限りなく透明に近いふつう

やさしい鬼です お菓子もあります お茶も沸かしてございます

タイトルをつけるほどでもない駄文

 

 

私の文章は長いらしい。
なにしろ私がはてなブログを始めて1番多い感想が「長い」だ。
これに対し、自分ではもっと長い文章のブログもよく読むし、自分なりにいつも削りに削っての長さなので「そんなに長いかなぁ」と思うのだけど、まぁ人それぞれ「ブログたるもの何千字以内がほどよい」というモノサシがあるのだろうし、長く感じる人には長いんだろうなぁと思っている。

ところで今日私が「ですます調」ではないのにお気づきだろうか。
私は普段ブログの文章をほとんど「ですます調」で書くことにしている。
これは、私はとかく読む人に向けて「説明」をするような話を書く傾向があるので「不特定多数の人に向けて何かを説明するのにタメ口は失礼だろう」という頭が自然と働きそうなっているのだけど、今回は特に説明することもなく、主張したいこともなくただダラダラなんか書いてみようという試みなので、あえてかしこまった「ですます調」を取り払い「である調」で書いてみたのである。

不思議なもので、私はふだんtwitterでは基本「ですます調」ではないのだけど、こうしてブログ編集画面で「ですます調」ではないのは非常にやりにくい、書きにくい。
なんだか、何を書いても偉そうにみえるというか、脳科学者か何かが自分に乗り移って書かされてるような変な気分になってくる。
これは新たな発見だ。
媒体が違うだけで、なぜ文体の変化に違和感を感じるのか謎だけども、そこは深く考えずに私は初志貫徹がわりと好きなので今回は頑張って「である調」で書き切ろうと思う。

さて、なんで今日はダラダラと書こうかと思ったかというと、一言で言うと「怖くなったから」だ。
何が「怖くなった」のかと言うとまず、この頃はてなブログになにか書くとおかげさまで、当初の私の予想をはるかに超える人数の方々に読んでもらえるようになった。
それはとても嬉しいのだけど、このままの調子でいくと私は浅ましい人間なので「読む人が多くなりそうな内容を」という心境が働き、どんどん書く内容に自分で制限を加えてしまいそうなのだ。

こんな事を書くと「誰もお前の書くものなんかに期待してねーよ」と言われるかもしれない。
確かにそれはそうなのだけど、私はこの頃なんとなく「女性差別を訴える的な事を書く人」と思われてる気が少していて、私のブログを読みに来てくれる方は主にそういう文章を読むことが目的なんじゃないかと思う事が増えたのだ。

というのも、twitterで私に「何かのリストに加えられましたよ」という通知が来るとたいてい「フェミの人」とか「ジェンダー」とかそういうリストなのだ。
この通知を見ると私は、世の中のそういう事を訴えてしっかり運動している方の端くれに私が追加されたということなのか?と思い、ありがたい反面「私なんかが…」という申し訳ない気持ちになる。

話は逸れるが良い機会なので書くと、正直、私は自分で自分がフェミ二ストなのか分からない。
そもそも横文字に疎いので、「桜島さんのようなフェミ二ストが増えればいい」と言われたとしても「フェミ二スト」というのの実態がどういうもので、何をもってしてそう名付けられるのかが分からずにいるので、素直に「フェミ二ストとして褒められる」事を受け入れることに今は慣れてないのだ。
私はただ、普段暮らしていて思った事をブログに書いてたら、それが女性の立場で「女性性の押し付けを嫌う訴え」だったり「一部の男尊女卑的考えの人への文句だったり」する内容のものが多くなっていて、それでいつの間にかその位置付けをしてくれる人が居たというだけで、自分では書きながらそれが「フェミ二ストとしての訴え」というつもりが無かったので、それに驚いたという感じだ。

もちろん、私が誰かに「あなたは立派なフェミ二ストですよ!」と言われたらそれは「そうなのかー」と思う。けして「私はフェミ二ストじゃない」と反発する気は無い。
逆に「あなたはフェミニズムをっちとも分かっちゃいない」と言われたらそれも「そうかもなぁ」と思う。

しかし、そういうリストに加えられるようになった今日この頃、それなら私もそれなりにフェミニズムを勉強しないといけないのかな、と思うようにはなってきた。なので、そこは私のこれからの課題だと思う。

「怖さ」の話に戻すと、つまり要約すると私は「私の書くものを毎回『女性差別うんぬん、一部の男性批判うんぬんの話だろう』という期待だけで読まれるようになったら、ちょっと怖いなと思っている。

もちろん「面白い何かが書いてあるはず」と期待されるのはかなり嬉しい。
でも、どうも私は「社会における女性差別うんぬん」を書くための経験のストックがそれなりにあるほうの人間で、そういうのを考えたり書いたりするほうが頭が冴え、文章に熱が宿り、熱が宿ると、そういう文章は沢山読まれ易い。
いわば「そういう文章を読みたい人が私のところに集まる&私はそういう文章を書きたくて書いてる人」状態なので需要と供給が合っているんだけど、それが合い過ぎていると怖くなることがあって、1つは近頃ブログを書こうとする時に「そういうテーマで次も書こう」と勝手に「自分でテーマを狭めてる自分」が怖いのだ。

「なにが怖いの?別に自分が書きたいなら同じテーマばかりでもいいんじゃ?」と思う人もいるだろうけど、私が思うに、趣味ブログとか何かのライフハックブログみたいなのはテーマが一貫していても差し支えないけど、私のような「女性差別うんぬん」の話だと少し違う気がする。
それはどういうことかと言うと、あまりにも私のブログ一覧が「そういう事関連の話」ばかりになると、初めて私の書いたものを読みに来た人が「なるほど、この人はいつもこういう話を書いてる。つまりこれはジェンダー意識が相当高い女性が書いたものだ。」と思われてしまうと思う。私が1番怖いのはそれなのだ。

私の1番怖いのは、私の文章を読んだ人に「まぁこの人は特別にジェンダー意識を強く持って生活してるからさ、こんな事まで考えてるけど、世の中の普通の女は、こんな事まで考えてないでしょ。」というふうに「普通の女」と「そうでない女」に分けられ「そうでない女の話」に思われてしまうことなのだ。

私のブログタイトルは「限りなく透明に近いふつう」である。
これはお分かりの方も多いと思うが、作家村上龍のデビュー作「限りなく透明に近いブルー」のもじりだ。
最後が「ふつう」なのは、ただの言葉遊びではなくて、実は私がいたって「ふつうに暮らしてる人間」だという主張がちょいと含まれている。
さらには、読む人に「あなたの隣にいる一見普通の女がこれを書いてる可能性」を少し意識して欲しいという願いもあった。

だから、私の文章を読みに来た人に、私の事を「毎日ジェンダー関連の本を読みあさり、そういう運動に参加して『女性の人権をー!』と声を上げて、男性とそこらで喧嘩して暮らす田嶋陽子的な人物」を想像されると困るのだ。田嶋陽子扱いが嫌なのではない。
「こういうことに声を上げるのはどうせ田嶋陽子的な女だろう」という決め付けをされるのが嫌なのだ。

私は確かに男性が読んで耳の痛い話を書きがちだ。
それでも私は普段ふつうに暮らしている。
男性ばかりのエレベーターに乗ってしまいなんとなくボタンを押す係に任命されてもそこで「女性がみんなエレベーターガールでは無いんですよ!」と主張するわけでもなく、ボタンを押す。
男性社員に「お茶ちょうだい」と言われれば「女はお茶汲み係じゃないよ!」と反発する事もなく、まぁ自分も飲みたかったら同僚のよしみで「はいよ」と2人分淹れてあげたりもしていた。
つまり、私は普段から周りの男性に文句を付けたりバチバチやりあってる人間ではない、一見したらふつうのその辺の女だ。
だから、私の文章を読んだ人の中の「耳の痛くなった男性」が「こういううるさい女もいるみたいだけど、俺の周りの普通の女はもっと素直だし、俺らの事を受け入れて暮らしてるもんね〜。」と思うのは間違いなのだ。
私は決して「異質な女」ではなく、あなたがエレベーターに乗った時におとなしくボタンを押してくれた「その辺の素直な女」にあなたがカウントしてるほうの女だ。

もちろん「読む人の心構え」を強制はできないのだけど、なるべく「どこかのうるさい女の話」ではなく「自分の身近な話」だと思って読んで欲しい。

私がいつも一部の男性へ批判的な事を書いて、ピンと来てくれるのは主に女性で「ピンと来る」というのはつまり女性の多くはわりとすんなり「本当にこういうことあるある」と思ってくれてるっぽい手応えがあるのだ。

それは私の書くことが比較的「女の人のほうが被害を受けやすい出来事」だからだと思う。「された身」だから「身に覚えのある話」としてその辺の普通に起きる出来事として捉えてくれてるように思う。


でも男性の中には自分がそういう批判対象の男性像と違えば「桜島さんの周りには酷い男がいるもんだ。」と、他人事というか、どこか違う世界の話に思われている事が多い気がする。
でも痴漢しかり、セクハラしかり、性差別しかり、目立ったものではない水面下の悪事は、された本人しか察知出来ず(した方すら無意識のこともあるからね)ましてまっとうな男性のような外野が日常生活を送っているその「ま隣」で起きていても、気が付かれなかったりする。
だから私が書く「女で生きててこんな目に遭いました話」は、身に覚えのない男性にとっては「女の人も大変だなぁ、かわいそうだなぁ、でも痴漢もセクハラも性差別もどこでそういうの起きてるんだろうなぁ」という、私にとっては「女性に比べてピンと来てはいない感想」に感じる。

そもそも私が女性うんぬんを書く理由は1つは、自分とおなじ目に遭った、遭ってる女の人に「我慢しないで」欲しいから。
嫌なことをされたのを、心の中で無かったことにして一人で耐えないで、「嫌だったら怒る」という選択肢もあるんだよ、と言いたいから。


2つ目の理由は悪事をせずにまっとうに生きてる男性に「ま隣」の悪事に気づいて欲しいから。
ちょっと前に、現実の知り合いの知人男性の中で優しい人が私に「俺も性差別とか許せない」「言ってることよくわかるよ」と言ってくれたことがあった。
でもそういう人でさえ、「自分が攻撃される立場」じゃないせいか、アンテナがすこし鈍いように思えた。
それはどうしてそう思ったかというと、その知人男性と電車に乗っている時に、目の前でどこかの上司らしき男性が若い部下の女子に「なんだ今日、彼氏の家から来たのか?じゃあ昨夜はお泊まりか?」という質問をしていたんだけど、私はこの上司の質問をすぐ「セクハラだなぁ」と思ったけどその知人はきょとんとして後から話しても「あれはただ聞いただけでしょ?」ということを言っていた。
これがアンテナの感度の差というか、私が「アンテナの強いうるさい細かい女」だから感じて、知人男性はアンテナが鈍いから「何事も起きてない」にカウントしているという状態で、これが日本のどこかしこでも起きてるから、いま男女でセクハラとか性差別の話が噛み合わないんじゃないかと思う。
だから、私はまっとうな男性に実例を読んでもらうことで、ちょっとアンテナが鋭くなると助かる、と思う。
私の書く話を、どこか違う世界の話ではなく、あなたの隣にいる友達が、同僚が、上司が、「もしかしたら桜島にこういうことを思わせた人かもしれない」と思って受け取って欲しい。

まっとうな男性ですでにアンテナ感度ビンビンの人もすでにいると思うけど、もっと増えてほしい。
そういう一部の「悪事を働く男性」は、女性にとってだけでなく、まっとうな男性にとっても迷惑な存在だと思うから。

 

というわけで、私が「特殊ではないふつうの女」だとなるべく思ってもらうためには、私の記事一覧は時に「飼っていた犬の話」や「最近行ったカフェの話」とか混ぜ込む必要があると思ったのだ。
でも、見返すと最近は立て続けに女性うんぬんのことを書いてるし、自分で勝手にテーマを絞ってるような気がして、今回はそんな自分を戒める為に「一回適当なことを書いてお茶を濁す必要がある」と思って、こんな感じの駄文を書いてみているのである。

面倒くさい。面倒くさい人間だ。私は本当に自分で嫌になるくらい自分が面倒くさい。でも仕方ない。
今この段階で5,000文字を超えた。もう「長い」だろう。
でも私の筆が乗るのはだいたい6000文字超えた辺りからだから、自分ではまだまだ全然書き足りない。
今回、「長くない」のを書こうという試みもしていたのだけど、5,000文字でこんなに満足出来ないとは思わなんだ。なので、8,000文字くらいまでは書くと思う。
ちなみに今回は推敲もしていない。自分への「戒めの為」だからだ。
「ちゃんとしたものだけを世に出したい」なんていう望みは捨てると、7月に決心したのに、いつの間にか読者が増えたらまた「ちゃんとしたもの」を書こうとしてる自分が嫌だ。
だから「ちゃんと推敲した文章じゃないのを書いて出してやれ!ざまーみろ自分!」という気持ちで今回は公開する。
それに付き合ってここまで読んでくれてる人がいたら謝りたい。すいません。こんな駄文に付き合わせてごめんなさい。情緒不安定か。

 

さて、ここからはお茶を濁すのが目的なので、思いついたことを書くとする。
私が前回書いた高校時代から20歳までバイトしていた先の店長のことだ。
彼の愚痴を書く。

ある時、彼は店を数日休んで旅行に行った。
どこだかは忘れたけど、とにかく彼はアルバイト全員にお土産を買ってきた。
その店のアルバイトは男子が5人くらいで、女子が8人くらいいた。
いずれも高校生から大学生、フリーターという若い面々だ。私は19歳くらいだったと思う。
彼は誇らしげに土産袋を開けると、お土産を配った。
その日いたバイトのメンバーは確か男子が2人、女子が3、4人くらいだったのだけど、女子へのお土産は全員、ご当地キティちゃんのキーホルダーだった。
私はキティちゃんが好きではない。
というか幼少の頃からあらゆるキャラクターものに一切の興味が無い。
だから全く嬉しく無かった。
他の女の子はきゃあきゃあと喜んだ。
彼女達も本心から嬉しかったのかは定かでは無いが、マナーだとしてもとにかく「嬉しそうに」していた。
でも私はなんだかその日ムシの居所が悪かったのかもしれないけど、全然「ふーん」という感じを隠さず露骨に出していた。
店長の彼はその時はあまり私の様子を気にせず、次に男子にお土産を配った。
男子へのお土産はビーフジャーキーと貝ひもだった。
店長は「2人で好きな方取れよ」と言って男子は「俺貝ひも〜」「じゃ、俺ジャーキー頂きます」と言ってそれぞれを手にした。

悔しかった。
私はビーフジャーキーが好きだ。口に入れるとはじめは硬いボール紙みたいな異物感なのに、噛むほどに柔らかくなって肉の味が滲み出て美味しいところが大好きだ。
私は女子だから貝ひもとビーフジャーキーを選択する余地すら与えられず、無条件でご当地キティちゃんを手にしなきゃならないことが悔しかった。
店長は旅先でお土産を選ぶ時になんで「女子はキティ、男子は何かしょっぱいお菓子系」と思ったんだろう。
これが「女子はキティ、男子は武田信玄のキーホルダー」とかなら、百歩譲ってわかる。
もしくは「ビーフジャーキーか貝ひもを全員の人数分」なら全然わかる。
選ぶのが面倒だったんだな、と思うことも出来る。
でも「女子はキティちゃんで男子はキティちゃんは嫌だろうから何か食べ物」と、男女で分けたところが、何故かその時は猛烈に悔しかった。

私が「ふーん」という顔をしていたら店長は「桜島は嬉しくなさそうだな」と、言った。
私は今ならマナーとして「貰ったものに不平を表さない」くらいのことは出来る。
でも、その頃は子供だった。
そして日頃の彼への不満もあったかもしらない。
気がついたら「私もジャーキーが良かったですよ」と言っていた。
彼は「なんだよ、お前キティちゃん嫌いなのか、可愛くないな笑」と鼻で笑った。
そして「社会に出たらな、こういう時は素直にありがとうと喜んで見せないと、可愛がられないぞ。こいつらを見ろ(喜んでる他の女子を指して)こういうのが男は嬉しいんだ。」と言った。

私は「ビーフジャーキーだったら素直に喜んだのになぁ」と思った。
あと、もう1つ思ったのは、
彼は普段バイトの女子がブランド物の話をしていると、(その頃、私以外の女子はブランド物の財布とかカバンに目がない子が多かった)
「お前ら、ブランド物なんてみんなが欲しがるから欲しいだけだろ?本当にアレを好きなのか?お前らの年でああいうもんが似合うと思うか?今からブランド物なんて追いかけてたらバカ女になるぞ」というような説教をしていたのだけど、その話と「女ならキティを喜ぶもの」と勝手に決めつけてるのは矛盾してるような気がした。
今思うと、お土産に不満気だったのは確かに私がとても悪い。

でも、彼の怒りは「お土産を喜んで見せないマナーの悪さ」に対してというよりも、自分が「女子はみんなキティちゃんやれば喜ぶだろうな」と読んだのに、私という女子の1人がその思惑から外れた事に怒っているように感じた。
彼は女子の「軒並みブランド物を欲しがる特性」は批判するのに女子に「軒並みキティちゃんを喜ぶ特性」は求めてるんだ、と思った。
それが矛盾に思えた。

この話にオチはない。
なんでこの話を書いたかと言うと、今私はガソリンスタンド併設のドトールでこの文章を書いていて、店に入る前に給油をしたらドトールの店員であるおじさんが走ってきて、私になんとかカードの入会を勧めてきたくだりが関係している。

おじさんにカードを勧められた私が即答で「いやぁいりません」と断ったら、おじさんは「ウーン…」と悩んで見せて、その後「じゃっ、今ならキティちゃんの貯金箱あげますよ!」と満面の笑みで言った。
その言い方は「これでどうだ!」みたいな「これならいいでしょ!」みたいな、さもキティちゃんの貯金箱が良いもので、「これなら落ちる!」と確信しているかのような言い方だった。

そして私が「いや…そんなに欲しくないですね…はい」と言ったらおじさんは「えっ?なんで?この世にキティちゃんでグラつかないおなごがいるとは…!」みたいな顔で「そうですか?非売品なんですよ?本当に?」と言った。

私が「すいません、いりません」と断るとおじさんはさらに「じゃあ特別にキティちゃんのボックスティッシュも付けますよ」と言ってきて、「そういうことではない…」と思ったけど、また断ったらさすがにおじさんは諦めた。

それで店に入ってから私は「なんか前にもこんなような事あったな…」と思ってたら、バイト先のことを思い出したので書いたまでだ。

おじさんにとってそれまで「女性客へのキティちゃんアピール効果は絶大」だったんだろう。
みんないい女の人で「えっ、キティちゃんの貯金箱?わー欲し〜い!うーん、それならカード作ろうかしら〜」くらいのリアクションを本心か小芝居かで、してくれたのかもしれない。
でも、私は出来ないよ…。
欲しくないもん、キティちゃんの貯金箱…。
後ろ頭に横長の穴の空いたキティちゃん状の置き物を持って帰るのは、カードを作る面倒がチャラになるご褒美どころか、不用品回収だもん…。
おじさんの仕事っぷりに敬意を払い「そんなガラクタ貰っても困る〜」と本心は言わなかっただけで、素直に引き下がって欲しかった。
まさかキティ度数を上げるべくキティティッシュを付けようとしてくれるとは…。

それでも私は「気にしい」なので、今さっきおじさんの期待通りのリアクションをしてあげなかった事をちょっと不親切だったかな、と反省している。
でも、私がキティを欲しがらないことでおじさんの中に「キティが嬉しくないおなごもいる」という新常識が根付く事を願ってもいる。

ついでにお得意の「話を広げる」をやらせてもらうと、
世の中の「おなごたるもの、コレに飛びつく」という概念のある人々には「おなご」は「1人1人好みも思考も違う個々の特性を持った生き物だから、男子にビーフジャーキーと貝ひもの選択肢が初めから与えられてるように、すんなりとおなごにも数々の選択肢が許される頭を持って接して欲しい」と願っている。

あら!?今回も結局そういう話?ということになってしまったが、もうこういう思考回路が染みついているのかもしれない私。

というわけで、約束の8000文字を少しオーバーしたのでダラダラした話をやめさせてもらう。
ああ、やっぱり「である調」は偉そうだよ…。すいません。
次回からはまたいつもの調子で書くのでお付き合い下さる方はどうぞよろしくお願いします。
それではまた。

 

 

痴漢被害女性の話はなぜ「自慢」と言われるのか?

 

 

はじめに

話題になっている田房永子さんのコラム、私も読みました。
田房さんのコラムは毎回反響が大きく、やはり今回も多くの女性による「その通り。よく言い表してくれました!」というような賛同の声と、逆に「フェミ女の被害妄想が!」と批判するような声の賛否両論あるようでした。

今回のコラムに対して私も色々と思うところはありましたが、その内容に関してはすでに色々な方が文章を書いていますので、私はもう控えることにして、私はあのコラムにまつわる全体の流れを眺めていたらなんだか「なぜ痴漢被害女性の話は、とかく『うるせぇブス』と叩かれがちなんだろうなぁ?」ということについて考えてしまったので、それについて今回はちょっと書こうと思います。
(なお、今回は本来今月書いていた話を中断してこちらを書くので「取り急ぎ」の乱文になるかもしれません。分かりにくい箇所があったらご容赦下さい。)

私がなぜ「痴漢被害女性の書く文章はこうも批判されがちなんだろう?」と疑問に思ったかと言うと、1つは田房さんのコラム以外にもこれまで色々な女性が書いた痴漢やセクハラのような性被害を訴えた文章には必ずと言っていいほどコメント欄に暴言的なコメントが残されていたからです。
「痴漢されたと騒ぐ女はたいてい自意識過剰なんだよ。」とか「痴漢された話を自分からする神経って何なの?自慢?」とかですね。

今回の田房さんのコラムにも、Twitterでその話題になっている発言を辿っていくとやはり似たような暴言はありました。
私はこういうコメントを見ると、こういう暴言を書く人の心境が分からず「どうして赤の他人の被害体験を読み、気に入らないなら無言で去ればいいのに、わざわざ傷付くような事をサラリと書くんだろう?」と不思議に思っていました。それは腹立たしいというより、本当に「なんで?」という疑問です。

私自身も以前からこのブログで書いているように、痴漢に遭う経験は過去多くありました。
そして、現実社会で「痴漢された」と話すと、そこまで露骨に「自慢?」とか「被害妄想でしょ」とは聞かれないまでも、こちらが「アレ?」と思うような反応をされる事が時々ありました。

そういった意味では「ネット上でよく見かける痴漢被害女性の声につく暴言コメント」と私が実際に痴漢経験を話して言われた「アレ?」となる言葉達は、どちらも「なんで被害経験についてそんな事を言われるのかな?」と疑問に思う部分が共通しています。

なので私は今回改めて、なぜ痴漢被害女性の声が一部の人にとって「被害妄想」や「自慢」に聞こえてしまうのか?ということについて考えてみます。
もし私と同じように疑問に思っていた方がいましたら良ければお付き合いください。

 

私が「アレ?」と思った反応

私は今はネット上で過去の痴漢経験をまじえた文章を書いたりしていますが、現実の生活の中ではここ10数年間そういう話を身近な人にすることは滅多にありませんでした。
その理由を簡単に言うと、痴漢経験を話した相手の反応に「アレ?」と思う事に疲れたからです。
私が痴漢経験を、何の気なしに人に話していたのは20代前半の頃までです。その頃の私はまだ若くて、「人に話すことの怖さ」を知りませんでした。
だから単純に痴漢に遭った直後や、グループで話題が痴漢の話になった時に、普通に「私もこんな事があったよ」と話していました。
今思うと、痴漢経験を話す時の私がどういう気持ちで話し、相手にどういう反応を求めていたのかというと(当時はそんな意識なく話してましたが)たぶん単純に「話すことで憂さ晴らししたい。」というのと「共感されることで癒されたい。の2つだったのだと思います。
そして、話した相手も「そう受け取ってくれるだろう」と思っていました。

しかし、現実はそういうものではありませんでした。
私が覚えている「アレ?」な反応を書く前に、まずは先に私の高校時代の痴漢経験がどういうものだったかを書きます。

私の高校の制服は少し変わったデザインで、一言で言うなら「萌え系アニメに出てくるような」制服でした。
そのせいもあるのか、周りにも「痴漢された」という女生徒が多かったです。
痴漢というと電車を連想する方が多いかと思いますが、私は自転車通学をしていましたが、痴漢によく遭いました。
通学路で後ろから低速で車に後を尾けられるのは日常茶飯事で、それも1人の時じゃなくとも、朝からでも、あることでした。
高校に入ってその細い小道である通学路を使うようになって、はじめの何度かは、延々と車にノロノロ運転(自転車を追い抜かない速度)で後をずっと尾けられても「車にとっては抜け道なんだろうな。自転車が邪魔で追い越せないんだな。」と思っていました。
しかし、そういう低速尾行車の半分くらいは、こちらが一旦道の脇に自転車を止めて先に行かせても、100mほど先で停車していて結局またこちらが追い越すことになり、しばらくしてまたこちらが止まって車に追い抜いてもらい、それを繰り返しながら大通りに出るまで3kmくらいノロノロと追いかけっこを繰り返すという具合でした。
私ははじめの何度かは、このような車の動向の意味が分からなかったのですが、数回目の時に停車している車の横を通りながらふと運転席を見ると、運転手の男性は股間に手をやり上下に動かしていたのです。
その瞬間、ゾッとするのと同時に「なるほど」と思いました。
ようするに怪しい車の運転手はそういう目的の為にいつも通学路を使っていたんですね。


謎が解けたと同時にそこから私の痴漢被害ライフは始まりました。
残念ながら私の住む街は小田舎なので道を変えても、そんな細い道はどこでもあり、大通りだけでは学校に行けず、どの小道にもそうした怪しい車はいました。常連の車もいましたし、1度きりの車もいましたし、数ヶ月おきの周期的に現れる車もいました。

正確な刑法では、このような「低速尾行だけ」は「痴漢」と見なさないのかもしれません。でも、こうしたノロノロ車のうちの半分くらいは「なにか」をしてきました。

ノロノロと自転車の横に来てクラクションを鳴らしてわざと裸の陰部を見せて走り去ったり、車窓から「道を聞きたいんですが」と声をかけられ、膝に地図を広げた男性の地図をよく見ると器用にまぁるく地図に穴を開けて「こんにちは」といわんばかりにモノを突起させて無表情で道の話をする男性がいたり、つまりそういうノロノロ車に尾けられている段階では事が起きるか起きないかは起きてみるまで分からなくて、その数十分間の怖さは「事が起きる時も未遂の時も同じ」なので、私の中で「低速で長距離を尾けてくる車=痴漢と同じ怖さ」にカウントしてしまいます。

ちなみに大人になって自分が車を運転をするようになって新たに分かったのは、本当に細い道だと脇に退避スペースが現れるまで仕方なく自転車をノロノロ追う形になる時がたしかにあるのですが、その時の運転席からの眺めって、なんというか実に視覚的に「狩り」っぽい気がするんですよね。

自転車に乗っている人は別にこちらから逃げてるわけじゃなく、ただのその人の進行方向なのに、なんとなく「私が追いかけるので、この自転車が逃げてる途中」みたいな感覚に陥るんです。

大きさ的にも「大きな車で細っこい自転車を追う」感じが「自分が大きな動物で、小さな獲物を追ってる状況」に錯覚しやすい感じ。

私はそういう時「あ~急がなくてもいいですよ~すいませんね~。」と申し訳なくなり心で謝ってるのですが、可虐心の強い人にとってはこの状況は楽しめるものになるんじゃないかと思います。

だから私の通学路にあんな頻繁に怪しい車がいたのは、そういう車の運転手達が、接触はしてこなくても「目の保養」くらいの気持ちで気軽に通学路に現れて気が済むまでその眺めを楽しんでいたからじゃないかと、推測ですが思います。


あと、高校時代には、他にも「痴漢にカウントするのか」が、いまだに謎な経験が多々ありました。
制服でコンビニのトイレに入ろうとすると、トイレ入り口の狭い空間でぶつかるように体を滑り込ませてくる男性がいたり、電車に乗ると隣の男性が腕組みをしながら居眠りをしていて、その握りこぶしがさりげなくグイグイ押してきているような事はよくあり、こういうのは「痴漢なのかそうじゃないのか非常にグレー」なのですがハッキリと「痴漢された!」と思う経験より、こういう「グレー経験」の方がとても多く、当時は慣れてしまい普通のことのように思っていました。

でも制服を着なくなると格段にそういうグレー経験は減ったので、今思えばそれらも、そういう事をする男性が「女子高生」の私にセーフな範囲での接触を試みた行為だったのかなと思えてきます。

私の高校時代の痴漢経験は、こうしたグレーのも含めて「痴漢経験」とみなすのならば痴漢は週3回はあることで、登校時&下校時と1日に2回遭うこともありました。書いてないケースもあといくつかありますが省きます。


さて、それで痴漢経験を話した時の「アレ?」と思った相手の反応というのは、まさに学校帰りにそういう車の運転手の1人に陰部を見せられた時の後の事です。

その日は下校後すぐバイトの予定だったので、私はバイト先に着くと思わずバイト先の店長(40代のおじさん)やバイト仲間に「今、そこで痴漢に遭ったわ~」と話しました。
私が事の詳細を話すと、同じ通学路を使っていて女子高生である数人のバイト仲間は「あの道?あそこ特にひどいよね!」とか「こわいね~ヤダ~」というような反応でしたが、店長はひとしきり女の子達が話を終えるまでニヤニヤしながら聞いた後に「そんなの、握りっ潰しちまえばよかったんだよ(笑)」と笑いました。
私は「は?」と思いました。
店長にとっては冗談なのでしょうが、なんで「仕返しの方法」が「見せられるだけで不快なモノに触って握る」なの?と、その発想は本当に訳が分かりませんでした。
女の子達は店長の発言に対し「ヤダ~」「きも~い」とキャアキャア言いましたが、店長はそのキャアキャアさえ嬉しいというような満足気な表情で、さらに桜島みたいな女っ気のないのでも、そういう目にあうんだなぁ(笑)」と言ってきました。
私はショートヘアで、顔も地味で、自分でも確かに「女性性」とか「美少女」という要素が全くない自覚があったので、「確かにそれはそうだけど…」と思ったのですが、店長の言葉に「え、こんな反応あるんだ…」という感じで、その時はショックまではいかないものの「思ってたのと違う反応だ」ということに、モヤモヤしました。
そして、こういう風に私が「アレ?」となる反応は他にもありました。

登校時に車に尾けられ、車を撒くために大通りに迂回していたら学校に遅刻してしまった時は、教育指導の男性教師に「なんで遅れたんだ?」と聞かれたので私は「変な車に追いかけられて逃げてたので…」と言いました。すると教師は即答で「お前がそんな短いスカートを履いてるからだ」と言い、その後に「…で?何かされたのか?」と聞かれました。
その時の男性教師の目には、ただの「聴き取り調査のため」とは違う、彼の「内なる好奇心」みたいなものが感じられました。
これこそ「それはお前の邪推だろ!」と言われればそうかもしれませんし、教師の思惑がどうだったのかなんて本人以外にはわからないのですが、店長のニヤニヤも男性教師の「…で?」の言い方のニュアンスも、対面した私が「アレ?これは慰めとは違う何かだ。」と思ったのですから「そう感じた」と書かせてもらいます。
また、これは話す相手が男性に限って起こることではなく、女性同士と思って油断して痴漢話をすると「それだけ魅力的って事だと思えばいいじゃないの~」とか「女は狙われるうちが華よ~」という「なにそれ?」な反応が返ってくる事もありました。
「赤の他人にむやみに性的興奮材料にされたことを、どうして好意的に受け止められるの?この人は自分がされてもそう思って来たの?」と私はまた「慰めとは違う反応をされた」ということが不思議に思えました。

そういう、痴漢経験を話した時に相手に「なんか変なこと言われた。」と思う回数は、歳を重ねると徐々にたまっていきました。

当時は若かったので、自分の感じたその「何か変な感じに受け取られてる。」の正体がなんなのか分からなかったのですが、すごく後になって(20代前半くらいに)それを表す言葉がいわゆる「セカンドレイプ」だと知りました。

私が無邪気に痴漢被害経験を話す時、それが聞く人に寄っては「同情」や「いたわり」の心を産むものではなく『「性的刺激を誘うエンターテイメント」のようなものになってしまう事や、「若さ・魅力自慢」に取られてしまう事がある。』
そのことを知って初めて私は「人に話すことの怖さ」を知りました。


しかし他人がそれぞれ人の話に対して「何を思いどう反応するか」を強制することはもちろん出来ません。
痴漢経験を話した相手が、私の思った通りに「憂さ晴らしをただ無心で受け止めて」くれたり「可哀想に思って慰めて」くれなくても、それは仕方がないことなのです。
私は自分の望む反応だけを他人に期待する私のほうが間違いなのだと気がつきました。
それで私はそれ以降、現実の生活では痴漢経験を話すことは滅多にしなくなりました。
痴漢経験を話して「この人には、なんか違う受け取られ方をされた」と思うことは、痴漢被害そのものよりレベルは低くても、小さく心が傷付くことだからです。
小さな心傷も溜まれば心がやさぐれますから、私はその心傷を増やしてまで人に話す事じゃないと自分で判断しました。

今の私が文章で痴漢経験を書く理由

そういった訳で私はここ10数年間は現実でもネット上でも自分の痴漢経験を語る事はなるべく避けてきました。
しかし、自分もブログを始め、ネット上で他の女性達の痴漢経験の話を読む機会が増えるようになると、自分の痴漢被害のピークは過ぎたものの現時点で被害のピークにあたる年齢の子達が可哀想に思えてきました。

それがどういう事かというと、私の高校生時代はネットが無かったので、身の回りに情報が少なくて、そもそも自分がされてる事が「痴漢」なのか何なのかすら分からず、グレーな事にはそのつど「嫌だったけど、わざとじゃないのかもしれないし…」と良い方に考えれば、世の中がそんなに悪い男性ばかりじゃないと思えました。
明確な痴漢は居ても、それはごく一部の人で、グレーな事をしてきた人には「シロ」だと思い込むことが出来たのです。
また、今に比べて世の中に「女子高生」を性的視点で見ることがまだ一応「いけないもの」という認識があったように思うので、私は世の中の男性に対して希望を持つことが出来ていました。

それが、今はネットで簡単に「JKにこんなことしてやった」とか「電車でJKの髪の毛の匂い嗅いだった」というような、明らかに「性的興奮を得るためにグレーな事に及んでいる」成人男性の自白を読むことが出来てしまいます。
また、コンビニでも女子高生ものの成人向け雑誌があったり、バナー広告も制服を着た少女の姿が溢れていたり、それらの大人による『女子高生は俺らにとって充分性対象ですよ』という事実を女子高生自身に突きつけるものが、昔より当たり前のように世の中に溢れてしまっています。
これでは今の女子高生にとって「グレー」をシロと思い込むことはとても難しく、この中で時に実際にグレーな事をされ、時に明らかな痴漢をされていたら、女子高生が世の中の男性を「シロ」と思う材料が少な過ぎて、男性全体に希望が持てなくなってしまうんじゃないかと思うのです。

「世の中には善良で素晴らしい男性がいるという事実」は、本来なら女の子自身が良い恋愛経験をしたり、良い対人関係を築きながら徐々に各々の人生で知っていく事だと思います。
そしてそれは、わずかにでも女の子自身に「異性への希望」がないと、まず異性との一般的な対人関係を作る事すら難しいのです。

それなのまだろくに社会に出ておらず異性に対する希望が未確定の幼い少女のうちに「クロ」の経験ばかりを積まされる今の女子高生達は、本来なら順当に築いていけるはずだった男性に対する希望の芽を摘まれ、しかもそれは「どこかの誰かの一時の性的満足を得る為の道具にされた結果そうなってしまう」というのでは、あまりにも可哀想だなと私は思うわけです。

なので、昨今の「幼い少女を大人が性的視点で露骨に見る習慣や、あまつさえ実際に性対象として接近して何らかの痴漢行為を働くことが頻繁に起きる社会」は、今後の世の中に男性不信や男性嫌悪の女性を新たにどんどん作っていく事態だと思います。
これは、女性にとって悲しいばかりでなく男性にとっても悲しい未来だと思います。
若い頃に性的な被害を受けるとその心の傷は、少女にとって一生ものの男性不信を植え付けることになりかねません。
女子高生に対して痴漢や、それに近いグレー行為をギリギリで楽しんでいる男性にとっての女子高生は、「一時の快楽の為の道具」かもしれません。
でも、どの女の子も心を持った、その先の一生を明るく過ごす権利のある人間なんです。


「女子高生可愛いな~俺は女子高生好きだな~」と思うなら、どうかその彼女達を性的な道具ではなく、人として尊重して欲しいです。

というわけで、私はこんなような事を言う時に、この想いが自分の経験からの願いだという事に説得力が少しでも増すために、ここ最近は自分の痴漢経験をネット上では書くようになったのです。
男性が女子高生をそういう目で見る事に対して批判的になるのは、けして「ババアは男が若い女を追いかけると自分が見向きされないからって批判してんだ」ではないのです。

なぜ痴漢経験談は自慢だと思われてしまうのか?

さて、ここからまた本来の疑問に戻ります。
さきほど私は、過去に気軽に痴漢経験を話していた頃、好奇心から状況を根掘り葉掘り聞かれたり、なんだか謎のアドバイスをされたり「女にとって勲章でしょ」と言われたり、とにかく私の思惑通りに「痴漢経験が辛いものだった」という受け止められ方をされなかったことが不思議だったという話を書きました。

このたび改めて、暴力的なコメントをする人の心境も含めて「なんであの人達にこの辛さが伝わらなかったんだろう?」と考えてみたのですが、ひとつ思ったのは、そういう伝わらない人達が「そもそも痴漢に対して大きな勘違いをしている」可能性です

それは、どういう勘違いかと言うと「痴漢=男性から見てそそる女に対して行なわれる行為」だという思い込みです。
これは確かに、完全なる間違いではないのですが、私からすると「そうとは言い切れないんだよな…」という部分があります。

もちろん単純に、お婆さんとかいかにもオバちゃんオバちゃんした中年女性がほとんど痴漢されないことから分かるように、「ある程度の容姿、年齢」がクリアしてないと痴漢は起きないという事実はあります。
だからこそ「痴漢=それなりのリスクをかけて挑むからにはそれに見あう獲物を狙う」という一般的な人の考え方が成り立つのだと思いますが、しかし、それよりももっと深いところに痴漢本人と、被害者女性にしか知りえない「真実」があります。

それは、痴漢行為をする人にとって獲物に対して重要な条件は「女としてそそる・そそらない」ではないことです。

では何が最重要条件なのかということについては後で詳しく書きますが、
私は自分が痴漢されるようになった当初は、他の人と同じように「やっぱり可愛い子とか綺麗な子を狙うんだろうな」と思っていたので、実際痴漢に遭遇してみて「痴漢はなんで私のようなボーイッシュな女に??」と思いました。
その頃の私の中にあった「痴漢をされる女の人」というのは、志村けんが変なおじさんのコントで最初に近づいて行き「何この人~?きゃあ~」と言う役のあの、2人くらいのボディコンでワンレンの女の人のイメージでした。
つまり男の人が痴漢したくなるのは「髪の長い、スタイルの良い、可愛い綺麗なお姉さん」だと思っていたのです
なので、女性としてまだ体裁の整っていないちんちくりんな自分がそのお姉さん役に配役された事が「???」でしかありませんでした。

多分、店長がニヤニヤしていたのも「お前みたいなのも狙われるんだなぁ」も、この「変な配役」に対しての率直な感想だったのだと思います。
また、高校教師が私に事情聴取した時にどこか「好奇心」が見えたのも、こういう「いかにもそそる」ではないただの女生徒にそそられた痴漢の心理について「どれどれ、痴漢の男はこの女生徒のどこにそそられたっていうんだ?」という目で私を検分しようとした結果なのではないかと思いました。
さらに、歳上の女性が「魅力的ってことよ。」などと言ったのも、まさに「あなたも男性から見てそそる女の役が回ってくる年頃になったのよ。(でもそんな事を自慢できるのは今だけよ)」という意味だったのかなと思います。

このように「痴漢された=そそるイイ女認定」だと思っている人達には、いくら痴漢が辛かったと訴えても、通じません。

なぜなら彼らは痴漢の真実を知らないので、「辛かった」という目の前の女の言葉よりも、古来からの思い込み「そうは言っても所詮、人間とは異性に欲情されることは嬉しいものである。そそる女しか男は相手にしないものである。」という一般常識のほうが信じやすいからです。
だから辛さの訴えを受け止めるよりも「でもちょっとは嬉しいんでしょ?だから結局自慢なんでしょ?」という感想を持たれてしまうのではないか、と私なりに答えを出しました。
うまく説明出来たかわかりませんし、私なりの解釈なのですが、痴漢経験談に対して「痴漢の話して何がしたいの?自慢なの?」と本当に疑問に思う人が1人でも納得できて、今後「ただ受け止めたり、慰めたり出来る側」にまわってくれたら幸いです。

 

痴漢が獲物を定める時の第一条件とは?

 では先ほど後回しにした「痴漢にとって獲物にする女性の最重要条件がなんなのか?」ということが残っていますのでそれについて書きます。

私は高校生になって、自分のようなそそらない女でもなぜか痴漢をされるという事を嫌というほど思い知り「そそる・そそらない」があまり関係ないという所は身をもって実感しました。
では「そそる、そそらない」より痴漢にとってさらに重要なものがなんなのか?考えたのですが、おそらくそれは

保身です。

私がこの事を分かるようになったのは、もう大人になってからでした。
大人になって、周りの色々な男性を見ていると、男性にとって社会的地位がどれほど大切なものか分かりました。
そして、痴漢は犯罪なので捕まれば社会的地位を失う大変リスクの高い行為です。
私は痴漢をしたい男性は、もしかしたらその社会的地位をかけた「賭け」のようなスリルすら、性的興奮に加味して楽しんでいるのではないか、と思いました。
そして多くのギャンブル依存者が、あまり一点買いの大穴狙いをせず、長くギャンブル生活を続けるためにある程度頭を使って「手堅いところ」を攻めるのと同じ心理で、痴漢をする人も、きっと「手堅い獲物」を狙うのです。
だから、痴漢にとっての獲物の最優先条件はズバリ「捕まらないこと」=「騒ぎそうもない獲物であること」なんだと思います。

そして、それをクリアしていてなおかつ女子高生が好きな男性にとっては「制服を着ていること」が第2条件に来るんです。
彼らは恐らく女子高生1人1人を人間とは思っていないので「制服」という記号を身につけた女の子であれば、本当に著しく見てくれが悪くない限りは狙います。
ブスでも地味でも髪が短くても色黒でも運動部でも、狙います。特に細めで小さい子ならなおのこと狙います。
もちろん、その中でもより可愛い子のほうが望ましいのでしょうが、可愛い子は「どこかギャルっぽい要素がある子」だったり「世慣れしていそうな子」だったりして「騒ぎそうもない」という条件を満たさない事が多いです。

普通の一般的な感覚なら、「どうせ危険を冒してまで触るなら可愛い子に決まってんだろ」なのですが、痴漢はその「危険を冒して」の危険値を最大限まで落としたいのです。
だから分かりやすく言うと、女子高生であるという条件を満たしてさえいれば、その中で「可愛い」という贅沢オプションを付けるより「騒ぎそうもない」という安全オプションを付けたがるのです。
痴漢は「そそるそそらない」より「安全第一」なのです。

そう思うと痴漢をする人は、自分は見知らぬ女の子の人生に一生ものの傷をつける行為をしながら、自分の人生は守りたいという本当に本当に卑劣極まりない神経の持ち主だと思います

 

これは全部私の憶測ですから「一理ある」と思い、信じたい人が信じてくれればいいです。
ただ、女の子で「私なんて痴漢に狙われないよ~」と思って無用心に生活している子には親心で「ちゃんと気をつけて!」と言いたいです。
私も本当に自分が狙われるなんて思ってなかったのに被害はあったし、周りの痴漢被害者の子も結構みんなはじめはそういう「私なんて平気でしょ」という油断から、夜道を一人歩きしたりして被害に遭ってます。

あなたは「私なんてブスだし、周りにもっと可愛い子いっぱいいるし…」と思ってても、大人になった私から見ると女学生って若い女の子って、本当にそれだけで全員とてもとても可愛いものなんです。全員じゅうぶん気をつけて貰いたいです。
もちろん気をつけない女の子が悪いのではなく、悪いのは当然痴漢をする大人なのだけど、そういうことを用心しないで済む理想の社会にはまだまだ現実は追いついてないので、仕方ないけど頑張って自衛して下さい。

 

最後に

というわけで、初心に戻りまして、まとめます。
今回は「なぜ痴漢被害女性の話は、こうも『うるせぇブス』と叩かれがちなのか?」という疑問に始まったのですが、その答えを端的に言うならば
『痴漢経験者と未経験では「痴漢の獲物になる女性像」に違いがあるから』ということになりますかね。
未経験者が痴漢経験談を聞く時「やれやれ、またどっかのクソブスが少しの事を痴漢されたと騒いで、自分がモテるって言いたいわけ?」と思うのは「クソブスが狙われないと思っているのと、狙われるのは女にとってありがたいこと」だと思っているからだと思います。

本当はクソブスでも「弱そう」なら狙われますし、痴漢に狙われるのは女にとってありがたくもなく、一時の性的興奮材料として認定されるという人として最も屈辱的な事です。
そこは本当に多分、痴漢に遭った女性のほとんどが「屈辱的」と感じていると思います。

女性の中で、たまたま周りに酷い男性ばかりの環境にいたり、性被害の経験があったりして、世の中男性全部が不信で男性嫌悪の人がいますが、男性にも同じように女性に対して「いつも悪いのは男だって顔しやがって。」みたいに、女性全体を嫌悪する人がいます。

 

私はみんな仲良く幸せにくらせる社会を望んでますけども、そういう人たちにまで「まぁまぁあなた方仲良くしなさいな」とは思いません。

その人たちはおのおの異性から酷いことをされて、異性全体に対する恨みが一生消えないほどに残っているわけなので、それを他人が簡単に「もう水に流した方が楽だよ」なんて言うのはその人の傷を「こんなの浅い浅い!」と軽視している行為だと思うからです。

酷いことをされた人の心に一生消えない恨みが残るのは人の気持ちとして理解できるので「和解しなさいなー」なんて私は思わないんです。

ただ、いくら恨んでも恨まれても互いに人間ですから寿命まではおなじ世の中に生きていくわけです。なので、せめて「関わらないで」生きていけばいいと思います。

だから「何を聞いても女の話はムカつくんだよ」というような男性は、今後誰かの痴漢経験談を見たり聞いたりしたら「慰めてあげたり」とか「肯定的な事を言ってあげたり」なんて願わないので、せめて「黙って立ち去ってあげて」欲しいです。お願いします。

今回、痴漢について女性側からの意見をつらつらと書くことで「被害話ばかりで、痴漢冤罪についてどう思うんだ?」みたいな事言われるのかなーとも思うのですが、それは私が書くことではなく、痴漢冤罪被害について思うところのある人が書くべきことだと思います。
私は痴漢に限らず「冤罪」は、まぁ許せません。
でも、痴漢被害の話をする時に「そうは言っても冤罪被害だって多い!」という言葉で痴漢被害の話をかき消されるのを見かけると「その話は違う話だよ。」と思います。
世の中には痴漢冤罪被害もあるし、痴漢被害もあります。
2つは全く別の話だから話す時は分けて話そうよ、という感じです。
今回私から出来るのは痴漢被害談の話です。

私はこれからも現実生活では多分こういう話をしないと思います。
誰が「自慢?」という反応をするか分からなくて、身近な人にそれをされる時の失望感が怖くていまだにそれは出来ません。
それでも、ネットにこういう文章を書くのは、まぁこれを読んで多少誰がが納得したり慰められたりすればいいかなという気持ちからです。

特に既に若い女の子で男性に痴漢や性暴力をされて「男の人が怖い、嫌い」と思ってしまっている子に、私は「全部の男の人が悪い人じゃないからどうか希望は捨てないでね。」と伝えたいです。

ついた傷が深いとなかなかそう思えないかもしれないけど、どうか希望を持って生きて欲しいと、元女子高生だった女が今の女子高生に思います。

あと、これを読んで改心するような人は初めから痴漢などしないと思うのですが、それでも痴漢予備軍というか「もし機会があれば…」なんて思ってる男性がいたら思い改めて下さい。

本当にやめろ。


「ちょっと」と言っておいてまた長くなってしまいましたが、最後までお読み頂いた方、どうもありがとうございました。

 

コンビニと成人向け雑誌と私

はじめに

ことの発端は以前コンビニのバイト中に起きた小さな出来事がきっかけでした。まずはその日の出来事から。
 
ある日の午後
「トイレ貸して下さ〜い」
そう言いながら40代くらいのお母さんが5歳くらいの女の子を連れて、来店しました。
私が「どうぞ〜」と言うと母娘はスタスタとトイレに向かいました。
しかし、あいにくトイレは前の客が使用中で、母娘はトイレ前に並びました。
 
さて皆様もお気付きかと思いますが、たいていのコンビニはトイレ前もしくはATMの横などの「雑誌コーナーの端」にエロ本棚があり、うちの店もトイレ前に成人向け雑誌棚があります。
私がレジからなんとなしに母娘の様子を眺めていると、娘さんが脇にあるエロ本棚を見上げました。 
すると、お母さんはすぐそれに気が付き、さりげなーく身体の向きを変えて娘さんとエロ本棚の前に立ちはだかりました。そして、
「ほらミナちゃん!花火あるよ花火!」
と言って、エロ本棚の反対側にある花火コーナーの方に娘ミナちゃんの視線を誘導しました。
ミナちゃんは振り返るとすぐ色とりどりの花火に目を輝かせ、その中の一つを手に取り「これ買うのぉ〜」と言い出しました。
お母さんは一瞬「そうきたか」みたいな困った表情をしましたが、その時ちょうどトイレから人が出てきたので、すかさず「あっ、ミナちゃんおトイレ空いたよ!トイレ行こう!」とミナちゃんの手を引きました。
しかしミナちゃんにしてみれば「は?お前が花火見ろっつったんじゃん。」ですから「やだぁ〜花火買うのぉ〜」とダダをこねはじめました。
結局母娘は「買うの〜!」「買わないよ!」のラリーを2、3回繰り返した後、お母さんがとうとう力技でミナちゃんをその場から引き剥がしトイレに連れ込みました。
トイレの中からはミナちゃんの火がついたような泣き声が聞こえ、ほどなくして2人はトイレから出るとお母さんは泣いているミナちゃんの手を引き、困った顔で私に会釈しながら一目散に店を出ました。
母娘が店を出ると、私の隣で同じようにその母娘を見ていたパート仲間の古内さん(35歳3人の子持ち)が「わかるわ〜」みたいな表情で呟きました。
「お母さん困ってたねぇ。でも、ああなっちゃうとしょうがないんだよね〜。」
どうやら育児経験のある古内さんは、しみじみとお母さんに感情移入してその光景を観ていたようです。
しかし私のように育児経験のないものからすると「何かを欲しがってダダをこねる子供とそれを止める親の図」は、ただただほのぼのとした微笑ましい光景でした。
そんなわけで古内さんがそう呟いた時、私はただ、ほのぼの気分の中に居たので、特に脳みそを使わずに「そうですね〜」と相槌を打ちました。
しかし、その時、私はふと古内さんの言った「しょうがないんだよね〜」という言葉にかすかな違和感を覚えました。
 
その時はさほど気にならなかったのですが、バイトの後に私は再びそのことを思い出すと、ふと「あの違和感は何だったんだろう?」と思いました。
そしてしばらく考えた結果、違和感の正体が分かりました。
それは、一言で言えば 「この時の一連の状況を全てひっくるめて『しょうがない』とする事への違和感」でした。
 
どういう事かと言うと、まず古内さんの言った「しょうがない」は、たぶん単純に「子供が何かを欲しがってダダをこね出すと手のつけようがないよね。」という意味だけを指していたと思うんです。
 
ですが、私は自分なりにその「しょうがない」の解釈を「母娘の置かれた状況まで含む」と考えた時、どこか不自然に思えたのです。
それは
・エロ本棚がミナちゃんの視界に入りそうになる。
・エロ本棚をミナちゃんの視界から外すために後ろを向かせたお母さん。
・お母さんがそうせざるを得ない店の環境
これらの状況もひっくるめて「しょうがない」とすることへの違和感でした。
 
まぁ、分かりやすく言うと「5歳児も出入りする普通のコンビニ店に、当たり前のようにエロ本が目に付きやすく陳列してある環境はしょうがないの?」という疑問が、私の感じた違和感の正体だったのです。
そして、その疑問は実は私には少し心当たりがありました。
 
うちのコンビニは交通量の多い国道沿いにあって、トラック運転手や土建業の男性が客層の6割ぐらいを占めていて、 そのせいか分かりませんが、他のコンビニ店に比べて雑誌コーナーの中のエロ本棚が占める割合が多めになっています。
コンビニでも店舗によってエロ本棚に割くスペースの大きさはまちまちで、スペースが小さければ私もそんなに気にならなかったかもしれませんが、うちの店舗は本当にエロ本が多いんです。
まず全雑誌のうち3割が制人向け指定のエロ雑誌で、さらに近頃は制人向けでなくても週刊誌の表紙にセックス関連の見出しと水着姿の女性のものが多いので、それらも含め「半裸の女性が表紙でエロワードが踊る見出し」というくくりにすると、その数は全雑誌のうち半分を占めています。
つまり私は普段バイト中に何の気なしに床掃除をしていてもふと見上げれば「淫ら人妻調教スペシャル!」が視界に入り、外でゴミ袋を取り替えてても「JKのパンツの中覗いてみた!」の裏表紙が目に飛び込んで来るわけです。
これに対し私は密かに「アダルトショップでバイトをしてるならまだしも、なぜ普通のコンビニで働くのに日々エロ本と向き合わなきゃならんのだ。」と思ってました。
でも私はいつも「嫌だなぁ、でもしょうがないか…」と思って見て見ぬ振りでやり過ごしていたのです。
 
つまり私には普段からの自分のそういう気持ちがあったので、このミナちゃん親子の件を改めて考えた時、2つの「しょうがない」がリンクしてはっきりと「なんか変じゃない?」という違和感が形になったんだと思います。
 
私は一度「おかしい」と思うととことん考えてしまうのが癖なので、このことを元にそのころから自分の中でこれを「コンビニのエロ本陳列問題」と名付けて、よく考えるようになりました。
今日はそのことについて書いていこうと思います。 
 
ちなみに、読んで頂く上での注意点としましては、私が問題視する「コンビニのエロ本陳列問題」はシンプルに『コンビニ』に『エロ本がおおっぴらに陳列してある事』の是非を問うという事だけを指します。
なので、コンビニ以外のエロ本取扱店についてまで言及しませんし「エロ本の存在自体」を否定しているわけでも「内容が児童ポルノに引っかかる」とか訴えてるわけでもありません。(女子高生モノについてはそうも思いますが…) 
 
本当はそれらを含めた総合的な話を書けると良いとは思いますが、なにぶん私の脳みそと文章力ではそこまで手を広げると話が非常にとっちらかって分かりにくくなりそうなので、あくまで私は今回この文章で「コンビニで現在のような誰の目にも触れる形でエロ本を陳列する事」だけを問題として書きます。 
そこだけはご理解下さい。
 

コンビニのエロ本陳列問題

私がそのことについて考えるようになった頃、ちょうど東京オリンピックの開催がきまりました。
そしてその頃のTwitterでどなたかがこんな事を呟いていました。 
「外国人が日本に来て驚くのはコンビニで当たり前のようにエロ本が置いてある事。このままだと日本は五輪で来訪した諸外国の人から『ポルノが公集の場で売ってる国』というレッテルを貼られる。」(うろ覚え)
私はこれを読んで「ああ、やっぱそうなんだ」と思いました。 
私はその前から日本がポルノの規制が緩いというのは知っていましたが、それは「内容」に関することだけで「流通方法」については諸外国と比べて日本が緩いのかどうか知りませんでした。
でもこのツイートでそれを知り、薄々そんな気はしてましたが、一応調べてみると「ほとんどの外国では少なくとも子供が出入りする店にポルノを陳列していない」という事が分かりました。
やっぱり日本のコンビニの環境は世界的に見ても「おかしい」と言える所なんですね。
どうりで「日本スゴいデスね視察団」がコンビニには来ないわけです。
 
さて、それからも私は「どうなることやら…」とTwitterを観察していると、先日あるツイートに共感したので私は思わずRTしました。
 RTしたツイートはこちらです。↓(下段のほう)  
私は「眠れる森の8」さんのツイートの「そんなこともおかしいと思えなくさせられてるの怖い。当たり前のように存在してると当たり前のように認識してしまうんだよね。」という文章に共感しました。
 そう「既に当たり前だからそこに違和感を感じない」というのは、とても怖いことだと思います。
これは、子供の頃から親に暴力を振るわれてた女性が「家族から暴力を振るわれること」が当たり前の感覚になってしまい、大人になってから暴力夫にDVを受けてもそれを受け入れてしまうのと似たような怖さだと思います。 
コンビニにエロ本棚がある事は、今の世の中だと「当たり前」で、子供がエロ本を観ないように花火の方を向かされて、花火が買ってもらえなくて泣くのも、すべて含めて「当たり前でしょうがない事」になっています。 
しかし、私は世の中の「しょうがない事」というのは「出来る限りの善処を尽くしても起きてしまう嫌な事」だけを指すものなんじゃないかと思います。
だから、ミナちゃんのケースだと、仮にエロ本棚が無くてもミナちゃんが勝手に花火を見つけて欲しがって泣いたとしたら、それは本当に「しょうがない」で良いんですが、「コンビニにエロ本棚がおおっぴらに置かれているのは既にある環境だから、それを避けた果てに泣く事態が起きる」を「しょうがない」とするのは「前半、しょうがなくないだろ。」と思ってしまうんです。
 
そんなわけで、コンビニのエロ本棚に対して考えてしまうわけですが、もし私だけでなく、沢山の人がひっそりと「嫌だなぁ」を抱えつつ我慢しているんだとしたらこれを期にその方々も「嫌だなぁ」の声をもっと上げていいんじゃないかと思いました。
私が今回これを書こうと思ったのは、 今までひっそり『嫌だなぁ』を抱えていた人も、そこからさらに踏み込んでそれぞれに解決策を考えるようになるといいんじゃないかな?と思ったからです。
また、今の時点で「嫌だなぁ」ではなく「コンビニのエロ本いいじゃん!」と思う人にも、世の中に「嫌だなぁ」と思う人間が居て、ただ闇雲に「エロやだ!」と言ってるわけじゃなく「こんなことを考えて言ってますよ。」というのを少しは理解して貰えればいいなと思って書いています。
 

「嫌だなぁ」が共感できない人

 さて、ここまで読んでいていて「そもそもエロ本の何が嫌なの?」と思う人もいるかと思います。 
たしかにもし世の中の大半がエロ本に対して私のように「嫌だなぁ」と感じる人ばかりだったら、エロ本は公共の場に存在しないはずですが、現状そうでないということは今の世の中にはエロ本に対して「自分はあまり気にならない」という人が多いという事だと思います。 
そういう人にとっては、きっとこういう「嫌だなぁ」という声はただの「うるさい女がなんか言ってる」に聞こえるかもしれません。
 しかし私は先ほど書いたように「うるさいなぁ」と思う人にもできれば「嫌だなぁ」の人が「どうして嫌だと思うのか」ということを分かってもらえたらいいな、と思います。
 なのでそこの説明をしようと思います。 
はじめに書きますが、私はまずエロ自体を毛嫌いする性格ではありません。しかるべき場面ではこっちからエロを求めることはあります。
ただ、コンビニというのは非常に日常生活に溶け込んでいる場所なので、そこにエロがひょっこり存在すると、そのあまりにも「しかるべき場面」では無さに、嫌気が指すのです。
だからそういった平時にエロ本を観かけると私は素直に「嫌だなぁ」と思います。
そして「嫌だと思う理由」については、このたび自分でも初めてよく考えてみたのですが、私は公の場で「一般的なエロ本(女性が表紙のもの)」を観ると2つの感情が沸き上がり、その感情が自分の「嫌だなぁ」の中身だと分かりました。
 
 それは、
①同じ女体の持ち主として思わず「性対象として存在する自分」を投影してしまう。
②それらの「エロ本を求める男性」に対し「かつて自分にエロを求めて嫌な事をしてきたヤツら」を重ねて連想し、世の中に嫌気がさしてしまう。
というものです。
 
これはどういうことかと言うと、まず①についてですが、私は普段生活していて人の性別を意識するのが苦手です。
基本は自分にも異性にも「女だからこう、男だからこう」という型を忘れて生活したいと思っていますし、男性と話す時もお互い「男女」ではなく「人間対人間」として存在したいのです。
だから自分が男性をむやみに性的な目線で見ることはしませんし、男性からも性的な目線を向けられたくありません。
でも、エロ本の表紙の女性がおっぱいやお尻を突き出していると、ふと「そういえばあのパーツを自分も持ってるなぁ…」と思い出して、さらに「見る人によれば私はただのこの『パーツの持ち主』という見方をされてるかもしれないんだ。」と改めて自分が女体の持ち主だということを意識してしまうんです。
これが、なんだか嫌な感覚なんです。
好きな人とセックスしてる時に「あー自分は女なんだなぁ」としみじみ嬉しくなる感覚がありますが、あれの真逆という感じ。
自分が「女性であり、女体の持ち主なんだなぁ」というのは、しかるべき時だけに感じるから嬉しい感覚であって、平常時に意識するのは「場違い」な感じと、節操が無い感じと、下品な感じと、日常生活に邪魔な感じがして、うざったいんです。
だからコンビニでエロ本を目にする度に頻繁にその感覚が呼び起こされるのが嫌なんです。
 
②については、私の過去の経験が関係していて、私もこの歳まで生きてるとそれなりに痴漢やらセクハラを受けて来ているわけですね。
痴漢やらセクハラは言うなれば「男性からむやみに性的対象にされた嫌な経験」なんですが、その犯人は私にとって「平常時にエロを求めて来た失礼なヤツら」なんです。
で、それは「コンビニという日常生活空間にエロ本を紛れこませる神経の持ち主」と通じるものがある気がするんです。
いま、コンビニにエロ本がでかでかと置いてあるのは「それでいいじゃん」と思う男性の存在が世の中に多くいるから生じているシステムであって、その「それでいいじゃん、女が嫌がってても俺がそうしたいんだからいいじゃん。」ていう神経は、痴漢とかセクハラをする人の神経と同じような気がするんです。
しかもエロ本のタイトルや見出しって「JKにナマで中出し」とか「素人をナンパしてヤッちゃいました」とか実にモラルの壊れたワードが並んでいて、その世界観は「女体をオモチャにしてやるぜ感」に溢れているので、「あー、こんだけたくさんのどうかしてるエロ本の需要があるってことは、世の中にこの世界観を欲している男の人がよっぽど沢山いて、彼らに都合の良い世の中だから今ここにエロ本があるんだなー」と思うんです。
なので平常時にコンビニのエロ本棚の前でそれを改めて頻繁に認識せざるを得ないのが、辛くて嫌なんです。
 
私はちょっと考え過ぎのところがあるので、私以外の「嫌だなぁ」と感じる人もこのように感じているかどうかは分かりません。
でも残念ながら私の周りの成人女性のほとんどが、それまで生きているうちに異性からレイプ、痴漢、セクハラ、強引な口説き…等々「異性からの何らかの性被害」に遭っています。
それは個々に程度の差はあれど、みんな「女体の持ち主として生きている為、男性からそういう事をされた嫌な経験」だと言えます。
だから「女性が表紙のエロ本」を目にした時に「嫌だなぁ」と感じる人の割合が、男性より女性に多いのは、エロ本が各々の女性のそういう過去の苦い経験を刺激するからじゃないかなぁ、となんとなく推測してます。
 
では「男性はコンビニでエロ本を見かけて嫌だなぁと思わないのか?」というと、その答えはとても個人差があると思います。
男性でももちろん「嫌だなぁ」と思う人がいるとは思いますが、全体の比率で言うと女性よりは男性の方が少ないと思います。
なぜなら、今の世の中はそもそも男女で「エロ」に対する認識に差があるからです。
その認識の差とは、簡単に言うと女性には「この世には歓迎出来ないエロがある。」という認識が備わっている人が多くて、男性にはそれが無い人が多いということです。
どういうことかというと、私は人間を「男女」に分けて語ることは、本来あまりしたくありませんが、それでも一般的に「エロ」に対して、男性と女性では受け取り方が違うように思います。
中学生の頃、道にエロ本が落ちているとほとんどの女子は伏し目がちに見て見ぬふりをして通り過ぎますが、男子は拾って笑いながらそれをネタに「うぇーい」とじゃれあう事がありました。
これは、その頃からすでに男子は「女体」をオモチャとして扱う事が出来て、女子は同じ女体の持ち主として「女体をオモチャに出来ない感覚」が備わっているということだと思います。
その土台がある上で、さらに大人になるに従い、悲しいかな女性は実際に男性から「人間ではなく、オモチャ扱い」をされる経験を積んでしまいます。
私はセクハラや痴漢などの「性的被害経験」とは「異性から人間扱いではなくオモチャ扱いされた経験」だと思うのですが、年頃を過ぎた男性と女性では、この経験数の差がかなりあり、そのことが男女のエロに対する認識を
男「オモチャと遊ぶ楽しいもの」
女「オモチャにされて嫌なもの」
と分けてしまうのかな、と思います。
 
男女の痴漢やセクハラ被害数を比べてみると、圧倒的に女性の数が多いのは言わずもがなですが、これは言い換えれば世の中に「男性から性的に嫌な目に遭わされた女性」が、男性のそれよりはるかに多いということです。
つまり女性はほとんどが大人になるまでに何らかの形で「エロを求められて嫌な立場」に立たされた経験がありますが、男性の中には大人でも「エロを求められて嫌な思いをする」というのを経験せずに「エロを求める立場」しか経験したことがない人が大勢いるということです。
 
そしてエロに対して「求めた事しかない男性」は「求められて嫌だ」という感覚が分からず、若者でもおじさんでもお爺さんでも「エロ=とりあえず歓迎」という認識の人が多くいます。
 
だから「表紙に半裸の女性が映り、卑猥な単語が並ぶエロ本」を目の前にした時、男性の中の「今までエロを求める立場でしか生きて来なかった人」は単純に「やった!エロい!嬉しい!」と思うでしょうし、逆に「エロを求められて困る立場で生きてきた女性」は「ちくしょう、クソエロ男が…」と思うわけです。
 
そう考えると「エロ本を目にするのがなぜ嫌なのか分からない」と言う人は、今まで「エロを求める立場」しか経験してこなかった人なのかもしれません。
 
でも、そういう人にもこの説明で「エロを求められて嫌な思いをしてきた女性が、エロ本を見るのは嫌なものだ。」という事を察してもらえるとありがたいです。
ちなみに、ここまでは説明の為に、あえて性被害の対象となる性を「女性」としましたが、男性でも過去に性被害を受けて嫌な思いをした経験があれば、女性と同じような、この「嫌だなぁ」は共感出来るはずだと思います。 
ですが、世の中の全体の「性被害で嫌な目に遭った人」の比率は男女で女性の方がはるかに多いので、やはり現状では男性のほうに「何が嫌なのかいまいち分からん。」という方が多く存在するのだと思います。
 
とにかく、この「男女で性的被害経験の数が違う」ということが、世の中の男女のエロへの認識に差を生み、そこへさらに男女でエロに対する認識が違うことが、この公共の場でエロが氾濫する世の中を作ってると私は思います。
 

想像できない人

さて、そんなわけで世の中の男女でそういうエロへの認識の差があるとはいえ、「男女は分かり合えぬのう」と嘆くばかりじゃ事態は変わりません。
私は、たとえ「これまでは性被害の経験が無い男性」でも、その人がその経験をした女性の立場を想像さえできれば共感はできると思います。 
そしてもしも全ての人が「異性からむやみにエロを求められた時の嫌な思い」を共感できたら、異性にむやみに性的視線を向ける人は世の中から減るし「エロ本がむやみに目に入る嫌さ」も分かってもらえるんじゃないかと思います。
そういう思いから、私は少し前にこんなツイートをしました。  
このツイートに至った経緯は、これより前のツイートがありました。
それは 
私が一緒にバイトしている女子高生も、女子高生モノのエロ本を前に目を伏せて働いている。 彼女達は「自分が属する『女子高生』という記号が性対象として特別視されてる現実を見せ付けられる嫌さ」を感じていて、それは成人女性でも嫌な事なのに、女子高生は10代という幼さでそれに耐えなければならないので、酷過ぎる。
というもので、その続きとして書きました。 
しかし、上のツイートの反応の中には「嬉しい」「そうだったら余計興奮する」というものが結構来たので、私はギャフンとなってしまいました。 
 
私としてはたとえ「雄々しい男性としていつもエロを求める立場で生きてきた方でも、非力な少年時代に自分が性対象にされる場面を想像したら嫌な思いが少しは分かるはず。」という狙いで書いたのですが、これは甘かったようです。 
「自分が性対象となり、レイプされるかもしれない場面を想像してみろ」と言われれば誰しもが「それは嫌だ」と共感できるかと思ったのですが、そういう男性にとっての「レイプされる」というのは「自分が女性に襲われる」をイメージして「悪くない、むしろ嬉しい」となってしまうようです。
 本来なら「抵抗敵わず犯される側の恐怖感」に男女は関係ないはずで「少年期に自分より屈強な生き物にレイプされるかもしれない怖さ」は男性でも想像さえ出来れば共感可能だと思いますし、是非そこまでを想像して貰いたかったのですが、そうはならなかったみたいで残念です。 
 
「嬉しい」「むしろ興奮する」という反応をした方はおそらく、性対象が「女子高生」から「男子高校生」にまで広がった世界を想像してるだけで、自分がその世界で「犯される立場」になった場面まで想像してないんだと思います。
 もう、こういう人は実際に刑務所にでも入って自分が豪腕な囚人男性に力ずくでボロボロになるまでレイプされない限り「被害時の恐怖感」は想像出来ず、残念ながら共感は難しいのかもしれません。
ですが、世の中には想像力の働く善良な男性も沢山いると思うので、そういう男性に真意が伝わる事を願ってツイートはそのままにしておきます。
 

ひとつの方法案 

さて、それではここからは私なりに考えたコンビニのエロ本陳列問題の解決策を書きたいと思います。
私はコンビニにエロ本をおおっぴらに陳列して欲しくないと思ってます。
でもそれは単純に「コンビニでエロ本を売らないで下さい!」という主張ではありません。
こういう話をすると「コンビニでエロ本を買いたい人」と「コンビニでエロ本を見たくない人」の関係が完全に対立しているように見えて、どうしても極論で「現状のまま売る」か 「売らぬ」の答えを出そうとなりがちですが、私は答えはそのどちらでもないと思います。
 
確かに「コンビニでエロ本を見たくない」人の願いを叶える為に1番手っ取り早い方法は「コンビニでエロ本を売らない」なのですが、このように真っ向勝負でどちらかが泣く方法(「買いたい人」を無視して「買えなくする」という提案)は現実的では無いと思いますし、それだとあまりにも「他者に厳しい社会」という感じがして、私の望みともちょっと違ってしまいます。
だから両者にフェアで現実的な着地点は「コンビニでエロ本を売りつつも、見たくない人の目にはなるべく触れないように配慮する」なんだと思います。 
そこで私の考えた方法案がこちらです。
http://t.co/yOm8IjQr3d  
私は素人ですのでこれを実現化するのにどれくらいコストや手間がかかるとか、具体的な問題点がどれだけあるかとか、そこまで分からないのですが、でもひとつの案として思ったので書きました。
 
なにより、この話について「売る・売らない」を根本から見直すという大論争を巻き起こすより「大っぴらに陳列すること」という所だけを変えるほうが現実的にはイケると思うので、これが私なりに出た答えです。
他にも沢山の人が知恵を絞ればよい方法があるかとも思いますし、これを期にこの件を考える人が増えるといいかなと思って、たたき台としてこの一案を出します。
手間味噌で申し訳ありませんが、この方法だと、エロ本が見たくない人は今よりむやみに視界に入ることは減るし、コンビニでエロ本を買いたい人の中にも「買いたい時は買うけど家族や友人とコンビニに行く時は見たくない」という人が居ると思うので、そういう人のニーズにも合ってるし、限りなく泣く人が少なくて嬉しい人が増えるような気がします。
 
ただ一点、この方法だと「イヤだ!俺はコンビニでエロ本がデカデカと置いてある社会が好きなんだ!」という人にだけは泣いてもらうことになりますが、これはもう「すいません勘弁して下さい」としか言いようがありません。
すいません勘弁して下さい。
 
 

最後に

現在の「コンビニにエロ本がおおっぴらに存在していて、買いたい人にとっては便利」という状態は、エロを求める人を優遇するあまり、エロから遠ざかりたい人をないがしろにしている状態だと思います。
私はこの件で、「コンビニでエロ本を買いたい人」が今持っている「便利に買う権利」まで侵害したくはありません。
誰かが既に持っている権利を「手放せ」というのは並大抵のことではないからです。
でも、片方に「簡単にエロに近づく権利」が与えられているなら、もう片方にはこれと同程度の「エロから遠ざかる権利」があるべきだと思います。
 
この「エロから遠ざかる権利」は、本当はコンビニエロ本に限らず、バナー広告とかにも言えますし、なにより今の社会で平然と根底にあるセクハラとか「エロ目的で他人に近づく輩」にバーンと突きつけたくなる権利です。
私は「多少の下ネタにも寛容でないといい女とは言えない」とか「減るもんじゃなし、おじさんにも優しくしてよ〜」とか言う人にいつも「エロから遠ざかる権利!」と叫んで走り去りたいです。
 
あと、ついでなので最後にもう1つ書いておきたい事があります。
 
この手の話をすると「気にならない女性もいるんだから、気にする女は過剰に反応してるだけだ」という意見が出ますが、それは違うぜと言いたいです。
それは靴を隠されたいじめられっ子に対して「靴を隠されても気にしない子もいるんだからお前も気にするな」と言うのと同じ理屈のような気がして納得できません。
確かに女性の中にも色々な人がいるので「エロを突き付けられても気にならない女性」もいると思います。
でもそれはたまたまその方が「気にならずに済む考え方が出来る」という幸運の持ち主なだけであって、世の中に「嫌だなぁと気になる女性」が居ないことにはなりません。
世の中には本当に色々な考え方の人がいて、他人(特に異性)から「何を言われ、何をされ」て、どのくらいの事が「気になる・気にならない」と感じるかも個人の感覚による自由です。
それをたまたま「男性にとって都合の良い感覚を持った女性」を取り上げて「こういうのがいい女、みんなこれを見習えよ」と押し付けるのは世の中を男性本位に作り変える行為で、世の中の女性がみんなそんなに男性にとって都合の良い女性だった時代はとうの昔に終わってます。
だからいくら「気にならない女性」を引き合いに出されても「嫌だなぁ」と思う人が私自身であったり私の周りに一定数いる以上、私は「じゃあ私も気にしないようにしよ」となれないのです。
そこはわかってもらえるとありがたいです。
 
終始「女の被害者意識」で書いているような文章になりましたが、私は女性も男性もお互いに被害者や加害者にならずに幸せに暮らせればなぁ、という気持ちだけで書いてます。
とりあえず、私は明日もエロ本溢れるコンビニでバイトなので、この長い文章を最後まで読んでくださった方にいいことがあるように祈ってもう寝ます。
ではまた。

恋愛工学は「自分だけが主人公」のゲームのようなもの

 
はじめに
 
 代表作「南くんの恋人」や「ファザーファッカー(小説)」などで知られる漫画家の内田春菊さんの作品に「水物語」というのがあります。
全4巻の作品ですが、ストーリーをごく簡単にまとめると「ある既婚者の中年男性が18歳のアヤというホステスと出会い、恋愛関係になって、色々なんだかんだあって最後は別れる」という話です。
 
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(印象的な一コマ)
2000年の作品で、私が最初にこの作品を読んだのは20代の中頃でした。
私は単行本を持ってるのでその後何度も読んでいるのですが、この作品が私にとって何年経っても色褪せないのは、期間を空けて読むごとに新たな発見があるからです。
若い頃読んだ時にはさして引っかからなかったり、ピンと来なかったりした場面ごとの登場人物のセリフや表情が段々と「あぁ、この感じ分かるなぁ…」と新たに理解できるような感覚があります。
 それで今でも面白くて時々読み返しているのですが、このところ巷で話題の「恋愛工学」というものについて考えようとした時、私はなぜか真っ先にこの作品の事を思い出しました。
この事は後に詳しく書きますので、ここではひとまず置いておきますが、私がこれから書くのは、この漫画の主人公のような男性像をイメージして書くところがあるので一応前置きとしてはじめに書いておきます。
 
恋愛工学者も色々
 
さて今日は恋愛工学にまつわる話を書きます。
恋愛工学については賛否両論ありますが、私はどちらかと言えば否定派です。
しかしその「否定」は、恋愛工学そのものが唱えている色々な説について「正しい」とか「間違ってる」という意味ではなく(そこまで私自身が恋愛工学の内容を勉強したわけではないので判定は出来ない)、もし身近に恋愛工学を信じて行動している人が居たとしたら、素直に「楽しそうでいいじゃん!」と肯定はできないという意味で「否定」の方になるということです。
もちろん、人の生き方は人それぞれが決めて良いと思うので例え人生の中心目標にドーンと「沢山のいい女と恋愛したい!セックスしたい!」と掲げて生きていく人が世の中に存在するとしても、私はその存在を否定することは出来ません。
それは、どんな人間にも好きに生きる権利があるので、いくら私が気に入らなくても「そんなやつ死んでしまえ!」とまで言えないということです。
ただ「死ね」とは思いませんが、軽蔑はしますし、もし身近にそういう人が居たら今後なるべく関わりたくないとも思います。
私はそういう程度には恋愛工学を信じて行動する人を否定しています。
 
で、一応ここからは恋愛工学が「男性に向けた恋愛ハウツー」だという私の認識で書いていきますが、私は恋愛工学を信じる男性の中にも色々な方がいると思っています。
半信半疑ながらも部分的に参考にしている男性、「まぁダメ元でやってみるか」と生活に取り入れてみた男性、完全に信じてその教えを丸呑みした行動を心掛けてる男性…と。
これはやはりどういう集団でも、形成しているのは1人1人違う人間なので、その各々の範囲で恋愛工学を実践している度合いは違いがあると思うからです。
そして今回色々な方の恋愛工学批判にまつわるブログを読むと「恋愛工学」そのもの、や「恋愛工学を信じてる男性(以下、恋愛工学者と略します)」をまるごと否定する方が多いと思いました。
私はその気持ちも分からなくはないですが、私としましてはあえて今回「恋愛工学者全員」の否定はしません。
それは何事も「まるごと否定」すると、そこに少しでも加担している方の反抗心に火がつき、今より余計のめり込む男性が出そうな気がしてしまうからです。
しかし私は恋愛工学者の中で「これだけはアカン」と言いたい方がいます。
それは既婚男性の方です。
 ではこれから私がどうして「恋愛工学者の中で特に既婚男性の方がいけない」と思うかを説明していきます。
 
犠牲を払うのは自分1人ではない
 
現代人にとっての「結婚」とは、デメリットもありますが「社会的信用を得る」「いち人間として帰る場所がある」という大きなメリットがあると思います。
しかし世の中には「独身主義」という言葉があるように「自分はとにかくモテたくて、沢山のいい女とセックスしたくて、誰か1人に絞った結婚生活というものが出来ない気がする」という自覚のある男性が存在します。
私はそういう男性が「結婚」を捨てて「多数の女性にモテる道」を選ぶことは、まだ人として理解できる範疇にあります。
なぜなら独身主義の人は、自分の人生の中で「結婚のメリット」と「自由に恋愛をする立場」を天秤にかけて「結婚のメリットを捨てる」という選択しているからです。(もちろん他の理由から独身主義の方もいますが、今回はこのケースだけについて書いてます。)
「選択の結果」には「覚悟」が伴うもので、私は人の覚悟というのはある程度尊重するべきものだと思うので、これを経ている独身主義の男性のことは頭ごなしに否定はしないでおこうと思うのです。
多分、恋愛工学者の中には最近の世の中の恋愛工学批判の声を「うるせぇな、人の勝手だろ!」と思ってる人が多いかと思いますが、これは、自分なりにこの覚悟があってやっている行為を「恋愛工学者」というだけで、その他の人から頭ごなしに否定や批判をされているから腹を立てているのだと思います。
そして、彼らが頭に来て恋愛工学自体を擁護し始めると、「恋愛工学者」というくくりの中の既婚男性も自分が擁護されている気になり、増長しかねないので、私はあえて「恋愛工学者」の中の「独身者」と「既婚者」を別物として考えていきます。
 
さて、では具体的に私が既婚男性の恋愛工学者の「どこがいけないと思うか」というと、彼らは結婚を経て社会的メリットを手に入れつつも「よその女と恋愛をしたい」という欲望をも叶えようとしています。
これは二者択一もせず「やりたいことを全部叶えたい」という欲望だけの姿です。
ようは子供をお菓子売り場の前に立たせると「アレもコレも」と欲張りますが、アレと同じ姿だと言えます。
こういう子供に対して、普通の親が「一つ選びなさい」と言うのは「お金を払う」という代償を課せられるのが親だからです。
これが大人になり「自分で稼いだお金」だけで、自分の「アレもコレも欲しい」を叶えるなら誰も文句は言いません。
欲望を持つのも、叶えるのも、代償を払うのも「本人一人」の身に起きる事柄だからです。
しかし、既婚男性が「結婚生活も婚外恋愛も欲しい」という欲望を叶える為に払う犠牲は、その男性1人の犠牲ではありません。
そこには妻が払う犠牲もあるんです
これに対して「ん?なんで?浮気してるのが妻にバレなければ妻は犠牲を払ってなくない?」と思う人もいるかと思います。でも私はそうは思いません。
「結婚」は今は軽い気持ちでする人もいますが、本来は「相手の人生の責任の片棒を担ぐ」という意味を持つ行為で、いくら昔よりはモラルが壊れ気味の現代でも、その意味を理解してする人のほうがやはり多いと思います。
不倫している男性の中には「バレないようにしてるし、もし妻にバレても謝って許してもらうか、最悪離婚すればいい事だし」と思ってる人がいます。
しかしその「最悪離婚する」という事態の「最悪」は、自分だけの最悪ではなく妻にとっても「最悪」なのです。
バレてなかろうが知らずのうちにその「最悪の事態になる可能性を背負わされてる」だけで、妻は犠牲を払わされてると私は思います。
分かりやすく言い換えると、独身者が「アレもコレも欲しい」ので借金をして最悪自己破産しても痛い目を見るのは本人だけですが、既婚者が「アレもコレも欲しい」ので妻に内緒で借金をして、最悪自己破産した時に「俺は自己破産することになる。お前に迷惑がかかるから離婚してくれ。」となった時に、妻が無傷と言えるでしょうか?ということです。
例え、借金が妻にバレずに返していけるとしても一人で勝手に「借金」をしてる時点で、妻は知らないうちに自分の人生を左右する事態が、夫の一存で起きているわけですから、妻に対して残酷な事が起きている事に変わりはありません。
つまり自分の都合で結婚生活を「最悪」にして終わらせる可能性を作るという時点で、「自分の欲望を叶える為に妻の人生を危うい立場に追い込んでいる」という事だと思うのです。
ただの恋愛関係と夫婦の違いは「お互いに相手の人生がかかってる」という責任感の有無だと私は思います。
その為、既婚者でありながら安易に離婚に繋がる行動を取るという事は「相手の人生への責任を果たすつもりが無い」という意識の表れであり、自分の欲望の前で妻という立場の人の人生を軽視した行動だと思います。
私にとって「自分の欲望の前に他者の人生を軽視する」ということは「人として侵してはならないところを侵した」に値します。
その為、既婚男性の恋愛工学者を特にいけないと思うわけです。
 
既婚男性の言い訳が不可解
 
以前Twitterでおそらく「既婚男性の恋愛工学者と思われる人」の投稿を見たのですが、不倫相手とのセックス報告をしつつ「こうして他の女を抱く事で、俺は妻に優しくなれる」というような事をしきりに書いてありました。
これは、本人がそう思いたくて実際そう思っているのでしょうが、私にはテイのいい理論武装に思えます。
確かに自分の不倫行為を「順調な結婚生活の維持に役立ってる」と思えば、その男性の中では妻へのやましい気持ちは消え、不倫行為を正当化できると思います。
しかし、本当に結婚生活の役に立ってる行為と思うなら、妻に胸を張って言えばいいのです。
「俺はお前以外の女ともセックスすることでお前にも優しく出来る。だからお前にとっても嬉しい事だろ?」と。
それで妻が「私もモテない旦那よりモテる旦那の方が嬉しい!どうぞよそで息抜きして若さを保って、家には機嫌よく帰って来てね!」と言うなら、それはその夫婦にとって「夫の不倫行為」は「結婚生活の為のプラスの行為」になるので、世の中にそういう夫婦が居てもいいと私は思います。
ですが、こんな返事をする女性は滅多に居ません。
それを既婚男性も分かっているので、わざわざ「言って家庭を壊すリスク」を避けて実際には皆、隠れて妻に内緒で不倫行為をするわけです。
もし本当にこのように妻の意思確認をするとしたら、それは既婚男性に取っては大バクチです。
不倫を推奨する妻が世の中に稀だと知って妻に言うとしたら、ほとんど負ける可能性の高いバクチです。
なので多くの男性はバクチに負けそうだから実際に言う事はありません。
でも頭の中でやってるのは、バクチで言えば「勝った結果の想定」なのです。
なぜか「この不倫は妻の為に良いことだ」と勝手に思い込んで不倫してるのですから。
この矛盾を既婚恋愛工学者の方はご自身の頭の中でどう折り合いをつけているのかと、私は不思議でなりません。
あと、私は何も「結婚したら必ずしも1人に絞れ」と言ってるわけではありません。
私はポリガミー思想を理解できるので、夫、妻、不倫相手という「当事者全員」が了解のもと、妻や夫が婚外恋愛をするのは別に構わないと思います。
それは当事者全員が意思を開示しているので、全員が対等な人間としてお互い扱われて存在しているからです。
私が嫌なのは、夫と不倫相手だけが事実を知り意見を言い合えているのに、妻だけが部外者のように事実を知らされず、ハナから意見を言う立場を除外されている事が、妻を「対等な人間扱い」していない事に思え、そのことだけが嫌なのです。
なのでこれは単純に「不倫はダメ!奥さんが悲しむから!」という話ではなく、「妻となる女性の人権侵害をしないで欲しい」という願いだと思ってもらえるとありがたいです。
 
「水物語」に観る男女のすれ違い
 
さて、冒頭の内田春菊さんの漫画について再び書いていこうと思います。
 この漫画が出た頃には当然「恋愛工学」なるものはまだ存在していません。
ですが、私が恋愛工学について考える時にこの漫画をつい思い出したのは「水物語」の主人公の男性が、恋愛工学者ではないものの恋愛工学者から観るととても「理想的」な性生活を送っているように思えたからです。
主人公の「村上」は、自覚はありませんがロリコン気味の中年男性で、生まれつき女性にモテるタイプです。
彼には、彼に当たりが強く小うるさい妻と可愛い子供が居て、家庭は壊したくないものの、飲み屋のホステスである「アヤ」という18歳の女性と出逢いお互いに惹かれて不倫関係になります。
仕事のデキる男である村上は、アヤ以外に会社の部下である女性にも好かれていて、はずみで肉体関係を持ちます。
妻とはセックスレスですが、家庭不和になり過ぎないよう義務感でセックスをしたり、アヤとは恋のときめきを味わいつつ徐々にノーマルではないセックスに移行したり、部下の女性とは相手がせがむのでセックスをしたりして「こういうのも後腐れなくていい」と思ったりしてます。
それで「男は中年になってからだなぁ」と1人ごちたりするので、この文章だけ読むと恋愛工学者にとっての村上は、まさに理想の男性像に映ると思います。
しかし水物語は、後半になるとアヤの視点を通じて読者に「村上という人間の中身の解体」をしていきます。
そして彼がどれだけ自分勝手で女性を人間扱いしていない男性かということが徐々に明かされていきます。
この話は全ての男女に読んで欲しい物語です。
何気ないエピソードをひとつ取り上げると、はじめの方でアヤが「文章を読むのも書くのも好き」だと明かすと村上は「じゃあ今度なにか本をプレゼントしよう」と言います。
ホステスという立場で読書家だと明かすと他の客は小馬鹿にした返答をするのに、村上はそうじゃなかったということでアヤはいたく感動して村上に好意を抱きます。
しかし、村上が実際に本をプレゼントする事は無く、中盤で村上が家に訪問した時図書館に行っていてアヤが不在だったことにむくれた村上が「本くらい買ってやるのに」と言うと「そういえば、まえそう言ってたね。」「でももらったことないな…別にいいけど…」と言うセリフがあるのですが、この「男性がたいしたことない約束」だと思ってる事が、女性にとって大きな「信頼一個」であるのに、男性が気づいてない感じ!
こういうのを描けるのが内田春菊のすごさだと思います。
これは単にアヤは「本を貰えなかった」のが不服なんじゃないんですよね。
村上を好きになる要素に「頭の悪いホステスという思い込みをせず人間扱いしてくれた人だから」というのが大きくあって、「本をくれると言われた事=アヤにとって人間扱いされた証」で「自分を人間扱いしてくれるところ」が当初の村上の魅力だったのに、結局それは口先だけだとだんだんわかってきて、当初自分が村上の中身を過大評価してしまった事、村上がそういう人間だったこと、その両方に失望してるんだと思うんですよ、アヤは。
この漫画の特筆すべき所は、このように村上とアヤがスレ違っていく様が、世の中のこういう男性と女性の間がスレ違っていく様子まんまであり、とてもリアルに描かれているところです。
 
この作品を読むと「モテる男性」が自分では「かっこいい」と思っている行為が、女性から観るといかに冷酷で女性を人間扱いしていない行為かという事がアリアリと分かるのでどなたにも読んで頂きたい作品です。
ここまで内容を書いておいて、勧めるのもナンですが(あと過去に『商売っ気のあるブログを書くのも嫌だ』と言っておきながらリンクを貼るのナンですが)
まだまだ書ききれない面白さに溢れていて、古い作品なので本屋では売ってないのでリンクを貼っておきます。
 
 

人生の総決算期に

私は5年間ほど介護職をしていたので、多分普通の人よりはわりと多めに「人生の終盤」に立ち会ってきました。
それで、私自身も感じたり、介護職の人同士で話すと結構「あるある」なのが、「人の人生ってわりとある程度の雛形がある」という事です。
どういう事かと言うと、数々のお年寄りの長い人生史を聞くと、さすがに激動の時代を生きてきただけあって実に様々な人生がありますが、それでもなんとなーく「こういう性格、こういう生き方の人は最終的にこういう人生の終わり方なんだな」というのの「雛形」があるように感じられるのです。
それで、おとぎ話のようですがやっぱり「周りの人を大事にしてきた人」っていうのは、老後、周りの人に大事にされてるようなんですよね。
家庭を顧みず借金したり女遊びをしてきた男性は、老後に1人きりだったり家族に邪険にされていたりして亡くなるまで不平不満や孤独感に苛まれてるケースが多いし、逆に若い頃から仲間思いで困ってる人に優しかったとか家族を大事にしていたという人は、最後まで愛情のある家族に囲まれて暮らしていて本人も幸せそうだったりというケースが多いです。
中には例外的な人もいることはいますが、でも大多数の人が「老後である現在の状況」は「若い時の生き方の報い」が現れているように私は感じました。
 
1人、印象的だったおじいさんの話をしますと、そのおじいさんは、まだ70代前半で「おじいさん」と呼ぶにはためらうほど見た目が若々しく認知症も無いのでよく私と普通の話をしました。
その方は、4度の離婚を経て現在は1人暮らしをしていて、デイサービスに通っていたのですが「若い頃はさぞかしモテたであろうなぁ」と思わせる見た目と口達者なところがありました。
実際、おじいさんは若い頃から女を取っ替え引っ替えしていたそうで「一晩で3人ハシゴした事もあるよ。」と豪語し、恋愛工学的にはウハウハの勝ち組に思えそうなので、ひとつの例としてそのおじいさんの話を書きます。
彼は50代まで最後の家庭(妻と子供3人)があったのですが、その時もやはり不倫をしていて、妻ではない若い女性と半同棲をしていたアパートを突然妻に突き止められて、不倫相手と駆け落ちしようとした朝に、妻に軟禁されて家を出られず、連絡方法も今より限られていたのでそのまま不倫相手と連絡が取れなくなってもの別れになり、その後、妻にも離婚を求められて離婚して結局1人身になったそうです。
おじいさんはそれでも「これからもういっちょ!」と思ったそうですが、その矢先に心臓病を患い、あれよあれよという間に身体障害者手帳を貰う身となり生活保護受給者として今の生活が始まったそうです。
それでもおじいさんが1番よく話すのは最後の不倫相手の女性の話で「俺は罪な男だ…彼女を幸せにしてやれなかった…」とよく言っていていました。
他の介護員の人にはその話をあまりしないのに私にだけその話をして下さるので、よし、ここはひとつ介護員としてのうわべトークは辞めて本音を言おうかと思って「幸せにしてあげられなくて悔やんでるのは、その人だけなんですか?」と聞いてみたんです。
すると「そうだなぁ…だってな、その彼女、後から一回だけ連絡があって分かったんだが、最後妊娠していたんだとよ。俺と別れて1人で子供を堕したって言うんだ。俺はそれを聞いて自分はなんて罪深いんだと思ったからよ…それが1番の後悔だよ…」と言うんです。
おじいさんはそれでさめざめと悲しそうにしていたけど、私はなんか納得がいかず「産まれなかった子供とその女性が可哀想なのは分かるけど、前の奥さんとその間に設けた子供達も相当に可哀想な目に合わせてるよね?」と言ってしまったんです。
その時、おじいさんは一瞬ハッとした顔をして、私も「一線を越えた発言」だったかと思って「しまった!」と思ったのですが、その時はおじいさんが「桜島さんは厳しいなぁ」とハハハと笑って話を終わりにしてくれました。
しかし、その次におじいさんがデイに来た時に、しんみりと「こないだの話よぉ、あの後考えてたら、桜島さんみたいな事を言ってくれるヤツが若い頃に周りにいたら俺の今は違ったかもなぁ、と思ったんだよ。」と言うんです。
私はちょっと怒られるかなと覚悟してたのでこれには驚きましたが、おじいさんはさらに「もう手遅れだけどよぉ、今の俺が1人でこんな惨めな暮らしをしてるのは全部報いだよな。少し前まで『なんで俺がこんな目に』って思ってたけど、違うんだな、全員分の恨みが乗っかってると思えば、惨めな暮らしは当たり前なんだよな…。」と言っていて「死ぬ前に気付かせてもらえただけありがたかったよ。」と私の手を握ってきました。
私が「あぁーまぁそれなら良かったです。」と言ってやんわり手を振りほどくとおじいさんは「俺があと30歳若けりゃよう、桜島さんと結婚して人生やり直すんだけどなぁ〜‼︎」と言うので「このじいさん懲りてねぇ!」と思いました。
 
まぁ、どこまで本気か分かりませんが、おじいさんが後悔をしながら人生の終盤を過ごしているのは確かなようで、このおじいさんはただの一例ですが、色々なお年寄りからこのような「人生総決算」みたいな話を聞くたび私は「人生の終盤には生きてきたツケを払うんだな」と自分の中で教訓にしてきました。
 
今、目先の自分の欲望を優先して周りの人の事を考えないで生きてる人は、あんまり自分の人生の最後を想像していないのかもしれませんが、本当に自分が若さも体力も無くなって身体が思うように動かず、仕事で収入も得られなくなる時は高い確率で誰しも来ますから、その時になるべく後悔が無いように生きた方がいいんじゃないかと思います。
ちなみに私は「若い頃いくらモテたか」じゃなくて「誰かを幸せにできたという自覚」のほうが、老後心の支えになると思います。
一生独身だとしても、それは若い内に自分と向き合って出した答えに沿ってるなら「自分自身を幸せにした」という自覚が得られるから幸せだと思うのですが、若い内に自問自答せず、自分でも何が幸せなのか分からないまま、目先の欲望だけに走って若い内を過ごす人は、老後は後悔と不満と孤独感だけがお友達になるので、それはそれで覚悟が必要そうです。まぁまとめると「人間ある程度の歳を超したらなんらかの覚悟しないといけないよ」って事かなと思います。
 

さいごに

恋愛工学自体は「男性自身がプレイヤーとなり数多の女性を攻略していくゲームの攻略方法」だと私は思います。
そのため恋愛工学者はこのゲームにおいて「自分=主人公」「女性=自分のゲームの登場人物」という見方がある以上、女性を「1人の人間」としては見てないように思います。
このような認識のある方は是非「自分=主人公」「女性=主人公」という意識に考え改め直して貰いたいと私は願ってます。
「恋愛」はお互いがそれぞれ主人公だと認識してこそはじめて成り立つ関係で、もし相手の女性を自分のゲームの登場人物化して見てしまったら、それは恋愛ではない「支配」とか「狩り」とかまぁ、そういう類のものになると思います。
これを読んでいる女性も、もしアプローチを受けてる男性から「これ、私のこと主人公扱いしてくれてないな。」という感じを受けたら走って逃げる事をお勧めします。
もちろん女性も男性の事を「ATM」とか「支配してくれる存在」だと思わない事も大事ですし、男性も目の前にいる女性の事を、ただの「性対象」とか「家政婦代わり」とかで見る事がなくなるといいと思います。
そうして男女お互いが相手を「1人の人間」として見るようになると、1人の人間との理解を深めて良い関係を築くのは一生かかる大仕事なので、他の異性を相手する暇はあまり無くなるんじゃないかと思います。
「目の前にいる人が最愛で、他の異性を気にする事がない」ということは、なにより本人にとって1番シンプルで楽しい事のように私は思います。
 
色々ジャンクフードやお菓子をだらだら食べてもなんとなく満腹感が得られないけど、ちゃんと栄養バランスの考えられた一食を食べるとそれだけで満腹感が得られるのと同じで、恋愛や結婚も、つまみ食いを繰り返すより、1人決めた人との関係を一生かけて築くほうが、自分の為になるんじゃないかな、ということを私は思います。
私が恋愛工学について考えるのはそんなような事です。
長くなりましたが、今回はここまでです。
それではまた。

トピック「恋愛工学」について

NMB48の「ドリアン少年」を聞いたら秋元康に怒りしか沸かない

「昔は良かった」という言葉を、私は極力言いたくない。

「昔は良かった」という言葉は、暗に「今は良くない」と言っているように聞こえる。

「昔は良かった」という言葉は、「自分が若かったころの良さしか認められない愚かな年寄りの言うこと」に聞こえる。だから私はけして「昔は良かった」とは言わないことにしている。

しかし、そうは言ってもこの世には確かに「昔のほうが良かったもの」も存在する。

君たちはそれが何だと思う?

 

答えは、そう

「アイドルソング」だ。

 1994年。当時中学2年生だった私のクラスの歴史の先生は、4時間目がプール、その後に給食、そして5時間目の歴史、というまさに「ねないこだれだ?」状態の教室で、突然そう語りはじめました。

40代中盤で、ひげの剃り跡が毎日新鮮に青々しいことだけが特徴の大人しい先生は、普段からひたすら教科書を朗読するだけの「睡魔に仲介マージン貰ってんのか?」と思うほど退屈な授業がお得意だったのですが、なぜかその日は教科書をある程度音読してひと息つくと、このような話を始めたのです。

 もしかしたらその日、目の前のクソガキ共の入眠率があまりにも高かったので先生はヤケクソになったのかもしれません。

私自身も「まさに今、睡魔と手を取り合って仲良く歩みだそう…」という所に、かろうじて「アイドルソング」という意外な単語で半覚醒状態に引き戻されたところでしたので。

しかしこの後の記憶が無いので、私もやはり眠ってしまったと思われます。

数年後の同窓会で、私はこの授業のことを覚えている旧友を探しましたが、この授業のことを覚えている人は1人もいませんでした。

そうなってくるとこの授業自体が私の夢だった可能性も出てくるのですが、この件の真相はきっと永遠に藪の中なのです。なぜかというとその先生は同窓会からほどなくして懲戒免職になって教職を去り、行方自体も分からなくなってしまったからです。

先生が何をやらかしてしまったかというと「女生徒へ淫行」でした。

顧問をしている部活動の女生徒と付き合ってただかホテルに連れ込んだんだかで、私も人づてにまた聞きしただけで詳しいことは分かりませんが、まったく残念なことです。

 

さて、今日は私、べつにこの話が書きたかったわけではありません。

ただ、今日の記事を書くにあたりここ数日「アイドルとは…」と想いを巡らせてきたら、ふと先生の事を思い出したのでついでに書いただけです。先生元気ですかー?

 

 はじめに

本題はここからです。

 皆様はNMB48というグループの「ドリアン少年」という曲を聞いたことがありますか?

この夏の新曲で、有線やラジオなどでは頻繁にかかるので、お耳にした事はあるもののタイトルを知らないという方が多いかもしれません。

 私、今日書きたいのはこの曲を聞いた感想というか、批評というか、ぶっちゃけこの曲のヒドさなんですよ。

 で、そのヒドさは最初、単純に「歌詞が無茶苦茶」ってところが原因だと思ったんですが、なんか色々と考えていったら私、非常に怒りがこみ上げてきまして、この怒り、私の拙い文章でうまく伝わる自信がまったくないのですが、とりあえず書いてみようと思いました。

 あとはじめに断っておきますが、私がいくらこの曲をヒドいと書いても、それはあくまでNMB48を構成している女の子達についてではないので、秋元康以外の人は批判されたと思わないようにしてもらえるとありがたいです。

ファンの人や、この曲を好きな人が読むと多少気分が良くないかもしれませんが、ただの一個人の気持ちなので「そう思う人もいるんだな」くらいに受け流して下さいませ。では。

 

 歌詞がひどい

 この曲を私が初めて聞いたのは、バイト先のコンビニの店内放送でした。

当初早口で歌詞も何を言っているのかほとんど分からなかったのですが、かろうじてサビの頭の「ブサイクもイケメンも紙一重」というフレーズだけが聞き取れてとりあえず「なんじゃそら」と思いました。

その後、バイトの度に聞いてるうちにスピードラーニング効果というか、所々の歌詞が聞き取れるようになってきて、先週とうとう「わぁほとんど聞き取れる!」となりました。

私はもう歳のせいかAKBとかSKEとかアイドルソングはもとより、最近の歌謡曲自体にとんと興味が沸かないので、別にこの曲もなんてことない流行歌として私を通り過ぎていくはずだったのですが、歌詞がほとんど聞き取れるようになると逆に「ちょっと聞き取れないところがあるのが気になる」という状態になったんですね。

それで私はとうとう歌詞を調べ、ついでだからYouTubeでPVを観てみることにしました。

 正直な感想は「なんかムカつく」でした。

 と言ってもこのPVは特に目新しい「ムカつく構成」なわけではありません。

 明るいプールサイドでメンバーの少女達が水着姿で歌い踊るという、いつものAKBグループ系ではお決まりの感じで、もちろん「誰々が可愛くない」とかそういう不快感じゃなくて、彼女たちは文句なしにみんな可愛かったです。

 しかし何度PVを観てもなんかムカつくんです。

 そこで「コレのなにがそんなに私のカンに触るんだろう」と考えてみました。

 とりあえず一つはすぐ分かりました。この曲は冒頭から書いてるように「歌詞が無茶苦茶」なんです。

 具体的に私がどこを無茶苦茶だと思ったかというと

 ①女の子同士の友情をナメてるところ

②言ってることとやってること(やらせてること)の矛盾

 この2つです。

 

これだけだと少し意味が分からないと思うのでこれから解説します。

 

①女の子同士の友情をナメてるについて

 

まずこの歌詞のあたま、そもそもの物語の始まりを分かりやすく漫画にすると

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状況はこういうことですよね。

 で、まず普通にこの友達「人としてめちゃくちゃ失礼」だと思うんですよ。

だって主人公の女の子(以下独断で夏子とする)は、素で彼氏のこと「かっこいい」と思って写真公開してるんですよ。

 それに対し「本当にかっこいいね!」と同調ができないにしても「ありえないでしょ!」は無いでしょ、友達として。

 

自分に置き換えて考えてみると、私も10代や20代前半の頃は確かにこういう「友達の彼氏公開」な場面はよくありました。

 けど、いくらそこに本当にどブサイクな男が写ってたとしても、友達が本気で好きで付き合ってるのが分かってたら、私もその場にいる他の友人も誰1人「ありえないでしょ!」なんて言うことはありませんでした。

 まぁ本人が退場した後には残った友達同士が「アレはちょっと…」と多少本音を言うことはあるし、本人が「今の彼氏ブサイクだけど観る〜?」と自ら「ブサイク」と振った場合ではノリで「ほんとだ~めっちゃブサイクじゃーん!」とか直接言っちゃう子はいたのですが、それでも夏子のように本人が「格好良くて好き」と思い込んでる場合はこれに面と向かって「ブサイクじゃん!」と告げるような子は本当に私の周りにはいなかったです。(というか、そういう非常識な子には友達が出来なかったのかも。)

 そういう気遣いを「いや、友達なら気なんか使わずに本心を言うよ」と思う人もいるかもしれませんが、私はそれは違うと思います。

 「本心を言う」って、「そのほうが友達の為になる時」は必要だと思いますが、どういう場面かをそのつど判断せず「私はいつも本心を言うの!」と決めてるのって、ただの「他人の気持ちを推し量る努力を怠った自称毒舌家の嫌な奴」だと思うんです。

 

だからこういう時に「相手が好きなものを見た目だけで無下に否定はしない判断」っていうのは、言うなれば相手の尊厳を尊重することであって「人として人付き合いをする上で最低限の常識」だと思います。

 そして現実の私の周りの友人達は、10代でもこの常識がありました。

 そう思い返すと、この歌の「夏子と友達」の友情関係はひどく薄っぺらい非現実的なものに感じます。

 でもこの歌はこの事をきっかけに夏子が「うそッ…私の彼氏ってブサイク過ぎ!?」と気が付くことで展開していくストーリーなので『歌のお膳立ての為』には「失礼な友達との友情関係」は必要なものなんですね。でも、あくまで「設定」として必要な架空の話で、全然リアルな友情関係じゃ無いと思うんです。

 まぁ、べつに歌詞の世界なんて100%妄想の事を書いたっていいのだから、これを「リアルじゃない!」という怒り方はたしかに私のいちゃもんに過ぎません。

 でも私が嫌なのは、女子の生態をよく知らないのにこういう歌詞とか漫画とか、フィクションの世界観を真に受けてるのか、世の中には「女同士の友情って薄いよな〜」って本当に思ってて言う人が現実にいるじゃないですか。

 私はその「女同士の友情が薄い」って決めつけが嫌なんです。

 そもそも「友情」の「濃い・薄い」という定義はすごく曖昧だし、「女同士の友情」とやらも、世の中の「女」というものが一個のカタマリじゃないのだから、女によって違う、個人個人で違う、と私は思うんですが、男の人の中で、時々ことあるごとに『女同士の友情って薄いよな〜』と言ってくる人がいます。

 現実にそれを言われると私は「別に男同士の友情がとりたてて濃いと思ったことも無いなぁ」と思うので、そう反論すると相手は「それは桜島さんが男じゃないから分からないんだよ」とかぬかすんですよ。

 ハァ?ですよ。

私は「えっ、そんならキミはなんで女じゃないのに女同士の友情ことが分かるの!?ふしぎふしぎ!」と矛盾に思うわけですが、それを言うとたいていは酒の席なので「まーいいじゃん」と話を打ち切られたりします。

 理不尽。

 

それで私思ったんですけど、たぶんそういう事を言う人は『女同士の友情は薄い』と思いたいだけなんですよね。その方が彼らにとって何かと都合が良いのかもしれません。

 その件はとりあえず置いておくにしても、秋元康がこの歌詞を書く時に、これを「こんな友達関係、実際無いよなー」と思いながらフィクションとして書いたか、本気で今の若い子のリアルな会話を想定して書いたか分かりませんが、もしも後者だとしたら、あんなに女の子を沢山見てる立場なのに「よくこんなデタラメ書くよな」と思ったんです。

 秋元康がどういうつもりで歌詞を書いたにせよ、こういう女の子同士のあり得ないほど薄い友情描写を見る事で「女同士の友情は浅い」と思ってる人が「やっぱり女ってこんな会話してんだなー友情薄いよなー」みたいな思いの裏付けに加担するのかと思ったら、なんかムカついたというわけです。

 

②言ってることとやってること(やらせてること)の矛盾について

 これについては説明が単純です。

 「秋元康がこの曲を誰に向けて書いたのか?」と考えると、秋元康が1番この歌詞で喜ばせたかった層=世の中の「ブサイクな自覚のある男性層」だと思います。

 それはたぶん「ブサイクな男性=身の回りの女性に相手にされない=アイドルにハマる層」という単純な連想で、ようはNMBとかAKBとかの中心的なファン層を指していて、キャバクラで言えば「太い客」です。

 つまり私はこの曲は、ズバリ秋元康「太い客」を喜ばせるために「女の子」に「太い客が喜ぶこと」を言わせてるだけの「接待ソング」なんだと思うんです。

 で、それゆえ「ブサイクもイケメンも紙一重、ブサイクもイケメンも同じこと」という歌詞がサビでたたみかけるわけですが、これを聞くと私はどうしても秋元康に対して

「お前、そんなら毎年女の子に順位付けさせんなよ!」と思うんです。

 ご存知AKBグループの女の子達は、毎年総選挙という形で多くの男性(女性も居るけど)からランキング付けされる立場にあります。

 ファンの皆様は彼女達の何を評価して順位を付けるのかというと、内面的な性格も考慮しているものの、結局は顔立ちとかスタイルとか外見的な好みが一番の理由なんじゃないかと思います。

 これに対し「ちゃんと性格で判断してる!」と言いたいファンの方もいるでしょうが、彼女達はアイドルなので、「ファンが見ることが出来る内面」というのはとても限られた一部分だけだと思います。

実際に私達が他人と出会った時、どうやって「その人を好きか嫌いか」と判断するかというと、見た目の印象よりも話して意見を交わしたり、日頃の言動を観た上で総合的な判断をするのが普通です。

 

でもアイドルに対して、実際に話したり日頃の言動を観ることは難しいですから、どうしたってそのままの見た目と、彼女達が「見せる」と判断した内面だけ(画面ごしに見える部分やブログやTwitterに書いたりする内容から分かる性格)になります。

 なので、私はAKB総選挙とは「女の子を見た目で順位付けする行事」だと思うんです。

 で、彼女達一人一人がそれを喜んでるか嫌だと思っているかは分かりませんが、参加をしている立場である以上「ブサイクも可愛い子も同じこと」では全然無いわけですよね。

 秋元康がもし本当に世の中の男性陣に対して「ブサイクもイケメンも同じ、ブサイクもイケメンも紙一重」と思ってるなら、それは女の子にも等しく適用されるべきで、「可愛い子も可愛くない子も同じ」だから「見た目で順位付けさせよう」なんて発想は浮かばない筈だと思うんです。

 でも、実際はそれを毎年やってます。

 NMBのメンバーには「私達、ブサイクもイケメンも同じだと思ってるんですよ〜ブサイクな男の人も大好きですよ〜(見た目は関係ないのよ〜)」と歌わせといて「彼女達本人はキッチリ見た目で評価させられる立場に置く」という仕打ち。

 この矛盾に私はムカつくんです。

 

 女の子が肌を晒すことの意味

 さて、ここまでは「歌詞」について、どう私がムカついてるか書いてきました。でも実はここからが私が今回本当に書きたかった本題で、私がPVを観ていて湧き上がった怒りとはどういう事なのか?を書いてきます。

 これは腹が立つというより、正確に言うと「悲しさが通り越して怒りになった」という感じです。

 と言うのも、私は今回の「ドリアン少年」のPVに限らず、少女達がメディアに出る時に下着同然に肌を晒している姿を見ると、いつも悲しくなってくるんですね。

 「何それどういう悲しさなの?」と疑問に思う人のために説明すると、夜中にテレビ点けるとなんかのバラエティ-番組がやってて、ふと気が付くと「男性芸能人と司会者女性は着衣なのに、ひな壇の後ろにいる数人の女の子だけが意味もなく水着」ってことありますよね。

 あれを見た時ってなんか悲しくならないですか? 

 

今回のPVを見た気持ちも私にとってあれと同じ種類なんです。

 え?わかりくにいですか?共感できない?

 うーん、それならちょっと小池栄子の話をしますね。

 昔、小池栄子がまだ谷間を出してバラエティーに出てた頃こんな話をしてました。

 

イエローキャブ(所属事務所)の女の子って、デビューの時は露出度のたっかい水着着て世に出るんですよ。それでだんだんと売れてくると水着も可愛い系のだったり、ミニスカートとか薄着の洋服になっていくんです。それで運良くブレイク出来たらやっとこうやって皆さんと同じようなお洋服着がさせてもらえるんですよ!」

 と。

 この話、なんか悲しくないですか?

 「 やっぱり分からん」という方の為に説明しますと、私はこの「無名な女性タレントだけが水着姿」現象小池栄子の話にあるような「タレントとしての価値上昇に比例して布の面積が増えるルール」の根底には同じ空気があると思います。

 その空気とは、芸能界において女の子だけが『肌の露出度=商品価値』として扱われる存在になってるという事です。

 ちょっとここ上手く表現出来なくてもどかしいのですが、つまり、もし無名の若手男性タレントがもっと売れたいとします。その男性タレントは、顔がある程度整ってる事以外に特に芸能人としての「価値」がまだ無いとしたら本人やマネージャーの人は何か彼に「売り」を作ろうとしますよね。

 変わった資格を取るとか、変わった経歴をくっ付けるとか、歌やダンスをさらに向上させるとか、色々と画策すると思うんです。

 でもその中のアイデアとして「いっそちょっと脱ぐか!」とは、ならないですよね。

 それは「『男性が肌を晒す』ということが、必ずしも『人々が喜ぶこと』では無い」という感覚が世の中に浸透しているからだと思うんです。

芸能界にも一般社会にも「男性の裸は笑いを誘うものであっても、視覚的に喜ばしいものではない。」という感覚ってなんとなくありますよね。

 でも、この場合の「喜ばしい・喜ばしくない」って、一体「誰目線」の話なのかと言うと結局は

「多くの一般男性にとって」ってことだと思います。

 そしてこの「喜ばしい」という意味を突き詰めて考えると結局それは「性的にそそる」ということなんじゃないかと。

 つまり世に浸透している「男性が肌を晒すということが、人が喜ぶことでは無い」という感覚は言い換えれば「男が脱いでも俺たち男は興奮しないから、男の裸は要らん。」ていう男性目線の総意ってことです。

これが世の中の常識として浸透しているから、男性タレントには「売れるために肌を晒す」という選択肢がほとんど無いんだと思うんです。

 でも、女の子にはその選択肢があるんです。

この「選択肢がある」という事を「女はいざとなったら脱げばいいから羨ましい。」という風に捉える人もいますが、私は逆で、性別で「この選択肢が無条件にくっ付けられてしまう」事の悲しさを感じます。

 先ほど書いたように芸能界には「女の子の無名タレントでも水着姿なら画面に華を添える的な役割」があったり「『タレントとしての価値』と『身に着ける布の面積』が比例するイエローキャブの女の子」みたいに、女の子の肌露出を商品価値とする現状があります。

 つまり現状「女の子は脱げば商品価値が出る」「女の子には肌を晒す選択肢がある」が人々の常識になっている以上、女性は男性に比べて「あれこれと画策する機会」が奪われてるんじゃないか?と思うんです。

だから、伸び悩んだタレントが女性だった場合、手っ取り早く人々の目に留まるために「とりあえず脱げば喜ばれるものだから脱ごうか」という短絡的な選択肢が女の子には真っ先に押し付けられてしまうと私は思うんです。

その選択肢って、あくまで色々な案の中から本人が選ぶならいいけど「女の子だからそういう目線を受ける対象物なんだから、まずはソレでしょ」という風に押し付けられるとしたら悲しいし、なんかタレントとして、人として色々見せたい部分があるのをすっ飛ばして「女体扱い」で見てもらう方法を選ばせられるのって、その子達が可哀想な気がします。

 で、こういう「男女で差が生じる現象」って本当なら時代が進むごとにどんどん無くなっていくべきことだと私は思うのですが、近頃の芸能界はこの現象がむしろ加速してる気がします。

 それは秋元康率いるAKBグループの子の出現から如実に感じます。

 しかもさらに悲しいのはその「性対象として男性を喜ばせる存在としての女の子」がどんどん低年齢化してることです。

 AKBグループ(NMBとかHKTとか含む)の子達って、平均年齢10代後半くらいで、実際は成人してる子が居ても水着じゃない時の舞台衣装って、制服風なものですから、つまり、制服という未成年の記号をまとう傍ら、胸や足をあんなに晒してるわけです。

 それをホイホイ「若くて可愛い女の子の水着姿嬉しいな〜」って飛び付く男性が世の中に沢山いるっていうのが私は変だと思います。

 まともな感性なら「こんな若いうちから不特定多数の男の目に肌を晒してオカズにされて笑ってるって、この子達のやってる事、可哀想過ぎるだろ」って思うのがスジじゃないかと。

 でもそれを平気で先頭切って女の子達にやらせる秋元康って、大人として、成人男性として、ほんとどうかしてると思いますし、それをメディアも「国民的グループ」とか「国」背負わせてるのもこの国の感性自体がどうかしてると思います。

可愛い若い女の子のアイドルが足や胸の谷間を見せてくれれば、それは見る方は喜んで見ちゃうと思います。

だけど、それで得る人気って、彼女達の歌唱力とかダンスとか、いわゆる「芸」が評価されてるのか、単に「女体」として評価されてるのか本人達も分からなくなるんじゃないかと思います。

「女体として評価されるのって、本当のアイドルの姿としてどうなんだろう?」とアイドルに詳しくないながらも私は疑問に思います。

アイドルプロデューサーという仕事は、本当なら若い彼女達の親代わりになって、親心で「芸事」の成長が出来る環境を保障してあげないといけないんじゃないかと思います。

なのに最近の秋元康のやり方って、若くて可愛い彼女達を「男性の性的興奮を掻き立てて男性から金を引き出す道具」としてしか見てない感じがするんです。

ちなみに少し調べて分かったは、NMB48はAKBグループの中でも特にそういう「色モノ」というか「男性喜ばせソング」を歌わされてるグループなんですよ。

 「イビサガール」という曲の「真夏日は恋をしよう、こんなに暑いと他にやる事も無いだろう」という歌詞も女の子達が水着のPVで歌ってる姿は実に性的な誘惑を連想させるし、「カモネギックス」という曲は「経験上危険でも女は懲りないもの、短い間でも幸せだったわ」というような「女の子がヤリ逃げされたのにその事に肯定的」というとんでもない歌詞です。

 今回のドリアン少年の歌詞も「ブサイクな男を喜ばせる為」に特化した、現実にはあり得ない空想の女の子が登場する滅茶苦茶な歌詞を作り上げて、現実のメンバーに歌わせて、女性として男性へ特に媚びた感じの曲です。

私がもしNMB48のメンバーの親だったら、もう秋元康の靴に画びょう入れたくなります。

 だから私はドリアン少年のPVを観てると、秋元康のこういう手法とか、それが受け入れられてる世の中全体に対して悲しくなってきて、悲しいの通り越して怒りになってくるわけです。

 

最後に

私は多くのアイドルの子達が持つ「世に出たい」「自分の歌や踊りを沢山の人に喜んで貰いたい」という気持ちは純粋なものだと思います。

 でも、彼女達が得たい「評価」は、本当は1人の人としての評価であって、

けしてただの「若くて可愛い女体」としての評価では無いと思うんです。

 

なんせ小池栄子はさっきの話の後に「やっぱり、こうやって服を着られるようになると嬉しいですよ!」と言ってたので、本当は「裸に近い格好をしなきゃ芸能人でいられない」ってことが、嫌だったのかなと思うんです。(だから私は初めてカンブリア宮殿でパンツスーツ姿の小池栄子を観た時、泣けました。)

だからまだ世の中のルールもろくにわからないような若い彼女達の「アイドルで有名になりたい」という純粋な気持ちを、大人が逆手にとって「この世界はそういうものだから」と安置に肌を晒させて金儲けの道具にするようなことは絶対いけないと思います。

 アイドルの中には「女体として褒められるのでも嬉しい」という子もいるとは思いますが、多くの子はそこに付きまとう「不特定多数の異性にエロい目で見られる対象」となると嬉しいわけないと思うんです。

 入り口は単純に「見てもらって褒めてもらえる」という嬉しさがあっても、それがただの女体としての評価だと分かったら悲しくなるというか、やはりどういう子でも「人として評価されたい」気持ちのほうが強くて根本にあるものなんじゃないかと思うんです。

 だから「若い女の子が肌を晒す」ってことに、世の中の人がみんな慣れ過ぎてて、今のようにアイドルの露出のインフレ状態なのは、なんとかならんもんかなぁと思います。

 「男性が見て嬉しいものだから世の中に氾濫する」っていうのは、男性にとっては心地よい世の中なのかもしれないけど、その影で沢山の女の子が「自分を商品価値のある女体として差し出すのが常識」みたいになるのは、私は下品な文化だと思います。

 芸能界の「芸」って、そういうのでないんじゃないかと。

もっと彼女達の「若くて可愛い」という身体的な見た目部分だけでは無くて、歌とかダンスとか頑張り具合とかを作る側も見る側も大事にしていかないと、これから先アイドルになりたい子なんて居なくなっちゃうんじゃないかと思います。

 

最後になりますが、さっき「ドリアン少年 歌詞」でYahoo検索したら「ドリアン少年 歌詞 ひどい」という候補が出てきたので「あ、世の中案外まともかもしれない」と思い直しました。

 

でも、今売ってるプレイボーイの表紙はAKBの子達が派手な下着っぽい水着で並んでて本当ランジェリーパブ感ハンパないので「あーあ」って思います。

思ってることが上手く書けてないところもありますが、今日はここまでにします。

ではまた。

中折れやめます

おはようございます。

私、最近気が付いたんですけど、ブログって、普段暮らしていると「あ、この件について書こう!」と思うことがたくさん出てくるけど、まとまった書く時間が取れなくて少し時間が過ぎてから「いざ書こう!」と机に向かって書き始めると、急に今書こうとしていることがなんだかどうでもいいくだらないようなことに思えてきて書く気がしゅるしゅると萎えていくっていう現象が起きるんですね。

この現象なんなんでしょう?

たぶん、これって多くのブログを書く人に共通の現象なんじゃないかと私は思うんですけれども、もしかしたら私だけの現象かもしれないし、どうなんだろうなぁ、と思いつつこの現象に万人共通の名前が無いから人に説明しずらいので、自分の中では「中折れ」って呼んでるんですけど、ブログを書いている友人に「〇〇さんも中折れする?」と聞くと語弊があるしなぁ、と思いながらここ数日過ごしてます。桜島ニニコです。

 

 

というわけで、最近私、定期的にブログが更新できなくて困っています。

私は前は、一週間に一度「今週のお題」を書くというのを自分に課してました。

でもお題というのはご存じのとおり、ランダムなものなので自分の書きたいこととお題が一致することのほうが稀です。

それでもこのブログを始めた頃の私は血気盛んだったので「自分の書きたいことストック」の中から「今週のお題」に沿うように文章を無理くりまとめるということ自体を楽しんで書いてました。

なので「無理くりまとめる」ことまでが私にとってゲームであり、ゲームのルールとして「一週間に一本」というのがあったので、定期的に更新出来ていたのですが、最近はあまりにも自分の「書きたいことストック」と「お題」がかけ離れていると、「そうまでしてこのゲームに乗る必要があるのかな?」って自分で思うようになってきたのです。

それで、徐々にお題と関係なくても自分の書きたいことストックの中から熱い思いがあるものを書いていくようになってきたんですけど、そうなると「お題」ゲームから降りたからにはその文章は私にとって「作品」でなければならない、というこだわりが生まれたんですね。

つまり、お題ゲームをしているぶんには、私にとってこのブログの文章は「自分の書きたかったことストックを「お題」に関連付けてまとめて、木曜日までに更新する」これでクリアだったわけです。

私の中の編集長がそれで「OK」をくれてたんです。

でもそのゲームを辞めて自由に書くからには「よほど読み応えのあるもの」じゃないといけなくて、お題ゲームじゃない記事を書こうとすると私の中の編集長が「てめぇ、よっぽどのことだろうな」と睨むんです。

だから気の弱い私は「あ…そこまでは、まだ意見がまとまってないっていうか…じゃあこの件は今度にします。」と引き下がってしまうんです。

これが、最近定期的に更新できない理由です。

 

あ、今日の内容って、こんなの読んでも面白い人はいないかと思うんですけど、すいません書かないと自分が気が済まないので書かせてください。

 

それで、あんまり更新しないでいると、どうなるかというと、これで私が別にブログの事を忘れて暮らせるなら問題は無いんですよ。

でも私は普段やっぱり生きてて思うこと書きたいことがちょこちょこ出てくるんです。

でも、書こうとするとうまくまとめて書けなくて中折れして、「あー自分はうまく書けないよー」と思いつつ、その件を書くのを諦めて、似てる主旨の事を書いてる記事を観ては「あ〜こういうこと、そうそう、でも私と考え方ちょっと違う、私の考えを書いた文は私が書かなきゃならないのか…」って思って、悶々として…

って感じでですね、もともと私自己顕示欲を満たすのとストレス解消の為にはじめたブログなのに、ストレス源になってることに気がついたんです。

これじゃ、あかん!

と思ったので、これからは私、自分の中で、記事を「作品」扱いするのを止めました。

中折れしてしまいこんでストレス貯めるより、

うまくまとまらない半生の気持ちでもいいから書いて出したれ、って思います。

 

私は今までお題ゲームじゃない記事を書く時は「起承転結がある」というか、「問題提起からの結論」みたいに、話としてまとまったものを書こうとしてきたんです。

でも、それでいくつかの記事が褒められたりすることによって自分の中に「次に書くもので読む人にがっかりさせちゃいけない」と思ったり、自分でも「文章下手だわこの人」って思われたくない、っていうプライドを持ち過ぎてたんじゃないかと思いむす。

 

でも、私はお金を貰ってるわけでもないし、このブログは「自分が書いてスッキリする事を、たまたま読んだ人もスッキリしたらラッキー」くらいの気持ちで書いていいんじゃないかと気がついたんです。

なにより、文章は「書かないとなまる」という特性があります。

スポーツとか何でもそうだけど、文章も書けば書くほど上手くなるわけじゃないけど、書かなきゃ書かないほど下手にはなります。

だから、「良い物を書こう」と思いつつ二の足を踏んでるより、どんどん書くほうが良い物が書ける可能性は高いんですよね、たぶん。

 

今まで、私はちゃんと書いた自分の文章をおこがましくも「作品」と思ってたけど、文章は私の排泄物、くらいの感覚でいいのかなと思うようになりました。

きれいなうんち出ると、それはそれで感動しますもんね。

 

まぁ、よく分からないかもしれませんが、これからは気楽に好きに書こうと思います。

お付き合い下さる方は改めて宜しくお願いします。

 

 

 

 

愛ある「パパ」と「お父さん」

こないだの日曜日、夫といつもの公園に散歩に行った。

こないだの日曜日に関東で外に出た人は分かるはずだけど、前日の雨で空気中の汚れが全部洗い流されている感じがしてとてもぴかぴかした空気の日だった。
 
体脂肪率15%以下の男は腹を下しやすいという特徴があるけど、私の夫も例に漏れず腹が弱い。
家を出る時は暑そうなのでTシャツ1枚で来たのに、思ったよりも新緑が深くて陽射しで暖を摂れなかったせいか、公園を一周したら案の定夫はトイレに駆け込んだ。
私はトイレの見える位置の芝生のところでベンチに座って芝生ゾーンで遊ぶ人や犬を眺めて待った。
 
女の子がバドミントンをしていた。
7.8歳くらいのその女の子は2人の大人とバドミントンをしていた。
左側にいる男の人に向かってシャトルを打つ時女の子は「パパ!」と叫ぶ。
右側にいる男の人に向かってシャトルを打つ時女の子は「おとーさん!」と叫ぶ。
 
つまり女の子は「パパ」と「お父さん」と3人でバドミントンをしていた。
 
こういう場合、2人の男性は女の子の「父親」と「祖父」だという可能性がまず普通は考えられる。
私の友達にも子供に自分の事をママと呼ばせ、自分の母親の事をお母さんと呼ばせる子がいるから、これの男性バージョンだという可能性だ。
 
しかしこの2人はそうでは無さそうだった。
2人の男性はどう見ても同年代で、父と息子ほどの年齢差は無い。
おまけに時々場所を入れ替えたりシャトルを取りに走る時、「パパ」は「おとーさん」の腰や肩にとても自然に触れる。
「おとーさん」は「パパ」の髪に付いた芝生を払ったりもする。
 
2人の間にはとても感じの良い愛情が流れているようだった。
その微笑ましさに思わず私は笑みが出そうになる。
それと同時にあまりぶしつけに見すぎてしまった気がして申し訳ない、と思って下を向いた。
 
落とした視界にバドミントンのシャトルが滑り込む。
あ、と思って顔を上げるとすぐに女の子が走ってきた。
私は拾ったシャトルを渡す。
 
女の子は片手に持ったラケットを脇の下に抱え直してわざわざ両手でシャトルを受け取った。
 
「ありがとうございます」
きちんと言ってお辞儀をしてくれた。
 
女の子が振り返って黄色いスカートが揺れる。
 
「いい子だ…。」
 
後ろ姿を見ながら思わず私は口に出していた。
目の前の芝生では「パパ」と「おとーさん」が私にごく軽い会釈をして、また3人はバドミントンを再開した。
 
いい子が居て、2人のお父さんがいて、日曜日に公園でバドミントンをして、なんだかとてもいい家族だと思った。
 
夫がトイレから出てきた。
なんか知らんが嬉しそうだ。
うんちをした後に嬉しそうな顔になるのは犬も人も同じだなぁと思っていると、夫がベンチに辿り着き私の隣に座った。
 
夫は座ると同時に「行こうか」と言う。
すぐ行くなら立ったまま言えばいいのに、この人は私と目線を同じにしてから喋る癖が付いてるからこうなる。
なんと優しき人間よ。
 
私は立ち上がって少し歩いてから
「ねー、もし自分のお父さんが2人居たらどうする?」と夫に聞いた。
 
夫はなんと答えるかな?と思っていると
彼は少し考えて「そりゃあダブル肩車よ!2人がかりで肩車してもらったら楽しいじゃん。」と嬉しそうに言った。
 
私はこういう時に「何それ?」とか「ありえないでしょ」とかグダグダ言わずに、とりあえず素直に答える夫が好きだ。
 
家に帰ってテレビを点けるとニュースがやっていた。
全米で同性婚合法化の一報を知った。
「お祝いバドミントンだったのかなぁ」と思った。
 
日本ではこの一報に色々とモノ申したい人はいると思う。
でもすぐに「何それ?」とか「ありえないでしょ」とかグダグダ言わないで、とりあえずは真っ先に「楽しそうじゃん。」と思う人が沢山いるといいと思った。
 
異性カップルも同性カップルも、家族になる楽しさは同じだから。
 
あの「パパ」と「おとーさん」と女の子が本当に親子暮らしをしているかは分からない。
でも彼らが仮に本当に親子暮らしをしていたら、それは今の日本だと「特殊な親子暮らし」になる。
 
でも彼らは日曜日の公園で、とてもただの幸せそうな家族だった。
 
だから彼らは普通で、そこに「特殊」が付くことのほうがおかしいと思う。
 
法律が追いついていないだけで、とてもただの幸せそうな家族だった。
 
世界中の彼らのような家族が暮らしやすくなるといいと思った。
 
 
全米で同性婚合法化