限りなく透明に近いふつう

やさしい鬼です お菓子もあります お茶も沸かしてございます

私が前回のコメント返しを諦めた理由とその後の感想を書きました。

ごあいさつ

今日は前回私が書いた記事が思いのほか反響が大きく、その反響は私自身にも沢山の考えをもたらしてくれたので、記事を上げてから後の私の感想を書きたいと思います。
まずは読んで下さった方全員にお礼を言いたいです。
私はライターでもなにかの運動家でもありません。
機会があればものを書くことでお金を得られる仕事をしてみたいとは思いますが、私自身自分の書く文章はまだまだ稚拙でそういう職種になれるレベルだと思っていないので、文章を書くことはただの趣味である一介の主婦です。
そんなただの一個人の意見を書いただけの文章がこんなに沢山の人の目に触れたこと、そういう場になったブログというシステム自体にもありがたい気持ちでいっぱいです。
 
記事を書きあげた当初、私はついたコメントにはすべてにお返事を書くつもりでした。
コメントを頂いたということは私のブログを読んで、ご自身の気持ちを打ち明けて下さった方々ですからそこは真摯に対話したいと思ったのです。
しかし、途中までお返事を書いていくとコメントの中には批判的な声もありました。
私はそこにも真摯に対話を持ちかける労力を考えると気が遠くなりました。
でもだからと言って共感者のコメントだけに返事をしたら批判的な意見を書いた人の気持ちは「けっ!都合が悪い意見は無視かよ!」となり、ますます不快になると予測できました。
 
だから悩みましたが、結局途中から個別のお返事はやめて、新たにこうして気持ちを書くことにしました。
なので、後半にコメントを下さった方にはお返事出来なくて気を悪くするかもしれませんがお許し下さい。
 
ちなみに私が批判的意見の方と対話しないことについて自分の中で「卑怯じゃないか?」ということを考えてみたのですが、答えは「卑怯ではない」となりました。
その答えに至る経緯は後ほど書きます。

 

共感が得られた喜び

数ある反響の中で1番嬉しいのは、やはり「私も同じ!書いてくれてありがとう」という共感の声でした。
私の普段のコメント欄はほぼ空白ですが、今回に限り沢山の方々がこのようにとても内容の濃いコメントを寄せて下さいました。
私なりにそうなった原因を考えたところ、やはり今回の記事内容がインターネット上でまだそんなに存在していないレアな話(既婚子無し女の立場で話す)だったということだと思いました。
つまり私はインターネット上にも私のような人に出会えず疎外感を感じていたから「もうこうなったら自分が書こう」と思い立ったわけですが、それは「限界まで膨らんだニキビにプツっと針穴を空ける行為」だったのかなと思います。
書いてみて共感の声がこんなに多数だということは「一つ意見の出口が空いたからそこから他の沢山の意見が出やすくなった」ということです。
だから私が書くことで、私のようにモヤモヤとした思いと疎外感を抱えながら生きている人達にとって「やっぱ私だけじゃないんだ!同じ人いた!」と励みになったのは本当に良かったと思います。
私は今回結果としてたまたまそういう方達の代弁者になっただけで、世の中には私のような方が気持ちを吐き出せずにいるということがこうして実証できました。
この感覚は「誰もいない暗闇で寂しくて手を伸ばしてみたら、向こうから優しく握手してもらえた」という感じで「やったー!!」という感じです。
共感者の方のコメントはどれもご本人の貴重な人生観が現れているので、前回のブログを読まれた方はコメント欄込みで読んで欲しいです。私も何度も読み返しています。

 

インターネット上で他人と対話するということ。

さて、冒頭で書いた「私が批判的意見の方と対話しないを選んだことは卑怯じゃないか?」についてですが、これについて考えるため私は、そもそも私にとって「インターネット」って何だろう?ということから考えました。
 
答えは、私にとってインターネットとはただの「私にプラスな影響を与えるための道具」です。
YouTubeで映像を見るにしても他人様のブログを読むにしてもニュースや各種調べ物をする時でも、とにかく私はスマホやパソコンを開いたら、閉じる時に「見て良かった」と思うために開いているわけです。
こう書くと「自分の都合の良い情報しか見ようとしないのか?」と批判を受けそうですが、答えは「はい」です。
しかし、都合の悪い情報といっても例えば以前の日本人人質事件の時のような思わず「こんな事件からは目を背けたいと思う内容だったら見ない」ということでは無いです。
私が悲しくなろうが辛くなろうが「人として無視してならない」と思う情報は見ます。
それは、その時は心を疲れさせるマイナスの影響かもしれませんが、その心の動きを経て考えを深めることが結果的には自分にとって結局プラスだからです。
 
他の方がインターネットとどう向き合っているかは分かりませんが、おそらく「よし嫌な気持ちになるぞ」と思ってわざわざパソコンを開く人は少ないんじゃないかなぁと思います。
そこは私のように情報摂取や発信をした結果、自分にプラスの働きを得るためにインターネットを利用しているんだと思います。
 
そしてその大前提がある上で私には「インターネットは一方的に情報を受け取ったり、発信したりする道具として使う」という認識があります。
ここでは「一方的」というのがミソです。
つまり私はインターネットというものは「対話」には不向きだと思っています。
その理由は、インターネットで他人と対話するということはどうしても「文字、文章」を使います。
しかし人と人が対話するということは、文字だけでは伝わらないものです。
まず文章力、読解力の差は個人差がかなりありますし、そもそも「話す」という行為は本来「言葉」という言語情報は7%ほどしかなく、残りは「表情、間合い、語調、顔色、視線等々」といった「非言語コミュニケーション」で成り立つものなのです。(たしか心理学で習いましたし、実生活でそれは実感もしてます)
 
Twitterでよく炎上が起こるのもメールでやりとりだけしてる相手ととしばしば誤解が起きるのも、こういう前提を踏まえず「文章で書いてあることが100%その人物像」と勘違いしてしまうから起きてしまうことだと思います。
そういうことを考えると、「ネットで知らない人との本気の対話は不可能だな」と私は判断ました。
 
批判的意見のコメントを書かれた方とも、もしかしたら対面して話せば分かり合える可能性は充分にあるかと思うのですが、それは現実には不可能です。
批判的意見の中には私の記事自体に不足な部分が多いた為に誤解があったり、書いてない部分を想像で補って決めつけた意見になっていたりしてるのかな、と思うものがありましたが、私がそれをまた文字で返事をして、また誤解が生まれたりそれを訂正して、また返事をもらって、また返して…
とそのやりとりの労力を考えると私にも生活があるので「無理だわ」と思いました。
そしてそれは「卑怯な判断か?」ということですが、それについてここから書きます。


ブログとは無料のガレージセール

これから書くことはあくまで私の見解です。
同意できなかったり「ちょっと違うんじゃ」と思うところもあるかもしれませんが、あくまで私はそう捉えているということを説明いたします。
あと「批判的意見を書く人」というワードが出てきますが、それは前回私に対してあった意見の書き主を指しているのではなく「世間一般のインターネットブログ上にたまにみかけるそういう人」という意味で使っています。そこだけは勘違いしないでください。
 
さて、私はインターネットでブログを開設して自分の文章を発表することに関してまだ歴が浅く、このブログも今年始めたばかりの初心者です。
そして、ブログというものに関して知識を深めようとした時、はてなブログの中でよく人気エントリに上がる小島アジコさんの「はてな村奇譚」という連載に出逢いました。(最近は忙しくて読めていないのですが)
※最新話のリンクを貼りますが、1話からお読みになる方はリンク先から遡って下さいませ。
はてな村奇譚92 - orangestarの雑記 
私は1話から読んで、とても勉強になりました。
小島さんはこの、はてなブログそのものを「はてな村」というひとつの村社会に例え、ブロガーはそこの住人で、色々はてなブログで起きがちな事象やシステムを漫画的な事象に置き換えた面白い漫画にしています。
私はこれを踏まえて自分でもブログについて考えてみました。
 
私のイメージでも、このはてなブログ」という場はひとつの村になります。
そして、ブロガーはそこに家がある住人です。
住人はいつも自分の庭に自作の持ち物をガレージセールのように並べています。
その持ち物は人によって手芸品だったり農作物だったり写真作品だったり色々ですが、とにかく「その人が作ったもの」です。
そして、各家の庭は解放されていて沢山の通行人は自由に入ることができ、さらにその並んでいる持ち物をどれでも無料で持ち帰ってよいことになっています。
 
図にするとこんな感じですね。黒い丸が持ち物です。

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これが私達のやっている「ブログを発信している」という状態です。
 
さて、そこで私も出し物をすることにしました。
何がいいですかね、例えば私の出し物は手芸品のポーチだとしましょうか。
 
すると、ある人が私の庭に立ち寄り、私の作ったポーチを持ち帰ります。
そして、翌日また私の庭に現れ「あなたの作ったポーチは布が薄いしファスナーも固くて開け閉めしずらい。なんでこの布地にしたの?なんで、もっと上質なファスナーにしなかったの?材料費をケチったんでしょ?私ならこういう布地を使いますよ。」と私に言います。
そこに居合わせた他の人にも聞こえるように。
これが、現実では「批判的意見を相手のコメント欄に書き込む」ということに値する行為です。
 
私はもし自分が他人の出し物を持ち帰り、例えば農作物を置いてある家から白菜を頂いて帰って、外の一枚を剥いだら虫食いだらけだったとしても「ああ、ハズレだったか…」と思うだけの人間です。
わざわざクレームを入れに行きません。
しかし、あまりにその虫食いが酷く、どうしても見過ごせない場合は自分の庭に来た人だけには「Aさんのところの野菜は虫食いが多いよ」とは言うと思います。
でも、わざわざAさんの家には言いに行きません。
それは「無料で貰ったものだから」というのが一番の理由ですが、一応Aさんが丹精込めて育てた野菜だし、Aさんなりに虫がいても美味しいという自負があってそのまま出しているかもしれないし、その虫食い野菜のファンがいてそうしているのかもしれない等の様々な事情がある可能性が考えられるからです。
嫌なら私がAさんの庭から野菜を今後貰わなければ済む話ですし。
 
つまり、わざわざ批判的意見を本人のコメント欄に書き込むということは、自分が「持って帰って損した。」ということを伝えたい気持ちから「なんとかしてくれ、あなたが作ったものでしょ」と言う行為なんです。
だから批判的意見に真摯に対話をするということは、私の場合ですと「ファスナーは⚪︎⚪︎社のものも△△社のものがあったのですが、⚪︎⚪︎社のものは品切れで手に入りませんでしたから△△社のを使いました。たしかに質は落ちますよね、すみません。今度は⚪︎⚪︎社のだけを使います」とか、とにかく丁寧に対応をする、ということです。
 
しかし正直、私はこれをする意味ってどれだけあるのかな?と思いました。
これがお金を頂いて商品として持って帰ったのなら真摯に対応する必要はありかもしれませんが、なんせタダですから「気に入らなかったら捨てて下さい。」としか言いようがない気もするんです。
そして、その人がこの庭に来なければトラブルも終わりです。
勿論、その人にも庭はあるのでご自分の庭で「桜島氏の作ったポーチは粗悪品、私はここが気に入らなかった」と文句を人に言うのは自由です。そこはその人の庭ですから。
 
これがこのブログ村でトラブルが起きない最低限のマナーなのかな、と私は思います。
したがって、私は批判的意見に真摯に対応しないことを「卑怯じゃない」と判断しました。
 
ちなみに前回の記事の反響が大きくなったのは、はてなブログ運営さんが私の記事を人気エントリに表示させたことで、記事を読む総数が増えたことが原因です。
これを、村での出来事に置き換えると、ありがたいことに私のポーチが良いという村民の声をたまたま役所の人が聞いて、「村民だより」に「桜島家のポーチが人気!」と書いて村の掲示板に貼ったということです。
そのため普段なら数10人の来客しかいない私の庭に「どれどれ?どんなポーチなんだ?」と訪れる人が一気に増えただけのことです。
私としては、前回の記事を書き上げた時、反響を期待するということはなく、恐る恐る「こんなポーチ欲しい人がもしいたら、持って帰って大事にしてくれたらいいな」という感じでした。
誰も持って帰らないかもそれないけど、私はそういうポーチが作りたかったから作っただけです。
なので、ポーチの出来に関して責任を持たなくても「許して下さいそういうポーチなんです」としか言えません。
 
ちなみに前回の本文の主訴は「あれこれ詮索する人は放っておいて欲しい」ということだったのですが、反響の批判的なところを見てそういう人に「放っておいて欲しい」は逆効果なんだなぁ、と驚きました。
恋愛指南の本とかに「相手の気を引きたかったらこっちは引くべし」みたいに書いてあって、今まで「なんじゃそりゃ」と思ってたのですが、これは実際こういう効果がある言葉なんですね。
勉強になりました。
 
さて、ここまで読んで尚「ポーチならそうかもしれないが、実際ブログは文章だから全然話が違う!あなたの意見がおかしいから指摘したり質問したんだ」とお思いの方がいたら、なるほどそれは一理あります。
確かに私はメッセージ性の強い文章を書きましたので、それに対し指摘や疑問から質問したい気持ちは分かります。
でもそれならご自分の庭に思いを書いて、私には一言「あなたのブログについて質問があります、他にも私が思ったらことを書いてありますから読みに来て下さい」と書けばいいかと思います。
「そこまでする労力使いたくないよ」と思うなら、私にもそこまでする労力が無いのでお互いにやめましょう。
そしてもしそれをした場合、私がそこに訪れるかどうかも自由だと思います。
 
なぜならブログ村はインターネット上の村ですから、本当に無数の住人がいるわけで、関わる人すべてとやりとりをしていたら現実生活が送れません。
だから「誰がどの人とどれくらい近所付き合いをするかは自由」ということにしないとすごく疲れます。
 
もしブログ村「持ち帰った人の感想には必ず真摯に返事するべし」というルールがあったら、村民は変なことを言われるのが嫌で「個性的な作品作り」をやめてしまいますし、「はてなブログ村は窮屈だから暮らせない」と離村するでしょう。
そうなったら、どんなにつまらない村になるでしょうか。
だから私は、はてなに限らずどんなブログサービスにおいてもそこは通用することだと思います。
 
 
蛇足ですが、私はこのことを考えていてTwitterの「クソリプ問題」にも当てはまると思いました。
フォロワーの多い方がTwitterで何か意見を書いた時に「違うと思います。」とか、各種質問攻めになってるタイムラインを見ることがありますが、あれも「人の庭に来て叫んでいる」ということだと思います。
TwitterにはRT機能があるので、RTして自分のタイムラインに「今のRTしたことについて私はこう思う。こう質問したい」と書いて、どうしても本人に伝えなければ気が済まないなら「見にきて下さい」とリプライを送ればいいと思うし、そこまでの労力をしている間に「あれ?これわざわざ本人に言うことか?」と思い改まる人もいると思います。
 
Twitterは脳から直に相手に伝えられてしまうツールで、文章という無機質なもので伝達しますからつい感想や質問を「直接言っちゃえ聞いちゃえ!」と機械相手のようにやりがちなのだと思いますが、相手も生身の人ですから本当に相手に届けるべきメッセージかどうか送る前に1度考えてくれる人が増えればクソリプは減るかなと思います。
 
それでも「批判的意見を直接相手にぶつけたい」という人がいたら、もうこれは「文章の内容に意見がある」というより、「私の気に入らないことを書くこの人になんか言ってやりたい」ということですよね。
その気持ちはただの攻撃なので、相手を「傷付けたい」でやってることですから、もう止めようがありません。
世の中から犯罪者が居なくならないのと同じで、悲しいですが「人を傷付けたい人」は少なからず存在するわけで、その人がそうしたいからする自由も法に触れない限り許されているので、仕方ないです。
でも、そういう人の攻撃をまともに相手をする人が減るとそういう人も自分のやることの無意味さがいつかは分かるかもしれないと思います。

 

おわりに

長々と書いてきました。
私の文章はどうも回りくどいし、いつも「言い訳長!」とブックマークコメントに書かれるので、本当に自分でもなんとかならんもんかなぁと思いますが、こればかりは端折りに端折ってこの長さなので勘弁して下さい。
あと「文章が上から目線」とかも言われがちなのですが、この「ですます調」が余計そう感じる理由かも、と思い試しに下書きで「○○である」という文語体にしてみたり、フランクに「○○だよね」とか書いてみたのですが、よけいムカつくということが自分で分かったので「ですます調」にしてます。
あと少しですから頑張って読んで下さるとうれしいです。
 
私は、前回のブログを書いた後に「子供を持つこと」に関しての見解に新たな発見があったので書きます。
私は自分の書いた文章を世に発信する時にふと「我が子を送り出す気持ち」がこれなのかな?と思いました。
 
それで改めて考えてみると「私が産んだ文章が、人様の目に触れ頭の中に影響を与える」ということは、「私が産んだ子供が世の中に出て色んな人と関わり影響を与える」といことに非常に近い気がしたのです。
私は文章を書く時にうーんと悩みます。心の中で「モヤっと散りばめられている感覚」を単語を繋げて明文化するわけですから、すごい疲れます。
でもなんとか一つの形になって「よし完成!」となるとすごく快感で「産まれた〜!」という感じなのです。
その自己充実感たるや、言葉にできない感動です。
たとえ読者が一人も居なくても私はその「書きたい出したい」の気持ちが自分の中に渦巻いている以上ずっとなんか書くと思います。
私は趣味で手芸もやりますし、絵も描きますが、この「製作欲」と「誕生の喜び」はそれらでも全く同じように感じます。
芸術家とか作家とか、とにかく「何か作る人」というのはそういう「製作欲」が自分の中に渦巻いてる人なんじゃないかと思います。
 
それで私は製作欲が強いのか手芸品などはものすごい量を作ってしまうのでたまに家族に「なんでそんなに作るの?」と聞かれるのですが、こればかりは「作りたいから」としか言いようがないのです。
それで、ハッとしたのは人間の「子供を産みたい、育てたい」というのも本能というか、もう自分の内なる声の「そうしたい」というのがあるからとしか言いようがないのかもしれません。
理由なんてないから皆「自然とそうなる」と答えたのかもしれません。
 
なるほどなぁ。
そして世の中の芸術家の方は自分の作品を「我が子」と言ったりしますが、それは本当にそんな気持ちなのでしょう。
私もそう思いますし。
文章を書く時はいつも「これが人様に良い影響だけ与えられるものであって欲しい」「人様を不快にさせたくない」「そして出来れば感動してくれる人が一人でも居たら超嬉しい」と考えて、発信してからもそう願ってます。
これは人間の親が我が子の成長過程で「人様に好かれる子になればいいな」「誰かを傷つけて欲しくないし傷つけられないで欲しいな」とか願うのと同じなんじゃないかと思いました。
 
そして、私の「人がどう評価しようとも私は私の文章が好きだ」という気持ちが、親の「人にどう思われても私は我が子が可愛い」というのと同じなのだと思います。
 
それをあえて欲とするなら本能ではなく「自分から何かを誕生させて、それをめちゃくちゃ愛したい欲」です。
そこまで考えた時に「はっ!だから赤ん坊は『愛の結晶」と言うのか!」と膝を打ちました。
「愛の結晶」というのは「夫婦の愛の結晶」という意味の他に「自分の愛したい気持ちの結晶」という意味もあるのですねきっと。
 
なんだかまとまってない気もしますが、ようするに私は前回のブログを書いて反響を受けてそういうことを思いましたとさ、ということです。
 
私は今回このようなことを考えながら、ある漫画の言葉が何故か頭に浮かびました。
それは大好きな大島弓子さんの「バナナブレッドのプディング」という作品のラストの言葉なのですが、その漫画は、主人公の以良(いら)ちゃんという少女に大好きな姉がいてお姉さんは妊婦なのですが、主人公に色々あって一件落着したあと、最後にお姉さんが家族にあてる手紙を綴りながら終わります。
手紙の内容は、はしょりますがざっくり言うと、
夕べ見た夢にまだ生まれていない自分の赤ん坊が出てきて「男に生まれるのが生きやすいか女が生きやすいか、生まれるのが怖い」と言われた。そして自分は答えた。
「まぁ生まれてきてごらんなさい。最高にすばらしいことが待っているから」……最高に素晴らしいことって何なんでしょう、私自身お目にかかっていないのに自信たっぷりで答えていたんです。
 
という内容です。
この姉の言葉がなんだか、色んなことの答えな気がしました。
うまく言えませんし、私自信まだそれでも産むか産まぬかの迷いが振り切れませんが、書きたいことは書けたし、この言葉を見るとなんだか気持ちが良いので今からまたバナナブレッドのプティング読もうと思います。
 
長々とお付き合いありがとうございました。
 
それでは。