限りなく透明に近いふつう

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宗教にまつわる雑多な話

 

「政治と宗教の話は利用者さんとしないこと。」

これは、ヘルパーの資格を取る教育課程で先生に言われた台詞。

その後、実習先でも勤務先でも最初に同じことを言われて、最初は「なんでだろう?」と微かに思った。

でも確かに、もし政治と宗教の話で人と意見がぶつかってしまった場合、それは他の話題で意見がぶつかってしまった時より、「取り返しのつかないことになるような感じがする」というのは直感で感じた。

だから「トラブル回避のため、そういうことになってるんだな」という理解で、その時は落ち着いた。

政治の話は今回置いといて、宗教の話というのは確かに自分の身の回りでも「声を潜めてする話」という暗黙の了解があるような気はする。

私はこれまでも職場で「ねぇ、○○さんって学会員らしいんだけど、知ってた?」というような、ひそひそ話をされたことが数回ある。いずれも違う人に。

「学会員」というのは「創価学会」という宗教団体の信者を指す言葉だ。

つまり、人が「誰かが創価学会の信者かもしれない」という話を職場でもちかけてくる時、それは必ず内緒話として、された。

私が「さぁ?気になるなら本人に聞けばいいじゃないですか?」と答えると、どの人も「ぃやーだ!聞けるわけないじゃん!!」というようなリアクションだった。

その「ぃやーだ!」は、援助交際の噂がある女子高生に直接『エンコ―してるの?』なんて聞けるわけないじゃん」と同じ意味の「ぃやーだ!聞けるわけないじゃん!」だと思う。

つまり、ふつうの人にとって創価学会の信者である=大声で言えない、うしろめたいことをしてる人」とされている印象を受ける。

でも創価学会の信者数はとても多い。

実際、だいぶ仲良くなった友人に後から「実は、信仰心はないけど3世なんだ。」と言われたこともあるし、日本人の10人に1人はそうだと聞くし、スポンサーが創価学会のCMだってしょっちゅう流れているし、政党だってある。

だから「創価学会という大きな宗教団体があって、日本にもたくさん信者がいる」というのは、もはや周知の事実だと思う。

それなのに、多くの信者は身を潜めていて、職場では魔女狩りのように「あの人、もしかしてそうじゃない?」なんてひそひそ話の対象にされているのだ。

私はずっと前からこの現象に「なんか変なの」と思っている。

いや、別に「学会員もみんな堂々とすりゃいいのに」と言いたいわけではないよ。

ただ、信者一人一人が隠しているような宗教なら、団体自体もひっそりと活動してそうなのに、そうではなく、「名も知れた大きな団体で活動も隠してないわりに、信者は忍者のように(駄洒落になってしまった)身を潜めている」というそのアンバランスさに「なんか変なの」と思うだけだ。

しかもこれを「なんか変」と言う事すらタブーのような空気を感じるので、私はこれまでこのことを人に言ったこともない。

でも「世の中に私と同じように思ってる人は少なくないんじゃないかな」と思う。

(私が特別に特殊な発想をする人間ではないと思うので、私が思うようなことは、すでに何万人も思ってるはずだから。)

*********

 

んで、今回なんでこのようなことを書いてるかというと、お察しの通り、テレビが清水富美加さんの話題で持ちきりだからだ。

今週はテレビを見ているだけで、なんとなく自分の中でこれまで保留にしてきた「宗教に対する姿勢」について、よく考えてしまった。

今回私は別に清水さんの擁護や批判をしたいわけでもないし、なにか問題提起をしたいわけでもないんだけど、なんというか、色んな報道や人々のリアクションを見てると「宗教」にまつわる、たくさんの疑問が浮かんできたので、忘れないように書いとこうと思ったから書いてる。

 

清水富美加さんの出家引退がここまでメディアで大騒ぎになるのは

・彼女が「仕事をほっぽり出したこと」が最大原因なのか?

・だとしたら、もし事務所ときちんと折り合った上で辞めてからの出家宣言ならここまで批判されなくて済んだのか?

・彼女が信仰しているのが、「幸福の科学」だということが最大原因なのか?

・だとしたら「仏教に目覚めたから尼になります」だったら、応援されるんだろうか?

そんなような疑問がいくつも浮かんでくる。

でも、いくら考えたって答えが出やしない。

答えが出ない理由は簡単で、それは私が「これまで生きてきて漠然と宗教に関する話題を避けたり、あまり深く考えないようにしてきたから」だと思う。

自分の頭の中にある百科事典の「愛」とか「人生」とか「戦争」とかのページには、それなりにこれまで生きてきた中で見聞きしたり、考えたりした内容が載っているのに、「宗教」のページだけは、わざと編集してこなかった感じ。

 

過去、私にも宗教関連のエピソードはいくつもあった。

オウム真理教の事件はリアルタイムで見ていたし、架空のカルト集団を描いた山本直樹の漫画「ビリーバーズ」も読んだし、友人が実は学会員だったこともあったし、母が近所の人が入ってる宗教の集まりに来ないかと何度も誘われてるし、神社に初詣は行くし、我が家のポストには毎月エホバの証人が薄い冊子を差し込んでくる。

冒頭に書いた「政治と宗教の話は利用者さんとしないこと」の件もそうだ。

そういう風に「宗教」にまわつわる事柄は、本当は私のすぐそばにいつも存在していたのに、私はいつも「触らないに限る」という箱に入れて、心の隅に放置してきた。

だから、今更その整理されていない箱を覗いても「なにがどうなってんのやら」となるのはあたり前なのだ。

さきほど挙げた疑問を解くには、もっと自分の中の宗教観をまとめあげたり、世の中ももっといろんな人の宗教観が気軽に話題にされたりしないと、いけないんだろうなとは思う。

でも、「政治と宗教の話題は気軽にできない」というのも事実だから、なかなかそれも叶わないのかなとも思う。

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ところで、私は今回の清水さんの件で「目を覚ましてふみカス!」みたいな声を観て、これを言う人は自分の中の宗教観がちゃんとあって、ふみカスの出家を止めてるのかなぁ?とちょっと思った。

どういうことかというと、

例えば、熱心なクリスチャンや瀬戸内寂聴が「目を覚まして、その神は間違ってる!」とふみカスを止めるのは分かる。

「自分の信仰している宗教に比べて、歴史も浅く、金の匂いもすごいする。そんなのは金儲け集団だ。操られてるだけだ。」みたいにハッキリと「止める理由」がそこにはあるから。

または、無宗教でも「過去になんらかの宗教活動に関わって嫌な思いをして、もう宗教自体に関わらないと決めた」という「覚悟あっての無宗教」の人が、その経験を理由に「ふみカスに同じ経験して欲しくない!」と止めるのもわかる。

でも、私みたいに「なんとなく宗教には関わらないようにしてきた故の無宗教」の人(日本人にはとても多いはず)が、止めようとするのって、私だったら「我ながら効力なさそうだな」と思う。

なぜそう思うかというと、どんな宗教でもそうだけど「ある特定の宗教に目覚めちゃった人」から見たら、「神社に初詣にも行き、寺にお参りも行き、クリスマスは祝い、十字架のアクセサリーも付ける」を全部同時進行でやってしまう、無宗教な日本人のほうが「寝ぼけているように思えるんじゃないか」と思うから。

以前なにかの番組(バラエティーだったか、ドキュメントだったか忘れたが)の、外国でのロケで「これからちょっと危険な目に遭うかもよ」という場面で外国人男性のガイドが、日本人のタレントだかディレクターに「お前の神に祈ってな!」みたいに言って、タレントだかが「ノーゴッド(そんなの居ない)」と返事をしたら、そのガイドがものすごく驚いて「マジか?それでお前、生きてこれたのか!?信じられないぜ!」と言ってたんだけど、ようは、「神がいて当たり前」の人から見たら「神を信じてない人間」のほうが、「あたま大丈夫かお前?」ってことなんだと思う。

清水富美加みたいにもう「大川隆法が私の神」と決定して、自分の中の宗教観がガッチリ成立した人は、私のように「心の中で放置してる箱」が無い状態で、そういう人の宗教観はブレない強さを持ち、無敵状態といえる

そんなふみカスに「目を覚まして」と言ったところで、逆にふみカスに「じゃあ何の宗教だったら反対しないの?」とか言われたら、多分私だったら言い返す言葉がない。

この時点で私の一発KO負け。

自分の「宗教観の箱」を探せば、なんか言い返せる材料があるかもしれないけど、今まで整理してこなかったから、そんなすぐ出ないだろう。

だから言うとしても「そんなうさんくさい宗教やめなよ」みたいなぼんやりした反対意見しか言えないだろうし、そんなの開眼したふみカスには響かないと思うから、私は「ふみカスの心がこれで安定してるなら仕方ない」と思ってしまう。

なので、自分が無宗教でも「目を覚まして!」と止める人は、よっぽどそういう理屈抜きで、清水さんを思って言わずにいられないのかもしれない。

******

 

話がまとまらない。

とりあえず、あと思ったことは、多くの無宗教の人にとって、もし身近な人がある日突然「私、○○教に入りたい」と言い出したら、それは必ずしも「やめな!」と言うべき事態なんだろうか?

ということ。

オウム真理教の事件以降、日本では「新興宗教の信者=ヤバいやつ」 みたいな扱いが普通となっているように思うけど、宗教というのは本来、人の心の安定にすごく一役買っているものだと思う。

無宗教の私がこれを実感したのは、親友のある言葉だった。

親友(仮にAちゃんとする)のお母さんは何十年も、とある宗教(三大宗教ではない)の信者だった。

学生時代からしょっちゅうAちゃんの家に遊びに行っていた私は、Aちゃん母の人柄が性に合っていて、Aちゃん抜きでもよくおしゃべりをした。

A母は一度もその宗教に誘ってきたことはないし、彼女の家でもそのお母さん以外はその宗教を信仰していなかった。

A母がその宗教活動をしていても、別に家計を圧迫するような出費もしていなかったそうだし、月に数回集まりに行くだけだったので、父親だけは最後まで良くは思っていなかったものの、Aちゃんは「もうこれが母だし」という感じでさほど関知していなかった。

で、そんなA母は、だいぶ前に大病を患い、長きにわたる闘病生活を経て昨年亡くなったのだけど、ずっと介護していたAちゃんは、お母さんが亡くなる直前こんなことを言っていたのだ。

「お母さんさ、医者にあと3か月って宣告されても、安らかなんだよ。ふつう、自分があと数か月で死ぬって分かったら、怖いとか気弱になったりするじゃん。

あの人、その時期が無かったの。『神様の世界はどんなかしら~、楽しみだわ~』って、それだけ。子供の前だけ心配させないように、そう装ってるんじゃなくて、あれは本心だと思う。私、宗教って、この為にあるのかなって思ったわ。」

 

これを聞いたあと、私は亡くなる1か月前のA母にお見舞いに行ったのだけど、Aちゃんの言ってたのは本当だと思った。

A母は、ガリガリに痩せていたけどケロリとしていて、無理に明るくしているわけでもなく、悲壮感もなく、本当に昔から安定のA母のままだった。

私はこの時、ああ、何らかのカミサマを信じることで、こんなに心が強くあり続けられるなら「宗教」って人を救ってくれるものなんだな、としみじみ思った。

だからといって、私はA母の入っていた宗教に入りたいと思うわけではないけど、「宗教」と聞くだけで「悪いこと、ヤバいこと、転落人生、洗脳」と、マイナスイメージが先行していた自分は、少し偏っていたのかもな。と思うようになった。

 

そしてこの偏りが、行き過ぎると宗教差別に繋がるのかな、と思った。

イスラム教の信者が、アメリカで迫害されるのは、一部の過激な思想の人が悪事を行うからであって、イスラム教徒が全員悪人なわけではないから、ひどいことだと思う。

自分の知らない宗教について、人は不信感を抱いてしまうものなのかもしれないけど、「なにか私の知らない宗教を信仰している」という一部分だけでその人の中身を全部判断するのは偏見だと思う。

私は、自分が普段接している人がたとえどんな宗教を信仰していようと、変に私を引きずり込もうとしてきたりしないのであれば、付き合いはやめようと思わないし、「その人がその宗教を信仰する」ということはちゃんと尊重したいと思う。

その人が自分のカミサマを信じることで、心が安定できて、穏やかに生きやすいのだったら、何も信仰しないで悩み事で自殺したり、自暴自棄になって犯罪を犯したりするよりは、良いような気がする。

 信仰の自由は、人権に含まれているから、私の「信仰しない自由」を守ってくれる相手ならば、こちらも相手の「信仰する自由」を守って、フェアでありたいという感じ。

でももちろん、世の中には信者がお金をむしりとられたり、壺を買わされたり、交友関係を制限されたり、それまでの生活を土台から壊さないといけなかったりする、本当に悪い宗教もある。

家族や大切な人がもしそういう明らかに実害がある宗教に入りたいと言ったら、縁をかけて止めるだろうけど、そうじゃなかったら、とりあえず話は聞くと思う。

たぶん「意味がわからない、やめて」とは言わない。

なんとなく、それは差別っぽいから。

それまでの人生で何も信じずに生きてこれた人が、何かのカミサマを信じたくなる事態というのは、その人の精神が極端に弱っている時の可能性が高いから、大事な人なら、とりあえずカミサマ云々は抜きにして、身の回りの事情を聴きたいと思う。

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それにしても、今回、「宗教と日本人の関係」というのはつくづく不思議なもんだなと思った。

幸福の科学大川隆法が、いろんな故人や偉人の霊や清水富美加の守護霊をおろしてしゃべる内容を本にしている」のは、うさんくさくいインチキ宗教家扱いなのに、三輪明宏が「あなたの守護霊、とても強いわね」と言うのはテレビで流すし、言われたタレントも「うわぁ、そうなんですか」と喜んでたりする。

別に幸福の科学の肩を持つわけではないけど、「守護霊がどうの」が、片方では「これが出たらヤバい認定ワード」なのに、片方では「ありがたいお言葉扱い」になるという、その統一感の無さが私は気持ち悪い。

「守護霊」や「精神世界」や「前世」や「カルマ」といったスピリチュアルワードも、発する人間によって、即座に嫌悪したり、逆にありがたがったりする、その統一感のなさ、とか境界線のあいまいさが気持ち悪い。

そういうあいまいでゆるゆるなところが放置されていることからみても、多くの日本人の「神様を信じてるのか、信じてないのか」の部分は、すごくふわふわ。(私も含めてだけど)

最近は、世界の多くの戦争や紛争は、宗教の対立が基で勃発することが多いから、日本人のこの「ゆる~い宗教観は逆に見習うべき」とされている、という話を聞くし、確かにそれは一理ある。

でも、無宗教でゆる~い宗教観の日本人は、ただそのままでいればいいかというと、私はちょっとそれも危険だと思っていて、ゆるいなりに、一人一人がもうちょっと自分の宗教観とある程度向き合ったほうがいいのかなと思う。

そうじゃないと、もしもすごく危ない思想を持った宗教に目をつけられた時に、あんまりにも宗教に関する部分の知識や見解が赤ちゃんのようにまっさらだったら、それが見抜けない気がするから。

「かつてのオウム真理教は、東大の合格発表の日に門の前で張っていて、今落第したばかりの学生を勧誘する」という話を聞いたことがある。

これはすごく巧妙な手口だ。

すごくショックな事が起きて、それまで築き上げてきたものが崩れた時に、人は脆くなって支えが欲しくなるから、その瞬間を狙ってくる宗教団体はゴマンとあると思う。

人生には、失恋や失業や家族の死や自分の病気など、ガクっとなる瞬間が誰でも訪れるものだから、無宗教の人は特にそういう時にカモにされる。

カモにされない為には、宗教に関してある程度の知識や自分なりの線引きが常日頃から必要なんじゃないかと思ってる。

 

清水さんの今後がどうなるかは分からないし、迷惑がかかっている仕事関係者は可哀想だと思うけど、彼女がもし「死ぬかこうするか」の二択でこっちを選んだのだとしたら、とりあえず「死ななくて良かった」とは思う。

 

今の私の宗教観をゆるいなりになんとか形にしたおぼろ豆腐のような話になってしまいました。

ほんとうにまとまらない内容ですいません。

こういう話題を軽く出さないほうがいいのか、出してもいいのか、その判断すら迷ったけど、同じ気持ちの人がいて、読んでスッキリすることがあるかもしれないと思ったので公開します。

ではまた。

 

2月18日追記

心の安定の他にも宗教の良い点を思いついたので書く。

心の中になんらかのカミサマを置くこと」は、自分が悪いことをしそうな時にブレーキをかけてくれる役割もあると思う。

昔の人って、子供によく「お天道様が観てるよ。悪いことしたらバレるんだよ。」とか言ってたけど、あれって「たとえおまえが1人の時でも、おまえの行動を観てる存在はいるよ。」と釘を刺すことで、子供の自制心を育てようとしてたんだと思う。

 

コントとかで、よく道で1人で財布を拾った時に、天使の自分が「交番に届けるのよ!」と言って、悪魔の自分が「ネコババしちまえよ!」って言って、葛藤する場面があるけど、ああいう時の「天使」になる存在が、人によっては自分のカミサマなんだと思う。

それは単に「良心」と言い換えることが出来るのかもしれないけど、すごくストレスがたまってたり怒ってたりすると、ただの良心は、所詮自分のものだから、ぞんざいに扱ってしまうことがある。

人間は、そうやって良心が隠れた時に悪い事をするんじゃないかと思う。

だから、自分以外のカミサマみたいな存在に「見守られる」とか「監視されてる」っていう感覚があると、良心ひとつで自制心を操るよりも、ラクなのかもしれない。

だから、宗教を信じることで、自制心が強く持てて、それが結果的に「悪の道に進まずにいられた」となるなら、それは宗教の素晴らしいところだと思う。