限りなく透明に近いふつう

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なんでセクハラはなくならないのか。

 

このところ、セクハラ関連の話題をよく耳にしますね。

最近のセクハラ被害のニュースの多さや「#MeToo」の声の多さに、驚いたりショックを受けている人もいるかと思います。

このたび私はそういう驚きやショックはありませんでした。

というのも、以前に、自分の痴漢された経験をもとにした考えをここで書いた時、その反響で「私も…」という声をかなり多く頂いて、その時にすでに「私以外にもこんなに…」という驚きとショックを私は先に経験していたのでした。

だから最近#MeTooの声がたくさん上がってきても、多すぎるとも思わなくて「皆の堪忍袋の緒がとうとう切れたんだな」と思いました。

 私自信が痴漢や痴漢っぽいことや、セクハラやセクハラっぽいことをされていたピーク期はもう10年くらい前なので、自分の中ではふだんはそれほど意識しないで暮らしているのですが、普段は意識しなくなっても、経験が無くなるわけではないから、意識の奥の方では怒りとか理不尽さみたいなものがずっとくすぶっているような気がします。

そして、私がそういう目に遭わなくなっても、世の中にはやっぱりセクハラや性被害がいまだにあるという事に嫌気がさしてきますし、今日もどこかで誰かが過去の自分のように苦しんでいると思うと、私はとても悲しくなります。

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それにしても、私は謎です。

どうして何十年も前から女が「嫌だ嫌だやめてくれ」と訴えているのに、

世間常識的にも「セクハラは悪いこと」だと知れ渡っているのに、

セクハラ事件は起こり続けるんでしょうか。

※今回の文を書くに当たって、セクハラが「男→女」に限定した行為という書き方になってしまう事をお許しください。世の中には勿論女→男、男同士、女同士のセクハラ事件もあります。ですが、全部のケースを視野に入れた内容は私の文章力ではどうしても読みにくい文になってしまうので、一番多い男→女のケースに焦点を当てて書かせて頂きます。他のケースによる被害で苦しまれている方にとっては不快かもしれませんが、申し訳ありません。ご容赦ください。

 「なぜセクハラは無くならないんだろう?」

私はここにきてシンプルに疑問に思えてきました。

個人間で「なぜセクハラが起きたのか?」という話ではなくて、社会の中で「なんでセクハラがいつまでも無くならないのか?」という疑問です。

それについて考えていたら、私はまた一つ引っかかることが出てきました。

それは「一部の男がクズだという理由だけで、果たしてここまでセクハラという1つの悪習が、存続するものだろうか」ということです。

どういう意味かというと、

私はこれまで「セクハラは誰のせいで起きるんだろう?」と考える時に、漠然と「性欲の自制が効かないタイプのクズい男がいるからだ」と思っていたんです。

でも、よく考えてみたらそれだと私の中の辻褄が合わない、と気が付きました。

なぜなら、私は世の中の男性には、ちゃんと性欲の自制が効く人のほうが絶対多いと思うからです。(統計を取ってないのでただの持論だけど)

たしかに性欲の自制が効かないタイプの男は、発言力があったり目立つ言動をする傾向があって、彼らがよく「男代表」みたいな顔で「男は~」と語るから、世間ではつい彼らの方が多数派と認識されがちだけど、私は性欲の自制が効く男性の方が多数派だと思うし、そう信じてるんです。

だから「性欲の自制が効かないクズい男」は男性の中で一部のはずなのですが、どんな流行りも文化もそんな一部の人間のみが支持するだけではこんなに長続きしないとも思うんです。ここが辻褄が合わないところ。

そんなわけで私は「そんな一部の少数派の男の支持だけで、セクハラという1つの悪習が、ここまで長きにわたって存続するものなんだろうか?」という点が引っかかったのです。

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そのあたりについてぼんやり考えてたら、私はある女性のことを思い出しました。
その女性は、当時私の働いていた介護施設の施設長で、いくつかの施設を運営している我が社の中では数少ない女性役職者の1人でした。

40代後半の仕事の出来る女性で、私は彼女の事を上司として尊敬していたし、人としても通じ合うものがあって、好きでした。

彼女の方も、なんとなくですが他のスタッフよりも私に目をかけてくれていたような気がします。彼女の事はCさんと呼びます。
ある時、私の職場施設の建物が新築されることになって、そのお披露目会のような宴席が設けられました。

会社のお偉方や、そのお偉方の招いた外部のお客様も来るような会でした。
私は同僚達と共にただヘラヘラと宴会の準備をしていたのですが、そこへCさんがやってきて、さりげない感じで私だけを端に呼んで言いました。

「今日、すごく偉い人とかがいっぱい来るから、桜島さんうまいことやってね。」

私は、ただ「雑用は任せるから」的な意味だと思い「はいはーい」と軽く返事をしたのですが、Cさんの言った「うまいことやる」というのは、どうも違うニュアンスも含んでたようなのです。

それが分かったのは会が始まってからでした。

私はCさんに命ぜられるまま、お偉方のいる席に行って酒を注いだり、話し相手をすることになり、そこまでは「まぁ仕事だ仕方ない」と思って笑顔でこなしていました。

でもお酒が進んだ頃、来賓のおじさんの一人がむんずと私の手を取って「細そっこいなぁー、折れちまうんでねぇか、ガハハ」と笑いました。

私は介護職なので、人肌に触れること自体はそんなに抵抗が無いほうなんですが、反射的に「こういうのはやだ」と思いました。

しかし、他のおじさんもそれに続いて遠慮なしに私の手を掴んで自分の手の平と合わせて、小さいだの細いだの言ったり、足はどうなってる?と私のズボンの裾を軽くめくって足首を掴んでまたガハハと笑ったりはしゃいでいます。

私は、もうこんな酔っぱらいおじさんの相手は仕事じゃないぞ、と思って席を離れるべく腰を浮かせつつも、一応気になってCさんの方を見ました。

するとCさんは私に向かって両手で「まぁまぁおさえておさえて」のジェスチャーをしていました。表情は「嫌だろうけど頑張って」的な、目と眉毛は困ったような、口元は微笑で。

「えーやだよー」という表情ジェスチャーをする私に「がんばれー」みたいな表情ジェスチャーをするCさん。

この時私は、Cさんが言っていた「うまいことやって」には「こういう場面におけるホステス的な役割を任せる」という意味が含まれていたのだと気が付いたのです。

結局、ほどなくしてトイレを言い訳に席を立った私がそのまま偉い人のテーブルに戻らずにいると、Cさんが代わりにその席に座って偉い人のお相手を引き継いだ形になりました。

私は会が終わるまで、Cさんに対して「私にそんな役目を任せやがって」という恨みがましい気持ちが半分と、逆に「Cさんに言われたことを遂行出来ずに悪かったな」という気持ちが半分の複雑な気持ちでいました。

もしそれまでの関係でCさんのことを好きじゃなかったら、後者の気持ちは生まれていなかったと思いますが、Cさんのことを好きだったのでそうも思ったのです。

それで、会が終わって後片づけをしている時に、後者の気持ちをフォローするようなつもりで、私は「うまくやれなくってなんかすいません」みたいにCさんに謝りました。

するとCさんはこう言いました。

「いいよー。でもこういうチャンスはあんまりないからさ、もったいなかったよ。せっかく上に気に入られるチャンスだったのに。」

 若かった私は正直この時、Cさんが何を「もったいない」と残念がっているのか、ピンと来ませんでした。

それに、普段私に目をかけてくれて、何かと親切にしてくれていたCさんが、この時ばかりはこうした嫌な役目を私だけに押し付けた事が、謎でした。

でも「もう済んだことだしいいや」と思ってこの時は思考停止して、今日まで深く考えずにきました。

しかし今こうしてこの出来事を思い出してよく考えてみると、その謎の答えが分かるような気がします。

私がCさんのお気に入りだったことや、Cさんの「もったいなかった」という台詞から察するに、彼女がまるで遣り手婆のようにお偉いさんの男達の中に私を放り込んだのは、けして「嫌な役目だから桜島さんにやらせよう」という悪意からではなかったのです。

悪意どころかむしろその逆で「せっかく、お偉方に売り込めるチャンスだから桜島さんが彼らに気に入られるように御膳立てしよう。」という、上司として、働く女性の先輩としての親切心から、私にその役目を命じたんじゃないかと思います。

でも私は、仕事上の権力者男性にホステスのような「女」としての役割を求められるのは嫌でした。

ですから、結果的にはCさんの「親切」は私にとって「ありがた迷惑」だったのですが、Cさんから発せられた時点でのそれは「親切」であったと私は思うのです。

ではなぜ、一つのことが、Cさんには「親切」で、私には「迷惑」というように、真逆の意味を持つ結果になってしまったのかというと、おそらくCさんと私では「仕事をする上での『女』という性別の置き所」みたいなものが根本的に違うからじゃないかと思います。

どういうことかと言うと、Cさんの「チャンスだったのにもったいなかった」という言葉は、Cさんが「女を使うことで権力者の男性に気に入られる術は、女にしかできない裏ワザなのだから、そのチャンスがあるなら活かさなきゃもったいない。」という考えがある人だからこそ出た台詞だと思うのです。

つまり「仕事上の権力者男性に、時として『女』の役割を求められる」ということを私は「女だから遭遇してしまう、邪魔くさいこと」だと思っていますが、Cさんはきっとそれを「女だから得られた、気に入られるチャンス」と思っているんだと思います。

私は「仕事では女という性別を抜きに、ただの人として存在したい」けど、

Cさんは「女という性別を活かして仕事をしないともったいない。」という風に、私達は「仕事をする上での『女』という性別の置き所」がそのように違っていたんだと思います。

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そんなような事を考えていたら、私はふと、冒頭の疑問が解けた気がしました。

私はセクハラ行為について、「一部の、性欲の自制が効かないクズい男だけが支持しているのでは、支持層が少なすぎるのではないか」と引っかかっていました。

しかし、世の中にCさんのように「上に行けるならセクハラをある程度容認する女性がいる」という発想を得てみると、話がちょっと変わります。

そう、「セクハラをある程度容認する女性」がいるならば、さらにその上に「セクハラを積極的に利用したい女性」もいるんじゃないかと思えてきたのです。

つまり「権力者の男と寝る毎に大きな仕事を貰えるなら、是非その流れに乗りたい!」という女性や、さらにはもっと「アタシは積極的に女を使ってテッペン登りつめたるんじゃい!!セクハラ!?かかってこいや!」みたいな女性だって、きっといるはずだということです。

そういう女性は、もし仮に世の中の男性が一切セクハラをしない、極めて紳士的な男性だけだったら、今より仕事が上手くいかず、100%仕事の実力のみで評価される社会の中で「あー、女使えればもっとラクなんだけどなー」と思うはずでしょう。

だから、そういう女性達も「セクハラが蔓延している世の中の恩恵を受け、それを良しとしている」点では、セクハラ行為の支持層に含まれるのではないかと思ったのです。

こうして、新たに「一部の女性もセクハラ行為を支持している」と考えると、セクハラ支持層は先ほどより増え、「支持層が少なすぎるのでは?」という私の引っかかりは解消されました。

そして私はこれによって、そもそもの疑問「なぜセクハラがなくならないのか?」にも答えを出すことができました。

もしも、全ての女性がセクハラに断固「NO!」の姿勢を持っていたら、下心を持ったセクハラ男がそのつもりで女性に接触するごとに毎回断られ、時に訴えられ、悪評が立ち、女性が離れていく一方なので、さすがに時代の経過と供にセクハラ男人口は減っていくと思うのです。

しかしいつの時代も一部セクハラを良しとしている女性が実在することで、セクハラ男はたまに「OK」な女性に当たることになり、その経験がまた別の女性に対しても「この子もOKなんじゃないか?」という気を起こさせ、セクハラ男の間で、その行為が継続していくのではないでしょうか。

「だから、いつまで経ってもセクハラが世の中からなくならないのか!」

私は1人ガッテンしました。ガッテンガッテン! 

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 さて、ここで話が終わると、私は「セクハラ男」と「セクハラ容認女性」の両方を悪者にして終わることになりますが、私はその両者が同罪では無いと思ってます。

セクハラする男が悪いというのは言わずもがなですが、「セクハラ容認女性は悪いのか?」と問われると私は「悪い」とまでは思えません。

まぁ、「推奨はしないけど、悪いことでもない。」という感じでしょうか。

 でも、彼女達がもしその行為や価値観を人に押し付けたとしたら…話は別です。

自分が自由にしていいのは自分の身体だけですから。

自分がいくらセクハラが平気だからといって、他の女性にも「こんなのこの世界じゃ普通だよ」とか「なんでそれくらい耐えられないの?」とか言ったり、自分と同じように「女性性を使うこと」を強制したりしたら、その時点で、その女性は他人の領域に土足で踏み入るセクハラ男と同じだと思います。

また、そういう事を求めていない男性に対しても「男はこういうのが好きなはず」という風に当たり前のように己の女性性を押し付けるような真似をして、もしその男性がそれを迷惑に感じたら、その女性はセクハラをしていることになります。

「男はみんなこういうのが好き」と思ってどんな男性にも迫るのは「他の女もイケたからこの女もイケる」と勘違いしてどんな女性にも迫るセクハラ男と、思考回路が同じだからです。
そうなったら、私はセクハラ男と同様にそのセクハラ容認女性のことも悪だと思います。

でもこのように自分以外がセクハラを受けるように仕向けたりしない限りは、その女性がセクハラを容認していようと、歓迎していようと、私は良いと思います。

「そういう女にもその姿勢を改めさせたほうが良いのでは?」という意見もあるかと思いますが私はそう思いません。

なぜなら、私はセクハラは無くなって欲しいけど、それと同じくらい、女の人一人一人の行動や考えが自由であることを願っているからです

つまり、いくらセクハラが無くなって欲しいからと言って、全部の女性に「仕事で女を使うべきではない」「女は断固セクハラを拒むべき」と求めると、それはそれで私の嫌いな「女はこうあるべき」の押し付けになってしまうと思うんです。

だから、どれくらいいるか分かりませんが、セクハラを容認する女性も、セクハラ歓迎の女性も、それはそれで本人の生き方だし、本人の身体なので、自分と相談してどこまで自分の女性性を使うかその女性の自由でいい、と思うんです。

まぁ、仕事の実力ではなく「女を使う」といった裏ワザ的な方法で仕事がうまくいったとしても、後々困る事態が必ず来ると思うんですが、そうなって困るのも込みで、その人の人生なわけですから、本人の好きにすればよいんじゃないでしょうか。

ただ、Cさんのように本当に良かれと思って人に押し付ける場合もあると思うので、もしこれを読んでる中に、そういう女性がいたら、そこのところは気を付けて欲しいです。

最後に、セクハラ男が誤解しないように書かないといけないことがあります。

これを読んでセクハラ男が「よし、セクハラがOKな女もいるってことはセクハラ辞めなくていいんだな」と都合よく解釈されても困りますので。

セクハラ男の人、大事な事なのでよく聞いてください。

「セクハラを迷惑じゃない女性がいる」ということで「セクハラを迷惑だという女性がいない」ということにはなりません。

あなたにとって都合の良い種類の女性が存在するとしても、女性は一種類ではありませんので、どの女性もあなたに都合の良い性格や考え方をしているわけではありません。

だから例え1人の女性にセクハラが受け入れられたからといって、他の女性にも同様に迫っていいという理由にはなりません。

以前うちの近所に、サモエドという大型犬を飼っているおじさんがいました。

そのサモエド犬は、いつも散歩の時に口輪を付けていました。

 ある時、いつものように散歩中のその犬を私が触らせてもらっていると、犬も喜んでフガフガ言ってて、私は口輪が窮屈そうに思えてきたので「いつもなんで口輪してるんですか?」と聞いてみました。

するとおじさんは「うん、この犬は噛むってことは無いんだけど、こういう大きい犬は怖がる人いるでしょう。ただでさえ大きくて怖いのに、口が開いてたらもっと怖がらせちゃうんじゃないかと思って、それで悪いから散歩の時だけ口輪つけてんだ。」と言いました。

私が「じゃあ口輪外した顔観てもいいですか?」と聞くと、おじさんは「いいけど怖くない?」「顔舐められるよ」と何度も私に確認しながら口輪を外してくれて、犬はもう案の定ハッハベロベロハッハベロベロと私の顔を舐めまくりました。

おじさんは「よかったなー」とニコニコして、私も犬と戯れられてとても嬉しかったです。

 と、なんで急にこの話を書いたのかというと、この話のポイントは、私のように、犬を歓迎する人はいるけど、怖がる人もいる以上、おじさんは怖がる人に基準を合わせて犬に口輪を付けて散歩しているというところです。

大きな犬はただ散歩をしているだけでも怖がる人がいる。

だからおじさんは、自分は飼い主なのでもちろん犬が怖くはないし、私のように歓迎する人がいても、怖がる人に合わせて怖くないように犬に口輪をしてるんですよ。

私は下心や性欲というものも、そういう扱いをするべきだと思います。

たとえ、自分の下心や性欲を歓迎してくれる人がいたとしても、それを嫌がる人、迷惑な人もいる以上、人と接する時は嫌がる人のほうを基準にするほうが周りに迷惑がかかりません。

歓迎の人とは後から合意をとって仲良くすればいいだけのことですし。

自分が下心を出す時は、おじさんが口輪を外すとき、何度も慎重に私に確認したのと同じように、相手が本当に嫌でないのか慎重に確認を取ってください。

相手の反応を考慮しないで性欲を露わに向けるのは、相手が近寄ってもいないのに大型犬の紐を放してけしかけるのと一緒です。とても迷惑だからやめてください。

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すごく、わかりにくい話を書いてしまってちょっと反省しています、すいません。

8か月ぶりにブログを書いたから全然文章がうまく書けなくて困ってます。

でも最後にちょっと言いたいことがあります。

MeTooについて、誰かが「MeTooブーム」と称しているのを読んだのですが、私はそれが嫌でした。

たしかに、いま、盛んになり始めたものは、ひと時は「ブーム」に見えます。

でもブームという言葉を辞書で引くと、

【あるものが一時的に盛んになること。爆発的に流行すること。】とあります。

つまりこの流れが「一時的」であり「ただの流行」と捉えられているということです。

でも私は、これはブームで終わらせてはいけないものだと思います。

MeTooを書いている人達は、皆それぞれに思いがあって書いてると思うんです。

自分の気持ちの整理や区切りの為かもしれないし、他の人へ勇気を与える為かもしれないし、他の人も書いてるからつい書いちゃったという人もいるかもしれないけど、とにかく起きた出来事が嘘ではないなら、#MeTooの言葉にはそれぞれ背景があって、重いものが乗っかってると思うんです。

だから私はそれがブームという、軽い風に乗って訪れたお洒落な感じの意味合いで称されるのが嫌だと思いました。

お洒落や流行でこんなこと、吐き出せる人ってそんな居ないでしょう。

人におもちゃにされた経験ってつらいですもん、本当に。

MeTooが出来たことで、これまで吐き出せなかった事を吐き出せて、人の発言に勇気をもらったり励まされたり癒されたり、と救われた人は多いと思います。

だから#MeTooは一時的な流行(ブーム)ではなく、いつまでも繋ぎ続ける動き(ムーブ)でないといけないんじゃないかなと思う。

でも本当のこと言ったら、私はもっとその先には「MeToo(私も)」の声が、聞こえなくなることを願ってます。

それは、皆が声を殺すから聞こえなくなるのではなくて、そもそも「私もこんな被害体験がある」と誰も言わなくて済む、被害体験が起きない社会になって、MeToo(私も)の声が聞こえなくなって欲しいという意味です。

なんだか綺麗ごとのようですが、年の瀬なので大目に見てください。

ではまた。