応援したい気持ちがあるんです。

 

でもマツコはある意味シンボル的な立ち位置にいるので、マツコの言動はその一つ一つが、「ああ『オカマ』の人達ってこういうもんなんだな」と判断の材料にされる部分があると思います。

もちろん、そういうのはマツコ一人を勝手に代表だと思いこむほうがいけないんですが、それでもやはりマツコの影響は大きく、マツコが常に男の尻を触りたがるのを見て、どこかのゲイの人が「お前俺の尻狙うなよ笑」みたいな傷つくギャグを言われることだってあると思うんです。

だから、マツコにはマツコなりの好きな活動をして欲しい気持ちがある反面、度の過ぎたセクハラはやっぱり許せないと思います。

 

しかしこうしてマツコについて書いてみると、私はやはりマツコを嫌いになりきれない自分がいることに気がつきました。

だっていつもなら嫌な発言を同じ人から2、3聞いたら私はとっととその人に見切りをつけてしまいますもん。

でもやっぱりそれが出来ないのはマツコのなんらかの魅力に私が魅せられてるからなんだと思います。

確かに私がマツコを好きになった頃、マツコが言ってた「誰でもキラキラした生き方に憧れてるわけじゃないんだよ!」みたいな考え方は今も同感ですし、マツコの一定時間内にいくつも笑いどころを作れるトーク力は本当に凄いと思います。

だから私は今のテレビ界で、マツコに対して「マツコだから無罪放免」という歪んだ評価がなされるのではなく、マツコが時に正しく批判され、時に正しく評価されることを願っている、もしかしたらただのマツコの一ファンなのかもしれません。

 

長くなりましたが、お読みいただいた方はありがとうございます。

ではまた。

 

 

日常と非日常のさかいめ

 

 

こんにちは。

一昨日3月11日は、7年前に東日本大震災が起きた日でした。

皆が震災について思いを馳せた1日だったのではないかと思います。

私も7年前のあの日以来、災害時の行動について時々考えるようになりました。

自然災害というのは、本当にいつ何時起こるか分かりません。

地震以外にも大雨による土砂災害や洪水、竜巻、大雪、火山の噴火などもあると考えると、私たちは常に非常時について備えをしていないといけないと思います。

でも私は「常日頃から非常時に備えましょう。」と聞くと、深く考え込んでしまいます。

だって、備えって、ただ食料や防災グッズなどを買い揃えればいいだけのことじゃなくて、「いざという時の心構えがある」ってことも大事じゃないですか。

私は実は、後者の備えのほうが、命に直結する重要さを感じるんですが、7年考えてもあまり心構えが出来てません。

色々考えてしまうんですよね。

 

その災害が『誰もが認める大災害』なら、これはもう迷いなく私も「逃げるぞ!」という判断を下せるだろうけど、中途半端な災害の場合に、私は避難するか迷うだろうなとか。

例えば仕事場に向かって車を走らせている時に大きめの地震が来たら?と考えてみる。

それが震度7くらいで、地割れが起きて建物もドカドカ崩れてたらそりゃあ私だって車を置いて広場に逃げたり、海沿いだったら高台に走るでしょう。

でも、震度5くらいだったら私は揺れがおさまったら、避難所じゃなくて仕事場に向かう気がします。

 

つまり震度7くらいなら非日常に突入で、震度5くらいなら日常に戻るんじゃないか」って気がする。

でも、そうなると「震度6ならどうなるんだろう?」ですが、私は震度5弱までしか経験したことがないので、震度6がどんな状態なのか想像付きません。

なので、震度6の時の周りを見て、自分の頭が日常モードを保とうとするのか、非日常モードに即座に切り替わるのかも検討がつかないんです。

 

それでもまだ、地震のように「震度」という尺度があるのはマシなほうです。

それが大雨だったら?竜巻だったら?などと、他の災害の場合を考えてみると、それぞれ、どういう状態が本当に非難するべきヤバい事態なのか、地震よりも想像がつきません。

「過去の災害から学ぶ」系の番組を見ても、実際自分の身に降りかかる災害が、過去のケースとは地形も建物も時間帯も違ったら、私はオリジナルで対処しなきゃいけない気がするし。

もちろん、防災サイレンで避難の呼びかけもあると思いますが、「警戒レベルでも逃げるのか、避難指示があってから逃げるのか」は個人で選択しなきゃなので、そこでも多分私は迷うでしょう。

 

私が怖いのはそういう風に、分からなくて迷ってモタモタしてるうちに手遅れになることです。

避難したほうが良いような非日常事態なのに、頭がうっかり日常モードのまま仕事に行こうとして、怪我したり死んだりするのが怖いです。

 

そして私は一昨日のテレビを観てて、もう1つ怖いというか、心配することが出来てしまいました。

それは「その避難は正解か!?」という「避難したのに避難先で犠牲者が多数出てしまったケース」に焦点を当てて検証するドキュメント特番でした。

その中で取り上げられていた宮城県七十七銀行女川支店のこと。

 

七十七銀行の行員達は、避難マニュアルにのっとり、支店長の指示のもと銀行の屋上に避難したのですが、想定を超える高さの津波に襲われ、ほとんどの方が犠牲となりました。

もちろん、屋上に留まる指示をした支店長が全面的に悪いわけではありません。避難マニュアルに従っただけですから、1番悪いのは「マニュアルの想定が甘かったこと」だと思います。

でも、この番組はタイトルが「その避難は正解か!?」なので、避難には「正解・不正解」があり、このケースは後者ということで、「あと少し高台に移動していれば助かったのに、まだ避難する時間はあったのに、逃げなかったから想定以上の津波にのまれてしまった悲しいケース」として出ていました。

 

私はとりあえず、「その避難が不正解」というのは、事が終わって結果を知ってる、いわばカミサマ視点を持った人が後から判断した結果論だよなぁ、と思いました。

だから当事者は最後の瞬間まで皆、正解であることを祈ってその避難をしていたと思うので「辛いなぁ…」と思いながら観てました。

すると夫がポツリと言います。

「これ、みんな揃って本心でここに留まりたかったのかなぁ?」と。

 

その一言で私は、「自分がこの場面に居たら?」と置き換えて真剣に考えてしまいました。

 

私は、それが本当に全員が揃って「屋上が安全なはず」と信じていた避難なら、まだ良いというか、良くはないけど、まだ私が当事者なら、最後の瞬間は自分を呪うだけだからいい、と思いました。

 

でも、仮に自分が下っ端の人間で、自分は「もっと高台に避難したほうがいい」と思っていたのに、上の人の「屋上に避難すれば十分だ」という指示に従った結果、津波に飲まれたんだとしたら、最後の瞬間に、意見を押し切らなかった自分自身を恨むと同時に、上司のことも恨んでしまう気がします。

私はどうせ自分が死ぬなら、人を恨みながら死にたくなくて、自己責任だけを感じて死にたいんです。

だからそういう事態になるのが本当に怖い。

それで、夫に

「ねぇもし、自分が職場でこういう状況になって、自分は別の場所に避難したいのに上司が留まれって命令してきたらどうする?逆らう?」と聞きました。

 

そしたら夫もしばらく考えて

「うーん、難しいかもなぁ。確実な大災害だってことをその瞬間にはまだ分からないから、人間、元の生活に戻った時のこと考えちゃうもんね。イヤーな上司だったら『あん時、お前逆らったよな』みたいに目付けられそうだし…。」

と言いました。

 

ほんとそう、同感です。

日常モードの私達は、上司の命令には基本従うし、仕事中に勝手な個人行動はしてはいけないという頭で生きています。

だから、私も「もっと高台に逃げたい」と思ってたとしても、頭が日常モードを残していたら「元の日常に戻った時の心配」をして上司に逆らうことを躊躇ってしまう気がするんですよね。

だって、もし1人で逃げたとしても、津波が想定内の高さで済んで、元の日常が戻ったら、私はその職場で「上司に逆らった奴、1人で勝手に逃げた奴」という扱いの日常が始まるわけで、私はそうなるのが嫌だという心配をしちゃいそうです。

ここで「命にかかわる非常時に、上下関係なんて気にするか?気にしなくていいだろ!」と思うのは確かにごもっともな意見です。

命を落とす事に比べたら、こんなの、ちっちゃいちっちゃい心配ですもん。

 

でも、災害直後の当事者は事の全容が分かりません。

それが局地的な災害なのか、広い地域にわたる大災害なのか、どのくらいの人が巻き込まれてるのか、死者が出るほどの災害なのか。

情報が無くて、ほとんどその場で見えてる事しか分からないはずです。

 

つまり、その事態が「命にかかわる非常事態」って認識ができるのも、カミサマ視点の意見です。

後からみれば結果として「紛れもない非日常」と言える大災害でも、直前まで日常モードで暮らしてる私達は、希望的観測も手伝って「皆が生き残れる、日常はすぐ戻る」と思い「命に関わる非常事態」と認識するのが遅れてしまうんじゃないでしょうか。

こういう、日常と非日常の境目に正しい行動がとれるかが、生死を分けるポイントだと思いますが、私は自分がうまくモード切り替えできる自信がありません…。

 

しかもたとえ、私が出来たとしても、その場にいる全員が同じように非日常モードに切り替わらなかったら、意思が揃わずモメそう。

津波に対しては「とにかく高台へ」という教訓が浸透したけど、ほかの災害は、まだ「このレベルならこうしろ!」みたいな指針が整ってないから、災害時に「この程度ならそこまで焦らなくても」という人と「これは一大事だ!」という人、絶対個人差出てくると思うんです。

これも「災害時、命にかかわる決断時に人とモメるモメないを気にしてられっか!」って話なんですけど、日常では「人と揉めたくない」っていうのは結構気になる事じゃないですか。

だから、日常モードの「人と揉めたくない」という頭を、災害時だからと言って私はそんなアッサリバッサリ切り落とせるんだろうか?と思うと、出来そうもない気がして、それで「むずいよなぁ…」と頭を抱えてしまいました。

 

しかもそんな事を考えながら番組を観てたら、まさに「日常モードであの場に居た人」が出ていました。

番組内で流れた津波映像の1つは、七十七銀行の側にあるマリンパル女川という商業施設の職員の男性が、震災直後からずっと撮影していたものだったんですが、その方は、初めから津波の様子を撮ろうとしてカメラを回してたわけじゃないそうです。

彼は「この後仕事に戻った時、自分が施設の壊れたところの補修作業に当たるはずなので、亀裂部分を記録しておいた方が後々仕事がやりやすいから」撮影してたそうなんです。

でも、結局は想定以上の津波に襲われて、地面の補修どころの話ではなくなってしまったわけですが、(ご本人はギリギリで避難してご無事でした。)

これって、まさに彼「日常モード」じゃないですか?

あんな大きな地震の直後なのに「この後の自分の仕事がしやすいように」と考えて動くというのは、日常モードの思考があった証拠だと思います。

だから私は、人が日常から非日常に瞬時にモードを切り替えるのは、やはり難しいことなんじゃないかと思いました。

 

私もいざという時には、ちゃんとモード切り替えしたいとは思うけど、でも自分が正しいタイミングで非日常モードに切り替われる人なのかどうかなんて、実際その時にならないと分かりませんよね…。
だからどっかにそういう訓練施設が出来たらいいのに、と思ったりします。

まぁ、施設がなくても、日頃から色んな場面を考えて「この場合は、どうしたら?」と考えるのも少しは頭の訓練になるでしょうね。

「備えあれば憂いなし」と言いますが、私は「憂う」ことも備えだと思うので「憂いなし」の状態は備えてないということになり、「備えあれば憂いなしパラドックス」が起きて頭がもうクワンクワンしてきます。

でも、考えないといけないですね。

考えて、忘れないようにし続けていきたいと思ってます。

 

ではまた。

 

 

 

 

「女らしさ」ってなんですか?

 

こんにちは。

昨日3月8日は、国際女性デーでした。

というわけで、今日は1日遅れてしまいましたが、この機会に私が皆様にぜひ読んで頂きたい文章を紹介します。

それは与謝野晶子さんの「女らしさとは何か」という作品です。

与謝野晶子の「作品」というと短歌を思い浮かべる方が多いと思いますが、こちらは大正から昭和にかけて発行されていた「婦人倶楽部」という雑誌で1921年に発表された彼女の随筆で、今で言うコラムかエッセイといった文章です。

「へー与謝野晶子って、そんなのも書くんだ。」と思った方、驚くのはまだ早い!

この文章が凄いのは「女らしさとは何か」というそそるタイトルもさることながら、その内容!

例えば一部分を抜粋すると、

我国の男子の中には、まだこの点を反省しない人たちがあって、いわゆる豪傑風を気取った前代の男子の悪習を保存し、自分自身は粗野な言動を慎まないのみならず、その醜さをかえって得意としながら、唯だ女子にばかり、愛と、優雅と、つつましやかさとを要求します。

ってな感じで、当時の男尊女卑社会に対する痛烈な批判が綴られているんですね。

もう、読んでて同感な部分が多すぎて「晶子!スタバ行ってちょっと話そ!」ですよ。

この文章が100年近く昔に書かれたものなのに、現代にも通じる内容なのは、実はちょっと悲しいことでもあります。

でも悲しいからといって目を背けていても仕方ないので、私はこの作品を皆様に読んで頂きたいです。この作品は埋もれさせておくにはもったいなさすぎます。

青空文庫でどなたでも無料で読めますので、是非読んでください。

青空文庫とは、著作権切れの過去の名作を無料で電子書籍化したサイトです。合法です。)↓

青空文庫 Aozora Bunko

この作品のページ↓(上部右にある「いますぐXHTML版で読む」をクリックすると、ファイルダウンロード無しでそのまま直で読めてラクです。)

図書カード:「女らしさ」とは何か

 

さて「読んで頂きたい」とは書きましたが、こちらの作品、やはり100年近く前の文章なので、人によっては少しとっつきにくいかな、と思います。

私が10代の頃なら少しとっつきにくく感じてたと思います。

でも私は特に若い子に読んで欲しいんです!

そこで今でこそフェミニズムに興味を持っている私が「もっと若い頃にそういうことを知っていたかったよ!」と思う後悔をふまえて、多くの人に届くように方法を考えました。

今日はこの場を使って、この作品を私が勝手に少しばかり噛み砕いた表現に書き変えて載せたいと思います。

現代の若い子に気軽な気持ちで読んで欲しいから!

これを読んでから与謝野さんの原文を読んでもいいし、原文を読んでからこれを読んでもいいし、とにかく一人でも多くの方にこの作品が知って頂けたらという思いで書いてみますので、よろしくお願いします。

【ルール】

内容は変えずに現代口語版にする感じです。読みやすいように節分け、節ごとのタイトルは私が勝手に足します。太字強調部分の選択も私が勝手にします。

 

でははじまりはじまりー。

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「女らしさ」ってなんですか?

by与謝野晶子

 

はじめに

日本人って、昔から仏教とか儒教の教えを叩き込まれてますよね。

んで、「世の中の物事の移り変わりは早いもんだ」とか「毎日新しい心に入れ替えて生きよう」みたいな大事なことを学んできたけれど、どうもそれを狭い視野で解釈してるせいか、全然活かせてない気がします。
「万物流転」(物事が移り変わっていくこと)に関しては、ドーンと構えて「そういうもんでしょ!」と思えばいいのに、どうも世の中にはそれが出来ない人ってのがいるみたいなんです。
最近は日本にも外国から新しい情報がどんどん入ってきてて「世の中変えていこーぜ!」って流れなのに、そういう人達って、カビの生えたような古い習わしばっかし守ろうとしてて、なんか後ろに目が付いてるみたいな感じ。
目の前にある現実と向き合うことをサボって、先のことを見通すのも怖がってるみたいな。
しかもそういう人達って、バリバリの保守派の中にいるだけじゃなく、一見「進歩的な考え方じゃん」ってグループの中にも実は混じっていたりするから厄介なんです。

桜島注・「そういう人達」には呼称を付けたほうが読み易いので今後はそういう人達を「古石頭」と書くことにしますね。)

それで、私がこのごろ気に食わないのは、古石頭がよく「女性の中性化」って言葉を使って今話題の「女性の解放運動」に反対しているってことなんです。
だいたい古石頭って、はなっから女が人間的に進化することが気に入らないみたいなんですよ。
しかも奴らは「人生は決まったルールとか法則に従って生きるもの」っていう古い考え方に囚われてるから、それを守るためにわざわざ他人の嫌がる言葉を掲げて女を威嚇して、女のリーダーが出ないようにしたりもします。

そんで世の中の流れが良いほうに向かっててもそれをかき乱すようなこと言ったりして、とにかく女性の解放運動にこれ以上みんなが賛同しないように圧力をかけてるんです。
私はそういうのって、卑劣なやり方だと思います。
だからそれについてちょっと言いたいことを書かしてもらいます。

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「女らしさ」ってなんですか?

とりあえず、古石頭の主張をまとめると「女が男と同じ高レベルな教育を受けたり、男と同じ仕事できるようにしたりすると、女性特有の『女らしさ』とゆう性質が無くなって、女でもない男でもない、よくわからない変態人間が出来るからよくない」ってことらしいです。

でもこれ、「は?」って感じじゃないすか?
まず聞かせて欲しい。

これって何を根拠に言ってるんでしょう?
一般女子に中学レベルの教育しか受けさせない上に、女は市町村議員になる権利さえ与えられてないこの国で、何を根拠に勝手にそうなると決めつけてるんでしょうか?誰かその、変態人間とやらを観たんですか?
勝手に決めつけで言ってんじゃないよ!って私は思います。


でも、それよりももっと古石頭に聞きたいのは、そもそも女は本当にあなた方が言う「最上の価値を持つ『女らしさ』」ってのを持っているのか?ってことです。
奴らは「女らしさ」ってやつを女の性質の一番の項目に挙げていて、ほかの性質はその下に従ってくっつけてるだけです。
だから、ある女性がどんなに優れた沢山の性質を持ってても、彼女にただ一つ「女らしさ」という部分が無かったらそのせいで、古石頭は「彼女の人間的価値はゼロ。彼女は独立した人格者ではない。」とみなしてきます。

 

ここで私、聞きたいんですけど、「女らしさ」って、そんなに最高に良いもんなんですか?
「女らしさ」って、そんなに女の人格全体を支配します?
そもそもその「女らしさ」の正体っていったい何なんですか?

 

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「男のすること・女のすること」に分ける必要はない

 

日本って、女が大股で歩いたり、活発に動き回って遊んでるとすぐ「女らしくない」って責められたり笑われたりします。
つまり、女は内股でちょこちょこ歩き、人形みたいにおとなしくしてんのが「女らしさ」の一つの条件になってるんですね。

でも日本ではそうでも外国の女性はどうでしょう?
外国の女性はことごとく大股で颯爽と歩くし、欧米では戦後、女子学生も男子と同じ体操着でスポーツをするようになっていますが、欧米では彼女達に向かって「女らしくない!」という非難の声は上がっていません。
ってことは、古石頭がありがたがってる「女らしさ」ってもんは、世界共通のものではなく、日本人だけに通用するものってことじゃないですか?
古石頭は「男のやることを女がやると、女らしさを失う」と言いますが、人間の活動に「男のする事・女のする事」みたいに、「先天的に決まっているもの」があるんでしょうか?
私は女が「妊娠する」という一点を除けば、男女が性別によって決められている宿命が別々にあると思えません。

 

政治や軍事は男の分野とされてますが、日本にも過去には女帝や女性政治家はいましたし、先の戦時中は弾丸製造などの働き手に多くの女が駆り出されました。

でも彼女達は「中性化した女だ!」と非難されていません。

だからここにきて今更「男子のすることを女子がすると女らしさを失う」というのは的外れな意見に思えます。

それに、もし男女の性別によって歴史的に定まった職業の領域が分けられて固まってるなら、男が服職人や料理人や洗濯業者となるのも女の領域を侵すものとして「男子の中性化」が論じられなければならないはずじゃないですか?
それこそ紀貫之だって「女が書く」とされていた「日記」を書いてたんですから、同じ理由で「男らしさを失った人間」として批難されてないとその理屈は通らないのに、彼は歌人として、また国語で文章を書いた先駆者として尊敬されているのはどういうわけでしょう?

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「人間らしさ」を男女不平等に言い換えた言葉が「女らしさ」である。

 

古石頭達は「女らしさ」とは「愛と、優雅と、つつましやかさとを備えていること」だと言い、逆に「女らしくない」というのは「無情、冷酷、生意気、半可通、不作法、粗野、軽佻等を意味する」だとも言います。
でも、私思うんですけど「愛と、優雅と、つつましやかさ」って、男にも必要な性質じゃないすか?
「愛と、優雅と、つつましやかさ」ってのは、「特に女にだけ」求めるべきものじゃなく「人間全体に共通して」欠くことの出来ない人間性そのものなんじゃないでしょうか。
だからそれを備えていることは「女らしさ」でもなければ「男らしさ」でもなく、「人間らしさ」と言うべきなんじゃないでしょうか。

人間性なんて、男女の性別によって違う性質のものじゃないですから、もしそれが欠けてる人がいたら「人間らしくない」として、男女にかかわらず批難されるものなんじゃないでしょうか。

でも昔から男はそれが見過ごされて、女だけが「女らしくない!」って言葉で厳しく批難されます。

それって不公平過ぎると思いませんか?

 

この国の男の人の中には、まだこの点を分かってない人達がいて、彼らは昔の豪快な武将にでもなったつもりか知りませんけど、自分自身は粗雑な言動をしているのに、女には「愛と、優雅と、つつましやかさ」を求めてきます。

また、さっきも言ったような「無情、冷酷、etc」の欠点は、男でも許しがたい欠点なのに、女にばかりそこを責めます。

そんな人達の様子からは「女には俺達に都合よく、性的玩具や炊事マシンとしての役目を負わせたい。柔順で無気力な立場に置いておきたい。」って男のワガママが見え見えなんです。

 

こんな風に考察してみると、古石頭の言う「女性だけが持っていて、それが人間的価値の最高標準となるべき『女らしさ』」なんてもんは、この世に存在しないただの奴らの幻想じゃん、って私は思います。

 古石頭が「女らしさ」と言ってるものは、人によっては「一地方的なもの」でもあるし「時代によって変化するもの」でもあるし、ようするに「決して私たちの生活を支配するような権威を持っているものじゃない。」ってことです。

だから「女らしさ」は「女子特有のものでなくて、人間全体に一貫して備っている人間性そのもの」だってことを私は言いたいです。

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女にも「教育と労働の自由」を。

 

私は人間性っていうのは「愛と、優雅と、つつましやかさ」に限らず「創造力と、鑑賞力と、その他の重要な文化能力」とかも含んでいると思います。

この人間性は誰にでも備っているけど、「教育と労働」があるとさらに円満に引き出されるような気がします。

だからこそ私は普通の人々にも「高等教育を受けることの自由」と、「職業選択の自由」がないといけないと思うし、

古石頭が女への高等教育を拒み、労働区域の制限をかけようとするのは全く正当な理由のない迷惑行為だって思います。

男になら「人間性の啓発となる教育と労働」なのに、女にとっては「逆に人間らしさを失くす結果になる」なんて矛盾する理屈は通らないですから。

 

私のこんな意見に対して、古石頭達は現在の女教師や女学生や職業婦人に共通する生意気な態度や粗野なところを挙げて、「これだから女はダメだ!」って言ってくるかもしれませんが、でもそれって逆に古石頭の墓穴を掘ることになると思いますよ。

だって、現在のそういう女性達は、確かに人間性の不足している所が多少あるかもしれないけど、それって、結局は「彼女達に人間らしい教育があまりに与えられず、人間らしい労働があまりに狭くしか許されてない。」が原因だと思いますから。

試しに女に「男性と同程度の教育」と、「地位のある立場でその手腕を思う存分振える職業に就くこと」と、明治以来の男に与えて来た「激励と設備と年月」を与えてみてください。

日本女性の人間性のポテンシャルの高さはきっと驚くべきもので、決して欧米の女性に劣るものではないはずです。


現在女性にまだ粗野さや生意気さが残っているように見えるのは、男子の中学卒業にも当らないような程度の教育でストップしていて、一番生意気な年齢からそれ以上に人間性が育つ仕組みじゃないからだと思います。
女性の職業範囲が少しずつ広がっているといっても、まだ女は小学校の校長にさえなれないし、どこへ行っても「女性である」って理由だけで男の下に付くようにさせられています。

今の女性は「実力が優れてても、男性の下に立つことしか許されない」という有様だから、女性自身もその人間性を鍛える機会を失っているのかもしれません。

だから私はその制限をとっとと取り払って欲しいと願っています。

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「子供話は女に任せる」って風潮やめませんか?


さて、好き言わせてもらってますが、こんな私の主張に対して、私は「古石頭がこんなことを言ってくるだろうな〜」ってことも想定してます。

それはきっと

「子供を生み、育てることは女性でなくては出来ない。したがって『女らしさ』の主要条件は母となることである。
そして女子解放運動は、女性のその母性を失わせるから良くない。
これからの新しい女性は母になることを回避してしまう。」 

ってな感じのことだと思います。

でもこの意見に対しては私も言いたいことがあります。

それは、そもそもこの「『母になる云々』の話を『女らしさ』で語る前提やめません?ってことです。


ちょっとややこしい書き方しちゃいましたけど、つまりどういうことかと言うと、確かに、女でなければ妊娠することが出来ないのは事実として認めます。
でもそのせいで「生殖のことは女性にお任せ」と思うのは大間違いだってことです。

だって、そもそも妊娠は、男の協力なくして出来ません。
そして子供が生まれてからも、育てて教育していく中には父母両者の愛情、父母両者の労力を合せる必要があるんです。

なのに昔からそこについて「父性」ってものがあまりにいい加減に扱われてきてると思います。
だから女にだけ重荷となる母性を課して、「育児は女だけの任務」と誤解されてきてるんだと思います。

本当はこの事もまた、男女に共通した「人間的活動」の話です。

もちろん、実際の育児の手間だけを考えて「男性には軽く、女性には重大な任務である」と決めるのもよくないです。
人の親になることは、父母両者に取って共に重大な任務でしょう。
だから育児を母性任せにして「女らしさ」の主要条件とするのはおかしいんです。

人がたとえ男女で父と母に分れたとしても、親としての精神は男女同一で、「親をやる」ってことは男女どちらにとっても人間性の現れるところですから「女らしさ」という言葉を使って「女に特定した話題」みたいに扱うのは変だと思います。

だから親業について語るなら、そもそも「女らしさ」なんて言葉を出さずに

男女両者を統一した「人間性の表現」もしくは「人間的活動」という言葉を持って表すべきだと私は思います。

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 親になりたい欲求は「女性解放運動」では削がれない。

 

さて、そこを踏まえた上で古石頭の言う「『女子解放運動』が、女性の母性を失わせる。」という理屈について反論してみると、私はその意見が全く根拠のない、ただの思い過ごしだと断言します。


なぜなら、女性の活動を自由にすることは、女性が古来からの奴隷的位地から抜け出し、独立した一個の人格として、あらゆる「人間的活動」を完成しようとする自己改革の動きだと思うからです。

つまり、人間的活動の結果、女性は生殖に対しても回避するどころか逆に愛と聡明と勇気とに満ちた、より完全な母となることを熱望するようになるものだと私は思います。
古石頭は「母性を失う」というような言葉をやたら使うけど、「親となること」の欲求は、昔から人間の内部に備っている最も強烈な本能の一つでもあって、つまり人間性の内容として重要な位地を占めているはずです。
だから教育が進歩すれば、それはますます「動物的な親性」から「人間的な親性」へと進化して行く気がします。
昔に比べて現代の父母が、どれほど子に対する愛情が深まっているかは、皆さんもご存知でしょう。

だから私は女性が自由になるための活動をしても「そのことで母性がなくなる」なんて理屈は、実に的外れだと思います。

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結婚、出産しない男女が増えたのは、「別の社会問題」のせい

 

さて母性について書いてきましたが、ここで私はさらに声を大にして言いたいことがあります。

それは「人間は必ずしも人の親になると定まっていない」ということです。

既に言ったように、人間には親となることへの熱烈な本能があるはずだから、高度の教育によって人間性を精錬された男女は、最も理想的な父母になりたいという意欲も沸いてくるものだと思います。

でもたとえ大多数の男女がその本能に従って親になるとしても、今の時代、世間にはいろいろの事情で結婚をしなかったり、結婚をしても子供を生まない男女だってあります。

その理由は恐らく「社会経済の不公平さから」だと思います。

不公平な社会の中で、資本階級によって搾取されてしまった無産階級の生活は、子供を育てるどころか、結婚をするのも難しい場合があります。
現に結婚が難しい人は年々増えていて、多数の男性が自分一人の生活さえいっぱいいっぱいで、とてもじゃないけど妻子を養う経済的余裕が無く、やむをえず結婚をしないでいる人もいるんです。


だから「女子解放運動が母性を失わせる」っていう批難は、本当の社会問題である「経済の不公平」に気付かせない為に話をすりかえをしているだけなんじゃないかと私は思います。

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 そもそも皆が自由に生きていい。


さて、そんなわけで経済的な理由で結婚や出産を諦める男女が多いのは確かですが、私が思うに、もし仮に経済的に問題のない新しい社会になったとしても、「人間は必ずしも結婚して親とならねばならない」なんて事はないと思います。

この先、もっと皆が好きに「人間的活動」に励むようになって、それに参加する自由と機会が万人に与えられる社会になったら、女も適材適所で生きる方が絶対良いですよね。
特に私の期待している新社会では、恋愛が結婚へのステップになるだろうから、恋愛対象をうまく見つけない限り、結婚から遠ざかる男女が出てくるのは当然のことだと思いますし。
(でも男女交際がもっと自由な新社会では、恋愛対象を慎重に自分で選択できるから、恋愛や結婚から遠ざかる男女は極めて少なくなるんじゃないかと想像します。) 

 あと、社会には昔から何らかの活動に専念して、わざと家庭を持たない男女もいますが、そういう人達も個人の自由意志に任すべきだと思います。

周囲がそういう人たちに無理に「結婚しろ」だの「子供を作れ」だのと強要することはもう辞めてほしいです。
その人たちは、家庭の楽しみ以上に、自分の好きなことをして生きていきたいと思っているんだし、自由にさせてあげることこそ、その人たちの人間性が完全に表現されるんだから周囲がむやみに邪魔しちゃいけないですよ。
私達の社会は、世界中のそういう人たちの貢献や功績があってこそ文化の飛躍をしてきたんだから、世界人類の中にそういう人たちが存在することは、非難するどころか逆にありがたく受け止め、肯定するべきことだと思います。

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まとめ
以上は本当に私の勝手な考察だけど、こうして詰めて考えることによって私は、古石頭の言う「女らしさ」というものが特に女性の上に存在しないものってことを改めて知ることが出来ました。
「女らしさ」というものは、要するに私に言わせれば「人間性」の一部に過ぎません。

「女性を男性と差別し、女だけの生活の原理のように決めつけて、それが備わっていることが女性の最高の価値だ」なんていう戯事は、全くの幻想だと分かりました。
私は、私達が「女らしさ」という言葉から解放されることは「女が機械性から人間性に目覚めること」だと思います。

それはつまり、「人形から人間に帰ること」を意味します。
もしこのことを古石頭が「女性の中性化」と呼ぶなら、私達はむしろそれを名誉に受けとめようじゃありませんか。
「女らしくない」という一語は、昔から、どれだけ女性の活動を圧制して来たか分かりません。
習慣というものは根強いもので、今でも「女らしくない」と言われると、一部の女性はヘビでも投げつけられたように恐縮してしまいます。
でも現代の女性の大多数は、もはや「女らしくない」という言葉なんて恐れない存在です。
それは、もっと恐ろしい言葉に通じることを彼女達が直感しているからかもしれません。

もっと恐ろしい言葉とは「人間らしくない」という言葉です。

「人間らしくない」とは、人間性の破滅を意味します。

私はそれが何よりも現代人にとって、恐ろしい結果であると思わずにはいられないのです。

おわり。
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いかがだったでしょうか。

時代を隔てているせいか、考え方の違いのせいか、与謝野さんのお話の中にはいくつか私の考えとは異なる部分もあります。

(「親になる欲求は人間に備わってるから、女性は完璧な母親になりたがるもの」とか「自由恋愛の時代になったら結婚したがらない男女は少ないはず」とか)

でも全体的な「自由を求める為の主張」は同感できますし、「人々が生殖を避けるようになったとしたら、それは女のせいじゃなく社会の仕組みが悪い」って部分なんて、現代を見透かされてるようで先見の明を感じます。

そしてなにより特筆すべきは与謝野さんの頭の柔らかさ!
特に「出産育児話は女限定の話題じゃないでしょ」とか「本人の好きなことやって生きていきたい人には、無理に結婚を押し付けなくたっていい」という考え方なんて、現代ですら出来ない人もいますもん。
固定観念がガチガチに固まってて、女性が「女の幸せは結婚」とか「結婚したらさっさと子供産まないと!」と言われるのが常の時代に、ちゃんとそれを「うぜぇ」と思う感覚があるのがすごいです。

そして、思うだけでなくそれを発信してたんですから、本当に頭が柔らかいのに心は強くて、まさにハイブリットな人です。

与謝野晶子・ハイブリット・晶子と呼びたい!

 

もし与謝野さんやその後の誰もが「女子解放運動」を起こさなければ、現代の私達の暮らしはもっと窮屈だったと思うので、ずっとこういう声をあげてきた方々に私は感謝してもしきれません。
ありがとう与謝野さん。


と言っても昨年の日本の男女平等ランキングは144国中114位で、まだまだ下から数えたほうが早く、先進国の中ではダントツ最下位です。(与謝野パイセンに会わせる顔がないですね…)

女性に対する性犯罪の被害も後を絶ちません。

さらに世界に、未だ家畜のように娘の婚姻をやりとりする常識だったり、誘拐婚のように女性の人権が全く無視された婚姻方法が残る国もある、ということにも私は胸が傷みます。

 

国際女性デーは昨日で108回を迎えました。

くしくも煩悩の数だけ年月を重ねた今、一人でも多くの方が、我が国や世界で不遇な状況に耐えている女性の身になって未来を考えることが出来ればいいなと思い、今日はこのような話を書きました。

 

与謝野晶子の原文ファンの方、勝手にすみません。

長々とお読み下さった方、ありがとうございます。


ではまた

 

 

宇宙猫ちぃちゃんの思い出

 

 

 

まずはこの写真をご覧頂きたい。f:id:ninicosachico:20180226120555j:image

これは私が中学生の頃に我が家で飼っていた猫の「ちぃちゃん」だ。

この、一見なんの変哲も無い猫が、まさかあんなことになるとは、当時家族の誰も予想していなかった…。

 

冒頭、アンビリーバボーのナレーション風に書いてみたけど疲れるので普通に戻しますね。

あと、一見なんの変哲もないとか書きましたけど、ちぃちゃんて、この通り高貴で優雅でビューティホーじゃないですか。

なんの変哲もなくないんですよ。

ノルウエージャンフォレストキャットかメインクーンかという見た目なんですけど、それらの長毛大型猫が流行ってきたのってここ数年だから、1994年当時はかなり珍しい見た目だったと思うんです。

このようにスペシャルプリティーだし。

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夏毛なので一回り小さいちぃちゃんいつ見ても可愛い…!

で、この今日はこのちぃちゃんについて書きます。

ちぃちゃんは、我が家では宇宙人だったことになっています。

今でも家族が集まったりした時には家族の間で「三郎は甘ったれだったねー、クロちゃんは犬みたいに投げた玉をくわえてきたよねー」と昔うちで飼ってた猫達の話が出るのですが、

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三郎とクロは放っておくと勝手にシンクロやってる。

ちぃちゃんについては「ちぃちゃんは不思議だったね」「ちぃちゃんは宇宙人だったんだよね」と普通に話してます。

ちぃちゃんのどのあたりが不思議だったのかというと、まずちぃちゃんはおそらく人語を理解していました。

そのことがわかるエピソードとして、ちぃちゃんが我が家に来た経緯を書きましょう。

ちぃちゃんはもともと近所の平田さん(仮名)が飼っていた猫でした。

母が平田さん家に行く度に「平田さんち、えらい可愛い猫飼ってんだぜ」と言っていたので、私達はちぃちゃんの存在は知っていたのですがちぃちゃんは外歩きをしない猫らしく、母以外の我が家の人間はちぃちゃんの姿を見たことはありませんでした。

そんなある日、学校から家に帰るとこのスペシャルプリティーなちぃちゃんが我が家に居ました。

我が家には先住猫のカナちゃんというオス猫が居て、カナちゃんはそのあたり一帯のボスネコで、強面で迫力がある猫だったのですが、

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眼光鋭いカナちゃん

ちぃちゃんは初日からカナちゃんにビクともせずこのカナちゃんお気に入りの椅に陣取り、くぅくぅと寝て居ました。

 

私が母に「この子は…?」と聞くと、母は平然と「平田さんがくれたの」と言います。

話を聞くと、平田さん家はお父さんが国外線のパイロットで、先日どこかの外国に行った際に捨て猫を見つけて連れて帰ってきたそうです。

平田さん家には既にちぃちゃんが居たので、平田さんは二匹が仲良くやってくれることを願って新しい猫を迎え入れたそうなのですが、残念ながら二匹の相性は悪かったそうです。

それで平田さんちがそういう状態になって数日後、おしゃべりをしに平田さんちに行ったうちの母はその話を聞いて前々から可愛いと思ってたちぃちゃんのことを「そんならウチにくれない?」と聞きました。

すると平田さん夫婦も「貰ってくれるの?」と喜んでちぃちゃんをくれたそうです。

私は「猫ってそんな簡単に家が変わって平気なんかな?」と思いました。

仔猫ならまだしもちぃちゃんは既に3歳くらいの成猫だったので、うちで飼ったとしても歩いて1.2分の近所の平田さんの家にすぐ帰ってしまうんじゃないかと思ったのです。

それで、母にその心配を言い「大丈夫かな?」と聞くと、母は「どれ、そんなら話してみようか」と言い、2人でちぃちゃんを起こして、母が話しました。

「あんたは今日、平田さん家からウチの子になったんだよ。今日からこの家があんたの家だから平田さん家に帰っちゃダメだよ。散歩には行ってもいいけど、夜はウチに帰ってくるんだよ。」

ちぃちゃんは「さよけ」みたいな顔でコクリと頷きました。

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眠そうな時のちぃちゃん

 

すると、不思議なことにちぃちゃんはその日から本当にすんなりと我が家に居着きました。

散歩はあまり好きじゃないらしく、1日1回朝だけは「出して」とせがむので戸を開けてあげるとピャーっと出て行くのですが、5分もすると帰ってきて後は1日家の中に居るようになりました。

さらに、ちぃちゃんは平田さん家では「ユキ」という名前だったのですが、これがたまたま私の姉と同じ名前だったので、数日生活してみるとわりと紛らわしく、うちで飼うからには別の名前にしなきゃということになりました。

そして母が2秒で「ちぃちゃん」と名付け、また寝ているちぃちゃんを起こして「あんたは今日からユキちゃんじゃなくて、ちぃちゃんになったからね。」と言うと、ちぃちゃんは「さいですか」という顔でコクリと頷きました。

そしてまたも不思議な事に、ちぃちゃんはそれ以来「ユキ」と呼んでも無反応で、「ちぃちゃん」と呼んだ時にだけ反応するようになったのです。

猫って、呼ぶとニャーと鳴いて返事をすることもあるけど、寝てる時とか面倒な時は尻尾だけチョチョっと振って返事するじゃないですか。

名前を呼んでも猫が拗ねてる時なんかは本人(本猫か)がそっぽを向いて返事を拒否してるのに、しっぽだけはどうしてもチョチョっと動くから、私はあの反応に嘘はないと思うんですが、本当にその改名前の数日間のちぃちゃんは「ユキちゃん」と呼ぶと、その反応をしてたのに、改名してからは全く反応しなくなったんですよ。

だから私はちぃちゃんが母の説明でちゃんと分かってくれたように思います。

なので、私はちぃちゃんが人語を理解してるような気がするのです。

そんなちぃちゃんがなぜ今だに我が家で宇宙人呼ばわりされているのかというと、それはちぃちゃんの最期があまりにも宇宙人的だったからです。

ちぃちゃんが我が家に来てから3年ほど経った頃でした。

ちぃちゃんは基本大人しく、散歩も先ほど書いたように1日1回数分で済むような非活動的なネコだったのですが、ある晩私達きょうだいが居間でテレビを観ていた時でした。

テレビでは「UFO特番」がやっていました。

私は小学生の頃からUFO話がすごく怖かったのですが、中学生になってからは少し平気になってきて、兄姉と夜更かしする楽しさも覚え出し、その夜はみんなで楽しくテレビを見ていたのです。

やがて、根っから明るい我が家のきょうだいノリで、兄が誰か1人に「お前は…宇宙人だーー!!」と言うと、言われた人が「ワレワレハウチュウジンダ」と言う、今となっては何が楽しいんだか分からない遊びをしだして、きょうだい4人でキャッキャと遊びだしました。

一通りきょうだいが宇宙人役を演じた後、部屋の隅のほうでくぅくぅと寝ていたちぃちゃんの側に兄が近寄り、寝ているちぃちゃん

「お前は…宇宙人だー!」と言いました。

私達きょうだいは遊びハイになってましたから、その様子にケラケラと笑ったのですが、言われて飛び起きたちぃちゃんは一瞬ハッとした顔をしました。

そして、寝床からピョンと飛び降りると、スタスタとガラス戸の方へ歩き、ニャーニャーと鳴き始めたのです。

はじめは私達も「ホラ、ちぃちゃんビックリしちゃったよー可哀想じゃーん」と兄に言ったりしてたのですが、ちぃちゃんは鳴き止まず、段々尋常じゃない鳴き方になってきました。

その鳴き方に私達も

「ちぃちゃんすごい出たがってるよ…」「出してあげようか」

となり、雨戸を開けてあげました。

するとちぃちゃんは雨戸の隙間からスルリと戸を抜けて庭に出て、庭の真ん中あたりまで歩くと一度立ち止まりこちらを向いて座りました。

そして、戸から覗く私達きょうだいに向かって深々と頭を下げたのです。

この時の光景を私はなぜか今も鮮明に覚えてます。

それは本当に人間的なお辞儀で、深々と頭を下げていて、私は猫がこんな風に人間的なお辞儀をする姿を後にも先にも観たことがありません。

朝しか家から出たがらないちぃちゃんが夜に家を出ようとしたことは不自然でしたが、気まぐれな猫のこと、5分もすればいつも通り帰ってくると私達は思っていましたが、ちぃちゃんはその夜帰りませんでした。

そして、翌日もその翌日もちぃちゃんは帰らず、とうとうちぃちゃんはそのまま失踪してしまいました。

 

 母や私達は、しばらくは兄をめちゃめちゃに責めましたが、あの時の「お前は宇宙人だー!」くらいの声の大きさで猫をかまうことはそれ以前にもあったことだったので、大声が怖くなってちぃちゃんが怯えて出て行ったと考えるのは不自然だと私達も思っていました。

だから後からみんなでちぃちゃんが出て行った理由を考えている時に誰かが言った

「ちぃちゃん、本当に宇宙人だったのかも」

という台詞にみんなが同意しました。

おりしもその頃「宇宙人は人間に姿を変えて実はすでにこの世に潜伏していて、人間の生活を観察している。」という説を雑誌ムーかなんかで読んだこともあり、私は「人間に姿を変えられるなら猫にも姿を変えられるんだろう」と思い、ちぃちゃんもそういう潜伏員だったんだと思うようになりました。

ちぃちゃんは宇宙人で、正体がバレかけたから宇宙に帰ったのだということです。

荒唐無稽な話ですが、我が家ではこれは普通の話として今もたまに話します。

 

最後に、私が今回皆様にお伝えしたいことはただ一つ。

皆様、おたくの猫ちゃんが多少不自然な言動をとる猫ちゃんだとしても、どうか気づかないフリをしてください。

ちゃんがたとえ宇宙人だとしても、可愛い姿でそばにいてくれりゃいいじゃないですか。

けして、宇宙人だという事実を猫ちゃんに、突きつけてはなりませぬ。

皆様のうちの可愛い猫ちゃんが、ちぃちゃんのように出て行ってしまわないようにくれぐれも注意してください。

 

最後にちぃちゃんギャラリーを。

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ベランダが好きだったちぃちゃん今思えば宇宙船との通信に都合がよかったのかもしれません。

 

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仏壇の上で寝る不謹慎なちぃちゃん

 

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隣の家のベランダから降りられなくなって助けを求めるちぃちゃん。どうやって登ったのかは謎。

 

おまけ

うちの猫の特性かと思いきや、エサ場の水を飲まない猫ちゃんが世の中には沢山いるらしく、爆RTされてたツイート。

 

 

今週のお題「ねこ」

 

 

 

バレンタインにチョコを持って帰ってくる夫

 

昨日、夫が帰ってくるなり「はいこれ」と言ってこんな箱を渡してきました。

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モアナ…?モアナいつのまにこんな大きくなったの…?と思いつつ開けると

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チョコ系のお菓子でした。

バレンタインが近いのは把握してたけど昨日が当日だという意識がすっかり抜け落ちてた私は夫に「これは、バレンタイン的な…?」と聞きました。

すると夫は「んー、知んない。◯◯がくれた。お土産じゃないの?」と言って特に気にしてないご様子。

◯◯というのは、たまに話に出てくる職場の後輩男性で、彼がハワイに行ったという話は特に無いままハワイ土産らしきチョコ菓子を渡された私は、自分が嫉妬深い系の妻なら「そんな事言って本当は女子に貰ったんでしょ!」とヒステリックブルーな台詞の一つでも吐いたかもしれないけど、私はそんな性格でもないし、これはどう見てもバレンタイン向きの商品ではなく本物のハワイ土産っぽいので素直に「やったぁチョコだ!◯◯君ありがとう」と思いました。

夕食の後、夫はいらないと言うので1人でチョコを食べながら、私は「夫が職場で貰ったお菓子をこうしてちゃんと持って帰ってくること」にしみじみ感謝をしていました。

というか、前はそんな事にわざわざ感謝をしていなかったのだけど、ある時から私は感謝をするようになって、その「ある時」の事を思い出していたのです。

それは5.6年前のこと。

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Aくんは甘いものが苦手だったので、いつも通り断っていました。

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こんな感じで結構しつこく勧められたのにAくんが頑なに断るので、結局皆は諦めて勧めるのを辞めました。

私はこんな光景をそれまでも何度か見ていて、特に気にしていなかったけど、この時は「そういえばなんでAくんはこんなに断るんだろう」と思い、Aくんに「いつも絶対お菓子断るよね?なんで?」と聞いてみたんですね。

すると

Aくん「んー面倒くさいんです。」

私「何が?」

Aくん「いや、皆はこの場で食べるからいいだろうけど、自分は食べないから捨てることになるでしょ。その捨てるのがいちいち面倒くさい。」

私「妻にあげれば?A妻甘いの好きじゃん。」

Aくん「いや、面倒くさいっす(笑)正直、あれを今貰ってロッカーに入れに行くのがまず面倒くさい。仮に帰りにカバンに入れられたとしても、帰ってカバンから出してヨメに渡すのが面倒くさい。『これどうしたの?』『職場で貰った』みたいな会話をヨメとすんのが面倒くさい。」

私「喧嘩中?」

Aくん「いや、違いますけど。え、分かりません?そういうの面倒くさくないっすか?」

私は正直「え、ごめん全然分かんない。」と思ったけど、それは言わず要約して

「ようはAくんは、妻が喜ぶと分かってても、自分の面倒くささが勝るからいつも持って帰らないってこと?」

と聞きました。

するとAくんは「いや(笑)そんなこれについて深く考えたこと無いですけど…」

と言いつつしばし上の方を見て、

「言われてみれば、そういう事っすね。」

と言うではありませんか。

自分達以外の夫婦が普段どういう会話をしてるか分からないし、家族にどの程度の会話を「面倒だからいいや」と切り捨てるかなんて、まったく個人の自由なので、Aくんが変人だとか嫌な奴とまでは言わないけど、私はなんだかAくんの妻がちょっと不憫に思えてしまいました。

いや、A妻は、Aくんがお菓子を断ってる事自体を知らないので可哀想もクソも無いんですけど、でも「妻が喜ぶかも」と「自分が面倒くさい」の気持ちの天秤を、いつも迷わず後者に傾ける人が夫だなんて、私は「ちょっと可哀想」と思わずにいられなかったです。

それで、自分の夫を振り返ってみると、夫はしばしば職場からお菓子を持って帰ってきてたんですね。

それはコアラのマーチ1袋だったり、八つ橋2切れだったり、些細なものだけど、帰ってきた夫がそそくさとカバンから出して「はいこれ」と渡してくることは結婚してからずっと当たり前のことでした。

私はいつもそのことをなんの気にもとめてなかったけど、Aくんのコレを聞いてから、夫に感謝するようになりました。

Aくんと同様に甘いものがそこまで好きじゃない夫が、それらをいちいち持って帰ってくるのは一応それを持ち帰って私に渡せば私がそれなりに毎回「わぁい!」と喜ぶから夫はそうしてくれてるのかもしれないと思ったから。

まぁ、単純に言って夫のほうがAくんより優しいよな、と私は思います。

でも、何を「優しさ」だと思うかは人それぞれなので、仮に「AくんがA妻の喜びより自分が面倒くさくないことを優先する」という事実を知ってもA妻は「それがなにか?」と思う人かもしれないし、Aくんは別のことでAくんなりの優しさを妻に発揮しているんだろうし、それがA妻に取って心地よいならお菓子を持って帰らなかろうが、A夫婦は1組の円満な夫婦なんだと思います。

でも、私は夫が職場から持ち帰ったお菓子を渡される度「ああ、夫は職場で『これニニちゃんに持って帰ったら喜ぶぞ』と思って持って帰って来てくれたんだな」と感じ、そのつど「優しい人だなぁ」と思い、夫婦でいる幸せみたいなものを改めて実感するので、こういう優しさが出せる人と結婚できて良かったなと思う。

 で、ここで話が終わるとただの夫自慢なんだけど、その後私には「上には上がいる…!」と思うことがあったんですよ!

それは、Aくんの居た職場を辞めて、また別の職場で働いていた時のこと。

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主任、超優しくないすか!?

これ私も以前、夫に言ったことあったけどさすがに断られましたもん。

夫がヨックモックかなんかの詰め合わせを一缶まるごと貰って来た時、嬉しいけどその頃ちょっと私は太り気味だったので「嬉しさ半分困るよ半分」な状況で。

何日かに分けて食べたいけどあると食べたくなってしまうので、「あると食べ過ぎちゃうから昼間私が家に居る間、どっか持ってって欲しい!」と夫に言ったら「そこは自制してよ!大人でしょ!」と言われてしまいました。

生八ツ橋をティッシュでくるんで持って帰ってくるほど優しい私の夫がやらないレベルのことを主任はやってたので、まじ仏かよ、と思いましたね。

私は普段けっこう人から「ひどい夫話」を聞くことが多いので、こういう「いい夫話」に触れると本当に心洗われますし、甘いものを食べた時みたいなじんわりした幸福感が味わえます。

そんなわけで、この記事はそういう気分のおすそ分け的なやつです。

モアナっぽいチョコ菓子を食べ過ぎながら書きました。

ちなみに生八つ橋はティッシュでくるむと再起不能なので真似しないでください。

 

以上です。

 

【追記】私、モアナ、モアナ書いてましたが、間違えてました。どうやら私が脳内で漠然とモアナと思っていた絵はリロアンドスティッチのリロでした。モアナはすでに大きかった。

 

 

 

客商売の店員の名札に書く名前って、偽名でよくないか?

 

皆様こんにちは。

今日は私、コンビニバイトを辞めてだいぶ経つんですけど、今だに当時を思い出すとモヤる話があるんで書きます。

ある日私が出勤すると、オーナーの奥さん(以前もこのブログに書いたことのある、例の一癖ある「おばちゃん」)にこんな事を言われました。

「そういえば昨日、いつもよく来る男のお客さんが『桜島さんの電話番号教えて』って言ってきたのよ〜。私ちょっと悩んだんだけど、言わないでおいたからね~。」

 おばちゃんは肉まんを補充しながら片手間に、まったく普通のトーンで、まるで「今日から、コロッケ50円引きセールだから多めに揚げていいからね~」のトーンで私にそう告げました。

これに対し私は2つの意味で「は!?」となった。

1つ目の「は!?」はもちろんその男性客に対して。

確かに仕事中の私は愛想が良いので、常連さんと仲良くなることはこれまでもあったし、連絡先を貰うことも1.2回はありました。

でも「自分の連絡先を差し出す」のと「人の連絡先を聞く」って、後者のほうが圧倒的に迷惑度高いじゃないですか。

だから、その男性が私の不在時に他の店員づてに自分の連絡先のメモなり名刺なりを渡していったってのなら、ビックリするけどまだ理解できるんですよ。

なのに、そうじゃなくて桜島さんが居ない」→「じゃあ他の人から連絡先聞こうっと。」と思ったその人って…

は!?なにその矢印!?なにその思考回路!?聞き出せると思ったの!?どういう常識?理解できない、こええよ!!!

と思ってしまいました。

2つ目の「は!?」はおばちゃんの「ちょっと悩んだ」という部分への「は!?」です。

私の常識だと、「本人の許可を取らずに電話番号を第三者に教える」ということはまずありえないことです。

だから「教えない?or教える?」なんて選択肢は「10対0」で「教えない」に決まってます。天秤にかけるまでもなく悩まずに「教えない」の1択しかないってことです。

でもおばちゃんは「ちょっと悩んだ」と言いました。

それって一瞬でも「教えるor教えない」の天秤がおばちゃんの中に生まれたってことを意味してますよね。

だから、え?なんで悩む余地あんの?教えないの一択じゃないの?どういう常識でそこに1ミリでも「教える」の可能性感じてんの?みたいな「?」がもう生まれまくりですよ。

 で、男性客にもおばちゃんにも「は?なんだそりゃ!?」となった私だったのですが、とりあえず男性客は目の前に居ないから、まずはおばちゃんに聞いてみたんです。

「なんで『ちょっと悩んだ』んですか?言わないのが当然ですよね?」と。

するとおばちゃんはいつも通り「アラ私あんまり何も考えてなかったわ」的なニュアンスで「あはは、そういえばそうだったね~^^」と笑ってごまかして行ってしまいました。

ようするにおばちゃんはあんまり何も考えていなかったらしい。

 

お世話になった人にこんな言い方するのは本当に忍びないけれど、このおばちゃんは本当にいつもこういう「基本なんも考えてないのでは…?」となる言動が多かった。

その為、この頃の私は、おばちゃんとまともに話したらこっちが疲れるから色々腑に落ちなくても諦めることにしてました。

だからもう追及はしなかったのですが、この時のコレは本当に解せなかったです。

でも私はこういうのを後からぐじぐじと考える性格なもんで、バイトしながら色々考えてたら不安要素がいくつも思い浮かんでくるわけですよ。

「おばちゃんはもし私が独身だったら教えてたのでは?」とか。

「下の名前くらいだったら教えてたのでは?」とか。

「いや、おばちゃんじゃなくても高校生のバイトちゃんですら、大人の男性客に強く聞かれたら断れずに下の名前くらいは教えてしまうんじゃ?」とか。

 

つまり、今回はセーフだったけど、状況が違ったら個人情報が簡単に漏らされる可能性があるわけで「そのセーフさが『運』に左右されてる感じ」がすごい危なっかしくて怖い、と思いました。

 何年か前、コンビニの女性店員がバイト帰りに男に刺殺された事件がありましたよね。あれ、私の生活圏内のコンビニだったこともあって、当時だいぶショッキングでした。

あの事件についての報道の中には「男は知人に『近所のコンビニにかわいい店員がいる。』と話していた」という話もあったので、そういうのを聞くと、自分も含めて客商売の店員の置かれている状況に、危なっかしさを感じました。

しかも、そんなことを考えながら思い返してみると、そういえばコンビニで働き始める時にそういう(従業員の個人情報を勝手に口外してはいけない。)注意って一切なかったな、と思い出しました。

初期の研修期間に少しだけ、仕事内容とは別の「心得」みたいなのを教育される時間はあったんですが、その中には「従業員以外の人を事務所に入れてはいけない。」とか「仕事中に私用の買い物をしない。」みたいな、ごく基本的な注意点だけでした。

「従業員の個人情報を勝手に口外してはいけない。」ってのは無かった気がします。

よそのコンビニではそういう教育もちゃんとしてるのかもしれませんが、私の働いてたところはそういう教育が無かったし、私がこれまで働いてきた職場は10数か所あるのですが、その中で「他の従業員の個人情報をもらさないこと」とあえて、初めに注意された職場は1つしかありませんでした。

もちろんそんな事って、本当はわざわざ職場が従業員に教えるまでもなく、働けるような年齢に達しているなら「人として踏まえているべき常識」だとは思うんです。

だからコンビニの上層部もマニュアルに載せてない項目なのだと思いますが、でも、こうやっておばちゃんみたいな危なっかしい人を職場で目の当たりにすると「職場として各従業員にあえてちゃんと釘を指すべきなのでは?」って気もします。

自分で言っておきながら、そんな事をわざわざ教えなきゃならないなんて、「人間同士の信用が薄れた社会」って感じがしてちょっと空しいなぁ、とも思います。

でも、今の時代ってフルネームが判明したらfacebookで色々探ることも出来ます。

SNSやってなくても、名前とか電話番号が漏れたら住所が分かる方法なんてすぐ見つかりそうな時代です。

だから、接客業という、不特定多数の他人と接する業種なら、初めにちょっとその点の注意をする必要があるんじゃないかと思います。

ファーストフード店とか居酒屋チェーンとかコンビニは「若い子が初めに社会経験を積む場」になりがちな職種なので、特に。

 

もちろん、全員が個人の判断で「それはやったらマズイこと」と分かるのが理想なんですが、学生時代にもいませんでした?

勝手に友達の番号を人に教えちゃって「彼氏の男友達に〇〇子のプリクラ見せたら超気に入ってたから番号教えちゃったからね~、〇〇子も彼氏欲しいって言ってたからいいよね~?」みたいな事後報告してくる危なっかしい子。

多分、そういう人ってどんな世代にも一定数居て、しかもそういう風に勝手に他人同士をカップリングするのが好きな人は、悪意ではなくて本当に「良かれと思って」くっつけたい人同士の個人情報(電話番号まではいかなくても「下の名前」や「年齢」程度なら特に)を流したりするんですよね。

もしそういう人が職場にいたらたまったもんじゃないよな、と思います。

 

 

あと、これも関連することなので書いておきますが、以前私はTwitterにこういう発言を載せました。

この時、私にしては珍しい数のリプライを頂いて、同じように思う方が多いようでした。

中にはご自身や同職場内の人のストーカー被害経験を書いてくださっているものもあったりして、やはり「名札で店員の本名バレ」「執着した客とトラブル」というのは実際にわりと起こりうるもんなんだなぁと実感しました。

ストーカー気質の人にしてみれば、「一つ分かったらもっと知りたい」みたいな心理も働くと思うので、「名字ですら本名を掲げるのは抵抗ある」って人は私以外にも居るんですね。

 

好意が元になるようなストーカー以外にも、店員はどうしても客に都合の悪い事を言わなきゃいけない場合があるのに、変な客が相手だと、「この店員ムカつくなー、名前は○○か、後で検索してやれ」ってなる可能性を考えると尻込みしてしまう、という事もありますよね。

だから、客商売の店員が名札に書くのは本名じゃなくて、源氏名(ビジネスネーム)にしちゃっていいんじゃないかと私は思います。

 

しかも、私はこんなふうに「名前ですらヤダ」って思うのに、世の中には店員・社員の個人情報を「晒させられる職場」って結構あるんですよ。

私が仲良くしてる着物屋さんは店員がマンツーマンというか、最初に応対した店員さんが担当になって、毎月イベントやセール情報の書いたチラシと手紙を送ってくるというシステムがあるんです。

私の担当は22.3歳の新卒のとても可愛らしい感じの女の子だったのですが、その子からその手紙が初めて来た時、びっくりしました。

だって、その子のプロフィールとして、名前と生年月日と血液型と趣味、さらには翌月のシフトまで載せてあって、「私はこの日に出勤です!(^^)!遊びに来てくださいね!」とか書いてあったんですよ。

その手紙は印刷物だったので、担当してる客みんなに送ってるそうなんですが、

「これ、怖くないのかよ?」と思いました。

後日、その子に個人的に「あれって、自主的にやってるの?」と聞いたら、

「あれ、お店のシステムなんですよぅ。入社して、このお店の配属になってすぐ、店長に『お客さんによく知ってもらう為に、いっぱいプロフィール書いてね』って言われて書かされたんです。私らは、毎月のコメント文を書いて店長に渡したら、店長がシフトとかレイアウトして印刷してるんです。」と言うので、「どひゃー」と思いました。

「嫌じゃないの?」と聞いたら「最初嫌だったけど、そういうものだって慣れちゃいました。」と言っていて、なんつうか、22.3歳なんて社会人としてヨチヨチの頃にこんなことに慣れさせるなんて、その会社が怖いと思いました。

もちろん、そういう風に情報を晒したい店員がするのは自由だけど、「会社に入ってみたらそれが慣例だったからやらされてる。」というのは、可哀想ですよね。

それで、その子が変な客に個人的につきまとわれたりしても会社は責任とってくれないだろうし。

もうちょっと、職場自体が自分のとこの社員の個人情報に対して「デリケートであれ!」と思います。

 

ちなみに、コンビニバイトのその日、私はおばちゃんへの態度がつい冷たくなっていたのだと思います。

それでおばちゃんもさすがにちょっと悪いと思ったのか、私が帰るときにおばちゃんは「ごめんね」と言ってきました。

それで私も「いや、今回のはもういいんですけど、連絡先聞かれたりしたら、悩む余地が無くダメなことだっていう認識は持ってください。」と言いました。

そしたらおばちゃん

「うんうん、桜島さん結婚してるんだから、当然教えちゃダメよねぇ」と言ってきて、

 

「わかってない…!!」と思いました。ぎゃふん。

 

独身でも彼氏募集中でも、ダメなんだよ!!!

 

 

まぁ、このおばちゃんは特殊な例だと思いますが、これを読んでる高校生とか若い子の中には、もしかしたら分かってない子がいるかもしれないので、改めて書いておきますね。

「人の個人情報は勝手に第三者に教えちゃだめですよー」

 

じゃ長くなりましたが、今日はこのへんで。

ではまた。