限りなく透明に近いふつう

やさしい鬼です お菓子もあります お茶も沸かしてございます

好きな人のことを「信じたいのに信じられなくて辛い」という方へ

かなーしい、ことーが、あるーと、開ーく、かわーの表紙ー♪

これはご存知、ユーミンの代表曲「卒業写真」の歌い始めです。

とても有名な曲なので、1番の歌詞くらいならそらんじている方も多いと思います。

私も1番の歌詞は暗記しているのですが、なぜかこの曲を頭の中でなんとなく歌う時、必ず「皮の表紙」のところが「皮のページ」となってしまいます。

なりますよね? え、なりません?

私はいつの頃からか自然とそうなってしまう癖がついてたらしく、ある時に無意識のうち声に出して歌っていたら隣にいた友人に「皮のページって何よ?写真どう貼るのよ?笑」と突っ込まれ初めて「ハッ」となりました。

ちゃんと意識しながら歌うとならないのですが、無意識になんとなく歌うとなってしまうんですよ、不思議です。

しかも私にはこれと似たような現象が起こる曲がもう一つありまして、岡本真夜の「tomorrow」がそうです。

「tomorrow」の歌い出しの歌詞は「突然会いたいなんてー、夜更けにーなにーがあったのー?」なのですが、これも無意識になんとなく歌うと冒頭の「突然」「夜更けに」になってしまって、「夜更けにー会いたいなんてー、夜更けにー何があったのー?」という「夜更け」が連続する変な歌詞になってしまいます。

これなりますよね?え、なりません?

いえ、ならない人はいいんですけど、世の中にはきっと同じ現象になる方も少なからずいるんじゃないかなぁ、と思ってつい書いてしまいました。

まぁ、そんなことは置いといて今回のテーマは「卒業」です。

「卒業」という単語を辞書で調べると

そつ‐ぎょう〔‐ゲフ〕【卒業】

[名](スル)
学校の全課程を学び終えること。「大学を―する」「―式」 春》
ある段階や時期を通り過ぎること。「ボウリング通いはもう―した」
とありました。(デジタル大辞泉より)

昔は「卒業」という言葉は①のような「学業の卒業」だけを指していたようですが、最近は辞書の②にあるように、何かを終える過程を「卒業」という言い方をするのも一般的になってきました。

私はこの「卒業」という表現は、本当は「辞める」という負の意味の言葉をやたら美化した言い方に思えてあまり好きではないのですが、それを言い出すと今回のお題も書けないので今回に限り特別に文中に「卒業」を使います。

辞書の例では「ボウリング通い」が用いられていますが、せっかくなので他の卒業も観てみようと皆様の「卒業」エントリを読みましたところ「怠惰な生活から卒業したい」とか「パチンコ通いを卒業したい」とか卒業したいものが色々とありました。世の中には人の数だけ「卒業」があるようです。

そんな「卒業」ですが、どれも共通しているのは、生活の中で「これはもう辞めた方が身の為だ」と、ご自分が見切りをつけたものだということが文面から伺えました。

確かに生きていると「ある時期には夢中になったものの、これをずっと続けてはいけないなぁと思うもの」があります。

「お酒」や「タバコ」や「夜型生活」のように直接的に自分の身体の健康を害するものは、分かりやすくその代表ですが、そういう身体的な害は無いけれど、精神的に害があるもの、周囲に迷惑をかけるものも「卒業」の対象には多く存在します。

私の場合は「卒業」ということで1番思い当たるのは、浮気症なところです。

これは、以前以下の記事で書きましたが、私は以前不倫をしていた事がありましたが、現在はしていません。

 

ninicosachico.hatenablog.com

 

ここだけを読まれた方は「何が卒業だよ、一回浮気した奴はどうせまた機会があればやるんだよ」と思われるかもしれません。

確かにそういう人も世の中にはいます。

そして、私のことも直接知らない方がそう思うのは無理はありません。

手癖の悪い万引き犯が「盗みは卒業したよ」と言って周囲の人が「あらそれならこれでもう安心ね!」とすんなり信じることは出来ないのと一緒ですから。

なので私が浮気症を卒業したというのは、私にしか信じられない事実です。

浮気も万引き犯も「人様の信用を無くす行為」という点では同じで、1度でもしてしまったことが明らかになれば、その信用を完全にまた取り戻すのはほぼ不可能なのです。

だから、当の本人の「もう卒業した」という発言は、周囲の人からすれば「はいはい、前科者が何言ってんだか」くらいの感想だと思います。

私の場合も、私が夫や周りの人から「またいつ浮気をするか分からない」という目で見られるという状態は一生続くことで、そういう一生ものの不安を夫や周囲の人に植え付けてしまったことの罪の重さは本当に今もなお毎日感じ続けています。

幸い、私の夫は人格者だったので、私が不倫した事実が明るみになると、1度は別居し離婚手前までいったものの、紆余曲折あって、数カ月後にまた夫婦をやり直す可能性について話し合いの時に、私が更生することを「側で見守る役目を背負う」と言ってくれました。

と言うのも、もともと私は独身時代からそういう浮気症なところがあったのですが、夫はそれを知りつつ結婚し、結婚生活の中でそれが改善されずに私がまた浮気をしたということは「自分にも私の浮気症を直せなかった責任があるので、自分も反省しながら生きたい」という意味で「夫婦になってからの悪事は連帯責任」という考えが別居中の夫の中に芽生えたからだったそうです。

この辺りの事はとても複雑な経過を辿っての結果だけを書いてるので、うまく分かりやすく書けないのが歯がゆいのですが、とりあえず今は仲良く暮らしているのは事実です。

ところで私は浮気症を卒業して「浮気症」という言葉が実に姑息な単語だなということに気がつきました。

どういうことかと言うと「浮気症」は「症」を用いているところがズルいんです。

「症」を辞書で引くと「病気の性質、状態を指す言葉」とあります。

「病気」とは、わざと不摂生をしていた人以外にとっては「天災」みたいなものです。

避けようと思っても避けられるものではなく、ある日突然に自分が病のターゲットにされてしまったら、その人は有無を言わさず病を受けるしかない、という不運な事態です。

つまり「病気、病む」ということは人間にとって実に受動的な現象なのです。

しかし、浮気はまったくそんなことはありません。

私が若い頃からの自分の経験を振り返って確信するのは「浮気というのは自分が完全な受動的のままでは起きる現象ではない」のです。

浮気をしたことを咎められて「気が付いたらそうなってたんだよ」と言い訳をする人もいますが、それは大概、嘘です。

「気が付いたら」の前の段階で本心では「これは、これ以上ことを進めたら浮気に発展するぞ」というシグナルを本人自身は薄々感付いてます。

でも自分でその本心にフタをして考えないようにして気がつかないフリをしているだけなんです。

この本心が自分自身にチラ見えしている状態の「チラ」に大小の差はありますが、浮気をする人は確実に本人の意思のもと「チラ」にフタをして浮気をします。(普段から物事を深く考える習性が無く、本心から目を背ける癖が付いてる人には本当にちょっとしか本心はチラ見えしないのでフタもさっさとします。)

つまり普通に意識を持って生活出来てる人なら、浮気は確実に本人の能動的な意思のもと発生する事態なのです。

それなのに「浮気症」という言葉は「症」をつけることで、まるで「浮気」が病や天災のような受動的な行為に錯覚させる言葉になりすましています

そこに、自分から引き起こした行為だということをかき消そうとしているようなズルさが読み取れるので、姑息な表現だと私は言いたいわけです。

憶測ですが「浮気症」という言葉を最初に言い出したのは浮気をしていた人側なんじゃないかな、と思います。

それか、浮気を繰り返す人に完全に呆れた周囲の人が軽蔑の意味をこめて「病気」と揶揄したか、ですね。

 

さて、長くなりましたが実はここまでは前置きです。

私は周りの人がどう思おうと、自分では浮気する自分から「卒業」したと確信しています。

でも、それを周りの人に証明する手立てはありません。同じように、他のことでも「私は⚪︎⚪︎を卒業した」と宣言しても、自分以外の人に信じて貰えない人というのは世の中に沢山いると思います。

ついギャンブルに手を出して借金を作ってしまうのが原因で家族に見捨てられそうなお父さんが本当に決心して「もうギャンブルは卒業した」と言っても、ニート生活が長い青年が本当に決心して「今年中にニート生活は卒業する」と言っても、家族はそう簡単には信じてくれません。

ここからは視点を変えて、この「信じられない側」の人について考えていきたいと思います。

家族の誰が信用を裏切る行為を何度か繰り返した場合、当人がいくら「もうしない」と弁解しても、その家族はすんなり信用できません。

これが軽めの友達関係や知人程度なら当人を見捨てれば済むことかもしれませんが特別大事な人や家族だった場合、愛情が深いので簡単には見捨てられません。

そうなると、家族は今後も一緒に暮らしていきたいという意思はあるものの、「信じたいけど信じられない」という辛さを抱えて生きていくことになります。

どうして簡単に当人の言うことを信じられないのかというと、それは「信じても、また同じことが起きた時にもっと辛い」という予測からくる防衛心が働くからです。

これは人として当然のことです。

しかし、いつまでも原点に留まってギャンブル狂やニートや浮気の過失を毎日責め続けても、楽しい生活は取り戻せません。

これでは「信じて欲しい側」の人も「信じたいけど信じられない側」の人もずっと不幸のままです。

では、一旦この状態になってしまった人達は双方にどうしたらなるべく良い状態で暮らせるでしょうか。

私が今回この文章を書いたのは、信じて貰いたい側の立場の人間として、おこがましくはありますが、この世の中の「信じたいけど信じられない」で辛い状態になっている人が少しでも楽になる方法を提案したいと思ったからです。(そんな立場でもないのですが…)

 

「信じられない人」の心の中には、信じたい気持ちと信じられない気持ちが対立していると思います。

そして、そのジレンマの辛さは「信じる」と「信じられない」の割合によって違うと思います。

具体的に分かりやすく言うと信じる7割以上で、信じられない3割以下」くらいならいくらか前向きに生きていけるのですが、「信じる5割、信じられない5割」のバチバチなせめぎ合いを心の中で毎日続けながら生きていくのは相当にしんどいということです。

10割の「信じる」が出来る日は、もしかしたら一生来ないかもしれません。

でも当人と一緒に暮らす意志と愛情がまだ残っている家族や大事な人なら、少しでも早くこの5分5分状態を抜け出せるようにしたほうが前向きで幸せに生きていけると思います。

なので、ここからは私なりに考えたこの「信じる」の割合の上げ方を書きます。

当人の「信じて欲しい」を受け止めて「信じる」度合いを上げる為には、家族が当人の「反省」を見極めることが必要です。
 
でも「反省のフリ」が上手い人もいますし、当人もその時は本心で反省していてもほとぼりが冷めれば忘れるかもしれないし、何がどうなったら本当に反省しているのかは、なかなか見極めることが難しいと思います。
 
しかし反省の1つの見極め方に「本人が『ことを起こしてしまった原因を分かっているかどうか』を見る」というのがあります。
 
つまり本人に原因が分かっていないのに「2度としない」と言うのは、飛行機事故が起きた時に航空会社が「原因は分かりませんが今後は気をつけます」と言ってるようなものですから、信用出来るわけがないのです。
 
ギャンブルで借金をしてしまうのも、失業の果てにニート生活に陥ってしまうのも、浮気をしてしまうのも、家族にしてみれば本当なら起きないと思っていたことが身近に起きた」わけですからこれは「事故・アクシデント」の一種です。
 
「その事故を起こした張本人が、事故原因について把握しているのか?」
再発を防ぐためにはそこが1番大事なのです。逆に言うと、そこが把握出来ていなければ、事故は必ずまた起こります。
 
 
だからうわべだけの「俺が悪かった反省している。」という言葉は信用に値しません。
それを本人が言うなら「どこがどう悪くてこうなったのか?」まで本人が家族に説明できるほど考えて説明しないといけないのです。
 
飛行機事故が起きた場合はその航空会社の信用は一気に落ちますが、航空会社はなんとか信用を取り戻す為に動きます。
 
航空会社ならばまず原因を突き止めます。
そして仮に「この部品のこの部品の故障が原因でした」と原因が分かったら、部品を変えて同じ事は起きないよう改善対策を取ります。
そしてそのいきさつを全て客に説明します。
そうすれば、あとは客が自分の判断で今後の信用度合いを決めます。
勿論これで信用が一気に元に戻るわけではありませんが、何の説明もないより信用は戻ります。
 
 
家族間でも同じことが言えます。
当人がもし「信じてくれ」と言うなら、その時に「じゃあ、お父さんはどうしてギャンブルをするの?」「どうしたらギャンブルをしないでいられるの?」と聞いて、本人の答えで見極めることが必要です。
本人が本当に反省していたら、自分なりに色々考えているはずですから「自分はギャンブル仲間の誘いがあると断れない。」とか「前に大勝ちした時の快感が忘れられない」とか、本人なりに考えた原因が出てくるはずです。
 
それが本人の口から出たら「なら、ギャンブル仲間と縁を切れる?切れなければ原因は放置だから、また同じことが起きる可能性はあるよね?」とか「大勝ちした時の快感と家族が引き換えでも快感の方を取るの?」と原因を無くす方法を家族が聞いて、その答え方に本人の真意は現れるはずです。
 
当人が「悪かったと認めてるんだから、これ以上は言うな」とか言うようでしたら、説明責任を放棄しているので、信用は出来ませんから、そういう人への家族の愛情は冷めるでしょうし、そうなるなら一緒に暮らさないほうがいいかもしれません。
全て無くさないと本当に反省出来ない人もいますから。
 
とにかくこれで「反省しているか、うわべだけか」を見極めて、当人が原因を把握している上に、原因を無くす対処に努力しているならば、家族の人も信用度合いを上げていけると思います。
もちろん人により口ベタな人もいますし、これは文章で書いてもらう方法も有効だと思います。
学生の頃、悪さをすると反省文というのを書かされまして、当時は反省文など無意味だと思っていましたが、「あれはこういう意味があったのだな」と今になって私は思います。
 
私は「反省」とは「学ぶこと」だと思います。
私自身も浮気の件では、それまで自分のどこに原因があって浮気をするのか分かっていませんでした。
昔から単に惚れっぽい性格だなぁという自覚はあったのですが、私は人から愛情を貰うと、どうも必要以上に愛情が湧いてくる性質で、その時も既婚者と知っていながら好いてくれた人が現れたので、これは応えねばと思い浮気に発展したのですが、私の場合はそういう「愛情返しの癖」が原因でした。
 
私はその結果、中途半端にその人に愛情をかけただけで結局その相手を幸せにすることが出来ませんでした。
 
何しろ「結婚してるのに、よそに好きな人がいる」というのは、言い方は変ですが「すでに飼い犬がいるのに野良犬に餌をあげるような行為」なのです。
 
本当は1匹しか飼ってあげられないのに、餌をあげるのは残酷なことなのに、私はそういうことに全然気がつかなかったのです。
 
本当にその犬のことが好きなら、その犬がしっぽを振って近づいた時には、ちゃんとした飼い主を見つけられるように「こんなことしてたらいけないよ」と諭さなければいけない立場だったのに、私は自分が餌をあげると喜ぶ顔が見たいがために野良犬を餌付けしていたようなものです。
本当に悪事だと思います。
 
もしその人と一緒になるには今の夫を捨てなければならないわけで、つまり「飼い犬を捨ててまで新しい犬を拾う」という恐ろしい行為の共犯者にさせるところでした。
もしそうなった場合に新しい犬は幸せかなぁ?とそこまで考えたときに、初めて自分がしていたことが全部間違いだと気付きました。
 
つまり、結婚しているのによそに好きな人を作ってもいいことは起きないのです。
そんな簡単なことを知らなかったので、私はそこで初めてそれを学んだのです。
 
ちょっと眠くて、何書いてんだかわからなくなってきましたが、つまり「学んだ」先にある決意だけが「卒業」と呼べるわけです。
 
なので、反省して学ばないでなんとなく「辞めよー」という意志だけでものごとを辞めることは、卒業ではなくただの「退学」なのです。「退学者」は実は学校に未練が残ってる場合が多く、また別の学校に入れる可能性があるので完全に「卒業」するのとは訳が違います。家族の不安はやはり「卒業」を見届けるところからでないと出発しないのです。
 
なのでもし「俺はギャンブルを卒業する!」と、宣言するからには、「ギャンブルにハマり借金をして家族に迷惑をかけた、という経験から自分は何を思い反省し『これこれこういう理由だからギャンブルをやってもいいことない』と本人が学んだ上での宣言」でなければ、それは「卒業」とは言えないということです。
 
長くなりましたが、節目の季節です、何かを辞めると決めた皆様は、そこに学びがあった末の「卒業」であるといいと思いました。
 
家族の方の起こした事故・アクシデントで家族のことが信じたいのに信じられず苦しい思いをしている方の少しでも参考になったら幸いです。
 
ふあ眠い。
 
ではまた。
今週のお題「卒業」