コンビニと成人向け雑誌と私
はじめに
コンビニのエロ本陳列問題
コンビニにエロ本なんて冷静に考えたら意味がわからないけど、そんなこともおかしいと思えなくさせられてるの怖い。
当たり前のように存在してると当たり前のように認識してしまうんだよね。
あれどういう経緯で置くようになったんだろう。
— 眠れる森の8 (@nemurerumorino8) September 1, 2015
「嫌だなぁ」が共感できない人
想像できない人
男性ももし自分が思春期で、コンビニに入ったら『学ランをはだけさせた悶え顏の少年が表紙でタイトルが「男子高校生を犯したい」みたいな雑誌』がわんさか並んでたら不快だろうし、「この国の大人はどないなっとんじゃ?」って思いますよね。現に、今の女子高生はその状況で生きてんですよ、可哀想に。
— 桜島ニニコ (@ninicosachico) September 2, 2015
ひとつの方法案
コンビニのエロ本って、大概カバーとかしてあって立ち読み出来ないよね。どうせそうなら、あんだけ目触りな商品をあんなにスペース取って陳列するより、手のひらサイズ位のカード的なもの(表紙の縮小版が印刷されてる)のを売り場には並べておいて、買いたい人はカードをレジに持ってくる方式のほうが
— 桜島ニニコ (@ninicosachico) September 2, 2015
良いような気がする。買う方の恥ずかしさはあまり変わらないし、バイトが高校生だったら可哀想だと思うけど、現状、あのエロ本陳列棚のホコリ取りをさせられてるのも充分可哀想だし、それよりマシになる気がする。
— 桜島ニニコ (@ninicosachico) September 2, 2015
最後に
恋愛工学は「自分だけが主人公」のゲームのようなもの
人生の総決算期に
さいごに
トピック「恋愛工学」について
NMB48の「ドリアン少年」を聞いたら秋元康に怒りしか沸かない
「昔は良かった」という言葉を、私は極力言いたくない。
「昔は良かった」という言葉は、暗に「今は良くない」と言っているように聞こえる。
「昔は良かった」という言葉は、「自分が若かったころの良さしか認められない愚かな年寄りの言うこと」に聞こえる。だから私はけして「昔は良かった」とは言わないことにしている。
しかし、そうは言ってもこの世には確かに「昔のほうが良かったもの」も存在する。
君たちはそれが何だと思う?
答えは、そう
「アイドルソング」だ。
1994年。当時中学2年生だった私のクラスの歴史の先生は、4時間目がプール、その後に給食、そして5時間目の歴史、というまさに「ねないこだれだ?」状態の教室で、突然そう語りはじめました。
40代中盤で、ひげの剃り跡が毎日新鮮に青々しいことだけが特徴の大人しい先生は、普段からひたすら教科書を朗読するだけの「睡魔に仲介マージン貰ってんのか?」と思うほど退屈な授業がお得意だったのですが、なぜかその日は教科書をある程度音読してひと息つくと、このような話を始めたのです。
もしかしたらその日、目の前のクソガキ共の入眠率があまりにも高かったので先生はヤケクソになったのかもしれません。
私自身も「まさに今、睡魔と手を取り合って仲良く歩みだそう…」という所に、かろうじて「アイドルソング」という意外な単語で半覚醒状態に引き戻されたところでしたので。
しかしこの後の記憶が無いので、私もやはり眠ってしまったと思われます。
数年後の同窓会で、私はこの授業のことを覚えている旧友を探しましたが、この授業のことを覚えている人は1人もいませんでした。
そうなってくるとこの授業自体が私の夢だった可能性も出てくるのですが、この件の真相はきっと永遠に藪の中なのです。なぜかというとその先生は同窓会からほどなくして懲戒免職になって教職を去り、行方自体も分からなくなってしまったからです。
先生が何をやらかしてしまったかというと「女生徒へ淫行」でした。
顧問をしている部活動の女生徒と付き合ってただかホテルに連れ込んだんだかで、私も人づてにまた聞きしただけで詳しいことは分かりませんが、まったく残念なことです。
さて、今日は私、べつにこの話が書きたかったわけではありません。
ただ、今日の記事を書くにあたりここ数日「アイドルとは…」と想いを巡らせてきたら、ふと先生の事を思い出したのでついでに書いただけです。先生元気ですかー?
はじめに
本題はここからです。
皆様はNMB48というグループの「ドリアン少年」という曲を聞いたことがありますか?
この夏の新曲で、有線やラジオなどでは頻繁にかかるので、お耳にした事はあるもののタイトルを知らないという方が多いかもしれません。
私、今日書きたいのはこの曲を聞いた感想というか、批評というか、ぶっちゃけこの曲のヒドさなんですよ。
で、そのヒドさは最初、単純に「歌詞が無茶苦茶」ってところが原因だと思ったんですが、なんか色々と考えていったら私、非常に怒りがこみ上げてきまして、この怒り、私の拙い文章でうまく伝わる自信がまったくないのですが、とりあえず書いてみようと思いました。
あとはじめに断っておきますが、私がいくらこの曲をヒドいと書いても、それはあくまでNMB48を構成している女の子達についてではないので、秋元康以外の人は批判されたと思わないようにしてもらえるとありがたいです。
ファンの人や、この曲を好きな人が読むと多少気分が良くないかもしれませんが、ただの一個人の気持ちなので「そう思う人もいるんだな」くらいに受け流して下さいませ。では。
歌詞がひどい
この曲を私が初めて聞いたのは、バイト先のコンビニの店内放送でした。
当初早口で歌詞も何を言っているのかほとんど分からなかったのですが、かろうじてサビの頭の「ブサイクもイケメンも紙一重」というフレーズだけが聞き取れてとりあえず「なんじゃそら」と思いました。
その後、バイトの度に聞いてるうちにスピードラーニング効果というか、所々の歌詞が聞き取れるようになってきて、先週とうとう「わぁほとんど聞き取れる!」となりました。
私はもう歳のせいかAKBとかSKEとかアイドルソングはもとより、最近の歌謡曲自体にとんと興味が沸かないので、別にこの曲もなんてことない流行歌として私を通り過ぎていくはずだったのですが、歌詞がほとんど聞き取れるようになると逆に「ちょっと聞き取れないところがあるのが気になる」という状態になったんですね。
それで私はとうとう歌詞を調べ、ついでだからYouTubeでPVを観てみることにしました。
正直な感想は「なんかムカつく」でした。
と言ってもこのPVは特に目新しい「ムカつく構成」なわけではありません。
明るいプールサイドでメンバーの少女達が水着姿で歌い踊るという、いつものAKBグループ系ではお決まりの感じで、もちろん「誰々が可愛くない」とかそういう不快感じゃなくて、彼女たちは文句なしにみんな可愛かったです。
しかし何度PVを観てもなんかムカつくんです。
そこで「コレのなにがそんなに私のカンに触るんだろう」と考えてみました。
とりあえず一つはすぐ分かりました。この曲は冒頭から書いてるように「歌詞が無茶苦茶」なんです。
具体的に私がどこを無茶苦茶だと思ったかというと
①女の子同士の友情をナメてるところ
②言ってることとやってること(やらせてること)の矛盾
この2つです。
これだけだと少し意味が分からないと思うのでこれから解説します。
①女の子同士の友情をナメてるについて
まずこの歌詞のあたま、そもそもの物語の始まりを分かりやすく漫画にすると
状況はこういうことですよね。
で、まず普通にこの友達「人としてめちゃくちゃ失礼」だと思うんですよ。
だって主人公の女の子(以下独断で夏子とする)は、素で彼氏のこと「かっこいい」と思って写真公開してるんですよ。
それに対し「本当にかっこいいね!」と同調ができないにしても「ありえないでしょ!」は無いでしょ、友達として。
自分に置き換えて考えてみると、私も10代や20代前半の頃は確かにこういう「友達の彼氏公開」な場面はよくありました。
けど、いくらそこに本当にどブサイクな男が写ってたとしても、友達が本気で好きで付き合ってるのが分かってたら、私もその場にいる他の友人も誰1人「ありえないでしょ!」なんて言うことはありませんでした。
まぁ本人が退場した後には残った友達同士が「アレはちょっと…」と多少本音を言うことはあるし、本人が「今の彼氏ブサイクだけど観る〜?」と自ら「ブサイク」と振った場合ではノリで「ほんとだ~めっちゃブサイクじゃーん!」とか直接言っちゃう子はいたのですが、それでも夏子のように本人が「格好良くて好き」と思い込んでる場合はこれに面と向かって「ブサイクじゃん!」と告げるような子は本当に私の周りにはいなかったです。(というか、そういう非常識な子には友達が出来なかったのかも。)
そういう気遣いを「いや、友達なら気なんか使わずに本心を言うよ」と思う人もいるかもしれませんが、私はそれは違うと思います。
「本心を言う」って、「そのほうが友達の為になる時」は必要だと思いますが、どういう場面かをそのつど判断せず「私はいつも本心を言うの!」と決めてるのって、ただの「他人の気持ちを推し量る努力を怠った自称毒舌家の嫌な奴」だと思うんです。
だからこういう時に「相手が好きなものを見た目だけで無下に否定はしない判断」っていうのは、言うなれば相手の尊厳を尊重することであって「人として人付き合いをする上で最低限の常識」だと思います。
そして現実の私の周りの友人達は、10代でもこの常識がありました。
そう思い返すと、この歌の「夏子と友達」の友情関係はひどく薄っぺらい非現実的なものに感じます。
でもこの歌はこの事をきっかけに夏子が「うそッ…私の彼氏ってブサイク過ぎ!?」と気が付くことで展開していくストーリーなので『歌のお膳立ての為』には「失礼な友達との友情関係」は必要なものなんですね。でも、あくまで「設定」として必要な架空の話で、全然リアルな友情関係じゃ無いと思うんです。
まぁ、べつに歌詞の世界なんて100%妄想の事を書いたっていいのだから、これを「リアルじゃない!」という怒り方はたしかに私のいちゃもんに過ぎません。
でも私が嫌なのは、女子の生態をよく知らないのにこういう歌詞とか漫画とか、フィクションの世界観を真に受けてるのか、世の中には「女同士の友情って薄いよな〜」って本当に思ってて言う人が現実にいるじゃないですか。
私はその「女同士の友情が薄い」って決めつけが嫌なんです。
そもそも「友情」の「濃い・薄い」という定義はすごく曖昧だし、「女同士の友情」とやらも、世の中の「女」というものが一個のカタマリじゃないのだから、女によって違う、個人個人で違う、と私は思うんですが、男の人の中で、時々ことあるごとに『女同士の友情って薄いよな〜』と言ってくる人がいます。
現実にそれを言われると私は「別に男同士の友情がとりたてて濃いと思ったことも無いなぁ」と思うので、そう反論すると相手は「それは桜島さんが男じゃないから分からないんだよ」とかぬかすんですよ。
ハァ?ですよ。
私は「えっ、そんならキミはなんで女じゃないのに女同士の友情ことが分かるの!?ふしぎふしぎ!」と矛盾に思うわけですが、それを言うとたいていは酒の席なので「まーいいじゃん」と話を打ち切られたりします。
理不尽。
それで私思ったんですけど、たぶんそういう事を言う人は『女同士の友情は薄い』と思いたいだけなんですよね。その方が彼らにとって何かと都合が良いのかもしれません。
その件はとりあえず置いておくにしても、秋元康がこの歌詞を書く時に、これを「こんな友達関係、実際無いよなー」と思いながらフィクションとして書いたか、本気で今の若い子のリアルな会話を想定して書いたか分かりませんが、もしも後者だとしたら、あんなに女の子を沢山見てる立場なのに「よくこんなデタラメ書くよな」と思ったんです。
秋元康がどういうつもりで歌詞を書いたにせよ、こういう女の子同士のあり得ないほど薄い友情描写を見る事で「女同士の友情は浅い」と思ってる人が「やっぱり女ってこんな会話してんだなー友情薄いよなー」みたいな思いの裏付けに加担するのかと思ったら、なんかムカついたというわけです。
②言ってることとやってること(やらせてること)の矛盾について
これについては説明が単純です。
「秋元康がこの曲を誰に向けて書いたのか?」と考えると、秋元康が1番この歌詞で喜ばせたかった層=世の中の「ブサイクな自覚のある男性層」だと思います。
それはたぶん「ブサイクな男性=身の回りの女性に相手にされない=アイドルにハマる層」という単純な連想で、ようはNMBとかAKBとかの中心的なファン層を指していて、キャバクラで言えば「太い客」です。
つまり私はこの曲は、ズバリ秋元康が「太い客」を喜ばせるために「女の子」に「太い客が喜ぶこと」を言わせてるだけの「接待ソング」なんだと思うんです。
で、それゆえ「ブサイクもイケメンも紙一重、ブサイクもイケメンも同じこと」という歌詞がサビでたたみかけるわけですが、これを聞くと私はどうしても秋元康に対して
「お前、そんなら毎年女の子に順位付けさせんなよ!」と思うんです。
ファンの皆様は彼女達の何を評価して順位を付けるのかというと、内面的な性格も考慮しているものの、結局は顔立ちとかスタイルとか外見的な好みが一番の理由なんじゃないかと思います。
これに対し「ちゃんと性格で判断してる!」と言いたいファンの方もいるでしょうが、彼女達はアイドルなので、「ファンが見ることが出来る内面」というのはとても限られた一部分だけだと思います。
実際に私達が他人と出会った時、どうやって「その人を好きか嫌いか」と判断するかというと、見た目の印象よりも話して意見を交わしたり、日頃の言動を観た上で総合的な判断をするのが普通です。
でもアイドルに対して、実際に話したり日頃の言動を観ることは難しいですから、どうしたってそのままの見た目と、彼女達が「見せる」と判断した内面だけ(画面ごしに見える部分やブログやTwitterに書いたりする内容から分かる性格)になります。
なので、私はAKB総選挙とは「女の子を見た目で順位付けする行事」だと思うんです。
で、彼女達一人一人がそれを喜んでるか嫌だと思っているかは分かりませんが、参加をしている立場である以上「ブサイクも可愛い子も同じこと」では全然無いわけですよね。
秋元康がもし本当に世の中の男性陣に対して「ブサイクもイケメンも同じ、ブサイクもイケメンも紙一重」と思ってるなら、それは女の子にも等しく適用されるべきで、「可愛い子も可愛くない子も同じ」だから「見た目で順位付けさせよう」なんて発想は浮かばない筈だと思うんです。
でも、実際はそれを毎年やってます。
NMBのメンバーには「私達、ブサイクもイケメンも同じだと思ってるんですよ〜ブサイクな男の人も大好きですよ〜(見た目は関係ないのよ〜)」と歌わせといて「彼女達本人はキッチリ見た目で評価させられる立場に置く」という仕打ち。
この矛盾に私はムカつくんです。
女の子が肌を晒すことの意味
さて、ここまでは「歌詞」について、どう私がムカついてるか書いてきました。でも実はここからが私が今回本当に書きたかった本題で、私がPVを観ていて湧き上がった怒りとはどういう事なのか?を書いてきます。
これは腹が立つというより、正確に言うと「悲しさが通り越して怒りになった」という感じです。
と言うのも、私は今回の「ドリアン少年」のPVに限らず、少女達がメディアに出る時に下着同然に肌を晒している姿を見ると、いつも悲しくなってくるんですね。
「何それどういう悲しさなの?」と疑問に思う人のために説明すると、夜中にテレビ点けるとなんかのバラエティ-番組がやってて、ふと気が付くと「男性芸能人と司会者女性は着衣なのに、ひな壇の後ろにいる数人の女の子だけが意味もなく水着」ってことありますよね。
あれを見た時ってなんか悲しくならないですか?
今回のPVを見た気持ちも私にとってあれと同じ種類なんです。
え?わかりくにいですか?共感できない?
うーん、それならちょっと小池栄子の話をしますね。
昔、小池栄子がまだ谷間を出してバラエティーに出てた頃こんな話をしてました。
「イエローキャブ(所属事務所)の女の子って、デビューの時は露出度のたっかい水着着て世に出るんですよ。それでだんだんと売れてくると水着も可愛い系のだったり、ミニスカートとか薄着の洋服になっていくんです。それで運良くブレイク出来たらやっとこうやって皆さんと同じようなお洋服着がさせてもらえるんですよ!」
と。
この話、なんか悲しくないですか?
「 やっぱり分からん」という方の為に説明しますと、私はこの「無名な女性タレントだけが水着姿」現象や小池栄子の話にあるような「タレントとしての価値上昇に比例して布の面積が増えるルール」の根底には同じ空気があると思います。
その空気とは、芸能界において女の子だけが『肌の露出度=商品価値』として扱われる存在になってるという事です。
ちょっとここ上手く表現出来なくてもどかしいのですが、つまり、もし無名の若手男性タレントがもっと売れたいとします。その男性タレントは、顔がある程度整ってる事以外に特に芸能人としての「価値」がまだ無いとしたら本人やマネージャーの人は何か彼に「売り」を作ろうとしますよね。
変わった資格を取るとか、変わった経歴をくっ付けるとか、歌やダンスをさらに向上させるとか、色々と画策すると思うんです。
でもその中のアイデアとして「いっそちょっと脱ぐか!」とは、ならないですよね。
それは「『男性が肌を晒す』ということが、必ずしも『人々が喜ぶこと』では無い」という感覚が世の中に浸透しているからだと思うんです。
芸能界にも一般社会にも「男性の裸は笑いを誘うものであっても、視覚的に喜ばしいものではない。」という感覚ってなんとなくありますよね。
でも、この場合の「喜ばしい・喜ばしくない」って、一体「誰目線」の話なのかと言うと結局は
「多くの一般男性にとって」ってことだと思います。
そしてこの「喜ばしい」という意味を突き詰めて考えると結局それは「性的にそそる」ということなんじゃないかと。
つまり世に浸透している「男性が肌を晒すということが、人が喜ぶことでは無い」という感覚は言い換えれば「男が脱いでも俺たち男は興奮しないから、男の裸は要らん。」ていう男性目線の総意ってことです。
これが世の中の常識として浸透しているから、男性タレントには「売れるために肌を晒す」という選択肢がほとんど無いんだと思うんです。
でも、女の子にはその選択肢があるんです。
この「選択肢がある」という事を「女はいざとなったら脱げばいいから羨ましい。」という風に捉える人もいますが、私は逆で、性別で「この選択肢が無条件にくっ付けられてしまう」事の悲しさを感じます。
先ほど書いたように芸能界には「女の子の無名タレントでも水着姿なら画面に華を添える的な役割」があったり「『タレントとしての価値』と『身に着ける布の面積』が比例するイエローキャブの女の子」みたいに、女の子の肌露出を商品価値とする現状があります。
つまり現状「女の子は脱げば商品価値が出る」「女の子には肌を晒す選択肢がある」が人々の常識になっている以上、女性は男性に比べて「あれこれと画策する機会」が奪われてるんじゃないか?と思うんです。
だから、伸び悩んだタレントが女性だった場合、手っ取り早く人々の目に留まるために「とりあえず脱げば喜ばれるものだから脱ごうか」という短絡的な選択肢が女の子には真っ先に押し付けられてしまうと私は思うんです。
その選択肢って、あくまで色々な案の中から本人が選ぶならいいけど「女の子だからそういう目線を受ける対象物なんだから、まずはソレでしょ」という風に押し付けられるとしたら悲しいし、なんかタレントとして、人として色々見せたい部分があるのをすっ飛ばして「女体扱い」で見てもらう方法を選ばせられるのって、その子達が可哀想な気がします。
で、こういう「男女で差が生じる現象」って本当なら時代が進むごとにどんどん無くなっていくべきことだと私は思うのですが、近頃の芸能界はこの現象がむしろ加速してる気がします。
それは秋元康率いるAKBグループの子の出現から如実に感じます。
しかもさらに悲しいのはその「性対象として男性を喜ばせる存在としての女の子」がどんどん低年齢化してることです。
AKBグループ(NMBとかHKTとか含む)の子達って、平均年齢10代後半くらいで、実際は成人してる子が居ても水着じゃない時の舞台衣装って、制服風なものですから、つまり、制服という未成年の記号をまとう傍ら、胸や足をあんなに晒してるわけです。
それをホイホイ「若くて可愛い女の子の水着姿嬉しいな〜」って飛び付く男性が世の中に沢山いるっていうのが私は変だと思います。
まともな感性なら「こんな若いうちから不特定多数の男の目に肌を晒してオカズにされて笑ってるって、この子達のやってる事、可哀想過ぎるだろ」って思うのがスジじゃないかと。
でもそれを平気で先頭切って女の子達にやらせる秋元康って、大人として、成人男性として、ほんとどうかしてると思いますし、それをメディアも「国民的グループ」とか「国」背負わせてるのもこの国の感性自体がどうかしてると思います。
可愛い若い女の子のアイドルが足や胸の谷間を見せてくれれば、それは見る方は喜んで見ちゃうと思います。
だけど、それで得る人気って、彼女達の歌唱力とかダンスとか、いわゆる「芸」が評価されてるのか、単に「女体」として評価されてるのか本人達も分からなくなるんじゃないかと思います。
「女体として評価されるのって、本当のアイドルの姿としてどうなんだろう?」とアイドルに詳しくないながらも私は疑問に思います。
アイドルプロデューサーという仕事は、本当なら若い彼女達の親代わりになって、親心で「芸事」の成長が出来る環境を保障してあげないといけないんじゃないかと思います。
なのに最近の秋元康のやり方って、若くて可愛い彼女達を「男性の性的興奮を掻き立てて男性から金を引き出す道具」としてしか見てない感じがするんです。
ちなみに少し調べて分かったは、NMB48はAKBグループの中でも特にそういう「色モノ」というか「男性喜ばせソング」を歌わされてるグループなんですよ。
「イビサガール」という曲の「真夏日は恋をしよう、こんなに暑いと他にやる事も無いだろう」という歌詞も女の子達が水着のPVで歌ってる姿は実に性的な誘惑を連想させるし、「カモネギックス」という曲は「経験上危険でも女は懲りないもの、短い間でも幸せだったわ」というような「女の子がヤリ逃げされたのにその事に肯定的」というとんでもない歌詞です。
今回のドリアン少年の歌詞も「ブサイクな男を喜ばせる為」に特化した、現実にはあり得ない空想の女の子が登場する滅茶苦茶な歌詞を作り上げて、現実のメンバーに歌わせて、女性として男性へ特に媚びた感じの曲です。
私がもしNMB48のメンバーの親だったら、もう秋元康の靴に画びょう入れたくなります。
だから私はドリアン少年のPVを観てると、秋元康のこういう手法とか、それが受け入れられてる世の中全体に対して悲しくなってきて、悲しいの通り越して怒りになってくるわけです。
最後に
私は多くのアイドルの子達が持つ「世に出たい」「自分の歌や踊りを沢山の人に喜んで貰いたい」という気持ちは純粋なものだと思います。
でも、彼女達が得たい「評価」は、本当は1人の人としての評価であって、
けしてただの「若くて可愛い女体」としての評価では無いと思うんです。
なんせ小池栄子はさっきの話の後に「やっぱり、こうやって服を着られるようになると嬉しいですよ!」と言ってたので、本当は「裸に近い格好をしなきゃ芸能人でいられない」ってことが、嫌だったのかなと思うんです。(だから私は初めてカンブリア宮殿でパンツスーツ姿の小池栄子を観た時、泣けました。)
だからまだ世の中のルールもろくにわからないような若い彼女達の「アイドルで有名になりたい」という純粋な気持ちを、大人が逆手にとって「この世界はそういうものだから」と安置に肌を晒させて金儲けの道具にするようなことは絶対いけないと思います。
アイドルの中には「女体として褒められるのでも嬉しい」という子もいるとは思いますが、多くの子はそこに付きまとう「不特定多数の異性にエロい目で見られる対象」となると嬉しいわけないと思うんです。
入り口は単純に「見てもらって褒めてもらえる」という嬉しさがあっても、それがただの女体としての評価だと分かったら悲しくなるというか、やはりどういう子でも「人として評価されたい」気持ちのほうが強くて根本にあるものなんじゃないかと思うんです。
だから「若い女の子が肌を晒す」ってことに、世の中の人がみんな慣れ過ぎてて、今のようにアイドルの露出のインフレ状態なのは、なんとかならんもんかなぁと思います。
「男性が見て嬉しいものだから世の中に氾濫する」っていうのは、男性にとっては心地よい世の中なのかもしれないけど、その影で沢山の女の子が「自分を商品価値のある女体として差し出すのが常識」みたいになるのは、私は下品な文化だと思います。
芸能界の「芸」って、そういうのでないんじゃないかと。
もっと彼女達の「若くて可愛い」という身体的な見た目部分だけでは無くて、歌とかダンスとか頑張り具合とかを作る側も見る側も大事にしていかないと、これから先アイドルになりたい子なんて居なくなっちゃうんじゃないかと思います。
最後になりますが、さっき「ドリアン少年 歌詞」でYahoo検索したら「ドリアン少年 歌詞 ひどい」という候補が出てきたので「あ、世の中案外まともかもしれない」と思い直しました。
でも、今売ってるプレイボーイの表紙はAKBの子達が派手な下着っぽい水着で並んでて本当ランジェリーパブ感ハンパないので「あーあ」って思います。
思ってることが上手く書けてないところもありますが、今日はここまでにします。
ではまた。
中折れやめます
おはようございます。
私、最近気が付いたんですけど、ブログって、普段暮らしていると「あ、この件について書こう!」と思うことがたくさん出てくるけど、まとまった書く時間が取れなくて少し時間が過ぎてから「いざ書こう!」と机に向かって書き始めると、急に今書こうとしていることがなんだかどうでもいいくだらないようなことに思えてきて書く気がしゅるしゅると萎えていくっていう現象が起きるんですね。
この現象なんなんでしょう?
たぶん、これって多くのブログを書く人に共通の現象なんじゃないかと私は思うんですけれども、もしかしたら私だけの現象かもしれないし、どうなんだろうなぁ、と思いつつこの現象に万人共通の名前が無いから人に説明しずらいので、自分の中では「中折れ」って呼んでるんですけど、ブログを書いている友人に「〇〇さんも中折れする?」と聞くと語弊があるしなぁ、と思いながらここ数日過ごしてます。桜島ニニコです。
というわけで、最近私、定期的にブログが更新できなくて困っています。
私は前は、一週間に一度「今週のお題」を書くというのを自分に課してました。
でもお題というのはご存じのとおり、ランダムなものなので自分の書きたいこととお題が一致することのほうが稀です。
それでもこのブログを始めた頃の私は血気盛んだったので「自分の書きたいことストック」の中から「今週のお題」に沿うように文章を無理くりまとめるということ自体を楽しんで書いてました。
なので「無理くりまとめる」ことまでが私にとってゲームであり、ゲームのルールとして「一週間に一本」というのがあったので、定期的に更新出来ていたのですが、最近はあまりにも自分の「書きたいことストック」と「お題」がかけ離れていると、「そうまでしてこのゲームに乗る必要があるのかな?」って自分で思うようになってきたのです。
それで、徐々にお題と関係なくても自分の書きたいことストックの中から熱い思いがあるものを書いていくようになってきたんですけど、そうなると「お題」ゲームから降りたからにはその文章は私にとって「作品」でなければならない、というこだわりが生まれたんですね。
つまり、お題ゲームをしているぶんには、私にとってこのブログの文章は「自分の書きたかったことストックを「お題」に関連付けてまとめて、木曜日までに更新する」これでクリアだったわけです。
私の中の編集長がそれで「OK」をくれてたんです。
でもそのゲームを辞めて自由に書くからには「よほど読み応えのあるもの」じゃないといけなくて、お題ゲームじゃない記事を書こうとすると私の中の編集長が「てめぇ、よっぽどのことだろうな」と睨むんです。
だから気の弱い私は「あ…そこまでは、まだ意見がまとまってないっていうか…じゃあこの件は今度にします。」と引き下がってしまうんです。
これが、最近定期的に更新できない理由です。
あ、今日の内容って、こんなの読んでも面白い人はいないかと思うんですけど、すいません書かないと自分が気が済まないので書かせてください。
それで、あんまり更新しないでいると、どうなるかというと、これで私が別にブログの事を忘れて暮らせるなら問題は無いんですよ。
でも私は普段やっぱり生きてて思うこと書きたいことがちょこちょこ出てくるんです。
でも、書こうとするとうまくまとめて書けなくて中折れして、「あー自分はうまく書けないよー」と思いつつ、その件を書くのを諦めて、似てる主旨の事を書いてる記事を観ては「あ〜こういうこと、そうそう、でも私と考え方ちょっと違う、私の考えを書いた文は私が書かなきゃならないのか…」って思って、悶々として…
って感じでですね、もともと私自己顕示欲を満たすのとストレス解消の為にはじめたブログなのに、ストレス源になってることに気がついたんです。
これじゃ、あかん!
と思ったので、これからは私、自分の中で、記事を「作品」扱いするのを止めました。
中折れしてしまいこんでストレス貯めるより、
うまくまとまらない半生の気持ちでもいいから書いて出したれ、って思います。
私は今までお題ゲームじゃない記事を書く時は「起承転結がある」というか、「問題提起からの結論」みたいに、話としてまとまったものを書こうとしてきたんです。
でも、それでいくつかの記事が褒められたりすることによって自分の中に「次に書くもので読む人にがっかりさせちゃいけない」と思ったり、自分でも「文章下手だわこの人」って思われたくない、っていうプライドを持ち過ぎてたんじゃないかと思いむす。
でも、私はお金を貰ってるわけでもないし、このブログは「自分が書いてスッキリする事を、たまたま読んだ人もスッキリしたらラッキー」くらいの気持ちで書いていいんじゃないかと気がついたんです。
なにより、文章は「書かないとなまる」という特性があります。
スポーツとか何でもそうだけど、文章も書けば書くほど上手くなるわけじゃないけど、書かなきゃ書かないほど下手にはなります。
だから、「良い物を書こう」と思いつつ二の足を踏んでるより、どんどん書くほうが良い物が書ける可能性は高いんですよね、たぶん。
今まで、私はちゃんと書いた自分の文章をおこがましくも「作品」と思ってたけど、文章は私の排泄物、くらいの感覚でいいのかなと思うようになりました。
きれいなうんち出ると、それはそれで感動しますもんね。
まぁ、よく分からないかもしれませんが、これからは気楽に好きに書こうと思います。
お付き合い下さる方は改めて宜しくお願いします。
愛ある「パパ」と「お父さん」
こないだの日曜日、夫といつもの公園に散歩に行った。
表現欲の辿り着く場所
お母さんは紙をくれました。
「リカちゃん人形が欲しければリカちゃん人形をここに絵描きなさい。」と言って。
お母さんはペンをくれました。
「シルバニアファミリーが欲しければシルバニアファミリーをここに絵描きなさい。」と言って。
私は物心付いた時から欲しい玩具は一切買い与えられませんでした。
その代わり何か欲しいとねだると、母は決まってこのように紙とペンを差し出しました。
だから私はいつも欲しいものの絵を描いていました。
そのうちに私は小学生になると、自分がクラスで1番絵が上手いということに気がつきました。
そりゃそうです。
他の子がリカちゃん人形やシルバニアファミリーや一輪車やキャンディボールで遊ぶ時間はすべて「絵を描く」に費やしていたのですから。
「ニニちゃんは絵がうまいね」
小学生になると誰もが私のノートの隅に描いた絵を褒めました。
休み時間になると「姫ちゃんを描いて!」「わぴこを描いて!」とクラスメイトにねだられました。(両者とも漫画『姫ちゃんのリボン』の主人公と『きんぎょ注意報』の主人公)
私はりぼんを購読していなかったけど、クラスメイトが持っている下敷きや漫画の切れ端に踊るそれらのキラキラしたキャラクターを寸分違わず模写することが出来ました。
こうして人見知りで口下手で地味で運動音痴で人に褒められるところがひとつも無かった私は、生まれて初めて「絵を描くと他人に褒めてもらえる」ということを知りました。
「私には絵を描く才能がある。もっと絵を描いて人から褒められたい。」
私は子供の頃いつもそう思っていました。
そして寝ても覚めても絵を描いて、中学生時代まではとにかくいつも絵を描いていました。
しかし高校生になると絵を描くことよりも他に興味が生まれました。
アルバイトと恋愛をするようになったからです。
アルバイトでは仕事ぶりを褒められるようになり、恋愛では女性として異性に褒められる喜びを知りました。
こうして絵以外でも人に承認されるようになりましたが、その頃はまだ絵も夜中に1人で描いていました。
でも高校生になるとそれを人に見せることはほとんどしなくなりました。
理由は「オタクっぽく見られたくない」からでした。
私は今は、漫画やアニメに熱意を燃やすいわゆる「オタク」の人に対して偏見は無いつもりですが、高校生当時は「オタク」の人をちょっと醒めた目で軽視していました。
なぜなら私のクラスには生粋のいわゆる「ザ・オタク女子」が4人いて、私はこの時人生で初めて本物のオタクを目にしたのですが、彼女達の印象は強烈でした。
彼女達は休み時間に1冊の漫画を囲んで登場人物の台詞を割り振って大声で音読してキャイキャイ喜んでいたのですが、その様子をハタから観て私は引いていました。
なぜ引いていたかと言うと、一つは彼女達がそのアテレコ?をしている時のうるささはウェーイ系の男子が騒ぐのに匹敵するもので、しかも「おっ俺だってお前のこと…!」とか、多分濡れ場シーンなども平気で口にしていたので本当に周りの目を気にしていない感じが単純に「迷惑」と思っていたからです。
もうひとつは彼女達の見た目が揃いも揃って髪はボサボサで体型は太っていて、言葉使いは一人称が「僕」とか「俺」とかで、お世話にも「可愛い」とかけ離れていて「可愛い」に近付く努力すら感じられなかったからです。
恋愛を覚えたての私は、そういう「現実の可愛いから遠ざかってまでフィクションの可愛いにのめり込む」という彼女達の行為が理解できませんでした。
今となっては私は人それぞれ好きなものは自由だと思いますし、そういうオタク女子の行動や見た目もひっくるめた「何かに夢中になってる人そのものの可愛さ」が分かりますが、当時の私はまだ「分かりやすいビジュアル的な可愛さ」を重視していたので、彼女達のことを「どうして可愛いキャラクターが好きなのに、自分自身を可愛いに近づける努力はしないんだろう?」と不思議でなりませんでした。
それに私は昔、少女漫画のキャラクターを模写しつつも、本当はそれらのキャラクターに対して「こんなに目が大きい人間は居ない」とか「鼻はどこだよ?」と思っていて、私の描くいくらか写実的な絵よりそれらの漫画絵を「稚拙なもの」だと思っていました。
だからいわゆる「漫画絵」と「私の描く絵」は私の中では全く別物と思っていたし、「漫画絵を好きなオタクの人達」と「私」は違うと自分で線引きをしていました。
でもいくら私の中で線引きしようと、多くの絵を描かない人にとって「家でイラストを描いている」という一言は、充分に「ああ、オタクなのね」と判断される台詞です。
だから私は友達にオタクっぽい要素を見られたくなくて、高校生の頃は自分が絵を描くことが好きだということを人前で言いませんでした。
そして私がその頃していた恋愛は少し特殊なものでした。(相手が一回り以上歳上の男性で婚約していました。)
なので、私は高校卒業時には自分の将来について安置に「その男性と結婚する」と決めていました。
だから本当はこの時、1度真剣に「自分の中で絵を描くこと」の位置付けを考えて将来そういう仕事に就くために専門学校に行くとか美大に行くとかいう選択肢を視野に入れれば人生は変わっていたのかもしれませんが、私はそれをしませんでした。
それなのにその後、紆余曲折あって20歳を目前に私はその男性とは別れました。
この時に私は初めて自分の将来について少し考えました。
それまでは「恋愛」の影響で「絵を描くこと」を自分の中で2番手的に捉えていたので、この時初めてちゃんと自分が好きな「絵を描くを仕事にできないか?」と考えるようになりました。
おりしもちょうどその頃、とある出版社が主催するイラストコンテストに投稿した絵が優秀賞を獲ったこともこの思いに拍車をかけました。
そして私はその出版社が自社で抱えるイラストレーターを育成する通信教育を受けながらイラストレーターの端くれとして仕事を待つ身になりました。
しかし、これで上手く「絵を描いて食べていける」かというと、人生はそう上手くいきません。
イラストレーターという職種に求められるスキルというのは、実は「絵の上手さ」以上に「依頼通りの絵を描ける」というものが大きいのです。
だから「自分の描きたい絵を描いてお金が貰えるイラストレーター」はほんの僅かな大御所か、たまたま自分の描く絵柄が世の中にウケる絵柄だった一握りの幸運な人しか居ないのです。
私は数年間で1、2件しか依頼が無いことから、23歳くらいの頃には自分の絵がイラストレーター向きではないことに薄々勘付いていきました。
ちなみにその頃の私の絵はこんな感じです。(恥ずかしながら載せます)
私は結局、23歳頃を境に「絵を描く仕事をしたい」という情熱を徐々に失っていきました。
それはイラストの仕事が全然来ない日々が過ぎると同時に、インターネットが普及するようになって他人の作品を多く目にする機会が増え「世の中、上には上がいる」というのを思い知ったことも原因にあります。
所詮私は井の中の蛙で「絵の才能がある」というのは、自分の思い上がりだということにこの頃やっと気がつきました。
さらに実生活で絵と関係無い仕事をするようになると忙しくて絵を描く時間は取れなくなりました。
それでも絵に対する情熱があれば趣味で描き続ければ良かったのですが、私は1度挫折した絵に向き合うのが怖かったのだと思います。
それで忙しさを理由に絵を描くことは辞めてしまいました。
今もブログに載せてるような簡単な漫画を描いたり、お遊びで時々インターネット上に絵を公開することはありますが、私の中で上に載せたような「何日もかけて1枚を描き上げる本気絵」を描く情熱は次第に無くなっていきました。
それでも私には「表現欲」が残っていました。
思えば幼い頃から私は自分の内面を表現する為に絵を描いてきました。
それはもともと「欲しいものの代替」であり、やがて「人に褒められたい」という思いから生じた現象でしたが、続けるうちにやがて「褒められなくても、とにかく何か表現しないといられない」という性分が身に付いてしまっていたのです。
そして、絵筆を捨てた私に残された表現方法は文章を書くことでした。
文章を書くという表現方法は絵を描くという表現方法とまったく違います。
簡単に言えば絵は「メッセージ性」を載せるもので、文章は「メッセージ」そのものです。
「メッセージ性」の「性」の部分を人は「芸術」と呼ぶんだと思います。
絵のメッセージ性への解釈は受け取り手の感受性によって変わりますが、文章のメッセージの解釈はひとつしかありません。(小説などの文学作品は別です。)
もしひとつの文章が書き手と受け取り手で違う解釈をされるとしたら、それは書き手の文才不足です。
だから文章というものは「解釈の余地が許される芸術」ではなく、非常にシビアなただの「伝達ツール」だと私は思います。(くれぐれも文学作品は違います。小説や詩などは芸術的だと思います。)
でも、文章はシンプルにメッセージを伝えるその特性から、受け取り手にうまく伝わった時の喜びは絵を褒められた時よりもダイレクトです。
なんというか、私の実感としては文章を褒められることは絵を褒められる時よりも、より「リアルな自分」が認められた感じがします。
何しろ頭の中からダイレクトで思いを載せたメッセージを綴ってるわけですから、それを褒められたらダイレクトで私の頭の中が褒められたと思えますから。
それともうひとつ絵と文章の大きく違うところは、絵はそこに興味が多少なりともある人にしか受け取って貰えない表現方法なのですが、文章はわりと万人に受け取って貰いやすい表現方法なのです。
つまり絵は「俺そういうの分からないから…」と見ることさえ敬遠する人がいますが、文章はとりあえず「あいうえお」が分かる誰の目にも届きます。
私は思春期の頃はその限られた「受け取って貰える人(いわば芸術心のある人)」に自分の描いたものが届けばいいと思ってましたし、自分もその枠の中に居たいと思っていました。
でも私は結局全然芸術家ではなくて、普通の凡人だったんです。
恋愛すればそのことが優先事項になるし、絵で食べていけないと分かればサッサと諦める程度しか情熱は続かなかったし、本当に死ぬまで意欲が続く芸術家の方々(プロアマ問わず)のように自分はなれませんでした。
今となっては私が絵で表現したかったことは何なのか、自分でも思い出せません。
でもたぶん思春期の頃の私は、とても芸術家気取りで、他の人に出来ないことをしてやるという気持ちもあったし、色々将来に対して不安ながらも夢も見ていたし、そういうモヤモヤしたいっさいがっさいをストレートに文章にすることが出来なくて絵を描いていたような気がします。
その頃の私が今の私を観たら「絵も描かないでなにしてるの!?」とガッカリすると思います。
でも私は絵を辞めてしまったけど、他の表現方法が見つかって良かったと思います。
夢は破れても普通に生き続けなきゃならない私は、何かを表現したいというやっかいな欲だけはとりあえず残ってて、だから私はブログを初めたんだと思います。
はてなブログを初めて半年で、こんなに沢山の方が読んで下さるようになるとは当初思ってもいませんでした。
こうしてブログという文章発表の場があると本当に色々な人に自分の文章を読んで貰えてありがたい限りです。
私は自分の文章がけして上手いとは思いませんが、(回りくどいし、そもそも端折ることが苦手で長くなりすぎる)これからも文章という表現方法で日常的に思ったことを書いて、表現欲を満たしていくと思います。
私は絵を描くのと同じくらいに文章を書くのは楽しいです。
なんで楽しいのかは分かりません。
なんで楽しいのか分からないけど、書くとスッキリするから書いてます。
ちなみに今回の文章にメッセージは特にありません。
推敲もしてないので、書いてることの脈絡もないですし、絵で言えば「ラクガキ」に値します。でも書くとスッキリするから書きました。
こんな私ですが、辿り着いたところがここなので、ここで表現欲が発散できると大変ありがたいです。
お付き合い下さる方々に改めて御礼を言いますとともに、今後ともよろしくお願いします。
今週のお題「私がブログを始めたきっかけ」
いざ無毛時代 〜私のVIO脱毛記〜
皆様こんにちは。
えー、始めに断っておきますが、今日は男子禁制でお願いします。
それでも読みたい男子の方には「お好きにどうぞ」としか言えませんが、たぶん読後に「知らないほうが良かったよ…」という気分になりますので、その辺をご了承してからお読みくださいませ。
さて、私がはてなブログを初めて早数ヶ月。
自分でブログを書くようになってから私は世の中に溢れる数多のブログを以前より注意深く観るようになりました。
それで気が付いたのですが、世の中のブログは大きく分けて2種類のジャンルに分けられるようですね。
その2種類とは「エッセイブログ」と「ライフハックブログ」です。
エッセイというのは、主に「書き主の想いをそのまま綴ったような文章」のことで、私がいつも書いている文章もこれに当てはまると思います。
そしてライフハックというのは、主に「事実を元に読み手に有益な情報を提供する文章」のことでタイトルが「iPhoneとgalaxyの機能を比べてみた!」とか「これを読めば誰でもLINEクリエーターズスタンプを作れる!」みたいなやつです。
私は文章を書くのが好きです。
だからこそブログを始めたのですが、実は今日に至るまで「自分にはライフハックなことは絶対に書けないし、書くまい」と決めていました。
なぜなら私は自分で「私は人様の為になる有益な情報など持って無い!」と分かっているからです。
もしそれなのに無理くりライフハック的な物をひねり出して書いたりしたら、スゴレンとかでよく見かける「モテる女に共通する5つの特徴」みたいな「タイトルはそそるのに中身がスカスカの文章」になることは火を見るよりも明らかなので、私はこれまでライフハック的なことを書くのを避けて参りました。
しかし!
今日はわたくし初めてライフハックな記事を書こうと思います。
なぜなら、私が最近体験した事を、世の中でまだ未体験の人の為にお役に立てて欲しいからです!
さてそれが何の体験だったかと言うと、ずばり「VIO脱毛」です…!!
「VIO脱毛」
もしかしたらこのアルファベット3文字の羅列が何を意味するのかさえ分からない方もいるかもしれません。
分からない人は分からないまま今日のところはこのページを閉じて頂いて結構です。
でも私が今日これを読んで頂きたいのは「VIO」の3文字にピンとくる女性…
そう貴女ですよ!
「VIO」が人体の何処を指すか程度にはご存知でありながら!まだその情報収集の段階でさまよっている貴女!
貴女のような方の為に私は書くのです!
はぁ、つい熱くなってしまいました、すいません。
でも、分かって貰いたいのは、貴女のような女性は世の中に沢山いるという事です!貴女はけして1人じゃない…!
なぜそんな事を言うのかというと、私も少し前まで貴女と同じ立場でした。
だから分かるのです、貴女の気持ち…
「VIO脱毛ってとどのつまりどんなモンなんだよ!?広告じゃない体験記事出せよコラ!」というお気持ちが…。
だから私、書きます。
私がその頃に読みたかったような記事を自分が体験して書こうというわけです。
悩める貴女のお知恵に少しでもなればと思って恥を忍んでここからは私のVIO脱毛体験記を書いていこうと思います。
ユリちゃんの誘惑
私は思いました。
この女…誘ってやがる…。
VIO脱毛の実態は調べても分からなかった
いざ無毛時代へ
鏡の中には20年ぶりに直で見る
私のオマンタン銀座が…!!
わぁー確かに感動する!!
エステ当日
バチン!
バチン!
バチン!
全6回の脱毛を終えて
もしこれをお読みの貴女も「こんなところに毛が生えてるのって私だけ?」と不安だとしたら
安心して下さい、生えてます。(byとにかく明るい安村)
最後になりますが、これ一応今週のお題の「雨の日が楽しくなる方法」の記事なんですけど、なんでこの内容かと言うと、ギャルが私に言ったんですよ。