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限りなく透明に近いふつう

やさしい鬼です お菓子もあります お茶も沸かしてございます

若い女はいつまで「みっともない」と脅される立場でいなきゃいけないだろうのか(車内化粧について思うこと)

 

 

 はじめに

 じわじわ炎上しているCMがあるとTwitterで流れてきたので観てみました。東急電鉄のマナー広告。 

youtu.be

 

こちらの動画「歩きスマホ編」の後にある「車内化粧編」がそれだということなのですが、動画で見てみると音楽とダンスのインパクトが強くてあれよあれよと進むせいか、私は先日の「うな子」の時に比べれば一見「ふつうのCM」という感じがしました。

ただ、私も動画を観るより前に画像広告の「都会の女はみんなキレイだ、でも時々みっともないんだ」というコピーだけを目にした時は「ん?」となりました。

このCMにすでに怒りの声を上げている方もたくさんいるようですが、私の場合それは「怒り」というより「違和感」というか「なんか違くない?」という感じでした。

これはいつものことですが、炎上CMって「無関心」以外に3段階の感想を生むものだと思うんですね。

「①怒る」と、「②怒りではないけど、ヘンだと思う箇所はあるなぁ」と、「③どこに怒る要素があんの?」と。

その①②が「通常より多いぞ」という結果が声になり、その事態が各種まとめや話題の見出しになると「〇〇炎上!」とひとくくりになるのかなと思うのですが。

それで、私の場合、わかりやすくダメなことを突きつけられたら瞬時に「ここが腹立つ!」と「ここ」への怒りを言い表すことができるけど、わかりにくいダメなことを突きつけられた時って「どこかに変なところがある気がする」くらいの違和感しかないので、とりあえずはじめ②でして、このCMへの感想評判のまとめ↓ を観ても②の人が多い印象なんです。

 

「炎上」と称されると、つい「みんなが怒り狂ってる」みたいなイメージを喚起してしまいますし、今の自分の「ん?」という気持ちを書いて人様に「桜島さんが炎上に加担」とされるのも本意では無いのですが、あまり人様の評を気にすると書くものも書けないので、そこはあまり気にせず今の時点でこのCMに対して思ったことを書いておこうと思いました。そんなわけでよろしくお願いします。

 

一見ふつうめなのに見過ごせなかった理由

 今回の広告のコピーは「東京はきれいな人が多い。でも時々みっともない。」となっていて、「時々」は「電車内で化粧をしている女性」を指しています。
つまり電車内で化粧することに対し「どんなにきれいな女性でも電車内で化粧をして、きれいになっていく過程を他人に見せるのはみっともないことだからやめましょうね。」というのが、この広告の伝えたいメッセージだと思います。

それでこのCM、「ニクい」というか私も「さすがにそこまでバカじゃないか」と感心したのは、このメッセージを劇中で女の子に言わせてるところなんですね。
だってこれ、仮に主人公が男性でこのメッセージを発していたら…と想像すると、多分もっと即座に大炎上になってると思うんです。
でもさすがにそうしなかったのは、偶然ということももちろん考えられますが、「今の時代、そのレベルの事はたいていのCM制作者は予測できるからかな」と思いました。

だから、「女の子を起用してのこの台詞と台本」という所に、一応私は「作り手の思惑」が見て取れるように感じました。(そのレベルすら分かってなかったのがルミネと志布志うな子)

このCMはその巧妙さゆえに、ぐわっと大炎上はせず、また見る人によっては「どこが怒る要素なの?」と「流し見」もできてしまう範囲の普通っぽいCMに仕上がっているのかな、と思います。

 でも私とか、ジェンダーアンテナが立っちゃってる人は見過ごせないものなんです。
だって、仮におかしなメッセージだった場合の「おかしさ」って、男女どちらが言ったって本当は同じ「おかしさ」であるはずです。

つまり、アンテナ張ってると、そもそも「男性役者が言ったらダメだけど、女性役者ならOK」みたいな「男なら・女なら」っていう「男女で扱いが変わる事象」そのものに違和感を感じるので、「女の子が言ってるから見過ごす」という風に「女の子」で誤魔化されないんですね。
分かりやすく言うと、たとえば道で肩がぶつかった相手にいきなり「前観て歩けタコ」と言われたとして、「言ってきたのがおっさんなら言い返すけど、女子高生なら許しちゃう」みたいな個人的なジャッジがありますよね。
そういう判断って日常の個人間ならありえるし、私もまったくしないわけではないけど、ジェンダーアンテナの張っている心の中では「相手の性別でものごとを判断すること」自体に疑問を抱く今日この頃なので、なるべく「減らせる場面では減らすべきかな」と思ってるんです。

それで、公共交通機関の発信というのは社会性が強いので、私としてはこれからの社会のためには、公共機関の発するメッセージも同じく「性別で状況が変わる」であって欲しくないと思ってるんです。

つまり「ぶつかった相手にいきなり『前見て歩けタコ』と言う人間の『失礼さ』」は、「おっさんでも女子高生でも『等しい』」とするのが公共機関の態度として正しいのでは?と私は思うんですね。

だから「男性を起用せずに女の子に言わせてるから、そんなに女性に怒られることもないだろう」みたいな「女の子で逃げる感」みたいな部分があると「公共機関が発信するものが、そういう『女の子だから許してねパワー』頼っちゃうー?」という失望を感じて私は見過ごせなかったんだと思います。

それが、私がはじめに感じた「ん?」という違和感の原因の1つかなと思います。

 

「みっともない」という切り口への違和感

 さて、私がこの広告に感じた違和感のもっとも大きな原因になっているところはどこか。

それは「みっともない」という切り口をチョイスした所かな、と思いました。

「みっともない」を辞書で引くと

みっとも な・い  【見っともない】〈 形〉

〔「見とうもない」が変化した「見ともない」の促音添加〕
とても見ていられない。体裁が悪い。見苦しい。【三省堂 大辞林より】

とあります。
つまり「他者からは見苦しくてとても見ていられないさま」のことを「みっともない」と言うのですね。
ということは、広告のコピーを言い換えると「東京の女性はきれいだ。でも時々見苦しくてとても見ていられない。」となります。

…わかると思いますが、多分これだとネットでは女性達の「じゃあ見るな」「誰も『見て』とは言ってない」というような声で今よりさらに荒れる結果になっていたと思います。

つまり、今回「女の子に『みっともない』というオブラートな形容詞を用いて言わす」作りにしてるので、このCMは世に出て少し炎上するくらいで済んでいますが、言ってること自体は「電車化粧をする女は見苦しくて見ていられない。」というメッセージなんですね。

 で、私が「みっともない」という言葉選びが良くなかったんじゃないか?と思う理由は、一言で言うと公共マナーに関して、公共機関という立場からの注意の仕方で「みっともない、みっともなくない」を持ち出すのは適切ではない気がするからです。

その理由は次の章からくわしく書きます。

 

「客観的事実と主観的事実」

 私がなぜ上記のことを「適切ではない」と思うかというと「みっともない=他人が見苦しく感じる」か否か、の判断は極めて個人的主観に基づいていることだからです。

 どういう理屈か説明しますと、人は物事を判断する時に「客観的事実」と「主観的事実」の両方を加味して判断するんですよね。

分かりやすく例えると「地面に穴があいている」とします。

それは客観的事実(誰がどう見てもそのように見える様子)では例えば「円形で直径5m深さ1mの穴があいている」と表せますが、見る人が普段ビルの工事現場等で、もっと大きな穴をいつも見ている人なら人に言う時「あそこ、ちょっとした穴があいてるなぁ」と言うでしょう。また、子供が見たら「うーんと大きい穴が空いてるの」と言うでしょう。

このように「受け手の感覚の違いでどのようにも変化しうる事実」が主観的事実です。

だから裁判などの公的な場では、「たくさん殴られた」という被害者の主観的事実だけで罪の重さは決めずに(「たくさん」の感じ方は人それぞれ違いますから被害者次第で同じ行為の量刑が変わる事態は避けなくてはならないので)出来る限りの「客観的事実(目撃者の「あの人は何発、何分間くらい殴られてた」という証言や怪我の診断書など)」で、状況を判断するわけですね。

で、その穴の大きさが何かこれからの決定事項に関係している場合、その穴について正確に事実をみんなで共有して判断したいなら報告書には誰がどう読んでも誤解が起きないようにきちんと数値で穴の大きさを書き記し(客観的事実)、さらに「大きい」とする方が都合が良いなら「円形で直径5m深さ1mの大きな穴があいている」小さいほうが都合が良いなら「円形で直径5m深さ1mの小さな穴があいている」という風に最後に書き手が主観的事実をちょちょっと付け足したりすることがあるわけです。

ものごとの判断の時にはこんな具合に客観的事実と主観的事実の両面から判断すると、より正確になるというルールで私たちは生活しているわけですが、件の「みっともなさ=見苦しさ」については公的な定規がありませんよね。

物の大きさにはセンチやメートル、音の大きさにはデシベルやホーンといった客観的事実を伝えるすべがあるのに、みっともなさを指し示す「拾い食いは8みっともない、人前でのゲロは10みっともない」みたいな単位はありません。

だから、私が屁理屈人間なせいも多分にあるとは思いますが、「公共性が高い=出来る限り正確な情報を発信して欲しい機関」からの注意を、そんな個人の判断にまるっきり左右される「みっともなさ」が基準でやられると「そんなあやふやなことで注意されんのー?」という疑問が残り、そもそも「みっともない」を用いることに不適切さを感じてしまうのです。

 

改めて考えた時「人前での化粧」は見ていて不快なのか?

 そんなわけで、私は「人前での化粧のみっともなさ」について改めて考えてみました。

皆様にもこの機会に一度よく考えてもらいたいのですが、「化粧をする工程を見ること自体」を「みっともない」と感じるかは非常に個人差があると思います。

「みっともないと思う」「気にならない」とそれぞれいるでしょうし、逆に「面白い」と思う人もいるかもしれませんね。

私は「人前で化粧」という行為について考えたところ、確かに「あまり人前で大っぴらにやる行為ではないな」と思いました。

しかし、それはあくまで自分が化粧をする立場だった場合を想定して「自分が恥ずかしいと感じるか否か」の感覚で言った場合に、自分はちょっと恥ずかしいので「自分は人前で大っぴらにやらない行為」に分類しただけです。

今回よく考えてみると、私は他人様に関しては「どこで化粧をしていようとなんとも思わない」という事に気が付きました。

その理由は、別に動き自体がまわりにぶつかるとか、なにかパウダーが飛び散るというあきらかな「害」がなければ、化粧をする動き自体は自分で見慣れているものだから「げっ」とは思わないですし、本人が恥ずかしくないからしているんでしょうから、私が自分の感覚で「やらない」に分類している判断を「あなたも恥ずかしく思わないのヘンだよ!」と押し付けようと思わないからです。

 ちなみにこの理屈で言うと「露出狂も自分が恥ずかしくない人が出してるんだから許すのか?」となりますが、露出狂や公然わいせつは、ほとんど本人以外の全員が「不快」に感じる行為で、度が過ぎているので公に「ダメ」とするべきだと思います。

「公共の場での化粧」も「ほとんど誰でも不快だろ!」と言う人も多いと思いますが、私は不快には感じませんし、国勢調査したわけではないので「ほとんど」が今現在国民の何割なのかは誰も分からないでしょう。

そして、今現在「自分は不快だよ」と言う意見が「国民のほとんど」だと思ってる人が多いとしたら、それは昔から意見の通りやすい層にとっての「ほとんど」だった名残りだと思います。

つまり、昔からこの国で意見の通りやすい「男性」の多くから見て「人前で化粧をするなんてはしたない、みっともない、良くない」という意見が主流だからです。

もちろん女性でも同じように思ってる方もたくさんいると思いますが、中には「男性の作る意見の社会の大きな流れには沿うものだから」が考え方の根底にこびりついていて、無意識に男性と似た判断をするような価値観でそうなっている方もいるんではないかと思います。

実際、私自身も今回のことがある以前に改めて「人前で化粧をする行為って見てて不快か?」と自問自答したことはありませんでした。

つまり「人前での化粧」って、実際に目の前で誰かが化粧をしていて、「見ててキレられた」とか「肘が当たって嫌だった」とか「粉が飛んで喘息の発作が出そうだった」とか、何か実害をこうむったことのある人以外の大多数の人にとって、そもそもこんな異論反論オブジェクションみたいに「不快か否か!?」と題する議題ですらでなく、特別に「是非を問う」というところまで意識が及ばない程度の行為なんじゃないの?という気がしました。

 だから余計に、東急がそれをマナーCMの2つめにしてることに「???」となりました。次の章ではもうちょっとそこについて詳しく書きます。

 

「みっともない」のは化粧だけではない

では、話を東急の広告に戻して今回、公共マナーの注意として「みっともない」という切り口が選ばれたことがどうして私は「変だな」と感じるかという話をします。

まず、「みっともない」を理由に人の行動を改善させる注意のやり方は、一言で言うと「人様の視線に考慮しなさい。」という「躾」のような注意だと思います。

人前で化粧をする行為の「何がどういけないか?」という事を人に諭す時に「躾」という切り口でやると、注意している点は「人前で、その行為に至る他者への配慮意識の低さ」ということになります。

つまり「そういう仕草は、人様が見たら不快に感じるからやめなさいね。」というニュアンスの注意です。

そして、東急電鉄が全部で何種類の「マナー違反行為」に対してCMを作る気かはわかりませんが、第一弾の「歩きスマホ編」に続く第二弾がこの「社内化粧編」なわけで、(第三弾はこれから公開の整列乗車編)歩きスマホ編は「線路に落ちる、人にぶつかる」などの「実際に起こりうる本人、他者への害」を挙げて注意をしているので、これは分かります。

が、先ほども書いたように「人の行動が原因で電車周辺で起きる害」としてその次に打ち出す注意がこの「車内化粧」というのに私は「なんで?」となりました。

なぜなら、電車内で繰り広げられる人間の「みっともないさま」というのは他にゴマンとありますよね。

床に座る。匂いのする食べ物を食べる。座席に荷物を置いて確保する。

シャツをはだけた酔っ払いの酒くささや嘔吐や千鳥足でのぶつかり歩き。

主におっさんに多い大股開き座り。

肘をガツガツ隣人に当てても新聞を読む意思を貫くおっさん。

くしゃみを手で覆わずに豪快に唾を飛ばしてなぜか満足気なおっさん。

エンドレスで鼻くそをほじり指をシートで拭くおっさん。

後半、おっさんばっかになってしまいましたが、とにかく「みっともない、見苦しい」という行為を挙げ連ねたら車内化粧の他にこんなにもあります。

また話が込み入るので今回痴漢のことはあえて書くのは避けようと思いましたが、痴漢に類似した行為で「みっともない、見苦しい」の範囲を超えている、肘で身体を「ぶつかってる?触ってる?これどっち?」という動きをしてくる男性や、雑誌で隠してるけど自分の股間をさすり続けている男性みたいな場面もあります。

そういった、他に実害すら伴ってる「みっともない」がいっくらでもあるのに、東急電鉄が「歩きスマホ」の次に注意したいと選んだのが「車内で化粧をする女」ですよ。

もう「なんでそこぉ?」としか言いようがありません。

確かに「車内化粧を迷惑に感じる人が多い」というのはわかるんですが、「みっともなさ」の切り口で責めるなら、みっともない車内行為の対象者は老若男女どの層だってあるわけです。

それを一番に「みっともなさ」の注意対象として「若い女」がやりがちな「車内化粧」を選んだのは、その判断する人が頭ん中で「若い女性は人目を配慮する心を持ってこそ!」と思ってるからじゃないですか?あとぶっちゃけ、若い女が「注意しやすい相手」だからでしょ?

もちろん、「人目を配慮する心」というのは誰しも持っていることが望ましいとは思います。

でもあくまで「誰しもがおんなじくらいに持ってることが望ましい」と思うんです。

だから広告は「東京のおじさんはかっこいい。でも時々みっともないんだ。」で、あの女の子が「鼻をホジホジ、威厳は誇示!でもシートで指を拭くのはNO!」とか歌い踊ったっていいわけです。

でも、そんな案が通らないどころか、提出もされないのは人々が共通認識としてすでに「おっさんは人目を配慮する必要はない」とうっすら思ってるからですよね。あ、あと注意しにくい相手だからですよね。

つまり私は、「誰しもがおんなじくらいに持ってることが望ましい」他人からの視線を配慮する心のはずなのに、そういう風に「若い女はもっと人目を気にしろ」と「おじさんは人目なんか気にしなくていいんだ」の差があるところに「なんでだよぉ!!?」なんですよ。

だから、その差を当たり前のように無視して、「みっともなさ」を車内化粧の注意だけに持ち出すこと自体がそもそも変だという結論に至ったんです。

以上が私の「公共マナーの注意として『みっともない』という切り口が適切ではない」と思う理由でした。

 

代案を出すなら

さて、「批判するなら代案を」の精神が私にもあるので、「こうだったら良かったのでは?」と思う案を書きますね。

そもそも「車内化粧」がわざわざ取り上げる話か?っていう気はしますが、そこは目をつぶって、仮に私がお上の命令でどうしても「車内化粧編」を作らなきゃならないCM製作者だったらどうするか?という代案です。

それは単純な話「歩きスマホ編」と同じ切り口でいいと思うんです。

「実際に起こりうる本人、他者への害」を挙げて注意、それだけで。

「みっともない」は言いっこなしです。

「肘が隣人にぶつかる、粉が飛ぶ、匂いが強い(香水以外でそんなに匂いが強い化粧品を私はまだ知らないが)」というような事が「害」です。

あと、一段階深刻な害としては、化粧品に含まれる防腐剤、アルコール、香料がなどは喘息の発作を誘因することがあるので、隣の人が喘息持ちの可能性もありますから、そこは確かに知らずに化粧をしている方へは注意を促していいところだと思います。

「見苦しいからやめるべき」という、個々で異なる主観的事実を根拠に注意をせずに、「肘が子供の顔にぶつかった人がいた。隣席の化粧品で喘息発作になりかけて駅員室にかけこむ人がいた。」という事実が本当にあるのなら、そういう客観的事実を根拠に注意をするのが公共機の切り口としては適正かと思うので、私ならそのようにすると思います。

 

最後に

さて、一連の話をつきつめてまとめさせていただきます。

なぜ今回、車内化粧行為が「みっともない」という不適切な切り口で注意されたのかと考えてみると原因はやっぱりいつものことだと思うんですよね。

そう、女性への「女らしさ」の押し付けです。

みっともない行動は世の中にゴマンとあるのに、ターゲットを「若い女性」に絞ったみっともなさが真っ先にやり玉に上げられるのは、結局「女性は容姿や仕草を他人に評価してもらってナンボ」という考えが昔からこの国の共通認識にされていたからだと思います。

多くの男性が女性に「恥じらいを持ち、奥ゆかしく、つつましい言動に努める女であれ」という理想を求め、当てはまる女性は「やぁ、なんと素晴らしい大和撫子か」と愛玩し、当てはまらない女性は「はしたない、生意気で下卑た女ども」と罵って、そういう風に男性目線から見た「女らしさ」を基準に「女性の選別」をすることを、この国では長いこと「アリ」にしてました。

そして、それは人によってはもはや意識するレベルでもないほどに深く浸透しているから、女性(とりわけ若い女性に)

対しては、男性に比べて「みっともないことをするな」と諭すことが当たり前のことになっているのだと思います。だからこそ女性に対する躾のような切り口の、今回の広告が生まれてしまったのだと思います。

今回、この広告怒っている女性に対して、恒例のように「またうるさいフェミが過剰反応でCM叩きか」「やつらは何にでも怒りやがる」「たかが一CMの内容に何をそこまでうるさく言う必要がある?」と思う人もいるでしょう。

でも、怒っている人が怒ってるのは「たかがCMの内容」にではないんです。

これだけ日々、世の中は変わっていき、「女性の地位向上」やら「女性が輝く国へ」やら、政府すら一応は言うようになってきて、「男女の差を埋める」「男女共に人として扱う」へ動こうとしているはずなのに、まだちょいちょい「女性は女らしくなきゃ人にあらず」という精神が透けて見えるCMが出て来てしまう、その「土壌の整ってなさ」に怒ってるんです。

私は「まぁいいや」と、女性がお望みどおりの従順さで、小さいことを怒らず見過ごしていくと、時代は簡単にかつての男性優位時代に戻ってしまう気がします。

それが嫌だから怖いから、面倒だけど、声をあげるようにしてるんです。

「ヤマトナデシコ」が理想な人も多いのは分かりますが、そうでない女性をいじめる&いじめていいとする空気はもういい加減に終わりましょう、という提案です。

たかがCMですが、されどCMというか、CMってすごく「お国柄が出る」ものだと思うので、今回このようなことを書いてみました。 

久しぶりなので、ちょっと書こうと思ったのにまた長くなってしまいましたが、長文お付き合いいただき、ありがとうございました。

ではまた。

 

10月27日追記