いとなまない日々
はじめに
今年離婚した元夫と、私が最後にセックスをしたのは7年くらい前でした。
結婚生活が12年なので、半分以上はセックスレスだったということになります。
このように書くと、世の中には「じゃ、それが原因で離婚を」と思う人と、「まーそれだけが原因じゃなかろうけど」と思う人がいるのかなと思います。
実際はどうなのかというと、正直言って自分自身もそこの因果関係の深さは突き止め切れていません。
しかしながら離婚を思い始めた時から、私には一つだけ確信を持って言えることがありました。
それは「セックスレスだったけど、セックスレスが原因で離婚するわけじゃない」ということです。
世の中には、セックスレスが嫌で、それが直接原因となって離婚する夫婦も多いと思いますが、私は「自分は違う」ということに当初ずいぶんこだわっていました。
というのも、私が離婚を考えたきっかけはセックスレスとは無関係のことで、その上、浮気や借金や暴力のような「一般的に夫婦を終わらせがちな理由」でもなかったのです。
詳しく書きませんが、私以外のほとんどの人にとっては「そんな些細なこと」と一笑に付されてもおかしくない程度のトラブルがあり、そのことで自分の中にあった夫を尊敬して居続けるための「要石みたいな部分」が欠けた感じがしました。
それが離婚のきっかけで、大きな理由でもあります。
でも、当初そんな分かりづらい理由は元夫にすら理解されないと思っていましたし、元夫も含めて自分以外の人にも、分かってもらいたくて言葉を尽くしているうちに相手から滲み出る態度や言葉で自分が傷つくんじゃないかと怖れていました。
つまり、セックスレスという一般的に夫婦を終わらせがちな「分かりやすい理由」と私の「他者には分かりにくい心情」とを並べたら、人は分かりやすいほうを頭に入れるはずで、私がなにを言ったって「はいはい、セックスレスが原因と思われたくなくて色々言ってるのね」と思われてしまうのが世の常と思っていました。
私はそうなるかもしれないと考えるだけでとても嫌で、実際に起きていない事なのに屈辱感さえ感じていました。
で、渦中から出た現在の私は自分でも「あれ、なんでそんなに嫌だったんだろう?」と思います。
他人に「セックスレスが理由でしょ」と思われたくなかったこだわりは、私の意地?
プライド?なんなんでしょうか…?
結婚生活の心の清算は離婚する時に終えたのに、ここにきて新たな「?」が出現しました。
そのからくりを考えたくなって、書くことにより清算ができるかと思って今回は筆を執りました。
いま、日本人夫婦の4割だか5割はセックスレスらしいので、同じような気持ちの方もいるかと思います。
長くなりますが、もし興味のある方は良かったら読んでください。
そこにいたる経緯
では、私達の歴史というか、営まなくなっていった経緯を話します。
元夫とは互いに22歳から付き合い、交際期間5年は特に問題ない頻度で営みがありましたが、27歳で結婚して2年目から徐々に間隔が開くようになってました。
もともと夫のほうが淡白で、私からしか誘うことがなかったので、よくある「夫から誘われなくなったわ」という変化は感じなかったのですが、誘いに乗ってこない率が増えたな、とは思ってました。なーんか最近打率悪いな、みたいな。
でも付き合ってる段階なら「なんとかしなきゃ」と思ったかもしれませんが、結婚してるので「この先いつでも出来る」という意識があるし、夜は眠いし、「今日はいいや」が恒常的になっていったのです。
頻度は1.2か月に1回あるかないか程度になってきて、私もムラムラすること自体が減り、その状態が2年くらい続いていたら私が他の人に気持ちが移ったので、離婚を視野に入れた別居をしました。
そのまま別れるかと思いきやなんやかんやあって8か月後に復縁。
別居中に色々と話し合う中で、この当時のレスの理由については元夫はこう語っています。
「結婚前は避妊するのが当たり前だったけど、結婚しても避妊するのがいいのかわからなかった。子供はゆくゆくは欲しかったけど、二ニコが資格を取って仕事始めて楽しそうにしてるから、今じゃない気がした。でも具体的に子供の話をしたことがないから気持ちを確認するのが怖かった。それでセックスするたび直前に避妊の確認するのが億劫で、だんだん遠ざかってしまったんだよ。」
なるほど。
今聞くと「ただの話し合い不足」なのですが、若さゆえのこういう初々しいすれ違いはありますね。
もし結婚後に自然とレスって悩んでる方がいたら一例として参考にしてください。
それで復縁の際の話し合いで「子供はやはり欲しいね」となったし、一山乗り越えた夫婦愛的なものを感じていたので、そこからしばらくは、まぁまぁ営んでいました。
しかし、セックスレスの影はまたしても私たちの生活に忍び寄っていたのです……。
妊活らしきもの
私達が31歳を過ぎた頃のセックスは「妊活」としてありました。
なので、排卵に合わせてして生理が来たらまた翌月チャレンジという感じ。
ぶっちゃけ「排卵ドンピシャ狙いの一回で妊娠するのってムリなのでは…?」というのを薄々感じてはいました。
でも、そこを突き詰めて考えると「そもそも自然妊娠というのは、試合数の多いカップルが数打つヒットの中で出せるホームランみたいなことだから、試合数が月イチのくせにホームラン狙うのって、分母が少なすぎでは......?」という現実を受けとめる事になるので、私は目をつぶっていました。
本来は、モヤっとしていることを放置できない性格の私が、なぜそこに目をつぶっていられたのかと考えると、今思えば私が心の底から「子供が欲しい!」の気持ち100%で臨んでなかったからかもしれません。
私は、生理が来ると毎回確かにガッカリはしましたが、同時にホッとしている自覚もあったのです。
いつもそれはちょうど半々で、毎月出血があるのを確認するとカミサマか何かに「だってお前は心の底から懇願してないだろ」と言われているような気がしていました。
自分でも「ここで100%ガッカリする女にしか、赤子は宿らないようになってるのかも…」と思うところまでが、までが毎月のルーティンでした。
その当時、ちょうど地元友達には妊活ガチ勢が居て、彼女たちが積極的に医療の力を頼り「年内には!」などと具体的目標を話すのを聞くと、私は、自分が実は100%妊娠を望んでいるわけではないことが不謹慎なような、罪悪感みたいなものがありました。
それに妊活ガチ勢の彼女たちは、ちゃんとすることしたうえで自然妊娠しないわけですから「打席で振るけどホームランが出ない状態」なので、医療の力を頼るのは分かります。
でも、私はすることしてないからそりゃ妊娠しなくて当然。
いわば「打席にほとんど出ずにホームラン狙ってる人」なので、我ながら滑稽な状態だとは思いましたが、それでも可能性がゼロではない「一応、選手ではある状態」を保つことで他人からの「子供どうするの?」の圧力攻撃に耐えうるバリアが得られているような感じはありました。
ただでさえそんな意識低い系の妊活だったのですが、やがて夫の飲み会や出張、私も親や友達との旅行などで、排卵頃に予定があったら「今月は無理だね」と飛ばす回が出てきました。
妊活業界でセックスは「仲良し」と称されるらしいんですが、私たちは排卵に都合が合わない場合、その期間の前後に「仲良し」はせず、翌月繰り越しでした。
でも体の仲良しはなくても心は仲良しで、夫婦仲はいたって良好。
毎日「おやすみ」も「いってらっしゃい」も軽いキスと共に言い合い、寝床ではハグしたまま毎晩眠っていました。
20歳そこそこの交際当初のように衝動的にムラりときて始まる、なんてことは無くなったけど、同じ相手と長い時間を経て落ち着くのは当たり前だし、年齢的にもギンギンしてるほうが不自然だという認識だったので、私はその頻度でもいいやと思ってました。
ただ、「今月はできないね」と決まると、口では「残念」と言うものの、夫婦共になんとなく安心しているような空気感があり、私は「セックスがない生活のほうが快適かも」という己の本心に気付きはじめていました。
そして、ひと月おきになって、また飛んで……廃刊になる雑誌のごとく、月刊から隔月を経てとうとう季刊へ……。
そんなこんなで、気が付くと年齢は33歳を目前としていました。
婦人科滅多打ち事件
この頃のセックスはもう、いちおう途切れないようにはしているという記憶です。
別に夫のことは嫌でもないし、したらしたで気持ちいいし、すっきりもする。
でも不思議と、する前はいつも「あーさすがにそろそろしなきゃだなぁ」と重い腰を上げる感覚がありました。「始めたら集中して楽しいし気持ちいいのに、直前まで腰が重いところ」はまるで皿洗いやお風呂掃除のよう。
だから時々ふと「これってがんばってすること?」と思ったり「いま子供が出来たらしばらくはこの感じから解放されるけど、子供産んでそのあとはまた『がんばってしなきゃ2人目ができない』って悩むの?うっわめんどくさ!」と否定的な考えがよぎることも増えてきて「このペースでいくと私は子供ができないかもな……」と思うようになりました。
でもそんなに悲壮感はありませんでした。
というのも、この頃になると私は、自分の心の内訳を「本気で子供が産みたい欲しい」という気持ちよりも、「老後『出産適齢期にもっとそういう努力すればよかった』と悔やみたくない」という気持ちのほうが大きいんじゃないか?と気付きつつありました。
だから「ある程度自分が気が済むところまで妊活らしきことをしたら、どこかで区切ろう」という気持ちが徐々にメインになりつつあったのです。
しかし心のどこかには「子供が出来たら、私たち夫婦は新しい段階に行ける気がする。」という期待みたいなのもまだあって、常にその2つの葛藤は渦巻いていました。
そんな中、妊活ガチ勢の中の一人にその想いを話したら
「そっかぁ。二ニちゃん、AMH(アンチミュラーホルモン)検査って、したことないんだっけ?してみたら考えの材料になるかもしれないね。」
と助言をもらいます。
初耳だったので説明してもらうと、AMH検査とは、「血液の中のホルモンを調べて自分の卵巣に残された卵子の数を推定するという検査で、採血だけで済む」とのこと。
卵子の残量が目安でも分かると、確かに方針が決められそうな気がしました。
残りの卵子がもう少ないと分かれば、そこで「なら諦めよう」と自分がふん切れるかもしれないし、まだまだ打ち止めは先だと分かれば「じゃあ〇歳までは頑張ろう」と決め切れるかもしれない。
とにかく先の見えないY字路の前で立ち止まっているような状態の自分がもう嫌で、手掛かりを求める気持ちで産婦人科に行くことにしました。
しかし、そこで不妊に関するいくつかの検査のうち一番痛いという感想の多い「卵管像影検査」というのを先に受けることになり…。
もう、この時のことは思うところが色々ありすぎて、また別の機会に書き殴ろうと思っているので、今回は省きます。
とりあえず、読んでいる方には「私がおまたを開いた状態で痛い目に遭う上に精神的にグサグサ来る言葉を浴びせられた。」ということだけわかって頂けたらいいです。
検査自体が地獄の痛み苦しみでな上に、精神的に傷つく対応をされたので私は帰りの車の中でわんわん泣きました。
夫が帰宅し、夕食後いちおう明るいトーンで「今日さ、婦人科行ってきたんだけどさ」と切り出しましたが、話しているうちに恐怖が蘇り、また号泣。
夫は私を抱っこしながら私の嗚咽が止まるのを待ち、少し落ち着いてから私がやっと「しばらく無理、何も考えたくない。」と告げると「そうかー、そうだね」と頭をなでながら慰めてくれていました。
これは私の中では婦人科滅多打ち事件という名で生涯一痛い経験として年表に刻まれています。
ガッデム!
レス界へようこそ
そんなわけで、私は事件以降しばらくは仰向けでM字開脚をするだけで悪寒が走り、極度におまたの防衛反応が過剰な状態に陥りました。
なので「こんなんなら当然逃げてよかろう」と自分に免罪符を下ろし、シモ方面を忘れて暮らし、メンタルの回復を図ります。
数か月経つと、だいぶ記憶も薄まりだして無感情でM字開脚出来るようになったのですが、そうなるとさすがにいつまでもセックスから目を背けた生活を見直さなければなりません。
しかし、それまでが途切れそうながらもなんとか続けていた生殖活動でしたから一旦ブッた切ってしまうと戻れない…ゼロから1のハードルがきつい……。
夫からは「そっとしておく」という名のノーアプローチ状態が続き、私から動かないと事の進展が望めないのは分かっていました。
でももうセックスや子供に関して夫婦で話題にすること自体が、かなり勇気のいることになっていました。
この頃から、私はネットで頻繁にセックスレス関連の記事を読むようになります。
美人女医のコラム、AV男優のお悩み相談、知恵袋、発言小町……etc
私は自分と同じ境遇の人をいつも探し、道が開けるようなアドバイスを探しました。
しかし、私の分析によるとセックスレス関連の女性のお悩みは、ほぼ以下の3種類。
①自分はしたいのに夫はしたくない「拒否られレス助けてタイプ」
②自分はしたくないのに夫はしたがる「レス続行したいのにタイプ」
③二人ともしたくないからしてない「このままでいいのか?タイプ」
それで、この中で言えば私は③に当てはまるのかなと思いますが、このお悩みを持つ相談者さんは、だいたいが「夫婦仲が冷め切っているケース」なんです。
だから、回答も大抵が「まずは肩を揉んだりといった日常の軽いスキンシップから復活させてみて」とか「二人が満足するなら手を繋ぐなどスキンシップだけでもOK」みたいなゆるふわ回答ばかりで、私はいつも心で叫びんでいました。
違う…スキンシップはあるんだ…
スキンシップがある上でセックスがないんだ…!
そしてスキンシップで子供は出来ないんだ…!!
私たちのような「仲は良いけどレス夫婦」って、実際そんなにレア案件じゃないと思うのですが、なぜか「二人ともしたくないレスは仲が冷え切ってるパターン」しかなくて、同じ状況を訴えている相談にも有意義な回答にも巡り合えませんでした。
あと、こういう相談の答えってよく矛盾してて
「男性は鈍感な生き物。伝えたいことは直接言わないと分かりません。」
と書いてあるかと思えば翌週には
「男性はデリケート。女性からの直球な誘い文句はプレッシャーで逆効果かも。」
と書いてあったりします。
いや、「言え」なの?「言うな」なの!?どっち!?どっち!?どっちなんだいッ !?と、なんど筋肉ルーレットが発動しそうになったことか。
私はいつも「くだらん、男性はデリケートだの察するのが苦手だの、そんなの結局個人差じゃん!」とプリプリしつつも、頭の中で本当は分かっていました。
「個人差なんだからそんなの読むより、夫に聞くしか答えは出ない」という真理が怖くてそんな記事に救いを求めてる自分が一番しょうもないということを……。
そんな自己嫌悪を幾度となく繰り返し疲れた頃、私はやっと夫の気持ちを直接聞くことにしたのです。
夫の本心
私が夫にずっと聞きたいけど聞けないでいることは2つ。
1現時点で子供が欲しい気持ちはまだあるのか?
2長いことセックスしていないけど欲求はないのか?
無事に話し合いはできたのですが、私は納得と腑に落ちなさの入り混じった複雑な心境でした。
まず、腑に落ちなかった点は、勇気を出して夫に1つ目の質問をした時のこと。
私が「ずっと妊活もしてないけど、子供ってもう諦めた感じ?」と聞くと、夫は少し驚いたような顔で答えました。
「え、あの、婦人科の後のやつ、二二ちゃんの終了宣言だと思ってたから俺ももうそのつもりでいたよ?」
私が「え?」となって、よくよく聞くと、夫は私の号泣を「妊活もう無理ギブアップです宣言」だと捉えていたと言うのです。
「そんで、二ニコに無理させてまで子供が欲しいわけじゃないしなぁと思ったから俺も別にいいやってなったんだよ」と。
いや、あれで泣いてたのは単に婦人科でめちゃめちゃ痛くて怖かったの思い出して泣いちゃっただけで、私「しばらく何もかんがえたくない」としか言ってないよ?
そんで仮にその時そういう意味で受け取ったとしても、そんな大事なことは落ち着いてから再確認しない?
さらに、自分の考えもそうなったっていうのを私に言ってなくない?
後から言語化したらこういう文句になるモヤモヤが頭の中で立ち込めてゆき、私は「そうなのか」と言ったきりフリーズ。
1分くらいしてなんとか再起動した頭で「とりあえず二個目の質問を!」と思い、モジモジしながら聞きました。
「そんで、もう長いことしてないけど、体的には、その、大丈夫なの?欲求というか、そういうの…」
すると夫は、困惑したような顔で話してくれました。
長い話でしたが、要約すると夫がセックスを避けるようになった理由は「トラウマ」でした。
私と別居から復縁してしばらくあった営み行為の中で、どうしても私が他の男性に抱かれていたという事実がよぎってしまい辛くなった、と。
でも、完全に私のことを赦すと決めた以上その辛さを私の前に出してはいけないと思ったので、でもすると辛いからまた遠ざかるようになってしまっていたと。
そう告白をしてくれました。
聞いた時は「なるほど」と大変納得しました。
夫の気持ちにも納得がいったし、結局は私の悩み苦しみは、自業自得だという状況にも納得しかありませんでした。
でも今思えば、ここが分岐点だったような気がします。
ここから何年も自分たち夫婦の関係性を考える時に、この場面が思い浮かびました。
夫にトラウマを植え付けたのは私だという罪悪感が強烈にある一方、子どものことを明確に確認せずに決めつけられていたことへのイラつきみたいな感情が蘇り、感情のやり場が無く苦しむことが度々ありました。
結婚生活が道だとしたら、ここから下り坂がはじまって最終的な別離に繋がっているという感じがしています。
いとなまない日々①
夫の告白以降、私は自分から誘うことが出来なくなり、もともと私が誘わないと始まらない2人なので、ここから約7年に及ぶ営まない日々が始まります。
ええ、皆様においては「ここからかよ!」が正しい反応だと思います、はい。
でもここから離婚までの間、夫婦の空気感はそれまでが「嵐」だとしたら、ただひたすらの「凪」。
セックスもないけど、夫婦で派手にぶつかることもなく、ただただ穏やかに暮らす日々でした。
33歳になってすぐ私の父が亡くなり、しばらくはそれに伴う後始末に追われ、それが落ち着くと今度は夫の転勤で福岡に引っ越しがあり、福岡で落ち着いた頃の私たちは36歳を過ぎていました。
子どものことは、35歳になった時に、まだ自分が婦人科の診察台に座るイメージだけで寒気がすることから「あ、私はこの恐怖は一生克服できないな」と悟り、一人で辞退を決めました。
本当は40歳までは悩みそうな予感がしていたのですが、(母が私を妊娠した年齢なので)35歳もキリがいいし「老後に後悔しない程度には足掻いたな」という実感が生まれつつあったので、未練無く産まない人生の選択に至りました。
さて、そうは言っても子作りにタイムリミットはあれど、性生活にタイムリミットはありませんから、レスであることを憂う生活は続きます。
そもそも改めて考えてみると、人間がセックスをするのは繁殖と娯楽が目的で、繁殖目的を捨てたのだから、私が今後セックスをするとしたら娯楽のためということになります。
でも若い頃のように娯楽目的で夫とセックスする気力はもうありませんでした。
ついでだから書いておくと、たまにTVで「まだ現役だで!」みたいなことを言うお爺さんがいるけど、その世代って若い頃に世の中のほかの娯楽が発達してなかったから、セックスが娯楽の選択肢として馴染みがあってそのままお爺さんになっても続けてるだけだと思うんですよね。
こんだけ世の中に娯楽の選択肢が増えたら、そりゃわざわざ人生が変わるリスクもあるセックスを娯楽で選ぶ人は減るだろうし、「若者の草食化」も当然の流れだよなぁと思います。
そういうわけで私も他の娯楽で忙しいし、夫のことは常日頃「好きだな」と思う場面はあったけど、もう兄妹や親友のような好きの感覚だったので全然する気が起きなかったのです。
「だったらウチは2人ともしたくないからしない」で、一件落着じゃない?もう悩むことなくない?
私の心の中のもう一人の自分はよくそう言っていましたが、そこで素直に「うん」と言えない自分もいるのが人間の複雑なところ。
この頃になると「レスであることが悩み」という状態の人が羨ましく思えていました。
なぜなら、私は平穏な生活を送りながら、レスが嫌なのかこのままでいたいのかすら分からないという、心境ぐちゃぐちゃ地獄にいたからです。
いとなまない日々2
そうなんです。
私が雑誌などで悩み相談を読んでも相変わらずピンとこないのは、そもそも自分自身で自分がどの程度セックスを求めているのかよく分からない状態だからです。
そこで初心に立ち返り「私ってもうこの先セックスしないの?」と未来を考えてみたのですが、やはり夫とはこの先セックスする想像ができませんでした。
かといって夫以外の人とセックスするとしたら不倫か離婚かの2択となりますが、どちらも考えるだけで気が遠くなるほど面倒くさくて、「その面倒さを上回る程にセックスしたいか?」と考えると、全然したくない。
となると、この時点で私はこの先セックスのない人生だと確定するのですが、そうなると悲しいような切ないような謎の絶望感に襲われるので、また最初の質問に戻るという無限ループ…。
一体私はどうしたいんだ!?セックスがしたいのかしたくないのか自分で全然わからない!夫婦仲の問題なのか?でもムラムラしないだけで仲は良いのに、わざわざ問題視するほうが引かれる?どうしよう、どうしたいかが分からない!
ウガー!
いつもじゃないのですがたまにこういう波があって、自問自答しては苦しんだ末に知能がゴリラになるのを繰り返していました。
なんとかそのモヤモヤから脱したくて、映画のアメリカ人とかが夫婦でカウンセリングに行くのを見習って、私たちも夫のトラウマを解き夫婦再生のためにはそういうところに行ったらいいんじゃないかと調べたりしましたが、結局やめました。
というのも、私が色々悩んでいる傍らで夫はセックスレス状態をまったく気にしていない様子だったからです。
そりゃ、本心は分かりませんが、思えば若い頃から夫は私よりも欲求の無い人でした。
人を観察していると、その人の「性欲の強弱」は「他人への関心度」に比例する気がするのですが、それで言うと夫は異性への関心どころか、男女問わず他人への関心が薄い人なので、レスになる前から私は「本当は夫には性欲など無いけれど、親切心があるから私に応じてるだけなんじゃないか?」と疑ってしまうほどでした。
ですから、夫の発言からは何年も私たちが営んでいないことも「長年連れ添った老夫婦が、互いに体は欲さなくなったが心の絆が出来上がっているから、居るだけで満足できる存在になった」みたいに思ってるフシがよく読み取れました。
そんな夫と一緒に暮らしていると、夫は煩悩を断ち切った高尚な人間なのに、私は下衆で、「いい年してほかに考えることないの?」と自分を卑しく感じたり、私も夫のように達観できたらいいのに、と何度も思いました。
というわけで、私の心の中はずっと混沌としていましたが、表面的には爆発に至るほどの熱量で不満があるわけでなく、良く言えば平和、悪く言えば進展のない生活が続いていました。
そして39歳になってすぐ「一見すると些細な出来事」があってから、私の中で夫が別人になりました。
自分の生き方と夫の存在についてもろもろ考えた結果、別れたほうがもっと幸せになりそうだと思ったので話し合いを経て理解を得られ、1年後に無事に離婚に至ったということです。
というわけで、下地としてセックスを含むコミュニケーション不足は絶対ありますが、仮にセックスしている仲だったとしてもおなじ「一見すると些細な出来事」があったら私は最終的に離婚していたと思います。
だから離婚原因もセックスレスだと思っていないのです。
でも私が何と言おうと「セックスレスが原因ね」と思う人はいると思いますし、今となっては私も本当にどっちでもいいことだと感じます。
しかし、そうなるとやっぱり、冒頭に書いたように「じゃあなんでそんな所に私はこだわっていたんだろう?」という疑問が拭えません。
実はこの文章、書き始めてから2か月経つのですが、ずっとそのことを考えながら書いてきて、やっと答えにたどり着きました。
それは「自分の中にこれまで気付いていなかった偏見があったから。」でした。
次の章で説明します。
衝撃のチッチ
私が自分の中の偏見に気付くヒントになったのは、ある女性の存在でした。
ずっと忘れていたけど、今回この文章を書くにあたって記憶を整理していたら出てきました。
それは私の職場に短期派遣で来てくれていた27歳くらいの子で、今思うと顔がBiSHのセントチヒロチッチに似ていたのでここではチッチと呼びます。
チッチは明るくオープンな性格で、歓迎会の時にアッサリと自分がバツイチであることを皆の前で明かしました。
そこで誰かが「その若さでなぜに......?」と聞くとチッチはまたケロリと答えます。
「あっレスです~!子どもも欲しいのに全然してくれないダンナだったんで、つまんないから別れちゃいました(^〇^)!」
この発言は私にとってかなり衝撃的でした。
なぜかというと、レスの人は当然「①したくないからしていない人」と「②したいけどしてない人」の二通りいるわけですが、それまで私が出会って直に話を聞いたことがあったのは①の人だけだったからです。
①の人にとってのセックスレスは「したくないことをしていない」という、本人にとってはなにも矛盾がない状態なので、そこに問題意識や特別な思い入れが無いのか、これまでもフランクに話してくれる人はいて、皆「したくないからこれでいい」という感じでした。
でもチッチは完全に②の人でした。
私はすごく衝撃的であるのと同時に、なにかモヤっとした感情が心の中に広がったのを覚えています。
が、当時は深く考えず、その後もチッチとは特に親しく話することもなく派遣期間が終了して去り、何年も彼女のことは忘れていました。
今、その発言を思い返して感情を再燃させると、心がモヤっとした理由が分かりました。
私はチッチに対して「羨ましい」と「ああなりたくない」という、矛盾する感情が同時に生まれたのだと思います。
いつも私の心のモヤは矛盾のある所に発生するので間違いないです。
私はまず、チッチがレスを公言できているところを「羨ましい」と思いました。
その頃、私はもう完全なレスになって5年くらい経っていたのに、若い頃からセックスの話題も平気でできるような親友にすら、なぜか言えてなかったからです。
だから、人前で堂々と言えるチッチを「すごい…!」と思ったし、下世話な話なのにそのオープンさのおかげでカラッとした爽快感さえ感じ、羨ましく思ったのです。
そして、そんなに羨ましいと思う一方で、私はなぜ「ああなりたくない」とも思ったのか?
セックスと女の価値
私は、チッチの言葉を聞いた時になぜ咄嗟に「ああなりたくない」とも思ったのか?
それを考えていくと、自分の中に密かに「異性に求められない女だと思われたくない」という気持ちがあることに気付きました。
「そんなのわりと誰でも思う気持ちじゃない?」と言う人はいるでしょうが、私は、「自分は違う」と思っていたのです。
いつも言ってますが、私は普段自分の性別を意識して生活していないし、「女性らしさ」を押し付けられるのも嫌だし、「女としての価値」みたいな話題は、男性が女性を値踏みしているニュアンスを感じるので、嫌いなのです。
だからいわゆる「男ウケ」を意識せずに、女性が自分自身の好きな容姿や言動をしている状態に美学を感じるというか、まぁ、簡単に言うとフェミニストである自覚があったわけです。
でもそれならば、「好きに過ごしていたらパートナーとセックスレスになった」ということも、私自身が自分を貫いた結果だから、私は本来ドーンと受け止めるべきだと思うんです。
そして、自分自身がドーンと受け止めて肯定できていることなら、私は親友にはなんでも話せるはずなんです。
それは、たとえ人に「セックスレス=私が女性として求められなかった結果」だと繋げた見方をされたとしても、本来なら「それが何か?」くらいの態度であるのが、私が理想とする人間像なんです。
でも私が親友に話せずに隠していたかったということは......
チッチに対して咄嗟に「ああなりたくない」と感じたということは......
私の心の根底に「異性に求められる人間のほうが価値が高い」という偏見が存在していたからじゃないかと思うのです。
なぜそう思うかというと、その偏見がなければ、私はセックスレスをただの人間関係のこじれの一種だと割り切っていられるはずで、親友にも渦中に「そういうことになってんだわ。」くらいのトーンで話せていたはずなんです。
それが私には出来なかったし、アッサリと明かせているチッチを見て「なりたくない」と感じた。
それは私の中に異性に求められる人間のほうが価値が高いという偏見があるからこその「セックスレスであることを人に明かす→私が夫に求められていない女だと思われる→自分の価値が下がる→それは嫌だ」という思考回路があった証拠。
異性から見た性的価値うんぬんを「くだらない」と切り捨てるような人に私は憧れ、理想としていたのに、実はずっと自分の性的価値の下落に怯えていたのですね……。
今、書きながらそのことが分かったので、わりとショックというか愕然としています。でもそれ以上に自分の偏見に気が付けたので良かったという爽快感も感じます。
なにより、冒頭の「?」が解決できたので無事に書き終えられそうで安心しています。
さいごに
現在、離婚後にできた恋人とはよくセックスしてるのですが、状況が変わってさらに分かったことがあります。
まず、なんでセックスレスになったのか分かりました。
それは、私はずっと自分のセックスをしていなかったからだと思います。
どういうことかというと、洗い物のように若干の義務感さえあるイメージになっていたセックスでしたが、恋人がまたできたことで「好きだから相手とくっつくのが楽しい」という娯楽感覚を思い出しました。
すると、今まで自分も、夫に限らずどの相手も、どこかのAVを真似していただけなのかもしれないと気付いたのです。
思い返せば、昔からセックスの直前までは相手とふつうにおしゃべりしているのに、始まると会話をやめて男性は真剣な顔をして私は恥ずかしがる。
それは、セックス時のマナーというか「しかるべき型」に従って、だいたい同じプログラムを演じているような時間だったように思います。
だからセックスをしている間だけ、自分も相手も別人格のようで、私はそれを「そういうもの」だと思っていて、疑問を持たずにこの年齢まできました。
でもセックスがコミュニケーションであり、愛情表現のひとつだと考えると、人それぞれその個性が出るずなのに、皆が「しかるべき型」に従っているのはとても滑稽なことだと思うようになりました。
今の恋人とは自分も相手も日常から地続きの人格でできるし、誰の真似でもないセックスなので自由でやりがいを感じます。
それでもいずれセックスレスが訪れる日が来るのかは分かりませんが、まぁその時はその時で今度は親友に相談できるのでいいです(笑)
ついでなので、もうちょっと定型セックスについて思うことを書きますと、なぜ男女共にセックスのしかるべき型が出来ているのかというと、おそらく多くの男性のイメージする「セックスってこんな感じ」という入り口のお手本が、日本のアダルト動画がメインだからだと思います。
AVの世界は男性の欲望ファンタジーを映像化したものですから、そこに「男性に都合の悪い女」というのは出てきません。
生身の女性相手にやったら、人によっては痛さでダメ、恥ずかしくてダメ、生理的にダメ、という行為が含まれていたとてもAVの中の女は全員「気持ちよがることになっている」ので、男性は自分の彼女にも同じことをしてみたくなると思います。
男子がエロ本やAVを見て楽しみながらファンタジーな女扱いを学ぶ頃、女子には適したエロコンテンツがありませんので結局早めに経験した友達の話というのが女子の一番教材になります。
しかし、早めの経験女子の教えも結局は相手の男子からの受け売りですし、彼氏が求める女の姿に自分を近づけるのが楽しい年頃なので、AV女優がお手本の「恥じらいを持ちつつ気持ちよがる女」が女子のしかるべき型として流布されていきます。
そういうわけで、男女ともにAVセックスの模倣に励んでいるだけで、愛情表現の交換という本来のセックスの意味を成していない人がすごく多いんじゃないでしょうか。
べつに私は世の中の人のセックスが定型だろうと楽しくなかろうと、いいっちゃいいんですけど。
でも女体のほうがヤワだし、妊娠する仕組みも女体にだけついてるし、男性優位のAV通りに男女が従ってやってたら損するのは圧倒的に女なので、やっぱり真似しないで各々自分達の相手に合わせて現実に即したセックスをしたほうがいと思いますよ。
さて、最後の最後に。
今回こんな文章を書いた1番の目的は、自分の心の整理と納得のためですが、次の目的はやっぱり私は私のような人を励ましたいんですよね。
セックスレスの人の中には、私なんかよりもっと真剣に「パートナーに相手をしてもらえない人間」というレッテルを心に貼って苦しんでしまっている人もいると思います。
それで、私もそうだったので分かりますが、「いい年してセックスのことで悩んでいる自分が情けない」とか、パートナーに拒絶されたりすると、性欲のある自分自身を汚く感じたりして自分を責めたりすることもあると思います。
でも、私も、そうやって自分を責めて何回考えても自分がセックスしたいのかしたくないのか分からなくて苦しかったけど、今は自分が何を求めていたのがやっとわかってきたんですよね。
私が求めていたのは、セックスの行為そのものじゃなくて、夫とコンスタントに体が一つになることで心も一つになっているという実感だったんだと思います。
セックスができる相手としか到達できない、特別な人間関係が夫と築きたかったのだと。
それが分かることで、最終的には別れに至りましたが、そこに真剣になれる相手と私は結婚してたんだな、良かったな幸せだったな、という想いにもなれました。
だからセックスレスの悩みは、ただの性欲や欲求不満うんぬんの話じゃなくて、人として愛情を注げる相手と真摯に向き合っている証拠だと私は思います。
ですから、もし今これを読んでいる人で、悩み苦しんで自分を責めるようなことがあったら、「あなたは汚くないし間違ってないから大丈夫」と伝えたいです。
日本ではセックスを「猥褻なもの」という側面でしか捉えていない文化が強すぎるから、「セックスレス=欲求不満な人妻」みたいに簡単にエロに繋げられてしまうけど、本来はセックスも人の命の誕生に関わることだし、人が人と繋がりたいという欲求自体は、尊いことだと思います。
だからそこに真剣に悩む自分を卑下することはないんです。
セックスレスで思い悩んでいたかつての私にも、出来るならそう言ってねぎらいたいです。
ふう。
今年の頭に離婚して、今年のうちに清算したかったことなので無事に書き終えて良かったです。
離婚して、自分の好きな文章を書くことに思い切り時間が費やせると思っていたけど、なかなかそうもいかなくて、相変わらず今年もブログは放置してしまいました……。
その分、熱量が凝縮している文章が書けた気はしていますが(笑)
また来年もよろしくお願いします。
では、皆様良いお年を。