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「女らしさ」ってなんですか?

 

こんにちは。

昨日3月8日は、国際女性デーでした。

というわけで、今日は1日遅れてしまいましたが、この機会に私が皆様にぜひ読んで頂きたい文章を紹介します。

それは与謝野晶子さんの「女らしさとは何か」という作品です。

与謝野晶子の「作品」というと短歌を思い浮かべる方が多いと思いますが、こちらは大正から昭和にかけて発行されていた「婦人倶楽部」という雑誌で1921年に発表された彼女の随筆で、今で言うコラムかエッセイといった文章です。

「へー与謝野晶子って、そんなのも書くんだ。」と思った方、驚くのはまだ早い!

この文章が凄いのは「女らしさとは何か」というそそるタイトルもさることながら、その内容!

例えば一部分を抜粋すると、

我国の男子の中には、まだこの点を反省しない人たちがあって、いわゆる豪傑風を気取った前代の男子の悪習を保存し、自分自身は粗野な言動を慎まないのみならず、その醜さをかえって得意としながら、唯だ女子にばかり、愛と、優雅と、つつましやかさとを要求します。

ってな感じで、当時の男尊女卑社会に対する痛烈な批判が綴られているんですね。

もう、読んでて同感な部分が多すぎて「晶子!スタバ行ってちょっと話そ!」ですよ。

この文章が100年近く昔に書かれたものなのに、現代にも通じる内容なのは、実はちょっと悲しいことでもあります。

でも悲しいからといって目を背けていても仕方ないので、私はこの作品を皆様に読んで頂きたいです。この作品は埋もれさせておくにはもったいなさすぎます。

青空文庫でどなたでも無料で読めますので、是非読んでください。

青空文庫とは、著作権切れの過去の名作を無料で電子書籍化したサイトです。合法です。)↓

青空文庫 Aozora Bunko

この作品のページ↓(上部右にある「いますぐXHTML版で読む」をクリックすると、ファイルダウンロード無しでそのまま直で読めてラクです。)

図書カード:「女らしさ」とは何か

 

さて「読んで頂きたい」とは書きましたが、こちらの作品、やはり100年近く前の文章なので、人によっては少しとっつきにくいかな、と思います。

私が10代の頃なら少しとっつきにくく感じてたと思います。

でも私は特に若い子に読んで欲しいんです!

そこで今でこそフェミニズムに興味を持っている私が「もっと若い頃にそういうことを知っていたかったよ!」と思う後悔をふまえて、多くの人に届くように方法を考えました。

今日はこの場を使って、この作品を私が勝手に少しばかり噛み砕いた表現に書き変えて載せたいと思います。

現代の若い子に気軽な気持ちで読んで欲しいから!

これを読んでから与謝野さんの原文を読んでもいいし、原文を読んでからこれを読んでもいいし、とにかく一人でも多くの方にこの作品が知って頂けたらという思いで書いてみますので、よろしくお願いします。

【ルール】

内容は変えずに現代口語版にする感じです。読みやすいように節分け、節ごとのタイトルは私が勝手に足します。太字強調部分の選択も私が勝手にします。

 

でははじまりはじまりー。

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「女らしさ」ってなんですか?

by与謝野晶子

 

はじめに

日本人って、昔から仏教とか儒教の教えを叩き込まれてますよね。

んで、「世の中の物事の移り変わりは早いもんだ」とか「毎日新しい心に入れ替えて生きよう」みたいな大事なことを学んできたけれど、どうもそれを狭い視野で解釈してるせいか、全然活かせてない気がします。
「万物流転」(物事が移り変わっていくこと)に関しては、ドーンと構えて「そういうもんでしょ!」と思えばいいのに、どうも世の中にはそれが出来ない人ってのがいるみたいなんです。
最近は日本にも外国から新しい情報がどんどん入ってきてて「世の中変えていこーぜ!」って流れなのに、そういう人達って、カビの生えたような古い習わしばっかし守ろうとしてて、なんか後ろに目が付いてるみたいな感じ。
目の前にある現実と向き合うことをサボって、先のことを見通すのも怖がってるみたいな。
しかもそういう人達って、バリバリの保守派の中にいるだけじゃなく、一見「進歩的な考え方じゃん」ってグループの中にも実は混じっていたりするから厄介なんです。

桜島注・「そういう人達」には呼称を付けたほうが読み易いので今後はそういう人達を「古石頭」と書くことにしますね。)

それで、私がこのごろ気に食わないのは、古石頭がよく「女性の中性化」って言葉を使って今話題の「女性の解放運動」に反対しているってことなんです。
だいたい古石頭って、はなっから女が人間的に進化することが気に入らないみたいなんですよ。
しかも奴らは「人生は決まったルールとか法則に従って生きるもの」っていう古い考え方に囚われてるから、それを守るためにわざわざ他人の嫌がる言葉を掲げて女を威嚇して、女のリーダーが出ないようにしたりもします。

そんで世の中の流れが良いほうに向かっててもそれをかき乱すようなこと言ったりして、とにかく女性の解放運動にこれ以上みんなが賛同しないように圧力をかけてるんです。
私はそういうのって、卑劣なやり方だと思います。
だからそれについてちょっと言いたいことを書かしてもらいます。

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「女らしさ」ってなんですか?

とりあえず、古石頭の主張をまとめると「女が男と同じ高レベルな教育を受けたり、男と同じ仕事できるようにしたりすると、女性特有の『女らしさ』とゆう性質が無くなって、女でもない男でもない、よくわからない変態人間が出来るからよくない」ってことらしいです。

でもこれ、「は?」って感じじゃないすか?
まず聞かせて欲しい。

これって何を根拠に言ってるんでしょう?
一般女子に中学レベルの教育しか受けさせない上に、女は市町村議員になる権利さえ与えられてないこの国で、何を根拠に勝手にそうなると決めつけてるんでしょうか?誰かその、変態人間とやらを観たんですか?
勝手に決めつけで言ってんじゃないよ!って私は思います。


でも、それよりももっと古石頭に聞きたいのは、そもそも女は本当にあなた方が言う「最上の価値を持つ『女らしさ』」ってのを持っているのか?ってことです。
奴らは「女らしさ」ってやつを女の性質の一番の項目に挙げていて、ほかの性質はその下に従ってくっつけてるだけです。
だから、ある女性がどんなに優れた沢山の性質を持ってても、彼女にただ一つ「女らしさ」という部分が無かったらそのせいで、古石頭は「彼女の人間的価値はゼロ。彼女は独立した人格者ではない。」とみなしてきます。

 

ここで私、聞きたいんですけど、「女らしさ」って、そんなに最高に良いもんなんですか?
「女らしさ」って、そんなに女の人格全体を支配します?
そもそもその「女らしさ」の正体っていったい何なんですか?

 

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「男のすること・女のすること」に分ける必要はない

 

日本って、女が大股で歩いたり、活発に動き回って遊んでるとすぐ「女らしくない」って責められたり笑われたりします。
つまり、女は内股でちょこちょこ歩き、人形みたいにおとなしくしてんのが「女らしさ」の一つの条件になってるんですね。

でも日本ではそうでも外国の女性はどうでしょう?
外国の女性はことごとく大股で颯爽と歩くし、欧米では戦後、女子学生も男子と同じ体操着でスポーツをするようになっていますが、欧米では彼女達に向かって「女らしくない!」という非難の声は上がっていません。
ってことは、古石頭がありがたがってる「女らしさ」ってもんは、世界共通のものではなく、日本人だけに通用するものってことじゃないですか?
古石頭は「男のやることを女がやると、女らしさを失う」と言いますが、人間の活動に「男のする事・女のする事」みたいに、「先天的に決まっているもの」があるんでしょうか?
私は女が「妊娠する」という一点を除けば、男女が性別によって決められている宿命が別々にあると思えません。

 

政治や軍事は男の分野とされてますが、日本にも過去には女帝や女性政治家はいましたし、先の戦時中は弾丸製造などの働き手に多くの女が駆り出されました。

でも彼女達は「中性化した女だ!」と非難されていません。

だからここにきて今更「男子のすることを女子がすると女らしさを失う」というのは的外れな意見に思えます。

それに、もし男女の性別によって歴史的に定まった職業の領域が分けられて固まってるなら、男が服職人や料理人や洗濯業者となるのも女の領域を侵すものとして「男子の中性化」が論じられなければならないはずじゃないですか?
それこそ紀貫之だって「女が書く」とされていた「日記」を書いてたんですから、同じ理由で「男らしさを失った人間」として批難されてないとその理屈は通らないのに、彼は歌人として、また国語で文章を書いた先駆者として尊敬されているのはどういうわけでしょう?

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「人間らしさ」を男女不平等に言い換えた言葉が「女らしさ」である。

 

古石頭達は「女らしさ」とは「愛と、優雅と、つつましやかさとを備えていること」だと言い、逆に「女らしくない」というのは「無情、冷酷、生意気、半可通、不作法、粗野、軽佻等を意味する」だとも言います。
でも、私思うんですけど「愛と、優雅と、つつましやかさ」って、男にも必要な性質じゃないすか?
「愛と、優雅と、つつましやかさ」ってのは、「特に女にだけ」求めるべきものじゃなく「人間全体に共通して」欠くことの出来ない人間性そのものなんじゃないでしょうか。
だからそれを備えていることは「女らしさ」でもなければ「男らしさ」でもなく、「人間らしさ」と言うべきなんじゃないでしょうか。

人間性なんて、男女の性別によって違う性質のものじゃないですから、もしそれが欠けてる人がいたら「人間らしくない」として、男女にかかわらず批難されるものなんじゃないでしょうか。

でも昔から男はそれが見過ごされて、女だけが「女らしくない!」って言葉で厳しく批難されます。

それって不公平過ぎると思いませんか?

 

この国の男の人の中には、まだこの点を分かってない人達がいて、彼らは昔の豪快な武将にでもなったつもりか知りませんけど、自分自身は粗雑な言動をしているのに、女には「愛と、優雅と、つつましやかさ」を求めてきます。

また、さっきも言ったような「無情、冷酷、etc」の欠点は、男でも許しがたい欠点なのに、女にばかりそこを責めます。

そんな人達の様子からは「女には俺達に都合よく、性的玩具や炊事マシンとしての役目を負わせたい。柔順で無気力な立場に置いておきたい。」って男のワガママが見え見えなんです。

 

こんな風に考察してみると、古石頭の言う「女性だけが持っていて、それが人間的価値の最高標準となるべき『女らしさ』」なんてもんは、この世に存在しないただの奴らの幻想じゃん、って私は思います。

 古石頭が「女らしさ」と言ってるものは、人によっては「一地方的なもの」でもあるし「時代によって変化するもの」でもあるし、ようするに「決して私たちの生活を支配するような権威を持っているものじゃない。」ってことです。

だから「女らしさ」は「女子特有のものでなくて、人間全体に一貫して備っている人間性そのもの」だってことを私は言いたいです。

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女にも「教育と労働の自由」を。

 

私は人間性っていうのは「愛と、優雅と、つつましやかさ」に限らず「創造力と、鑑賞力と、その他の重要な文化能力」とかも含んでいると思います。

この人間性は誰にでも備っているけど、「教育と労働」があるとさらに円満に引き出されるような気がします。

だからこそ私は普通の人々にも「高等教育を受けることの自由」と、「職業選択の自由」がないといけないと思うし、

古石頭が女への高等教育を拒み、労働区域の制限をかけようとするのは全く正当な理由のない迷惑行為だって思います。

男になら「人間性の啓発となる教育と労働」なのに、女にとっては「逆に人間らしさを失くす結果になる」なんて矛盾する理屈は通らないですから。

 

私のこんな意見に対して、古石頭達は現在の女教師や女学生や職業婦人に共通する生意気な態度や粗野なところを挙げて、「これだから女はダメだ!」って言ってくるかもしれませんが、でもそれって逆に古石頭の墓穴を掘ることになると思いますよ。

だって、現在のそういう女性達は、確かに人間性の不足している所が多少あるかもしれないけど、それって、結局は「彼女達に人間らしい教育があまりに与えられず、人間らしい労働があまりに狭くしか許されてない。」が原因だと思いますから。

試しに女に「男性と同程度の教育」と、「地位のある立場でその手腕を思う存分振える職業に就くこと」と、明治以来の男に与えて来た「激励と設備と年月」を与えてみてください。

日本女性の人間性のポテンシャルの高さはきっと驚くべきもので、決して欧米の女性に劣るものではないはずです。


現在女性にまだ粗野さや生意気さが残っているように見えるのは、男子の中学卒業にも当らないような程度の教育でストップしていて、一番生意気な年齢からそれ以上に人間性が育つ仕組みじゃないからだと思います。
女性の職業範囲が少しずつ広がっているといっても、まだ女は小学校の校長にさえなれないし、どこへ行っても「女性である」って理由だけで男の下に付くようにさせられています。

今の女性は「実力が優れてても、男性の下に立つことしか許されない」という有様だから、女性自身もその人間性を鍛える機会を失っているのかもしれません。

だから私はその制限をとっとと取り払って欲しいと願っています。

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「子供話は女に任せる」って風潮やめませんか?


さて、好き言わせてもらってますが、こんな私の主張に対して、私は「古石頭がこんなことを言ってくるだろうな〜」ってことも想定してます。

それはきっと

「子供を生み、育てることは女性でなくては出来ない。したがって『女らしさ』の主要条件は母となることである。
そして女子解放運動は、女性のその母性を失わせるから良くない。
これからの新しい女性は母になることを回避してしまう。」 

ってな感じのことだと思います。

でもこの意見に対しては私も言いたいことがあります。

それは、そもそもこの「『母になる云々』の話を『女らしさ』で語る前提やめません?ってことです。


ちょっとややこしい書き方しちゃいましたけど、つまりどういうことかと言うと、確かに、女でなければ妊娠することが出来ないのは事実として認めます。
でもそのせいで「生殖のことは女性にお任せ」と思うのは大間違いだってことです。

だって、そもそも妊娠は、男の協力なくして出来ません。
そして子供が生まれてからも、育てて教育していく中には父母両者の愛情、父母両者の労力を合せる必要があるんです。

なのに昔からそこについて「父性」ってものがあまりにいい加減に扱われてきてると思います。
だから女にだけ重荷となる母性を課して、「育児は女だけの任務」と誤解されてきてるんだと思います。

本当はこの事もまた、男女に共通した「人間的活動」の話です。

もちろん、実際の育児の手間だけを考えて「男性には軽く、女性には重大な任務である」と決めるのもよくないです。
人の親になることは、父母両者に取って共に重大な任務でしょう。
だから育児を母性任せにして「女らしさ」の主要条件とするのはおかしいんです。

人がたとえ男女で父と母に分れたとしても、親としての精神は男女同一で、「親をやる」ってことは男女どちらにとっても人間性の現れるところですから「女らしさ」という言葉を使って「女に特定した話題」みたいに扱うのは変だと思います。

だから親業について語るなら、そもそも「女らしさ」なんて言葉を出さずに

男女両者を統一した「人間性の表現」もしくは「人間的活動」という言葉を持って表すべきだと私は思います。

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 親になりたい欲求は「女性解放運動」では削がれない。

 

さて、そこを踏まえた上で古石頭の言う「『女子解放運動』が、女性の母性を失わせる。」という理屈について反論してみると、私はその意見が全く根拠のない、ただの思い過ごしだと断言します。


なぜなら、女性の活動を自由にすることは、女性が古来からの奴隷的位地から抜け出し、独立した一個の人格として、あらゆる「人間的活動」を完成しようとする自己改革の動きだと思うからです。

つまり、人間的活動の結果、女性は生殖に対しても回避するどころか逆に愛と聡明と勇気とに満ちた、より完全な母となることを熱望するようになるものだと私は思います。
古石頭は「母性を失う」というような言葉をやたら使うけど、「親となること」の欲求は、昔から人間の内部に備っている最も強烈な本能の一つでもあって、つまり人間性の内容として重要な位地を占めているはずです。
だから教育が進歩すれば、それはますます「動物的な親性」から「人間的な親性」へと進化して行く気がします。
昔に比べて現代の父母が、どれほど子に対する愛情が深まっているかは、皆さんもご存知でしょう。

だから私は女性が自由になるための活動をしても「そのことで母性がなくなる」なんて理屈は、実に的外れだと思います。

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結婚、出産しない男女が増えたのは、「別の社会問題」のせい

 

さて母性について書いてきましたが、ここで私はさらに声を大にして言いたいことがあります。

それは「人間は必ずしも人の親になると定まっていない」ということです。

既に言ったように、人間には親となることへの熱烈な本能があるはずだから、高度の教育によって人間性を精錬された男女は、最も理想的な父母になりたいという意欲も沸いてくるものだと思います。

でもたとえ大多数の男女がその本能に従って親になるとしても、今の時代、世間にはいろいろの事情で結婚をしなかったり、結婚をしても子供を生まない男女だってあります。

その理由は恐らく「社会経済の不公平さから」だと思います。

不公平な社会の中で、資本階級によって搾取されてしまった無産階級の生活は、子供を育てるどころか、結婚をするのも難しい場合があります。
現に結婚が難しい人は年々増えていて、多数の男性が自分一人の生活さえいっぱいいっぱいで、とてもじゃないけど妻子を養う経済的余裕が無く、やむをえず結婚をしないでいる人もいるんです。


だから「女子解放運動が母性を失わせる」っていう批難は、本当の社会問題である「経済の不公平」に気付かせない為に話をすりかえをしているだけなんじゃないかと私は思います。

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 そもそも皆が自由に生きていい。


さて、そんなわけで経済的な理由で結婚や出産を諦める男女が多いのは確かですが、私が思うに、もし仮に経済的に問題のない新しい社会になったとしても、「人間は必ずしも結婚して親とならねばならない」なんて事はないと思います。

この先、もっと皆が好きに「人間的活動」に励むようになって、それに参加する自由と機会が万人に与えられる社会になったら、女も適材適所で生きる方が絶対良いですよね。
特に私の期待している新社会では、恋愛が結婚へのステップになるだろうから、恋愛対象をうまく見つけない限り、結婚から遠ざかる男女が出てくるのは当然のことだと思いますし。
(でも男女交際がもっと自由な新社会では、恋愛対象を慎重に自分で選択できるから、恋愛や結婚から遠ざかる男女は極めて少なくなるんじゃないかと想像します。) 

 あと、社会には昔から何らかの活動に専念して、わざと家庭を持たない男女もいますが、そういう人達も個人の自由意志に任すべきだと思います。

周囲がそういう人たちに無理に「結婚しろ」だの「子供を作れ」だのと強要することはもう辞めてほしいです。
その人たちは、家庭の楽しみ以上に、自分の好きなことをして生きていきたいと思っているんだし、自由にさせてあげることこそ、その人たちの人間性が完全に表現されるんだから周囲がむやみに邪魔しちゃいけないですよ。
私達の社会は、世界中のそういう人たちの貢献や功績があってこそ文化の飛躍をしてきたんだから、世界人類の中にそういう人たちが存在することは、非難するどころか逆にありがたく受け止め、肯定するべきことだと思います。

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まとめ
以上は本当に私の勝手な考察だけど、こうして詰めて考えることによって私は、古石頭の言う「女らしさ」というものが特に女性の上に存在しないものってことを改めて知ることが出来ました。
「女らしさ」というものは、要するに私に言わせれば「人間性」の一部に過ぎません。

「女性を男性と差別し、女だけの生活の原理のように決めつけて、それが備わっていることが女性の最高の価値だ」なんていう戯事は、全くの幻想だと分かりました。
私は、私達が「女らしさ」という言葉から解放されることは「女が機械性から人間性に目覚めること」だと思います。

それはつまり、「人形から人間に帰ること」を意味します。
もしこのことを古石頭が「女性の中性化」と呼ぶなら、私達はむしろそれを名誉に受けとめようじゃありませんか。
「女らしくない」という一語は、昔から、どれだけ女性の活動を圧制して来たか分かりません。
習慣というものは根強いもので、今でも「女らしくない」と言われると、一部の女性はヘビでも投げつけられたように恐縮してしまいます。
でも現代の女性の大多数は、もはや「女らしくない」という言葉なんて恐れない存在です。
それは、もっと恐ろしい言葉に通じることを彼女達が直感しているからかもしれません。

もっと恐ろしい言葉とは「人間らしくない」という言葉です。

「人間らしくない」とは、人間性の破滅を意味します。

私はそれが何よりも現代人にとって、恐ろしい結果であると思わずにはいられないのです。

おわり。
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いかがだったでしょうか。

時代を隔てているせいか、考え方の違いのせいか、与謝野さんのお話の中にはいくつか私の考えとは異なる部分もあります。

(「親になる欲求は人間に備わってるから、女性は完璧な母親になりたがるもの」とか「自由恋愛の時代になったら結婚したがらない男女は少ないはず」とか)

でも全体的な「自由を求める為の主張」は同感できますし、「人々が生殖を避けるようになったとしたら、それは女のせいじゃなく社会の仕組みが悪い」って部分なんて、現代を見透かされてるようで先見の明を感じます。

そしてなにより特筆すべきは与謝野さんの頭の柔らかさ!
特に「出産育児話は女限定の話題じゃないでしょ」とか「本人の好きなことやって生きていきたい人には、無理に結婚を押し付けなくたっていい」という考え方なんて、現代ですら出来ない人もいますもん。
固定観念がガチガチに固まってて、女性が「女の幸せは結婚」とか「結婚したらさっさと子供産まないと!」と言われるのが常の時代に、ちゃんとそれを「うぜぇ」と思う感覚があるのがすごいです。

そして、思うだけでなくそれを発信してたんですから、本当に頭が柔らかいのに心は強くて、まさにハイブリットな人です。

与謝野晶子・ハイブリット・晶子と呼びたい!

 

もし与謝野さんやその後の誰もが「女子解放運動」を起こさなければ、現代の私達の暮らしはもっと窮屈だったと思うので、ずっとこういう声をあげてきた方々に私は感謝してもしきれません。
ありがとう与謝野さん。


と言っても昨年の日本の男女平等ランキングは144国中114位で、まだまだ下から数えたほうが早く、先進国の中ではダントツ最下位です。(与謝野パイセンに会わせる顔がないですね…)

女性に対する性犯罪の被害も後を絶ちません。

さらに世界に、未だ家畜のように娘の婚姻をやりとりする常識だったり、誘拐婚のように女性の人権が全く無視された婚姻方法が残る国もある、ということにも私は胸が傷みます。

 

国際女性デーは昨日で108回を迎えました。

くしくも煩悩の数だけ年月を重ねた今、一人でも多くの方が、我が国や世界で不遇な状況に耐えている女性の身になって未来を考えることが出来ればいいなと思い、今日はこのような話を書きました。

 

与謝野晶子の原文ファンの方、勝手にすみません。

長々とお読み下さった方、ありがとうございます。


ではまた

 

 

宇宙猫ちぃちゃんの思い出

 

 

 

まずはこの写真をご覧頂きたい。f:id:ninicosachico:20180226120555j:image

これは私が中学生の頃に我が家で飼っていた猫の「ちぃちゃん」だ。

この、一見なんの変哲も無い猫が、まさかあんなことになるとは、当時家族の誰も予想していなかった…。

 

冒頭、アンビリーバボーのナレーション風に書いてみたけど疲れるので普通に戻しますね。

あと、一見なんの変哲もないとか書きましたけど、ちぃちゃんて、この通り高貴で優雅でビューティホーじゃないですか。

なんの変哲もなくないんですよ。

ノルウエージャンフォレストキャットかメインクーンかという見た目なんですけど、それらの長毛大型猫が流行ってきたのってここ数年だから、1994年当時はかなり珍しい見た目だったと思うんです。

このようにスペシャルプリティーだし。

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夏毛なので一回り小さいちぃちゃんいつ見ても可愛い…!

で、この今日はこのちぃちゃんについて書きます。

ちぃちゃんは、我が家では宇宙人だったことになっています。

今でも家族が集まったりした時には家族の間で「三郎は甘ったれだったねー、クロちゃんは犬みたいに投げた玉をくわえてきたよねー」と昔うちで飼ってた猫達の話が出るのですが、

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三郎とクロは放っておくと勝手にシンクロやってる。

ちぃちゃんについては「ちぃちゃんは不思議だったね」「ちぃちゃんは宇宙人だったんだよね」と普通に話してます。

ちぃちゃんのどのあたりが不思議だったのかというと、まずちぃちゃんはおそらく人語を理解していました。

そのことがわかるエピソードとして、ちぃちゃんが我が家に来た経緯を書きましょう。

ちぃちゃんはもともと近所の平田さん(仮名)が飼っていた猫でした。

母が平田さん家に行く度に「平田さんち、えらい可愛い猫飼ってんだぜ」と言っていたので、私達はちぃちゃんの存在は知っていたのですがちぃちゃんは外歩きをしない猫らしく、母以外の我が家の人間はちぃちゃんの姿を見たことはありませんでした。

そんなある日、学校から家に帰るとこのスペシャルプリティーなちぃちゃんが我が家に居ました。

我が家には先住猫のカナちゃんというオス猫が居て、カナちゃんはそのあたり一帯のボスネコで、強面で迫力がある猫だったのですが、

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眼光鋭いカナちゃん

ちぃちゃんは初日からカナちゃんにビクともせずこのカナちゃんお気に入りの椅に陣取り、くぅくぅと寝て居ました。

 

私が母に「この子は…?」と聞くと、母は平然と「平田さんがくれたの」と言います。

話を聞くと、平田さん家はお父さんが国外線のパイロットで、先日どこかの外国に行った際に捨て猫を見つけて連れて帰ってきたそうです。

平田さん家には既にちぃちゃんが居たので、平田さんは二匹が仲良くやってくれることを願って新しい猫を迎え入れたそうなのですが、残念ながら二匹の相性は悪かったそうです。

それで平田さんちがそういう状態になって数日後、おしゃべりをしに平田さんちに行ったうちの母はその話を聞いて前々から可愛いと思ってたちぃちゃんのことを「そんならウチにくれない?」と聞きました。

すると平田さん夫婦も「貰ってくれるの?」と喜んでちぃちゃんをくれたそうです。

私は「猫ってそんな簡単に家が変わって平気なんかな?」と思いました。

仔猫ならまだしもちぃちゃんは既に3歳くらいの成猫だったので、うちで飼ったとしても歩いて1.2分の近所の平田さんの家にすぐ帰ってしまうんじゃないかと思ったのです。

それで、母にその心配を言い「大丈夫かな?」と聞くと、母は「どれ、そんなら話してみようか」と言い、2人でちぃちゃんを起こして、母が話しました。

「あんたは今日、平田さん家からウチの子になったんだよ。今日からこの家があんたの家だから平田さん家に帰っちゃダメだよ。散歩には行ってもいいけど、夜はウチに帰ってくるんだよ。」

ちぃちゃんは「さよけ」みたいな顔でコクリと頷きました。

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眠そうな時のちぃちゃん

 

すると、不思議なことにちぃちゃんはその日から本当にすんなりと我が家に居着きました。

散歩はあまり好きじゃないらしく、1日1回朝だけは「出して」とせがむので戸を開けてあげるとピャーっと出て行くのですが、5分もすると帰ってきて後は1日家の中に居るようになりました。

さらに、ちぃちゃんは平田さん家では「ユキ」という名前だったのですが、これがたまたま私の姉と同じ名前だったので、数日生活してみるとわりと紛らわしく、うちで飼うからには別の名前にしなきゃということになりました。

そして母が2秒で「ちぃちゃん」と名付け、また寝ているちぃちゃんを起こして「あんたは今日からユキちゃんじゃなくて、ちぃちゃんになったからね。」と言うと、ちぃちゃんは「さいですか」という顔でコクリと頷きました。

そしてまたも不思議な事に、ちぃちゃんはそれ以来「ユキ」と呼んでも無反応で、「ちぃちゃん」と呼んだ時にだけ反応するようになったのです。

猫って、呼ぶとニャーと鳴いて返事をすることもあるけど、寝てる時とか面倒な時は尻尾だけチョチョっと振って返事するじゃないですか。

名前を呼んでも猫が拗ねてる時なんかは本人(本猫か)がそっぽを向いて返事を拒否してるのに、しっぽだけはどうしてもチョチョっと動くから、私はあの反応に嘘はないと思うんですが、本当にその改名前の数日間のちぃちゃんは「ユキちゃん」と呼ぶと、その反応をしてたのに、改名してからは全く反応しなくなったんですよ。

だから私はちぃちゃんが母の説明でちゃんと分かってくれたように思います。

なので、私はちぃちゃんが人語を理解してるような気がするのです。

そんなちぃちゃんがなぜ今だに我が家で宇宙人呼ばわりされているのかというと、それはちぃちゃんの最期があまりにも宇宙人的だったからです。

ちぃちゃんが我が家に来てから3年ほど経った頃でした。

ちぃちゃんは基本大人しく、散歩も先ほど書いたように1日1回数分で済むような非活動的なネコだったのですが、ある晩私達きょうだいが居間でテレビを観ていた時でした。

テレビでは「UFO特番」がやっていました。

私は小学生の頃からUFO話がすごく怖かったのですが、中学生になってからは少し平気になってきて、兄姉と夜更かしする楽しさも覚え出し、その夜はみんなで楽しくテレビを見ていたのです。

やがて、根っから明るい我が家のきょうだいノリで、兄が誰か1人に「お前は…宇宙人だーー!!」と言うと、言われた人が「ワレワレハウチュウジンダ」と言う、今となっては何が楽しいんだか分からない遊びをしだして、きょうだい4人でキャッキャと遊びだしました。

一通りきょうだいが宇宙人役を演じた後、部屋の隅のほうでくぅくぅと寝ていたちぃちゃんの側に兄が近寄り、寝ているちぃちゃん

「お前は…宇宙人だー!」と言いました。

私達きょうだいは遊びハイになってましたから、その様子にケラケラと笑ったのですが、言われて飛び起きたちぃちゃんは一瞬ハッとした顔をしました。

そして、寝床からピョンと飛び降りると、スタスタとガラス戸の方へ歩き、ニャーニャーと鳴き始めたのです。

はじめは私達も「ホラ、ちぃちゃんビックリしちゃったよー可哀想じゃーん」と兄に言ったりしてたのですが、ちぃちゃんは鳴き止まず、段々尋常じゃない鳴き方になってきました。

その鳴き方に私達も

「ちぃちゃんすごい出たがってるよ…」「出してあげようか」

となり、雨戸を開けてあげました。

するとちぃちゃんは雨戸の隙間からスルリと戸を抜けて庭に出て、庭の真ん中あたりまで歩くと一度立ち止まりこちらを向いて座りました。

そして、戸から覗く私達きょうだいに向かって深々と頭を下げたのです。

この時の光景を私はなぜか今も鮮明に覚えてます。

それは本当に人間的なお辞儀で、深々と頭を下げていて、私は猫がこんな風に人間的なお辞儀をする姿を後にも先にも観たことがありません。

朝しか家から出たがらないちぃちゃんが夜に家を出ようとしたことは不自然でしたが、気まぐれな猫のこと、5分もすればいつも通り帰ってくると私達は思っていましたが、ちぃちゃんはその夜帰りませんでした。

そして、翌日もその翌日もちぃちゃんは帰らず、とうとうちぃちゃんはそのまま失踪してしまいました。

 

 母や私達は、しばらくは兄をめちゃめちゃに責めましたが、あの時の「お前は宇宙人だー!」くらいの声の大きさで猫をかまうことはそれ以前にもあったことだったので、大声が怖くなってちぃちゃんが怯えて出て行ったと考えるのは不自然だと私達も思っていました。

だから後からみんなでちぃちゃんが出て行った理由を考えている時に誰かが言った

「ちぃちゃん、本当に宇宙人だったのかも」

という台詞にみんなが同意しました。

おりしもその頃「宇宙人は人間に姿を変えて実はすでにこの世に潜伏していて、人間の生活を観察している。」という説を雑誌ムーかなんかで読んだこともあり、私は「人間に姿を変えられるなら猫にも姿を変えられるんだろう」と思い、ちぃちゃんもそういう潜伏員だったんだと思うようになりました。

ちぃちゃんは宇宙人で、正体がバレかけたから宇宙に帰ったのだということです。

荒唐無稽な話ですが、我が家ではこれは普通の話として今もたまに話します。

 

最後に、私が今回皆様にお伝えしたいことはただ一つ。

皆様、おたくの猫ちゃんが多少不自然な言動をとる猫ちゃんだとしても、どうか気づかないフリをしてください。

ちゃんがたとえ宇宙人だとしても、可愛い姿でそばにいてくれりゃいいじゃないですか。

けして、宇宙人だという事実を猫ちゃんに、突きつけてはなりませぬ。

皆様のうちの可愛い猫ちゃんが、ちぃちゃんのように出て行ってしまわないようにくれぐれも注意してください。

 

最後にちぃちゃんギャラリーを。

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ベランダが好きだったちぃちゃん今思えば宇宙船との通信に都合がよかったのかもしれません。

 

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仏壇の上で寝る不謹慎なちぃちゃん

 

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隣の家のベランダから降りられなくなって助けを求めるちぃちゃん。どうやって登ったのかは謎。

 

おまけ

うちの猫の特性かと思いきや、エサ場の水を飲まない猫ちゃんが世の中には沢山いるらしく、爆RTされてたツイート。

 

 

今週のお題「ねこ」

 

 

 

バレンタインにチョコを持って帰ってくる夫

 

昨日、夫が帰ってくるなり「はいこれ」と言ってこんな箱を渡してきました。

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モアナ…?モアナいつのまにこんな大きくなったの…?と思いつつ開けると

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チョコ系のお菓子でした。

バレンタインが近いのは把握してたけど昨日が当日だという意識がすっかり抜け落ちてた私は夫に「これは、バレンタイン的な…?」と聞きました。

すると夫は「んー、知んない。◯◯がくれた。お土産じゃないの?」と言って特に気にしてないご様子。

◯◯というのは、たまに話に出てくる職場の後輩男性で、彼がハワイに行ったという話は特に無いままハワイ土産らしきチョコ菓子を渡された私は、自分が嫉妬深い系の妻なら「そんな事言って本当は女子に貰ったんでしょ!」とヒステリックブルーな台詞の一つでも吐いたかもしれないけど、私はそんな性格でもないし、これはどう見てもバレンタイン向きの商品ではなく本物のハワイ土産っぽいので素直に「やったぁチョコだ!◯◯君ありがとう」と思いました。

夕食の後、夫はいらないと言うので1人でチョコを食べながら、私は「夫が職場で貰ったお菓子をこうしてちゃんと持って帰ってくること」にしみじみ感謝をしていました。

というか、前はそんな事にわざわざ感謝をしていなかったのだけど、ある時から私は感謝をするようになって、その「ある時」の事を思い出していたのです。

それは5.6年前のこと。

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Aくんは甘いものが苦手だったので、いつも通り断っていました。

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こんな感じで結構しつこく勧められたのにAくんが頑なに断るので、結局皆は諦めて勧めるのを辞めました。

私はこんな光景をそれまでも何度か見ていて、特に気にしていなかったけど、この時は「そういえばなんでAくんはこんなに断るんだろう」と思い、Aくんに「いつも絶対お菓子断るよね?なんで?」と聞いてみたんですね。

すると

Aくん「んー面倒くさいんです。」

私「何が?」

Aくん「いや、皆はこの場で食べるからいいだろうけど、自分は食べないから捨てることになるでしょ。その捨てるのがいちいち面倒くさい。」

私「妻にあげれば?A妻甘いの好きじゃん。」

Aくん「いや、面倒くさいっす(笑)正直、あれを今貰ってロッカーに入れに行くのがまず面倒くさい。仮に帰りにカバンに入れられたとしても、帰ってカバンから出してヨメに渡すのが面倒くさい。『これどうしたの?』『職場で貰った』みたいな会話をヨメとすんのが面倒くさい。」

私「喧嘩中?」

Aくん「いや、違いますけど。え、分かりません?そういうの面倒くさくないっすか?」

私は正直「え、ごめん全然分かんない。」と思ったけど、それは言わず要約して

「ようはAくんは、妻が喜ぶと分かってても、自分の面倒くささが勝るからいつも持って帰らないってこと?」

と聞きました。

するとAくんは「いや(笑)そんなこれについて深く考えたこと無いですけど…」

と言いつつしばし上の方を見て、

「言われてみれば、そういう事っすね。」

と言うではありませんか。

自分達以外の夫婦が普段どういう会話をしてるか分からないし、家族にどの程度の会話を「面倒だからいいや」と切り捨てるかなんて、まったく個人の自由なので、Aくんが変人だとか嫌な奴とまでは言わないけど、私はなんだかAくんの妻がちょっと不憫に思えてしまいました。

いや、A妻は、Aくんがお菓子を断ってる事自体を知らないので可哀想もクソも無いんですけど、でも「妻が喜ぶかも」と「自分が面倒くさい」の気持ちの天秤を、いつも迷わず後者に傾ける人が夫だなんて、私は「ちょっと可哀想」と思わずにいられなかったです。

それで、自分の夫を振り返ってみると、夫はしばしば職場からお菓子を持って帰ってきてたんですね。

それはコアラのマーチ1袋だったり、八つ橋2切れだったり、些細なものだけど、帰ってきた夫がそそくさとカバンから出して「はいこれ」と渡してくることは結婚してからずっと当たり前のことでした。

私はいつもそのことをなんの気にもとめてなかったけど、Aくんのコレを聞いてから、夫に感謝するようになりました。

Aくんと同様に甘いものがそこまで好きじゃない夫が、それらをいちいち持って帰ってくるのは一応それを持ち帰って私に渡せば私がそれなりに毎回「わぁい!」と喜ぶから夫はそうしてくれてるのかもしれないと思ったから。

まぁ、単純に言って夫のほうがAくんより優しいよな、と私は思います。

でも、何を「優しさ」だと思うかは人それぞれなので、仮に「AくんがA妻の喜びより自分が面倒くさくないことを優先する」という事実を知ってもA妻は「それがなにか?」と思う人かもしれないし、Aくんは別のことでAくんなりの優しさを妻に発揮しているんだろうし、それがA妻に取って心地よいならお菓子を持って帰らなかろうが、A夫婦は1組の円満な夫婦なんだと思います。

でも、私は夫が職場から持ち帰ったお菓子を渡される度「ああ、夫は職場で『これニニちゃんに持って帰ったら喜ぶぞ』と思って持って帰って来てくれたんだな」と感じ、そのつど「優しい人だなぁ」と思い、夫婦でいる幸せみたいなものを改めて実感するので、こういう優しさが出せる人と結婚できて良かったなと思う。

 で、ここで話が終わるとただの夫自慢なんだけど、その後私には「上には上がいる…!」と思うことがあったんですよ!

それは、Aくんの居た職場を辞めて、また別の職場で働いていた時のこと。

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主任、超優しくないすか!?

これ私も以前、夫に言ったことあったけどさすがに断られましたもん。

夫がヨックモックかなんかの詰め合わせを一缶まるごと貰って来た時、嬉しいけどその頃ちょっと私は太り気味だったので「嬉しさ半分困るよ半分」な状況で。

何日かに分けて食べたいけどあると食べたくなってしまうので、「あると食べ過ぎちゃうから昼間私が家に居る間、どっか持ってって欲しい!」と夫に言ったら「そこは自制してよ!大人でしょ!」と言われてしまいました。

生八ツ橋をティッシュでくるんで持って帰ってくるほど優しい私の夫がやらないレベルのことを主任はやってたので、まじ仏かよ、と思いましたね。

私は普段けっこう人から「ひどい夫話」を聞くことが多いので、こういう「いい夫話」に触れると本当に心洗われますし、甘いものを食べた時みたいなじんわりした幸福感が味わえます。

そんなわけで、この記事はそういう気分のおすそ分け的なやつです。

モアナっぽいチョコ菓子を食べ過ぎながら書きました。

ちなみに生八つ橋はティッシュでくるむと再起不能なので真似しないでください。

 

以上です。

 

【追記】私、モアナ、モアナ書いてましたが、間違えてました。どうやら私が脳内で漠然とモアナと思っていた絵はリロアンドスティッチのリロでした。モアナはすでに大きかった。

 

 

 

客商売の店員の名札に書く名前って、偽名でよくないか?

 

皆様こんにちは。

今日は私、コンビニバイトを辞めてだいぶ経つんですけど、今だに当時を思い出すとモヤる話があるんで書きます。

ある日私が出勤すると、オーナーの奥さん(以前もこのブログに書いたことのある、例の一癖ある「おばちゃん」)にこんな事を言われました。

「そういえば昨日、いつもよく来る男のお客さんが『桜島さんの電話番号教えて』って言ってきたのよ〜。私ちょっと悩んだんだけど、言わないでおいたからね~。」

 おばちゃんは肉まんを補充しながら片手間に、まったく普通のトーンで、まるで「今日から、コロッケ50円引きセールだから多めに揚げていいからね~」のトーンで私にそう告げました。

これに対し私は2つの意味で「は!?」となった。

1つ目の「は!?」はもちろんその男性客に対して。

確かに仕事中の私は愛想が良いので、常連さんと仲良くなることはこれまでもあったし、連絡先を貰うことも1.2回はありました。

でも「自分の連絡先を差し出す」のと「人の連絡先を聞く」って、後者のほうが圧倒的に迷惑度高いじゃないですか。

だから、その男性が私の不在時に他の店員づてに自分の連絡先のメモなり名刺なりを渡していったってのなら、ビックリするけどまだ理解できるんですよ。

なのに、そうじゃなくて桜島さんが居ない」→「じゃあ他の人から連絡先聞こうっと。」と思ったその人って…

は!?なにその矢印!?なにその思考回路!?聞き出せると思ったの!?どういう常識?理解できない、こええよ!!!

と思ってしまいました。

2つ目の「は!?」はおばちゃんの「ちょっと悩んだ」という部分への「は!?」です。

私の常識だと、「本人の許可を取らずに電話番号を第三者に教える」ということはまずありえないことです。

だから「教えない?or教える?」なんて選択肢は「10対0」で「教えない」に決まってます。天秤にかけるまでもなく悩まずに「教えない」の1択しかないってことです。

でもおばちゃんは「ちょっと悩んだ」と言いました。

それって一瞬でも「教えるor教えない」の天秤がおばちゃんの中に生まれたってことを意味してますよね。

だから、え?なんで悩む余地あんの?教えないの一択じゃないの?どういう常識でそこに1ミリでも「教える」の可能性感じてんの?みたいな「?」がもう生まれまくりですよ。

 で、男性客にもおばちゃんにも「は?なんだそりゃ!?」となった私だったのですが、とりあえず男性客は目の前に居ないから、まずはおばちゃんに聞いてみたんです。

「なんで『ちょっと悩んだ』んですか?言わないのが当然ですよね?」と。

するとおばちゃんはいつも通り「アラ私あんまり何も考えてなかったわ」的なニュアンスで「あはは、そういえばそうだったね~^^」と笑ってごまかして行ってしまいました。

ようするにおばちゃんはあんまり何も考えていなかったらしい。

 

お世話になった人にこんな言い方するのは本当に忍びないけれど、このおばちゃんは本当にいつもこういう「基本なんも考えてないのでは…?」となる言動が多かった。

その為、この頃の私は、おばちゃんとまともに話したらこっちが疲れるから色々腑に落ちなくても諦めることにしてました。

だからもう追及はしなかったのですが、この時のコレは本当に解せなかったです。

でも私はこういうのを後からぐじぐじと考える性格なもんで、バイトしながら色々考えてたら不安要素がいくつも思い浮かんでくるわけですよ。

「おばちゃんはもし私が独身だったら教えてたのでは?」とか。

「下の名前くらいだったら教えてたのでは?」とか。

「いや、おばちゃんじゃなくても高校生のバイトちゃんですら、大人の男性客に強く聞かれたら断れずに下の名前くらいは教えてしまうんじゃ?」とか。

 

つまり、今回はセーフだったけど、状況が違ったら個人情報が簡単に漏らされる可能性があるわけで「そのセーフさが『運』に左右されてる感じ」がすごい危なっかしくて怖い、と思いました。

 何年か前、コンビニの女性店員がバイト帰りに男に刺殺された事件がありましたよね。あれ、私の生活圏内のコンビニだったこともあって、当時だいぶショッキングでした。

あの事件についての報道の中には「男は知人に『近所のコンビニにかわいい店員がいる。』と話していた」という話もあったので、そういうのを聞くと、自分も含めて客商売の店員の置かれている状況に、危なっかしさを感じました。

しかも、そんなことを考えながら思い返してみると、そういえばコンビニで働き始める時にそういう(従業員の個人情報を勝手に口外してはいけない。)注意って一切なかったな、と思い出しました。

初期の研修期間に少しだけ、仕事内容とは別の「心得」みたいなのを教育される時間はあったんですが、その中には「従業員以外の人を事務所に入れてはいけない。」とか「仕事中に私用の買い物をしない。」みたいな、ごく基本的な注意点だけでした。

「従業員の個人情報を勝手に口外してはいけない。」ってのは無かった気がします。

よそのコンビニではそういう教育もちゃんとしてるのかもしれませんが、私の働いてたところはそういう教育が無かったし、私がこれまで働いてきた職場は10数か所あるのですが、その中で「他の従業員の個人情報をもらさないこと」とあえて、初めに注意された職場は1つしかありませんでした。

もちろんそんな事って、本当はわざわざ職場が従業員に教えるまでもなく、働けるような年齢に達しているなら「人として踏まえているべき常識」だとは思うんです。

だからコンビニの上層部もマニュアルに載せてない項目なのだと思いますが、でも、こうやっておばちゃんみたいな危なっかしい人を職場で目の当たりにすると「職場として各従業員にあえてちゃんと釘を指すべきなのでは?」って気もします。

自分で言っておきながら、そんな事をわざわざ教えなきゃならないなんて、「人間同士の信用が薄れた社会」って感じがしてちょっと空しいなぁ、とも思います。

でも、今の時代ってフルネームが判明したらfacebookで色々探ることも出来ます。

SNSやってなくても、名前とか電話番号が漏れたら住所が分かる方法なんてすぐ見つかりそうな時代です。

だから、接客業という、不特定多数の他人と接する業種なら、初めにちょっとその点の注意をする必要があるんじゃないかと思います。

ファーストフード店とか居酒屋チェーンとかコンビニは「若い子が初めに社会経験を積む場」になりがちな職種なので、特に。

 

もちろん、全員が個人の判断で「それはやったらマズイこと」と分かるのが理想なんですが、学生時代にもいませんでした?

勝手に友達の番号を人に教えちゃって「彼氏の男友達に〇〇子のプリクラ見せたら超気に入ってたから番号教えちゃったからね~、〇〇子も彼氏欲しいって言ってたからいいよね~?」みたいな事後報告してくる危なっかしい子。

多分、そういう人ってどんな世代にも一定数居て、しかもそういう風に勝手に他人同士をカップリングするのが好きな人は、悪意ではなくて本当に「良かれと思って」くっつけたい人同士の個人情報(電話番号まではいかなくても「下の名前」や「年齢」程度なら特に)を流したりするんですよね。

もしそういう人が職場にいたらたまったもんじゃないよな、と思います。

 

 

あと、これも関連することなので書いておきますが、以前私はTwitterにこういう発言を載せました。

この時、私にしては珍しい数のリプライを頂いて、同じように思う方が多いようでした。

中にはご自身や同職場内の人のストーカー被害経験を書いてくださっているものもあったりして、やはり「名札で店員の本名バレ」「執着した客とトラブル」というのは実際にわりと起こりうるもんなんだなぁと実感しました。

ストーカー気質の人にしてみれば、「一つ分かったらもっと知りたい」みたいな心理も働くと思うので、「名字ですら本名を掲げるのは抵抗ある」って人は私以外にも居るんですね。

 

好意が元になるようなストーカー以外にも、店員はどうしても客に都合の悪い事を言わなきゃいけない場合があるのに、変な客が相手だと、「この店員ムカつくなー、名前は○○か、後で検索してやれ」ってなる可能性を考えると尻込みしてしまう、という事もありますよね。

だから、客商売の店員が名札に書くのは本名じゃなくて、源氏名(ビジネスネーム)にしちゃっていいんじゃないかと私は思います。

 

しかも、私はこんなふうに「名前ですらヤダ」って思うのに、世の中には店員・社員の個人情報を「晒させられる職場」って結構あるんですよ。

私が仲良くしてる着物屋さんは店員がマンツーマンというか、最初に応対した店員さんが担当になって、毎月イベントやセール情報の書いたチラシと手紙を送ってくるというシステムがあるんです。

私の担当は22.3歳の新卒のとても可愛らしい感じの女の子だったのですが、その子からその手紙が初めて来た時、びっくりしました。

だって、その子のプロフィールとして、名前と生年月日と血液型と趣味、さらには翌月のシフトまで載せてあって、「私はこの日に出勤です!(^^)!遊びに来てくださいね!」とか書いてあったんですよ。

その手紙は印刷物だったので、担当してる客みんなに送ってるそうなんですが、

「これ、怖くないのかよ?」と思いました。

後日、その子に個人的に「あれって、自主的にやってるの?」と聞いたら、

「あれ、お店のシステムなんですよぅ。入社して、このお店の配属になってすぐ、店長に『お客さんによく知ってもらう為に、いっぱいプロフィール書いてね』って言われて書かされたんです。私らは、毎月のコメント文を書いて店長に渡したら、店長がシフトとかレイアウトして印刷してるんです。」と言うので、「どひゃー」と思いました。

「嫌じゃないの?」と聞いたら「最初嫌だったけど、そういうものだって慣れちゃいました。」と言っていて、なんつうか、22.3歳なんて社会人としてヨチヨチの頃にこんなことに慣れさせるなんて、その会社が怖いと思いました。

もちろん、そういう風に情報を晒したい店員がするのは自由だけど、「会社に入ってみたらそれが慣例だったからやらされてる。」というのは、可哀想ですよね。

それで、その子が変な客に個人的につきまとわれたりしても会社は責任とってくれないだろうし。

もうちょっと、職場自体が自分のとこの社員の個人情報に対して「デリケートであれ!」と思います。

 

ちなみに、コンビニバイトのその日、私はおばちゃんへの態度がつい冷たくなっていたのだと思います。

それでおばちゃんもさすがにちょっと悪いと思ったのか、私が帰るときにおばちゃんは「ごめんね」と言ってきました。

それで私も「いや、今回のはもういいんですけど、連絡先聞かれたりしたら、悩む余地が無くダメなことだっていう認識は持ってください。」と言いました。

そしたらおばちゃん

「うんうん、桜島さん結婚してるんだから、当然教えちゃダメよねぇ」と言ってきて、

 

「わかってない…!!」と思いました。ぎゃふん。

 

独身でも彼氏募集中でも、ダメなんだよ!!!

 

 

まぁ、このおばちゃんは特殊な例だと思いますが、これを読んでる高校生とか若い子の中には、もしかしたら分かってない子がいるかもしれないので、改めて書いておきますね。

「人の個人情報は勝手に第三者に教えちゃだめですよー」

 

じゃ長くなりましたが、今日はこのへんで。

ではまた。

 

女装男が笑われる理由が分からないという話

 

私はこのブログを始めた当初「思いついたことを思いついた時に文章にして人に見せて心すっきりしたいなぁ」と思ってました。

でも実際は、思いついたことを頭の中で煮詰めに煮詰めて、もはや煮崩れてる?いや、腐ってる…?みたいな不安が漂うまで料理した末に「食べられるといいんですけど…」みたいな気持ちで公開するのが習慣になってしまって、当初の目標が全然達成できてないことに「とほほ」と思ってます。

というわけで、今年こそは思いついた事が半煮えだろうと、とりあえずは皿に乗せてしまえば料理だろう的な精神で、ブログを書いていこうと思います。

今年もよろしくお願いします。

 

さて、最近、昔に比べて「警視庁24時」的な番組がしょっちゅうやってる気がします。

しょっちゅうやってるので、いつの放送だったか忘れたけど、昨年やってた警視庁24時的な番組にムカついた場面がありました。

それは、下着泥棒が連発しているという地域を巡回するパトカーにカメラが同行してる時でした。

夜道を歩く、ミニスカートを履いた背の高い人物の後ろ姿が映し出されて、「深夜、パトロール中に怪しい人影を見つけた」というシブい声のナレーションが入りました。

警察官達がその人に職務質問をする段になると、画面右上には「深夜に怪しい人影…実は○○」というテロップが出て、顔にモザイクのかけられたミニスカートの人は、ややゴツい脚の形から察した通り、女装した中年男性でした。

ナレーションは、同番組で車から大麻が見つかった時の深刻なトーンとはちょっと違う、少し茶化した感じの声で「なんと女性の正体は、男!」と言い、警察官も「あれ、あんた男かい!?」と半笑いのような感じで言いました。

そして警察官はさっきまでの形式的な口調から急にくだけた口調になって「なんで夜中にこんな格好してるの?」「下着は女物なの?」とズケズケ聞いて、女装おじさんの持ち物検査が始まりました。

「この男、怪し過ぎる…」というナレーションが入って、持ち物検査の場面が進みましたが、結局、女装おじさんには何の非も無く、単に夜中に女装して歩くのが好きなだけのおじさんでした。

しかし、それが分かって解放されるくだりになっても警察官は「お父さん、そんな足出して寒くないのかい笑」「こんな格好してないで、もう帰りなさいよ」という、一応「心配する警察官」の体裁を取ってはいるものの、よく考えたらよけいなお世話だと言いたくなるようなことをおじさんに言い、闇夜に消えてゆく女装おじさんの後ろ姿と「まったく人騒がせな女装男であった」というナレーションでそのくだりは締めくくられていました。

これを観ていて私、ムカムカしました。

だって、結局女装おじさんは何も悪いことしてなくて、好きな格好して夜出歩くのが趣味なただの市民だったんですよ。

そこを職質されて、まぁそれが普通の警察官としての礼儀正しい職務質問だったらまだ許せるものの、警察官は軽く小馬鹿にしたような見下すような口の利き方になってたし、シロと分かった後もそれが続いてて、なんかそれがおじさんに対してとても失礼だと思いました。

テレビもテロップやナレーションで散々「怪しい」と煽っておいたんなら、最終的におじさんがシロなら「巡査の勘が外れた」と言うならまだしも、「人騒がせな女装男だ」と、まるでおじさんのせいみたいなナレーションで締めくくってて、私は「勝手に騒いだのはそっちだろうが、おじさんに謝れ」と思いました。

 ようするに私は「女装男の市民権が低く見積もられておる!」という事に、ムカついたんです。

警察官の口調には「女装なんかしてる中年男にまともな口を利くのが馬鹿らしい」というような意識が透けてたし、番組の編集にも「女装してる中年男」の存在を「悪人ではないけど、こういう変態の応対も警察官の仕事にあるんですよ〜」みたいな、箸休め的な役目に使ってる感じがして、私はそこで世の中から「普通の市民」として存在することを認められない女装男性の扱いに、ムカついたんです。

 なんで私は腹が立ったのかなぁと考えてみると、そもそも、私は昔から「男の人がスカートを履くと笑われる」という現象がいまいち理解出来ない子供でした。

中学校と高校の文化祭の出し物で、男子が女装してステージで踊るみたいな演目があったのですが、男子がその姿で登場した時、その日1番の大きな笑いと歓声が起こると、私は「えっ、ここ笑う所なの?」という感じがして「みんな何が面白いんだろう?」と本当に不思議でした。(今も不思議です。)

私は子供の時から「女の人はズボンを履いても笑われないのに、男の人がスカートを履くと笑われる。」という、非対称性にしっくり納得出来てなくて、いつもそういう場面で笑ってる同級生とかは、私が保育園や小学校を休んだ日に「男が女の格好をしたら変なんですよ。そういうのを見た時は笑いましょう。」という風に先生に教えられたりしたのでは?と思ってしまうくらい、なんでそこで揃いも揃ってみんなが女装男のことを「変」とみなしてるのか、本当に分からないんです。

だって、服装なんて個人の自由で、私も履いてるスカートを、男の人が履いたら「変なのー」と言う理屈が分からないんですもん。

「スカートを履いてること」が変なら、「スカートを履いてる私も変」ということになるんですもん。

どうも私には「男なら男にふさわしい格好、女なら女にふさわしい格好」という概念が無いらしく、「私は女だからスカート履いていいの、男はダメなの」という理屈に、性別で決められた特権を振りかざす匂いがして、「なんかヤダ」と思ってしまうんです。

世の中に同意見の人数が多いことが「普通」とされるなら、私の方が普通ではないのは分かってます。

でも最近テレビを観てると、綺麗な女装姿の男の子がよく見られます。

今、ドラマで月9の「海月姫」と、NHKの「女子的生活」を観てるんですが、たまたまこの2つの作品には女装男性が出てきます。

女装した瀬戸康史くんも志尊淳くんも、まぁ素晴らしく綺麗で、普通に私は「似合うなぁ」と思って観てて、Twitter観ててもそれは皆、同感らしくて、沢山の人が彼らの女装姿を褒めてます。

それで、私ははじめのうち、世の中に昔よりは女装に対して「笑う」以外の受け止め方が生まれてきたのかな、と少し嬉しくなりました。

でも、Twitterの中には「瀬戸康史の女装アリだな」という、その人の中での「アリ・ナシ」判定をクリアしたのだと分かる発言もよく見かけるようになってきて、「やはり、女装姿というのは『ナシだったら笑う』で『アリだったら笑わない』という判定を用いられてしまう対象なんだな」と思いました。

「アリだったら笑わないけど、ナシだったら笑いものにする」という判定は、昔から女の人の容姿には用いられてきたひどく失礼な判定です。

女装男性が出てくるドラマが増えてきて、私は世の中で女装はポピュラーなものになりつつあるというか、「女装=物珍しいもの、変態」といった見方が無くなってきた感がして、少し嬉しくなったものの、それは決して世の中に私みたいな「男の人が女の格好をして何が面白いのか?」という人が増えたわけではなく、単に「見た目が綺麗なら自由な言動が許せる」という、昔から女の人が世の中にされてきた判定が、女装男性にも適用されるようになってきただけのことなのかなと思いました。

だから「女装したおじさんは笑い者にされて、女装した綺麗な男子は笑われなくて済む」という現象に落ち着いてるだけで、世の中が決して「服装は個人の自由、性別ごとの服装縛り?バカらしー」という意見に変わってきたわけではないから、なんだ、やっぱり私とおんなじ気持ちの人ってあんまし居ないのかなーと、ちょっと寂しくもなりました。

別に、私は同意見の仲間が沢山欲しいわけではないけど、少なくとも、女装してる人がおじさんだっただけで、小馬鹿にする警察官とか、馬鹿にしたような編集をする番組が沢山あるのは、嫌だなと思います。

普段は普通に男の格好して働いて、夜は時々可愛いスカート履いて出歩いて、ウキウキした気分を味わって息抜きしたいおじさんは何も変じゃないし悪くないですもん。

まぁ、ようするに、性別というものがあやふやになってきてる今、あやふやでもそれぞれが苦労して出した「答え」に沿って生活してるなら、お互いに人数の多さや少なさで、威張ったり、萎縮したりするのは馬鹿らしい気がするんです。

服装というのは、その「答え」が見えやすいところだから、そこを理由にとやかく言ったり、バカにしたりするのは「人の生き方に口出しする他人」ていう、超ダサい存在なような気がして、ダサいことしないほうがいいんじゃないの?っていう感じです。

 

煮詰まってないただの感想なんですが、そういうのを出してくことにしたので今日はここで終わります。

ではまた。

 

 

なんでセクハラはなくならないのか。

 

このところ、セクハラ関連の話題をよく耳にしますね。

最近のセクハラ被害のニュースの多さや「#MeToo」の声の多さに、驚いたりショックを受けている人もいるかと思います。

このたび私はそういう驚きやショックはありませんでした。

というのも、以前に、自分の痴漢された経験をもとにした考えをここで書いた時、その反響で「私も…」という声をかなり多く頂いて、その時にすでに「私以外にもこんなに…」という驚きとショックを私は先に経験していたのでした。

だから最近#MeTooの声がたくさん上がってきても、多すぎるとも思わなくて「皆の堪忍袋の緒がとうとう切れたんだな」と思いました。

 私自信が痴漢や痴漢っぽいことや、セクハラやセクハラっぽいことをされていたピーク期はもう10年くらい前なので、自分の中ではふだんはそれほど意識しないで暮らしているのですが、普段は意識しなくなっても、経験が無くなるわけではないから、意識の奥の方では怒りとか理不尽さみたいなものがずっとくすぶっているような気がします。

そして、私がそういう目に遭わなくなっても、世の中にはやっぱりセクハラや性被害がいまだにあるという事に嫌気がさしてきますし、今日もどこかで誰かが過去の自分のように苦しんでいると思うと、私はとても悲しくなります。

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それにしても、私は謎です。

どうして何十年も前から女が「嫌だ嫌だやめてくれ」と訴えているのに、

世間常識的にも「セクハラは悪いこと」だと知れ渡っているのに、

セクハラ事件は起こり続けるんでしょうか。

※今回の文を書くに当たって、セクハラが「男→女」に限定した行為という書き方になってしまう事をお許しください。世の中には勿論女→男、男同士、女同士のセクハラ事件もあります。ですが、全部のケースを視野に入れた内容は私の文章力ではどうしても読みにくい文になってしまうので、一番多い男→女のケースに焦点を当てて書かせて頂きます。他のケースによる被害で苦しまれている方にとっては不快かもしれませんが、申し訳ありません。ご容赦ください。

 「なぜセクハラは無くならないんだろう?」

私はここにきてシンプルに疑問に思えてきました。

個人間で「なぜセクハラが起きたのか?」という話ではなくて、社会の中で「なんでセクハラがいつまでも無くならないのか?」という疑問です。

それについて考えていたら、私はまた一つ引っかかることが出てきました。

それは「一部の男がクズだという理由だけで、果たしてここまでセクハラという1つの悪習が、存続するものだろうか」ということです。

どういう意味かというと、

私はこれまで「セクハラは誰のせいで起きるんだろう?」と考える時に、漠然と「性欲の自制が効かないタイプのクズい男がいるからだ」と思っていたんです。

でも、よく考えてみたらそれだと私の中の辻褄が合わない、と気が付きました。

なぜなら、私は世の中の男性には、ちゃんと性欲の自制が効く人のほうが絶対多いと思うからです。(統計を取ってないのでただの持論だけど)

たしかに性欲の自制が効かないタイプの男は、発言力があったり目立つ言動をする傾向があって、彼らがよく「男代表」みたいな顔で「男は~」と語るから、世間ではつい彼らの方が多数派と認識されがちだけど、私は性欲の自制が効く男性の方が多数派だと思うし、そう信じてるんです。

だから「性欲の自制が効かないクズい男」は男性の中で一部のはずなのですが、どんな流行りも文化もそんな一部の人間のみが支持するだけではこんなに長続きしないとも思うんです。ここが辻褄が合わないところ。

そんなわけで私は「そんな一部の少数派の男の支持だけで、セクハラという1つの悪習が、ここまで長きにわたって存続するものなんだろうか?」という点が引っかかったのです。

************************************

そのあたりについてぼんやり考えてたら、私はある女性のことを思い出しました。
その女性は、当時私の働いていた介護施設の施設長で、いくつかの施設を運営している我が社の中では数少ない女性役職者の1人でした。

40代後半の仕事の出来る女性で、私は彼女の事を上司として尊敬していたし、人としても通じ合うものがあって、好きでした。

彼女の方も、なんとなくですが他のスタッフよりも私に目をかけてくれていたような気がします。彼女の事はCさんと呼びます。
ある時、私の職場施設の建物が新築されることになって、そのお披露目会のような宴席が設けられました。

会社のお偉方や、そのお偉方の招いた外部のお客様も来るような会でした。
私は同僚達と共にただヘラヘラと宴会の準備をしていたのですが、そこへCさんがやってきて、さりげない感じで私だけを端に呼んで言いました。

「今日、すごく偉い人とかがいっぱい来るから、桜島さんうまいことやってね。」

私は、ただ「雑用は任せるから」的な意味だと思い「はいはーい」と軽く返事をしたのですが、Cさんの言った「うまいことやる」というのは、どうも違うニュアンスも含んでたようなのです。

それが分かったのは会が始まってからでした。

私はCさんに命ぜられるまま、お偉方のいる席に行って酒を注いだり、話し相手をすることになり、そこまでは「まぁ仕事だ仕方ない」と思って笑顔でこなしていました。

でもお酒が進んだ頃、来賓のおじさんの一人がむんずと私の手を取って「細そっこいなぁー、折れちまうんでねぇか、ガハハ」と笑いました。

私は介護職なので、人肌に触れること自体はそんなに抵抗が無いほうなんですが、反射的に「こういうのはやだ」と思いました。

しかし、他のおじさんもそれに続いて遠慮なしに私の手を掴んで自分の手の平と合わせて、小さいだの細いだの言ったり、足はどうなってる?と私のズボンの裾を軽くめくって足首を掴んでまたガハハと笑ったりはしゃいでいます。

私は、もうこんな酔っぱらいおじさんの相手は仕事じゃないぞ、と思って席を離れるべく腰を浮かせつつも、一応気になってCさんの方を見ました。

するとCさんは私に向かって両手で「まぁまぁおさえておさえて」のジェスチャーをしていました。表情は「嫌だろうけど頑張って」的な、目と眉毛は困ったような、口元は微笑で。

「えーやだよー」という表情ジェスチャーをする私に「がんばれー」みたいな表情ジェスチャーをするCさん。

この時私は、Cさんが言っていた「うまいことやって」には「こういう場面におけるホステス的な役割を任せる」という意味が含まれていたのだと気が付いたのです。

結局、ほどなくしてトイレを言い訳に席を立った私がそのまま偉い人のテーブルに戻らずにいると、Cさんが代わりにその席に座って偉い人のお相手を引き継いだ形になりました。

私は会が終わるまで、Cさんに対して「私にそんな役目を任せやがって」という恨みがましい気持ちが半分と、逆に「Cさんに言われたことを遂行出来ずに悪かったな」という気持ちが半分の複雑な気持ちでいました。

もしそれまでの関係でCさんのことを好きじゃなかったら、後者の気持ちは生まれていなかったと思いますが、Cさんのことを好きだったのでそうも思ったのです。

それで、会が終わって後片づけをしている時に、後者の気持ちをフォローするようなつもりで、私は「うまくやれなくってなんかすいません」みたいにCさんに謝りました。

するとCさんはこう言いました。

「いいよー。でもこういうチャンスはあんまりないからさ、もったいなかったよ。せっかく上に気に入られるチャンスだったのに。」

 若かった私は正直この時、Cさんが何を「もったいない」と残念がっているのか、ピンと来ませんでした。

それに、普段私に目をかけてくれて、何かと親切にしてくれていたCさんが、この時ばかりはこうした嫌な役目を私だけに押し付けた事が、謎でした。

でも「もう済んだことだしいいや」と思ってこの時は思考停止して、今日まで深く考えずにきました。

しかし今こうしてこの出来事を思い出してよく考えてみると、その謎の答えが分かるような気がします。

私がCさんのお気に入りだったことや、Cさんの「もったいなかった」という台詞から察するに、彼女がまるで遣り手婆のようにお偉いさんの男達の中に私を放り込んだのは、けして「嫌な役目だから桜島さんにやらせよう」という悪意からではなかったのです。

悪意どころかむしろその逆で「せっかく、お偉方に売り込めるチャンスだから桜島さんが彼らに気に入られるように御膳立てしよう。」という、上司として、働く女性の先輩としての親切心から、私にその役目を命じたんじゃないかと思います。

でも私は、仕事上の権力者男性にホステスのような「女」としての役割を求められるのは嫌でした。

ですから、結果的にはCさんの「親切」は私にとって「ありがた迷惑」だったのですが、Cさんから発せられた時点でのそれは「親切」であったと私は思うのです。

ではなぜ、一つのことが、Cさんには「親切」で、私には「迷惑」というように、真逆の意味を持つ結果になってしまったのかというと、おそらくCさんと私では「仕事をする上での『女』という性別の置き所」みたいなものが根本的に違うからじゃないかと思います。

どういうことかと言うと、Cさんの「チャンスだったのにもったいなかった」という言葉は、Cさんが「女を使うことで権力者の男性に気に入られる術は、女にしかできない裏ワザなのだから、そのチャンスがあるなら活かさなきゃもったいない。」という考えがある人だからこそ出た台詞だと思うのです。

つまり「仕事上の権力者男性に、時として『女』の役割を求められる」ということを私は「女だから遭遇してしまう、邪魔くさいこと」だと思っていますが、Cさんはきっとそれを「女だから得られた、気に入られるチャンス」と思っているんだと思います。

私は「仕事では女という性別を抜きに、ただの人として存在したい」けど、

Cさんは「女という性別を活かして仕事をしないともったいない。」という風に、私達は「仕事をする上での『女』という性別の置き所」がそのように違っていたんだと思います。

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そんなような事を考えていたら、私はふと、冒頭の疑問が解けた気がしました。

私はセクハラ行為について、「一部の、性欲の自制が効かないクズい男だけが支持しているのでは、支持層が少なすぎるのではないか」と引っかかっていました。

しかし、世の中にCさんのように「上に行けるならセクハラをある程度容認する女性がいる」という発想を得てみると、話がちょっと変わります。

そう、「セクハラをある程度容認する女性」がいるならば、さらにその上に「セクハラを積極的に利用したい女性」もいるんじゃないかと思えてきたのです。

つまり「権力者の男と寝る毎に大きな仕事を貰えるなら、是非その流れに乗りたい!」という女性や、さらにはもっと「アタシは積極的に女を使ってテッペン登りつめたるんじゃい!!セクハラ!?かかってこいや!」みたいな女性だって、きっといるはずだということです。

そういう女性は、もし仮に世の中の男性が一切セクハラをしない、極めて紳士的な男性だけだったら、今より仕事が上手くいかず、100%仕事の実力のみで評価される社会の中で「あー、女使えればもっとラクなんだけどなー」と思うはずでしょう。

だから、そういう女性達も「セクハラが蔓延している世の中の恩恵を受け、それを良しとしている」点では、セクハラ行為の支持層に含まれるのではないかと思ったのです。

こうして、新たに「一部の女性もセクハラ行為を支持している」と考えると、セクハラ支持層は先ほどより増え、「支持層が少なすぎるのでは?」という私の引っかかりは解消されました。

そして私はこれによって、そもそもの疑問「なぜセクハラがなくならないのか?」にも答えを出すことができました。

もしも、全ての女性がセクハラに断固「NO!」の姿勢を持っていたら、下心を持ったセクハラ男がそのつもりで女性に接触するごとに毎回断られ、時に訴えられ、悪評が立ち、女性が離れていく一方なので、さすがに時代の経過と供にセクハラ男人口は減っていくと思うのです。

しかしいつの時代も一部セクハラを良しとしている女性が実在することで、セクハラ男はたまに「OK」な女性に当たることになり、その経験がまた別の女性に対しても「この子もOKなんじゃないか?」という気を起こさせ、セクハラ男の間で、その行為が継続していくのではないでしょうか。

「だから、いつまで経ってもセクハラが世の中からなくならないのか!」

私は1人ガッテンしました。ガッテンガッテン! 

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 さて、ここで話が終わると、私は「セクハラ男」と「セクハラ容認女性」の両方を悪者にして終わることになりますが、私はその両者が同罪では無いと思ってます。

セクハラする男が悪いというのは言わずもがなですが、「セクハラ容認女性は悪いのか?」と問われると私は「悪い」とまでは思えません。

まぁ、「推奨はしないけど、悪いことでもない。」という感じでしょうか。

 でも、彼女達がもしその行為や価値観を人に押し付けたとしたら…話は別です。

自分が自由にしていいのは自分の身体だけですから。

自分がいくらセクハラが平気だからといって、他の女性にも「こんなのこの世界じゃ普通だよ」とか「なんでそれくらい耐えられないの?」とか言ったり、自分と同じように「女性性を使うこと」を強制したりしたら、その時点で、その女性は他人の領域に土足で踏み入るセクハラ男と同じだと思います。

また、そういう事を求めていない男性に対しても「男はこういうのが好きなはず」という風に当たり前のように己の女性性を押し付けるような真似をして、もしその男性がそれを迷惑に感じたら、その女性はセクハラをしていることになります。

「男はみんなこういうのが好き」と思ってどんな男性にも迫るのは「他の女もイケたからこの女もイケる」と勘違いしてどんな女性にも迫るセクハラ男と、思考回路が同じだからです。
そうなったら、私はセクハラ男と同様にそのセクハラ容認女性のことも悪だと思います。

でもこのように自分以外がセクハラを受けるように仕向けたりしない限りは、その女性がセクハラを容認していようと、歓迎していようと、私は良いと思います。

「そういう女にもその姿勢を改めさせたほうが良いのでは?」という意見もあるかと思いますが私はそう思いません。

なぜなら、私はセクハラは無くなって欲しいけど、それと同じくらい、女の人一人一人の行動や考えが自由であることを願っているからです

つまり、いくらセクハラが無くなって欲しいからと言って、全部の女性に「仕事で女を使うべきではない」「女は断固セクハラを拒むべき」と求めると、それはそれで私の嫌いな「女はこうあるべき」の押し付けになってしまうと思うんです。

だから、どれくらいいるか分かりませんが、セクハラを容認する女性も、セクハラ歓迎の女性も、それはそれで本人の生き方だし、本人の身体なので、自分と相談してどこまで自分の女性性を使うかその女性の自由でいい、と思うんです。

まぁ、仕事の実力ではなく「女を使う」といった裏ワザ的な方法で仕事がうまくいったとしても、後々困る事態が必ず来ると思うんですが、そうなって困るのも込みで、その人の人生なわけですから、本人の好きにすればよいんじゃないでしょうか。

ただ、Cさんのように本当に良かれと思って人に押し付ける場合もあると思うので、もしこれを読んでる中に、そういう女性がいたら、そこのところは気を付けて欲しいです。

最後に、セクハラ男が誤解しないように書かないといけないことがあります。

これを読んでセクハラ男が「よし、セクハラがOKな女もいるってことはセクハラ辞めなくていいんだな」と都合よく解釈されても困りますので。

セクハラ男の人、大事な事なのでよく聞いてください。

「セクハラを迷惑じゃない女性がいる」ということで「セクハラを迷惑だという女性がいない」ということにはなりません。

あなたにとって都合の良い種類の女性が存在するとしても、女性は一種類ではありませんので、どの女性もあなたに都合の良い性格や考え方をしているわけではありません。

だから例え1人の女性にセクハラが受け入れられたからといって、他の女性にも同様に迫っていいという理由にはなりません。

以前うちの近所に、サモエドという大型犬を飼っているおじさんがいました。

そのサモエド犬は、いつも散歩の時に口輪を付けていました。

 ある時、いつものように散歩中のその犬を私が触らせてもらっていると、犬も喜んでフガフガ言ってて、私は口輪が窮屈そうに思えてきたので「いつもなんで口輪してるんですか?」と聞いてみました。

するとおじさんは「うん、この犬は噛むってことは無いんだけど、こういう大きい犬は怖がる人いるでしょう。ただでさえ大きくて怖いのに、口が開いてたらもっと怖がらせちゃうんじゃないかと思って、それで悪いから散歩の時だけ口輪つけてんだ。」と言いました。

私が「じゃあ口輪外した顔観てもいいですか?」と聞くと、おじさんは「いいけど怖くない?」「顔舐められるよ」と何度も私に確認しながら口輪を外してくれて、犬はもう案の定ハッハベロベロハッハベロベロと私の顔を舐めまくりました。

おじさんは「よかったなー」とニコニコして、私も犬と戯れられてとても嬉しかったです。

 と、なんで急にこの話を書いたのかというと、この話のポイントは、私のように、犬を歓迎する人はいるけど、怖がる人もいる以上、おじさんは怖がる人に基準を合わせて犬に口輪を付けて散歩しているというところです。

大きな犬はただ散歩をしているだけでも怖がる人がいる。

だからおじさんは、自分は飼い主なのでもちろん犬が怖くはないし、私のように歓迎する人がいても、怖がる人に合わせて怖くないように犬に口輪をしてるんですよ。

私は下心や性欲というものも、そういう扱いをするべきだと思います。

たとえ、自分の下心や性欲を歓迎してくれる人がいたとしても、それを嫌がる人、迷惑な人もいる以上、人と接する時は嫌がる人のほうを基準にするほうが周りに迷惑がかかりません。

歓迎の人とは後から合意をとって仲良くすればいいだけのことですし。

自分が下心を出す時は、おじさんが口輪を外すとき、何度も慎重に私に確認したのと同じように、相手が本当に嫌でないのか慎重に確認を取ってください。

相手の反応を考慮しないで性欲を露わに向けるのは、相手が近寄ってもいないのに大型犬の紐を放してけしかけるのと一緒です。とても迷惑だからやめてください。

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すごく、わかりにくい話を書いてしまってちょっと反省しています、すいません。

8か月ぶりにブログを書いたから全然文章がうまく書けなくて困ってます。

でも最後にちょっと言いたいことがあります。

MeTooについて、誰かが「MeTooブーム」と称しているのを読んだのですが、私はそれが嫌でした。

たしかに、いま、盛んになり始めたものは、ひと時は「ブーム」に見えます。

でもブームという言葉を辞書で引くと、

【あるものが一時的に盛んになること。爆発的に流行すること。】とあります。

つまりこの流れが「一時的」であり「ただの流行」と捉えられているということです。

でも私は、これはブームで終わらせてはいけないものだと思います。

MeTooを書いている人達は、皆それぞれに思いがあって書いてると思うんです。

自分の気持ちの整理や区切りの為かもしれないし、他の人へ勇気を与える為かもしれないし、他の人も書いてるからつい書いちゃったという人もいるかもしれないけど、とにかく起きた出来事が嘘ではないなら、#MeTooの言葉にはそれぞれ背景があって、重いものが乗っかってると思うんです。

だから私はそれがブームという、軽い風に乗って訪れたお洒落な感じの意味合いで称されるのが嫌だと思いました。

お洒落や流行でこんなこと、吐き出せる人ってそんな居ないでしょう。

人におもちゃにされた経験ってつらいですもん、本当に。

MeTooが出来たことで、これまで吐き出せなかった事を吐き出せて、人の発言に勇気をもらったり励まされたり癒されたり、と救われた人は多いと思います。

だから#MeTooは一時的な流行(ブーム)ではなく、いつまでも繋ぎ続ける動き(ムーブ)でないといけないんじゃないかなと思う。

でも本当のこと言ったら、私はもっとその先には「MeToo(私も)」の声が、聞こえなくなることを願ってます。

それは、皆が声を殺すから聞こえなくなるのではなくて、そもそも「私もこんな被害体験がある」と誰も言わなくて済む、被害体験が起きない社会になって、MeToo(私も)の声が聞こえなくなって欲しいという意味です。

なんだか綺麗ごとのようですが、年の瀬なので大目に見てください。

ではまた。

 

 

男子座りション問題について本気出して考えてみた。

 

はじめに

こんにちは。

突然ですが、皆様のお宅でトイレ掃除はどなたの役目でしょうか?

一人暮らしの方のほとんどはご自分でされていることでしょうし、「うちはお父さん(夫)がやっている。」「当番制にしている。」「気が付いた人がやっている。」なんていうご家庭もあるでしょう。

しかし、やはり圧倒的に多いのは「お母さん(妻)がやってる。」というお宅ではないでしょうか。

実際、某製薬会社のアンケート調査によるとトイレ掃除をやる男女比率は「男性6割、女性9割」だそうです。

つまり、女性はほとんどの方が日常的にトイレ掃除をやるけど、男性は4割もトイレ掃除にノータッチの方がいるということなんですね。

この割合の差には少し驚きますが、まぁ考えてみれば、現状、家事全般を女性の役目としている家庭が多いので、トイレ掃除も当然そこに含まれるわけですから、当たり前といえば当たり前ですね。

「日本の男女の家事分担割合が偏ってる」ということは個人的に気になる点ではありますが、今日は本題が違うのでそこはとやかく言いません。(家事を分担するか、どう分担するか、というのは各家庭で良い具合がそれぞれ違うものですし)

ただ、このように「トイレ掃除が主に主婦の仕事になっている」という現状があるがゆえに、ここ数年巷でよく聞かれるようになった家庭問題の一つが、私は気になっています。

 それはずばり、「家庭内男子座りション問題」です。(名称が長いので今日は「座ション問題」と略します。)

これだけで何の話かピンとくる方もいると思いますが、まったく初耳の方のためにざっくり説明しますと、家庭内座りション問題というのは、家庭内でトイレ掃除を請け負う妻が「立ちションだと汚れて掃除が大変だから座ってして!」と夫に求めるも、夫は「男が座りションなんかできないよ!」と拒否したり、しぶしぶ承諾しても口だけで行動が伴わなかったりして、そのことが原因で夫婦が揉めてしまう状態のことです。

今日はこれについて思う事がたまってきたので書きたいと思います。

 

トイレクイックルのCMにモヤる

少し前、私はこういうツイートをしました。

 

これは、現在放送中のトイレクイックルのCMが流れ始めた当初の感想を述べた呟きでした。

このCMは主婦役の木佐さんの叫びからはじまって

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 「また立ったままやったな!?」と怒る木佐さんが振り返ると、夫と息子役の二人が「やっべえ」と萎縮して

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「ジャーン!拭くだけで、尿ハネが原因で発生する臭いを予防するよ!」という紹介説明が入った後、木佐さんが掃除をして

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 最後は綺麗になったトイレを見ながら木佐さんが「次からは!?」と言うと、夫と息子が「気を付けま~す」と言って、ちゃんちゃん、という感じに終るものです。

このCM、放送開始当初は今書いた内容で、私にとってツッコミどころ満載でした。

でもこのブログを書くのに日数がかかってるうちに最近流れているのを見たら、冒頭の「また立ったままやったな!?」のシーンがカットされて、その分ラストに「夫が床を拭くシーン」が追加されてました。

おそらくですが、立ちション派の男性からの「立ったままやって何が悪い」とか「いきなり怒られてるみたいで気分悪い」みたいなクレームが多かったんじゃないかと思います。(あと女性からの「男の尿ハネなんて自分で拭かせろや」って言う声も)

確かに、立ちション派の男性がこのCMを見たら「世間が立ちションをタブー扱いしはじめた印象」を受けるでしょうし、CM自体も「女に立ちションを禁じられた男達が、それに素直に従って一件落着」というストーリーですから、一部の男性はさぞ不快だったことと思います。

そして女である私も、このCMの当初のバージョンには全体的に「なんか違う」と思ってモヤモヤしていました。

どういうモヤモヤかというと、

なにこれ、「また立ったままやったな!?」と怒られるってことは「立ちションして怒られる家」という設定なの?なら、この家は基本全員が座りションルールなんだから「尿ハネ臭予防クイックル」の出番がさほど無い家ってことにならない?わざわざこのCMの為の架空家族がなんでそんなメインターゲットからズレた設定背負ってるの?

「これからは気を付けます」って言ってる男子は何に気を付けるつもりなの?「立ちションしないように気を付けます」なの?ならあんた達、この立ちション尿ハネ臭対策のクイックル要らなくない?それとも「汚したら拭いて出てくるように気を付けます」なの?なら、今汚れてる床を男子が拭かず木佐に拭かせるのはホワイなぜに?

っていう感じです。

この私のくどくどモヤモヤは、冒頭の「立ったままやったな!」→「また汚したまま出てきたな!」で、「妻が床を拭く」→「夫か息子が床を拭く」だったら解決するのに、と思ってたので、後からその二か所が変更になったバージョンを見て、「やはり人の思うところは一緒か」と思いました。

 また、私も一番「げっ」と引いたのは「立ったままやったな!?」のシーンなのですが、私の場合は男性とは違った意味でそこを嫌だと思いました。

私が嫌だと思った理由は、本来、人のションスタイルってものは、本人の自由であるべきだし、そこについて他人(家族といえど)が命令や指示する、っていうのは「人権侵害に値するレベルの理不尽な行為」だと思うからです。

だからそういうシーンをCMで堂々と流して「立ちションを叱る=市民権を得てる行為」みたいな印象になるべきではない気がしたんです。

でも私は、実在する「家で立ちション禁にしたり、それを破った家族の男子に怒る、世の主婦達」までも批判するつもりはありません。

というのは、周りの主婦の声を聞いていると、彼女たちはなにも一方的にそのような理不尽な要求をしてるわけじゃないんですよね。

あくまで、ほとんどの妻は夫がトイレ掃除の役割自体も引き受けないし、立ちション後に床が汚れてても拭かないから、終始自分が汚してないトイレの後始末ばかりさせられている。」という理不尽さを先に受けているからこそ、やむをえず「トイレを自分で拭かないならせめて立ちションをやめて」という注文を男性に出してる。

最初に相手が理不尽だから、こっちも多少理不尽な注文にならざるを得ない、というか。

「家事は妻の役目」で「トイレ掃除は家事に含まれる」ということが、いくら夫婦で合意してたとしても、毎日毎日自分のせいじゃない尿ハネ拭いて家じゅうの男子に「それが当たり前」って顔されてたら、妻は自分の自尊心が削り取られる感覚が湧くと思います。

特に夫の尿ハネなんて「子供のならまだしも、なんで大の大人の尿ハネを拭かされてんの私…」ってなるでしょう。

だから、各家庭が座ション問題に至るまでに、そういった事情やいきさつがあることを考慮すると、CMでそういったシーンが流布されることは責めるけど、各家庭に実在する「また立ったままやったな!」と怒る妻のことまで私は責める気にはならないのです。

でも、CMを見る人の中には、実際に各家庭にある事情を考慮できる人ばかりではないので、そういう人が木佐さんの演じる妻を見て「男性のションスタイルまで決めようとするただのヒステリーチックな鬼嫁」という部分だけを抽出して、一般的な主婦像を歪んで捉えたり、「ただでさえ、最近の女は偉そうなのに、男の立ちションまで否定しはじめたのか!」という思いを植え付けたりするのが私は嫌だと思ったのです。CMが無駄に男女の対抗意識に火をつけてる感じがして。

そもそもですね、周りの主婦の声を聞いていると、ほとんどの女性は立ちション行為そのものを「忌み嫌っていたり、否定したい」なんて思ってないんですよ。

私も含め、多くの主婦たちが男性のションスタイルに関してどう思っているかと言うと「無関心でいさせてくれよ」です。

ですから、座ション問題で怒ってるほとんどの女性も、べつに「立ちション行為そのもの」を否定したいわけじゃなくて、単に「尿ハネを自分で拭かないのに、立ちションをし続けるその精神」がイヤなだけなんです。

 なのに、このCMでは女性が「立ちションを嫌う、立ちションを許さない存在」って感じに描かれてるように見えるので、私は「そうじゃないんだよな……」という不快感を感じていました。

 

私は「トイレの清潔を保つにはどうしたらいいのか」という課題の解決には、本来ションスタイルは関係なく、「汚した人が後始末する」という極めて基本的な生活ルールを男女供に守ればいいだけのことだと思います。

でもその基本的なことを守らない夫のせいでションスタイルにまで口出しをさせられて、鬼嫁みたいに言われる主婦。基本的な事を守りさえすれば立ちションも思いのままにしていいのに、立ちション自体が「世の中的に禁じられた行為」と思わせられる男性。両方損してる感じ。

当初バージョンのCMは、そういった意味で「誰得なの?」な内容だったように思います。

 

私が座ション問題を気にする理由

で、長くなりましたがここまでは前置きです。

先ほども書いたように、そもそもトイレクイックルCMがこうなったのは、ここ数年の「座ション問題」に関する主婦の声を映像に反映させようとしたからだと思うんです。

確かにここ3.4年くらいの間に、自分の周りの主婦の方からこの話題が出るのを良く聞きますし、テレビやネットでも取り上げられるようになっていると思います。

実は当の我が家ではこの問題が起きてないのですが、私は巷でよくこの話が聞かれるようになってから、関心を持って見ています。

なぜなら、本来「汚した人が後始末する」というこんなシンプルなルールで解決することが夫婦で折り合いがつかず、そこかしこの家庭で問題化するということは、そこにやはり多くの家庭内で男女の力関係の差とか、男性の傲慢さが存在するように思うからです。

私は、家庭を円満に保つためには、「外で働いてお金を得る」とか「家事や育児をやる」という「夫婦それぞれが家の為にしてること」に対して、お互いに感謝し、その意を示しあっていく必要があると思うのですが、やはり「収入を支えている男性」が家で威張っていて、妻に感謝もしていないケースはよくあると思います。

さらにタチが悪いのは、収入面でさしたる差はないのに、なぜか「男だから」という無意味な理由を根拠に家で妻に威張っている男性。意味わかんないです。

そういう男性は、幼児でも守れる「自分で出したお道具は自分でしまいましょう」とか「自分がこぼしたお水は自分で拭きましょう」といったルールさえ家で守らずに妻にやらせますから、当然、自分が立ちションで飛び散らかした尿ハネを妻が拭き掃除することも「当たり前」と思っていることでしょう。

これが、一昔のように男女供に「女性が男性の後始末をすることが当たり前」という頭であれば、夫がいくら立ちションで汚そうが、妻は「汚すのはあなただからあなたが掃除をして」とか「掃除がいやなら、せめて汚れにくいように座りションにして」という注文をつけず、従順に掃除し続けるので衝突は起きません。

つまり夫婦で衝突が起きて、世の中に「座ション問題」が浮上するようになったのは、「ひたすら従順だった女性」の数が減り、「不満があれば声を上げる女性」が増えたことの証であり、時代が少しは進んだ証なのではないかと私は思うんです。

しかし進んだと言っても、まだ揉めている段階ですから、これからもっと時代が進み、「立ちションしたら自分で掃除するのが当たり前でしょ。」とか「掃除が妻の担当なら、座りションするのがマナーだよ。」と言う男性が増えてくると、今度は座ション問題は減ってゆく、という希望的観測を私はしています。

ようするに、座ション問題についての動向は、私がふだん関心を持っている「この国の男女同権の進歩具合や、家庭内の男女のパワーバランス」について変化が読み取れる指標、のように思えるので、私はそこに関心を持たずにいられないのです。

これからも見守っていこうと思います。

 

「男は座りションできない」のではなく「俺は座りションしたくない」だけ

 ところで、テレビで座ション問題を取り上げる時には、かならず「男の座りション!あなたはアリ?ナシ?」みたいなタイトルの街角インタビュー映像が流れますが、そこで私はだいたいいつも気になる人が現れます。それはこういう人です。

 

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 (2015年NHKためしてガッテンより。※モザイクは私がかけました。)

どの番組の街角インタビューでもこのような「男は座りションが出来ない生き物なんじゃい!」という主張をされる男性がなぜか一人はいます。

もちろん毎回同じ人ではなく年齢層は様々なので、おそらく「世の中にこういう男性が一定数いる」ということだと思いますが、私はこういう声を聞いて「はて?」と思います。

なぜなら、先ほど我が家には座ション問題が起きていないと書きましたが、その理由は私の夫は、結婚前に自ら「なんか立ちションってすごい周りに飛び散ってるらしいって聞いてから、立ってするのが気持ち悪くなっちゃって、座るようになったわ。」と言ってた人なので、誰が促すまでもなく座りション派だからです。

つまり、夫は男だけどすすんで座りションをする。だからそれを知ってる私にとって「男は座りションできひん」は事実ではないと分かるし、「いや、男ひとくくりにしないで」という感じなのです。まさしく主語がデカい案件。

私は彼らがそれぞれ「俺は座りションできないんすよ。」と言うなら、異論はないんです。「ああ、そういう人なんだな。そういう人もいるよな。」と思うだけなんです。

でも、テレビで見かける彼らは必ず「男は出来ない」という風に言うので、まるで「これは男の総意だから。女から見たら不満でも、男はそういうものだから。」という風に聞こえ、私はその語り口が「性別の壁があるから諦めてくれ」という主張を通そうとしているように思えてくるのです。

確かにこの世には「出産する役目」のように「性別の壁があってどうしても越えられない問題」というのは存在します。でも、なんでもかんでも問題を性別の壁のせいにして問題の本質から逃れて思考停止する性質の人は、男女どちらの場合でも私は好きではないです。

女性が「女だから」に逃げるのも嫌だし、男性が「男だから」に逃げるのも嫌ですが、私の主観ではこれまでの人生で男性が「男だから」に逃げる場面を見る方が圧倒的に多くありました。

座ション問題では、妻という一番身近な異性のパートナーが「日々不満を持っている」という問題が起きているのに、そこを解決しようとせずに「男は座れないんじゃ、諦めんかい」と言って「性別の壁で自分も思考停止、妻にもそれを強要」する男性は、パートナーとしての誠実さに欠けているように思います。

 もちろん持病があるとか、身体のなんらかの事情で「本当にどうしても座ションできない」という男性もいると思いますが、そういった特別な事情がない人の「座ションしない理由」はただ「妻が不満でも俺がそうしたいからいいんだ」という「おのれの意志のみ」だと思います。

それならいっそ、正直に「俺ってそういう人間なんだ」ということを背負って明かせばいいのに、それ言ったら批判されるのは分かってるから、代わりに「男」や「性別の壁」という一見太刀打ちできそうもないものをかざしてまで、おのれの体裁を繕おうとするその精神が、ズルくて卑怯で嫌。

一人が「男はそういうもんだ」で誤魔化す場面をテレビで流すと、私は、お茶の間で「ホラ、こういうもんだって他の人も言ってるじゃん」と、妻をねじ伏せる男性が後に続く気がします。

だからこういうインタビューの映像を見ると嫌な気持ちになり、「どうせ言うなら「男はできない」と言わず「俺はしたくない」と言えばいいのに」毎回思いながら観ています。

 

 「だって男だもん仕方ないじゃん」が、どれだけアホっぽい言い訳か。

さて、立ちション派男性に嫌がられるようなことを散々書いてきましたが、私は「そうは言っても立ちションしたいぜ。」とおっしゃる男性の気持ちも少しはわかります。

なぜなら、男性は排泄器がホース状なので「そりゃ立ったままやるほうがラクだろうな」というのは道理として分かるからです。

ラクだから古来から男性はごく自然に立ちションをするわけで、今の成人男性が子供の頃は、まだ男児に「座ってしなさいね」と教える親もさして居ませんし、ほとんどの成人男性は小さな頃から立ちション当たり前で育ってると思います。

それなのにわずかここ数年で「立ちションはダメ!」という新常識みたいな声が巷に出回ってきて、納得しきってないうちに、妻に「○○さんちの旦那さんは座ってするらしいよ。あなたもして」という言われ方をしたり、「立ちションは怒られる行為なんです」と言わんばかりのクイックルCMみたいなものを観たりしたら、そりゃ不愉快でしょうし、怒りたくもなりますよね。

私だってもし仮に、ここ数年の間に世の中に「女の座りションはダメ」という新常識が出回って、女が「座ったままやったな〜!」と怒られるCMが世に出たらきっと「は?知るかよ」ってなりますもん。

子供の頃から自他供に「OK」とされてきたものを、急に「NG」に振り分けるのは、自分が納得しなければ、なかなか出来る事ではないですから、人から押しつけられるのは本当に嫌だろうと思います。

しかしですね、近年、立ちションにおける尿ハネの数がデータで明かされて、もう世間的に「立ちションは1日2千滴の尿ハネになり、本当に汚い」ということが徐々に知られてきています。それを知った以上は、人として「立つなら拭く、拭かぬなら座る」を守るのがパートナーへの愛の証じゃないかと思うんです。

もし「床を拭くのも掃除の担当になるのもヤダ!立ちションも辞めない!」を通すなら、妻にそれそうとうの我慢を強いていることは自覚して欲しい。

妻が不満を抱いているのに、無視や適当にあしらい続ける、という態度はパートナーとしてどうかと思います。

ましてや、その反論が「だって、男だから仕方ないよ」とか「男だもん、立ちションするよ。」とかだと、言われた妻は本当に怒りを通り越して脱力します。

だって、納得できる言い訳ならまだしも、その言い訳アホっぽすぎるんですもん!

私は、この台詞を言ってしまう男性は、その言い訳のアホっぽさや頓珍漢さに「まだ気が付いてないだけなのでは?」と思います。

だって男性が全員バカなわけありませんから。単に上の世代の男性がいつも「だって男だもん。」を免罪符に使い「これ言うと、わりと女が諦めてくれる」という実例を観て育ったが故に、なんとなく自分もつい言ってるだけで、「その言い訳のアホっぽさ」に気が付いたら使わなくなる理知的な男性も大勢いると私は思うのです。

ですから、そういった方がそのアホっぽさ・言われた側のムカつきや脱力感が実感できるように、ひとつ置き換え話をしたいと思います。

どなた様も自分に置き換えてお読みください。

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あなたは共稼ぎ夫婦の夫で、世帯収入の割合は自分7、妻3くらいです。

家事の分担を妻と話し合った結果、自分3、妻7に落ち着き、この分担自体には特にお互い不満はありません。

洗面所の掃除はあなたの分担で、具体的な掃除の回数にルールは設けなかったものの「夫婦にとって綺麗な状態に保とうね」という暗黙の了解はある感じです。

さて、ある時あなたは洗面台の掃除をしていて気が付きます。

「うちの洗面台とか床って、いつもすげー髪の毛落ちてるな」

あ、書き忘れましたが、あなたはスキンヘッドで、妻は小雪ばりのサラサラヘアーです。

それでもあなたは新婚のうちは「小雪、髪長いからな~」と、さほど気にしませんでしたが、ある時、洗面所を使う妻の姿をなんとなーく見るともなしに眺めていると、妻の行動に「え…」と思う所がありました。

妻は、髪を乾かし丁寧にブラッシングをした後、そのまま洗面所を出てきたのです。

あなたがなぜ「え…」と思ったかというと、それまでてっきり「ブラッシングなどで、目の前で洗面台に落ちた分の髪の毛は妻が自分で拭っている。」と思っていたからです。

あなたはそれが、人として最低限のマナーだと思っていたのに、妻がそれをしていないことに少し引きました。

無意識に落ちる分の髪の毛は、洗面所の掃除担当が自分だからもちろん掃除をする気でいましたが「目の前に今落ちた分までこいつはそのままにしてたのか」と知ると、あなたはそこまで人にやらせる気でいる妻の神経を疑ってしまいました。

その夜、あなたは妻に言います。

「あのさ、洗面所で髪とかした後の髪の毛くらいは、自分で拭いてきてくんない?」

すると妻は言います。

「え、でも洗面所の掃除はそっちの担当でしょ?」

あなた「いや、そうなんだけど、全体的な基本の掃除はもちろん俺の仕事だけど、俺は髪の毛落ちないじゃん。小雪の分で常に洗面所が汚い状態になって、掃除がめっちゃ大変なんだから、せめてブラッシングの後その時に落ちた分くらい自分で掃除してよ。」

妻「えー洗面所掃除の役割じゃないのに、私がやるの不公平じゃないー?」

あなた「じゃあ、洗面所掃除自体をそっちの家事の何かと交換する?そんで自分の担当にしたら不公平じゃないでしょ。」

妻「嫌!洗面所は私イヤなの!」

あなた「じゃあ、掃除しないなら髪切ってよ。短ければまだ掃除が楽だから。」

妻「無理!」

あなた「なんで!?」

「だって女だもん。髪は女の命なのよ!」

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ハイ、今の感情どうですか?

小雪、アホっぽくないですか?

怒りを通りこして脱力しませんか?

その感情なんですよ。「男だもん、仕方ないじゃん」て言われた相手は。

私はこの夫婦の話をそのまま「洗面所→トイレ」「落とした髪→尿ハネ」「髪切ってよ→座りションしてよ」に置き換えたものが、座ション問題だと思うんです。

つまり「立ちションは男の尊厳じゃ!」みたいな言葉も「だって髪は女の命なのよ!」も、言われた相手にとって「おま、何言ってんの?」でしかない。

だって「座りションして」も「髪切って」も、そもそも素直に相手が「汚したら自分で後始末する」っていう人としての基本を実行してくれたら、こっちだって言う必要ないんですから、それ言わされて、それに対して「性別の壁を超えて意見しないで!」とキレられたって「そんな話じゃねーよ」なんです。

ようするに、相手の話の核である「汚した人が後始末する、という基本的な生活ルールやマナーを守れないあなただけど、ずっと一緒に暮らすんだから守ってくれないか?」という提案を「性別の壁」で遮断して、うやむやにしようとしてるだけなんですよ。

ホント、話それますが、不倫の話題とかでも「男だからしかたないんです!」とか開き直ってる人の場面みると「ちゃんと『俺は性欲の前では妻への思遣りなんてふっ飛ぶ理性の利かない人間なんです』って言えばいいのに」と思いますもん。

男という性別のせいにしないで、やるなら自分個人で背負え、って。

簡単に「男」を理由にして通ると思ってるのって、他のちゃんとしてる男にめちゃくちゃ失礼だと思いますし、話の通じない人間にしか見えなくなるからやめた方がいいと思いますよ。

私の稚拙な文章で全員に伝わるものではないと思いますが、そのことが分かる人がちょっとでも増えたらいいです。

 

さいごに

今回は、自分が当事者で困っていないのになぜ座ション問題について書いたかというと、やはり私は問題の根底にある家庭内での男女の力関係の差が気になるからです。

人によっては「威張ってるくらいの男性が好き」ということもあるでしょうが、それでも根拠なく威張ってる人と暮らすのって、最初は出来ても長期に渡るとストレスすごいと思うので、基本は対等関係から大きく外れないほうが良いと私は思います。

座ション問題の不満を話す主婦の方には「我ながらこんなことで夫婦喧嘩するの情けないわ。」とか「しょーもないことでイラついてる自分もちっちゃいんだけどね。」という言う方をする方も多く、私はそこに謙遜というか「こんなことで不満言っちゃいけない」という彼女たちの意識を感じていました。

私はその「これくらい我慢しなきゃね」と自らに課す精神には懐の深さを感じるし、美徳でもあると思いますが、でも同時にその精神がエスカレートしないように気を付けて欲しい気持ちも生まれます。

たかがトイレ掃除のことと言いますが、「自分の苦労が無いものにされてる感じ」とか「尿ハネすら自分で後始末しないのになにかと偉そうなパートナーの態度を見逃す」といった日常の中の小さな「なんかヤダ」は、やっぱり無視してはいけない心のサインだと思うんですよ。

確かに、夫婦はお互いに多少の欠点には目をつぶり、悪いところもある程度は「おたがいさま」の精神で許容しあう必要があると思いますが、「なんかヤダ」と思うってことは、すでに自分の中で「おたがいさま」の範囲を超えてるよ、っていうサインかもしれないんです。

そのサインを受けて、よく考えた結果に「どう考えても私の負担が大きくない?なんか尊重されてなくない?」という結論に達したら、それがどんな些細な内容でも声に出すことも必要だと思います。それには勇気がいるけど、その勇気は自分を守るためだから、そこは頑張ってほしい。

「我慢」と「勇気出して抗議する」は、我慢の方が全然楽な選択肢に見えるから、ついやりがちだけど、我慢の副作用はじわじわ来て、ヤスリでちびち削るようなやりかたで、自尊心が減っていくんです。

「殴る蹴る」といった分かりやすい暴力は、心にドリルで穴を掘られるような破壊力ですが、ヤスリで何十年もちびちび削り取られることの破壊力だって、最後に「壊される」という点では同じなんですから、「ちっちゃいこと」と自分に言い聞かせて無理な範囲の我慢までしないで欲しい。

でも座ション問題については「こんなくだらないことで…」と引っ込めてしまう主婦が多そうなので、私は「このテーマでこまでマジになんか言ってる人もいるよ。くだらなくないよ。我慢しすぎないでね。」という意味で書いてみました。

座ション問題に悩むご家庭が、少しでも減っていくことを願ってます。

 

ではまた。

 

 PS,私ごとで別に書かなくてもいいんですけど、来月からぼちぼち介護職に戻ろうと思います。更新頻度は変わらないか、増えるのを目指してます。まぁ基本スローペースなのですが、今後もよろしくお願いします。