奇妙なカップルになりたくない
先日、夫と小旅行に行ってきました。
行先はどことは言いませんが日本を代表する温泉街です。
夕食付きのホテルではなかったので、夜「何食べようか」とネットで調べてたら、近くに良い回転寿司屋さんがあるっぽいのでそこへ行くことにしました。
時刻は夜の8時ごろ、人気店らしく5組ほどの客が入口のベンチで待っていました。
「へぇ、夕食時を外してきたのに待ってるもんだなぁ」と思いながら店内を見ると、なるほど人気の理由も分かる気がします。
そのお店は回転寿司とは言いつつも、「みょうにお洒落」なんです。
どういうことかというと、まずふつうの回転寿司屋というものは酢飯のにおいがたちこめ、蛍光灯の煌々とした明るさのもとレーンに乗った皿が回っているものですよね。
家庭用流しそうめんマシンを見るとなぜか「ハハハ」と笑えるのと同じ道理で、私は「食べ物が回る」という事態が、どこか間抜けに見えます。だからその時点で回転寿司屋という空間の「おしゃれ指数」は「おもしろ指数」に負けてます。
さらに、ふつうの回転寿司屋で『活き〆カンパチ』を注文すると、ねじりハチマキ姿の板さんに「ぃよっ!カンパチいっちょぉーう!」「カンパチ入りゃああーす!」と必要以上の雄叫びを上げられ、こっちは「あの…食べるネタをいちいちバラさないで…なんか恥ずかしいから…」みたいになります。その気恥ずかしさは、いちいち同行者と何の会話をしてたか忘れさせ、まともな話なんかゆっくりできたもんじゃないです。
おそらくふつうの回転寿司屋がプロデュースしたいのは「お祭りわっしょい空間」なので、その雄叫びもしかるべき演出なわけで、ようするに店側だって店内空間のおしゃれ指数なんかさほど気にしてないってことです。
もちろんそれでいい。客だってほとんどの人は回転寿司屋におしゃれ感は求めてないのだから。
簡単に言うと「イタリアンレストランでプロポーズしようとする人は沢山いるだろうが、回転寿司屋でプロポーズしようという人はほとんどいない」ってことですかね。
回転寿司屋というのはそういう場所だと私は思うし、世の中の人もたいていそう位置付けしてるものだと思います。
が。
その店は違った。
まず外観がかなりオシャレで、こじんまりとしたカフェにしか見えませんでした。(あまりにカフェっぽいので、ナビが「目的地周辺です」と言うのに私らは「嘘つけ、カフェしかないじゃん」と一回通り過ぎてしまったほど。回転寿司屋の記号である、のぼり旗も無い。)
店内も茶色い木製の壁にかかった黒板にチョークで書かれた手書きメニュー、灯りはすべて間接照明で、姫野カオルコ氏の言葉を借りて言うと「『敵機の襲来を恐れているのか?』というくらい暗い。」だったし、店員はねじりハチマキなどせずに、ラーメンズの衣装のごとく上下黒のシャツとズボンに黒のギャルソンエプロンをしていました。
これだけでも「おっしゃれー」なんですが、さらに決定的なのは、レーンが止まっているんです。食べ物が回ってないから空間が間抜けになってない!
「じゃあなんであるんだ?」という疑問は浮かびましたが、とにかく真ん中にあるU字型のレーンは回っておらず、客席から見える場所には板前もおらず、注文は紙に書いてラーメンズに渡し、ラーメンズがそっと席まで持ってきて給仕してくれるスタイルだっったのです。もちろんラーメンズは何を注文しても雄叫びを上げない。助かる!
私は「回転寿司屋はおしゃれじゃない」という常識を覆す、こんなムーディでお洒落な回転寿司屋(正確には回転してないんだけど)の店は初めてだったので、「ほぅ」と感心しました。冒頭に書いた「人気の理由に納得した」というのはこういうことです。
おそらくその店は、地元でも「ムーディな回転寿司屋」で評判なのでしょう、時間帯のせいもあったとは思いますが、客層がファミリーよりデートカップルのほうが割合が多かったように思います。
そこで私は1組の奇妙なカップルの姿を見ました。
彼らは私達の前に待っていて、なんとなく漏れ聞こえる会話を聞く限りどうもまだ本格的に交際している仲ではない様子でした。
女性は会話中に「単位」や「ゼミ」といった単語を出すことから女子大生かと思われます。
茶色くゆるふわな髪を後ろでくるりんぱして金色のバレッタで留めて、白のニットとプリーツスカートを着てて、ギャルでもなく地味でもなく、一言で形容するなら「MARYが見れなくなっちゃってさみし~(>_<)」みたいな子です。
男性のほうは彼女に比べずいぶんと年上に見えました。
痩身で背が高い方だったのでパッと見は、べつに「おじさんと若い女の子」には見えなかったものの、頭髪がやや薄いのと肌の感じや服装から判断して私より少し年上、おそらく39、40歳かと思いました。アンガールズ田中に少しだけ似てました。
年齢だけで言ったら「おじさんと若い子」のカップルです。
2人の会話はあまり弾んでおらず、女の子(以下メリーちゃんと称す)がはじめ大学の勉強についての話をした後は、さして実のある話はしていませんでした。
時々沈黙に耐え切れないメリーちゃんが「雨降らなくてよかったですね」とか「今日、外あったかいですね」とか言うものの、田中は「そうだね」とか「昨日は寒かったけどね」とか返事をして終わり。
でも田中はかなり頻繁にメリーちゃんの横顔をチラ見することから判断して「好きだけどうまく話せない」的なやつで、2人で会うのはまだ初回か二回目くらいといった所でしょうか。
で、この2人のどこが奇妙だったかと言うと、店に入ってからのことです。
私も終始彼らに注目していたわけではないので、カウンターの隣同士になったものの、初めは特に彼らのことを気にも留めてませんでした。
しかし食事中盤、ラーメンズが私の隣のメリーちゃんの前に給仕した大トロ4カンの見た目のインパクトが強すぎて、思わず私は彼らのカウンターに注視してしまいました。
そしてその時、彼らの前には「高級ランクの皿だけが積み上がっている」ということに気が付いたのです。「わ、」と思いました。
そのお店はネタのお値段が130円、200円、260円、300円、500円の5段階設定だったのですが、メリーちゃんと田中の前には260円以上の皿しかなかったんです。
こういう時心の中で「わ、」となりますよね、え、なりません?私はなります。「わ、」て。
でも別にそこが奇妙要素なんではなくて、私が「あれ?」と思ったのは彼らの注文の決め方なんです。
その店のメニューはこんな感じだったのですが
大トロをもぐもぐしているメリーちゃんの横で田中が「次なんにする?」と見せているメニューは②と③のページだけなんです。安い130円200円のネタが載ってる①のページは折り返して裏にしてて見えない状態なんですね。
その段階では私はその事を別に何も思わなかったのですが、メリーちゃんがメニューを自分で観たそうに「んー」と手を伸ばすと、なぜか田中はメニューを手放さないんですよ。
その時、私は初めて「あれ?」と思いました。
まるで田中が「ここから選んで」と無言の圧力をかけている感じがしたんです。
メリーちゃんもそれを感じるのか、まだ我が出せる関係性ではないのか、出した手をひっこめて高級ネタの中から「じゃあ、ヒラメを…」と言って、田中は嬉しそうに「ヒラメね」と注文用紙に書いていました。
この光景、一度だけなら気にならなかったのですが、その後何度もあって、ここまで毎回メリーちゃんの伸ばした手を無視する田中に対し、私は「なぜ?」と気になってしまいました。
そんな感じで少しだけ2人のことを気にしながら食事をしていると、決定的に「あ、田中わざとやってるんだ!」と思う場面があったのです。
それは私が玉子焼きを食べた時の事。
その店の玉子焼きがすごく美味しかったんで、私、思わずわりと大きめな声で「うわーおいひー」と言っちゃったんですね。
そしたら、メリーちゃんがそれに反応してチラ見されて、たぶんメリーちゃんも玉子を食べたくなったんだと思うんですよ。
そこにちょうど田中が「次、どれ?」とメリーちゃんにメニューを見せてきたんですけど、玉子ってたいてい寿司ネタで一番安いじゃないですか。
だからメリーちゃんも裏面になってる安ネタのページを見ようとして、かつてない力強さでメニューを掴もうとしたんですね。
そしたら田中、グッと自分のほうにメニューを引き寄せてメリーちゃんにメニューを渡さないんですよ!
その瞬間、メリ―ちゃんと私、多分同じこと思いましたよね。
「なぜだ、田中!?」
しかしメリーちゃん、ここで初めて我を貫きました。
再度メニューに手を伸ばしながら「あの、玉子が…」と「玉子が食べたい意志」を口に出したんです。
しかしそれに対してなんと田中はフッと笑って「遠慮しないで、ここから選びなよ」と言い、メニューをメリーちゃんから死守したのです!
またもメリーちゃんと私の心はシンクロしてたと思います。
「なんなんだ田中!?」
それでもメリーちゃんは大人しい性格なのか、奢られる事が決まっていてその引け目なのか「あ、はい…」と玉子を諦め、他のものを注文していました。
この光景を見た時、私はふと自分の過去の記憶が頭に浮かびました。
それは、若い頃に歯科助手をしていた時のことです。
私の勤めていた歯科医院は基本、院長(30代男性)とその奥様(20代女性)と私、の3人しかスタッフが居なかったのですが、院長夫妻は私の事をとても可愛がって下さり、3ヶ月に一回くらい良い御飯に連れてってくれました。
その時、いつも「なんでも好きなの頼みなよ」状態だったのですが、院長は「好きなの頼みなよ」と言いつつ、実際は私が好きなものを頼むことが出来なかったんですよ。
なぜかというと、院長は高いものしか頼まさせてくれなかったんです。
何かのコースで「松・竹・梅」と3段階あるとしますよね。私が「梅か竹がいいな~」と思いながらそのあたりのメニュー詳細を見てると、院長が「なーに遠慮してんの!松にしなさい!」とニッコ二コで言ってきます。
そしてその笑顔からは、なにか無言の圧力を感じます。
まぁ「上司ってそういうものだよな」ですし、奢ってもらう人が奢ってくれる人の「気分を接待する」っていうのは大人のマナーかなと思っているので、もう「奢られる前提」で一緒に店に行ってる限り、私は院長に従ってたんですよね。
私が「へへ、じゃあ松でお願いします。」と言うと「そうそう、初めからそう言いなさい^^」と満足気な院長。
こうした場面を振り返ると、院長達との食事は、表面的には「今日は日頃の慰労もかねて美味しいものを食べて親睦を深めよう」という建前がありつつも、水面下には「私の食事代」と「院長の満足感」の交換会みたいな部分があったんだな、と思います。
でも、こういうのは仕事関係の相手となら、避けて通れない道だとは思いますし、私も沢山ご馳走されて良い目を見てますから、別にいいんです。
ただ、プライベートな男女関係で食事をしている時にそういった部分があると、私はゾワっとしてしまいます。
なんで、ゾワっとするかという説明に、田中とメリーちゃんの関係を使わせてもらいますね。(二人の考えが私の想像通りだったと仮定して)
ぶっちゃけ、田中がしているメリーちゃんへの「おもてなし」は、ズレてると思うんですよ。
田中はメリーちゃんに対して「好き」なのか「今夜キメたい」なのか、その両方かは分かりませんが、とにかくメリーちゃんにお寿司を奢ることで自分の好意を示す、おもてなし中なわけです。
「食事を奢る」というおもてなしは、好意と経済力が同時に示せるし、好きな人がなんか食べてる所を見るのは楽しいので、みんなよくやると思います。
私はそれ自体は別に悪いこととは思いませんが、田中がズレてるのは、その「奢る=おもてなし」のクオリティを高めることに集中するあまり、肝心の「メリーちゃんの意志」をないがしろにしているところです。
田中がその夜「高級寿司ネタだけを遠慮なく頼ませてあげる俺の経済力、気前の良さ、優しさでメリーちゃんをメロメロにしよう」といくら頑張ってたとしても、私がメリーちゃんの立場なら、感想は「玉子食わせろ」なんですよ。
「玉子が食べたい」というメリーちゃんの意志を鼻で笑い、メニューを渡さない田中。
つまり田中はメリーちゃんの意志より、自分の「メリーちゃんに高い寿司を食べさせたい意志」のほうを尊重しちゃってるんです。
田中は「今日はだいぶ良いものばかりご馳走したし、大人の魅力を見せられたな」と満足かもしれないけど、メリーちゃんが帰り道「玉子食べたかったなー」と思うかもしれないことに思い及ばない。
田中はそこがズレてると思う。
メリーちゃんが好きなら、メリーちゃんにメニューを渡すんだ田中!
メリーちゃんに選択の自由を!
あなたはメリーちゃんをもてなしてるつもりでも、それは自分の「メリーちゃんに気持ち良く奢りたい欲」を満たしてるだけなんだよ…!!
そこに気が付かない限り、メリーちゃんは心もお股も開かないよ…田中!
なんの話でしたっけ。
ああ、私がこういうのにゾワっとする理由ですよね。
それはたぶん私はこういう奢り方をする人からは「自分が道具にされてる感」を感じるからだと思います。
どういうことかと言うと、プライベートなのに、こういう時にもうひと押し「遠慮じゃなくて、素で玉子食べたいんでメニュー見せてくださいよ。」と言えない女の子って、多分「アレ」が怖いんだと思うんですよ。
「アレ」とは何かと言うと、昔飲み屋で働いてる時に何回か遭ったことがあるんですが、「金持ってます」な男性が「なんでも頼めやー」をしてきた時に、こっちが素で好きなメニューを言ったら「なんだそんな安いの頼んで!俺を馬鹿にしてるのか!?」って怒られるやつ。
過去に私は奢ってくれる男性が、こんな風に激高はしないまでも、ちょっとこれと同じ空気を出してくることが実体験としてありました。
仮にその男性をAさんとします。
私は牛肉より鶏が好きなので焼肉屋で鶏を多めに頼もうとしたら、Aさんは「もっと好きなの頼んでよ、なんか俺のこと貧乏だと思ってない?笑」(冗談ぽく言うのに目が笑ってない)と言うんです。Aさん以外にもこういう事を言われることは何回かありました。
私はコレに出くわす度「なんなんだろう、この思考回路」と思ってました。
院長の無言の圧力も、口に出して言わないだけでこれなんですよね。
食べ物を値段じゃなくて、料理の味として見てれば、安い食べ物が本気で欲しい時だってあるじゃないですか。
なのに「安いメニューを選ばれた→そんな金額しか出せない男だと思われてる?→俺を馬鹿にしてる!!?」って、なんでそう思うんでしょう。
せっかくAさんが「金額に制約なく今日は食事を楽しもう」の席を設けてくれたので、こちらはありがたく「じゃあ今日は二人で好きなものを楽しく食べましょう」の気持ちで挑んだんです。
それなのに実は「安いものを頼まれたら男が馬鹿にされてる気分になるからダメ」っていう制約が存在してて、しかもその制約は表立っておらず、マナーとしてあらかじめ奢られる女が踏まえていないといけない、っていう感じの圧力。
こういう人って「高いものを奢りたい」と思うなら、初めから「高いもの頼め」って言えばいいのに、それだと自分が下品っぽくなるから「好きなの頼め」って言うんだと思うんですが、でもその「好きなの」って、私の「好きなの」だから、私がどの値段の食べものが好きかはまだAさんは知らないんですよね。
Aさんが本当に私に好意があって「好きな食べ物知りたいな」みたいに私の中身に興味を持って「好きなの頼んで」と言ってくれているなら、私が鶏ばかり頼もうが「鶏のほうが好きなんだねー」で済むのが筋なのに、安いものを望んだら「みくびってない?」的なことを言われ「奢り甲斐ないなぁ」と残念がられたりする。(人によっては「馬鹿にするな」とまで言われる)
それって、結局「好きなもの食べさせたい」より、自分が『女に金使ってやったぜー』ていう気持ちになりたいがために「女に奢る」という手段を使ってるだけで、そんなの「私、道具じゃん」という感じがしちゃうんですよ。
私は自分が人間扱いされなかった時、それが一番ゾワッとなります。
100年の恋も醒める。そういう人とは恋愛できないと思う。
Aさんにとっては「好きなの頼め」って言われたら「えーじゃあ、ウニといくらと大トロ!Aさんと来なきゃ、私こんなお寿司食べられなかった~うれしー」っていう奢られ方が出来る女の子が理想だったのかもしれないけど、それは私が院長に提供してた「満足感」の交換会の時のやつだから、仕事関係みたいに「割り切った自分」にならない限り私はしたくなかった。
私は「恋愛に発展するかしないかの男女が一緒に食事をする意義」というのは、相手の好きな食べ物を互いに知ったり、食事の席で色んな話をして性格を知ったり、食べ方や店員への態度がどうだっていうのを目の当たりにしたりして「この人とやっていけるかな」と考える材料を「互いに入手するため」だと思うんですよ。
だから、そういう食事の時に「金額の制約は僕が外すから大いに2人で好きなもの食べて、新しい面を見せ合おう」という意味での「奢り」なら、すごく歓迎できることだけど、相手に貸しを作るつもりとか、奢ってあげる優越感が欲しいっていう思惑が潜んでいて、しかもそれが相手に見えちゃう「奢り」だったら、関係発展のためには逆効果だと思います。
田中とメリーちゃんの話なので、つい「男が女に奢る話」になってしまいましたが、男女が逆でももちろんそうですし。
田中とメリーちゃんは一見「これから」を感じさせるデート中の2人っぽかったのに、その制約、無言の圧力がガチガチに潜んでて、でもそれは「ないもの」としてデートが進行しているところが、少し奇妙に見えたので、頭に「1組の奇妙なカップル」と書いてしまいました。
ちなみに2人は最後、メリーちゃんがデザートを一つ選ぶのに「どれにしよう…」と楽しげに悩んでたら、田中は「悩んでないで、全部頼んじゃえばいいじゃん。」と言ってデザート5種全部を頼み、結局メリーちゃんは1皿しか食べず、田中が「もう無理」とか言いながら食べてました。なんか、ゲスい…。
食べきれないほどのデザートを見た時のメリーちゃんの引きつった笑顔と棒読みの「わーすごい」が忘れられません。
そういうとこだぞ、田中。
※メリーちゃんと田中はもしかしたら仕事関係の付き合いだったのかもしれませんが、事実はわからないので、全部私の妄想として書いてます。
私はカンニング竹山のすべらない話が笑えなかった
あのですね、新年一発目から人様の悪口に聞こえるような話はあんまりしたくないんですけど、土曜にテレビ見てたらちょっとあまりにもひっかかった場面があったので、今日はそのことについて書きます。
それは「人志松本のすべらない話」の中でカンニングの竹山さんがしていた「前田健の葬儀にて」という話。
番組を観ていない方の為に、どういうお話だったかとざっくりと文字起こしします。
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竹山「去年に、僕の親友だった前田健ていう芸人が亡くなっちゃったんですね。彼と僕は同い年でテレビ出だした時期も一緒で、色んな悩みとかも相談して、まぁ親友みたいなもんだったんですね。で、彼はテレビで俺の事が好きだってのもよく話してたんですよ。まぁ、男が好きなマエケンでしたから。
そんなマエケンが去年の5月に突然亡くなっちゃったんですけど、あまりに突然で僕もどうしようか戸惑っていたら、友達の青木さやかから連絡来て『葬儀は何日か後にやるんですけど、とりあえず今晩マエケンさんの実家で身内だけが集まる仮通夜があるので、竹山さん大丈夫だと思いますよ。(特に親しかった竹山さんなので身内だけの集まりに行っても大丈夫でしょう、という意味)』と。
で、夜、仕事終わってから初めてマエケンの実家に行ったんです。そしたらもう、普通のお葬式ですよね。近所の方とか親戚の方がいっぱい来てる。
で、マエケンのご遺体の寝ている頭のところにお父様が座ってらっしゃった。
僕、初めてマエケンのお父様を観たんです。まぁ、お父様がご立派な人で、弔問に来た人に『健はね、頑張りましたよ』『健は人生まっとうしましたよ。』って一言ずつをかけてて、感動したというか、ああ、お前良い親父に育てられたなぁって思ってたんですよ。
(この後、マエケンのご遺体が生前いつもかぶってた帽子を脱いだ状態で思った以上にハゲてたけど笑っちゃいけないから我慢しながら順番を待った、というくだりがあるが省略)
で、やっと自分の番が来たんですよ。ものすごく悲しかったですよ、親友が亡くなっちゃって。で、香典出してご焼香してたらその気丈なお父さんが急に『う“ぅぐうぅー』って泣きだしたんですよ。で、僕の手をこうグワーと掴んで『竹山くん!竹山くん!!』って。
周りの方たちも気丈なお父さんが急に泣き出したから『えっ?』ってなってたら、お父さんが『竹山くん!竹山くんっ!!健はね…竹山くんのことを愛してたんだよお!!!』(ここで会場大笑い)」
松本「話変わってきたね」
千原Jr「親公認だったん(笑)」
竹山「いや、知らねぇし。周りの人も『ええっ?』って…(会場の笑い続き)
で、すいません!すいません!っつって逃げ出したって話です(笑)」(会場爆笑)
松本「あ、そうだったんやな、ちょっとそういう想いが強かったんやなー。」
竹山「だからマエケンはお父さんに話してたんですかね。」
松本「好きな人がいるって」(会場笑う)
竹山「そう、好きな人がいるって(笑)でも僕お父さんと会ったこともないし、いきなりお父さんにそれお葬式で言われても…(苦笑い)」
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と、文字だと多少印象変わっちゃうかもしれませんが、竹山さんのお話はこういう内容だったんですね。
で、私一人で観てたんで他の人がどう思ったかはこの時点でまったくわからなかったんですけど、この話、純粋に1ミリも笑えなかったんです。
しかも、頭の中で「不謹慎な!」みたいに、即「こういう理由で笑えない」っていう答えも出ない笑えなさなので「けしからん!」的な怒りでもなくて、笑えない自分とテレビの中の大爆笑のチグハグさにただひたすら「なんだ?なんだこれ??」って戸惑う感じになったんですよ。
で、ちょっと考えて思ったことをツイートしたのがこちらなんですが。
ねぇ、今カンニング竹山がした「急死した前田健が親友の竹山を好きだったのを葬儀で前田の父から『息子は本当に君の事愛してたんだよ!』と告白された」って話、これって笑える?もし亡くなったのが女性だったら美談か、少なくとも笑わないよね?男同士だから笑うんだとしたらひどいよ…#すべらない話
— ふつうの桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2017年1月7日
まぁ説明しますと、とりあえず私は自分が笑えなかった原因をちょっと考えてみたんですね。
まず推測するに、竹山さんが「このエピソードを『すべらない話』でしよう」と思ったからには、竹山さん的にこのエピソードに「ここが面白いぜ、笑えるぜ」って部分があったからだと思うんですね。
で、それはおそらく「マエケンの俺への好意はネタではなくマジの領域の愛であり、それを葬儀の席でその父親から超本気で明かされた状況」だと思うんです。
それで、その状況を滑稽に感じたポイントは「マエケンも俺もいい年した男同士」ってことと「父親にまでそんな話してたマエケン」の2点なのかなと思うんですよ。
そう考えると、話終わりに松ちゃんが「好きな人がいるって」と言ってさらに笑いが起きたのも、『好きな人』っていう一般的に「男女間の甘酸っぱい恋心」を連想させる響きに、周囲が「当事者おっさん同士なのにね(笑)」ってなった(松ちゃん自身もそう思ってる)からこそ起きる笑いとして理解できたんです。
これは私の解釈なので、もしかしたら竹山さん本人や他の人も「笑いどころそこじゃねぇよ」って思うのかもしれませんが、「お笑いの解釈は見た側の個人でしていい」って通説に甘えさせて貰いまして、私はそう解釈したので、それで話を進めますね。
それで、その解釈をしてみると私が笑えなかった理由に説明がついたというか、自分で納得できたんですよ。
私が笑えなかったのは、私の中で「男同士の恋愛感情を笑う」っていう感覚が無いからなんですよね。
つまりこの「マエケンが竹山さんを本域で愛していた事が、亡くなったからこそ父親によって明かされた」っていう話は、「男同士でしかもおっさん同士で恋とかウケるwww」っていう発想が無い私にとって、「すべらない話(笑える話)」のカテゴリーではなくて、ラベル付けするなら「切ない話」なんです。
「故人が生前に冗談めかしてしか言えなかった気持ちは、実は本域の秘めた愛情で、亡くなったことで初めて第三者からそのことを明かされた」って話ですもん。切ないですよ。
でも竹山さんは笑い話として提供し、会場も笑い話として消化してた。
だから、この話が笑える人っていうのは、もしかしたら「男同士の恋愛が滑稽に見える感覚の人」なのかなと思いました。バラエティでよくある男同士のキスシーンに素直に「あはは、男同士でキスしてんの、ウケるww」って思う人。
それで私とそういう人は感覚の差があるわけだけど、じゃあこの話「もしマエケンさんが男性ではなくて女性だったとしたら、今笑ってる人って、全員そのまま同じテンションで笑うんだろうか?」と疑問に思ったんです。
私の頭の中では、ある中年女性芸人さんでシミュレーションしてみましたが、ご存命の方なのでここで名前は書けませんから、仮に「いつもテレビではブスいじり独身いじりされている中年芸人A子さん」にすり替えてみます。
皆さんも想像して欲しいんですけど「竹山さんの親友だったA子さんが、急死されて、竹山さんがお通夜に行ったらお父様に『A子はね…竹山くんのことを愛してたんだよぉ…!!』と告白されたんですよ。」って話。
笑えますかね?私はとうぜん笑えないし、多分ですけど、マエケンさんでは笑えてた人も半分くらいは笑えなくなる気がするんです。
んで、これがさらにA子さんを「若くて綺麗めな女性芸人」にすり替えてシミュレーションしてみると、もう笑い話どころではなくなるから竹山さんもそれを「笑い話」として公の場に出さない気がするんですよ。
なんか他の方の感想ツイート読んでたら「両者とも芸人だから笑いに変えることで報われる」っていう意見も見て、それも一理あるのかなとは思うんですが、そうだとしたら若い綺麗めな女芸人が亡くなって、まったく同じことが起きて、竹山さんが芸人として笑い話にして披露した場合、見た人はマエケンさんの話と同じテンションで笑って、「芸人だから笑い話にされて報われるね」ってならないとおかしいと思うんですよ。
でも、ならないでしょ多分。
もし若い女性芸人が急死して通夜行って父親に「娘はあなたの事を愛してたんですよ」って泣きながら言われた話をすべらない話で竹山さんがしたら「これを笑い話にするって、竹山サイコパスかよ」みたいな非難轟轟になると思うんですよ。
ようするに、話の受け手側の中で、竹山さんへ向けられる恋心として
「男から=ありえないウケる」
「中年女性から=ウケるけど一応女だしありえる」
「若い女性=ありえる」って感じに、判別しちゃってるんじゃないかと思うんです。
その上で、「マエケン(男)からの愛、しかもおっさん同士で、ウケる」という風にマエケンさんの竹山さんへの愛情を「ありえない異質なことだから笑っちゃうわ」と無意識に判断してるんじゃないかと思ったんです。
でも私は、人の恋心って馬鹿にしたり笑いにしないほうがいいんじゃないかと思います。
だからマエケンさんが竹山さんへ抱いていた愛情も滑稽なことではないし、自分の父親に本心を明かしていたのも、いい親子関係で素晴らしいことだし、笑う意味がわかりません。
しかし世の中には漫画で見かける、ブサイクな女子が男子に告白して「まじ、あのブス、あの顔でよく告ってくるよな、家に鏡無いんじゃねーのww」みたいに男子が友達と笑いあう場面とか、男子が男子に告白したら「きめぇーコイツwwホモだったのかよ!」と茶化したりする事例が実際にも起こってるんですよね。私はそういうことを考えると胸がぐわぁって痛くなる。
恋愛対象じゃないとしても相手を人として尊重した断り方があるのに、「ありえねー」みたいに人格ごと否定した断り方って、本当に人の尊厳が傷つくと思うんで。
で、漫画だと、こういう男子は終盤痛い目に遭うオチがあったりして「そういう事言うのはダメ」って教訓込みだからいいんですけど、私にとって、漫画の中の悪者男子の「まじあのブスの告白ウケるww」「まじ男のくせに告ってきてウケるww」っていうのと、竹山さんの「マエケンの本域の愛情wしかも父親から聞くとかウケるw」っていうのは、同じだったのに、竹山さんの話は「すべらんなぁ」の流れに乗って編集の壁を越えて公共電波の中で「ああ面白かったね」として人々に届いているわけじゃないですか。
だから、その状況に「ええ?これはありなの?なしでしょ?」となったし、ツイートの最後の「男同士だから笑うんだとしたらひどいよ」の酷いっていうのは、そういうことです。
これを読んだ人のうち何割かに、「全部お前の頭の中の想像じゃん」とか「竹山さんの真意は違うはず」とか思われるのは分かってるんですけど、自分の中でこの話がモヤッとしてたし、同じように感じている方も多くいたみたいなので、整理するために書きました。
ちなみに、この竹山さんの話に否定的な方の中には「人の死を笑いにするなんて不謹慎」ていう意見もあるかと思いますが、私がひっかかった部分はどうもそこではないっぽいです。
というのも竹山さんが以前、亡くなった相方のことをネタにしたトークを聞いたときは、今みたいなひっかかりを感じなかったからです。
じゃあ、どこがひっかかってるのかというとやっぱしテレビの中で「マエケンさんは男だからみんなが笑ってもいい扱いしてるところ」ですかね。
でもフォローというわけではないんですが、私は竹山さんがマエケンさんからの愛情や、葬儀でお父さんに号泣告白をされたことに「おもしれぇ」と一人で笑う事自体は酷いと思わないです。
なぜかというと竹山さんは、もっと若い頃に相方を亡くされてて、親しかった人間の死というのは、本当に強く影響があるもので、天命の短さへの怒りとか、喪失感、悲しみ、今後の自身の芸能活動への不安…そういうありとあらゆる負の感情が竹山さんを襲ったと思うんですが、彼はそれをバネにお笑い芸人として生きています。
つまり当時の竹山さんにとって、相方の死の苦しみから逃れられる唯一の方法が「なんとかこれも笑い話に換えてやる!」っていう精神を持つことだったんじゃないかと思うので、今回のマエケンさんの死の辛さも、同じように乗り越えようと試みたのかなと思うんで、そこは理解したいです。
あの年ですでに親友が2人も亡くなるなんて経験は、たぶん多くの人がしていないし、私もしていません。
だからその辛い経験をした竹山さんの「乗り越え方」を外側から「それは無しでしょ」と、否定できないんです。辛かった人が辛さを乗り越える為に生み出した手段を辛くない私が馬鹿にしたりはできない、ってことです。
なので、マエケンさんの葬儀のエピソードを、竹山さんが一人心の中で「マエケン、本気で俺の事好きだったのかよウケるなぁ。」と思うところまでは、竹山さんなりの悼み方としてアリと思うんです。
でも竹山さんはこの話をすべらない話に選んだし、放送局もカットせず流した。
私が問題に思っているのはそこだけです。
なぜかというと、この「マエケンさんが竹山さんを実は本気で愛してた」って話を、テレビで「笑い話」としてやるには面白いポイントが「マエケン(男)から竹山(男)への愛情が面白い」ってことになってる気がするんですよね。
それって、結局今のテレビの中で、ちょっとナヨっとしてる男性をすぐ「あれ?そっち?w」と突っついて「オネェ疑惑!?」とテロップをつけたり、「おかま」は道化としてしか存在を許されていない現状があるからですよね。
私はそういう現状が嫌だと思ってるほうなんで、この話をすべらない話で「男同士の愛笑えるでしょ」って意味合いのまま放送されてるのを観て、相変わらず「テレビはセクシャリティがノーマルではない人のことは笑いものにするぞ」って姿勢だなぁ、と思いました。
色んなところで「LGBTに理解のある社会を」といくら呼びかけても、男同士のキスを罰ゲームとして流すテレビがふつうにやってたら、「同性愛者は笑いものなんだ」という認識は下の世代に受け継がれていってしまう気がする。私はそれが怖いし嫌。
このエピソードで笑ってもいい人って、竹山さん本人とごく親しい周辺の人だけだったんじゃないかって思うんですよ。だからこれを流したテレビも、それをそのまま笑うって感覚も、ちょっと自分とは違う、信じられないと思いました。
走り書きなので、支離滅裂かもしれませんが、そんな感じです。
今年もよろしくお願いします。
ではまた。
田嶋さんが怒るのも分かるけど、私は逃げ恥が面白かったです。
昨日「逃げ恥面白かったな~」と余韻に浸ってたら田嶋陽子さんが「あんなもんどこが面白いの」と言ってる記事を見つけました。
どうやら田嶋さんは逃げ恥お気に召さなかったらしい……。
田嶋さんについて、私が基本どう思ってるかは依然twitterで書きました。
昨日の橋下羽鳥の番組観てて、田嶋陽子さんは日本のフェミニズムを先導した功績と、日本人に「フェミニズムを唱えるのは田嶋陽子みたいなうるさい女」という刷り込みをしてしまった罪過がどっこいどっこいなのかなぁと思った。
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2016年6月21日
田嶋さんがTVに出だした90年代は、まだ世の中の「男性にたてつく女なんて」という意識が男女ともに強くて、あんくらい強烈なキャラじゃないとメッセージが届かなかったからああいう物言いであることが必要だったのかもしれないけど、今もあのままだとふつうにTV観てる若い人は「フェミって
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2016年6月21日
田嶋陽子みたいな、人の話聞かないヒステリックな女の主張だろ」って思うよね。別にフェミニズムは男女問わないし、色んな人柄の人が支持してるものだから「フェミニズム=田嶋陽子イズム」ではないんだけど、そう勘違いする人が多くなっちゃってるとは思う。
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2016年6月21日
でも田嶋さんに「もっと物腰柔らかに話しては?」とか言うのはそれも押し付けなわけだから、田嶋さんは御本人の意思通りにあのままのスタイルで良くて、代わりにTVがもっと他のタイプのフェミニズムを支持する人をたくさん出して既存の「フェミ=田嶋陽子的な」を崩していくしかないのかな、と思う。
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2016年6月21日
まぁ、ようするに私は田嶋さんについて、それまで日本では「学問として一部の人は知っている」レベルだった「フェミニズム」を一般人に分かるレベルまで広めていった功績者としては尊敬してるし、感謝もしてる。
でもその一方で、いまフェミニズムの考えの外側にいる人にとっては「田嶋陽子がウザいからフェミってウザい奴ばかり」と思われたり、フェミ二ズムの入口にいる人にとっても「田嶋陽子みたいになりたくないし、彼女に似てると周囲から思われたくないからフェミニズムはやめとこう」と思われたりしてんじゃなかろうか、という状況も感じる。
なんというか、すごい強面の鬼武将が、城を陥落させる時には「切り込み隊長」として効果抜群だったけど、そのまま門番に居たら怖くて仲間すら近寄れなくて困る、みたいな感じ。
なので、私は田嶋さんのことを日本のフェミニズムにとって「功績者であると供に足枷」のような存在だなぁ」と思ってる。あ、この言い方だと田嶋さんが不愉快になるので「足枷に感じることもあるけど功績者として尊敬してる。」と書いたほうがいいかもしれない。
とにかくそういう風に思ってます。
で、田嶋さんが逃げ恥に「まだこんなことしてんの?」と怒ったという記事を読んで、私は「彼女が怒るのも無理はない」とは思いました。
なぜかというと、田嶋さんは今の日本の社会でする「結婚」は「女が不利になりがち」だということにずっと怒りの声を上げてきた人だから。
たいてい女性の方が名字が変わる。夫の転勤で仕事を辞めるのは妻ばかり。出産で手放したキャリアは戻らない。専業主婦は寄生虫とまで言われる。
田嶋さんはそういう「女性が結婚でこうむる不利益」についてずっと「変だよ!」と訴えてくれている。身を粉にして「もっと社会全体の仕組みを変えてそういうの無くしていこうよ!」と訴えてきたのに、30年経ってみて世間が「面白い面白い」と褒めたたえているドラマが、事実婚での契約結婚という「既存の結婚制度の裏ワザ」みたいなのを駆使してこちゃこちゃやってる男女の話だった。
そりゃ彼女の立場なら「こんな裏ワザ見つけて喜んでないで、根本的な解決のために社会を変えるように動かなきゃでしょうが!!」という怒りが湧くのも無理はない気がします。
ただ、私はそういう田嶋さんの気持ちもわからなくはないけど、「逃げ恥」はとても面白かった、と言いたい。
ちょっとここまで、つい田嶋さんの話ばかり書いてしまったけど、私は今日は単純に逃げ恥の感想が書きたかったんですよ。だからここからは感想。
最終回、すべて大団円で本当に良かったです。
みくりと平匡の出した答えは「一人でも二人でいても人生は面倒くさい。面倒くさいけど、好きな者同士なんだから一緒に悩んだり話し合ったり、時間をおいたり、たまに逃げたりしながら、一緒に未来を歩みましょうや。」というシンプルなものでした。
未婚の方はもしかしたら拍子抜けしてしまうほどシンプルな結論だったかもしれませんが、私も結婚生活8年やってて色々あったことから痛感したのは「夫婦っていう関係性は、死ぬまで微調整が必要だな」ってことだったんで、二人が最後「模索は続きます」と言って終わったのが、じーんとしました。
夫婦はどちらかが上でどちらかが下という関係ではなく、「家庭という会社を切り盛りしていく共同経営者」という平匡の考えも、実は我が家では5年前から実施している考え方だったので、平匡があのボードに書いた時「おっ」と思いました。
ちなみにあんな業務的ではないですが、うちも「ほう・れん・そう」を怠るのは夫婦最大のタブーにしているので、まめまめしくなんでも相談して決めてまして、それまでは買う物とか予定とかを片方が決めて事後報告が多くてそれが原因でモメる事もあったんですが、その頃に比べると格段にモメ事は無くなりました。ほう・れん・そうは家庭でも大事だな、と思います。
あとみくりが「主婦の報酬 最低賃金+愛情」と書いたところでは「最高の離婚」のワンシーンを思い出しました。
最高の離婚では、小野真知子と瑛太夫婦が喧嘩するシーンで小野真知子が「外でご飯たべたらお金払うでしょ!うちでご飯食べたら『ごちそうさま』って言うの!言わなかったら食い逃げなの!」と怒るんですが、みくりが「報酬」と捉えている「愛情」って、日常で表すとしたらこういうことなんですよね。
私は夫に「愛してる」なんて何年言われなくてもいいけど、そういう風な「ごはんを食べたら『ごちそうさま』」とか「なにかやった時の『ありがとう』」とかがもし無かったら、夫婦やってけないだろうな、って常々思っていたので「愛情」が報酬の一部だというみくりの話にも「わかる」と思いました。
それにしてもこの二人は、険悪なムードの時でもちゃんと話し合いを持つところがもうすでにすごいんですよね。
現実にはああやって平匡みたいに、まともに話し合うことすらハードルが高い夫婦も世の中には多いですから(特に『旦那さんが話し合いに応じない』という声はよく聞く)本当は小学生のうちから学校で「相手の発言はさえぎらない。途中で投げ出さない。大声を出してごまかさない。」みたいに話し合いの基礎を教えて欲しいくらいですけどね。(でも国会ですらあんなヤジばっかりで話し合いの出来ない大人が回してる国だからなぁ…)
まぁ主人公二人の結末はいいとして、ジェンダー的な視点で私が語りたいのはやっぱりゆりちゃんパートのところですね。
若さの真っただ中、「この世は男が女を消費するだけの世界」だと思い込んでいて、「どうせ男に消費されるなら、若くて綺麗な女であることを武器に、とことん男につぎ込ませてこっちが男を消費してやる。」という気概バリバリの小娘に喧嘩を売られたゆりちゃんの場面。
これまでのドラマだったら、こういう「若い女VS熟女」のタイマンは、小娘が「若さゆえの美貌」を武器にしたら、熟女は「大人の女のテクニック」を武器にやりかえしてたように思います。
でもそれって結局は、小娘も熟女も「男から見た女の価値」というリング上に居て、それぞれ違う手法で「自分の方が価値が高い」だということを相手にぶつける戦いだったんですよね。
そこをこのドラマでゆりちゃんは「女の価値」というリングから「若さ」を武器に「あんたにはもうこの武器無いもんね~」と挑発してきた小娘に「そんなところから降りなさいな。」と諭すように言いました。
「今あなたが価値がないと切り捨てたものは、この先あなたが向かっていく未来でもあるのよ。自分が馬鹿にしていたものに自分がなる。それってつらいんじゃないかな」と。
つまり「小娘が『価値が無い』と切り捨てたもの=若さを失った女」で、それは確実に小娘がいつか迎える未来の姿なんですよね。
女性の若さや未熟さに特別な価値を見出すのは、たいてい「自分が扱いやすくて綺麗な玩具としての女が欲しい」と思っている男性ですから、ゆりちゃんの言葉は「そういう男性が作り上げた価値観の世界に染まって『女のリング』に居続けたら、やがて後からくるもっと若い女に打ちのめされるだけよ。そんな辛いところからは降りちゃえば?」みたいな意味なのかなと思いました。
ゆりちゃんは「女VS女」の戦いには参加せず、「戦うこと自体が馬鹿げている」ということを伝え、その上でさらにこうも言います。
「私たちの周りにはね、たくさんの呪いがあるの。あなたが感じているのもその一つ。自分に呪いをかけないで。そんな恐ろしい呪いからはさっさと逃げてしまいなさい。」
小娘は「呪い」の意味が分かってなかったように見えましたが、私としては「呪い」というのは「男のくせに」「女のくせに」みたいに「その性別らしくないことを辞めさせたがる圧力」だったり、「女は若くなければ価値が無い。」とか「女は男にモテてこそ価値がある。」みたいに「男性の理想をすべての女性に求める圧力」を指しているように思いました。
ちなみにゆりちゃんが怒った自社の化粧品の広告にも「○○を使ってモテよう」みたいなダサいコピーが付いていましたが、ゆりちゃんが怒って取りやめさせた気持ちがよくわかります。
「よそがそういうコピーでやるのはかまわないけど、自分の会社が呪いの言葉を発信したくはない。」ということだったんでしょうね。
小娘に喧嘩を売られても、その小娘の為になる言葉を差し出すゆりちゃんは本当に大人だと思いました。(でもあのポジティブモンスター、ゆりちゃんの歳を49歳と知ってても「おばさん」じゃなくて「おねえさん」と呼んでたので、それくらいの気は使うんだ、と思った。)
で、ゆりちゃんの恋の実り方がまたよかったです。
結局はゆりちゃんが「今の気持ちに従おう」と理屈抜きで自分の感覚を頼りに決断したら風見との関係が成り立ったわけだけど、ふつう年齢が上の人の方が理屈で恋愛して、若いほど感覚で恋愛しちゃうものなのに、若いみくりの恋が「理詰め」で、ゆりちゃんが「感覚」で成り立っててその対比が面白ろ良かった。
まだ書きたいこといっぱいあったし、ぜんぜんまとまらない内容なんですけど、とりあえず感想はそういう感じです。
とにかく「やりがい搾取」とか「好きの搾取」とか、これまで「うっすらモヤモヤを感じてたけど原因がなんなのか掴みきれなかったもの」が解明されてハッとした人の多いドラマだったと思います。
田嶋さん一話から見ればいいのに…。
追記:そういえばあの日産JUKEの紛らわCM、最終回の最後だけ風見が「帰りは僕が観ちゃおっかな、ゆりさんの寝顔」と運転手がゆりちゃんであることを明かしてましたね。あのCMほんと紛らわしかった…。
前回ゆりちゃんに「みくりも働けば?」と言われて「実は給料貰って家事してるとは言えない…ハタから見たら私は無職?」となるくだりでちゃんと視聴者に「家事」が「夫婦なら無償の無職扱い」で「他人なら賃金の発生する労働」となる曖昧なもの、だと気づかせてからの今回の流れ本当に上手い。#逃げ恥
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2016年12月13日
やかんとちりとりとポスター
「今年買って良かったもの」
今年我が家は3年ぶりに引っ越しをしました。
引っ越しをすると、間取りや生活様式が変わり、新しい部屋に合わせた必要なものが出てくるので、必然的に買い物も増えるため、例年に比べ今年は生活用品をたくさん買ったように思います。
そんな中、今日は私が「これは買って良かった」と思うモノを3点ご紹介します。
その① ゴッホのポスター
実家に自分の部屋がなかった私は、10代の頃ずっと「大人になったら絶対1人暮らしして部屋に映画のポスターを飾るんだ!」ともくろんでいました。
そして私は20歳になるやいなや、お金もないフリーターのくせに家を飛び出して1人暮らしを始め、引っ越した翌日には電車に乗って隣街の駅ビルにあるLOFTにポスターとフレームを買いに行ったんです。
当時はまだインターネットが普及してなかった時代。
一般人が「事前にネットで値段をチェックする」という習慣はなく、売り場でフレームの値段を観た私は、愕然とした記憶があります。
思ったよりもずっと高かったんですね。
私の欲しいポスターサイズが収まるフレームは90センチ×70センチくらいのもので、確か4千円くらいしました。
ポスターも買うと総額5千円を超えてしまい「全部で3千円くらいで済むかな〜」と甘く見積もってた私は売り場でしばし立ち尽くしてしまいました。
サイズをひとつ下げれば2500円くらいのものがあったのですが、私はどうしても憧れの映画ポスターをででーんと部屋にかっちょよく飾りたかった。
なので4千円のフレームと映画「ベティブルー」のポスターを、清水の舞台から飛び降りるつもりで「えーい、ご飯なんて何日か抜いても死なない!」と思いながら買いました。
ポスターがニョキリと突き出てた大きなフレームの入った袋を抱えて電車で帰るのは少々骨が折れましたが、幸せの黄色いハンカチならぬ幸せの黄色いLOFT袋といった感じで、念願のものがやっと手に入った幸福感に酔いしれたことを覚えています。
さてそのフレームですが、最初は「ベティブルー」のポスターを飾り、飽きた後は映画「時計じかけのオレンジ」のポスターを飾りました。
その後は私がイラストのコンテスト用に描いた自作のイラストを飾っていました。
それで2011年までは自作イラストを飾ってきたのですが、震災の時に我が家もわりと揺れてフレームが落下し、後ろのパーツがちょっと欠けてしまったんですよね。
ボンドで修繕すれば直りそうだったのですが、時間がある時に直そうと思って一旦フレームを物置にしまうと、なんとそのまま5年も放置してしまいました。
5年の間には何度か「直すの面倒だし、捨てようかな。絵なんか飾らなくたって死なないし。」と、20歳の頃とは真逆の事を思った時もあったのですが、取り出してフレームを観るとやはり買った時の思い出がこみ上げてきて「いや!捨てられない!!」とまた戻していました。
実は私は30代になってからモノを持たない主義になったので、たいがいのものは躊躇なく捨てられるのですが、独身の貧乏時代に思い切って買った記憶がある物はやはり特例な思い入れで、捨てられないんですよね。
そんなわけで、ずっとしまってあったフレームなのですが、今回引っ越した部屋には玄関にちょうど物をかけるフックがついていたので、「よし!フレーム直してちゃんと飾ろう!」と 思い立ちました。
それでフレームは直したのですが、中の絵が自作のイラストなことがちょっと恥ずかしくなりまして、いえ、あの、イラスト自体は好きなのですが「客人と『これ、描いたの?』『昔ちょっとね…』みたいなやりとりをしたいが為に自作イラストを飾る人」な感じが自分では恥ずかしくなってきたというか、たぶん20代の頃に好きなものを部屋中にちりばめてインテリアでバリバリに自己主張をしてきた反動かもしれませんが、歳をとったら「あんまり部屋に特別な意味を持たせたくなくなった」んですね。
で、絵は変えようと思ってさっそくAmazonで検索。
イラストや写真よりも正統派の画家の絵がいいな~と思い、そうなると私は画家の中でとりわけゴッホが好きなので、とりあえず「ゴッホ ポスター」で検索しました。
わーいっぱいある。8000件くらいヒットして、数々の名画から選べました。
「星月夜」が好きだけど玄関に飾るのでなるべく明るい色味にしたいし、かと言って「ひまわり」だとベタすぎてなんか嫌、いっそゴッホやめてモネにする?いや、モネを飾るほど格調高い家ではない…ああゴッホのチューリップ畑の絵すごいいいわー、でもサイズ小さいのしかないじゃん、なんだよちくしょー
そんな感じでなんやかんやと1週間ほどかけて楽しく選び、結局私が買ったのはこちらのポスターです。
あえてゴッホの代表作は避けて探し、明るい色味で牧歌的な雰囲気の絵にしました。
ちょっと私の地元にある梅林に景色が似ているところもホームシック気味の心にグッと来たので、これにしました。
フレームにおさめて玄関に飾ったところ↓
うん、いい。
眺めててぼんやり思ったのは「たしかに絵なんか飾らなくても死にゃあしないが、こうやって好きな絵を飾って眺める度にいちいちキュンとなる作用が積み重なって、人間の寿命が延びるとかって、あるのかもしれんなぁー」ということ。
上手く言えませんが、毎日家の出たり入ったりの度に「あ、この絵、好き」と思うことが「心と体良さそうな感じがした」というか、使い古された言葉ですが「金銭的ではない豊かさ」?みたいなことを「実践してるなぁ、自分」という悦に浸れました。
フレームも5年ぶりにまた活躍できて心なしか良いことをした気分になりました。
ゴッホのポスター買ってよかったです。
その② 野田琺瑯のドリップケトル
野田琺瑯は「のだほうろう」と読みます。
野田ほうろうは「『前前前世』の印税で放浪の旅に出そうな野田洋二郎」の略ではないです。
琺瑯(ほうろう)は、鉄、アルミニウムなどの金属材料表面にシリカ(二酸化ケイ素)を主成分とするガラス質の釉薬を高温で焼き付けたもの。「ホーロー」と表記されることも多い。英語では Enamel(エナメル)
だそうです。
鍋や食器でよく見かける「金属なの?陶器なの?」みたいなやつで、山の中の滝とか湧水のそばに「これで飲めば?」的に置いてある謎のコップもよくホーロー製だったりします。あと年寄りの家の歯磨き用コップもホーローが多い。
で、野田琺瑯のドリップケトルを買ったいきさつなんですが、私は数年前までコーヒーが飲めなかったんですね。
今思えば、初めて飲んだコーヒーが缶コーヒーで、それが美味しくなかったせいで「コーヒーはマズい」と擦りこまれて、なるべく避けてきた上にたまにやむを得ず飲んだコーヒーも多分インスタントコーヒーだったのか、やはり「わざわざ飲むほどのもんじゃないな」という感想でした。
ですが、数年前にコンビニのドリップコーヒーが出た当初、夫が飲んでいるブラックコーヒーをなんとなーく飲んでみたところ、あら美味しい!
それで「豆から挽いたコーヒーは美味しい」ということをこの時実感したんです。
なんか、それまでもその説は聞いていたものの、豆から挽くコーヒーはちゃんとした喫茶店でしか置いてなくて、喫茶店のコーヒーって500円くらいするし「お試しに飲んでみて不味かったらヤダ」ってことでお試しすら出来なかったんですよね。
でもコンビニコーヒーを知ってから、コーヒーが飲めるようになって結構好きになってきたわけです。
そうなると、自宅でもドリップコーヒー飲みたいなーとなり、道具がないので買いそろえることにしました。
コーヒーミルとコーヒーサーバーは普通のお店で気に入るものがあって買ったのですが、ドリップケトルの良いのがそのへんで売ってない。
ちなみにドリップケトルとはふつうのやかんに比べて注ぎ口が細長く、お湯が冷めにくい構造をしているもので、まぁ「コーヒーを淹れるのに都合良くなったやかん」だと思って下さい。
ふつうのやかんでもコーヒーは淹れられますが、我が家にはもともとやかんが無く、コーヒーの為に新たに買うので、ドリップケトルにしようと思いました。
んでAmazonで探しに探して好みものを吟味して最終的に買ったのがこちら。
こちらは黒なのですが、実はコレの色違いで紺色でわりと程度の良い品がメルカリ(フリマアプリ)で売ってたんですね。
私はメルカリの売上金があったので、メルカリで買えば新たな支出にはならないからそうしたかったのですが、メルカリのやつが2800円。Amazonの新品が約3800円。
差額1000円分のメリット(安い、支出にならない)とデメリット(中古、色は黒が第一希望なので紺だと嫌ではないが決めかねる。)を天秤にかけて「どっちだどっちだ~?」と悩んで悩んで1週間。
なんと私は寝言でも「ケトル…」と言っていたらしく、見かねた夫が
「ニニちゃんの性格だとさー、1000円浮いたことはしばらく経ったら忘れそうだけど、『黒が良かった』ってことは紺色のやかんを観るたびに思い出すんじゃない?この先ずっとやかんを観るたびに『黒が良かったな~』ってチラッと思う後悔は1000円以上のダメージなんじゃない?倍くらい値段が違うなら迷うけど、1000円くらいだったら高くても黒の方買った方が俺は良い気がするけどな~。」と助言をしてくれて「たしかに!!」と納得しました。
そうなんですよね。私の場合、買った物の値段は結局すぐ忘れるので、安くても嬉しいのはその時だけ。第一希望の物を買えば、その時は出費が辛く感じるけど、それを観て生活する「嬉しい」がずっと続くんだからいいのか!と思い、納得したので、Amazonで買いました。
このケトルは本当に使いやすいです。持ち手があまり熱くならずに素手で持てるし、形の安定性と美しさは申し分ない。2か月使ってますが、毎朝起きてコイツを観るたびに「あ、かわいい」と思ってキュンとします。
そしてこれで念願の自宅コーヒーを飲むたびに「あー幸せ」となるので、差額1000円のデメリットはすでに埋まった気がします。
やかんは基本出しっぱなしで、鍋やフライパンが出てると台所に散らかった感が出ますが、このやかんはそんなに散らかった感がないのでやはりシュッとした黒のおかげかと。
こんな。
うん、かわいい。
野田琺瑯のドリップケトル買ってよかったです。
その③ 白木屋傳衛商店の「はりみ」ちりとり
引っ越しの時にそれまで使ってたふつうの100均のほうきを捨てたので、引っ越してすぐに新しくほうきを買いました。
100均のものはふつうに全長が90センチくらいなので、掃除の時いつも腰を曲げたお辞儀スタイルで使っていたのですが、新しいのを選ぶ時に夫が「あなた腰弱いんだから、立ったまま履けるほうきが良いのでは?」というアドバイスをくれたので柄の長い棕櫚(シュロ)ぼうきというのを買ってみました。
こういうやつ↓(Amazonではなく近所のホームセンターで購入。)
これだと確かに柄が長く、お辞儀スタイルではなくレレレのおじさんスタイルで掃けるので、腰に負担がかからず「良かったね」となったのですが、この棕櫚のほうきは見た目が大変美しいんですね。機能美というか。
なので、それまで使ってたこれまた100均の黄緑色なプラスチックちりとりと並んで置いておくとなんだかアンバランス。
ほうきセットはなるべくすぐ使えるように常時台所に出しておきたかったので、見るたび「ちぐはぐだ」と思うのが嫌になってきて「ちりとりも買い換えよう」と思いました。
それで毎度お馴染みAmazonさんの出番。
「ちりとり おしゃれ」で検索すると、数々のちりとり画像が出てきました。
最初いいなと思ったものはアンティークなブリキ風のもので、それを買おうかと思ったのですが、洋風のアンティークブリキのちりとりが純和風な棕櫚ぼうきと並んだところを想像すると、やはりどこかちぐはぐな気がしました。
せっかく見た目を追求して買い換えるのに、ちぐはぐではいけない。
私はこのへん執念深いので、しつこく1日がかりで探すもなかなか見つからず、諦めかけたその時、ふと「棕櫚ほうき ちりとり」で検索してみたらよいのでは…?と思いつきました。
そもそも「棕櫚ほうきに合うちりとりを」という目的で探していたので、初心に戻ってそのワードで検索してみました。
そして出てきたのが「はりみ」というこちらのちりとり。
一目見た瞬間に「あ、これだ」と思いました。
説明書きとレビューの高評価を読みさらに惚れこみ、即決で買いました。
届いてさっそく使ってみると、これがまぁ使いやすいこと!
厚紙を張りあわせて柿渋を塗った紙で出来ているので、ヘリが薄くて床にぴったりと沿って、ゴミがスムーズに中に入る。
棕櫚ほうきと合わせて使う人が多いとレビューで読んだ通り、ほうきの毛幅と入り口のサイズが相性ばつぐん。
そして紙製のため静電気が起きにくく、ゴミを捨てる時もゴミがスッと離れて落ちる。もう完璧。
極め付けは、棕櫚ほうきと並んだ姿のしっくり感!
これどうですか、お似合い過ぎてもはや熟年夫婦ですよね?
「君たちはおしどり夫婦なのかい?桑田圭祐と原坊なのかい!?さてはペーパー夫妻なのかーい!!??」と語りかけてしまうほど長年連れ添ったパートナー感に、私は感動すら覚えました。満足。
白木屋傳兵衛商店の「はりみ」買ってよかったです。
とまぁ、以上3点が私が今年買って良かったと思う品でした。
この3つはやかんとちりとりとポスターという、まぁ「無くてもなんとかなるっちゃなる」な物なんですが、無くてもなんとかなるものをわざわざ買うからにはこだわりたかったんですよね。
で、一点一点買う時に悩んで探して考えたせいか、愛着のあるペットみたいな感覚で我が家に存在してます。
夫婦2人暮らしなので、家族の人数が多いお家に比べたらにぎやかではないかもしれませんが、愛着のある物に囲まれて楽しく暮らせたらいいなと思います。
ではまた。
特別お題「2016年を買い物で振り返ろう」 sponsored by 三菱東京UFJ-VISAデビット
理想の家庭は「個人」で決めたい。(少なくとも私はサザエ家が理想じゃない。)
時間が無いので走り書きになってしまうかもしれませんが、このタイミングで書いておかないといけないと思った件なので書いておきます。
昨日のヤフーニュースで見たこちらの件
記事内容をざっくりまとめると「自民党を支えている保守団体『日本会議』が、この度、日本の家庭のありかたとしての理想は『サザエさん一家』だと示した。」という内容です。
これに対してははすでにtwitterでも「なにそれ?」と怒りの声がたくさん見られていて、私も同じように「なにそれ?」って思いました。
それでつぶやいたツイートがこちら。
サザエ家が円満なのは「妻の実家」要素が多分にあるから、そこを無視してただ「三世代同居良い!」と推進されると嫁犠牲時代に逆戻りしそう。【<憲法公布70年>理想「サザエさん一家」 24条改正巡り(毎日新聞) - Yahoo!ニュース https://t.co/vLLiG5U6YW
— ふつうの桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2016年11月2日
つーか私、自分の親でも同居やだな。実親でさえ円満でいられる状態が「同居・近距離別居・遠距離別居」のどれなのかは人それぞれ違うんだから、国に「三世帯同居!これが理想世帯!」って言われるのって、生き方まで口出しされてる感じがしてやだな。
— ふつうの桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2016年11月2日
今回書きたい事は、まぁこのツイートに要約されているんですが、憲法24条や「家族のありかた」については7月に深澤真紀さんの記事を読んでから私も考えるようになったので、この機会にツイートでは書ききれないことを書いておこうと思います。
あ、深澤さんの記事は素晴らしいので、ぜひまたこの機会に多くの方に読んで頂きたいです。
憲法24条を「女だけの問題」にしてはいけない(深澤真紀)|ポリタス 参院選・都知事選 2016――何のために投票するのか
私はこの問題を中高生のような若い方にもよく考えて欲しいので、今日はここから中高生でも読めるようにやさしい文章で書いてみます。
まず、「日本会議」という団体は、一言でいうと「古き良き日本」を大事にしている団体です。そして安倍総理大臣がいる自民党を支えている団体です。
「日本国憲法」とは、国内の様々な事柄について「国としてはこんな風に考えてますよ。」という考え方を示したもので、今の日本の法律は、その考え方に外れないように作られているので、わかりやすくいうと、憲法は「法律の素」みたいなものです。
その中の憲法24条には「婚姻や家族に関すること」が書いてあります。
「結婚は男女2人がお互いに『したい』と思った場合だけにするもの。」とか「結婚相手を選んだり、住むところを決めたり、結婚や家族に関する法律は個人の尊厳を大事にしたものじゃなきゃいけません。」というようなことを「国としてはそう考えていますよ。」と示した内容です。
私達の身近にある結婚に関する決まり事といえば、皆さんも「男は18歳、女は16歳にならないと結婚できない」や「同じ性別の人とは結婚できない」ということはすぐ思い浮かぶと思いますが、そうした決まり事、法律は全て憲法の考えをもとに作られているのです。
ですから憲法はけして他人事でも、どこかで頭の良い偉い人達だけがこちゃこちゃ話し合って勝手に決めることでもなく、もっと国民一人一人が「自分たちの生活を左右することなんだ。」と思って接するべきことだと思います。
さて、では日本会議の人達がこの度「サザエさん一家が理想の家庭像だ」と示したことに、私や多くの大人たちがどうして「なにそれ?」と思ったのかをお話しします。
日本会議というのは先ほども書いた通り、自民党を支えていて、自民党と仲良くしている、いわば「どこかにいる頭の良い偉い人達」です。
仮にその人たちが「こうしたい」という希望があれば、ゆっくり年月をかけて政治に働きかけることで国全体で「こうしたい」が実現できてしまう可能性もあると私は思います。
そのように国を動かす力が強い団体の、理想の家庭像が「三世代同居のサザエさん一家」と言う事は、どういうことだと思いますか?
それは、日本家庭についての在り方を「国としてはそっち方向でいくように考えてます」という意思表示だと私は思えます。「そっち方向」とは
「今の日本は親と別居している核家族が多いけど、ゆくゆくは昔みたいにじじばば、父母、子どもたちみんなで暮らす大家族が多くなるといいな。サザエさん家みたいに。」
という方向です。
「別に大家族は賑やかで、いざと言うときみんな一緒に暮らしている方が助け合えるし、それが理想なのは悪いことではないんじゃない?」と思う人もたくさんいるでしょう。
私もべつに大家族に反対だというわけではありませんし、それを望んで三世代で暮らして「家族皆が幸せだという家庭」が将来増えること自体は良いことだ思います。
でも、それは国民の一人一人が社会の環境と自分たちの暮らしについて考えて、「そうするほうが幸せだから」と自分の意志でそちらを選ぶ人が増えて、自然とそうなった「結果なら」良いことだと思うだけで、あくまで、国が「それが幸せで、それが理想なのですよ。」と誘導するのはおかしいことだと思うのです。
家庭や暮らし方というのは、その人の人生のあり方そのものに直結するとても重要な部分だと思います。
だから国としてはそこに対して「一人一人で違う事情や考え方がありましょう。どんな立場であろうとそれぞれのお考えは等しく尊重しますよ。」というだけで留まるの正解だと思います。
なのに、こうやってサザエさん一家というモデルを挙げて「家庭の理想像はこれだから、そっち方向行くように国を動かしていくから」みたいなことを言われると、まるでそうでない家庭は国にとって理想的ではないと言われているように感じます。
それにそうやって国が「家庭単位」での理想を指し示すのは、実は昔の憲法の考えに近いことをやっているように思います。
どういうことかと言うと、今から70年前、太平洋戦争以前の日本は、日本国憲法ではなく大日本帝国憲法という憲法で動いていました。
この憲法は、天皇陛下がこの国では神様のように一番上に立つ存在で、国民も「個人」よりも「家単位」で見るものでした。
そして「個人」は、家や国の為にはどういう犠牲を払っても我慢するものとされていたので、今のように「どんな人も一人一人の人権を重んじよう」という考え方は無く、人権は性別や立場によって重く見られたり軽く見られたりすることがあったのです。
だから今よりもっと沢山の男女差別、身分差別に苦しんでいる人もいたし、「家の為に私は我慢する」という風に、個人よりも「家」を大事にするのがその時代の当たり前でした。
つまり、今の私達が当たり前に「個人の考え」で人生を決めていることそのものが昔は当たり前ではなくて、家の為、国の為に自分の意志を我慢する人が、その我慢も「当たり前」として生きていたわけです。
そして、第二次世界大戦が終わった70年前、戦争に負けた日本に対してアメリカが「新しい憲法作って、国を建てなおしなさいね。」と示していったのが今の日本国憲法なのですが、アメリカからすれば日本は「無謀な戦争をして負けた国」なので、日本人が二度と同じ過ちをしないために、日本国憲法は大日本帝国憲法とは内容を変えました。
「飛行機事故を起こした航空会社が、また同じ事故を起こさないように、国が会社のマニュアルごと変えるように指導する。」みたいなことですね。
そうして出来た日本国憲法では国民に対して、かつての「家を重んじる」よりももっと「個人を重んじよう」という方向でした。
個人を重んじるというのは「国民一人一人がみんな等しく同じ人権を持って、どんな人も自分の意志決定で生きるのが当たり前の社会にしましょう。」というようなことです。
だから日本は70年かけてようやく戦争の前よりは男も女も平等で、出身地や立場による差別なども減り、「家の為に私は我慢する」という考え方も今時はあまり聞かなくなっているのです。
昔は家の為とあれば「長男長女は家を継ぐ、親の老後をみる」は当たり前ですし、女の人は「さっさと結婚して相手の家に尽くせ」と言われ、しかもその相手も「実家に都合の良い相手を親が勝手に決めてくる」なんてこともよくあることで、さらに嫁ぎ先の家でお姑さんにいじめられたり旦那さんに殴られたりと辛いことがあっても離婚するのは「家の恥」と言われるので、それも我慢する。
といった具合に、「家」を重んじるためには、その家を成り立たせている個人が人権を侵されていてもそこはお構いなしだったわけですから、今の世の中は日本国憲法のおかげで救われている人がたくさんいると言えます。
私が普段気にかけている女性差別についても、まだまだ差別が完全になくなったとは言えませんが、それでも日本国憲法が出来て70年で、ようやく少しずつマシになっているかなとは思っています。
だからこれからもそうやってこっちの方向で、個人を尊重した社会で暮らしたいと願っている矢先に、どこかの偉い人達が「家庭の理想像は昔ながらのサザエさん一家」と、また「家」単位で、国民の生き方を指図してきたので、「なにそれ?」となったのです。
国が国民のことを一人一人の「個人」でなく、「家族単位」でまとめたがっている。
それも「家族の絆、家族の助け合い」といった耳触りの良い言葉で、さも素晴らしい事のように。
その一見耳障りの良い言葉選びや、サザエさんのようなほがらかアニメの力を借りて「憲法を変えようよ。昔に戻ろうよ。」と優しく説得されているような感じが、私は怖いと思いました。
私が思うに「昔の大家族は良かった」と考える人たちは、昔のお嫁さんが家族の中でただ「働き手」としてコキ使われて苦しんでいたことは無いことにしています。
だから今の社会にある介護の問題、少子化の問題、待機児童の問題などを解決するのに「昔はそういうことは家族で助け合っていたからなんとかなったんだ。昔みたいに皆で暮らせば丸くおさまる。」と思ってしまうんだと思います。
でも、国の動きとして「こっち」と示された方向に進んで行って、問題が沢山でてきたからと言って「昔」という逆方向に戻るのは、すごく浅かな考えだと思います。
日本会議は記事にもある通り「個人の尊重や男女の平等だけでは祖先からの命のリレーは途切れ、日本民族は絶滅していく」という考えらしいのですが、私としては「日本民族が絶滅する」も確かに怖いことではありますが、それと同じかそれ以上に「人権が踏みにじられて我慢しながら一生を終える人をたくさん作りながら日本民族が生き残っていく」というのも怖いことだと思います。
だから簡単に「このまま個人主義が進んだら、男も女も好きなように生きて結婚しない、子供も生まれない、日本人滅びるから、個人じゃなくて家族を重んじさせろ!」と国がそっち方面に舵を切るのはやめてほしいです。
少子化については私もよく考えてて、身近な女性に意見を聞くと、実は「産みたくない」とか「予定もない」と同じくらい「いける限り産みたい」もいるんですよね。
いける限り産みたい女性は、みんな金銭的な理由で子作りを3.4人で止めてるらしいのですが、私はそれを聞いたら「国は、生みたくない人とか予定のない人に産め産めと迫るより、こういう産みたい人が好きなだけ産めるように動くほうが早いのでは…?」と思ったりするので、そういうのなんとかしてほしいです。
あと、特別養子縁組の制度ももっと変えて里子制度が身近になるといいと思うし、要介護者を抱える家族が数家族寄り集まって暮らせるグループホームの家族ごと版みたいな施設もあるといいなとか考えたり、ようするに誰かと助け合わないと無理が出る社会なら、その誰かを「家族」に限定するのではなくて、もっと個人が自由に選んだ相手と助け合いことができるようにすればいいのでは?と思ったり、私ですらそういうの考えるからもっと頭の良い人がみんなで考えたら、なにも昔に戻ろうとしなくても、「未来なんとかなるんじゃないの?」って思うんです。
なんというか、単純に諸々の社会問題を「昔に戻れば解決」じゃなくて、なんかもっと「時代が進んだからこそ出てくるアイデアを頭絞って考えて活路を見出そうよ、そういうの考えるのが政治家でしょ、昔に逃げないでよ」っていうのが今の気持ちで、今日書きたかった一番のことかと思います。
あと最後に書いておきますと、サザエさん一家が幸せそうに見えるのは、①サザエの実家だからサザエがのびのびと自由な言動をしていて、②さらにマスオさんがお人よしな性格で妻の実家でもそれなりにマイペースに暮らし、③フネも波平もまだ元気に動けて、④カツオもワカメもタラちゃんも非行に走らず健康優良児だから、ハタから観れば幸せそうなだけであって、実際に今の日本で「さぁ三世代同居始めなさい!」と言われてもこの①~④の条件が揃う家庭はなかなか少ない気がします。
誰も年を取らずに「幸せな一時期」を永遠に繰り返しているアニメの家庭像を持ち出し、「こうなれよ」と言われても、私たちは現実に歳を取りますから素直に「そうだよね」と思えません。
私達は「理想の家庭像がどんな風か?」も人それぞれみんな違う頭で考えて生きている人間だから歳を取るし、時間の流れは止ま らなくて進むので、どうか国の在り方を考える人たちも「古き良き」の良かった所だけ見て理想化しないで、こっち方面で先を観て活路を考えるようにしてもらいたいです。
そして、中高生の皆さんも政治や社会や憲法のことを、もっと身近に考えてみてくださいね。
よろしくお願いします。
急いで書いたので乱文ですみません。
ではまた。
若い女はいつまで「みっともない」と脅される立場でいなきゃいけないだろうのか(車内化粧について思うこと)
はじめに
じわじわ炎上しているCMがあるとTwitterで流れてきたので観てみました。東急電鉄のマナー広告。
こちらの動画「歩きスマホ編」の後にある「車内化粧編」がそれだということなのですが、動画で見てみると音楽とダンスのインパクトが強くてあれよあれよと進むせいか、私は先日の「うな子」の時に比べれば一見「ふつうのCM」という感じがしました。
ただ、私も動画を観るより前に画像広告の「都会の女はみんなキレイだ、でも時々みっともないんだ」というコピーだけを目にした時は「ん?」となりました。
このCMにすでに怒りの声を上げている方もたくさんいるようですが、私の場合それは「怒り」というより「違和感」というか「なんか違くない?」という感じでした。
これはいつものことですが、炎上CMって「無関心」以外に3段階の感想を生むものだと思うんですね。
「①怒る」と、「②怒りではないけど、ヘンだと思う箇所はあるなぁ」と、「③どこに怒る要素があんの?」と。
その①②が「通常より多いぞ」という結果が声になり、その事態が各種まとめや話題の見出しになると「〇〇炎上!」とひとくくりになるのかなと思うのですが。
それで、私の場合、わかりやすくダメなことを突きつけられたら瞬時に「ここが腹立つ!」と「ここ」への怒りを言い表すことができるけど、わかりにくいダメなことを突きつけられた時って「どこかに変なところがある気がする」くらいの違和感しかないので、とりあえずはじめ②でして、このCMへの感想評判のまとめ↓ を観ても②の人が多い印象なんです。
「炎上」と称されると、つい「みんなが怒り狂ってる」みたいなイメージを喚起してしまいますし、今の自分の「ん?」という気持ちを書いて人様に「桜島さんが炎上に加担」とされるのも本意では無いのですが、あまり人様の評を気にすると書くものも書けないので、そこはあまり気にせず今の時点でこのCMに対して思ったことを書いておこうと思いました。そんなわけでよろしくお願いします。
一見ふつうめなのに見過ごせなかった理由
今回の広告のコピーは「東京はきれいな人が多い。でも時々みっともない。」となっていて、「時々」は「電車内で化粧をしている女性」を指しています。
つまり電車内で化粧することに対し「どんなにきれいな女性でも電車内で化粧をして、きれいになっていく過程を他人に見せるのはみっともないことだからやめましょうね。」というのが、この広告の伝えたいメッセージだと思います。
それでこのCM、「ニクい」というか私も「さすがにそこまでバカじゃないか」と感心したのは、このメッセージを劇中で女の子に言わせてるところなんですね。
だってこれ、仮に主人公が男性でこのメッセージを発していたら…と想像すると、多分もっと即座に大炎上になってると思うんです。
でもさすがにそうしなかったのは、偶然ということももちろん考えられますが、「今の時代、そのレベルの事はたいていのCM制作者は予測できるからかな」と思いました。
だから、「女の子を起用してのこの台詞と台本」という所に、一応私は「作り手の思惑」が見て取れるように感じました。(そのレベルすら分かってなかったのがルミネと志布志うな子)
このCMはその巧妙さゆえに、ぐわっと大炎上はせず、また見る人によっては「どこが怒る要素なの?」と「流し見」もできてしまう範囲の普通っぽいCMに仕上がっているのかな、と思います。
でも私とか、ジェンダーアンテナが立っちゃってる人は見過ごせないものなんです。
だって、仮におかしなメッセージだった場合の「おかしさ」って、男女どちらが言ったって本当は同じ「おかしさ」であるはずです。
つまり、アンテナ張ってると、そもそも「男性役者が言ったらダメだけど、女性役者ならOK」みたいな「男なら・女なら」っていう「男女で扱いが変わる事象」そのものに違和感を感じるので、「女の子が言ってるから見過ごす」という風に「女の子」で誤魔化されないんですね。
分かりやすく言うと、たとえば道で肩がぶつかった相手にいきなり「前観て歩けタコ」と言われたとして、「言ってきたのがおっさんなら言い返すけど、女子高生なら許しちゃう」みたいな個人的なジャッジがありますよね。
そういう判断って日常の個人間ならありえるし、私もまったくしないわけではないけど、ジェンダーアンテナの張っている心の中では「相手の性別でものごとを判断すること」自体に疑問を抱く今日この頃なので、なるべく「減らせる場面では減らすべきかな」と思ってるんです。
それで、公共交通機関の発信というのは社会性が強いので、私としてはこれからの社会のためには、公共機関の発するメッセージも同じく「性別で状況が変わる」であって欲しくないと思ってるんです。
つまり「ぶつかった相手にいきなり『前見て歩けタコ』と言う人間の『失礼さ』」は、「おっさんでも女子高生でも『等しい』」とするのが公共機関の態度として正しいのでは?と私は思うんですね。
だから「男性を起用せずに女の子に言わせてるから、そんなに女性に怒られることもないだろう」みたいな「女の子で逃げる感」みたいな部分があると「公共機関が発信するものが、そういう『女の子だから許してねパワー』頼っちゃうー?」という失望を感じて私は見過ごせなかったんだと思います。
それが、私がはじめに感じた「ん?」という違和感の原因の1つかなと思います。
「みっともない」という切り口への違和感
さて、私がこの広告に感じた違和感のもっとも大きな原因になっているところはどこか。
それは「みっともない」という切り口をチョイスした所かな、と思いました。
「みっともない」を辞書で引くと
みっとも な・い 【見っともない】〈 形〉
〔「見とうもない」が変化した「見ともない」の促音添加〕
とても見ていられない。体裁が悪い。見苦しい。【三省堂 大辞林より】
とあります。
つまり「他者からは見苦しくてとても見ていられないさま」のことを「みっともない」と言うのですね。
ということは、広告のコピーを言い換えると「東京の女性はきれいだ。でも時々見苦しくてとても見ていられない。」となります。
…わかると思いますが、多分これだとネットでは女性達の「じゃあ見るな」「誰も『見て』とは言ってない」というような声で今よりさらに荒れる結果になっていたと思います。
つまり、今回「女の子に『みっともない』というオブラートな形容詞を用いて言わす」作りにしてるので、このCMは世に出て少し炎上するくらいで済んでいますが、言ってること自体は「電車化粧をする女は見苦しくて見ていられない。」というメッセージなんですね。
で、私が「みっともない」という言葉選びが良くなかったんじゃないか?と思う理由は、一言で言うと公共マナーに関して、公共機関という立場からの注意の仕方で「みっともない、みっともなくない」を持ち出すのは適切ではない気がするからです。
その理由は次の章からくわしく書きます。
「客観的事実と主観的事実」
私がなぜ上記のことを「適切ではない」と思うかというと「みっともない=他人が見苦しく感じる」か否か、の判断は極めて個人的主観に基づいていることだからです。
どういう理屈か説明しますと、人は物事を判断する時に「客観的事実」と「主観的事実」の両方を加味して判断するんですよね。
分かりやすく例えると「地面に穴があいている」とします。
それは客観的事実(誰がどう見てもそのように見える様子)では例えば「円形で直径5m深さ1mの穴があいている」と表せますが、見る人が普段ビルの工事現場等で、もっと大きな穴をいつも見ている人なら人に言う時「あそこ、ちょっとした穴があいてるなぁ」と言うでしょう。また、子供が見たら「うーんと大きい穴が空いてるの」と言うでしょう。
このように「受け手の感覚の違いでどのようにも変化しうる事実」が主観的事実です。
だから裁判などの公的な場では、「たくさん殴られた」という被害者の主観的事実だけで罪の重さは決めずに(「たくさん」の感じ方は人それぞれ違いますから被害者次第で同じ行為の量刑が変わる事態は避けなくてはならないので)出来る限りの「客観的事実(目撃者の「あの人は何発、何分間くらい殴られてた」という証言や怪我の診断書など)」で、状況を判断するわけですね。
で、その穴の大きさが何かこれからの決定事項に関係している場合、その穴について正確に事実をみんなで共有して判断したいなら報告書には誰がどう読んでも誤解が起きないようにきちんと数値で穴の大きさを書き記し(客観的事実)、さらに「大きい」とする方が都合が良いなら「円形で直径5m深さ1mの大きな穴があいている」小さいほうが都合が良いなら「円形で直径5m深さ1mの小さな穴があいている」という風に最後に書き手が主観的事実をちょちょっと付け足したりすることがあるわけです。
ものごとの判断の時にはこんな具合に客観的事実と主観的事実の両面から判断すると、より正確になるというルールで私たちは生活しているわけですが、件の「みっともなさ=見苦しさ」については公的な定規がありませんよね。
物の大きさにはセンチやメートル、音の大きさにはデシベルやホーンといった客観的事実を伝えるすべがあるのに、みっともなさを指し示す「拾い食いは8みっともない、人前でのゲロは10みっともない」みたいな単位はありません。
だから、私が屁理屈人間なせいも多分にあるとは思いますが、「公共性が高い=出来る限り正確な情報を発信して欲しい機関」からの注意を、そんな個人の判断にまるっきり左右される「みっともなさ」が基準でやられると「そんなあやふやなことで注意されんのー?」という疑問が残り、そもそも「みっともない」を用いることに不適切さを感じてしまうのです。
改めて考えた時「人前での化粧」は見ていて不快なのか?
そんなわけで、私は「人前での化粧のみっともなさ」について改めて考えてみました。
皆様にもこの機会に一度よく考えてもらいたいのですが、「化粧をする工程を見ること自体」を「みっともない」と感じるかは非常に個人差があると思います。
「みっともないと思う」「気にならない」とそれぞれいるでしょうし、逆に「面白い」と思う人もいるかもしれませんね。
私は「人前で化粧」という行為について考えたところ、確かに「あまり人前で大っぴらにやる行為ではないな」と思いました。
しかし、それはあくまで自分が化粧をする立場だった場合を想定して「自分が恥ずかしいと感じるか否か」の感覚で言った場合に、自分はちょっと恥ずかしいので「自分は人前で大っぴらにやらない行為」に分類しただけです。
今回よく考えてみると、私は他人様に関しては「どこで化粧をしていようとなんとも思わない」という事に気が付きました。
その理由は、別に動き自体がまわりにぶつかるとか、なにかパウダーが飛び散るというあきらかな「害」がなければ、化粧をする動き自体は自分で見慣れているものだから「げっ」とは思わないですし、本人が恥ずかしくないからしているんでしょうから、私が自分の感覚で「やらない」に分類している判断を「あなたも恥ずかしく思わないのヘンだよ!」と押し付けようと思わないからです。
ちなみにこの理屈で言うと「露出狂も自分が恥ずかしくない人が出してるんだから許すのか?」となりますが、露出狂や公然わいせつは、ほとんど本人以外の全員が「不快」に感じる行為で、度が過ぎているので公に「ダメ」とするべきだと思います。
「公共の場での化粧」も「ほとんど誰でも不快だろ!」と言う人も多いと思いますが、私は不快には感じませんし、国勢調査したわけではないので「ほとんど」が今現在国民の何割なのかは誰も分からないでしょう。
そして、今現在「自分は不快だよ」と言う意見が「国民のほとんど」だと思ってる人が多いとしたら、それは昔から意見の通りやすい層にとっての「ほとんど」だった名残りだと思います。
つまり、昔からこの国で意見の通りやすい「男性」の多くから見て「人前で化粧をするなんてはしたない、みっともない、良くない」という意見が主流だからです。
もちろん女性でも同じように思ってる方もたくさんいると思いますが、中には「男性の作る意見の社会の大きな流れには沿うものだから」が考え方の根底にこびりついていて、無意識に男性と似た判断をするような価値観でそうなっている方もいるんではないかと思います。
実際、私自身も今回のことがある以前に改めて「人前で化粧をする行為って見てて不快か?」と自問自答したことはありませんでした。
つまり「人前での化粧」って、実際に目の前で誰かが化粧をしていて、「見ててキレられた」とか「肘が当たって嫌だった」とか「粉が飛んで喘息の発作が出そうだった」とか、何か実害をこうむったことのある人以外の大多数の人にとって、そもそもこんな異論反論オブジェクションみたいに「不快か否か!?」と題する議題ですらでなく、特別に「是非を問う」というところまで意識が及ばない程度の行為なんじゃないの?という気がしました。
だから余計に、東急がそれをマナーCMの2つめにしてることに「???」となりました。次の章ではもうちょっとそこについて詳しく書きます。
「みっともない」のは化粧だけではない
では、話を東急の広告に戻して今回、公共マナーの注意として「みっともない」という切り口が選ばれたことがどうして私は「変だな」と感じるかという話をします。
まず、「みっともない」を理由に人の行動を改善させる注意のやり方は、一言で言うと「人様の視線に考慮しなさい。」という「躾」のような注意だと思います。
人前で化粧をする行為の「何がどういけないか?」という事を人に諭す時に「躾」という切り口でやると、注意している点は「人前で、その行為に至る他者への配慮意識の低さ」ということになります。
つまり「そういう仕草は、人様が見たら不快に感じるからやめなさいね。」というニュアンスの注意です。
そして、東急電鉄が全部で何種類の「マナー違反行為」に対してCMを作る気かはわかりませんが、第一弾の「歩きスマホ編」に続く第二弾がこの「社内化粧編」なわけで、(第三弾はこれから公開の整列乗車編)歩きスマホ編は「線路に落ちる、人にぶつかる」などの「実際に起こりうる本人、他者への害」を挙げて注意をしているので、これは分かります。
が、先ほども書いたように「人の行動が原因で電車周辺で起きる害」としてその次に打ち出す注意がこの「車内化粧」というのに私は「なんで?」となりました。
なぜなら、電車内で繰り広げられる人間の「みっともないさま」というのは他にゴマンとありますよね。
床に座る。匂いのする食べ物を食べる。座席に荷物を置いて確保する。
シャツをはだけた酔っ払いの酒くささや嘔吐や千鳥足でのぶつかり歩き。
主におっさんに多い大股開き座り。
肘をガツガツ隣人に当てても新聞を読む意思を貫くおっさん。
くしゃみを手で覆わずに豪快に唾を飛ばしてなぜか満足気なおっさん。
エンドレスで鼻くそをほじり指をシートで拭くおっさん。
後半、おっさんばっかになってしまいましたが、とにかく「みっともない、見苦しい」という行為を挙げ連ねたら車内化粧の他にこんなにもあります。
また話が込み入るので今回痴漢のことはあえて書くのは避けようと思いましたが、痴漢に類似した行為で「みっともない、見苦しい」の範囲を超えている、肘で身体を「ぶつかってる?触ってる?これどっち?」という動きをしてくる男性や、雑誌で隠してるけど自分の股間をさすり続けている男性みたいな場面もあります。
そういった、他に実害すら伴ってる「みっともない」がいっくらでもあるのに、東急電鉄が「歩きスマホ」の次に注意したいと選んだのが「車内で化粧をする女」ですよ。
もう「なんでそこぉ?」としか言いようがありません。
確かに「車内化粧を迷惑に感じる人が多い」というのはわかるんですが、「みっともなさ」の切り口で責めるなら、みっともない車内行為の対象者は老若男女どの層だってあるわけです。
それを一番に「みっともなさ」の注意対象として「若い女」がやりがちな「車内化粧」を選んだのは、その判断する人が頭ん中で「若い女性は人目を配慮する心を持ってこそ!」と思ってるからじゃないですか?あとぶっちゃけ、若い女が「注意しやすい相手」だからでしょ?
もちろん、「人目を配慮する心」というのは誰しも持っていることが望ましいとは思います。
でもあくまで「誰しもがおんなじくらいに持ってることが望ましい」と思うんです。
だから広告は「東京のおじさんはかっこいい。でも時々みっともないんだ。」で、あの女の子が「鼻をホジホジ、威厳は誇示!でもシートで指を拭くのはNO!」とか歌い踊ったっていいわけです。
でも、そんな案が通らないどころか、提出もされないのは人々が共通認識としてすでに「おっさんは人目を配慮する必要はない」とうっすら思ってるからですよね。あ、あと注意しにくい相手だからですよね。
つまり私は、「誰しもがおんなじくらいに持ってることが望ましい」他人からの視線を配慮する心のはずなのに、そういう風に「若い女はもっと人目を気にしろ」と「おじさんは人目なんか気にしなくていいんだ」の差があるところに「なんでだよぉ!!?」なんですよ。
だから、その差を当たり前のように無視して、「みっともなさ」を車内化粧の注意だけに持ち出すこと自体がそもそも変だという結論に至ったんです。
以上が私の「公共マナーの注意として『みっともない』という切り口が適切ではない」と思う理由でした。
代案を出すなら
さて、「批判するなら代案を」の精神が私にもあるので、「こうだったら良かったのでは?」と思う案を書きますね。
そもそも「車内化粧」がわざわざ取り上げる話か?っていう気はしますが、そこは目をつぶって、仮に私がお上の命令でどうしても「車内化粧編」を作らなきゃならないCM製作者だったらどうするか?という代案です。
それは単純な話「歩きスマホ編」と同じ切り口でいいと思うんです。
「実際に起こりうる本人、他者への害」を挙げて注意、それだけで。
「みっともない」は言いっこなしです。
「肘が隣人にぶつかる、粉が飛ぶ、匂いが強い(香水以外でそんなに匂いが強い化粧品を私はまだ知らないが)」というような事が「害」です。
あと、一段階深刻な害としては、化粧品に含まれる防腐剤、アルコール、香料がなどは喘息の発作を誘因することがあるので、隣の人が喘息持ちの可能性もありますから、そこは確かに知らずに化粧をしている方へは注意を促していいところだと思います。
「見苦しいからやめるべき」という、個々で異なる主観的事実を根拠に注意をせずに、「肘が子供の顔にぶつかった人がいた。隣席の化粧品で喘息発作になりかけて駅員室にかけこむ人がいた。」という事実が本当にあるのなら、そういう客観的事実を根拠に注意をするのが公共機の切り口としては適正かと思うので、私ならそのようにすると思います。
最後に
さて、一連の話をつきつめてまとめさせていただきます。
なぜ今回、車内化粧行為が「みっともない」という不適切な切り口で注意されたのかと考えてみると原因はやっぱりいつものことだと思うんですよね。
そう、女性への「女らしさ」の押し付けです。
みっともない行動は世の中にゴマンとあるのに、ターゲットを「若い女性」に絞ったみっともなさが真っ先にやり玉に上げられるのは、結局「女性は容姿や仕草を他人に評価してもらってナンボ」という考えが昔からこの国の共通認識にされていたからだと思います。
多くの男性が女性に「恥じらいを持ち、奥ゆかしく、つつましい言動に努める女であれ」という理想を求め、当てはまる女性は「やぁ、なんと素晴らしい大和撫子か」と愛玩し、当てはまらない女性は「はしたない、生意気で下卑た女ども」と罵って、そういう風に男性目線から見た「女らしさ」を基準に「女性の選別」をすることを、この国では長いこと「アリ」にしてました。
そして、それは人によってはもはや意識するレベルでもないほどに深く浸透しているから、女性(とりわけ若い女性に)
対しては、男性に比べて「みっともないことをするな」と諭すことが当たり前のことになっているのだと思います。だからこそ女性に対する躾のような切り口の、今回の広告が生まれてしまったのだと思います。
今回、この広告怒っている女性に対して、恒例のように「またうるさいフェミが過剰反応でCM叩きか」「やつらは何にでも怒りやがる」「たかが一CMの内容に何をそこまでうるさく言う必要がある?」と思う人もいるでしょう。
でも、怒っている人が怒ってるのは「たかがCMの内容」にではないんです。
これだけ日々、世の中は変わっていき、「女性の地位向上」やら「女性が輝く国へ」やら、政府すら一応は言うようになってきて、「男女の差を埋める」「男女共に人として扱う」へ動こうとしているはずなのに、まだちょいちょい「女性は女らしくなきゃ人にあらず」という精神が透けて見えるCMが出て来てしまう、その「土壌の整ってなさ」に怒ってるんです。
私は「まぁいいや」と、女性がお望みどおりの従順さで、小さいことを怒らず見過ごしていくと、時代は簡単にかつての男性優位時代に戻ってしまう気がします。
それが嫌だから怖いから、面倒だけど、声をあげるようにしてるんです。
「ヤマトナデシコ」が理想な人も多いのは分かりますが、そうでない女性をいじめる&いじめていいとする空気はもういい加減に終わりましょう、という提案です。
たかがCMですが、されどCMというか、CMってすごく「お国柄が出る」ものだと思うので、今回このようなことを書いてみました。
久しぶりなので、ちょっと書こうと思ったのにまた長くなってしまいましたが、長文お付き合いいただき、ありがとうございました。
ではまた。
10月27日追記
公的機関が「みっともない」に言及するのが不適切な理由もう一個あったわ。そういう主観的な指標で人々の行動を制限できる権限を持ってしまう事がエスカレートすると、もし「お国のために命を差し出す覚悟を見せないなんて恥さらし」みたいな常識が蔓延った時に「国のために死ねない奴はみっともない」
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) October 27, 2016
という理由で人々の行動が制限できてしまうことになる。そして1つの国の常識なんて政権次第で何十年かかければきっと簡単に変わる。多数派の主観的意見だからと、公的機関が採用してたら、もし政府の誘導で仕向けられて浸透した常識がおかしかった場合に誰が止めるの?ってなる。
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) October 27, 2016
国のトップが本気出したら、人の思想や常識なんて教育でなんとでもなるし、2つほど世代をかければだいぶ常識は変えることが可能だと思う。だからそんな変動しやすい「人の主観」てものを、個人間ならともかく公的機関がまるっきりは頼らないで欲しい。客観的事実でものごとを決めて欲しいんだよ。
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) October 27, 2016
サラダを取り分けなくたって女の恥ではない。
子供の頃のエピソード
小学校高学年の頃の話です。
私は近所に住んでいた友達カヨちゃん(仮名)の誕生日会に行きました。
確か男女取り混ぜて7.8人のクラスメイトが来ていたと思います。
みんなですごろくとかテレビゲームをやって、そろそろお昼になろうかという時に、カヨちゃんのお母さんが「女の子はちょっと来てー」と言って、カヨちゃんを含めた私ら3.4人の女子が台所に呼ばれました。
台所のテーブルには太巻きとか唐揚げとか、いわゆるご馳走が並んでいて、私たちは「おいしそー!」と沸き、カヨちゃんのお母さんに言われるまま、その料理を居間のテーブルに運んだりテーブルを拭いたり冷蔵庫から飲み物を出したりしました。
男子はその間ずっとテレビゲームをしていました。
テーブルに料理が並び、いよいよみんなでいただきますの前、私の目前に麦茶の入ったピッチャーがあったのを1人の男子が手を伸ばして取り、コップに麦茶を注ぎました。
なんの気もなく私がボケーとそれを見ていると、カヨちゃんのお母さんが言いました。
「あら、それはカヨ子がやらなきゃ。」
そう言われたカヨちゃんは「しまった」という顔をしていました。
そこに続けてお母さんは言います。
「こういう時は、女の子が注いであげるといいのよ。」
その時、私はかすかに心がチクっとしました。
気のせいかもしれないけど、2言目はカヨちゃんに向けた言葉じゃない感じがしたからです。
お茶が1番近くにあったのは私で、しかも私は「女の子」に含まれるから、「女の子が注いであげるといい」という言葉が、カヨちゃんではなくボケーっと見てた私に向けられたように感じたんですね。
思い返してみると、私の母は幼少期から私にこういうことを一切言わない人でした。
「女の子だからみんなの飲み物を注いであげなさい。」とか「女の子だから食事の準備を手伝いなさい。」とか「女の子だから木登りはやめなさい。」とかを言わなかったんです。
それが必要な時は「女の子だから」ではなくて、「一番近くにいるんだから」とか「手が空いてるんだから」とか「危ないから」とか、そういう言い方でした。
だから私は「女の子が注いであげるといい」と聞いた時に、正直「なんで?」と微かに思いました。
でも当時は子供。まして、よその大人の言う事につっかかるような性格じゃない私なので、そのまま誕生日会は無難に進行していきました。
でもその時のなんとなく恥ずかしいようなバツの悪い感じの一瞬が、私は妙に忘れられませんでした。
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「気が利く女の子」を習得した時代
高校生になった私は、アルバイト先の飲食店で日々たくさんの飲み会の席を観ました。
男女混合のグループに私が瓶ビールを運ぶと、必ずと言っていいほど女性客が受け取って、女性がお酌をしていました。
男女混合のグループでは、サラダを取り分けるのも、空いた皿やグラスをテーブル脇に出してくれるのも、「替えの灰皿下さい」と言いにくるのも、誰かが飲み物をこぼしておしぼりを貰いにくるのも、大酔っ払いしたグループの帰り際に「うるさくしてすみませんでした。」と厨房に言いに来るのも、ほとんど女性だったと思います。
そして、自分が飲み会に参加する年になると、私は人から「気が利くね」とよく言われるようになりました。
どうやら私は「飲み会における模範的な女性の動き」が同年代の他の女子より出来るらしかったのです。
でもその理由は簡単。
なんせ、酌をする、灰皿を交換する、料理を取り分ける、空いた皿を下げるといった「飲み会での気が利く行動」は、動き自体はたいしたことなくて、ただそれに気付く目線でそこに居るか居ないかだけのことだからです。
つまり私は高校3年間で散々色んな女性の手本を見てきたから、たまたま他の子よりは数年早く「必要なことに気付く目線」が身に付き、気付いたからやっていただけだったんです。
それは偉いことでも無いし、私が特別「女の子なんだからやらなきゃ」と自分に課したための行動でもなく、単に「得意なゲームだからやってる」みたいな感覚でした。得意だから好きで、好きだから得意。ただそれだけのことでした。
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飲み会からの喧嘩
ところが成人して少し経ってから、当時の彼氏とその男友達&彼女達で開かれた飲み会に行った日のこと。
すでにそれまでにもそういう飲み会は何度かあって、いつもの私はそういう「気が利く立ち回り」をしていたのだけど、その日はそれをしませんでした。
理由は、単純にその日の私はすごく疲れていたからです。
たしか、お盆休み期間だったので彼氏達は休みだったけど、私はその日仕事だったんですね。
仕事終わりに彼氏から電話がかかってきて、どうも遠くに住んでいる大事な先輩が地元に帰ってきているだとかで、急きょ集まることになったという飲み会に「お前も一緒に出てよ。」と言われたんです。
はじめ私は「疲れているから」と断ったけど、彼氏が「彼女持ちはみんな彼女連れてくるから!」とお願いしてくるので仕方なく行った、そういう飲み会だったんですよ。
結局私は皆の話には参加して愛想は保っていましたが、皿を下げたり飲み物を作ったりといった面倒事は他の彼女らが率先してやるので任せていました。
そして飲み会がお開きとなり、彼氏と2人の帰り道、彼は不機嫌そうに言いました。
「お前さ、今日の態度なんなの?」
私は「?」でした。
嫌々な参加だったけど自分ではそこまでひどい態度を取ってないつもりだったので、びっくりもしました。
すると彼は、会の最中に近くの先輩のグラスが空いてるのを私が放置してたことや、料理のとりわけを1度もしなかったことなどを「女としてあれはないわ」とくどくど言い、挙句の果てには「〇〇の彼女なんか、〇〇が汚すの見越して替えのTシャツまで持ってきてたんだぜ。お前にああいう気遣いできる?」と言ってきました。
〇〇とは彼の友達で、酔っぱらうと手元が狂い、しょっちゅう飲み物を服に浴びている男です。
その日も案の定やらかしてましたが、その時〇〇の彼女はすかさずバッグの中から替えのTシャツを取り出して〇〇をトイレに連れていき着替えを促していました。
私は彼氏の言葉に「替えのTシャツて、子供かよ。」と思ったし、疲れていたのもあってかなりカチンと来て、言いました。
「あのさ、今日なんて私、仕事終わりですごい疲れてんの知ってるじゃん。そんなにいちいち私がやらなかったことに気が付いてるくらいなら、皿を下げるとか、飲み物作るとかさ、自分がやればよくない?」
すると彼は言いました。
「お前はそれでいいの?」
「オマエハソレデイイノ?」正直、意味がわかりませんでしたが彼は続けて言います。
「だからぁ、みんなの前でもし俺がそういう事をして、彼女のお前がただ座ってるって姿を観られんのは、女として恥ずかしくないの?」
私は完全フリーズしました。
思わずポカーンとなって、頭の中で「なんで?」がぐるぐる回ったまま、なんとか出たのは「は、恥ずかしくないけど…」という一言だけでした。
彼氏はそっぽを向いて数秒黙った後、不服そうに「…あっそう」とだけ言ってその話は終わりました。
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彼の中のルール
当時の私はかなり意味が分からなかったこの出来事ですが、今の私は彼が言っていた不可解な言葉の意味が分かります。
それは、彼の頭にきっとこんなルールがあったのが分かるから。
・男が面倒に感じるこまごましたことは、女の役目。
・男がそれをやるのはみっともない。
・女がそれをやらないのもみっともない。
だから彼の「女として恥ずかしくないの?」という言葉を丁寧に言い換えるならば
「お前(女)がやるべき仕事を、人前で彼氏(男)にやらすなんて、俺(男)の恥とお前(女)の恥のダブルパンチなんだぞ。俺は男として恥ずかしい。女としてお前は恥ずかしくないのか?」という意味だったんだと思います。
でも私は、やっぱり彼の言う事には今も「なんで?」と思います。
頭が混乱していた当時は「なんで?」の一言しか浮かばなかったけど、今はちゃんと続きの言葉がわかるんです。
なんで、そもそも酒の席での面倒な役目は女がやるべきことになってるの?
なんで、あなたが代わりにやることで、私が恥じなきゃならないの?と。
私は、酒の席での細々とした面倒な事を、別に「どちらかの性別の役目」だとは思いません。
面倒な事の面倒くささは男にとっても女にとっても同じものだから、その場を囲む仲間内で、男も女も無く「1番料理に近い人」とか「メインで話してない人」とか「そういうのが好きな人」が、適当にやればいいと思ってます。
あくまで「1番料理に近い女」でも「メインで話してない女」でも「そういうのが好きな女」でもなく、「人」です。
だから、その夜のことで言えば「仕事で疲れてる女(私)」と「疲れてない男(彼氏)」がその場にいたのなら、私がやれてないことに気が付いた彼氏がやればいいだけのことだったと思うんです。
でも彼には「男は男らしく面倒な事をしない」&「女は女らしく面倒な事をしなければならない。」というルールがあったようです。
だからこそ、後から「お前、この男女間ルールを破って恥ずかしくないのか?」と言わんばかりに私に「女としてあれはない」とダメ出ししてきたのだと思います。
今思うと、私もポカーンだったけど、彼も同時にポカーンだったのかもしれませんね。
彼の中の男女ルールは、きっと彼の中では「万人共通、このルールが根付いてるものだ」と信じてたんだろうから。
私達は根本的にジェンダー観がだいぶ違う2人だったということが、後になってこういう場面をいくつも思い出してからしみじみわかります。別れてよかった。やれやれ。
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女子だけが面倒見役を求められる不思議
ところで、ここのところ、ネットや雑誌の女性向け記事では「女の子ならこれができなきゃ恥ずかしいぞ♡」「モテ子になるにはこれをマスターして♡」というノリで、「男性に好かれるには女性はこのような事をマスターしましょう。」と指南するものが目につきます。
もともとそういったことを女性に求める空気は世の中にあったけど、本や雑誌以外にインターネットで雑文が溢れる時代になってから、特にそういう内容のものが量産されて、私の目につきやすくなった感じ。
でもそういう記事を目にしていつも思うのは「なんでこういう内容は、ほとんど女性向け記事なんだろう?」ということです。
私は「モテる方法をレクチャー」系の記事自体がそもそも面白くないけど、(全部「そんなの相手によるだろ!」と思ってしまう…)髪型やメイクやファッションなどの外見についてなら、100歩譲ってまだ「女性向け」「男性向け」と分けられるのは、わかります。
でもこの頃よく見かける「食事の場では料理を取り分けましょう」だの「男性の空のグラスに気付ける女になろう」みたいな「内面も男性ウケ用に作り込むべし」という女性向け記事が、ちょっとわからない。
確かに、大勢でテーブルを囲んだ時そういうことをこまごまとやってくれる人がいたら、してもらった方がしてくれた人に「おお、優しいな、気が利くな、ありがたいな、好きだな」等の好感を抱くことがあるのは当たり前のことだと思います。
でも、その当たり前って、男女共通の感覚ですよね?
つまり「男だって女だって目の前の雑事を誰かが代わりにやってくれたらありがたいし、好きになる可能性は高まる」ということです。
だから、「サラダを取り分けましょう」だの「空いた皿を下げましょう」だのの教えって、別に「女のコはこれができなきゃ♡」ではなく『男女ともに向けた教え』であるべきだと私は思います。
だから「男も女もこれが出来る人って、好感度高いですよ〜」ということで、「サラダを取り分けましょう」だの「空いた皿を下げましょう」だのが挙げてあるなら全然良いと思うんですが、なぜか「女のコなら」と限定されてるから腑に落ちないんですよ。
なんで私が腑に落ちないかというと、多分そうやって「こまごました面倒なことをやるといい女だよ♡」と女性だけにアナウンスする意図には「男が面倒に感じるこまごましたことは、女の役目。」という、私の彼氏の考えと同じやつが透けて見えるからだと思います。
ようするに、ああいう記事を読んだ時、私は書き手の思考回路が
「面倒な雑事をやるのは女性の役目だよね。→だから他の女のコよりもそれが出来れば、女らしいって思われるよ。→女らしさが高いほど男にはモテるよ。」
なんだろうなって思えてしまうんです。
だから、記事を読むたび前と同じように私はこの疑問がこみ上げます。
「なんで、そもそもそのへんの面倒な役目は女がやるべきことになってるの?」と。
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昔からある男女別しつけ
でも、考えてみるとその答えはきっとシンプルで、単に「昔からそういうものだから」なんだと思います。
つまり、ずっと昔から、男は「戦場、職場」女は「家庭」に居場所を分けられていた時代に、男女がそれぞれの場にふさわしい人間になるように躾けられてきた慣習があるからなんだと思います。
だからこそ20年前、カヨちゃんのお母さんは「飲み物は女の子が注いであげるといい。」と私たちに教えたのでしょう。
「女の子が注ぐといい」と言われた時、正直、何に対して「良い」なのか、当時の私にはわからなかったけど、それは「世の中にたくさんいる『女の子がそういう事をするべき』と信じてる人」にとっての「良い」なんだと思います。
世の中には「女の子がそういう事をするべき」と信じてる男性がたくさんいるから、彼らが「良い」とする行動をして、彼らに好かれ愛されることが、女性にとっても「良い」なのよ。
きっとカヨちゃんのお母さんは、そういう意味合いを込めて、私達女子のためにご教授下さったわけで、それはきっと数多の女性向け記事と同じ意図です。
けして悪意ではありません。でも、もうそれは今の時代「女らしく」に疑問を持つ女たちを縛るものになってます。
私は、以前も書いたけど普段ただ「人」として暮らしているつもりで、別に自分の性別を特別に「女だ」と意識して暮らしてはいません。
でも、そうやって暮らしていた若き日、たまたま疲れていた日の飲み会で料理を取り分けなかっことを「女の役目をしなかった」と彼氏に責められました。
人間だから仕事をして帰ってきたら疲れているのは当然だと思います。
でも、彼氏からしたら、その飲み会での私が「疲れた人」として存在することは許されず、「料理取り分けの役目を果たす女」として存在しないといけないものだったんでしょう。
「なんで彼はそんな考えの持ち主に?」
と推測すると、その答えは簡単で、彼もまた子供の頃「女の子はこうするべき」と躾けられる周囲の女子を「外側から見ていた男子」だったからだと思います。
そう、この国では女の子に「女の子の役目」を教える大人は、同時に男の子には「男の子の役目」を教えます。
食事の準備はさせなくても、男の子は男の子用に「男の子だから泣かないの。」「男の子だから怖がらないの。」「男の子だから運動や勉強が出来なきゃ恥ずかしいよ。」などと、女の子には課さない内容でしつけます。
そうやって、昔の人は「男の子は強くたくましく外で働く人間に」「女の子は可愛らしく従順に家庭を守る人間に」になるべく、子供たちそれぞれの性別に合わせた教えをしがちでした。
ちなみに彼氏の母親は専業主婦でした。私は1度彼の家に行った時、彼の部屋は掃除が行き届いていて、ドアの空いた妹さんの部屋は散らかっていたので、そのことを言うと、彼は「俺の部屋は母ちゃんが、掃除するから綺麗なんだよ。妹には自分で掃除するよう言ってるみたいだけど、アイツ(妹)は自分でやんねーから汚いんだ。」と言っていました。
そのことから察するに彼の母親も「娘は女だから、娘だけに家庭的教育をする」人だったんでしょう。
そういう母の教えで育った彼だからこそ、飲み会でこまごまとした雑事を女性がやることを本当に「女性の役目だ、そういうものだ」とする大人になったのだと思います。
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性別ごとの役目に縛られる窮屈さ
さて、彼はたまたまそういう教えを受け入れて大人になった男性ですが、世の中にはそういう「男の子用」の教えに縛られて苦しむ男性もいると思います。
私が「女の子用」の教えに縛られることが苦しいのと同様に。
私は、普段「女性が不公平な現状」を取り上げてものを書くことが多いけど、この点については、そうした「男の子用」の教えに縛られて苦しむ男子達もまた被害者側だと思います。そして思います。
そんなに私達は、女性なら「女らしいとされているもの」男性なら「男らしいとされているもの」からハミ出たらいけないんだろうか、と。
男が「戦場、職場」女が「家庭」に居場所を分けられていた時代に、男女がそれぞれの場にふさわしい人間になるように教えられてきた教えを、そのまま下の世代に課していいんだろうか、と私はいつも疑問に思います。
今の私達は、男女が同じ居場所で生きていて、男女という2分の性別にくくられない人だってたくさんいます。
今の私達の生活に必要なあらゆる活動は「性別ごとの役目」に囚われていたら、追いつかないほど多種多様にたくさんあります。
そんな世の中では「性別ごとの役目」を忘れ、その都度目の前にいる人と互いに快適に過ごせる「人」として存在することの方が私達の「役目」なんじゃないかと私は思います。
もちろん、家庭的でありたい女性はそれを目指すのも自由。
でも、同時に家庭的でありたくない女性が、家庭的にならない自由もあって欲しい。
「女は家庭的ではないことを恥じろ」と押し付けられる社会は、たくさんの女性に窮屈さを感じさせ生きにくくさせます。
男性も同様に「家庭的なことをしたくない」人は、自分がそう生きるのは自由。
でもそういう男性が他の男性に「家庭的なことをするのは男の恥だぞ」と押し付ける社会は、たくさんの男性に窮屈さを感じさせ生きにくくさせます。
ようするに、古い時代の「性別ごとの役目」を果たすのも果たさないのも、個人の自由だけど、果たさないことを「恥じるべき」と押し付ける社会がそろそろ終わる事を私は望んでいるんです。
あの時、彼氏に言われた
「皆の前でもし俺がそういう事をして、彼女のお前がただ座ってる姿を観られんのは、女として恥ずかしくないの?」
に対してろくに言葉が出なかった私は
今ならまっとうに返事ができます。
「恥ずかしくない。『そういうことをできない女は恥ずかしい』っていう価値観を人に押し付けることのほうがよっぽど恥ずかしいよ。」と。
「女のコはサラダを取り分けよう♡」記事に関して何か書こうと思ったら、思いのほか壮大な話になってしまいましたが、長々とお付き合いいただきありがとうございました。
ではまた。