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恋愛工学は「自分だけが主人公」のゲームのようなもの

 
はじめに
 
 代表作「南くんの恋人」や「ファザーファッカー(小説)」などで知られる漫画家の内田春菊さんの作品に「水物語」というのがあります。
全4巻の作品ですが、ストーリーをごく簡単にまとめると「ある既婚者の中年男性が18歳のアヤというホステスと出会い、恋愛関係になって、色々なんだかんだあって最後は別れる」という話です。
 
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(印象的な一コマ)
2000年の作品で、私が最初にこの作品を読んだのは20代の中頃でした。
私は単行本を持ってるのでその後何度も読んでいるのですが、この作品が私にとって何年経っても色褪せないのは、期間を空けて読むごとに新たな発見があるからです。
若い頃読んだ時にはさして引っかからなかったり、ピンと来なかったりした場面ごとの登場人物のセリフや表情が段々と「あぁ、この感じ分かるなぁ…」と新たに理解できるような感覚があります。
 それで今でも面白くて時々読み返しているのですが、このところ巷で話題の「恋愛工学」というものについて考えようとした時、私はなぜか真っ先にこの作品の事を思い出しました。
この事は後に詳しく書きますので、ここではひとまず置いておきますが、私がこれから書くのは、この漫画の主人公のような男性像をイメージして書くところがあるので一応前置きとしてはじめに書いておきます。
 
恋愛工学者も色々
 
さて今日は恋愛工学にまつわる話を書きます。
恋愛工学については賛否両論ありますが、私はどちらかと言えば否定派です。
しかしその「否定」は、恋愛工学そのものが唱えている色々な説について「正しい」とか「間違ってる」という意味ではなく(そこまで私自身が恋愛工学の内容を勉強したわけではないので判定は出来ない)、もし身近に恋愛工学を信じて行動している人が居たとしたら、素直に「楽しそうでいいじゃん!」と肯定はできないという意味で「否定」の方になるということです。
もちろん、人の生き方は人それぞれが決めて良いと思うので例え人生の中心目標にドーンと「沢山のいい女と恋愛したい!セックスしたい!」と掲げて生きていく人が世の中に存在するとしても、私はその存在を否定することは出来ません。
それは、どんな人間にも好きに生きる権利があるので、いくら私が気に入らなくても「そんなやつ死んでしまえ!」とまで言えないということです。
ただ「死ね」とは思いませんが、軽蔑はしますし、もし身近にそういう人が居たら今後なるべく関わりたくないとも思います。
私はそういう程度には恋愛工学を信じて行動する人を否定しています。
 
で、一応ここからは恋愛工学が「男性に向けた恋愛ハウツー」だという私の認識で書いていきますが、私は恋愛工学を信じる男性の中にも色々な方がいると思っています。
半信半疑ながらも部分的に参考にしている男性、「まぁダメ元でやってみるか」と生活に取り入れてみた男性、完全に信じてその教えを丸呑みした行動を心掛けてる男性…と。
これはやはりどういう集団でも、形成しているのは1人1人違う人間なので、その各々の範囲で恋愛工学を実践している度合いは違いがあると思うからです。
そして今回色々な方の恋愛工学批判にまつわるブログを読むと「恋愛工学」そのもの、や「恋愛工学を信じてる男性(以下、恋愛工学者と略します)」をまるごと否定する方が多いと思いました。
私はその気持ちも分からなくはないですが、私としましてはあえて今回「恋愛工学者全員」の否定はしません。
それは何事も「まるごと否定」すると、そこに少しでも加担している方の反抗心に火がつき、今より余計のめり込む男性が出そうな気がしてしまうからです。
しかし私は恋愛工学者の中で「これだけはアカン」と言いたい方がいます。
それは既婚男性の方です。
 ではこれから私がどうして「恋愛工学者の中で特に既婚男性の方がいけない」と思うかを説明していきます。
 
犠牲を払うのは自分1人ではない
 
現代人にとっての「結婚」とは、デメリットもありますが「社会的信用を得る」「いち人間として帰る場所がある」という大きなメリットがあると思います。
しかし世の中には「独身主義」という言葉があるように「自分はとにかくモテたくて、沢山のいい女とセックスしたくて、誰か1人に絞った結婚生活というものが出来ない気がする」という自覚のある男性が存在します。
私はそういう男性が「結婚」を捨てて「多数の女性にモテる道」を選ぶことは、まだ人として理解できる範疇にあります。
なぜなら独身主義の人は、自分の人生の中で「結婚のメリット」と「自由に恋愛をする立場」を天秤にかけて「結婚のメリットを捨てる」という選択しているからです。(もちろん他の理由から独身主義の方もいますが、今回はこのケースだけについて書いてます。)
「選択の結果」には「覚悟」が伴うもので、私は人の覚悟というのはある程度尊重するべきものだと思うので、これを経ている独身主義の男性のことは頭ごなしに否定はしないでおこうと思うのです。
多分、恋愛工学者の中には最近の世の中の恋愛工学批判の声を「うるせぇな、人の勝手だろ!」と思ってる人が多いかと思いますが、これは、自分なりにこの覚悟があってやっている行為を「恋愛工学者」というだけで、その他の人から頭ごなしに否定や批判をされているから腹を立てているのだと思います。
そして、彼らが頭に来て恋愛工学自体を擁護し始めると、「恋愛工学者」というくくりの中の既婚男性も自分が擁護されている気になり、増長しかねないので、私はあえて「恋愛工学者」の中の「独身者」と「既婚者」を別物として考えていきます。
 
さて、では具体的に私が既婚男性の恋愛工学者の「どこがいけないと思うか」というと、彼らは結婚を経て社会的メリットを手に入れつつも「よその女と恋愛をしたい」という欲望をも叶えようとしています。
これは二者択一もせず「やりたいことを全部叶えたい」という欲望だけの姿です。
ようは子供をお菓子売り場の前に立たせると「アレもコレも」と欲張りますが、アレと同じ姿だと言えます。
こういう子供に対して、普通の親が「一つ選びなさい」と言うのは「お金を払う」という代償を課せられるのが親だからです。
これが大人になり「自分で稼いだお金」だけで、自分の「アレもコレも欲しい」を叶えるなら誰も文句は言いません。
欲望を持つのも、叶えるのも、代償を払うのも「本人一人」の身に起きる事柄だからです。
しかし、既婚男性が「結婚生活も婚外恋愛も欲しい」という欲望を叶える為に払う犠牲は、その男性1人の犠牲ではありません。
そこには妻が払う犠牲もあるんです
これに対して「ん?なんで?浮気してるのが妻にバレなければ妻は犠牲を払ってなくない?」と思う人もいるかと思います。でも私はそうは思いません。
「結婚」は今は軽い気持ちでする人もいますが、本来は「相手の人生の責任の片棒を担ぐ」という意味を持つ行為で、いくら昔よりはモラルが壊れ気味の現代でも、その意味を理解してする人のほうがやはり多いと思います。
不倫している男性の中には「バレないようにしてるし、もし妻にバレても謝って許してもらうか、最悪離婚すればいい事だし」と思ってる人がいます。
しかしその「最悪離婚する」という事態の「最悪」は、自分だけの最悪ではなく妻にとっても「最悪」なのです。
バレてなかろうが知らずのうちにその「最悪の事態になる可能性を背負わされてる」だけで、妻は犠牲を払わされてると私は思います。
分かりやすく言い換えると、独身者が「アレもコレも欲しい」ので借金をして最悪自己破産しても痛い目を見るのは本人だけですが、既婚者が「アレもコレも欲しい」ので妻に内緒で借金をして、最悪自己破産した時に「俺は自己破産することになる。お前に迷惑がかかるから離婚してくれ。」となった時に、妻が無傷と言えるでしょうか?ということです。
例え、借金が妻にバレずに返していけるとしても一人で勝手に「借金」をしてる時点で、妻は知らないうちに自分の人生を左右する事態が、夫の一存で起きているわけですから、妻に対して残酷な事が起きている事に変わりはありません。
つまり自分の都合で結婚生活を「最悪」にして終わらせる可能性を作るという時点で、「自分の欲望を叶える為に妻の人生を危うい立場に追い込んでいる」という事だと思うのです。
ただの恋愛関係と夫婦の違いは「お互いに相手の人生がかかってる」という責任感の有無だと私は思います。
その為、既婚者でありながら安易に離婚に繋がる行動を取るという事は「相手の人生への責任を果たすつもりが無い」という意識の表れであり、自分の欲望の前で妻という立場の人の人生を軽視した行動だと思います。
私にとって「自分の欲望の前に他者の人生を軽視する」ということは「人として侵してはならないところを侵した」に値します。
その為、既婚男性の恋愛工学者を特にいけないと思うわけです。
 
既婚男性の言い訳が不可解
 
以前Twitterでおそらく「既婚男性の恋愛工学者と思われる人」の投稿を見たのですが、不倫相手とのセックス報告をしつつ「こうして他の女を抱く事で、俺は妻に優しくなれる」というような事をしきりに書いてありました。
これは、本人がそう思いたくて実際そう思っているのでしょうが、私にはテイのいい理論武装に思えます。
確かに自分の不倫行為を「順調な結婚生活の維持に役立ってる」と思えば、その男性の中では妻へのやましい気持ちは消え、不倫行為を正当化できると思います。
しかし、本当に結婚生活の役に立ってる行為と思うなら、妻に胸を張って言えばいいのです。
「俺はお前以外の女ともセックスすることでお前にも優しく出来る。だからお前にとっても嬉しい事だろ?」と。
それで妻が「私もモテない旦那よりモテる旦那の方が嬉しい!どうぞよそで息抜きして若さを保って、家には機嫌よく帰って来てね!」と言うなら、それはその夫婦にとって「夫の不倫行為」は「結婚生活の為のプラスの行為」になるので、世の中にそういう夫婦が居てもいいと私は思います。
ですが、こんな返事をする女性は滅多に居ません。
それを既婚男性も分かっているので、わざわざ「言って家庭を壊すリスク」を避けて実際には皆、隠れて妻に内緒で不倫行為をするわけです。
もし本当にこのように妻の意思確認をするとしたら、それは既婚男性に取っては大バクチです。
不倫を推奨する妻が世の中に稀だと知って妻に言うとしたら、ほとんど負ける可能性の高いバクチです。
なので多くの男性はバクチに負けそうだから実際に言う事はありません。
でも頭の中でやってるのは、バクチで言えば「勝った結果の想定」なのです。
なぜか「この不倫は妻の為に良いことだ」と勝手に思い込んで不倫してるのですから。
この矛盾を既婚恋愛工学者の方はご自身の頭の中でどう折り合いをつけているのかと、私は不思議でなりません。
あと、私は何も「結婚したら必ずしも1人に絞れ」と言ってるわけではありません。
私はポリガミー思想を理解できるので、夫、妻、不倫相手という「当事者全員」が了解のもと、妻や夫が婚外恋愛をするのは別に構わないと思います。
それは当事者全員が意思を開示しているので、全員が対等な人間としてお互い扱われて存在しているからです。
私が嫌なのは、夫と不倫相手だけが事実を知り意見を言い合えているのに、妻だけが部外者のように事実を知らされず、ハナから意見を言う立場を除外されている事が、妻を「対等な人間扱い」していない事に思え、そのことだけが嫌なのです。
なのでこれは単純に「不倫はダメ!奥さんが悲しむから!」という話ではなく、「妻となる女性の人権侵害をしないで欲しい」という願いだと思ってもらえるとありがたいです。
 
「水物語」に観る男女のすれ違い
 
さて、冒頭の内田春菊さんの漫画について再び書いていこうと思います。
 この漫画が出た頃には当然「恋愛工学」なるものはまだ存在していません。
ですが、私が恋愛工学について考える時にこの漫画をつい思い出したのは「水物語」の主人公の男性が、恋愛工学者ではないものの恋愛工学者から観るととても「理想的」な性生活を送っているように思えたからです。
主人公の「村上」は、自覚はありませんがロリコン気味の中年男性で、生まれつき女性にモテるタイプです。
彼には、彼に当たりが強く小うるさい妻と可愛い子供が居て、家庭は壊したくないものの、飲み屋のホステスである「アヤ」という18歳の女性と出逢いお互いに惹かれて不倫関係になります。
仕事のデキる男である村上は、アヤ以外に会社の部下である女性にも好かれていて、はずみで肉体関係を持ちます。
妻とはセックスレスですが、家庭不和になり過ぎないよう義務感でセックスをしたり、アヤとは恋のときめきを味わいつつ徐々にノーマルではないセックスに移行したり、部下の女性とは相手がせがむのでセックスをしたりして「こういうのも後腐れなくていい」と思ったりしてます。
それで「男は中年になってからだなぁ」と1人ごちたりするので、この文章だけ読むと恋愛工学者にとっての村上は、まさに理想の男性像に映ると思います。
しかし水物語は、後半になるとアヤの視点を通じて読者に「村上という人間の中身の解体」をしていきます。
そして彼がどれだけ自分勝手で女性を人間扱いしていない男性かということが徐々に明かされていきます。
この話は全ての男女に読んで欲しい物語です。
何気ないエピソードをひとつ取り上げると、はじめの方でアヤが「文章を読むのも書くのも好き」だと明かすと村上は「じゃあ今度なにか本をプレゼントしよう」と言います。
ホステスという立場で読書家だと明かすと他の客は小馬鹿にした返答をするのに、村上はそうじゃなかったということでアヤはいたく感動して村上に好意を抱きます。
しかし、村上が実際に本をプレゼントする事は無く、中盤で村上が家に訪問した時図書館に行っていてアヤが不在だったことにむくれた村上が「本くらい買ってやるのに」と言うと「そういえば、まえそう言ってたね。」「でももらったことないな…別にいいけど…」と言うセリフがあるのですが、この「男性がたいしたことない約束」だと思ってる事が、女性にとって大きな「信頼一個」であるのに、男性が気づいてない感じ!
こういうのを描けるのが内田春菊のすごさだと思います。
これは単にアヤは「本を貰えなかった」のが不服なんじゃないんですよね。
村上を好きになる要素に「頭の悪いホステスという思い込みをせず人間扱いしてくれた人だから」というのが大きくあって、「本をくれると言われた事=アヤにとって人間扱いされた証」で「自分を人間扱いしてくれるところ」が当初の村上の魅力だったのに、結局それは口先だけだとだんだんわかってきて、当初自分が村上の中身を過大評価してしまった事、村上がそういう人間だったこと、その両方に失望してるんだと思うんですよ、アヤは。
この漫画の特筆すべき所は、このように村上とアヤがスレ違っていく様が、世の中のこういう男性と女性の間がスレ違っていく様子まんまであり、とてもリアルに描かれているところです。
 
この作品を読むと「モテる男性」が自分では「かっこいい」と思っている行為が、女性から観るといかに冷酷で女性を人間扱いしていない行為かという事がアリアリと分かるのでどなたにも読んで頂きたい作品です。
ここまで内容を書いておいて、勧めるのもナンですが(あと過去に『商売っ気のあるブログを書くのも嫌だ』と言っておきながらリンクを貼るのナンですが)
まだまだ書ききれない面白さに溢れていて、古い作品なので本屋では売ってないのでリンクを貼っておきます。
 
 

人生の総決算期に

私は5年間ほど介護職をしていたので、多分普通の人よりはわりと多めに「人生の終盤」に立ち会ってきました。
それで、私自身も感じたり、介護職の人同士で話すと結構「あるある」なのが、「人の人生ってわりとある程度の雛形がある」という事です。
どういう事かと言うと、数々のお年寄りの長い人生史を聞くと、さすがに激動の時代を生きてきただけあって実に様々な人生がありますが、それでもなんとなーく「こういう性格、こういう生き方の人は最終的にこういう人生の終わり方なんだな」というのの「雛形」があるように感じられるのです。
それで、おとぎ話のようですがやっぱり「周りの人を大事にしてきた人」っていうのは、老後、周りの人に大事にされてるようなんですよね。
家庭を顧みず借金したり女遊びをしてきた男性は、老後に1人きりだったり家族に邪険にされていたりして亡くなるまで不平不満や孤独感に苛まれてるケースが多いし、逆に若い頃から仲間思いで困ってる人に優しかったとか家族を大事にしていたという人は、最後まで愛情のある家族に囲まれて暮らしていて本人も幸せそうだったりというケースが多いです。
中には例外的な人もいることはいますが、でも大多数の人が「老後である現在の状況」は「若い時の生き方の報い」が現れているように私は感じました。
 
1人、印象的だったおじいさんの話をしますと、そのおじいさんは、まだ70代前半で「おじいさん」と呼ぶにはためらうほど見た目が若々しく認知症も無いのでよく私と普通の話をしました。
その方は、4度の離婚を経て現在は1人暮らしをしていて、デイサービスに通っていたのですが「若い頃はさぞかしモテたであろうなぁ」と思わせる見た目と口達者なところがありました。
実際、おじいさんは若い頃から女を取っ替え引っ替えしていたそうで「一晩で3人ハシゴした事もあるよ。」と豪語し、恋愛工学的にはウハウハの勝ち組に思えそうなので、ひとつの例としてそのおじいさんの話を書きます。
彼は50代まで最後の家庭(妻と子供3人)があったのですが、その時もやはり不倫をしていて、妻ではない若い女性と半同棲をしていたアパートを突然妻に突き止められて、不倫相手と駆け落ちしようとした朝に、妻に軟禁されて家を出られず、連絡方法も今より限られていたのでそのまま不倫相手と連絡が取れなくなってもの別れになり、その後、妻にも離婚を求められて離婚して結局1人身になったそうです。
おじいさんはそれでも「これからもういっちょ!」と思ったそうですが、その矢先に心臓病を患い、あれよあれよという間に身体障害者手帳を貰う身となり生活保護受給者として今の生活が始まったそうです。
それでもおじいさんが1番よく話すのは最後の不倫相手の女性の話で「俺は罪な男だ…彼女を幸せにしてやれなかった…」とよく言っていていました。
他の介護員の人にはその話をあまりしないのに私にだけその話をして下さるので、よし、ここはひとつ介護員としてのうわべトークは辞めて本音を言おうかと思って「幸せにしてあげられなくて悔やんでるのは、その人だけなんですか?」と聞いてみたんです。
すると「そうだなぁ…だってな、その彼女、後から一回だけ連絡があって分かったんだが、最後妊娠していたんだとよ。俺と別れて1人で子供を堕したって言うんだ。俺はそれを聞いて自分はなんて罪深いんだと思ったからよ…それが1番の後悔だよ…」と言うんです。
おじいさんはそれでさめざめと悲しそうにしていたけど、私はなんか納得がいかず「産まれなかった子供とその女性が可哀想なのは分かるけど、前の奥さんとその間に設けた子供達も相当に可哀想な目に合わせてるよね?」と言ってしまったんです。
その時、おじいさんは一瞬ハッとした顔をして、私も「一線を越えた発言」だったかと思って「しまった!」と思ったのですが、その時はおじいさんが「桜島さんは厳しいなぁ」とハハハと笑って話を終わりにしてくれました。
しかし、その次におじいさんがデイに来た時に、しんみりと「こないだの話よぉ、あの後考えてたら、桜島さんみたいな事を言ってくれるヤツが若い頃に周りにいたら俺の今は違ったかもなぁ、と思ったんだよ。」と言うんです。
私はちょっと怒られるかなと覚悟してたのでこれには驚きましたが、おじいさんはさらに「もう手遅れだけどよぉ、今の俺が1人でこんな惨めな暮らしをしてるのは全部報いだよな。少し前まで『なんで俺がこんな目に』って思ってたけど、違うんだな、全員分の恨みが乗っかってると思えば、惨めな暮らしは当たり前なんだよな…。」と言っていて「死ぬ前に気付かせてもらえただけありがたかったよ。」と私の手を握ってきました。
私が「あぁーまぁそれなら良かったです。」と言ってやんわり手を振りほどくとおじいさんは「俺があと30歳若けりゃよう、桜島さんと結婚して人生やり直すんだけどなぁ〜‼︎」と言うので「このじいさん懲りてねぇ!」と思いました。
 
まぁ、どこまで本気か分かりませんが、おじいさんが後悔をしながら人生の終盤を過ごしているのは確かなようで、このおじいさんはただの一例ですが、色々なお年寄りからこのような「人生総決算」みたいな話を聞くたび私は「人生の終盤には生きてきたツケを払うんだな」と自分の中で教訓にしてきました。
 
今、目先の自分の欲望を優先して周りの人の事を考えないで生きてる人は、あんまり自分の人生の最後を想像していないのかもしれませんが、本当に自分が若さも体力も無くなって身体が思うように動かず、仕事で収入も得られなくなる時は高い確率で誰しも来ますから、その時になるべく後悔が無いように生きた方がいいんじゃないかと思います。
ちなみに私は「若い頃いくらモテたか」じゃなくて「誰かを幸せにできたという自覚」のほうが、老後心の支えになると思います。
一生独身だとしても、それは若い内に自分と向き合って出した答えに沿ってるなら「自分自身を幸せにした」という自覚が得られるから幸せだと思うのですが、若い内に自問自答せず、自分でも何が幸せなのか分からないまま、目先の欲望だけに走って若い内を過ごす人は、老後は後悔と不満と孤独感だけがお友達になるので、それはそれで覚悟が必要そうです。まぁまとめると「人間ある程度の歳を超したらなんらかの覚悟しないといけないよ」って事かなと思います。
 

さいごに

恋愛工学自体は「男性自身がプレイヤーとなり数多の女性を攻略していくゲームの攻略方法」だと私は思います。
そのため恋愛工学者はこのゲームにおいて「自分=主人公」「女性=自分のゲームの登場人物」という見方がある以上、女性を「1人の人間」としては見てないように思います。
このような認識のある方は是非「自分=主人公」「女性=主人公」という意識に考え改め直して貰いたいと私は願ってます。
「恋愛」はお互いがそれぞれ主人公だと認識してこそはじめて成り立つ関係で、もし相手の女性を自分のゲームの登場人物化して見てしまったら、それは恋愛ではない「支配」とか「狩り」とかまぁ、そういう類のものになると思います。
これを読んでいる女性も、もしアプローチを受けてる男性から「これ、私のこと主人公扱いしてくれてないな。」という感じを受けたら走って逃げる事をお勧めします。
もちろん女性も男性の事を「ATM」とか「支配してくれる存在」だと思わない事も大事ですし、男性も目の前にいる女性の事を、ただの「性対象」とか「家政婦代わり」とかで見る事がなくなるといいと思います。
そうして男女お互いが相手を「1人の人間」として見るようになると、1人の人間との理解を深めて良い関係を築くのは一生かかる大仕事なので、他の異性を相手する暇はあまり無くなるんじゃないかと思います。
「目の前にいる人が最愛で、他の異性を気にする事がない」ということは、なにより本人にとって1番シンプルで楽しい事のように私は思います。
 
色々ジャンクフードやお菓子をだらだら食べてもなんとなく満腹感が得られないけど、ちゃんと栄養バランスの考えられた一食を食べるとそれだけで満腹感が得られるのと同じで、恋愛や結婚も、つまみ食いを繰り返すより、1人決めた人との関係を一生かけて築くほうが、自分の為になるんじゃないかな、ということを私は思います。
私が恋愛工学について考えるのはそんなような事です。
長くなりましたが、今回はここまでです。
それではまた。

トピック「恋愛工学」について