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日常と非日常のさかいめ

 

 

こんにちは。

一昨日3月11日は、7年前に東日本大震災が起きた日でした。

皆が震災について思いを馳せた1日だったのではないかと思います。

私も7年前のあの日以来、災害時の行動について時々考えるようになりました。

自然災害というのは、本当にいつ何時起こるか分かりません。

地震以外にも大雨による土砂災害や洪水、竜巻、大雪、火山の噴火などもあると考えると、私たちは常に非常時について備えをしていないといけないと思います。

でも私は「常日頃から非常時に備えましょう。」と聞くと、深く考え込んでしまいます。

だって、備えって、ただ食料や防災グッズなどを買い揃えればいいだけのことじゃなくて、「いざという時の心構えがある」ってことも大事じゃないですか。

私は実は、後者の備えのほうが、命に直結する重要さを感じるんですが、7年考えてもあまり心構えが出来てません。

色々考えてしまうんですよね。

 

その災害が『誰もが認める大災害』なら、これはもう迷いなく私も「逃げるぞ!」という判断を下せるだろうけど、中途半端な災害の場合に、私は避難するか迷うだろうなとか。

例えば仕事場に向かって車を走らせている時に大きめの地震が来たら?と考えてみる。

それが震度7くらいで、地割れが起きて建物もドカドカ崩れてたらそりゃあ私だって車を置いて広場に逃げたり、海沿いだったら高台に走るでしょう。

でも、震度5くらいだったら私は揺れがおさまったら、避難所じゃなくて仕事場に向かう気がします。

 

つまり震度7くらいなら非日常に突入で、震度5くらいなら日常に戻るんじゃないか」って気がする。

でも、そうなると「震度6ならどうなるんだろう?」ですが、私は震度5弱までしか経験したことがないので、震度6がどんな状態なのか想像付きません。

なので、震度6の時の周りを見て、自分の頭が日常モードを保とうとするのか、非日常モードに即座に切り替わるのかも検討がつかないんです。

 

それでもまだ、地震のように「震度」という尺度があるのはマシなほうです。

それが大雨だったら?竜巻だったら?などと、他の災害の場合を考えてみると、それぞれ、どういう状態が本当に非難するべきヤバい事態なのか、地震よりも想像がつきません。

「過去の災害から学ぶ」系の番組を見ても、実際自分の身に降りかかる災害が、過去のケースとは地形も建物も時間帯も違ったら、私はオリジナルで対処しなきゃいけない気がするし。

もちろん、防災サイレンで避難の呼びかけもあると思いますが、「警戒レベルでも逃げるのか、避難指示があってから逃げるのか」は個人で選択しなきゃなので、そこでも多分私は迷うでしょう。

 

私が怖いのはそういう風に、分からなくて迷ってモタモタしてるうちに手遅れになることです。

避難したほうが良いような非日常事態なのに、頭がうっかり日常モードのまま仕事に行こうとして、怪我したり死んだりするのが怖いです。

 

そして私は一昨日のテレビを観てて、もう1つ怖いというか、心配することが出来てしまいました。

それは「その避難は正解か!?」という「避難したのに避難先で犠牲者が多数出てしまったケース」に焦点を当てて検証するドキュメント特番でした。

その中で取り上げられていた宮城県七十七銀行女川支店のこと。

 

七十七銀行の行員達は、避難マニュアルにのっとり、支店長の指示のもと銀行の屋上に避難したのですが、想定を超える高さの津波に襲われ、ほとんどの方が犠牲となりました。

もちろん、屋上に留まる指示をした支店長が全面的に悪いわけではありません。避難マニュアルに従っただけですから、1番悪いのは「マニュアルの想定が甘かったこと」だと思います。

でも、この番組はタイトルが「その避難は正解か!?」なので、避難には「正解・不正解」があり、このケースは後者ということで、「あと少し高台に移動していれば助かったのに、まだ避難する時間はあったのに、逃げなかったから想定以上の津波にのまれてしまった悲しいケース」として出ていました。

 

私はとりあえず、「その避難が不正解」というのは、事が終わって結果を知ってる、いわばカミサマ視点を持った人が後から判断した結果論だよなぁ、と思いました。

だから当事者は最後の瞬間まで皆、正解であることを祈ってその避難をしていたと思うので「辛いなぁ…」と思いながら観てました。

すると夫がポツリと言います。

「これ、みんな揃って本心でここに留まりたかったのかなぁ?」と。

 

その一言で私は、「自分がこの場面に居たら?」と置き換えて真剣に考えてしまいました。

 

私は、それが本当に全員が揃って「屋上が安全なはず」と信じていた避難なら、まだ良いというか、良くはないけど、まだ私が当事者なら、最後の瞬間は自分を呪うだけだからいい、と思いました。

 

でも、仮に自分が下っ端の人間で、自分は「もっと高台に避難したほうがいい」と思っていたのに、上の人の「屋上に避難すれば十分だ」という指示に従った結果、津波に飲まれたんだとしたら、最後の瞬間に、意見を押し切らなかった自分自身を恨むと同時に、上司のことも恨んでしまう気がします。

私はどうせ自分が死ぬなら、人を恨みながら死にたくなくて、自己責任だけを感じて死にたいんです。

だからそういう事態になるのが本当に怖い。

それで、夫に

「ねぇもし、自分が職場でこういう状況になって、自分は別の場所に避難したいのに上司が留まれって命令してきたらどうする?逆らう?」と聞きました。

 

そしたら夫もしばらく考えて

「うーん、難しいかもなぁ。確実な大災害だってことをその瞬間にはまだ分からないから、人間、元の生活に戻った時のこと考えちゃうもんね。イヤーな上司だったら『あん時、お前逆らったよな』みたいに目付けられそうだし…。」

と言いました。

 

ほんとそう、同感です。

日常モードの私達は、上司の命令には基本従うし、仕事中に勝手な個人行動はしてはいけないという頭で生きています。

だから、私も「もっと高台に逃げたい」と思ってたとしても、頭が日常モードを残していたら「元の日常に戻った時の心配」をして上司に逆らうことを躊躇ってしまう気がするんですよね。

だって、もし1人で逃げたとしても、津波が想定内の高さで済んで、元の日常が戻ったら、私はその職場で「上司に逆らった奴、1人で勝手に逃げた奴」という扱いの日常が始まるわけで、私はそうなるのが嫌だという心配をしちゃいそうです。

ここで「命にかかわる非常時に、上下関係なんて気にするか?気にしなくていいだろ!」と思うのは確かにごもっともな意見です。

命を落とす事に比べたら、こんなの、ちっちゃいちっちゃい心配ですもん。

 

でも、災害直後の当事者は事の全容が分かりません。

それが局地的な災害なのか、広い地域にわたる大災害なのか、どのくらいの人が巻き込まれてるのか、死者が出るほどの災害なのか。

情報が無くて、ほとんどその場で見えてる事しか分からないはずです。

 

つまり、その事態が「命にかかわる非常事態」って認識ができるのも、カミサマ視点の意見です。

後からみれば結果として「紛れもない非日常」と言える大災害でも、直前まで日常モードで暮らしてる私達は、希望的観測も手伝って「皆が生き残れる、日常はすぐ戻る」と思い「命に関わる非常事態」と認識するのが遅れてしまうんじゃないでしょうか。

こういう、日常と非日常の境目に正しい行動がとれるかが、生死を分けるポイントだと思いますが、私は自分がうまくモード切り替えできる自信がありません…。

 

しかもたとえ、私が出来たとしても、その場にいる全員が同じように非日常モードに切り替わらなかったら、意思が揃わずモメそう。

津波に対しては「とにかく高台へ」という教訓が浸透したけど、ほかの災害は、まだ「このレベルならこうしろ!」みたいな指針が整ってないから、災害時に「この程度ならそこまで焦らなくても」という人と「これは一大事だ!」という人、絶対個人差出てくると思うんです。

これも「災害時、命にかかわる決断時に人とモメるモメないを気にしてられっか!」って話なんですけど、日常では「人と揉めたくない」っていうのは結構気になる事じゃないですか。

だから、日常モードの「人と揉めたくない」という頭を、災害時だからと言って私はそんなアッサリバッサリ切り落とせるんだろうか?と思うと、出来そうもない気がして、それで「むずいよなぁ…」と頭を抱えてしまいました。

 

しかもそんな事を考えながら番組を観てたら、まさに「日常モードであの場に居た人」が出ていました。

番組内で流れた津波映像の1つは、七十七銀行の側にあるマリンパル女川という商業施設の職員の男性が、震災直後からずっと撮影していたものだったんですが、その方は、初めから津波の様子を撮ろうとしてカメラを回してたわけじゃないそうです。

彼は「この後仕事に戻った時、自分が施設の壊れたところの補修作業に当たるはずなので、亀裂部分を記録しておいた方が後々仕事がやりやすいから」撮影してたそうなんです。

でも、結局は想定以上の津波に襲われて、地面の補修どころの話ではなくなってしまったわけですが、(ご本人はギリギリで避難してご無事でした。)

これって、まさに彼「日常モード」じゃないですか?

あんな大きな地震の直後なのに「この後の自分の仕事がしやすいように」と考えて動くというのは、日常モードの思考があった証拠だと思います。

だから私は、人が日常から非日常に瞬時にモードを切り替えるのは、やはり難しいことなんじゃないかと思いました。

 

私もいざという時には、ちゃんとモード切り替えしたいとは思うけど、でも自分が正しいタイミングで非日常モードに切り替われる人なのかどうかなんて、実際その時にならないと分かりませんよね…。
だからどっかにそういう訓練施設が出来たらいいのに、と思ったりします。

まぁ、施設がなくても、日頃から色んな場面を考えて「この場合は、どうしたら?」と考えるのも少しは頭の訓練になるでしょうね。

「備えあれば憂いなし」と言いますが、私は「憂う」ことも備えだと思うので「憂いなし」の状態は備えてないということになり、「備えあれば憂いなしパラドックス」が起きて頭がもうクワンクワンしてきます。

でも、考えないといけないですね。

考えて、忘れないようにし続けていきたいと思ってます。

 

ではまた。