限りなく透明に近いふつう

やさしい鬼です お菓子もあります お茶も沸かしてございます

コンビニと成人向け雑誌と私

はじめに

ことの発端は以前コンビニのバイト中に起きた小さな出来事がきっかけでした。まずはその日の出来事から。
 
ある日の午後
「トイレ貸して下さ〜い」
そう言いながら40代くらいのお母さんが5歳くらいの女の子を連れて、来店しました。
私が「どうぞ〜」と言うと母娘はスタスタとトイレに向かいました。
しかし、あいにくトイレは前の客が使用中で、母娘はトイレ前に並びました。
 
さて皆様もお気付きかと思いますが、たいていのコンビニはトイレ前もしくはATMの横などの「雑誌コーナーの端」にエロ本棚があり、うちの店もトイレ前に成人向け雑誌棚があります。
私がレジからなんとなしに母娘の様子を眺めていると、娘さんが脇にあるエロ本棚を見上げました。 
すると、お母さんはすぐそれに気が付き、さりげなーく身体の向きを変えて娘さんとエロ本棚の前に立ちはだかりました。そして、
「ほらミナちゃん!花火あるよ花火!」
と言って、エロ本棚の反対側にある花火コーナーの方に娘ミナちゃんの視線を誘導しました。
ミナちゃんは振り返るとすぐ色とりどりの花火に目を輝かせ、その中の一つを手に取り「これ買うのぉ〜」と言い出しました。
お母さんは一瞬「そうきたか」みたいな困った表情をしましたが、その時ちょうどトイレから人が出てきたので、すかさず「あっ、ミナちゃんおトイレ空いたよ!トイレ行こう!」とミナちゃんの手を引きました。
しかしミナちゃんにしてみれば「は?お前が花火見ろっつったんじゃん。」ですから「やだぁ〜花火買うのぉ〜」とダダをこねはじめました。
結局母娘は「買うの〜!」「買わないよ!」のラリーを2、3回繰り返した後、お母さんがとうとう力技でミナちゃんをその場から引き剥がしトイレに連れ込みました。
トイレの中からはミナちゃんの火がついたような泣き声が聞こえ、ほどなくして2人はトイレから出るとお母さんは泣いているミナちゃんの手を引き、困った顔で私に会釈しながら一目散に店を出ました。
母娘が店を出ると、私の隣で同じようにその母娘を見ていたパート仲間の古内さん(35歳3人の子持ち)が「わかるわ〜」みたいな表情で呟きました。
「お母さん困ってたねぇ。でも、ああなっちゃうとしょうがないんだよね〜。」
どうやら育児経験のある古内さんは、しみじみとお母さんに感情移入してその光景を観ていたようです。
しかし私のように育児経験のないものからすると「何かを欲しがってダダをこねる子供とそれを止める親の図」は、ただただほのぼのとした微笑ましい光景でした。
そんなわけで古内さんがそう呟いた時、私はただ、ほのぼの気分の中に居たので、特に脳みそを使わずに「そうですね〜」と相槌を打ちました。
しかし、その時、私はふと古内さんの言った「しょうがないんだよね〜」という言葉にかすかな違和感を覚えました。
 
その時はさほど気にならなかったのですが、バイトの後に私は再びそのことを思い出すと、ふと「あの違和感は何だったんだろう?」と思いました。
そしてしばらく考えた結果、違和感の正体が分かりました。
それは、一言で言えば 「この時の一連の状況を全てひっくるめて『しょうがない』とする事への違和感」でした。
 
どういう事かと言うと、まず古内さんの言った「しょうがない」は、たぶん単純に「子供が何かを欲しがってダダをこね出すと手のつけようがないよね。」という意味だけを指していたと思うんです。
 
ですが、私は自分なりにその「しょうがない」の解釈を「母娘の置かれた状況まで含む」と考えた時、どこか不自然に思えたのです。
それは
・エロ本棚がミナちゃんの視界に入りそうになる。
・エロ本棚をミナちゃんの視界から外すために後ろを向かせたお母さん。
・お母さんがそうせざるを得ない店の環境
これらの状況もひっくるめて「しょうがない」とすることへの違和感でした。
 
まぁ、分かりやすく言うと「5歳児も出入りする普通のコンビニ店に、当たり前のようにエロ本が目に付きやすく陳列してある環境はしょうがないの?」という疑問が、私の感じた違和感の正体だったのです。
そして、その疑問は実は私には少し心当たりがありました。
 
うちのコンビニは交通量の多い国道沿いにあって、トラック運転手や土建業の男性が客層の6割ぐらいを占めていて、 そのせいか分かりませんが、他のコンビニ店に比べて雑誌コーナーの中のエロ本棚が占める割合が多めになっています。
コンビニでも店舗によってエロ本棚に割くスペースの大きさはまちまちで、スペースが小さければ私もそんなに気にならなかったかもしれませんが、うちの店舗は本当にエロ本が多いんです。
まず全雑誌のうち3割が制人向け指定のエロ雑誌で、さらに近頃は制人向けでなくても週刊誌の表紙にセックス関連の見出しと水着姿の女性のものが多いので、それらも含め「半裸の女性が表紙でエロワードが踊る見出し」というくくりにすると、その数は全雑誌のうち半分を占めています。
つまり私は普段バイト中に何の気なしに床掃除をしていてもふと見上げれば「淫ら人妻調教スペシャル!」が視界に入り、外でゴミ袋を取り替えてても「JKのパンツの中覗いてみた!」の裏表紙が目に飛び込んで来るわけです。
これに対し私は密かに「アダルトショップでバイトをしてるならまだしも、なぜ普通のコンビニで働くのに日々エロ本と向き合わなきゃならんのだ。」と思ってました。
でも私はいつも「嫌だなぁ、でもしょうがないか…」と思って見て見ぬ振りでやり過ごしていたのです。
 
つまり私には普段からの自分のそういう気持ちがあったので、このミナちゃん親子の件を改めて考えた時、2つの「しょうがない」がリンクしてはっきりと「なんか変じゃない?」という違和感が形になったんだと思います。
 
私は一度「おかしい」と思うととことん考えてしまうのが癖なので、このことを元にそのころから自分の中でこれを「コンビニのエロ本陳列問題」と名付けて、よく考えるようになりました。
今日はそのことについて書いていこうと思います。 
 
ちなみに、読んで頂く上での注意点としましては、私が問題視する「コンビニのエロ本陳列問題」はシンプルに『コンビニ』に『エロ本がおおっぴらに陳列してある事』の是非を問うという事だけを指します。
なので、コンビニ以外のエロ本取扱店についてまで言及しませんし「エロ本の存在自体」を否定しているわけでも「内容が児童ポルノに引っかかる」とか訴えてるわけでもありません。(女子高生モノについてはそうも思いますが…) 
 
本当はそれらを含めた総合的な話を書けると良いとは思いますが、なにぶん私の脳みそと文章力ではそこまで手を広げると話が非常にとっちらかって分かりにくくなりそうなので、あくまで私は今回この文章で「コンビニで現在のような誰の目にも触れる形でエロ本を陳列する事」だけを問題として書きます。 
そこだけはご理解下さい。
 

コンビニのエロ本陳列問題

私がそのことについて考えるようになった頃、ちょうど東京オリンピックの開催がきまりました。
そしてその頃のTwitterでどなたかがこんな事を呟いていました。 
「外国人が日本に来て驚くのはコンビニで当たり前のようにエロ本が置いてある事。このままだと日本は五輪で来訪した諸外国の人から『ポルノが公集の場で売ってる国』というレッテルを貼られる。」(うろ覚え)
私はこれを読んで「ああ、やっぱそうなんだ」と思いました。 
私はその前から日本がポルノの規制が緩いというのは知っていましたが、それは「内容」に関することだけで「流通方法」については諸外国と比べて日本が緩いのかどうか知りませんでした。
でもこのツイートでそれを知り、薄々そんな気はしてましたが、一応調べてみると「ほとんどの外国では少なくとも子供が出入りする店にポルノを陳列していない」という事が分かりました。
やっぱり日本のコンビニの環境は世界的に見ても「おかしい」と言える所なんですね。
どうりで「日本スゴいデスね視察団」がコンビニには来ないわけです。
 
さて、それからも私は「どうなることやら…」とTwitterを観察していると、先日あるツイートに共感したので私は思わずRTしました。
 RTしたツイートはこちらです。↓(下段のほう)  
私は「眠れる森の8」さんのツイートの「そんなこともおかしいと思えなくさせられてるの怖い。当たり前のように存在してると当たり前のように認識してしまうんだよね。」という文章に共感しました。
 そう「既に当たり前だからそこに違和感を感じない」というのは、とても怖いことだと思います。
これは、子供の頃から親に暴力を振るわれてた女性が「家族から暴力を振るわれること」が当たり前の感覚になってしまい、大人になってから暴力夫にDVを受けてもそれを受け入れてしまうのと似たような怖さだと思います。 
コンビニにエロ本棚がある事は、今の世の中だと「当たり前」で、子供がエロ本を観ないように花火の方を向かされて、花火が買ってもらえなくて泣くのも、すべて含めて「当たり前でしょうがない事」になっています。 
しかし、私は世の中の「しょうがない事」というのは「出来る限りの善処を尽くしても起きてしまう嫌な事」だけを指すものなんじゃないかと思います。
だから、ミナちゃんのケースだと、仮にエロ本棚が無くてもミナちゃんが勝手に花火を見つけて欲しがって泣いたとしたら、それは本当に「しょうがない」で良いんですが、「コンビニにエロ本棚がおおっぴらに置かれているのは既にある環境だから、それを避けた果てに泣く事態が起きる」を「しょうがない」とするのは「前半、しょうがなくないだろ。」と思ってしまうんです。
 
そんなわけで、コンビニのエロ本棚に対して考えてしまうわけですが、もし私だけでなく、沢山の人がひっそりと「嫌だなぁ」を抱えつつ我慢しているんだとしたらこれを期にその方々も「嫌だなぁ」の声をもっと上げていいんじゃないかと思いました。
私が今回これを書こうと思ったのは、 今までひっそり『嫌だなぁ』を抱えていた人も、そこからさらに踏み込んでそれぞれに解決策を考えるようになるといいんじゃないかな?と思ったからです。
また、今の時点で「嫌だなぁ」ではなく「コンビニのエロ本いいじゃん!」と思う人にも、世の中に「嫌だなぁ」と思う人間が居て、ただ闇雲に「エロやだ!」と言ってるわけじゃなく「こんなことを考えて言ってますよ。」というのを少しは理解して貰えればいいなと思って書いています。
 

「嫌だなぁ」が共感できない人

 さて、ここまで読んでいていて「そもそもエロ本の何が嫌なの?」と思う人もいるかと思います。 
たしかにもし世の中の大半がエロ本に対して私のように「嫌だなぁ」と感じる人ばかりだったら、エロ本は公共の場に存在しないはずですが、現状そうでないということは今の世の中にはエロ本に対して「自分はあまり気にならない」という人が多いという事だと思います。 
そういう人にとっては、きっとこういう「嫌だなぁ」という声はただの「うるさい女がなんか言ってる」に聞こえるかもしれません。
 しかし私は先ほど書いたように「うるさいなぁ」と思う人にもできれば「嫌だなぁ」の人が「どうして嫌だと思うのか」ということを分かってもらえたらいいな、と思います。
 なのでそこの説明をしようと思います。 
はじめに書きますが、私はまずエロ自体を毛嫌いする性格ではありません。しかるべき場面ではこっちからエロを求めることはあります。
ただ、コンビニというのは非常に日常生活に溶け込んでいる場所なので、そこにエロがひょっこり存在すると、そのあまりにも「しかるべき場面」では無さに、嫌気が指すのです。
だからそういった平時にエロ本を観かけると私は素直に「嫌だなぁ」と思います。
そして「嫌だと思う理由」については、このたび自分でも初めてよく考えてみたのですが、私は公の場で「一般的なエロ本(女性が表紙のもの)」を観ると2つの感情が沸き上がり、その感情が自分の「嫌だなぁ」の中身だと分かりました。
 
 それは、
①同じ女体の持ち主として思わず「性対象として存在する自分」を投影してしまう。
②それらの「エロ本を求める男性」に対し「かつて自分にエロを求めて嫌な事をしてきたヤツら」を重ねて連想し、世の中に嫌気がさしてしまう。
というものです。
 
これはどういうことかと言うと、まず①についてですが、私は普段生活していて人の性別を意識するのが苦手です。
基本は自分にも異性にも「女だからこう、男だからこう」という型を忘れて生活したいと思っていますし、男性と話す時もお互い「男女」ではなく「人間対人間」として存在したいのです。
だから自分が男性をむやみに性的な目線で見ることはしませんし、男性からも性的な目線を向けられたくありません。
でも、エロ本の表紙の女性がおっぱいやお尻を突き出していると、ふと「そういえばあのパーツを自分も持ってるなぁ…」と思い出して、さらに「見る人によれば私はただのこの『パーツの持ち主』という見方をされてるかもしれないんだ。」と改めて自分が女体の持ち主だということを意識してしまうんです。
これが、なんだか嫌な感覚なんです。
好きな人とセックスしてる時に「あー自分は女なんだなぁ」としみじみ嬉しくなる感覚がありますが、あれの真逆という感じ。
自分が「女性であり、女体の持ち主なんだなぁ」というのは、しかるべき時だけに感じるから嬉しい感覚であって、平常時に意識するのは「場違い」な感じと、節操が無い感じと、下品な感じと、日常生活に邪魔な感じがして、うざったいんです。
だからコンビニでエロ本を目にする度に頻繁にその感覚が呼び起こされるのが嫌なんです。
 
②については、私の過去の経験が関係していて、私もこの歳まで生きてるとそれなりに痴漢やらセクハラを受けて来ているわけですね。
痴漢やらセクハラは言うなれば「男性からむやみに性的対象にされた嫌な経験」なんですが、その犯人は私にとって「平常時にエロを求めて来た失礼なヤツら」なんです。
で、それは「コンビニという日常生活空間にエロ本を紛れこませる神経の持ち主」と通じるものがある気がするんです。
いま、コンビニにエロ本がでかでかと置いてあるのは「それでいいじゃん」と思う男性の存在が世の中に多くいるから生じているシステムであって、その「それでいいじゃん、女が嫌がってても俺がそうしたいんだからいいじゃん。」ていう神経は、痴漢とかセクハラをする人の神経と同じような気がするんです。
しかもエロ本のタイトルや見出しって「JKにナマで中出し」とか「素人をナンパしてヤッちゃいました」とか実にモラルの壊れたワードが並んでいて、その世界観は「女体をオモチャにしてやるぜ感」に溢れているので、「あー、こんだけたくさんのどうかしてるエロ本の需要があるってことは、世の中にこの世界観を欲している男の人がよっぽど沢山いて、彼らに都合の良い世の中だから今ここにエロ本があるんだなー」と思うんです。
なので平常時にコンビニのエロ本棚の前でそれを改めて頻繁に認識せざるを得ないのが、辛くて嫌なんです。
 
私はちょっと考え過ぎのところがあるので、私以外の「嫌だなぁ」と感じる人もこのように感じているかどうかは分かりません。
でも残念ながら私の周りの成人女性のほとんどが、それまで生きているうちに異性からレイプ、痴漢、セクハラ、強引な口説き…等々「異性からの何らかの性被害」に遭っています。
それは個々に程度の差はあれど、みんな「女体の持ち主として生きている為、男性からそういう事をされた嫌な経験」だと言えます。
だから「女性が表紙のエロ本」を目にした時に「嫌だなぁ」と感じる人の割合が、男性より女性に多いのは、エロ本が各々の女性のそういう過去の苦い経験を刺激するからじゃないかなぁ、となんとなく推測してます。
 
では「男性はコンビニでエロ本を見かけて嫌だなぁと思わないのか?」というと、その答えはとても個人差があると思います。
男性でももちろん「嫌だなぁ」と思う人がいるとは思いますが、全体の比率で言うと女性よりは男性の方が少ないと思います。
なぜなら、今の世の中はそもそも男女で「エロ」に対する認識に差があるからです。
その認識の差とは、簡単に言うと女性には「この世には歓迎出来ないエロがある。」という認識が備わっている人が多くて、男性にはそれが無い人が多いということです。
どういうことかというと、私は人間を「男女」に分けて語ることは、本来あまりしたくありませんが、それでも一般的に「エロ」に対して、男性と女性では受け取り方が違うように思います。
中学生の頃、道にエロ本が落ちているとほとんどの女子は伏し目がちに見て見ぬふりをして通り過ぎますが、男子は拾って笑いながらそれをネタに「うぇーい」とじゃれあう事がありました。
これは、その頃からすでに男子は「女体」をオモチャとして扱う事が出来て、女子は同じ女体の持ち主として「女体をオモチャに出来ない感覚」が備わっているということだと思います。
その土台がある上で、さらに大人になるに従い、悲しいかな女性は実際に男性から「人間ではなく、オモチャ扱い」をされる経験を積んでしまいます。
私はセクハラや痴漢などの「性的被害経験」とは「異性から人間扱いではなくオモチャ扱いされた経験」だと思うのですが、年頃を過ぎた男性と女性では、この経験数の差がかなりあり、そのことが男女のエロに対する認識を
男「オモチャと遊ぶ楽しいもの」
女「オモチャにされて嫌なもの」
と分けてしまうのかな、と思います。
 
男女の痴漢やセクハラ被害数を比べてみると、圧倒的に女性の数が多いのは言わずもがなですが、これは言い換えれば世の中に「男性から性的に嫌な目に遭わされた女性」が、男性のそれよりはるかに多いということです。
つまり女性はほとんどが大人になるまでに何らかの形で「エロを求められて嫌な立場」に立たされた経験がありますが、男性の中には大人でも「エロを求められて嫌な思いをする」というのを経験せずに「エロを求める立場」しか経験したことがない人が大勢いるということです。
 
そしてエロに対して「求めた事しかない男性」は「求められて嫌だ」という感覚が分からず、若者でもおじさんでもお爺さんでも「エロ=とりあえず歓迎」という認識の人が多くいます。
 
だから「表紙に半裸の女性が映り、卑猥な単語が並ぶエロ本」を目の前にした時、男性の中の「今までエロを求める立場でしか生きて来なかった人」は単純に「やった!エロい!嬉しい!」と思うでしょうし、逆に「エロを求められて困る立場で生きてきた女性」は「ちくしょう、クソエロ男が…」と思うわけです。
 
そう考えると「エロ本を目にするのがなぜ嫌なのか分からない」と言う人は、今まで「エロを求める立場」しか経験してこなかった人なのかもしれません。
 
でも、そういう人にもこの説明で「エロを求められて嫌な思いをしてきた女性が、エロ本を見るのは嫌なものだ。」という事を察してもらえるとありがたいです。
ちなみに、ここまでは説明の為に、あえて性被害の対象となる性を「女性」としましたが、男性でも過去に性被害を受けて嫌な思いをした経験があれば、女性と同じような、この「嫌だなぁ」は共感出来るはずだと思います。 
ですが、世の中の全体の「性被害で嫌な目に遭った人」の比率は男女で女性の方がはるかに多いので、やはり現状では男性のほうに「何が嫌なのかいまいち分からん。」という方が多く存在するのだと思います。
 
とにかく、この「男女で性的被害経験の数が違う」ということが、世の中の男女のエロへの認識に差を生み、そこへさらに男女でエロに対する認識が違うことが、この公共の場でエロが氾濫する世の中を作ってると私は思います。
 

想像できない人

さて、そんなわけで世の中の男女でそういうエロへの認識の差があるとはいえ、「男女は分かり合えぬのう」と嘆くばかりじゃ事態は変わりません。
私は、たとえ「これまでは性被害の経験が無い男性」でも、その人がその経験をした女性の立場を想像さえできれば共感はできると思います。 
そしてもしも全ての人が「異性からむやみにエロを求められた時の嫌な思い」を共感できたら、異性にむやみに性的視線を向ける人は世の中から減るし「エロ本がむやみに目に入る嫌さ」も分かってもらえるんじゃないかと思います。
そういう思いから、私は少し前にこんなツイートをしました。  
このツイートに至った経緯は、これより前のツイートがありました。
それは 
私が一緒にバイトしている女子高生も、女子高生モノのエロ本を前に目を伏せて働いている。 彼女達は「自分が属する『女子高生』という記号が性対象として特別視されてる現実を見せ付けられる嫌さ」を感じていて、それは成人女性でも嫌な事なのに、女子高生は10代という幼さでそれに耐えなければならないので、酷過ぎる。
というもので、その続きとして書きました。 
しかし、上のツイートの反応の中には「嬉しい」「そうだったら余計興奮する」というものが結構来たので、私はギャフンとなってしまいました。 
 
私としてはたとえ「雄々しい男性としていつもエロを求める立場で生きてきた方でも、非力な少年時代に自分が性対象にされる場面を想像したら嫌な思いが少しは分かるはず。」という狙いで書いたのですが、これは甘かったようです。 
「自分が性対象となり、レイプされるかもしれない場面を想像してみろ」と言われれば誰しもが「それは嫌だ」と共感できるかと思ったのですが、そういう男性にとっての「レイプされる」というのは「自分が女性に襲われる」をイメージして「悪くない、むしろ嬉しい」となってしまうようです。
 本来なら「抵抗敵わず犯される側の恐怖感」に男女は関係ないはずで「少年期に自分より屈強な生き物にレイプされるかもしれない怖さ」は男性でも想像さえ出来れば共感可能だと思いますし、是非そこまでを想像して貰いたかったのですが、そうはならなかったみたいで残念です。 
 
「嬉しい」「むしろ興奮する」という反応をした方はおそらく、性対象が「女子高生」から「男子高校生」にまで広がった世界を想像してるだけで、自分がその世界で「犯される立場」になった場面まで想像してないんだと思います。
 もう、こういう人は実際に刑務所にでも入って自分が豪腕な囚人男性に力ずくでボロボロになるまでレイプされない限り「被害時の恐怖感」は想像出来ず、残念ながら共感は難しいのかもしれません。
ですが、世の中には想像力の働く善良な男性も沢山いると思うので、そういう男性に真意が伝わる事を願ってツイートはそのままにしておきます。
 

ひとつの方法案 

さて、それではここからは私なりに考えたコンビニのエロ本陳列問題の解決策を書きたいと思います。
私はコンビニにエロ本をおおっぴらに陳列して欲しくないと思ってます。
でもそれは単純に「コンビニでエロ本を売らないで下さい!」という主張ではありません。
こういう話をすると「コンビニでエロ本を買いたい人」と「コンビニでエロ本を見たくない人」の関係が完全に対立しているように見えて、どうしても極論で「現状のまま売る」か 「売らぬ」の答えを出そうとなりがちですが、私は答えはそのどちらでもないと思います。
 
確かに「コンビニでエロ本を見たくない」人の願いを叶える為に1番手っ取り早い方法は「コンビニでエロ本を売らない」なのですが、このように真っ向勝負でどちらかが泣く方法(「買いたい人」を無視して「買えなくする」という提案)は現実的では無いと思いますし、それだとあまりにも「他者に厳しい社会」という感じがして、私の望みともちょっと違ってしまいます。
だから両者にフェアで現実的な着地点は「コンビニでエロ本を売りつつも、見たくない人の目にはなるべく触れないように配慮する」なんだと思います。 
そこで私の考えた方法案がこちらです。
http://t.co/yOm8IjQr3d  
私は素人ですのでこれを実現化するのにどれくらいコストや手間がかかるとか、具体的な問題点がどれだけあるかとか、そこまで分からないのですが、でもひとつの案として思ったので書きました。
 
なにより、この話について「売る・売らない」を根本から見直すという大論争を巻き起こすより「大っぴらに陳列すること」という所だけを変えるほうが現実的にはイケると思うので、これが私なりに出た答えです。
他にも沢山の人が知恵を絞ればよい方法があるかとも思いますし、これを期にこの件を考える人が増えるといいかなと思って、たたき台としてこの一案を出します。
手間味噌で申し訳ありませんが、この方法だと、エロ本が見たくない人は今よりむやみに視界に入ることは減るし、コンビニでエロ本を買いたい人の中にも「買いたい時は買うけど家族や友人とコンビニに行く時は見たくない」という人が居ると思うので、そういう人のニーズにも合ってるし、限りなく泣く人が少なくて嬉しい人が増えるような気がします。
 
ただ一点、この方法だと「イヤだ!俺はコンビニでエロ本がデカデカと置いてある社会が好きなんだ!」という人にだけは泣いてもらうことになりますが、これはもう「すいません勘弁して下さい」としか言いようがありません。
すいません勘弁して下さい。
 
 

最後に

現在の「コンビニにエロ本がおおっぴらに存在していて、買いたい人にとっては便利」という状態は、エロを求める人を優遇するあまり、エロから遠ざかりたい人をないがしろにしている状態だと思います。
私はこの件で、「コンビニでエロ本を買いたい人」が今持っている「便利に買う権利」まで侵害したくはありません。
誰かが既に持っている権利を「手放せ」というのは並大抵のことではないからです。
でも、片方に「簡単にエロに近づく権利」が与えられているなら、もう片方にはこれと同程度の「エロから遠ざかる権利」があるべきだと思います。
 
この「エロから遠ざかる権利」は、本当はコンビニエロ本に限らず、バナー広告とかにも言えますし、なにより今の社会で平然と根底にあるセクハラとか「エロ目的で他人に近づく輩」にバーンと突きつけたくなる権利です。
私は「多少の下ネタにも寛容でないといい女とは言えない」とか「減るもんじゃなし、おじさんにも優しくしてよ〜」とか言う人にいつも「エロから遠ざかる権利!」と叫んで走り去りたいです。
 
あと、ついでなので最後にもう1つ書いておきたい事があります。
 
この手の話をすると「気にならない女性もいるんだから、気にする女は過剰に反応してるだけだ」という意見が出ますが、それは違うぜと言いたいです。
それは靴を隠されたいじめられっ子に対して「靴を隠されても気にしない子もいるんだからお前も気にするな」と言うのと同じ理屈のような気がして納得できません。
確かに女性の中にも色々な人がいるので「エロを突き付けられても気にならない女性」もいると思います。
でもそれはたまたまその方が「気にならずに済む考え方が出来る」という幸運の持ち主なだけであって、世の中に「嫌だなぁと気になる女性」が居ないことにはなりません。
世の中には本当に色々な考え方の人がいて、他人(特に異性)から「何を言われ、何をされ」て、どのくらいの事が「気になる・気にならない」と感じるかも個人の感覚による自由です。
それをたまたま「男性にとって都合の良い感覚を持った女性」を取り上げて「こういうのがいい女、みんなこれを見習えよ」と押し付けるのは世の中を男性本位に作り変える行為で、世の中の女性がみんなそんなに男性にとって都合の良い女性だった時代はとうの昔に終わってます。
だからいくら「気にならない女性」を引き合いに出されても「嫌だなぁ」と思う人が私自身であったり私の周りに一定数いる以上、私は「じゃあ私も気にしないようにしよ」となれないのです。
そこはわかってもらえるとありがたいです。
 
終始「女の被害者意識」で書いているような文章になりましたが、私は女性も男性もお互いに被害者や加害者にならずに幸せに暮らせればなぁ、という気持ちだけで書いてます。
とりあえず、私は明日もエロ本溢れるコンビニでバイトなので、この長い文章を最後まで読んでくださった方にいいことがあるように祈ってもう寝ます。
ではまた。

恋愛工学は「自分だけが主人公」のゲームのようなもの

 
はじめに
 
 代表作「南くんの恋人」や「ファザーファッカー(小説)」などで知られる漫画家の内田春菊さんの作品に「水物語」というのがあります。
全4巻の作品ですが、ストーリーをごく簡単にまとめると「ある既婚者の中年男性が18歳のアヤというホステスと出会い、恋愛関係になって、色々なんだかんだあって最後は別れる」という話です。
 
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(印象的な一コマ)
2000年の作品で、私が最初にこの作品を読んだのは20代の中頃でした。
私は単行本を持ってるのでその後何度も読んでいるのですが、この作品が私にとって何年経っても色褪せないのは、期間を空けて読むごとに新たな発見があるからです。
若い頃読んだ時にはさして引っかからなかったり、ピンと来なかったりした場面ごとの登場人物のセリフや表情が段々と「あぁ、この感じ分かるなぁ…」と新たに理解できるような感覚があります。
 それで今でも面白くて時々読み返しているのですが、このところ巷で話題の「恋愛工学」というものについて考えようとした時、私はなぜか真っ先にこの作品の事を思い出しました。
この事は後に詳しく書きますので、ここではひとまず置いておきますが、私がこれから書くのは、この漫画の主人公のような男性像をイメージして書くところがあるので一応前置きとしてはじめに書いておきます。
 
恋愛工学者も色々
 
さて今日は恋愛工学にまつわる話を書きます。
恋愛工学については賛否両論ありますが、私はどちらかと言えば否定派です。
しかしその「否定」は、恋愛工学そのものが唱えている色々な説について「正しい」とか「間違ってる」という意味ではなく(そこまで私自身が恋愛工学の内容を勉強したわけではないので判定は出来ない)、もし身近に恋愛工学を信じて行動している人が居たとしたら、素直に「楽しそうでいいじゃん!」と肯定はできないという意味で「否定」の方になるということです。
もちろん、人の生き方は人それぞれが決めて良いと思うので例え人生の中心目標にドーンと「沢山のいい女と恋愛したい!セックスしたい!」と掲げて生きていく人が世の中に存在するとしても、私はその存在を否定することは出来ません。
それは、どんな人間にも好きに生きる権利があるので、いくら私が気に入らなくても「そんなやつ死んでしまえ!」とまで言えないということです。
ただ「死ね」とは思いませんが、軽蔑はしますし、もし身近にそういう人が居たら今後なるべく関わりたくないとも思います。
私はそういう程度には恋愛工学を信じて行動する人を否定しています。
 
で、一応ここからは恋愛工学が「男性に向けた恋愛ハウツー」だという私の認識で書いていきますが、私は恋愛工学を信じる男性の中にも色々な方がいると思っています。
半信半疑ながらも部分的に参考にしている男性、「まぁダメ元でやってみるか」と生活に取り入れてみた男性、完全に信じてその教えを丸呑みした行動を心掛けてる男性…と。
これはやはりどういう集団でも、形成しているのは1人1人違う人間なので、その各々の範囲で恋愛工学を実践している度合いは違いがあると思うからです。
そして今回色々な方の恋愛工学批判にまつわるブログを読むと「恋愛工学」そのもの、や「恋愛工学を信じてる男性(以下、恋愛工学者と略します)」をまるごと否定する方が多いと思いました。
私はその気持ちも分からなくはないですが、私としましてはあえて今回「恋愛工学者全員」の否定はしません。
それは何事も「まるごと否定」すると、そこに少しでも加担している方の反抗心に火がつき、今より余計のめり込む男性が出そうな気がしてしまうからです。
しかし私は恋愛工学者の中で「これだけはアカン」と言いたい方がいます。
それは既婚男性の方です。
 ではこれから私がどうして「恋愛工学者の中で特に既婚男性の方がいけない」と思うかを説明していきます。
 
犠牲を払うのは自分1人ではない
 
現代人にとっての「結婚」とは、デメリットもありますが「社会的信用を得る」「いち人間として帰る場所がある」という大きなメリットがあると思います。
しかし世の中には「独身主義」という言葉があるように「自分はとにかくモテたくて、沢山のいい女とセックスしたくて、誰か1人に絞った結婚生活というものが出来ない気がする」という自覚のある男性が存在します。
私はそういう男性が「結婚」を捨てて「多数の女性にモテる道」を選ぶことは、まだ人として理解できる範疇にあります。
なぜなら独身主義の人は、自分の人生の中で「結婚のメリット」と「自由に恋愛をする立場」を天秤にかけて「結婚のメリットを捨てる」という選択しているからです。(もちろん他の理由から独身主義の方もいますが、今回はこのケースだけについて書いてます。)
「選択の結果」には「覚悟」が伴うもので、私は人の覚悟というのはある程度尊重するべきものだと思うので、これを経ている独身主義の男性のことは頭ごなしに否定はしないでおこうと思うのです。
多分、恋愛工学者の中には最近の世の中の恋愛工学批判の声を「うるせぇな、人の勝手だろ!」と思ってる人が多いかと思いますが、これは、自分なりにこの覚悟があってやっている行為を「恋愛工学者」というだけで、その他の人から頭ごなしに否定や批判をされているから腹を立てているのだと思います。
そして、彼らが頭に来て恋愛工学自体を擁護し始めると、「恋愛工学者」というくくりの中の既婚男性も自分が擁護されている気になり、増長しかねないので、私はあえて「恋愛工学者」の中の「独身者」と「既婚者」を別物として考えていきます。
 
さて、では具体的に私が既婚男性の恋愛工学者の「どこがいけないと思うか」というと、彼らは結婚を経て社会的メリットを手に入れつつも「よその女と恋愛をしたい」という欲望をも叶えようとしています。
これは二者択一もせず「やりたいことを全部叶えたい」という欲望だけの姿です。
ようは子供をお菓子売り場の前に立たせると「アレもコレも」と欲張りますが、アレと同じ姿だと言えます。
こういう子供に対して、普通の親が「一つ選びなさい」と言うのは「お金を払う」という代償を課せられるのが親だからです。
これが大人になり「自分で稼いだお金」だけで、自分の「アレもコレも欲しい」を叶えるなら誰も文句は言いません。
欲望を持つのも、叶えるのも、代償を払うのも「本人一人」の身に起きる事柄だからです。
しかし、既婚男性が「結婚生活も婚外恋愛も欲しい」という欲望を叶える為に払う犠牲は、その男性1人の犠牲ではありません。
そこには妻が払う犠牲もあるんです
これに対して「ん?なんで?浮気してるのが妻にバレなければ妻は犠牲を払ってなくない?」と思う人もいるかと思います。でも私はそうは思いません。
「結婚」は今は軽い気持ちでする人もいますが、本来は「相手の人生の責任の片棒を担ぐ」という意味を持つ行為で、いくら昔よりはモラルが壊れ気味の現代でも、その意味を理解してする人のほうがやはり多いと思います。
不倫している男性の中には「バレないようにしてるし、もし妻にバレても謝って許してもらうか、最悪離婚すればいい事だし」と思ってる人がいます。
しかしその「最悪離婚する」という事態の「最悪」は、自分だけの最悪ではなく妻にとっても「最悪」なのです。
バレてなかろうが知らずのうちにその「最悪の事態になる可能性を背負わされてる」だけで、妻は犠牲を払わされてると私は思います。
分かりやすく言い換えると、独身者が「アレもコレも欲しい」ので借金をして最悪自己破産しても痛い目を見るのは本人だけですが、既婚者が「アレもコレも欲しい」ので妻に内緒で借金をして、最悪自己破産した時に「俺は自己破産することになる。お前に迷惑がかかるから離婚してくれ。」となった時に、妻が無傷と言えるでしょうか?ということです。
例え、借金が妻にバレずに返していけるとしても一人で勝手に「借金」をしてる時点で、妻は知らないうちに自分の人生を左右する事態が、夫の一存で起きているわけですから、妻に対して残酷な事が起きている事に変わりはありません。
つまり自分の都合で結婚生活を「最悪」にして終わらせる可能性を作るという時点で、「自分の欲望を叶える為に妻の人生を危うい立場に追い込んでいる」という事だと思うのです。
ただの恋愛関係と夫婦の違いは「お互いに相手の人生がかかってる」という責任感の有無だと私は思います。
その為、既婚者でありながら安易に離婚に繋がる行動を取るという事は「相手の人生への責任を果たすつもりが無い」という意識の表れであり、自分の欲望の前で妻という立場の人の人生を軽視した行動だと思います。
私にとって「自分の欲望の前に他者の人生を軽視する」ということは「人として侵してはならないところを侵した」に値します。
その為、既婚男性の恋愛工学者を特にいけないと思うわけです。
 
既婚男性の言い訳が不可解
 
以前Twitterでおそらく「既婚男性の恋愛工学者と思われる人」の投稿を見たのですが、不倫相手とのセックス報告をしつつ「こうして他の女を抱く事で、俺は妻に優しくなれる」というような事をしきりに書いてありました。
これは、本人がそう思いたくて実際そう思っているのでしょうが、私にはテイのいい理論武装に思えます。
確かに自分の不倫行為を「順調な結婚生活の維持に役立ってる」と思えば、その男性の中では妻へのやましい気持ちは消え、不倫行為を正当化できると思います。
しかし、本当に結婚生活の役に立ってる行為と思うなら、妻に胸を張って言えばいいのです。
「俺はお前以外の女ともセックスすることでお前にも優しく出来る。だからお前にとっても嬉しい事だろ?」と。
それで妻が「私もモテない旦那よりモテる旦那の方が嬉しい!どうぞよそで息抜きして若さを保って、家には機嫌よく帰って来てね!」と言うなら、それはその夫婦にとって「夫の不倫行為」は「結婚生活の為のプラスの行為」になるので、世の中にそういう夫婦が居てもいいと私は思います。
ですが、こんな返事をする女性は滅多に居ません。
それを既婚男性も分かっているので、わざわざ「言って家庭を壊すリスク」を避けて実際には皆、隠れて妻に内緒で不倫行為をするわけです。
もし本当にこのように妻の意思確認をするとしたら、それは既婚男性に取っては大バクチです。
不倫を推奨する妻が世の中に稀だと知って妻に言うとしたら、ほとんど負ける可能性の高いバクチです。
なので多くの男性はバクチに負けそうだから実際に言う事はありません。
でも頭の中でやってるのは、バクチで言えば「勝った結果の想定」なのです。
なぜか「この不倫は妻の為に良いことだ」と勝手に思い込んで不倫してるのですから。
この矛盾を既婚恋愛工学者の方はご自身の頭の中でどう折り合いをつけているのかと、私は不思議でなりません。
あと、私は何も「結婚したら必ずしも1人に絞れ」と言ってるわけではありません。
私はポリガミー思想を理解できるので、夫、妻、不倫相手という「当事者全員」が了解のもと、妻や夫が婚外恋愛をするのは別に構わないと思います。
それは当事者全員が意思を開示しているので、全員が対等な人間としてお互い扱われて存在しているからです。
私が嫌なのは、夫と不倫相手だけが事実を知り意見を言い合えているのに、妻だけが部外者のように事実を知らされず、ハナから意見を言う立場を除外されている事が、妻を「対等な人間扱い」していない事に思え、そのことだけが嫌なのです。
なのでこれは単純に「不倫はダメ!奥さんが悲しむから!」という話ではなく、「妻となる女性の人権侵害をしないで欲しい」という願いだと思ってもらえるとありがたいです。
 
「水物語」に観る男女のすれ違い
 
さて、冒頭の内田春菊さんの漫画について再び書いていこうと思います。
 この漫画が出た頃には当然「恋愛工学」なるものはまだ存在していません。
ですが、私が恋愛工学について考える時にこの漫画をつい思い出したのは「水物語」の主人公の男性が、恋愛工学者ではないものの恋愛工学者から観るととても「理想的」な性生活を送っているように思えたからです。
主人公の「村上」は、自覚はありませんがロリコン気味の中年男性で、生まれつき女性にモテるタイプです。
彼には、彼に当たりが強く小うるさい妻と可愛い子供が居て、家庭は壊したくないものの、飲み屋のホステスである「アヤ」という18歳の女性と出逢いお互いに惹かれて不倫関係になります。
仕事のデキる男である村上は、アヤ以外に会社の部下である女性にも好かれていて、はずみで肉体関係を持ちます。
妻とはセックスレスですが、家庭不和になり過ぎないよう義務感でセックスをしたり、アヤとは恋のときめきを味わいつつ徐々にノーマルではないセックスに移行したり、部下の女性とは相手がせがむのでセックスをしたりして「こういうのも後腐れなくていい」と思ったりしてます。
それで「男は中年になってからだなぁ」と1人ごちたりするので、この文章だけ読むと恋愛工学者にとっての村上は、まさに理想の男性像に映ると思います。
しかし水物語は、後半になるとアヤの視点を通じて読者に「村上という人間の中身の解体」をしていきます。
そして彼がどれだけ自分勝手で女性を人間扱いしていない男性かということが徐々に明かされていきます。
この話は全ての男女に読んで欲しい物語です。
何気ないエピソードをひとつ取り上げると、はじめの方でアヤが「文章を読むのも書くのも好き」だと明かすと村上は「じゃあ今度なにか本をプレゼントしよう」と言います。
ホステスという立場で読書家だと明かすと他の客は小馬鹿にした返答をするのに、村上はそうじゃなかったということでアヤはいたく感動して村上に好意を抱きます。
しかし、村上が実際に本をプレゼントする事は無く、中盤で村上が家に訪問した時図書館に行っていてアヤが不在だったことにむくれた村上が「本くらい買ってやるのに」と言うと「そういえば、まえそう言ってたね。」「でももらったことないな…別にいいけど…」と言うセリフがあるのですが、この「男性がたいしたことない約束」だと思ってる事が、女性にとって大きな「信頼一個」であるのに、男性が気づいてない感じ!
こういうのを描けるのが内田春菊のすごさだと思います。
これは単にアヤは「本を貰えなかった」のが不服なんじゃないんですよね。
村上を好きになる要素に「頭の悪いホステスという思い込みをせず人間扱いしてくれた人だから」というのが大きくあって、「本をくれると言われた事=アヤにとって人間扱いされた証」で「自分を人間扱いしてくれるところ」が当初の村上の魅力だったのに、結局それは口先だけだとだんだんわかってきて、当初自分が村上の中身を過大評価してしまった事、村上がそういう人間だったこと、その両方に失望してるんだと思うんですよ、アヤは。
この漫画の特筆すべき所は、このように村上とアヤがスレ違っていく様が、世の中のこういう男性と女性の間がスレ違っていく様子まんまであり、とてもリアルに描かれているところです。
 
この作品を読むと「モテる男性」が自分では「かっこいい」と思っている行為が、女性から観るといかに冷酷で女性を人間扱いしていない行為かという事がアリアリと分かるのでどなたにも読んで頂きたい作品です。
ここまで内容を書いておいて、勧めるのもナンですが(あと過去に『商売っ気のあるブログを書くのも嫌だ』と言っておきながらリンクを貼るのナンですが)
まだまだ書ききれない面白さに溢れていて、古い作品なので本屋では売ってないのでリンクを貼っておきます。
 
 

人生の総決算期に

私は5年間ほど介護職をしていたので、多分普通の人よりはわりと多めに「人生の終盤」に立ち会ってきました。
それで、私自身も感じたり、介護職の人同士で話すと結構「あるある」なのが、「人の人生ってわりとある程度の雛形がある」という事です。
どういう事かと言うと、数々のお年寄りの長い人生史を聞くと、さすがに激動の時代を生きてきただけあって実に様々な人生がありますが、それでもなんとなーく「こういう性格、こういう生き方の人は最終的にこういう人生の終わり方なんだな」というのの「雛形」があるように感じられるのです。
それで、おとぎ話のようですがやっぱり「周りの人を大事にしてきた人」っていうのは、老後、周りの人に大事にされてるようなんですよね。
家庭を顧みず借金したり女遊びをしてきた男性は、老後に1人きりだったり家族に邪険にされていたりして亡くなるまで不平不満や孤独感に苛まれてるケースが多いし、逆に若い頃から仲間思いで困ってる人に優しかったとか家族を大事にしていたという人は、最後まで愛情のある家族に囲まれて暮らしていて本人も幸せそうだったりというケースが多いです。
中には例外的な人もいることはいますが、でも大多数の人が「老後である現在の状況」は「若い時の生き方の報い」が現れているように私は感じました。
 
1人、印象的だったおじいさんの話をしますと、そのおじいさんは、まだ70代前半で「おじいさん」と呼ぶにはためらうほど見た目が若々しく認知症も無いのでよく私と普通の話をしました。
その方は、4度の離婚を経て現在は1人暮らしをしていて、デイサービスに通っていたのですが「若い頃はさぞかしモテたであろうなぁ」と思わせる見た目と口達者なところがありました。
実際、おじいさんは若い頃から女を取っ替え引っ替えしていたそうで「一晩で3人ハシゴした事もあるよ。」と豪語し、恋愛工学的にはウハウハの勝ち組に思えそうなので、ひとつの例としてそのおじいさんの話を書きます。
彼は50代まで最後の家庭(妻と子供3人)があったのですが、その時もやはり不倫をしていて、妻ではない若い女性と半同棲をしていたアパートを突然妻に突き止められて、不倫相手と駆け落ちしようとした朝に、妻に軟禁されて家を出られず、連絡方法も今より限られていたのでそのまま不倫相手と連絡が取れなくなってもの別れになり、その後、妻にも離婚を求められて離婚して結局1人身になったそうです。
おじいさんはそれでも「これからもういっちょ!」と思ったそうですが、その矢先に心臓病を患い、あれよあれよという間に身体障害者手帳を貰う身となり生活保護受給者として今の生活が始まったそうです。
それでもおじいさんが1番よく話すのは最後の不倫相手の女性の話で「俺は罪な男だ…彼女を幸せにしてやれなかった…」とよく言っていていました。
他の介護員の人にはその話をあまりしないのに私にだけその話をして下さるので、よし、ここはひとつ介護員としてのうわべトークは辞めて本音を言おうかと思って「幸せにしてあげられなくて悔やんでるのは、その人だけなんですか?」と聞いてみたんです。
すると「そうだなぁ…だってな、その彼女、後から一回だけ連絡があって分かったんだが、最後妊娠していたんだとよ。俺と別れて1人で子供を堕したって言うんだ。俺はそれを聞いて自分はなんて罪深いんだと思ったからよ…それが1番の後悔だよ…」と言うんです。
おじいさんはそれでさめざめと悲しそうにしていたけど、私はなんか納得がいかず「産まれなかった子供とその女性が可哀想なのは分かるけど、前の奥さんとその間に設けた子供達も相当に可哀想な目に合わせてるよね?」と言ってしまったんです。
その時、おじいさんは一瞬ハッとした顔をして、私も「一線を越えた発言」だったかと思って「しまった!」と思ったのですが、その時はおじいさんが「桜島さんは厳しいなぁ」とハハハと笑って話を終わりにしてくれました。
しかし、その次におじいさんがデイに来た時に、しんみりと「こないだの話よぉ、あの後考えてたら、桜島さんみたいな事を言ってくれるヤツが若い頃に周りにいたら俺の今は違ったかもなぁ、と思ったんだよ。」と言うんです。
私はちょっと怒られるかなと覚悟してたのでこれには驚きましたが、おじいさんはさらに「もう手遅れだけどよぉ、今の俺が1人でこんな惨めな暮らしをしてるのは全部報いだよな。少し前まで『なんで俺がこんな目に』って思ってたけど、違うんだな、全員分の恨みが乗っかってると思えば、惨めな暮らしは当たり前なんだよな…。」と言っていて「死ぬ前に気付かせてもらえただけありがたかったよ。」と私の手を握ってきました。
私が「あぁーまぁそれなら良かったです。」と言ってやんわり手を振りほどくとおじいさんは「俺があと30歳若けりゃよう、桜島さんと結婚して人生やり直すんだけどなぁ〜‼︎」と言うので「このじいさん懲りてねぇ!」と思いました。
 
まぁ、どこまで本気か分かりませんが、おじいさんが後悔をしながら人生の終盤を過ごしているのは確かなようで、このおじいさんはただの一例ですが、色々なお年寄りからこのような「人生総決算」みたいな話を聞くたび私は「人生の終盤には生きてきたツケを払うんだな」と自分の中で教訓にしてきました。
 
今、目先の自分の欲望を優先して周りの人の事を考えないで生きてる人は、あんまり自分の人生の最後を想像していないのかもしれませんが、本当に自分が若さも体力も無くなって身体が思うように動かず、仕事で収入も得られなくなる時は高い確率で誰しも来ますから、その時になるべく後悔が無いように生きた方がいいんじゃないかと思います。
ちなみに私は「若い頃いくらモテたか」じゃなくて「誰かを幸せにできたという自覚」のほうが、老後心の支えになると思います。
一生独身だとしても、それは若い内に自分と向き合って出した答えに沿ってるなら「自分自身を幸せにした」という自覚が得られるから幸せだと思うのですが、若い内に自問自答せず、自分でも何が幸せなのか分からないまま、目先の欲望だけに走って若い内を過ごす人は、老後は後悔と不満と孤独感だけがお友達になるので、それはそれで覚悟が必要そうです。まぁまとめると「人間ある程度の歳を超したらなんらかの覚悟しないといけないよ」って事かなと思います。
 

さいごに

恋愛工学自体は「男性自身がプレイヤーとなり数多の女性を攻略していくゲームの攻略方法」だと私は思います。
そのため恋愛工学者はこのゲームにおいて「自分=主人公」「女性=自分のゲームの登場人物」という見方がある以上、女性を「1人の人間」としては見てないように思います。
このような認識のある方は是非「自分=主人公」「女性=主人公」という意識に考え改め直して貰いたいと私は願ってます。
「恋愛」はお互いがそれぞれ主人公だと認識してこそはじめて成り立つ関係で、もし相手の女性を自分のゲームの登場人物化して見てしまったら、それは恋愛ではない「支配」とか「狩り」とかまぁ、そういう類のものになると思います。
これを読んでいる女性も、もしアプローチを受けてる男性から「これ、私のこと主人公扱いしてくれてないな。」という感じを受けたら走って逃げる事をお勧めします。
もちろん女性も男性の事を「ATM」とか「支配してくれる存在」だと思わない事も大事ですし、男性も目の前にいる女性の事を、ただの「性対象」とか「家政婦代わり」とかで見る事がなくなるといいと思います。
そうして男女お互いが相手を「1人の人間」として見るようになると、1人の人間との理解を深めて良い関係を築くのは一生かかる大仕事なので、他の異性を相手する暇はあまり無くなるんじゃないかと思います。
「目の前にいる人が最愛で、他の異性を気にする事がない」ということは、なにより本人にとって1番シンプルで楽しい事のように私は思います。
 
色々ジャンクフードやお菓子をだらだら食べてもなんとなく満腹感が得られないけど、ちゃんと栄養バランスの考えられた一食を食べるとそれだけで満腹感が得られるのと同じで、恋愛や結婚も、つまみ食いを繰り返すより、1人決めた人との関係を一生かけて築くほうが、自分の為になるんじゃないかな、ということを私は思います。
私が恋愛工学について考えるのはそんなような事です。
長くなりましたが、今回はここまでです。
それではまた。

トピック「恋愛工学」について

NMB48の「ドリアン少年」を聞いたら秋元康に怒りしか沸かない

「昔は良かった」という言葉を、私は極力言いたくない。

「昔は良かった」という言葉は、暗に「今は良くない」と言っているように聞こえる。

「昔は良かった」という言葉は、「自分が若かったころの良さしか認められない愚かな年寄りの言うこと」に聞こえる。だから私はけして「昔は良かった」とは言わないことにしている。

しかし、そうは言ってもこの世には確かに「昔のほうが良かったもの」も存在する。

君たちはそれが何だと思う?

 

答えは、そう

「アイドルソング」だ。

 1994年。当時中学2年生だった私のクラスの歴史の先生は、4時間目がプール、その後に給食、そして5時間目の歴史、というまさに「ねないこだれだ?」状態の教室で、突然そう語りはじめました。

40代中盤で、ひげの剃り跡が毎日新鮮に青々しいことだけが特徴の大人しい先生は、普段からひたすら教科書を朗読するだけの「睡魔に仲介マージン貰ってんのか?」と思うほど退屈な授業がお得意だったのですが、なぜかその日は教科書をある程度音読してひと息つくと、このような話を始めたのです。

 もしかしたらその日、目の前のクソガキ共の入眠率があまりにも高かったので先生はヤケクソになったのかもしれません。

私自身も「まさに今、睡魔と手を取り合って仲良く歩みだそう…」という所に、かろうじて「アイドルソング」という意外な単語で半覚醒状態に引き戻されたところでしたので。

しかしこの後の記憶が無いので、私もやはり眠ってしまったと思われます。

数年後の同窓会で、私はこの授業のことを覚えている旧友を探しましたが、この授業のことを覚えている人は1人もいませんでした。

そうなってくるとこの授業自体が私の夢だった可能性も出てくるのですが、この件の真相はきっと永遠に藪の中なのです。なぜかというとその先生は同窓会からほどなくして懲戒免職になって教職を去り、行方自体も分からなくなってしまったからです。

先生が何をやらかしてしまったかというと「女生徒へ淫行」でした。

顧問をしている部活動の女生徒と付き合ってただかホテルに連れ込んだんだかで、私も人づてにまた聞きしただけで詳しいことは分かりませんが、まったく残念なことです。

 

さて、今日は私、べつにこの話が書きたかったわけではありません。

ただ、今日の記事を書くにあたりここ数日「アイドルとは…」と想いを巡らせてきたら、ふと先生の事を思い出したのでついでに書いただけです。先生元気ですかー?

 

 はじめに

本題はここからです。

 皆様はNMB48というグループの「ドリアン少年」という曲を聞いたことがありますか?

この夏の新曲で、有線やラジオなどでは頻繁にかかるので、お耳にした事はあるもののタイトルを知らないという方が多いかもしれません。

 私、今日書きたいのはこの曲を聞いた感想というか、批評というか、ぶっちゃけこの曲のヒドさなんですよ。

 で、そのヒドさは最初、単純に「歌詞が無茶苦茶」ってところが原因だと思ったんですが、なんか色々と考えていったら私、非常に怒りがこみ上げてきまして、この怒り、私の拙い文章でうまく伝わる自信がまったくないのですが、とりあえず書いてみようと思いました。

 あとはじめに断っておきますが、私がいくらこの曲をヒドいと書いても、それはあくまでNMB48を構成している女の子達についてではないので、秋元康以外の人は批判されたと思わないようにしてもらえるとありがたいです。

ファンの人や、この曲を好きな人が読むと多少気分が良くないかもしれませんが、ただの一個人の気持ちなので「そう思う人もいるんだな」くらいに受け流して下さいませ。では。

 

 歌詞がひどい

 この曲を私が初めて聞いたのは、バイト先のコンビニの店内放送でした。

当初早口で歌詞も何を言っているのかほとんど分からなかったのですが、かろうじてサビの頭の「ブサイクもイケメンも紙一重」というフレーズだけが聞き取れてとりあえず「なんじゃそら」と思いました。

その後、バイトの度に聞いてるうちにスピードラーニング効果というか、所々の歌詞が聞き取れるようになってきて、先週とうとう「わぁほとんど聞き取れる!」となりました。

私はもう歳のせいかAKBとかSKEとかアイドルソングはもとより、最近の歌謡曲自体にとんと興味が沸かないので、別にこの曲もなんてことない流行歌として私を通り過ぎていくはずだったのですが、歌詞がほとんど聞き取れるようになると逆に「ちょっと聞き取れないところがあるのが気になる」という状態になったんですね。

それで私はとうとう歌詞を調べ、ついでだからYouTubeでPVを観てみることにしました。

 正直な感想は「なんかムカつく」でした。

 と言ってもこのPVは特に目新しい「ムカつく構成」なわけではありません。

 明るいプールサイドでメンバーの少女達が水着姿で歌い踊るという、いつものAKBグループ系ではお決まりの感じで、もちろん「誰々が可愛くない」とかそういう不快感じゃなくて、彼女たちは文句なしにみんな可愛かったです。

 しかし何度PVを観てもなんかムカつくんです。

 そこで「コレのなにがそんなに私のカンに触るんだろう」と考えてみました。

 とりあえず一つはすぐ分かりました。この曲は冒頭から書いてるように「歌詞が無茶苦茶」なんです。

 具体的に私がどこを無茶苦茶だと思ったかというと

 ①女の子同士の友情をナメてるところ

②言ってることとやってること(やらせてること)の矛盾

 この2つです。

 

これだけだと少し意味が分からないと思うのでこれから解説します。

 

①女の子同士の友情をナメてるについて

 

まずこの歌詞のあたま、そもそもの物語の始まりを分かりやすく漫画にすると

f:id:ninicosachico:20150810141444j:image

 

 

 

状況はこういうことですよね。

 で、まず普通にこの友達「人としてめちゃくちゃ失礼」だと思うんですよ。

だって主人公の女の子(以下独断で夏子とする)は、素で彼氏のこと「かっこいい」と思って写真公開してるんですよ。

 それに対し「本当にかっこいいね!」と同調ができないにしても「ありえないでしょ!」は無いでしょ、友達として。

 

自分に置き換えて考えてみると、私も10代や20代前半の頃は確かにこういう「友達の彼氏公開」な場面はよくありました。

 けど、いくらそこに本当にどブサイクな男が写ってたとしても、友達が本気で好きで付き合ってるのが分かってたら、私もその場にいる他の友人も誰1人「ありえないでしょ!」なんて言うことはありませんでした。

 まぁ本人が退場した後には残った友達同士が「アレはちょっと…」と多少本音を言うことはあるし、本人が「今の彼氏ブサイクだけど観る〜?」と自ら「ブサイク」と振った場合ではノリで「ほんとだ~めっちゃブサイクじゃーん!」とか直接言っちゃう子はいたのですが、それでも夏子のように本人が「格好良くて好き」と思い込んでる場合はこれに面と向かって「ブサイクじゃん!」と告げるような子は本当に私の周りにはいなかったです。(というか、そういう非常識な子には友達が出来なかったのかも。)

 そういう気遣いを「いや、友達なら気なんか使わずに本心を言うよ」と思う人もいるかもしれませんが、私はそれは違うと思います。

 「本心を言う」って、「そのほうが友達の為になる時」は必要だと思いますが、どういう場面かをそのつど判断せず「私はいつも本心を言うの!」と決めてるのって、ただの「他人の気持ちを推し量る努力を怠った自称毒舌家の嫌な奴」だと思うんです。

 

だからこういう時に「相手が好きなものを見た目だけで無下に否定はしない判断」っていうのは、言うなれば相手の尊厳を尊重することであって「人として人付き合いをする上で最低限の常識」だと思います。

 そして現実の私の周りの友人達は、10代でもこの常識がありました。

 そう思い返すと、この歌の「夏子と友達」の友情関係はひどく薄っぺらい非現実的なものに感じます。

 でもこの歌はこの事をきっかけに夏子が「うそッ…私の彼氏ってブサイク過ぎ!?」と気が付くことで展開していくストーリーなので『歌のお膳立ての為』には「失礼な友達との友情関係」は必要なものなんですね。でも、あくまで「設定」として必要な架空の話で、全然リアルな友情関係じゃ無いと思うんです。

 まぁ、べつに歌詞の世界なんて100%妄想の事を書いたっていいのだから、これを「リアルじゃない!」という怒り方はたしかに私のいちゃもんに過ぎません。

 でも私が嫌なのは、女子の生態をよく知らないのにこういう歌詞とか漫画とか、フィクションの世界観を真に受けてるのか、世の中には「女同士の友情って薄いよな〜」って本当に思ってて言う人が現実にいるじゃないですか。

 私はその「女同士の友情が薄い」って決めつけが嫌なんです。

 そもそも「友情」の「濃い・薄い」という定義はすごく曖昧だし、「女同士の友情」とやらも、世の中の「女」というものが一個のカタマリじゃないのだから、女によって違う、個人個人で違う、と私は思うんですが、男の人の中で、時々ことあるごとに『女同士の友情って薄いよな〜』と言ってくる人がいます。

 現実にそれを言われると私は「別に男同士の友情がとりたてて濃いと思ったことも無いなぁ」と思うので、そう反論すると相手は「それは桜島さんが男じゃないから分からないんだよ」とかぬかすんですよ。

 ハァ?ですよ。

私は「えっ、そんならキミはなんで女じゃないのに女同士の友情ことが分かるの!?ふしぎふしぎ!」と矛盾に思うわけですが、それを言うとたいていは酒の席なので「まーいいじゃん」と話を打ち切られたりします。

 理不尽。

 

それで私思ったんですけど、たぶんそういう事を言う人は『女同士の友情は薄い』と思いたいだけなんですよね。その方が彼らにとって何かと都合が良いのかもしれません。

 その件はとりあえず置いておくにしても、秋元康がこの歌詞を書く時に、これを「こんな友達関係、実際無いよなー」と思いながらフィクションとして書いたか、本気で今の若い子のリアルな会話を想定して書いたか分かりませんが、もしも後者だとしたら、あんなに女の子を沢山見てる立場なのに「よくこんなデタラメ書くよな」と思ったんです。

 秋元康がどういうつもりで歌詞を書いたにせよ、こういう女の子同士のあり得ないほど薄い友情描写を見る事で「女同士の友情は浅い」と思ってる人が「やっぱり女ってこんな会話してんだなー友情薄いよなー」みたいな思いの裏付けに加担するのかと思ったら、なんかムカついたというわけです。

 

②言ってることとやってること(やらせてること)の矛盾について

 これについては説明が単純です。

 「秋元康がこの曲を誰に向けて書いたのか?」と考えると、秋元康が1番この歌詞で喜ばせたかった層=世の中の「ブサイクな自覚のある男性層」だと思います。

 それはたぶん「ブサイクな男性=身の回りの女性に相手にされない=アイドルにハマる層」という単純な連想で、ようはNMBとかAKBとかの中心的なファン層を指していて、キャバクラで言えば「太い客」です。

 つまり私はこの曲は、ズバリ秋元康「太い客」を喜ばせるために「女の子」に「太い客が喜ぶこと」を言わせてるだけの「接待ソング」なんだと思うんです。

 で、それゆえ「ブサイクもイケメンも紙一重、ブサイクもイケメンも同じこと」という歌詞がサビでたたみかけるわけですが、これを聞くと私はどうしても秋元康に対して

「お前、そんなら毎年女の子に順位付けさせんなよ!」と思うんです。

 ご存知AKBグループの女の子達は、毎年総選挙という形で多くの男性(女性も居るけど)からランキング付けされる立場にあります。

 ファンの皆様は彼女達の何を評価して順位を付けるのかというと、内面的な性格も考慮しているものの、結局は顔立ちとかスタイルとか外見的な好みが一番の理由なんじゃないかと思います。

 これに対し「ちゃんと性格で判断してる!」と言いたいファンの方もいるでしょうが、彼女達はアイドルなので、「ファンが見ることが出来る内面」というのはとても限られた一部分だけだと思います。

実際に私達が他人と出会った時、どうやって「その人を好きか嫌いか」と判断するかというと、見た目の印象よりも話して意見を交わしたり、日頃の言動を観た上で総合的な判断をするのが普通です。

 

でもアイドルに対して、実際に話したり日頃の言動を観ることは難しいですから、どうしたってそのままの見た目と、彼女達が「見せる」と判断した内面だけ(画面ごしに見える部分やブログやTwitterに書いたりする内容から分かる性格)になります。

 なので、私はAKB総選挙とは「女の子を見た目で順位付けする行事」だと思うんです。

 で、彼女達一人一人がそれを喜んでるか嫌だと思っているかは分かりませんが、参加をしている立場である以上「ブサイクも可愛い子も同じこと」では全然無いわけですよね。

 秋元康がもし本当に世の中の男性陣に対して「ブサイクもイケメンも同じ、ブサイクもイケメンも紙一重」と思ってるなら、それは女の子にも等しく適用されるべきで、「可愛い子も可愛くない子も同じ」だから「見た目で順位付けさせよう」なんて発想は浮かばない筈だと思うんです。

 でも、実際はそれを毎年やってます。

 NMBのメンバーには「私達、ブサイクもイケメンも同じだと思ってるんですよ〜ブサイクな男の人も大好きですよ〜(見た目は関係ないのよ〜)」と歌わせといて「彼女達本人はキッチリ見た目で評価させられる立場に置く」という仕打ち。

 この矛盾に私はムカつくんです。

 

 女の子が肌を晒すことの意味

 さて、ここまでは「歌詞」について、どう私がムカついてるか書いてきました。でも実はここからが私が今回本当に書きたかった本題で、私がPVを観ていて湧き上がった怒りとはどういう事なのか?を書いてきます。

 これは腹が立つというより、正確に言うと「悲しさが通り越して怒りになった」という感じです。

 と言うのも、私は今回の「ドリアン少年」のPVに限らず、少女達がメディアに出る時に下着同然に肌を晒している姿を見ると、いつも悲しくなってくるんですね。

 「何それどういう悲しさなの?」と疑問に思う人のために説明すると、夜中にテレビ点けるとなんかのバラエティ-番組がやってて、ふと気が付くと「男性芸能人と司会者女性は着衣なのに、ひな壇の後ろにいる数人の女の子だけが意味もなく水着」ってことありますよね。

 あれを見た時ってなんか悲しくならないですか? 

 

今回のPVを見た気持ちも私にとってあれと同じ種類なんです。

 え?わかりくにいですか?共感できない?

 うーん、それならちょっと小池栄子の話をしますね。

 昔、小池栄子がまだ谷間を出してバラエティーに出てた頃こんな話をしてました。

 

イエローキャブ(所属事務所)の女の子って、デビューの時は露出度のたっかい水着着て世に出るんですよ。それでだんだんと売れてくると水着も可愛い系のだったり、ミニスカートとか薄着の洋服になっていくんです。それで運良くブレイク出来たらやっとこうやって皆さんと同じようなお洋服着がさせてもらえるんですよ!」

 と。

 この話、なんか悲しくないですか?

 「 やっぱり分からん」という方の為に説明しますと、私はこの「無名な女性タレントだけが水着姿」現象小池栄子の話にあるような「タレントとしての価値上昇に比例して布の面積が増えるルール」の根底には同じ空気があると思います。

 その空気とは、芸能界において女の子だけが『肌の露出度=商品価値』として扱われる存在になってるという事です。

 ちょっとここ上手く表現出来なくてもどかしいのですが、つまり、もし無名の若手男性タレントがもっと売れたいとします。その男性タレントは、顔がある程度整ってる事以外に特に芸能人としての「価値」がまだ無いとしたら本人やマネージャーの人は何か彼に「売り」を作ろうとしますよね。

 変わった資格を取るとか、変わった経歴をくっ付けるとか、歌やダンスをさらに向上させるとか、色々と画策すると思うんです。

 でもその中のアイデアとして「いっそちょっと脱ぐか!」とは、ならないですよね。

 それは「『男性が肌を晒す』ということが、必ずしも『人々が喜ぶこと』では無い」という感覚が世の中に浸透しているからだと思うんです。

芸能界にも一般社会にも「男性の裸は笑いを誘うものであっても、視覚的に喜ばしいものではない。」という感覚ってなんとなくありますよね。

 でも、この場合の「喜ばしい・喜ばしくない」って、一体「誰目線」の話なのかと言うと結局は

「多くの一般男性にとって」ってことだと思います。

 そしてこの「喜ばしい」という意味を突き詰めて考えると結局それは「性的にそそる」ということなんじゃないかと。

 つまり世に浸透している「男性が肌を晒すということが、人が喜ぶことでは無い」という感覚は言い換えれば「男が脱いでも俺たち男は興奮しないから、男の裸は要らん。」ていう男性目線の総意ってことです。

これが世の中の常識として浸透しているから、男性タレントには「売れるために肌を晒す」という選択肢がほとんど無いんだと思うんです。

 でも、女の子にはその選択肢があるんです。

この「選択肢がある」という事を「女はいざとなったら脱げばいいから羨ましい。」という風に捉える人もいますが、私は逆で、性別で「この選択肢が無条件にくっ付けられてしまう」事の悲しさを感じます。

 先ほど書いたように芸能界には「女の子の無名タレントでも水着姿なら画面に華を添える的な役割」があったり「『タレントとしての価値』と『身に着ける布の面積』が比例するイエローキャブの女の子」みたいに、女の子の肌露出を商品価値とする現状があります。

 つまり現状「女の子は脱げば商品価値が出る」「女の子には肌を晒す選択肢がある」が人々の常識になっている以上、女性は男性に比べて「あれこれと画策する機会」が奪われてるんじゃないか?と思うんです。

だから、伸び悩んだタレントが女性だった場合、手っ取り早く人々の目に留まるために「とりあえず脱げば喜ばれるものだから脱ごうか」という短絡的な選択肢が女の子には真っ先に押し付けられてしまうと私は思うんです。

その選択肢って、あくまで色々な案の中から本人が選ぶならいいけど「女の子だからそういう目線を受ける対象物なんだから、まずはソレでしょ」という風に押し付けられるとしたら悲しいし、なんかタレントとして、人として色々見せたい部分があるのをすっ飛ばして「女体扱い」で見てもらう方法を選ばせられるのって、その子達が可哀想な気がします。

 で、こういう「男女で差が生じる現象」って本当なら時代が進むごとにどんどん無くなっていくべきことだと私は思うのですが、近頃の芸能界はこの現象がむしろ加速してる気がします。

 それは秋元康率いるAKBグループの子の出現から如実に感じます。

 しかもさらに悲しいのはその「性対象として男性を喜ばせる存在としての女の子」がどんどん低年齢化してることです。

 AKBグループ(NMBとかHKTとか含む)の子達って、平均年齢10代後半くらいで、実際は成人してる子が居ても水着じゃない時の舞台衣装って、制服風なものですから、つまり、制服という未成年の記号をまとう傍ら、胸や足をあんなに晒してるわけです。

 それをホイホイ「若くて可愛い女の子の水着姿嬉しいな〜」って飛び付く男性が世の中に沢山いるっていうのが私は変だと思います。

 まともな感性なら「こんな若いうちから不特定多数の男の目に肌を晒してオカズにされて笑ってるって、この子達のやってる事、可哀想過ぎるだろ」って思うのがスジじゃないかと。

 でもそれを平気で先頭切って女の子達にやらせる秋元康って、大人として、成人男性として、ほんとどうかしてると思いますし、それをメディアも「国民的グループ」とか「国」背負わせてるのもこの国の感性自体がどうかしてると思います。

可愛い若い女の子のアイドルが足や胸の谷間を見せてくれれば、それは見る方は喜んで見ちゃうと思います。

だけど、それで得る人気って、彼女達の歌唱力とかダンスとか、いわゆる「芸」が評価されてるのか、単に「女体」として評価されてるのか本人達も分からなくなるんじゃないかと思います。

「女体として評価されるのって、本当のアイドルの姿としてどうなんだろう?」とアイドルに詳しくないながらも私は疑問に思います。

アイドルプロデューサーという仕事は、本当なら若い彼女達の親代わりになって、親心で「芸事」の成長が出来る環境を保障してあげないといけないんじゃないかと思います。

なのに最近の秋元康のやり方って、若くて可愛い彼女達を「男性の性的興奮を掻き立てて男性から金を引き出す道具」としてしか見てない感じがするんです。

ちなみに少し調べて分かったは、NMB48はAKBグループの中でも特にそういう「色モノ」というか「男性喜ばせソング」を歌わされてるグループなんですよ。

 「イビサガール」という曲の「真夏日は恋をしよう、こんなに暑いと他にやる事も無いだろう」という歌詞も女の子達が水着のPVで歌ってる姿は実に性的な誘惑を連想させるし、「カモネギックス」という曲は「経験上危険でも女は懲りないもの、短い間でも幸せだったわ」というような「女の子がヤリ逃げされたのにその事に肯定的」というとんでもない歌詞です。

 今回のドリアン少年の歌詞も「ブサイクな男を喜ばせる為」に特化した、現実にはあり得ない空想の女の子が登場する滅茶苦茶な歌詞を作り上げて、現実のメンバーに歌わせて、女性として男性へ特に媚びた感じの曲です。

私がもしNMB48のメンバーの親だったら、もう秋元康の靴に画びょう入れたくなります。

 だから私はドリアン少年のPVを観てると、秋元康のこういう手法とか、それが受け入れられてる世の中全体に対して悲しくなってきて、悲しいの通り越して怒りになってくるわけです。

 

最後に

私は多くのアイドルの子達が持つ「世に出たい」「自分の歌や踊りを沢山の人に喜んで貰いたい」という気持ちは純粋なものだと思います。

 でも、彼女達が得たい「評価」は、本当は1人の人としての評価であって、

けしてただの「若くて可愛い女体」としての評価では無いと思うんです。

 

なんせ小池栄子はさっきの話の後に「やっぱり、こうやって服を着られるようになると嬉しいですよ!」と言ってたので、本当は「裸に近い格好をしなきゃ芸能人でいられない」ってことが、嫌だったのかなと思うんです。(だから私は初めてカンブリア宮殿でパンツスーツ姿の小池栄子を観た時、泣けました。)

だからまだ世の中のルールもろくにわからないような若い彼女達の「アイドルで有名になりたい」という純粋な気持ちを、大人が逆手にとって「この世界はそういうものだから」と安置に肌を晒させて金儲けの道具にするようなことは絶対いけないと思います。

 アイドルの中には「女体として褒められるのでも嬉しい」という子もいるとは思いますが、多くの子はそこに付きまとう「不特定多数の異性にエロい目で見られる対象」となると嬉しいわけないと思うんです。

 入り口は単純に「見てもらって褒めてもらえる」という嬉しさがあっても、それがただの女体としての評価だと分かったら悲しくなるというか、やはりどういう子でも「人として評価されたい」気持ちのほうが強くて根本にあるものなんじゃないかと思うんです。

 だから「若い女の子が肌を晒す」ってことに、世の中の人がみんな慣れ過ぎてて、今のようにアイドルの露出のインフレ状態なのは、なんとかならんもんかなぁと思います。

 「男性が見て嬉しいものだから世の中に氾濫する」っていうのは、男性にとっては心地よい世の中なのかもしれないけど、その影で沢山の女の子が「自分を商品価値のある女体として差し出すのが常識」みたいになるのは、私は下品な文化だと思います。

 芸能界の「芸」って、そういうのでないんじゃないかと。

もっと彼女達の「若くて可愛い」という身体的な見た目部分だけでは無くて、歌とかダンスとか頑張り具合とかを作る側も見る側も大事にしていかないと、これから先アイドルになりたい子なんて居なくなっちゃうんじゃないかと思います。

 

最後になりますが、さっき「ドリアン少年 歌詞」でYahoo検索したら「ドリアン少年 歌詞 ひどい」という候補が出てきたので「あ、世の中案外まともかもしれない」と思い直しました。

 

でも、今売ってるプレイボーイの表紙はAKBの子達が派手な下着っぽい水着で並んでて本当ランジェリーパブ感ハンパないので「あーあ」って思います。

思ってることが上手く書けてないところもありますが、今日はここまでにします。

ではまた。

中折れやめます

おはようございます。

私、最近気が付いたんですけど、ブログって、普段暮らしていると「あ、この件について書こう!」と思うことがたくさん出てくるけど、まとまった書く時間が取れなくて少し時間が過ぎてから「いざ書こう!」と机に向かって書き始めると、急に今書こうとしていることがなんだかどうでもいいくだらないようなことに思えてきて書く気がしゅるしゅると萎えていくっていう現象が起きるんですね。

この現象なんなんでしょう?

たぶん、これって多くのブログを書く人に共通の現象なんじゃないかと私は思うんですけれども、もしかしたら私だけの現象かもしれないし、どうなんだろうなぁ、と思いつつこの現象に万人共通の名前が無いから人に説明しずらいので、自分の中では「中折れ」って呼んでるんですけど、ブログを書いている友人に「〇〇さんも中折れする?」と聞くと語弊があるしなぁ、と思いながらここ数日過ごしてます。桜島ニニコです。

 

 

というわけで、最近私、定期的にブログが更新できなくて困っています。

私は前は、一週間に一度「今週のお題」を書くというのを自分に課してました。

でもお題というのはご存じのとおり、ランダムなものなので自分の書きたいこととお題が一致することのほうが稀です。

それでもこのブログを始めた頃の私は血気盛んだったので「自分の書きたいことストック」の中から「今週のお題」に沿うように文章を無理くりまとめるということ自体を楽しんで書いてました。

なので「無理くりまとめる」ことまでが私にとってゲームであり、ゲームのルールとして「一週間に一本」というのがあったので、定期的に更新出来ていたのですが、最近はあまりにも自分の「書きたいことストック」と「お題」がかけ離れていると、「そうまでしてこのゲームに乗る必要があるのかな?」って自分で思うようになってきたのです。

それで、徐々にお題と関係なくても自分の書きたいことストックの中から熱い思いがあるものを書いていくようになってきたんですけど、そうなると「お題」ゲームから降りたからにはその文章は私にとって「作品」でなければならない、というこだわりが生まれたんですね。

つまり、お題ゲームをしているぶんには、私にとってこのブログの文章は「自分の書きたかったことストックを「お題」に関連付けてまとめて、木曜日までに更新する」これでクリアだったわけです。

私の中の編集長がそれで「OK」をくれてたんです。

でもそのゲームを辞めて自由に書くからには「よほど読み応えのあるもの」じゃないといけなくて、お題ゲームじゃない記事を書こうとすると私の中の編集長が「てめぇ、よっぽどのことだろうな」と睨むんです。

だから気の弱い私は「あ…そこまでは、まだ意見がまとまってないっていうか…じゃあこの件は今度にします。」と引き下がってしまうんです。

これが、最近定期的に更新できない理由です。

 

あ、今日の内容って、こんなの読んでも面白い人はいないかと思うんですけど、すいません書かないと自分が気が済まないので書かせてください。

 

それで、あんまり更新しないでいると、どうなるかというと、これで私が別にブログの事を忘れて暮らせるなら問題は無いんですよ。

でも私は普段やっぱり生きてて思うこと書きたいことがちょこちょこ出てくるんです。

でも、書こうとするとうまくまとめて書けなくて中折れして、「あー自分はうまく書けないよー」と思いつつ、その件を書くのを諦めて、似てる主旨の事を書いてる記事を観ては「あ〜こういうこと、そうそう、でも私と考え方ちょっと違う、私の考えを書いた文は私が書かなきゃならないのか…」って思って、悶々として…

って感じでですね、もともと私自己顕示欲を満たすのとストレス解消の為にはじめたブログなのに、ストレス源になってることに気がついたんです。

これじゃ、あかん!

と思ったので、これからは私、自分の中で、記事を「作品」扱いするのを止めました。

中折れしてしまいこんでストレス貯めるより、

うまくまとまらない半生の気持ちでもいいから書いて出したれ、って思います。

 

私は今までお題ゲームじゃない記事を書く時は「起承転結がある」というか、「問題提起からの結論」みたいに、話としてまとまったものを書こうとしてきたんです。

でも、それでいくつかの記事が褒められたりすることによって自分の中に「次に書くもので読む人にがっかりさせちゃいけない」と思ったり、自分でも「文章下手だわこの人」って思われたくない、っていうプライドを持ち過ぎてたんじゃないかと思いむす。

 

でも、私はお金を貰ってるわけでもないし、このブログは「自分が書いてスッキリする事を、たまたま読んだ人もスッキリしたらラッキー」くらいの気持ちで書いていいんじゃないかと気がついたんです。

なにより、文章は「書かないとなまる」という特性があります。

スポーツとか何でもそうだけど、文章も書けば書くほど上手くなるわけじゃないけど、書かなきゃ書かないほど下手にはなります。

だから、「良い物を書こう」と思いつつ二の足を踏んでるより、どんどん書くほうが良い物が書ける可能性は高いんですよね、たぶん。

 

今まで、私はちゃんと書いた自分の文章をおこがましくも「作品」と思ってたけど、文章は私の排泄物、くらいの感覚でいいのかなと思うようになりました。

きれいなうんち出ると、それはそれで感動しますもんね。

 

まぁ、よく分からないかもしれませんが、これからは気楽に好きに書こうと思います。

お付き合い下さる方は改めて宜しくお願いします。

 

 

 

 

愛ある「パパ」と「お父さん」

こないだの日曜日、夫といつもの公園に散歩に行った。

こないだの日曜日に関東で外に出た人は分かるはずだけど、前日の雨で空気中の汚れが全部洗い流されている感じがしてとてもぴかぴかした空気の日だった。
 
体脂肪率15%以下の男は腹を下しやすいという特徴があるけど、私の夫も例に漏れず腹が弱い。
家を出る時は暑そうなのでTシャツ1枚で来たのに、思ったよりも新緑が深くて陽射しで暖を摂れなかったせいか、公園を一周したら案の定夫はトイレに駆け込んだ。
私はトイレの見える位置の芝生のところでベンチに座って芝生ゾーンで遊ぶ人や犬を眺めて待った。
 
女の子がバドミントンをしていた。
7.8歳くらいのその女の子は2人の大人とバドミントンをしていた。
左側にいる男の人に向かってシャトルを打つ時女の子は「パパ!」と叫ぶ。
右側にいる男の人に向かってシャトルを打つ時女の子は「おとーさん!」と叫ぶ。
 
つまり女の子は「パパ」と「お父さん」と3人でバドミントンをしていた。
 
こういう場合、2人の男性は女の子の「父親」と「祖父」だという可能性がまず普通は考えられる。
私の友達にも子供に自分の事をママと呼ばせ、自分の母親の事をお母さんと呼ばせる子がいるから、これの男性バージョンだという可能性だ。
 
しかしこの2人はそうでは無さそうだった。
2人の男性はどう見ても同年代で、父と息子ほどの年齢差は無い。
おまけに時々場所を入れ替えたりシャトルを取りに走る時、「パパ」は「おとーさん」の腰や肩にとても自然に触れる。
「おとーさん」は「パパ」の髪に付いた芝生を払ったりもする。
 
2人の間にはとても感じの良い愛情が流れているようだった。
その微笑ましさに思わず私は笑みが出そうになる。
それと同時にあまりぶしつけに見すぎてしまった気がして申し訳ない、と思って下を向いた。
 
落とした視界にバドミントンのシャトルが滑り込む。
あ、と思って顔を上げるとすぐに女の子が走ってきた。
私は拾ったシャトルを渡す。
 
女の子は片手に持ったラケットを脇の下に抱え直してわざわざ両手でシャトルを受け取った。
 
「ありがとうございます」
きちんと言ってお辞儀をしてくれた。
 
女の子が振り返って黄色いスカートが揺れる。
 
「いい子だ…。」
 
後ろ姿を見ながら思わず私は口に出していた。
目の前の芝生では「パパ」と「おとーさん」が私にごく軽い会釈をして、また3人はバドミントンを再開した。
 
いい子が居て、2人のお父さんがいて、日曜日に公園でバドミントンをして、なんだかとてもいい家族だと思った。
 
夫がトイレから出てきた。
なんか知らんが嬉しそうだ。
うんちをした後に嬉しそうな顔になるのは犬も人も同じだなぁと思っていると、夫がベンチに辿り着き私の隣に座った。
 
夫は座ると同時に「行こうか」と言う。
すぐ行くなら立ったまま言えばいいのに、この人は私と目線を同じにしてから喋る癖が付いてるからこうなる。
なんと優しき人間よ。
 
私は立ち上がって少し歩いてから
「ねー、もし自分のお父さんが2人居たらどうする?」と夫に聞いた。
 
夫はなんと答えるかな?と思っていると
彼は少し考えて「そりゃあダブル肩車よ!2人がかりで肩車してもらったら楽しいじゃん。」と嬉しそうに言った。
 
私はこういう時に「何それ?」とか「ありえないでしょ」とかグダグダ言わずに、とりあえず素直に答える夫が好きだ。
 
家に帰ってテレビを点けるとニュースがやっていた。
全米で同性婚合法化の一報を知った。
「お祝いバドミントンだったのかなぁ」と思った。
 
日本ではこの一報に色々とモノ申したい人はいると思う。
でもすぐに「何それ?」とか「ありえないでしょ」とかグダグダ言わないで、とりあえずは真っ先に「楽しそうじゃん。」と思う人が沢山いるといいと思った。
 
異性カップルも同性カップルも、家族になる楽しさは同じだから。
 
あの「パパ」と「おとーさん」と女の子が本当に親子暮らしをしているかは分からない。
でも彼らが仮に本当に親子暮らしをしていたら、それは今の日本だと「特殊な親子暮らし」になる。
 
でも彼らは日曜日の公園で、とてもただの幸せそうな家族だった。
 
だから彼らは普通で、そこに「特殊」が付くことのほうがおかしいと思う。
 
法律が追いついていないだけで、とてもただの幸せそうな家族だった。
 
世界中の彼らのような家族が暮らしやすくなるといいと思った。
 
 
全米で同性婚合法化 

表現欲の辿り着く場所

お母さんは紙をくれました。

「リカちゃん人形が欲しければリカちゃん人形をここに絵描きなさい。」と言って。

お母さんはペンをくれました。

シルバニアファミリーが欲しければシルバニアファミリーをここに絵描きなさい。」と言って。

私は物心付いた時から欲しい玩具は一切買い与えられませんでした。

その代わり何か欲しいとねだると、母は決まってこのように紙とペンを差し出しました。

だから私はいつも欲しいものの絵を描いていました。

そのうちに私は小学生になると、自分がクラスで1番絵が上手いということに気がつきました。

そりゃそうです。

他の子がリカちゃん人形やシルバニアファミリーや一輪車やキャンディボールで遊ぶ時間はすべて「絵を描く」に費やしていたのですから。

「ニニちゃんは絵がうまいね」

小学生になると誰もが私のノートの隅に描いた絵を褒めました。

休み時間になると「姫ちゃんを描いて!」「わぴこを描いて!」とクラスメイトにねだられました。(両者とも漫画『姫ちゃんのリボン』の主人公と『きんぎょ注意報』の主人公)

私はりぼんを購読していなかったけど、クラスメイトが持っている下敷きや漫画の切れ端に踊るそれらのキラキラしたキャラクターを寸分違わず模写することが出来ました。

こうして人見知りで口下手で地味で運動音痴で人に褒められるところがひとつも無かった私は、生まれて初めて「絵を描くと他人に褒めてもらえる」ということを知りました。

「私には絵を描く才能がある。もっと絵を描いて人から褒められたい。」

私は子供の頃いつもそう思っていました。

そして寝ても覚めても絵を描いて、中学生時代まではとにかくいつも絵を描いていました。

しかし高校生になると絵を描くことよりも他に興味が生まれました。

アルバイトと恋愛をするようになったからです。

アルバイトでは仕事ぶりを褒められるようになり、恋愛では女性として異性に褒められる喜びを知りました。

こうして絵以外でも人に承認されるようになりましたが、その頃はまだ絵も夜中に1人で描いていました。

でも高校生になるとそれを人に見せることはほとんどしなくなりました。

理由は「オタクっぽく見られたくない」からでした。

私は今は、漫画やアニメに熱意を燃やすいわゆる「オタク」の人に対して偏見は無いつもりですが、高校生当時は「オタク」の人をちょっと醒めた目で軽視していました。

なぜなら私のクラスには生粋のいわゆる「ザ・オタク女子」が4人いて、私はこの時人生で初めて本物のオタクを目にしたのですが、彼女達の印象は強烈でした。

彼女達は休み時間に1冊の漫画を囲んで登場人物の台詞を割り振って大声で音読してキャイキャイ喜んでいたのですが、その様子をハタから観て私は引いていました。

なぜ引いていたかと言うと、一つは彼女達がそのアテレコ?をしている時のうるささはウェーイ系の男子が騒ぐのに匹敵するもので、しかも「おっ俺だってお前のこと…!」とか、多分濡れ場シーンなども平気で口にしていたので本当に周りの目を気にしていない感じが単純に「迷惑」と思っていたからです。

もうひとつは彼女達の見た目が揃いも揃って髪はボサボサで体型は太っていて、言葉使いは一人称が「僕」とか「俺」とかで、お世話にも「可愛い」とかけ離れていて「可愛い」に近付く努力すら感じられなかったからです。

恋愛を覚えたての私は、そういう「現実の可愛いから遠ざかってまでフィクションの可愛いにのめり込む」という彼女達の行為が理解できませんでした。

今となっては私は人それぞれ好きなものは自由だと思いますし、そういうオタク女子の行動や見た目もひっくるめた「何かに夢中になってる人そのものの可愛さ」が分かりますが、当時の私はまだ「分かりやすいビジュアル的な可愛さ」を重視していたので、彼女達のことを「どうして可愛いキャラクターが好きなのに、自分自身を可愛いに近づける努力はしないんだろう?」と不思議でなりませんでした。

それに私は昔、少女漫画のキャラクターを模写しつつも、本当はそれらのキャラクターに対して「こんなに目が大きい人間は居ない」とか「鼻はどこだよ?」と思っていて、私の描くいくらか写実的な絵よりそれらの漫画絵を「稚拙なもの」だと思っていました。

だからいわゆる「漫画絵」と「私の描く絵」は私の中では全く別物と思っていたし、「漫画絵を好きなオタクの人達」と「私」は違うと自分で線引きをしていました。

でもいくら私の中で線引きしようと、多くの絵を描かない人にとって「家でイラストを描いている」という一言は、充分に「ああ、オタクなのね」と判断される台詞です。

だから私は友達にオタクっぽい要素を見られたくなくて、高校生の頃は自分が絵を描くことが好きだということを人前で言いませんでした。

そして私がその頃していた恋愛は少し特殊なものでした。(相手が一回り以上歳上の男性で婚約していました。)

なので、私は高校卒業時には自分の将来について安置に「その男性と結婚する」と決めていました。

だから本当はこの時、1度真剣に「自分の中で絵を描くこと」の位置付けを考えて将来そういう仕事に就くために専門学校に行くとか美大に行くとかいう選択肢を視野に入れれば人生は変わっていたのかもしれませんが、私はそれをしませんでした。

それなのにその後、紆余曲折あって20歳を目前に私はその男性とは別れました。

この時に私は初めて自分の将来について少し考えました。

それまでは「恋愛」の影響で「絵を描くこと」を自分の中で2番手的に捉えていたので、この時初めてちゃんと自分が好きな「絵を描くを仕事にできないか?」と考えるようになりました。

おりしもちょうどその頃、とある出版社が主催するイラストコンテストに投稿した絵が優秀賞を獲ったこともこの思いに拍車をかけました。

そして私はその出版社が自社で抱えるイラストレーターを育成する通信教育を受けながらイラストレーターの端くれとして仕事を待つ身になりました。

しかし、これで上手く「絵を描いて食べていける」かというと、人生はそう上手くいきません。

イラストレーターという職種に求められるスキルというのは、実は「絵の上手さ」以上に「依頼通りの絵を描ける」というものが大きいのです。

だから「自分の描きたい絵を描いてお金が貰えるイラストレーター」はほんの僅かな大御所か、たまたま自分の描く絵柄が世の中にウケる絵柄だった一握りの幸運な人しか居ないのです。

私は数年間で1、2件しか依頼が無いことから、23歳くらいの頃には自分の絵がイラストレーター向きではないことに薄々勘付いていきました。

ちなみにその頃の私の絵はこんな感じです。(恥ずかしながら載せます)

 

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私は結局、23歳頃を境に「絵を描く仕事をしたい」という情熱を徐々に失っていきました。

それはイラストの仕事が全然来ない日々が過ぎると同時に、インターネットが普及するようになって他人の作品を多く目にする機会が増え「世の中、上には上がいる」というのを思い知ったことも原因にあります。

所詮私は井の中の蛙で「絵の才能がある」というのは、自分の思い上がりだということにこの頃やっと気がつきました。

さらに実生活で絵と関係無い仕事をするようになると忙しくて絵を描く時間は取れなくなりました。

それでも絵に対する情熱があれば趣味で描き続ければ良かったのですが、私は1度挫折した絵に向き合うのが怖かったのだと思います。

それで忙しさを理由に絵を描くことは辞めてしまいました。

今もブログに載せてるような簡単な漫画を描いたり、お遊びで時々インターネット上に絵を公開することはありますが、私の中で上に載せたような「何日もかけて1枚を描き上げる本気絵」を描く情熱は次第に無くなっていきました。

 

それでも私には「表現欲」が残っていました。

思えば幼い頃から私は自分の内面を表現する為に絵を描いてきました。

それはもともと「欲しいものの代替」であり、やがて「人に褒められたい」という思いから生じた現象でしたが、続けるうちにやがて「褒められなくても、とにかく何か表現しないといられない」という性分が身に付いてしまっていたのです。

そして、絵筆を捨てた私に残された表現方法は文章を書くことでした。

文章を書くという表現方法は絵を描くという表現方法とまったく違います。

簡単に言えば絵は「メッセージ性」を載せるもので、文章は「メッセージ」そのものです。

「メッセージ性」の「性」の部分を人は「芸術」と呼ぶんだと思います。

絵のメッセージ性への解釈は受け取り手の感受性によって変わりますが、文章のメッセージの解釈はひとつしかありません。(小説などの文学作品は別です。)

もしひとつの文章が書き手と受け取り手で違う解釈をされるとしたら、それは書き手の文才不足です。

だから文章というものは「解釈の余地が許される芸術」ではなく、非常にシビアなただの「伝達ツール」だと私は思います。(くれぐれも文学作品は違います。小説や詩などは芸術的だと思います。)

でも、文章はシンプルにメッセージを伝えるその特性から、受け取り手にうまく伝わった時の喜びは絵を褒められた時よりもダイレクトです。

なんというか、私の実感としては文章を褒められることは絵を褒められる時よりも、より「リアルな自分」が認められた感じがします。

何しろ頭の中からダイレクトで思いを載せたメッセージを綴ってるわけですから、それを褒められたらダイレクトで私の頭の中が褒められたと思えますから。

それともうひとつ絵と文章の大きく違うところは、絵はそこに興味が多少なりともある人にしか受け取って貰えない表現方法なのですが、文章はわりと万人に受け取って貰いやすい表現方法なのです。

つまり絵は「俺そういうの分からないから…」と見ることさえ敬遠する人がいますが、文章はとりあえず「あいうえお」が分かる誰の目にも届きます。

私は思春期の頃はその限られた「受け取って貰える人(いわば芸術心のある人)」に自分の描いたものが届けばいいと思ってましたし、自分もその枠の中に居たいと思っていました。

でも私は結局全然芸術家ではなくて、普通の凡人だったんです。

恋愛すればそのことが優先事項になるし、絵で食べていけないと分かればサッサと諦める程度しか情熱は続かなかったし、本当に死ぬまで意欲が続く芸術家の方々(プロアマ問わず)のように自分はなれませんでした。

今となっては私が絵で表現したかったことは何なのか、自分でも思い出せません。

でもたぶん思春期の頃の私は、とても芸術家気取りで、他の人に出来ないことをしてやるという気持ちもあったし、色々将来に対して不安ながらも夢も見ていたし、そういうモヤモヤしたいっさいがっさいをストレートに文章にすることが出来なくて絵を描いていたような気がします。

その頃の私が今の私を観たら「絵も描かないでなにしてるの!?」とガッカリすると思います。

でも私は絵を辞めてしまったけど、他の表現方法が見つかって良かったと思います。

夢は破れても普通に生き続けなきゃならない私は、何かを表現したいというやっかいな欲だけはとりあえず残ってて、だから私はブログを初めたんだと思います。

はてなブログを初めて半年で、こんなに沢山の方が読んで下さるようになるとは当初思ってもいませんでした。

こうしてブログという文章発表の場があると本当に色々な人に自分の文章を読んで貰えてありがたい限りです。

私は自分の文章がけして上手いとは思いませんが、(回りくどいし、そもそも端折ることが苦手で長くなりすぎる)これからも文章という表現方法で日常的に思ったことを書いて、表現欲を満たしていくと思います。

私は絵を描くのと同じくらいに文章を書くのは楽しいです。

なんで楽しいのかは分かりません。

なんで楽しいのか分からないけど、書くとスッキリするから書いてます。

ちなみに今回の文章にメッセージは特にありません。

推敲もしてないので、書いてることの脈絡もないですし、絵で言えば「ラクガキ」に値します。でも書くとスッキリするから書きました。

こんな私ですが、辿り着いたところがここなので、ここで表現欲が発散できると大変ありがたいです。

お付き合い下さる方々に改めて御礼を言いますとともに、今後ともよろしくお願いします。

 

今週のお題「私がブログを始めたきっかけ」

 

いざ無毛時代 〜私のVIO脱毛記〜

皆様こんにちは。

えー、始めに断っておきますが、今日は男子禁制でお願いします。

それでも読みたい男子の方には「お好きにどうぞ」としか言えませんが、たぶん読後に「知らないほうが良かったよ…」という気分になりますので、その辺をご了承してからお読みくださいませ。

さて、私がはてなブログを初めて早数ヶ月。

自分でブログを書くようになってから私は世の中に溢れる数多のブログを以前より注意深く観るようになりました。

それで気が付いたのですが、世の中のブログは大きく分けて2種類のジャンルに分けられるようですね。

その2種類とは「エッセイブログ」と「ライフハックブログ」です。

エッセイというのは、主に「書き主の想いをそのまま綴ったような文章」のことで、私がいつも書いている文章もこれに当てはまると思います。

そしてライフハックというのは、主に「事実を元に読み手に有益な情報を提供する文章」のことでタイトルが「iPhoneとgalaxyの機能を比べてみた!」とか「これを読めば誰でもLINEクリエーターズスタンプを作れる!」みたいなやつです。

 

私は文章を書くのが好きです。

だからこそブログを始めたのですが、実は今日に至るまで「自分にはライフハックなことは絶対に書けないし、書くまい」と決めていました。

なぜなら私は自分で「私は人様の為になる有益な情報など持って無い!」と分かっているからです。

もしそれなのに無理くりライフハック的な物をひねり出して書いたりしたら、スゴレンとかでよく見かける「モテる女に共通する5つの特徴」みたいな「タイトルはそそるのに中身がスカスカの文章」になることは火を見るよりも明らかなので、私はこれまでライフハック的なことを書くのを避けて参りました。

しかし!

今日はわたくし初めてライフハックな記事を書こうと思います。

なぜなら、私が最近体験した事を、世の中でまだ未体験の人の為にお役に立てて欲しいからです!

さてそれが何の体験だったかと言うと、ずばり「VIO脱毛」です…!!

「VIO脱毛」

もしかしたらこのアルファベット3文字の羅列が何を意味するのかさえ分からない方もいるかもしれません。

分からない人は分からないまま今日のところはこのページを閉じて頂いて結構です。

でも私が今日これを読んで頂きたいのは「VIO」の3文字にピンとくる女性…

そう貴女ですよ!

「VIO」が人体の何処を指すか程度にはご存知でありながら!まだその情報収集の段階でさまよっている貴女!

貴女のような方の為に私は書くのです!

はぁ、つい熱くなってしまいました、すいません。

でも、分かって貰いたいのは、貴女のような女性は世の中に沢山いるという事です!貴女はけして1人じゃない…!

なぜそんな事を言うのかというと、私も少し前まで貴女と同じ立場でした。

だから分かるのです、貴女の気持ち…

「VIO脱毛ってとどのつまりどんなモンなんだよ!?広告じゃない体験記事出せよコラ!」というお気持ちが…。

だから私、書きます。

私がその頃に読みたかったような記事を自分が体験して書こうというわけです。

悩める貴女のお知恵に少しでもなればと思って恥を忍んでここからは私のVIO脱毛体験記を書いていこうと思います。

ユリちゃんの誘惑

ことの起こりは昨年の終わり。
高校時代からの親友と2年ぶりに再会して2人で食事をした時のことでした。
 
親友の名はユリちゃん(仮名)とします。
ユリちゃんは今はご主人の転勤で関西に住んでいて子供はおらず、看護師をしていて、キュートで喋り方が松本伊代にそっくりな女の子(34歳)です。
 
彼女は人付き合いにこだわりのある私にとって、なんでも心置きなく話せる数少ない親友の1人です。
 
ひととおり互いの近況などを話した後、彼女は突然その話を始めました。
 
「ねぇ、私、VIO脱毛始めたんだけど、どう思う?」
 
ここに来てやっと説明しますと、VIO脱毛のVIO」とは女性器の周辺の毛の生える部分を形どったアルファベット表現です。
つまりざっくり言うと「股の毛の脱毛」の話です。
 
私は体毛に関しては若い頃から割と悩まされてきたほうで、脇と膝下と腕はもう10年前に脱毛済みでした。
「VIO」という脱毛用語はその頃に聞いたことはありましたが、まだ10年前には今ほど情報が無く、深く知る事のないまま「とりあえずいいや」と敬遠していた感じでした。
 
なので、ユリちゃんに「どう思う?」と言われても、まるで上司に「最近NISAを始めたんだがね、どう思う?」くらいの、(え、どうもなにも「そうですか」としか言いようがないぜ)という感想でした。
 
しかしユリちゃんは上司ではなく親友なので普通に私は言いました。
「どうって…どうも何もなんとも思わないけど、ユリちゃんその話したいんでしょ?」
 
するとユリちゃんはニコリと微笑み、待ってましたとばかりに私にマシンガントークでVIO脱毛について語り始めました。
 
なんでも彼女がVIO脱毛をしようと思った理由は
・股に毛が無いと生理の時にムレない
・今後の人生で旦那以外に見せる必要性が全く無いとは言い切れ無い
・水着、下着から毛がハミ出る心配が無くなる
 
などでしたが、最終的に彼女が1番熱を込めて言ったのは
「あのね、まだ私も通って2回目なんだけどね!もー面白いの!だって、自分のあそこの毛が無い姿ってニニちゃん見た事ある!?VIOやる時ってねあそこ全剃りするんだよ!」
ということでした。
 
有機野菜の手づくり総菜が評判のビュッフェスタイルのおシャンティーなレストランの一角で、いつの間にかユリちゃんは自身のお股の毛が無い姿を見た時の感動を私に熱弁していたのです。
 
私ははじめのうち聞きながら「もう私も既婚30女。今さら夫以外にご開帳する気も無いところで、股に毛が多少あっても無くてもさしたる問題は無かろう。」と思って話半分で聞いていました。
しかしユリちゃんはそんな私の心情を素早く察知し(さすが旧友)さらにこう言うではありませんか。
 
「ニニちゃん、お股の毛が無いとパンツがキマるんだよ。」
 
パンツが…キマる…?
私はなんだかこのフレーズが妙に引っかかってしまい思わずユリちゃんに「ど、どういう事?」と聞き返しました。
するとユリちゃんは竿に手ごたえを感じた釣り人のようにニヤリと微笑み言いました。
「毛があるとパンツの前がもっこりするでしょ?いや、もうもっこりすることすら当たり前になって、もっこりしなかった時代のパンツの履き心地なんて覚えてないでしょ?」
 
た、確かに…。言われてみれば、恥部に毛を携えて早20年。
私はパンツの前面がもっこりしない感覚なんて覚えていない…。
私がそう思っているとユリちゃんは畳み掛けるように言いました。
「ニニちゃん、お股に毛が無い自分の姿って本当に懐かしくて感動するよ。あとそのお股でパンツを履いた時のフィット感ハンパないよ。本来の『パンツ!』って感じが味わえるの。」
 

私は思いました。

この女…誘ってやがる…。

ユリちゃんは恐らく私にVIO脱毛仲間になって欲しいのです。
でも正攻法でVIO脱毛の必要性を訴えて手ごたえが無かったため、途中から私の「好奇心を掻き立てる」ほうがオチると踏んでその作戦で話を持ってきたのでした。
彼女は20年来の親友、私の性格を知り尽くしています。
 
なぜならその晩、我が家には夫が寝た後パソコンの検索窓に「VIO脱毛     体験記」と打ち込んでる私が居たのですから…。
そう、私はまんまとユリちゃんの誘惑に負けました。
 
だって自分のお股に感動したい!
「パンツ」ッて感じが味わいたいんですもの…!!!
 
 
貴女がVIO脱毛に興味を持ったのは、きっとこんな経緯では無いでしょう。
多分多くの方はご自分で脱毛の必要性(毛の不必要性とも言える)を感じたからVIO脱毛にたどり着いたのでしょう。
 
だから私のように脱毛の必要性より「お股に毛が無い自分の姿が見たい。そしてそのお股にフィットするパンツを感じたい。」という好奇心からVIO脱毛の道へ歩んだ方は少ないと思います。
 
でも経緯はどうであれ行き着いた場所が「VIO脱毛やってみよう!」なら、もう私達は同じ穴のムジナ。
仲良くしようではありませんか。
 

VIO脱毛の実態は調べても分からなかった

 
さて、ユリちゃんにそそのかされVIO脱毛へ興味津々になった私は色々調べました。
しかし辿り着くのは大手エステの広告ページと個人のブログだけ。
しかも個人のブログも中身を読んでいくと結局どこかのエステか美容外科ステマ的なもので「私がやったのはココ!」という感じに結局大手エステなどのページにリンクするようになっていて、本当に体験した人の体験記が読めるものはありませんでした。
私はこの際だから言いますと「商売っ気のあるブログ」は嫌いです。
だからこれら既存のVIO脱毛体験記は、いまいち読み込む気になりませんでした。
VIO脱毛について調べる方の多くがまず知りたいのは主に料金についてと「で、どんな感じでやられるの?実際。」ということだと思いますが、私は料金のことはともかくとして「どんな体位でやられるの?」というのが誰かの体験記から知りたかったのです。
 
でもVIO脱毛をした方のブログを見ていると、部位が部位だけに写真掲載の記事はほとんど無く、あってもせいぜい局部のイラストどまりだし、結局文章も「とりあえずココをクリックして」みたいな流れだったので、実際に誰かがどんな風な体位でコトを施され、どんな気持ちだったのか?というのは掴めず、これには困りました。
 
なぜなら、私は男性にご開帳するのはそれほど恥ずかしくないのですが、なぜか産婦人科子宮筋腫の検査をされる時にものすごく恥ずかしくなる人間なのですよ。
なんででしょうね?
異性だと「持ち合わせているモノ」がハナっから別物なので「こういうもんだ!」と開き直れるけど、同性だと「同じモノ」を相手も持ってるので、アリアリと「違い」を感じとられる気がするからでしょうか…。
(あと男性の場合はたいてい薄暗いところだから平気ってのもあるかもしれません)
それでも産婦人科のアレは一応「医療行為」という大義名分を頭に浮かべていればなんとか耐えられるのですが、VIO脱毛はそうはいきません。
 
私は「股の毛を無くしたい!」=「乙女心が主体となった行動」だと思えるのですが、でも結局は施術者に見せるのは女体の中で1番グロテスクで実に「非乙女チック」な場所じゃないですか。
言ってみればもう「一人ゲスの極み乙女ですよ。
だから自分でもかなりの恥かしさがこみ上げて来そうなので本当は予備知識を得て心の準備をしたかったのです。
 
でも誰かの実感こもった体験記に巡り会えませんでした。
そして結局「もー面倒くさいからとりあえず行くか。」となって私は1番近くにある大手エステの予約を取りました。
 
 
私が予約したのは「初回の方、6千円でVIO5の脱毛2回と無料カウンセリングプラン」です。
あ、ここで「VIO5(ブイアイオーファイブ)」ってなんだよ?と思われた方の為に説明しますと、この「VIO5」という戦隊ヒーローみたいな名称は、何も色違いの全身タイツの人が5人がかりで股ぐらに挑んでくるという意味ではありません。
 
私も調べるまで、VIOはその名の通り、VとIとOの3ヶ所のことだと思っていたのですが、エステ的に言うとVの部分は更に3つに分けていて「Vの3ヶ所+Iゾーン+Oゾーン」全部で5ヶ所のことを「VIO5」と指すようです。
あ〜文章だと分かりにくいので、絵で描きますね。
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つまりVIO5とはこの5ヶ所のことです。
 
電話をすると受付の女性はサラリと「当日カウンセリングの後に施術をご希望されるかもしれない場合は、毛を剃って来て下さいね。」と言いました。
 
私が「えっ、全剃りですか?」と聞くと女性は親切に「ええ、最初は皆さん全剃りされて来ます。前のところはハサミで短くしてからカミソリでやるとやりやすいですよ。」とEテレの趣味の盆栽講座のアナウンサーのように教えて下さいました。
 
電話を切ってから私は「とうとう…」と思いました。
 
 

いざ無毛時代へ

予約日の前夜、私は風呂場に眉毛ハサミと眉剃りカミソリを持ち込みました。
受付のお姉さんに言われた通り、まずはハサミで毛先を揃えました。
毛先とは、ベッカムヘアでいうところのベッカム部分です。
ちびまる子ちゃんの永沢くんの頭頂部と言ったほうが分かりやすいかもしれません。
あ〜やっぱり文章だと分かりにくいので絵で描きますね。
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私はもともとベッカム部分を切り揃えるところまでは、たまーに気が向いたらやっていたのでここまでは平常心でした。
でも、過去最高短く刈り揃えられたお股は「坊や」という感じで可愛かったです。
 
そして、そこからハサミをカミソリに持ち替えて毛を剃っていきました。
ショリショリ…処理処理…
 
ここで初めて知ったのですが、眉剃りカミソリって、安全カバーというのか、なんか銀色の短い櫛状のやつが刃の部分についてるんですけど、陰毛ってものすごくそこに挟まるんですよね。
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それで毛が挟まるとカミソリが「た、体力の限界であります…!」という感じに止まってしまうのですよ。
 
私はそんなカミソリの毛を取り除きながら「大丈夫大丈夫、まだいけるって!頑張れ!お前なら出来るから!」と励ましながら全部を剃り終えました。
 
すると…なんということでしょう〜!
 
鏡の中には20年ぶりに直で見る

私のオマンタン銀座が…!!

わぁー確かに感動する!!

 
この時の感動は確かに言葉では言い尽くせないものでした。
私が最後にこのワレメを見たのは、まだ汚れを知らぬ少女時代だった…
あれからどれくらい経ったのだろう…
沈む夕陽をいくつ数えただろう…
ふるさとの友は今でもキミの心の中に…
と、パ○パンで乾杯を歌ってる場合では無いのですが、出来ることなら一節歌いたいような清々しい気分でした。
 
もしまだ無毛地帯を経験してない方は、VIO脱毛はしなくても是非1度全剃り体験はおすすめします。
生き別れた我が子に再開したような、懐かしくも愛しい気持ちになれます。
さて、全面は全剃りし終えて、残るはIゾーンとOゾーンなのですが、これは片脚をチョイと上げてカミソリで剃りました。
Iゾーンは土手部分の皮膚を伸ばして丹念に剃ると上手くできました。
もともとこの辺も気が向いたらたまーに剃っていたので手慣れたものでした。
ただ、Oゾーンに関してはどれくらい生えているのか鏡で見たことが無いので、カミソリの手ごたえでなんとなく勘で剃りました。
 
さて、本当はこの後風呂上がりにパンツを履いた時の「パンツ!」という感じも詳しく書きたいのですが、長くなってしまうので割愛します。
ただ、確かに「もっこりしてないパンツ」はパンツとお股がお互い「友よ!会いたかったよ!」と抱き合うかのように吸い付き、2人の仲に嫉妬さえ覚えました。
それくらいパンツのフィット感はハンパなかったです。
 

エステ当日

さぁ、いよいよ翌日私は大手エステ店に足を踏み入れました。
お姉さんがカウンセリングしてくれた話を話の順に要約すると
・そもそも脱毛とは、1回で終わるものでは無く毛周期に合わせて1ヶ月から2ヶ月置きに何度か通うもの。(これは私は脚脱毛の時に習ったので知ってた)
 
・初回の「6千円で2回」の施術だけではほとんどの人が脱毛効果を実感しないという。
 
・だいたいの人が脱毛効果を実感できるのは4.5回終えた辺りから。
 
5万円のコースを今日この場で決めればVIO5ヵ所の脱毛が4回できる上に初回の6千円で2回プランはサービスで付く。
つまり5万円で計6回通える。+ワキ脱毛は通いたい放題)
 
・さぁ、どないする?
 
ということでした。
つまり6千円のプランだけだと本当にただ「どんな感じか」が分かる程度なのでどうせやるなら5万円コースに入っちゃえば6千円お得だよ、ということです。
私は以前の脚脱毛に30万近くかかっていたので、確かに6千円でそれほどの効果が無さそうだというのは薄々感付いてはいました。
つまり6千円というのは、ただ『広告に誰でも手が届く金額を載せる手段』ってわけですね。
入り口は安く見せて、とにかく説明を聞いてもらって初めて本当の価格が分かるという仕組みです。
ズルいやり口と言えばそうですが、美容業界って結構こういう手口が普通なので(というか、なんかのレッスンとかわりと大きめの金額の商品を売る業界はこんな感じ多いですよね。)私はそんなに驚きませんでした。
 
そして私はせっかく無毛地帯になって来ていて、もうやる気満々でしたから5万円のコースをすぐ契約しました。
今思えば私の当初の目的は無毛体験なので、別に脱毛しなくても良かったのかもしれませんが、いつの間にかVIO脱毛を調べていくうち「どんな感じなの?」という興味が高まってしまっていたので、好奇心から私はすんなりと脱毛に挑みました。
 
さて、そうと決まればとっとと施術室に通されました。
そこは3畳ほどの白い小部屋にベッドが1つと端に機械類がいくつか置いてある空間です。
 
受付のお姉さんは私に小さな白い紙?布?みたいなものを手渡し「下を脱いでこれに履き替えて下さいね」と言いました。コレ↓
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これを履いてベッドに横たわっていると否が応でも緊張感が高まってきました。
 
ああ、私これからどんな格好をさせられるの…? 私、女の子にあそこを観られるのは初めてだから、優しく、せめて優しくして…!!
 
私が初夜の生娘のごとく1人フルフルとベッドで震えていると、ノックの音と友にガラリと戸が開き「失礼しやーす」とギャルが入ってきました。
 
白衣のギャル!
 
このギャルが、私の初めてのお相手です…。
 
ギャルはニコニコしながら「じゃあ剃り残しが無いかチェックしますね〜」と言って私の体にかかるタオルケットを足元からハラリとめくりました。
 
私「あの…どういう体勢でいれば?」
ギャル「立て膝になって脚を広げて下さいね〜」
 私は言われるがままにしました。
 
ギャルは私のお股を覗き込むと
「あ、上手上手〜!上手に剃れてますね〜!」と褒めてくれました。
とりあえず誉められると喜ぶ私は素直に「やったぁ!*(^o^)/*」と思いました。
それにしても30代なかばで10は歳下であろうギャルに陰毛の剃り方を誉められるなんて、人生なかなか捨てたもんじゃないですね。
 
そしてギャルは私を横に向かせ今度は尻穴周辺の剃り残しチェックを始めました。
すると今度はギャルの声が一段低くなり
「あっ、ちょーっとまだ毛が残ってますね〜どうします?」と聞いてきました。
 
私「どうします…とは…?」
ギャル「えっとぉ、これって光で脱毛するんですけど、その光は黒色に反応するんで、毛があると反応し過ぎて火傷しちゃうんすよ。
だからカミソリをこちらで購入していただいて私が剃るかぁ、お客様が持ってきてたらそのカミソリで今ご自分で剃って頂くかぁ、今日はそこを避けて施術するかぁって感じですね〜」
 
つまり、こういうことです。
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私は一応カミソリを持って来ていたのですが(予約の時に持ってこいと言われたので)このギャルの目の前でショリ処理する勇気はとうていありませんでした。
というか「他人の前でショリ処理出来るほど羞恥心のハードルが低いオナゴは、そもそもこんな所来なくね!?」と思いました。
そして3千円のカミソリを買うのも馬鹿らしかったので(昨日頑張ってくれたアイツが90本買える値段ですもの!)結局この日はそこは避けて施術することにしてもらいました。
 
そして、剃り残しチェックの後はいよいよ施術です。
 
ギャルは私にアイマスクを装着させ、さらに上から花粉症メガネ状のものも装着させ、脚を伸ばすように指示しました。
 
そして「ちょーっと冷たいの塗りますね〜」と聞こえるや否や、私のお股のVゾーンに冷たい衝撃が走りました。
 
ひぇっ…!
声にならない悲鳴が小さく出ました。
ジェルを塗られたようです。
股間にジェル…初めて塗られた…。
 
私が初体験とジェルの冷たさに震えているのも気にせずギャルは言いました。
 
「じゃあ光当ててきまーす。ちょーっと痛いかもしれませんよぉ〜。」
次の瞬間、電流の流れるような衝撃がお股のど真ん中に走りました。
 

バチン!

 
(痛ってぇ…)


バチン!

(痛ってぇ…!)
 

バチン!

(痛いっつーの!)
 
バチンは光が当たる音で、痛ってぇは私の心の声です。
 
この光照射の痛みがどれ位かと言葉で説明するのは難しいのですが、強いて言えば毛を毛抜きで抜こうとする時に誤って皮膚をつまんでそのまま引っ張られたというか、静電気の10倍くらいの衝撃波というか…
「我慢出来なくはないけど、結構痛い」という感じで1回、2回は耐えられるけど、続くとちょっと厳しいと私は思いました。
 
でもあんまり大げさに痛がるとギャルは光の量を調節して弱めるので、効果も低くなってしまいます。
なので、これから脱毛される方はそこは痛みと効果の兼ね合いを意識しつつ自己申告で痛さを伝えてみて下さい。
 
そして、施術は
「Vの上部」→「Vの真ん中ゾーン」→「Vのキワ」→「Iゾーン」→「Oゾーン」と進みました。
ちなみに問題の体位ですが、このような感じです。
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私は初回のOゾーンをやられる時が1番恥ずかしかったです。
でも、この恥ずかしさも施術がこれ以降も同じギャルだったせいか2回目からは嘘のように半減しました。
人間の羞恥心ていい加減なんですね!
 
このギャルはこの後、通ううちに「へそピが膿んでマジ臭くてやんなる。」とか「実はへそピに懲りず、いま乳首ピアスを検討している。」という大変プライベートなカミングアウトをして下さり、お互い恥の度合いで言ったらイーブンにしてくれたので大変良いギャルだと思いました。
しかもIゾーンの黒ずみには顔用美白クリームが効き、美白した方が脱毛効果が高まるという情報もくれたので、私はその日から股間に小林製薬のケシミンクリームを塗ってます。
 
あと、これをお読みの方で「桜島さん完全パ○パンになったの?」とお思いの方がいるかもしれませんが、
ご安心下さい。生えてます。(byとにかく明るい安村)
 
えーと、それはつまりこういう訳です。
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なんかもう、最初から絵で描けば早かったかもですね…。
 

全6回の脱毛を終えて

まぁ、そんなこんなで私は今月とうとう半年かけてこの全6回の脱毛コースを終えました。
そして、今現在股の毛のほうはどうなってるかというと…なんと
ワサワサ生えてます!
 
そう!
実は6回の光脱毛くらいでは、私はほっとんど効果は無かったんです!てへぺろ
 
やー、どうやらそれもそのはず、最初の6千円が「誘い水」だったのと同じで、実はエステ屋さんが本当に勧めたいのは更に一段お高いウン十万の「レーザー脱毛コース」だったようです。
つまり5万円のコースもレーザー脱毛への誘い水だったわけですね。
ちなみにレーザー脱毛は、高いけど効果はかなり確実で、1度当てた毛根は即死だそうです。
(でも痛みもハンパない。お試しで少しやられたけど、涙出ました。)
このお高いレーザー脱毛の説明は、通い始めて3回目以降からの施術中にジワジワとされます。
「もし、このコースで効果があんまり満足出来なかったらぁ、更に効果がある脱毛の種類があってぇ」という感じに。
 
私はもともと1回無毛になってみたかっただけで、そこまで完全無毛恥帯を目指していたわけじゃないのでお断りしました。
 
でももしまだお若くてこれから果敢に不特定多数の異性とぶつかっていこうという気概のある方なら、毎度いちいち手入れするより一気にレーザー脱毛やってみるのもいいんじゃないかと思います。
 
しかし、もしVIO脱毛検討中で「10万以下で邪魔な股間の毛とオサラバできる」と思ってる方がいたら「それだけじゃ多分無理っぽいよ。」ということだけは今回お伝えしたいです。
 
もちろん毛の濃い薄いは本当に個人差なので、薄めの方は5万円コースでも充分無くなるかもしれませんが、私は風呂屋とかで他の人と見比べる限りまぁ「標準範囲内のちょい濃いめ」くらいなので、そんな私が今回こんな感想だよ、ってのを参考にして下さい。
 
あと、特筆すべきなのは1度無毛時代をやると再び生え揃うまでの間に股間がマジックテープみたいになります。
なんつうか、5ミリくらい伸びた頃がまさにマジックテープ状態で、あんなに仲睦まじかっな陰毛とパンツなのに、陰毛がパンツに対して牙を剥くようになるんですよ。
それで脱ぎ履きの度にバリバリっとパンツに引っかかるようになってですね、パンツにしてみれば愛する陰毛からの突然のDVに「あンた…!前は優しかったじゃないのォ!なんで…なんで…!?」って感じですよ。本当可哀想ですよパンツ。
 
2人の仲を戻すにはまた私が全剃りするしかありませんが、私もそこまで2人のキューピッド役をやってられませんのでね、もう全剃りはしません。
 
所詮、30半ばの元ビッチにはイノセントお股は似合わないのです…。
悲しいけど、これからも元気な茂みを携えて生きていきます、私。
 
それにしても、今回5万円で私が得たものは、結局「Iゾーン&Oゾーンに毛が生えているのはポピュラーなこと」だという情報くらいでした。
しかし、それだけでも私は半分くらい満足してます。
なぜなら、女性同士ってお股を見せ合う機会が無いので、風呂屋で他人のお股を見る限りだと前面の濃さくらいは分かりますが、Iゾーン&Oゾーンは本当に謎ではないですか。
うまいことみんなが風呂屋で私の前でスッテンコロリンしてくれたら私も「今だ!」と思ってすかさず観ますけど、そんな機会現実で起きないし、他の人にも毛が生えてるか?私は平均的なのか?私は本当にずっと知りたかったんですよ。(ちなみにねんごろになった男に聞いてもたいていはお世辞を言うと思われるので信用できない)
 
でもギャルは言ってくれたんですよ。「私って、濃くないですか?」と不安がる私の股間を見て
「いや、マジで普通っすよ。本当に。」って。
ギャルは立場的には「濃い」って言った方が良い(私が脱毛したくなるはずだから)のに、そう言ったんですよ。
だから信用できます。
私、安心しました。
 

もしこれをお読みの貴女も「こんなところに毛が生えてるのって私だけ?」と不安だとしたら

安心して下さい、生えてます。(byとにかく明るい安村)

 

最後になりますが、これ一応今週のお題の「雨の日が楽しくなる方法」の記事なんですけど、なんでこの内容かと言うと、ギャルが私に言ったんですよ。

 
「ここの毛が無くなるとぉ、ほんと雨の日でもムレないから超快適なんですよねぇ」って。
私、もともと雨の日に股間がムレるなんて感じたこと無いんですけど(というか普段そんなに股間に意識を集中してないので分からないのかもしれない)とにかくギャルがVIO脱毛は雨の日を快適にするって言ってたんで…許して下さい!
 
長いわりに全然ライフハックじゃなかったかもしれません。やっぱり慣れないことは難しいですね。
 
ちなみにユリちゃんはお高いレーザーに切り替えて継続通院中だそうで、
「今度会う時見せてあげるね!」とLINEが来ましたが、1週間くらい既読スルーしてしまいました。
やっぱり女の子とお股を見せ合うのは恥ずかしいですよ…。
 
さて、この記事が1人でも多くの迷える女性のお役に立てますようにと願って筆をおきます。
 
では股〜
 
今週のお題「雨の日が楽しくなる方法」