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限りなく透明に近いふつう

やさしい鬼です お菓子もあります お茶も沸かしてございます

NMB48の「ドリアン少年」を聞いたら秋元康に怒りしか沸かない

ジェンダー メディア 考察

「昔は良かった」という言葉を、私は極力言いたくない。

「昔は良かった」という言葉は、暗に「今は良くない」と言っているように聞こえる。

「昔は良かった」という言葉は、「自分が若かったころの良さしか認められない愚かな年寄りの言うこと」に聞こえる。だから私はけして「昔は良かった」とは言わないことにしている。

しかし、そうは言ってもこの世には確かに「昔のほうが良かったもの」も存在する。

君たちはそれが何だと思う?

 

答えは、そう

「アイドルソング」だ。

 1994年。当時中学2年生だった私のクラスの歴史の先生は、4時間目がプール、その後に給食、そして5時間目の歴史、というまさに「ねないこだれだ?」状態の教室で、突然そう語りはじめました。

40代中盤で、ひげの剃り跡が毎日新鮮に青々しいことだけが特徴の大人しい先生は、普段からひたすら教科書を朗読するだけの「睡魔に仲介マージン貰ってんのか?」と思うほど退屈な授業がお得意だったのですが、なぜかその日は教科書をある程度音読してひと息つくと、このような話を始めたのです。

 もしかしたらその日、目の前のクソガキ共の入眠率があまりにも高かったので先生はヤケクソになったのかもしれません。

私自身も「まさに今、睡魔と手を取り合って仲良く歩みだそう…」という所に、かろうじて「アイドルソング」という意外な単語で半覚醒状態に引き戻されたところでしたので。

しかしこの後の記憶が無いので、私もやはり眠ってしまったと思われます。

数年後の同窓会で、私はこの授業のことを覚えている旧友を探しましたが、この授業のことを覚えている人は1人もいませんでした。

そうなってくるとこの授業自体が私の夢だった可能性も出てくるのですが、この件の真相はきっと永遠に藪の中なのです。なぜかというとその先生は同窓会からほどなくして懲戒免職になって教職を去り、行方自体も分からなくなってしまったからです。

先生が何をやらかしてしまったかというと「女生徒へ淫行」でした。

顧問をしている部活動の女生徒と付き合ってただかホテルに連れ込んだんだかで、私も人づてにまた聞きしただけで詳しいことは分かりませんが、まったく残念なことです。

 

さて、今日は私、べつにこの話が書きたかったわけではありません。

ただ、今日の記事を書くにあたりここ数日「アイドルとは…」と想いを巡らせてきたら、ふと先生の事を思い出したのでついでに書いただけです。先生元気ですかー?

 

 はじめに

本題はここからです。

 皆様はNMB48というグループの「ドリアン少年」という曲を聞いたことがありますか?

この夏の新曲で、有線やラジオなどでは頻繁にかかるので、お耳にした事はあるもののタイトルを知らないという方が多いかもしれません。

 私、今日書きたいのはこの曲を聞いた感想というか、批評というか、ぶっちゃけこの曲のヒドさなんですよ。

 で、そのヒドさは最初、単純に「歌詞が無茶苦茶」ってところが原因だと思ったんですが、なんか色々と考えていったら私、非常に怒りがこみ上げてきまして、この怒り、私の拙い文章でうまく伝わる自信がまったくないのですが、とりあえず書いてみようと思いました。

 あとはじめに断っておきますが、私がいくらこの曲をヒドいと書いても、それはあくまでNMB48を構成している女の子達についてではないので、秋元康以外の人は批判されたと思わないようにしてもらえるとありがたいです。

ファンの人や、この曲を好きな人が読むと多少気分が良くないかもしれませんが、ただの一個人の気持ちなので「そう思う人もいるんだな」くらいに受け流して下さいませ。では。

 

 歌詞がひどい

 この曲を私が初めて聞いたのは、バイト先のコンビニの店内放送でした。

当初早口で歌詞も何を言っているのかほとんど分からなかったのですが、かろうじてサビの頭の「ブサイクもイケメンも紙一重」というフレーズだけが聞き取れてとりあえず「なんじゃそら」と思いました。

その後、バイトの度に聞いてるうちにスピードラーニング効果というか、所々の歌詞が聞き取れるようになってきて、先週とうとう「わぁほとんど聞き取れる!」となりました。

私はもう歳のせいかAKBとかSKEとかアイドルソングはもとより、最近の歌謡曲自体にとんと興味が沸かないので、別にこの曲もなんてことない流行歌として私を通り過ぎていくはずだったのですが、歌詞がほとんど聞き取れるようになると逆に「ちょっと聞き取れないところがあるのが気になる」という状態になったんですね。

それで私はとうとう歌詞を調べ、ついでだからYouTubeでPVを観てみることにしました。

 正直な感想は「なんかムカつく」でした。

 と言ってもこのPVは特に目新しい「ムカつく構成」なわけではありません。

 明るいプールサイドでメンバーの少女達が水着姿で歌い踊るという、いつものAKBグループ系ではお決まりの感じで、もちろん「誰々が可愛くない」とかそういう不快感じゃなくて、彼女たちは文句なしにみんな可愛かったです。

 しかし何度PVを観てもなんかムカつくんです。

 そこで「コレのなにがそんなに私のカンに触るんだろう」と考えてみました。

 とりあえず一つはすぐ分かりました。この曲は冒頭から書いてるように「歌詞が無茶苦茶」なんです。

 具体的に私がどこを無茶苦茶だと思ったかというと

 ①女の子同士の友情をナメてるところ

②言ってることとやってること(やらせてること)の矛盾

 この2つです。

 

これだけだと少し意味が分からないと思うのでこれから解説します。

 

①女の子同士の友情をナメてるについて

 

まずこの歌詞のあたま、そもそもの物語の始まりを分かりやすく漫画にすると

f:id:ninicosachico:20150810141444j:image

 

 

 

状況はこういうことですよね。

 で、まず普通にこの友達「人としてめちゃくちゃ失礼」だと思うんですよ。

だって主人公の女の子(以下独断で夏子とする)は、素で彼氏のこと「かっこいい」と思って写真公開してるんですよ。

 それに対し「本当にかっこいいね!」と同調ができないにしても「ありえないでしょ!」は無いでしょ、友達として。

 

自分に置き換えて考えてみると、私も10代や20代前半の頃は確かにこういう「友達の彼氏公開」な場面はよくありました。

 けど、いくらそこに本当にどブサイクな男が写ってたとしても、友達が本気で好きで付き合ってるのが分かってたら、私もその場にいる他の友人も誰1人「ありえないでしょ!」なんて言うことはありませんでした。

 まぁ本人が退場した後には残った友達同士が「アレはちょっと…」と多少本音を言うことはあるし、本人が「今の彼氏ブサイクだけど観る〜?」と自ら「ブサイク」と振った場合ではノリで「ほんとだ~めっちゃブサイクじゃーん!」とか直接言っちゃう子はいたのですが、それでも夏子のように本人が「格好良くて好き」と思い込んでる場合はこれに面と向かって「ブサイクじゃん!」と告げるような子は本当に私の周りにはいなかったです。(というか、そういう非常識な子には友達が出来なかったのかも。)

 そういう気遣いを「いや、友達なら気なんか使わずに本心を言うよ」と思う人もいるかもしれませんが、私はそれは違うと思います。

 「本心を言う」って、「そのほうが友達の為になる時」は必要だと思いますが、どういう場面かをそのつど判断せず「私はいつも本心を言うの!」と決めてるのって、ただの「他人の気持ちを推し量る努力を怠った自称毒舌家の嫌な奴」だと思うんです。

 

だからこういう時に「相手が好きなものを見た目だけで無下に否定はしない判断」っていうのは、言うなれば相手の尊厳を尊重することであって「人として人付き合いをする上で最低限の常識」だと思います。

 そして現実の私の周りの友人達は、10代でもこの常識がありました。

 そう思い返すと、この歌の「夏子と友達」の友情関係はひどく薄っぺらい非現実的なものに感じます。

 でもこの歌はこの事をきっかけに夏子が「うそッ…私の彼氏ってブサイク過ぎ!?」と気が付くことで展開していくストーリーなので『歌のお膳立ての為』には「失礼な友達との友情関係」は必要なものなんですね。でも、あくまで「設定」として必要な架空の話で、全然リアルな友情関係じゃ無いと思うんです。

 まぁ、べつに歌詞の世界なんて100%妄想の事を書いたっていいのだから、これを「リアルじゃない!」という怒り方はたしかに私のいちゃもんに過ぎません。

 でも私が嫌なのは、女子の生態をよく知らないのにこういう歌詞とか漫画とか、フィクションの世界観を真に受けてるのか、世の中には「女同士の友情って薄いよな〜」って本当に思ってて言う人が現実にいるじゃないですか。

 私はその「女同士の友情が薄い」って決めつけが嫌なんです。

 そもそも「友情」の「濃い・薄い」という定義はすごく曖昧だし、「女同士の友情」とやらも、世の中の「女」というものが一個のカタマリじゃないのだから、女によって違う、個人個人で違う、と私は思うんですが、男の人の中で、時々ことあるごとに『女同士の友情って薄いよな〜』と言ってくる人がいます。

 現実にそれを言われると私は「別に男同士の友情がとりたてて濃いと思ったことも無いなぁ」と思うので、そう反論すると相手は「それは桜島さんが男じゃないから分からないんだよ」とかぬかすんですよ。

 ハァ?ですよ。

私は「えっ、そんならキミはなんで女じゃないのに女同士の友情ことが分かるの!?ふしぎふしぎ!」と矛盾に思うわけですが、それを言うとたいていは酒の席なので「まーいいじゃん」と話を打ち切られたりします。

 理不尽。

 

それで私思ったんですけど、たぶんそういう事を言う人は『女同士の友情は薄い』と思いたいだけなんですよね。その方が彼らにとって何かと都合が良いのかもしれません。

 その件はとりあえず置いておくにしても、秋元康がこの歌詞を書く時に、これを「こんな友達関係、実際無いよなー」と思いながらフィクションとして書いたか、本気で今の若い子のリアルな会話を想定して書いたか分かりませんが、もしも後者だとしたら、あんなに女の子を沢山見てる立場なのに「よくこんなデタラメ書くよな」と思ったんです。

 秋元康がどういうつもりで歌詞を書いたにせよ、こういう女の子同士のあり得ないほど薄い友情描写を見る事で「女同士の友情は浅い」と思ってる人が「やっぱり女ってこんな会話してんだなー友情薄いよなー」みたいな思いの裏付けに加担するのかと思ったら、なんかムカついたというわけです。

 

②言ってることとやってること(やらせてること)の矛盾について

 これについては説明が単純です。

 「秋元康がこの曲を誰に向けて書いたのか?」と考えると、秋元康が1番この歌詞で喜ばせたかった層=世の中の「ブサイクな自覚のある男性層」だと思います。

 それはたぶん「ブサイクな男性=身の回りの女性に相手にされない=アイドルにハマる層」という単純な連想で、ようはNMBとかAKBとかの中心的なファン層を指していて、キャバクラで言えば「太い客」です。

 つまり私はこの曲は、ズバリ秋元康「太い客」を喜ばせるために「女の子」に「太い客が喜ぶこと」を言わせてるだけの「接待ソング」なんだと思うんです。

 で、それゆえ「ブサイクもイケメンも紙一重、ブサイクもイケメンも同じこと」という歌詞がサビでたたみかけるわけですが、これを聞くと私はどうしても秋元康に対して

「お前、そんなら毎年女の子に順位付けさせんなよ!」と思うんです。

 ご存知AKBグループの女の子達は、毎年総選挙という形で多くの男性(女性も居るけど)からランキング付けされる立場にあります。

 ファンの皆様は彼女達の何を評価して順位を付けるのかというと、内面的な性格も考慮しているものの、結局は顔立ちとかスタイルとか外見的な好みが一番の理由なんじゃないかと思います。

 これに対し「ちゃんと性格で判断してる!」と言いたいファンの方もいるでしょうが、彼女達はアイドルなので、「ファンが見ることが出来る内面」というのはとても限られた一部分だけだと思います。

実際に私達が他人と出会った時、どうやって「その人を好きか嫌いか」と判断するかというと、見た目の印象よりも話して意見を交わしたり、日頃の言動を観た上で総合的な判断をするのが普通です。

 

でもアイドルに対して、実際に話したり日頃の言動を観ることは難しいですから、どうしたってそのままの見た目と、彼女達が「見せる」と判断した内面だけ(画面ごしに見える部分やブログやTwitterに書いたりする内容から分かる性格)になります。

 なので、私はAKB総選挙とは「女の子を見た目で順位付けする行事」だと思うんです。

 で、彼女達一人一人がそれを喜んでるか嫌だと思っているかは分かりませんが、参加をしている立場である以上「ブサイクも可愛い子も同じこと」では全然無いわけですよね。

 秋元康がもし本当に世の中の男性陣に対して「ブサイクもイケメンも同じ、ブサイクもイケメンも紙一重」と思ってるなら、それは女の子にも等しく適用されるべきで、「可愛い子も可愛くない子も同じ」だから「見た目で順位付けさせよう」なんて発想は浮かばない筈だと思うんです。

 でも、実際はそれを毎年やってます。

 NMBのメンバーには「私達、ブサイクもイケメンも同じだと思ってるんですよ〜ブサイクな男の人も大好きですよ〜(見た目は関係ないのよ〜)」と歌わせといて「彼女達本人はキッチリ見た目で評価させられる立場に置く」という仕打ち。

 この矛盾に私はムカつくんです。

 

 女の子が肌を晒すことの意味

 さて、ここまでは「歌詞」について、どう私がムカついてるか書いてきました。でも実はここからが私が今回本当に書きたかった本題で、私がPVを観ていて湧き上がった怒りとはどういう事なのか?を書いてきます。

 これは腹が立つというより、正確に言うと「悲しさが通り越して怒りになった」という感じです。

 と言うのも、私は今回の「ドリアン少年」のPVに限らず、少女達がメディアに出る時に下着同然に肌を晒している姿を見ると、いつも悲しくなってくるんですね。

 「何それどういう悲しさなの?」と疑問に思う人のために説明すると、夜中にテレビ点けるとなんかのバラエティ-番組がやってて、ふと気が付くと「男性芸能人と司会者女性は着衣なのに、ひな壇の後ろにいる数人の女の子だけが意味もなく水着」ってことありますよね。

 あれを見た時ってなんか悲しくならないですか? 

 

今回のPVを見た気持ちも私にとってあれと同じ種類なんです。

 え?わかりくにいですか?共感できない?

 うーん、それならちょっと小池栄子の話をしますね。

 昔、小池栄子がまだ谷間を出してバラエティーに出てた頃こんな話をしてました。

 

イエローキャブ(所属事務所)の女の子って、デビューの時は露出度のたっかい水着着て世に出るんですよ。それでだんだんと売れてくると水着も可愛い系のだったり、ミニスカートとか薄着の洋服になっていくんです。それで運良くブレイク出来たらやっとこうやって皆さんと同じようなお洋服着がさせてもらえるんですよ!」

 と。

 この話、なんか悲しくないですか?

 「 やっぱり分からん」という方の為に説明しますと、私はこの「無名な女性タレントだけが水着姿」現象小池栄子の話にあるような「タレントとしての価値上昇に比例して布の面積が増えるルール」の根底には同じ空気があると思います。

 その空気とは、芸能界において女の子だけが『肌の露出度=商品価値』として扱われる存在になってるという事です。

 ちょっとここ上手く表現出来なくてもどかしいのですが、つまり、もし無名の若手男性タレントがもっと売れたいとします。その男性タレントは、顔がある程度整ってる事以外に特に芸能人としての「価値」がまだ無いとしたら本人やマネージャーの人は何か彼に「売り」を作ろうとしますよね。

 変わった資格を取るとか、変わった経歴をくっ付けるとか、歌やダンスをさらに向上させるとか、色々と画策すると思うんです。

 でもその中のアイデアとして「いっそちょっと脱ぐか!」とは、ならないですよね。

 それは「『男性が肌を晒す』ということが、必ずしも『人々が喜ぶこと』では無い」という感覚が世の中に浸透しているからだと思うんです。

芸能界にも一般社会にも「男性の裸は笑いを誘うものであっても、視覚的に喜ばしいものではない。」という感覚ってなんとなくありますよね。

 でも、この場合の「喜ばしい・喜ばしくない」って、一体「誰目線」の話なのかと言うと結局は

「多くの一般男性にとって」ってことだと思います。

 そしてこの「喜ばしい」という意味を突き詰めて考えると結局それは「性的にそそる」ということなんじゃないかと。

 つまり世に浸透している「男性が肌を晒すということが、人が喜ぶことでは無い」という感覚は言い換えれば「男が脱いでも俺たち男は興奮しないから、男の裸は要らん。」ていう男性目線の総意ってことです。

これが世の中の常識として浸透しているから、男性タレントには「売れるために肌を晒す」という選択肢がほとんど無いんだと思うんです。

 でも、女の子にはその選択肢があるんです。

この「選択肢がある」という事を「女はいざとなったら脱げばいいから羨ましい。」という風に捉える人もいますが、私は逆で、性別で「この選択肢が無条件にくっ付けられてしまう」事の悲しさを感じます。

 先ほど書いたように芸能界には「女の子の無名タレントでも水着姿なら画面に華を添える的な役割」があったり「『タレントとしての価値』と『身に着ける布の面積』が比例するイエローキャブの女の子」みたいに、女の子の肌露出を商品価値とする現状があります。

 つまり現状「女の子は脱げば商品価値が出る」「女の子には肌を晒す選択肢がある」が人々の常識になっている以上、女性は男性に比べて「あれこれと画策する機会」が奪われてるんじゃないか?と思うんです。

だから、伸び悩んだタレントが女性だった場合、手っ取り早く人々の目に留まるために「とりあえず脱げば喜ばれるものだから脱ごうか」という短絡的な選択肢が女の子には真っ先に押し付けられてしまうと私は思うんです。

その選択肢って、あくまで色々な案の中から本人が選ぶならいいけど「女の子だからそういう目線を受ける対象物なんだから、まずはソレでしょ」という風に押し付けられるとしたら悲しいし、なんかタレントとして、人として色々見せたい部分があるのをすっ飛ばして「女体扱い」で見てもらう方法を選ばせられるのって、その子達が可哀想な気がします。

 で、こういう「男女で差が生じる現象」って本当なら時代が進むごとにどんどん無くなっていくべきことだと私は思うのですが、近頃の芸能界はこの現象がむしろ加速してる気がします。

 それは秋元康率いるAKBグループの子の出現から如実に感じます。

 しかもさらに悲しいのはその「性対象として男性を喜ばせる存在としての女の子」がどんどん低年齢化してることです。

 AKBグループ(NMBとかHKTとか含む)の子達って、平均年齢10代後半くらいで、実際は成人してる子が居ても水着じゃない時の舞台衣装って、制服風なものですから、つまり、制服という未成年の記号をまとう傍ら、胸や足をあんなに晒してるわけです。

 それをホイホイ「若くて可愛い女の子の水着姿嬉しいな〜」って飛び付く男性が世の中に沢山いるっていうのが私は変だと思います。

 まともな感性なら「こんな若いうちから不特定多数の男の目に肌を晒してオカズにされて笑ってるって、この子達のやってる事、可哀想過ぎるだろ」って思うのがスジじゃないかと。

 でもそれを平気で先頭切って女の子達にやらせる秋元康って、大人として、成人男性として、ほんとどうかしてると思いますし、それをメディアも「国民的グループ」とか「国」背負わせてるのもこの国の感性自体がどうかしてると思います。

可愛い若い女の子のアイドルが足や胸の谷間を見せてくれれば、それは見る方は喜んで見ちゃうと思います。

だけど、それで得る人気って、彼女達の歌唱力とかダンスとか、いわゆる「芸」が評価されてるのか、単に「女体」として評価されてるのか本人達も分からなくなるんじゃないかと思います。

「女体として評価されるのって、本当のアイドルの姿としてどうなんだろう?」とアイドルに詳しくないながらも私は疑問に思います。

アイドルプロデューサーという仕事は、本当なら若い彼女達の親代わりになって、親心で「芸事」の成長が出来る環境を保障してあげないといけないんじゃないかと思います。

なのに最近の秋元康のやり方って、若くて可愛い彼女達を「男性の性的興奮を掻き立てて男性から金を引き出す道具」としてしか見てない感じがするんです。

ちなみに少し調べて分かったは、NMB48はAKBグループの中でも特にそういう「色モノ」というか「男性喜ばせソング」を歌わされてるグループなんですよ。

 「イビサガール」という曲の「真夏日は恋をしよう、こんなに暑いと他にやる事も無いだろう」という歌詞も女の子達が水着のPVで歌ってる姿は実に性的な誘惑を連想させるし、「カモネギックス」という曲は「経験上危険でも女は懲りないもの、短い間でも幸せだったわ」というような「女の子がヤリ逃げされたのにその事に肯定的」というとんでもない歌詞です。

 今回のドリアン少年の歌詞も「ブサイクな男を喜ばせる為」に特化した、現実にはあり得ない空想の女の子が登場する滅茶苦茶な歌詞を作り上げて、現実のメンバーに歌わせて、女性として男性へ特に媚びた感じの曲です。

私がもしNMB48のメンバーの親だったら、もう秋元康の靴に画びょう入れたくなります。

 だから私はドリアン少年のPVを観てると、秋元康のこういう手法とか、それが受け入れられてる世の中全体に対して悲しくなってきて、悲しいの通り越して怒りになってくるわけです。

 

最後に

私は多くのアイドルの子達が持つ「世に出たい」「自分の歌や踊りを沢山の人に喜んで貰いたい」という気持ちは純粋なものだと思います。

 でも、彼女達が得たい「評価」は、本当は1人の人としての評価であって、

けしてただの「若くて可愛い女体」としての評価では無いと思うんです。

 

なんせ小池栄子はさっきの話の後に「やっぱり、こうやって服を着られるようになると嬉しいですよ!」と言ってたので、本当は「裸に近い格好をしなきゃ芸能人でいられない」ってことが、嫌だったのかなと思うんです。(だから私は初めてカンブリア宮殿でパンツスーツ姿の小池栄子を観た時、泣けました。)

だからまだ世の中のルールもろくにわからないような若い彼女達の「アイドルで有名になりたい」という純粋な気持ちを、大人が逆手にとって「この世界はそういうものだから」と安置に肌を晒させて金儲けの道具にするようなことは絶対いけないと思います。

 アイドルの中には「女体として褒められるのでも嬉しい」という子もいるとは思いますが、多くの子はそこに付きまとう「不特定多数の異性にエロい目で見られる対象」となると嬉しいわけないと思うんです。

 入り口は単純に「見てもらって褒めてもらえる」という嬉しさがあっても、それがただの女体としての評価だと分かったら悲しくなるというか、やはりどういう子でも「人として評価されたい」気持ちのほうが強くて根本にあるものなんじゃないかと思うんです。

 だから「若い女の子が肌を晒す」ってことに、世の中の人がみんな慣れ過ぎてて、今のようにアイドルの露出のインフレ状態なのは、なんとかならんもんかなぁと思います。

 「男性が見て嬉しいものだから世の中に氾濫する」っていうのは、男性にとっては心地よい世の中なのかもしれないけど、その影で沢山の女の子が「自分を商品価値のある女体として差し出すのが常識」みたいになるのは、私は下品な文化だと思います。

 芸能界の「芸」って、そういうのでないんじゃないかと。

もっと彼女達の「若くて可愛い」という身体的な見た目部分だけでは無くて、歌とかダンスとか頑張り具合とかを作る側も見る側も大事にしていかないと、これから先アイドルになりたい子なんて居なくなっちゃうんじゃないかと思います。

 

最後になりますが、さっき「ドリアン少年 歌詞」でYahoo検索したら「ドリアン少年 歌詞 ひどい」という候補が出てきたので「あ、世の中案外まともかもしれない」と思い直しました。

 

でも、今売ってるプレイボーイの表紙はAKBの子達が派手な下着っぽい水着で並んでて本当ランジェリーパブ感ハンパないので「あーあ」って思います。

思ってることが上手く書けてないところもありますが、今日はここまでにします。

ではまた。