バカリズムのコントが酷かった件について
今さらですが年末年始の話を。
昨日のバカリズムのネタさ、(同僚女性のおっぱいを触りたい男が、極めて論理的に相手の『おっぱいを触られたくない理由』を潰していくコント)これを面白いと感じる人がいるのは分かるけど、実際に過去に「何その論理?」という理詰めで迫られて嫌だった経験ある人は笑えないよ…。純粋に怖いよ。
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2015, 12月 26
まぁ、バカリズムは「こんな事は実際に無いし、極めて真剣にエロい目的を果たそうとしてる男の滑稽さ」というのを面白みだと思ってコントにしたんだろうし「バカらしーおもしれー」と観る人が変だとも思わないけど、私は笑うの無理だったのと「これを笑える人はお気楽でいいなぁ」と思った。
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2015, 12月 26
「女は働け、女は産め」と言われても、体が2個なきゃできません
はじめに
先日のNHKの「おはよう日本」の中で放送された「資生堂ショック」の特集を皆様は観たでしょうか?
会社が用意した制度を使う女性社員が「制度に甘えてる」と言われるなら、世の中に一定数いる「自分は男だからよく分かんないけど、女なら子供産むべきだよね」と言う男性も、女の「産む機能」に甘えてると思う。
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) November 10, 2015
女の身体には、たまたま産む機能が付いてるだけで、出産にまつわる問題(社会から一度離脱することに関する弊害、育児していく環境)は、男女ともに考えていくテーマなのに、どうもその問題は一部の男性にしてみると「そっちの責任でなんとか上手くやって下さいよ!」って丸投げしてる感じに取れる。
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) November 10, 2015
そもそも子供って「産んでないけど一緒に作った人(男)」と「産んだ方の人(女)」が同じだけの責任を背負いながら育てるって意識がぼちぼち根付かないといけないだと思うんだけど、まずそこがいまだに「産んだ人に一任」てなってるのが時代遅れだと思う。なんで奥さんだけが「子供に気兼ねしながら
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) November 8, 2015
働く」のが前提なの?世の旦那さんは働く時「子供に気兼ねしながら働いて」る?ほとんどしてないでしょう。それは、今までが「しなくて済んだ社会」だったからだよね。でもそれは奥さんが働く今の時代なら、奥さんにも与えられるべきことだと思うよ。「気兼ねしなくて済む社会」になってないのに、働く
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) November 8, 2015
ことだけ「輝く」だの「活躍」だの言って促しても余計女の人ツラくなるよ。結局は、人がそういう意識だと、子供居て働く際には、奥さんが手配して子供預けたり、奥さんが会社の時短勤務制度使う方になる。しかもそれを「甘え」と言われるんじゃ、本当やってらんないでしょ。
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) November 8, 2015
両親が気兼ねなく働けるためには、社会全体にいまだ根付いてる「子供のことは母親が主責任者・父親は副責任者」みたいな意識が「両親共に最高責任者」という風に変わらないとダメだし、その上で政治で育児インフラを整える必要があると思う。全部すっ飛ばして「とにかく女性活躍」は、女にとって拷問。
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) November 8, 2015
産まなければ育児時短勤務しないから会社に「甘えるな」とか言われないし、会社も働き手として大歓迎してくれるし、「産まない」が社会的には1番生きやすい世の中だからみんな産まなくなってんだよ。「産まないが1番生きやすい社会」って、つまり「男性が生きやすい社会」ってことだかんね。
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) November 8, 2015
で、「いつまでもそれじゃ人口減って困る」って事で、そんなら「産んでも生きやすい社会=女の人が産んでも産まなくても生きやすさを損なわれない社会」を作ろうよ、と色んな女の人が話してるのにそうなると「男も生きにくい!」「辛いのは女だけじゃない!」とヤジが飛ぶから、話が進みゃしないんだ。
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) November 8, 2015
男の人も社会で辛いこといっぱいだよね。子供の主責任者じゃない代わりに家計費の主責任者扱いだもんね。他にも辛い事あるだろうし、それも解決しないといけない問題だと思う。でも産みにくい社会を治す努力は、そこも治るかもしれない努力なんだよ。だから、ヤジを飛ばさないで協力しようよ、と思う。
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) November 8, 2015
そして、その為に私は「特に悪意はないけどただ機会が無かったから考えなかっただけ」の男性にも気が付いてもらえればいいなの「お願い」を込めてそのツイートは書きました。
最近、育児を「手伝う」レベルでなく、ちゃんと「やる」日本では少数派の男性を一気に数人フォローし始めたのだけど、やっぱ彼らの悩みは「育児しながら働く母親」の悩みとほぼ同じだよ。つまり、今まで育児を取り巻く環境の「ここがやりにくい、変わって欲しい」と女が言っても「そこを上手くやる
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) November 18, 2015
のが母親の腕の見せ所、うまくやれる母親もいるんだからやれない奴の努力が足りない」みたいに一部の男性にケムに巻かれていたけど、こうして男性も育児をやれば、母親と同じ事で悩むんだから、やっぱしそれらの不満は「母親のワガママ」ではなく、世の中が悪いんだと思うよ。そろそろ認めて欲しいよ。
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) November 18, 2015
タイトルをつけるほどでもない駄文
私の文章は長いらしい。
なにしろ私がはてなブログを始めて1番多い感想が「長い」だ。
これに対し、自分ではもっと長い文章のブログもよく読むし、自分なりにいつも削りに削っての長さなので「そんなに長いかなぁ」と思うのだけど、まぁ人それぞれ「ブログたるもの何千字以内がほどよい」というモノサシがあるのだろうし、長く感じる人には長いんだろうなぁと思っている。
ところで今日私が「ですます調」ではないのにお気づきだろうか。
私は普段ブログの文章をほとんど「ですます調」で書くことにしている。
これは、私はとかく読む人に向けて「説明」をするような話を書く傾向があるので「不特定多数の人に向けて何かを説明するのにタメ口は失礼だろう」という頭が自然と働きそうなっているのだけど、今回は特に説明することもなく、主張したいこともなくただダラダラなんか書いてみようという試みなので、あえてかしこまった「ですます調」を取り払い「である調」で書いてみたのである。
不思議なもので、私はふだんtwitterでは基本「ですます調」ではないのだけど、こうしてブログ編集画面で「ですます調」ではないのは非常にやりにくい、書きにくい。
なんだか、何を書いても偉そうにみえるというか、脳科学者か何かが自分に乗り移って書かされてるような変な気分になってくる。
これは新たな発見だ。
媒体が違うだけで、なぜ文体の変化に違和感を感じるのか謎だけども、そこは深く考えずに私は初志貫徹がわりと好きなので今回は頑張って「である調」で書き切ろうと思う。
さて、なんで今日はダラダラと書こうかと思ったかというと、一言で言うと「怖くなったから」だ。
何が「怖くなった」のかと言うとまず、この頃はてなブログになにか書くとおかげさまで、当初の私の予想をはるかに超える人数の方々に読んでもらえるようになった。
それはとても嬉しいのだけど、このままの調子でいくと私は浅ましい人間なので「読む人が多くなりそうな内容を」という心境が働き、どんどん書く内容に自分で制限を加えてしまいそうなのだ。
こんな事を書くと「誰もお前の書くものなんかに期待してねーよ」と言われるかもしれない。
確かにそれはそうなのだけど、私はこの頃なんとなく「女性差別を訴える的な事を書く人」と思われてる気が少していて、私のブログを読みに来てくれる方は主にそういう文章を読むことが目的なんじゃないかと思う事が増えたのだ。
というのも、twitterで私に「何かのリストに加えられましたよ」という通知が来るとたいてい「フェミの人」とか「ジェンダー」とかそういうリストなのだ。
この通知を見ると私は、世の中のそういう事を訴えてしっかり運動している方の端くれに私が追加されたということなのか?と思い、ありがたい反面「私なんかが…」という申し訳ない気持ちになる。
話は逸れるが良い機会なので書くと、正直、私は自分で自分がフェミ二ストなのか分からない。
そもそも横文字に疎いので、「桜島さんのようなフェミ二ストが増えればいい」と言われたとしても「フェミ二スト」というのの実態がどういうもので、何をもってしてそう名付けられるのかが分からずにいるので、素直に「フェミ二ストとして褒められる」事を受け入れることに今は慣れてないのだ。
私はただ、普段暮らしていて思った事をブログに書いてたら、それが女性の立場で「女性性の押し付けを嫌う訴え」だったり「一部の男尊女卑的考えの人への文句だったり」する内容のものが多くなっていて、それでいつの間にかその位置付けをしてくれる人が居たというだけで、自分では書きながらそれが「フェミ二ストとしての訴え」というつもりが無かったので、それに驚いたという感じだ。
もちろん、私が誰かに「あなたは立派なフェミ二ストですよ!」と言われたらそれは「そうなのかー」と思う。けして「私はフェミ二ストじゃない」と反発する気は無い。
逆に「あなたはフェミニズムをっちとも分かっちゃいない」と言われたらそれも「そうかもなぁ」と思う。
しかし、そういうリストに加えられるようになった今日この頃、それなら私もそれなりにフェミニズムを勉強しないといけないのかな、と思うようにはなってきた。なので、そこは私のこれからの課題だと思う。
「怖さ」の話に戻すと、つまり要約すると私は「私の書くものを毎回『女性差別うんぬん、一部の男性批判うんぬんの話だろう』という期待だけで読まれるようになったら、ちょっと怖いなと思っている。
もちろん「面白い何かが書いてあるはず」と期待されるのはかなり嬉しい。
でも、どうも私は「社会における女性差別うんぬん」を書くための経験のストックがそれなりにあるほうの人間で、そういうのを考えたり書いたりするほうが頭が冴え、文章に熱が宿り、熱が宿ると、そういう文章は沢山読まれ易い。
いわば「そういう文章を読みたい人が私のところに集まる&私はそういう文章を書きたくて書いてる人」状態なので需要と供給が合っているんだけど、それが合い過ぎていると怖くなることがあって、1つは近頃ブログを書こうとする時に「そういうテーマで次も書こう」と勝手に「自分でテーマを狭めてる自分」が怖いのだ。
「なにが怖いの?別に自分が書きたいなら同じテーマばかりでもいいんじゃ?」と思う人もいるだろうけど、私が思うに、趣味ブログとか何かのライフハックブログみたいなのはテーマが一貫していても差し支えないけど、私のような「女性差別うんぬん」の話だと少し違う気がする。
それはどういうことかと言うと、あまりにも私のブログ一覧が「そういう事関連の話」ばかりになると、初めて私の書いたものを読みに来た人が「なるほど、この人はいつもこういう話を書いてる。つまりこれはジェンダー意識が相当高い女性が書いたものだ。」と思われてしまうと思う。私が1番怖いのはそれなのだ。
私の1番怖いのは、私の文章を読んだ人に「まぁこの人は特別にジェンダー意識を強く持って生活してるからさ、こんな事まで考えてるけど、世の中の普通の女は、こんな事まで考えてないでしょ。」というふうに「普通の女」と「そうでない女」に分けられ「そうでない女の話」に思われてしまうことなのだ。
私のブログタイトルは「限りなく透明に近いふつう」である。
これはお分かりの方も多いと思うが、作家村上龍のデビュー作「限りなく透明に近いブルー」のもじりだ。
最後が「ふつう」なのは、ただの言葉遊びではなくて、実は私がいたって「ふつうに暮らしてる人間」だという主張がちょいと含まれている。
さらには、読む人に「あなたの隣にいる一見普通の女がこれを書いてる可能性」を少し意識して欲しいという願いもあった。
だから、私の文章を読みに来た人に、私の事を「毎日ジェンダー関連の本を読みあさり、そういう運動に参加して『女性の人権をー!』と声を上げて、男性とそこらで喧嘩して暮らす田嶋陽子的な人物」を想像されると困るのだ。田嶋陽子扱いが嫌なのではない。
「こういうことに声を上げるのはどうせ田嶋陽子的な女だろう」という決め付けをされるのが嫌なのだ。
私は確かに男性が読んで耳の痛い話を書きがちだ。
それでも私は普段ふつうに暮らしている。
男性ばかりのエレベーターに乗ってしまいなんとなくボタンを押す係に任命されてもそこで「女性がみんなエレベーターガールでは無いんですよ!」と主張するわけでもなく、ボタンを押す。
男性社員に「お茶ちょうだい」と言われれば「女はお茶汲み係じゃないよ!」と反発する事もなく、まぁ自分も飲みたかったら同僚のよしみで「はいよ」と2人分淹れてあげたりもしていた。
つまり、私は普段から周りの男性に文句を付けたりバチバチやりあってる人間ではない、一見したらふつうのその辺の女だ。
だから、私の文章を読んだ人の中の「耳の痛くなった男性」が「こういううるさい女もいるみたいだけど、俺の周りの普通の女はもっと素直だし、俺らの事を受け入れて暮らしてるもんね〜。」と思うのは間違いなのだ。
私は決して「異質な女」ではなく、あなたがエレベーターに乗った時におとなしくボタンを押してくれた「その辺の素直な女」にあなたがカウントしてるほうの女だ。
もちろん「読む人の心構え」を強制はできないのだけど、なるべく「どこかのうるさい女の話」ではなく「自分の身近な話」だと思って読んで欲しい。
私がいつも一部の男性へ批判的な事を書いて、ピンと来てくれるのは主に女性で「ピンと来る」というのはつまり女性の多くはわりとすんなり「本当にこういうことあるある」と思ってくれてるっぽい手応えがあるのだ。
それは私の書くことが比較的「女の人のほうが被害を受けやすい出来事」だからだと思う。「された身」だから「身に覚えのある話」としてその辺の普通に起きる出来事として捉えてくれてるように思う。
でも男性の中には自分がそういう批判対象の男性像と違えば「桜島さんの周りには酷い男がいるもんだ。」と、他人事というか、どこか違う世界の話に思われている事が多い気がする。
でも痴漢しかり、セクハラしかり、性差別しかり、目立ったものではない水面下の悪事は、された本人しか察知出来ず(した方すら無意識のこともあるからね)ましてまっとうな男性のような外野が日常生活を送っているその「ま隣」で起きていても、気が付かれなかったりする。
だから私が書く「女で生きててこんな目に遭いました話」は、身に覚えのない男性にとっては「女の人も大変だなぁ、かわいそうだなぁ、でも痴漢もセクハラも性差別もどこでそういうの起きてるんだろうなぁ」という、私にとっては「女性に比べてピンと来てはいない感想」に感じる。
そもそも私が女性うんぬんを書く理由は1つは、自分とおなじ目に遭った、遭ってる女の人に「我慢しないで」欲しいから。
嫌なことをされたのを、心の中で無かったことにして一人で耐えないで、「嫌だったら怒る」という選択肢もあるんだよ、と言いたいから。
2つ目の理由は悪事をせずにまっとうに生きてる男性に「ま隣」の悪事に気づいて欲しいから。
ちょっと前に、現実の知り合いの知人男性の中で優しい人が私に「俺も性差別とか許せない」「言ってることよくわかるよ」と言ってくれたことがあった。
でもそういう人でさえ、「自分が攻撃される立場」じゃないせいか、アンテナがすこし鈍いように思えた。
それはどうしてそう思ったかというと、その知人男性と電車に乗っている時に、目の前でどこかの上司らしき男性が若い部下の女子に「なんだ今日、彼氏の家から来たのか?じゃあ昨夜はお泊まりか?」という質問をしていたんだけど、私はこの上司の質問をすぐ「セクハラだなぁ」と思ったけどその知人はきょとんとして後から話しても「あれはただ聞いただけでしょ?」ということを言っていた。
これがアンテナの感度の差というか、私が「アンテナの強いうるさい細かい女」だから感じて、知人男性はアンテナが鈍いから「何事も起きてない」にカウントしているという状態で、これが日本のどこかしこでも起きてるから、いま男女でセクハラとか性差別の話が噛み合わないんじゃないかと思う。
だから、私はまっとうな男性に実例を読んでもらうことで、ちょっとアンテナが鋭くなると助かる、と思う。
私の書く話を、どこか違う世界の話ではなく、あなたの隣にいる友達が、同僚が、上司が、「もしかしたら桜島にこういうことを思わせた人かもしれない」と思って受け取って欲しい。
まっとうな男性ですでにアンテナ感度ビンビンの人もすでにいると思うけど、もっと増えてほしい。
そういう一部の「悪事を働く男性」は、女性にとってだけでなく、まっとうな男性にとっても迷惑な存在だと思うから。
というわけで、私が「特殊ではないふつうの女」だとなるべく思ってもらうためには、私の記事一覧は時に「飼っていた犬の話」や「最近行ったカフェの話」とか混ぜ込む必要があると思ったのだ。
でも、見返すと最近は立て続けに女性うんぬんのことを書いてるし、自分で勝手にテーマを絞ってるような気がして、今回はそんな自分を戒める為に「一回適当なことを書いてお茶を濁す必要がある」と思って、こんな感じの駄文を書いてみているのである。
面倒くさい。面倒くさい人間だ。私は本当に自分で嫌になるくらい自分が面倒くさい。でも仕方ない。
今この段階で5,000文字を超えた。もう「長い」だろう。
でも私の筆が乗るのはだいたい6000文字超えた辺りからだから、自分ではまだまだ全然書き足りない。
今回、「長くない」のを書こうという試みもしていたのだけど、5,000文字でこんなに満足出来ないとは思わなんだ。なので、8,000文字くらいまでは書くと思う。
ちなみに今回は推敲もしていない。自分への「戒めの為」だからだ。
「ちゃんとしたものだけを世に出したい」なんていう望みは捨てると、7月に決心したのに、いつの間にか読者が増えたらまた「ちゃんとしたもの」を書こうとしてる自分が嫌だ。
だから「ちゃんと推敲した文章じゃないのを書いて出してやれ!ざまーみろ自分!」という気持ちで今回は公開する。
それに付き合ってここまで読んでくれてる人がいたら謝りたい。すいません。こんな駄文に付き合わせてごめんなさい。情緒不安定か。
さて、ここからはお茶を濁すのが目的なので、思いついたことを書くとする。
私が前回書いた高校時代から20歳までバイトしていた先の店長のことだ。
彼の愚痴を書く。
ある時、彼は店を数日休んで旅行に行った。
どこだかは忘れたけど、とにかく彼はアルバイト全員にお土産を買ってきた。
その店のアルバイトは男子が5人くらいで、女子が8人くらいいた。
いずれも高校生から大学生、フリーターという若い面々だ。私は19歳くらいだったと思う。
彼は誇らしげに土産袋を開けると、お土産を配った。
その日いたバイトのメンバーは確か男子が2人、女子が3、4人くらいだったのだけど、女子へのお土産は全員、ご当地キティちゃんのキーホルダーだった。
私はキティちゃんが好きではない。
というか幼少の頃からあらゆるキャラクターものに一切の興味が無い。
だから全く嬉しく無かった。
他の女の子はきゃあきゃあと喜んだ。
彼女達も本心から嬉しかったのかは定かでは無いが、マナーだとしてもとにかく「嬉しそうに」していた。
でも私はなんだかその日ムシの居所が悪かったのかもしれないけど、全然「ふーん」という感じを隠さず露骨に出していた。
店長の彼はその時はあまり私の様子を気にせず、次に男子にお土産を配った。
男子へのお土産はビーフジャーキーと貝ひもだった。
店長は「2人で好きな方取れよ」と言って男子は「俺貝ひも〜」「じゃ、俺ジャーキー頂きます」と言ってそれぞれを手にした。
悔しかった。
私はビーフジャーキーが好きだ。口に入れるとはじめは硬いボール紙みたいな異物感なのに、噛むほどに柔らかくなって肉の味が滲み出て美味しいところが大好きだ。
私は女子だから貝ひもとビーフジャーキーを選択する余地すら与えられず、無条件でご当地キティちゃんを手にしなきゃならないことが悔しかった。
店長は旅先でお土産を選ぶ時になんで「女子はキティ、男子は何かしょっぱいお菓子系」と思ったんだろう。
これが「女子はキティ、男子は武田信玄のキーホルダー」とかなら、百歩譲ってわかる。
もしくは「ビーフジャーキーか貝ひもを全員の人数分」なら全然わかる。
選ぶのが面倒だったんだな、と思うことも出来る。
でも「女子はキティちゃんで男子はキティちゃんは嫌だろうから何か食べ物」と、男女で分けたところが、何故かその時は猛烈に悔しかった。
私が「ふーん」という顔をしていたら店長は「桜島は嬉しくなさそうだな」と、言った。
私は今ならマナーとして「貰ったものに不平を表さない」くらいのことは出来る。
でも、その頃は子供だった。
そして日頃の彼への不満もあったかもしらない。
気がついたら「私もジャーキーが良かったですよ」と言っていた。
彼は「なんだよ、お前キティちゃん嫌いなのか、可愛くないな笑」と鼻で笑った。
そして「社会に出たらな、こういう時は素直にありがとうと喜んで見せないと、可愛がられないぞ。こいつらを見ろ(喜んでる他の女子を指して)こういうのが男は嬉しいんだ。」と言った。
私は「ビーフジャーキーだったら素直に喜んだのになぁ」と思った。
あと、もう1つ思ったのは、
彼は普段バイトの女子がブランド物の話をしていると、(その頃、私以外の女子はブランド物の財布とかカバンに目がない子が多かった)
「お前ら、ブランド物なんてみんなが欲しがるから欲しいだけだろ?本当にアレを好きなのか?お前らの年でああいうもんが似合うと思うか?今からブランド物なんて追いかけてたらバカ女になるぞ」というような説教をしていたのだけど、その話と「女ならキティを喜ぶもの」と勝手に決めつけてるのは矛盾してるような気がした。
今思うと、お土産に不満気だったのは確かに私がとても悪い。
でも、彼の怒りは「お土産を喜んで見せないマナーの悪さ」に対してというよりも、自分が「女子はみんなキティちゃんやれば喜ぶだろうな」と読んだのに、私という女子の1人がその思惑から外れた事に怒っているように感じた。
彼は女子の「軒並みブランド物を欲しがる特性」は批判するのに女子に「軒並みキティちゃんを喜ぶ特性」は求めてるんだ、と思った。
それが矛盾に思えた。
この話にオチはない。
なんでこの話を書いたかと言うと、今私はガソリンスタンド併設のドトールでこの文章を書いていて、店に入る前に給油をしたらドトールの店員であるおじさんが走ってきて、私になんとかカードの入会を勧めてきたくだりが関係している。
おじさんにカードを勧められた私が即答で「いやぁいりません」と断ったら、おじさんは「ウーン…」と悩んで見せて、その後「じゃっ、今ならキティちゃんの貯金箱あげますよ!」と満面の笑みで言った。
その言い方は「これでどうだ!」みたいな「これならいいでしょ!」みたいな、さもキティちゃんの貯金箱が良いもので、「これなら落ちる!」と確信しているかのような言い方だった。
そして私が「いや…そんなに欲しくないですね…はい」と言ったらおじさんは「えっ?なんで?この世にキティちゃんでグラつかないおなごがいるとは…!」みたいな顔で「そうですか?非売品なんですよ?本当に?」と言った。
私が「すいません、いりません」と断るとおじさんはさらに「じゃあ特別にキティちゃんのボックスティッシュも付けますよ」と言ってきて、「そういうことではない…」と思ったけど、また断ったらさすがにおじさんは諦めた。
それで店に入ってから私は「なんか前にもこんなような事あったな…」と思ってたら、バイト先のことを思い出したので書いたまでだ。
おじさんにとってそれまで「女性客へのキティちゃんアピール効果は絶大」だったんだろう。
みんないい女の人で「えっ、キティちゃんの貯金箱?わー欲し〜い!うーん、それならカード作ろうかしら〜」くらいのリアクションを本心か小芝居かで、してくれたのかもしれない。
でも、私は出来ないよ…。
欲しくないもん、キティちゃんの貯金箱…。
後ろ頭に横長の穴の空いたキティちゃん状の置き物を持って帰るのは、カードを作る面倒がチャラになるご褒美どころか、不用品回収だもん…。
おじさんの仕事っぷりに敬意を払い「そんなガラクタ貰っても困る〜」と本心は言わなかっただけで、素直に引き下がって欲しかった。
まさかキティ度数を上げるべくキティティッシュを付けようとしてくれるとは…。
それでも私は「気にしい」なので、今さっきおじさんの期待通りのリアクションをしてあげなかった事をちょっと不親切だったかな、と反省している。
でも、私がキティを欲しがらないことでおじさんの中に「キティが嬉しくないおなごもいる」という新常識が根付く事を願ってもいる。
ついでにお得意の「話を広げる」をやらせてもらうと、
世の中の「おなごたるもの、コレに飛びつく」という概念のある人々には「おなご」は「1人1人好みも思考も違う個々の特性を持った生き物だから、男子にビーフジャーキーと貝ひもの選択肢が初めから与えられてるように、すんなりとおなごにも数々の選択肢が許される頭を持って接して欲しい」と願っている。
あら!?今回も結局そういう話?ということになってしまったが、もうこういう思考回路が染みついているのかもしれない私。
というわけで、約束の8000文字を少しオーバーしたのでダラダラした話をやめさせてもらう。
ああ、やっぱり「である調」は偉そうだよ…。すいません。
次回からはまたいつもの調子で書くのでお付き合い下さる方はどうぞよろしくお願いします。
それではまた。
痴漢被害女性の話はなぜ「自慢」と言われるのか?
はじめに
話題になっている田房永子さんのコラム、私も読みました。
田房さんのコラムは毎回反響が大きく、やはり今回も多くの女性による「その通り。よく言い表してくれました!」というような賛同の声と、逆に「フェミ女の被害妄想が!」と批判するような声の賛否両論あるようでした。
今回のコラムに対して私も色々と思うところはありましたが、その内容に関してはすでに色々な方が文章を書いていますので、私はもう控えることにして、私はあのコラムにまつわる全体の流れを眺めていたらなんだか「なぜ痴漢被害女性の話は、とかく『うるせぇブス』と叩かれがちなんだろうなぁ?」ということについて考えてしまったので、それについて今回はちょっと書こうと思います。
(なお、今回は本来今月書いていた話を中断してこちらを書くので「取り急ぎ」の乱文になるかもしれません。分かりにくい箇所があったらご容赦下さい。)
私がなぜ「痴漢被害女性の書く文章はこうも批判されがちなんだろう?」と疑問に思ったかと言うと、1つは田房さんのコラム以外にもこれまで色々な女性が書いた痴漢やセクハラのような性被害を訴えた文章には必ずと言っていいほどコメント欄に暴言的なコメントが残されていたからです。
「痴漢されたと騒ぐ女はたいてい自意識過剰なんだよ。」とか「痴漢された話を自分からする神経って何なの?自慢?」とかですね。
今回の田房さんのコラムにも、Twitterでその話題になっている発言を辿っていくとやはり似たような暴言はありました。
私はこういうコメントを見ると、こういう暴言を書く人の心境が分からず「どうして赤の他人の被害体験を読み、気に入らないなら無言で去ればいいのに、わざわざ傷付くような事をサラリと書くんだろう?」と不思議に思っていました。それは腹立たしいというより、本当に「なんで?」という疑問です。
私自身も以前からこのブログで書いているように、痴漢に遭う経験は過去多くありました。
そして、現実社会で「痴漢された」と話すと、そこまで露骨に「自慢?」とか「被害妄想でしょ」とは聞かれないまでも、こちらが「アレ?」と思うような反応をされる事が時々ありました。
そういった意味では「ネット上でよく見かける痴漢被害女性の声につく暴言コメント」と私が実際に痴漢経験を話して言われた「アレ?」となる言葉達は、どちらも「なんで被害経験についてそんな事を言われるのかな?」と疑問に思う部分が共通しています。
なので私は今回改めて、なぜ痴漢被害女性の声が一部の人にとって「被害妄想」や「自慢」に聞こえてしまうのか?ということについて考えてみます。
もし私と同じように疑問に思っていた方がいましたら良ければお付き合いください。
私が「アレ?」と思った反応
私は今はネット上で過去の痴漢経験をまじえた文章を書いたりしていますが、現実の生活の中ではここ10数年間そういう話を身近な人にすることは滅多にありませんでした。
その理由を簡単に言うと、痴漢経験を話した相手の反応に「アレ?」と思う事に疲れたからです。
私が痴漢経験を、何の気なしに人に話していたのは20代前半の頃までです。その頃の私はまだ若くて、「人に話すことの怖さ」を知りませんでした。
だから単純に痴漢に遭った直後や、グループで話題が痴漢の話になった時に、普通に「私もこんな事があったよ」と話していました。
今思うと、痴漢経験を話す時の私がどういう気持ちで話し、相手にどういう反応を求めていたのかというと(当時はそんな意識なく話してましたが)たぶん単純に「話すことで憂さ晴らししたい。」というのと「共感されることで癒されたい。」の2つだったのだと思います。
そして、話した相手も「そう受け取ってくれるだろう」と思っていました。
しかし、現実はそういうものではありませんでした。
私が覚えている「アレ?」な反応を書く前に、まずは先に私の高校時代の痴漢経験がどういうものだったかを書きます。
私の高校の制服は少し変わったデザインで、一言で言うなら「萌え系アニメに出てくるような」制服でした。
そのせいもあるのか、周りにも「痴漢された」という女生徒が多かったです。
痴漢というと電車を連想する方が多いかと思いますが、私は自転車通学をしていましたが、痴漢によく遭いました。
通学路で後ろから低速で車に後を尾けられるのは日常茶飯事で、それも1人の時じゃなくとも、朝からでも、あることでした。
高校に入ってその細い小道である通学路を使うようになって、はじめの何度かは、延々と車にノロノロ運転(自転車を追い抜かない速度)で後をずっと尾けられても「車にとっては抜け道なんだろうな。自転車が邪魔で追い越せないんだな。」と思っていました。
しかし、そういう低速尾行車の半分くらいは、こちらが一旦道の脇に自転車を止めて先に行かせても、100mほど先で停車していて結局またこちらが追い越すことになり、しばらくしてまたこちらが止まって車に追い抜いてもらい、それを繰り返しながら大通りに出るまで3kmくらいノロノロと追いかけっこを繰り返すという具合でした。
私ははじめの何度かは、このような車の動向の意味が分からなかったのですが、数回目の時に停車している車の横を通りながらふと運転席を見ると、運転手の男性は股間に手をやり上下に動かしていたのです。
その瞬間、ゾッとするのと同時に「なるほど」と思いました。
ようするに怪しい車の運転手はそういう目的の為にいつも通学路を使っていたんですね。
謎が解けたと同時にそこから私の痴漢被害ライフは始まりました。
残念ながら私の住む街は小田舎なので道を変えても、そんな細い道はどこでもあり、大通りだけでは学校に行けず、どの小道にもそうした怪しい車はいました。常連の車もいましたし、1度きりの車もいましたし、数ヶ月おきの周期的に現れる車もいました。
正確な刑法では、このような「低速尾行だけ」は「痴漢」と見なさないのかもしれません。でも、こうしたノロノロ車のうちの半分くらいは「なにか」をしてきました。
ノロノロと自転車の横に来てクラクションを鳴らしてわざと裸の陰部を見せて走り去ったり、車窓から「道を聞きたいんですが」と声をかけられ、膝に地図を広げた男性の地図をよく見ると器用にまぁるく地図に穴を開けて「こんにちは」といわんばかりにモノを突起させて無表情で道の話をする男性がいたり、つまりそういうノロノロ車に尾けられている段階では事が起きるか起きないかは起きてみるまで分からなくて、その数十分間の怖さは「事が起きる時も未遂の時も同じ」なので、私の中で「低速で長距離を尾けてくる車=痴漢と同じ怖さ」にカウントしてしまいます。
ちなみに大人になって自分が車を運転をするようになって新たに分かったのは、本当に細い道だと脇に退避スペースが現れるまで仕方なく自転車をノロノロ追う形になる時がたしかにあるのですが、その時の運転席からの眺めって、なんというか実に視覚的に「狩り」っぽい気がするんですよね。
自転車に乗っている人は別にこちらから逃げてるわけじゃなく、ただのその人の進行方向なのに、なんとなく「私が追いかけるので、この自転車が逃げてる途中」みたいな感覚に陥るんです。
大きさ的にも「大きな車で細っこい自転車を追う」感じが「自分が大きな動物で、小さな獲物を追ってる状況」に錯覚しやすい感じ。
私はそういう時「あ~急がなくてもいいですよ~すいませんね~。」と申し訳なくなり心で謝ってるのですが、可虐心の強い人にとってはこの状況は楽しめるものになるんじゃないかと思います。
だから私の通学路にあんな頻繁に怪しい車がいたのは、そういう車の運転手達が、接触はしてこなくても「目の保養」くらいの気持ちで気軽に通学路に現れて気が済むまでその眺めを楽しんでいたからじゃないかと、推測ですが思います。
あと、高校時代には、他にも「痴漢にカウントするのか」が、いまだに謎な経験が多々ありました。
制服でコンビニのトイレに入ろうとすると、トイレ入り口の狭い空間でぶつかるように体を滑り込ませてくる男性がいたり、電車に乗ると隣の男性が腕組みをしながら居眠りをしていて、その握りこぶしがさりげなくグイグイ押してきているような事はよくあり、こういうのは「痴漢なのかそうじゃないのか非常にグレー」なのですがハッキリと「痴漢された!」と思う経験より、こういう「グレー経験」の方がとても多く、当時は慣れてしまい普通のことのように思っていました。
でも制服を着なくなると格段にそういうグレー経験は減ったので、今思えばそれらも、そういう事をする男性が「女子高生」の私にセーフな範囲での接触を試みた行為だったのかなと思えてきます。
私の高校時代の痴漢経験は、こうしたグレーのも含めて「痴漢経験」とみなすのならば痴漢は週3回はあることで、登校時&下校時と1日に2回遭うこともありました。書いてないケースもあといくつかありますが省きます。
さて、それで痴漢経験を話した時の「アレ?」と思った相手の反応というのは、まさに学校帰りにそういう車の運転手の1人に陰部を見せられた時の後の事です。
その日は下校後すぐバイトの予定だったので、私はバイト先に着くと思わずバイト先の店長(40代のおじさん)やバイト仲間に「今、そこで痴漢に遭ったわ~」と話しました。
私が事の詳細を話すと、同じ通学路を使っていて女子高生である数人のバイト仲間は「あの道?あそこ特にひどいよね!」とか「こわいね~ヤダ~」というような反応でしたが、店長はひとしきり女の子達が話を終えるまでニヤニヤしながら聞いた後に「そんなの、握りっ潰しちまえばよかったんだよ(笑)」と笑いました。
私は「は?」と思いました。
店長にとっては冗談なのでしょうが、なんで「仕返しの方法」が「見せられるだけで不快なモノに触って握る」なの?と、その発想は本当に訳が分かりませんでした。
女の子達は店長の発言に対し「ヤダ~」「きも~い」とキャアキャア言いましたが、店長はそのキャアキャアさえ嬉しいというような満足気な表情で、さらに「桜島みたいな女っ気のないのでも、そういう目にあうんだなぁ(笑)」と言ってきました。
私はショートヘアで、顔も地味で、自分でも確かに「女性性」とか「美少女」という要素が全くない自覚があったので、「確かにそれはそうだけど…」と思ったのですが、店長の言葉に「え、こんな反応あるんだ…」という感じで、その時はショックまではいかないものの「思ってたのと違う反応だ」ということに、モヤモヤしました。
そして、こういう風に私が「アレ?」となる反応は他にもありました。
登校時に車に尾けられ、車を撒くために大通りに迂回していたら学校に遅刻してしまった時は、教育指導の男性教師に「なんで遅れたんだ?」と聞かれたので私は「変な車に追いかけられて逃げてたので…」と言いました。すると教師は即答で「お前がそんな短いスカートを履いてるからだ」と言い、その後に「…で?何かされたのか?」と聞かれました。
その時の男性教師の目には、ただの「聴き取り調査のため」とは違う、彼の「内なる好奇心」みたいなものが感じられました。
これこそ「それはお前の邪推だろ!」と言われればそうかもしれませんし、教師の思惑がどうだったのかなんて本人以外にはわからないのですが、店長のニヤニヤも男性教師の「…で?」の言い方のニュアンスも、対面した私が「アレ?これは慰めとは違う何かだ。」と思ったのですから「そう感じた」と書かせてもらいます。
また、これは話す相手が男性に限って起こることではなく、女性同士と思って油断して痴漢話をすると「それだけ魅力的って事だと思えばいいじゃないの~」とか「女は狙われるうちが華よ~」という「なにそれ?」な反応が返ってくる事もありました。
「赤の他人にむやみに性的興奮材料にされたことを、どうして好意的に受け止められるの?この人は自分がされてもそう思って来たの?」と私はまた「慰めとは違う反応をされた」ということが不思議に思えました。
そういう、痴漢経験を話した時に相手に「なんか変なこと言われた。」と思う回数は、歳を重ねると徐々にたまっていきました。
当時は若かったので、自分の感じたその「何か変な感じに受け取られてる。」の正体がなんなのか分からなかったのですが、すごく後になって(20代前半くらいに)それを表す言葉がいわゆる「セカンドレイプ」だと知りました。
私が無邪気に痴漢被害経験を話す時、それが聞く人に寄っては「同情」や「いたわり」の心を産むものではなく『「性的刺激を誘うエンターテイメント」のようなものになってしまう事や、「若さ・魅力自慢」に取られてしまう事がある。』
そのことを知って初めて私は「人に話すことの怖さ」を知りました。
しかし他人がそれぞれ人の話に対して「何を思いどう反応するか」を強制することはもちろん出来ません。
痴漢経験を話した相手が、私の思った通りに「憂さ晴らしをただ無心で受け止めて」くれたり「可哀想に思って慰めて」くれなくても、それは仕方がないことなのです。
私は自分の望む反応だけを他人に期待する私のほうが間違いなのだと気がつきました。
それで私はそれ以降、現実の生活では痴漢経験を話すことは滅多にしなくなりました。
痴漢経験を話して「この人には、なんか違う受け取られ方をされた」と思うことは、痴漢被害そのものよりレベルは低くても、小さく心が傷付くことだからです。
小さな心傷も溜まれば心がやさぐれますから、私はその心傷を増やしてまで人に話す事じゃないと自分で判断しました。
今の私が文章で痴漢経験を書く理由
そういった訳で私はここ10数年間は現実でもネット上でも自分の痴漢経験を語る事はなるべく避けてきました。
しかし、自分もブログを始め、ネット上で他の女性達の痴漢経験の話を読む機会が増えるようになると、自分の痴漢被害のピークは過ぎたものの現時点で被害のピークにあたる年齢の子達が可哀想に思えてきました。
それがどういう事かというと、私の高校生時代はネットが無かったので、身の回りに情報が少なくて、そもそも自分がされてる事が「痴漢」なのか何なのかすら分からず、グレーな事にはそのつど「嫌だったけど、わざとじゃないのかもしれないし…」と良い方に考えれば、世の中がそんなに悪い男性ばかりじゃないと思えました。
明確な痴漢は居ても、それはごく一部の人で、グレーな事をしてきた人には「シロ」だと思い込むことが出来たのです。
また、今に比べて世の中に「女子高生」を性的視点で見ることがまだ一応「いけないもの」という認識があったように思うので、私は世の中の男性に対して希望を持つことが出来ていました。
それが、今はネットで簡単に「JKにこんなことしてやった」とか「電車でJKの髪の毛の匂い嗅いだった」というような、明らかに「性的興奮を得るためにグレーな事に及んでいる」成人男性の自白を読むことが出来てしまいます。
また、コンビニでも女子高生ものの成人向け雑誌があったり、バナー広告も制服を着た少女の姿が溢れていたり、それらの大人による『女子高生は俺らにとって充分性対象ですよ』という事実を女子高生自身に突きつけるものが、昔より当たり前のように世の中に溢れてしまっています。
これでは今の女子高生にとって「グレー」をシロと思い込むことはとても難しく、この中で時に実際にグレーな事をされ、時に明らかな痴漢をされていたら、女子高生が世の中の男性を「シロ」と思う材料が少な過ぎて、男性全体に希望が持てなくなってしまうんじゃないかと思うのです。
「世の中には善良で素晴らしい男性がいるという事実」は、本来なら女の子自身が良い恋愛経験をしたり、良い対人関係を築きながら徐々に各々の人生で知っていく事だと思います。
そしてそれは、わずかにでも女の子自身に「異性への希望」がないと、まず異性との一般的な対人関係を作る事すら難しいのです。
それなのまだろくに社会に出ておらず異性に対する希望が未確定の幼い少女のうちに「クロ」の経験ばかりを積まされる今の女子高生達は、本来なら順当に築いていけるはずだった男性に対する希望の芽を摘まれ、しかもそれは「どこかの誰かの一時の性的満足を得る為の道具にされた結果そうなってしまう」というのでは、あまりにも可哀想だなと私は思うわけです。
なので、昨今の「幼い少女を大人が性的視点で露骨に見る習慣や、あまつさえ実際に性対象として接近して何らかの痴漢行為を働くことが頻繁に起きる社会」は、今後の世の中に男性不信や男性嫌悪の女性を新たにどんどん作っていく事態だと思います。
これは、女性にとって悲しいばかりでなく男性にとっても悲しい未来だと思います。
若い頃に性的な被害を受けるとその心の傷は、少女にとって一生ものの男性不信を植え付けることになりかねません。
女子高生に対して痴漢や、それに近いグレー行為をギリギリで楽しんでいる男性にとっての女子高生は、「一時の快楽の為の道具」かもしれません。
でも、どの女の子も心を持った、その先の一生を明るく過ごす権利のある人間なんです。
「女子高生可愛いな~俺は女子高生好きだな~」と思うなら、どうかその彼女達を性的な道具ではなく、人として尊重して欲しいです。
というわけで、私はこんなような事を言う時に、この想いが自分の経験からの願いだという事に説得力が少しでも増すために、ここ最近は自分の痴漢経験をネット上では書くようになったのです。
男性が女子高生をそういう目で見る事に対して批判的になるのは、けして「ババアは男が若い女を追いかけると自分が見向きされないからって批判してんだ」ではないのです。
なぜ痴漢経験談は自慢だと思われてしまうのか?
さて、ここからまた本来の疑問に戻ります。
さきほど私は、過去に気軽に痴漢経験を話していた頃、好奇心から状況を根掘り葉掘り聞かれたり、なんだか謎のアドバイスをされたり「女にとって勲章でしょ」と言われたり、とにかく私の思惑通りに「痴漢経験が辛いものだった」という受け止められ方をされなかったことが不思議だったという話を書きました。
このたび改めて、暴力的なコメントをする人の心境も含めて「なんであの人達にこの辛さが伝わらなかったんだろう?」と考えてみたのですが、ひとつ思ったのは、そういう伝わらない人達が「そもそも痴漢に対して大きな勘違いをしている」可能性です。
それは、どういう勘違いかと言うと「痴漢=男性から見てそそる女に対して行なわれる行為」だという思い込みです。
これは確かに、完全なる間違いではないのですが、私からすると「そうとは言い切れないんだよな…」という部分があります。
もちろん単純に、お婆さんとかいかにもオバちゃんオバちゃんした中年女性がほとんど痴漢されないことから分かるように、「ある程度の容姿、年齢」がクリアしてないと痴漢は起きないという事実はあります。
だからこそ「痴漢=それなりのリスクをかけて挑むからにはそれに見あう獲物を狙う」という一般的な人の考え方が成り立つのだと思いますが、しかし、それよりももっと深いところに痴漢本人と、被害者女性にしか知りえない「真実」があります。
それは、痴漢行為をする人にとって獲物に対して重要な条件は「女としてそそる・そそらない」ではないことです。
では何が最重要条件なのかということについては後で詳しく書きますが、
私は自分が痴漢されるようになった当初は、他の人と同じように「やっぱり可愛い子とか綺麗な子を狙うんだろうな」と思っていたので、実際痴漢に遭遇してみて「痴漢はなんで私のようなボーイッシュな女に??」と思いました。
その頃の私の中にあった「痴漢をされる女の人」というのは、志村けんが変なおじさんのコントで最初に近づいて行き「何この人~?きゃあ~」と言う役のあの、2人くらいのボディコンでワンレンの女の人のイメージでした。
つまり男の人が痴漢したくなるのは「髪の長い、スタイルの良い、可愛い綺麗なお姉さん」だと思っていたのです。
なので、女性としてまだ体裁の整っていないちんちくりんな自分がそのお姉さん役に配役された事が「???」でしかありませんでした。
多分、店長がニヤニヤしていたのも「お前みたいなのも狙われるんだなぁ」も、この「変な配役」に対しての率直な感想だったのだと思います。
また、高校教師が私に事情聴取した時にどこか「好奇心」が見えたのも、こういう「いかにもそそる」ではないただの女生徒にそそられた痴漢の心理について「どれどれ、痴漢の男はこの女生徒のどこにそそられたっていうんだ?」という目で私を検分しようとした結果なのではないかと思いました。
さらに、歳上の女性が「魅力的ってことよ。」などと言ったのも、まさに「あなたも男性から見てそそる女の役が回ってくる年頃になったのよ。(でもそんな事を自慢できるのは今だけよ)」という意味だったのかなと思います。
このように「痴漢された=そそるイイ女認定」だと思っている人達には、いくら痴漢が辛かったと訴えても、通じません。
なぜなら彼らは痴漢の真実を知らないので、「辛かった」という目の前の女の言葉よりも、古来からの思い込み「そうは言っても所詮、人間とは異性に欲情されることは嬉しいものである。そそる女しか男は相手にしないものである。」という一般常識のほうが信じやすいからです。
だから辛さの訴えを受け止めるよりも「でもちょっとは嬉しいんでしょ?だから結局自慢なんでしょ?」という感想を持たれてしまうのではないか、と私なりに答えを出しました。
うまく説明出来たかわかりませんし、私なりの解釈なのですが、痴漢経験談に対して「痴漢の話して何がしたいの?自慢なの?」と本当に疑問に思う人が1人でも納得できて、今後「ただ受け止めたり、慰めたり出来る側」にまわってくれたら幸いです。
痴漢が獲物を定める時の第一条件とは?
では先ほど後回しにした「痴漢にとって獲物にする女性の最重要条件がなんなのか?」ということが残っていますのでそれについて書きます。
私は高校生になって、自分のようなそそらない女でもなぜか痴漢をされるという事を嫌というほど思い知り「そそる・そそらない」があまり関係ないという所は身をもって実感しました。
では「そそる、そそらない」より痴漢にとってさらに重要なものがなんなのか?考えたのですが、おそらくそれは
保身です。
私がこの事を分かるようになったのは、もう大人になってからでした。
大人になって、周りの色々な男性を見ていると、男性にとって社会的地位がどれほど大切なものか分かりました。
そして、痴漢は犯罪なので捕まれば社会的地位を失う大変リスクの高い行為です。
私は痴漢をしたい男性は、もしかしたらその社会的地位をかけた「賭け」のようなスリルすら、性的興奮に加味して楽しんでいるのではないか、と思いました。
そして多くのギャンブル依存者が、あまり一点買いの大穴狙いをせず、長くギャンブル生活を続けるためにある程度頭を使って「手堅いところ」を攻めるのと同じ心理で、痴漢をする人も、きっと「手堅い獲物」を狙うのです。
だから、痴漢にとっての獲物の最優先条件はズバリ「捕まらないこと」=「騒ぎそうもない獲物であること」なんだと思います。
そして、それをクリアしていてなおかつ女子高生が好きな男性にとっては「制服を着ていること」が第2条件に来るんです。
彼らは恐らく女子高生1人1人を人間とは思っていないので「制服」という記号を身につけた女の子であれば、本当に著しく見てくれが悪くない限りは狙います。
ブスでも地味でも髪が短くても色黒でも運動部でも、狙います。特に細めで小さい子ならなおのこと狙います。
もちろん、その中でもより可愛い子のほうが望ましいのでしょうが、可愛い子は「どこかギャルっぽい要素がある子」だったり「世慣れしていそうな子」だったりして「騒ぎそうもない」という条件を満たさない事が多いです。
普通の一般的な感覚なら、「どうせ危険を冒してまで触るなら可愛い子に決まってんだろ」なのですが、痴漢はその「危険を冒して」の危険値を最大限まで落としたいのです。
だから分かりやすく言うと、女子高生であるという条件を満たしてさえいれば、その中で「可愛い」という贅沢オプションを付けるより「騒ぎそうもない」という安全オプションを付けたがるのです。
痴漢は「そそるそそらない」より「安全第一」なのです。
そう思うと痴漢をする人は、自分は見知らぬ女の子の人生に一生ものの傷をつける行為をしながら、自分の人生は守りたいという本当に本当に卑劣極まりない神経の持ち主だと思います。
これは全部私の憶測ですから「一理ある」と思い、信じたい人が信じてくれればいいです。
ただ、女の子で「私なんて痴漢に狙われないよ~」と思って無用心に生活している子には親心で「ちゃんと気をつけて!」と言いたいです。
私も本当に自分が狙われるなんて思ってなかったのに被害はあったし、周りの痴漢被害者の子も結構みんなはじめはそういう「私なんて平気でしょ」という油断から、夜道を一人歩きしたりして被害に遭ってます。
あなたは「私なんてブスだし、周りにもっと可愛い子いっぱいいるし…」と思ってても、大人になった私から見ると女学生って若い女の子って、本当にそれだけで全員とてもとても可愛いものなんです。全員じゅうぶん気をつけて貰いたいです。
もちろん気をつけない女の子が悪いのではなく、悪いのは当然痴漢をする大人なのだけど、そういうことを用心しないで済む理想の社会にはまだまだ現実は追いついてないので、仕方ないけど頑張って自衛して下さい。
最後に
というわけで、初心に戻りまして、まとめます。
今回は「なぜ痴漢被害女性の話は、こうも『うるせぇブス』と叩かれがちなのか?」という疑問に始まったのですが、その答えを端的に言うならば
『痴漢経験者と未経験では「痴漢の獲物になる女性像」に違いがあるから』ということになりますかね。
未経験者が痴漢経験談を聞く時「やれやれ、またどっかのクソブスが少しの事を痴漢されたと騒いで、自分がモテるって言いたいわけ?」と思うのは「クソブスが狙われないと思っているのと、狙われるのは女にとってありがたいこと」だと思っているからだと思います。
本当はクソブスでも「弱そう」なら狙われますし、痴漢に狙われるのは女にとってありがたくもなく、一時の性的興奮材料として認定されるという人として最も屈辱的な事です。
そこは本当に多分、痴漢に遭った女性のほとんどが「屈辱的」と感じていると思います。
女性の中で、たまたま周りに酷い男性ばかりの環境にいたり、性被害の経験があったりして、世の中男性全部が不信で男性嫌悪の人がいますが、男性にも同じように女性に対して「いつも悪いのは男だって顔しやがって。」みたいに、女性全体を嫌悪する人がいます。
私はみんな仲良く幸せにくらせる社会を望んでますけども、そういう人たちにまで「まぁまぁあなた方仲良くしなさいな」とは思いません。
その人たちはおのおの異性から酷いことをされて、異性全体に対する恨みが一生消えないほどに残っているわけなので、それを他人が簡単に「もう水に流した方が楽だよ」なんて言うのはその人の傷を「こんなの浅い浅い!」と軽視している行為だと思うからです。
酷いことをされた人の心に一生消えない恨みが残るのは人の気持ちとして理解できるので「和解しなさいなー」なんて私は思わないんです。
ただ、いくら恨んでも恨まれても互いに人間ですから寿命まではおなじ世の中に生きていくわけです。なので、せめて「関わらないで」生きていけばいいと思います。
だから「何を聞いても女の話はムカつくんだよ」というような男性は、今後誰かの痴漢経験談を見たり聞いたりしたら「慰めてあげたり」とか「肯定的な事を言ってあげたり」なんて願わないので、せめて「黙って立ち去ってあげて」欲しいです。お願いします。
今回、痴漢について女性側からの意見をつらつらと書くことで「被害話ばかりで、痴漢冤罪についてどう思うんだ?」みたいな事言われるのかなーとも思うのですが、それは私が書くことではなく、痴漢冤罪被害について思うところのある人が書くべきことだと思います。
私は痴漢に限らず「冤罪」は、まぁ許せません。
でも、痴漢被害の話をする時に「そうは言っても冤罪被害だって多い!」という言葉で痴漢被害の話をかき消されるのを見かけると「その話は違う話だよ。」と思います。
世の中には痴漢冤罪被害もあるし、痴漢被害もあります。
2つは全く別の話だから話す時は分けて話そうよ、という感じです。
今回私から出来るのは痴漢被害談の話です。
私はこれからも現実生活では多分こういう話をしないと思います。
誰が「自慢?」という反応をするか分からなくて、身近な人にそれをされる時の失望感が怖くていまだにそれは出来ません。
それでも、ネットにこういう文章を書くのは、まぁこれを読んで多少誰がが納得したり慰められたりすればいいかなという気持ちからです。
特に既に若い女の子で男性に痴漢や性暴力をされて「男の人が怖い、嫌い」と思ってしまっている子に、私は「全部の男の人が悪い人じゃないからどうか希望は捨てないでね。」と伝えたいです。
ついた傷が深いとなかなかそう思えないかもしれないけど、どうか希望を持って生きて欲しいと、元女子高生だった女が今の女子高生に思います。
あと、これを読んで改心するような人は初めから痴漢などしないと思うのですが、それでも痴漢予備軍というか「もし機会があれば…」なんて思ってる男性がいたら思い改めて下さい。
本当にやめろ。
「ちょっと」と言っておいてまた長くなってしまいましたが、最後までお読み頂いた方、どうもありがとうございました。
コンビニと成人向け雑誌と私
はじめに
コンビニのエロ本陳列問題
コンビニにエロ本なんて冷静に考えたら意味がわからないけど、そんなこともおかしいと思えなくさせられてるの怖い。
当たり前のように存在してると当たり前のように認識してしまうんだよね。
あれどういう経緯で置くようになったんだろう。
— 眠れる森の8 (@nemurerumorino8) September 1, 2015
「嫌だなぁ」が共感できない人
想像できない人
男性ももし自分が思春期で、コンビニに入ったら『学ランをはだけさせた悶え顏の少年が表紙でタイトルが「男子高校生を犯したい」みたいな雑誌』がわんさか並んでたら不快だろうし、「この国の大人はどないなっとんじゃ?」って思いますよね。現に、今の女子高生はその状況で生きてんですよ、可哀想に。
— 桜島ニニコ (@ninicosachico) September 2, 2015
ひとつの方法案
コンビニのエロ本って、大概カバーとかしてあって立ち読み出来ないよね。どうせそうなら、あんだけ目触りな商品をあんなにスペース取って陳列するより、手のひらサイズ位のカード的なもの(表紙の縮小版が印刷されてる)のを売り場には並べておいて、買いたい人はカードをレジに持ってくる方式のほうが
— 桜島ニニコ (@ninicosachico) September 2, 2015
良いような気がする。買う方の恥ずかしさはあまり変わらないし、バイトが高校生だったら可哀想だと思うけど、現状、あのエロ本陳列棚のホコリ取りをさせられてるのも充分可哀想だし、それよりマシになる気がする。
— 桜島ニニコ (@ninicosachico) September 2, 2015
最後に
恋愛工学は「自分だけが主人公」のゲームのようなもの
人生の総決算期に
さいごに
トピック「恋愛工学」について
NMB48の「ドリアン少年」を聞いたら秋元康に怒りしか沸かない
「昔は良かった」という言葉を、私は極力言いたくない。
「昔は良かった」という言葉は、暗に「今は良くない」と言っているように聞こえる。
「昔は良かった」という言葉は、「自分が若かったころの良さしか認められない愚かな年寄りの言うこと」に聞こえる。だから私はけして「昔は良かった」とは言わないことにしている。
しかし、そうは言ってもこの世には確かに「昔のほうが良かったもの」も存在する。
君たちはそれが何だと思う?
答えは、そう
「アイドルソング」だ。
1994年。当時中学2年生だった私のクラスの歴史の先生は、4時間目がプール、その後に給食、そして5時間目の歴史、というまさに「ねないこだれだ?」状態の教室で、突然そう語りはじめました。
40代中盤で、ひげの剃り跡が毎日新鮮に青々しいことだけが特徴の大人しい先生は、普段からひたすら教科書を朗読するだけの「睡魔に仲介マージン貰ってんのか?」と思うほど退屈な授業がお得意だったのですが、なぜかその日は教科書をある程度音読してひと息つくと、このような話を始めたのです。
もしかしたらその日、目の前のクソガキ共の入眠率があまりにも高かったので先生はヤケクソになったのかもしれません。
私自身も「まさに今、睡魔と手を取り合って仲良く歩みだそう…」という所に、かろうじて「アイドルソング」という意外な単語で半覚醒状態に引き戻されたところでしたので。
しかしこの後の記憶が無いので、私もやはり眠ってしまったと思われます。
数年後の同窓会で、私はこの授業のことを覚えている旧友を探しましたが、この授業のことを覚えている人は1人もいませんでした。
そうなってくるとこの授業自体が私の夢だった可能性も出てくるのですが、この件の真相はきっと永遠に藪の中なのです。なぜかというとその先生は同窓会からほどなくして懲戒免職になって教職を去り、行方自体も分からなくなってしまったからです。
先生が何をやらかしてしまったかというと「女生徒へ淫行」でした。
顧問をしている部活動の女生徒と付き合ってただかホテルに連れ込んだんだかで、私も人づてにまた聞きしただけで詳しいことは分かりませんが、まったく残念なことです。
さて、今日は私、べつにこの話が書きたかったわけではありません。
ただ、今日の記事を書くにあたりここ数日「アイドルとは…」と想いを巡らせてきたら、ふと先生の事を思い出したのでついでに書いただけです。先生元気ですかー?
はじめに
本題はここからです。
皆様はNMB48というグループの「ドリアン少年」という曲を聞いたことがありますか?
この夏の新曲で、有線やラジオなどでは頻繁にかかるので、お耳にした事はあるもののタイトルを知らないという方が多いかもしれません。
私、今日書きたいのはこの曲を聞いた感想というか、批評というか、ぶっちゃけこの曲のヒドさなんですよ。
で、そのヒドさは最初、単純に「歌詞が無茶苦茶」ってところが原因だと思ったんですが、なんか色々と考えていったら私、非常に怒りがこみ上げてきまして、この怒り、私の拙い文章でうまく伝わる自信がまったくないのですが、とりあえず書いてみようと思いました。
あとはじめに断っておきますが、私がいくらこの曲をヒドいと書いても、それはあくまでNMB48を構成している女の子達についてではないので、秋元康以外の人は批判されたと思わないようにしてもらえるとありがたいです。
ファンの人や、この曲を好きな人が読むと多少気分が良くないかもしれませんが、ただの一個人の気持ちなので「そう思う人もいるんだな」くらいに受け流して下さいませ。では。
歌詞がひどい
この曲を私が初めて聞いたのは、バイト先のコンビニの店内放送でした。
当初早口で歌詞も何を言っているのかほとんど分からなかったのですが、かろうじてサビの頭の「ブサイクもイケメンも紙一重」というフレーズだけが聞き取れてとりあえず「なんじゃそら」と思いました。
その後、バイトの度に聞いてるうちにスピードラーニング効果というか、所々の歌詞が聞き取れるようになってきて、先週とうとう「わぁほとんど聞き取れる!」となりました。
私はもう歳のせいかAKBとかSKEとかアイドルソングはもとより、最近の歌謡曲自体にとんと興味が沸かないので、別にこの曲もなんてことない流行歌として私を通り過ぎていくはずだったのですが、歌詞がほとんど聞き取れるようになると逆に「ちょっと聞き取れないところがあるのが気になる」という状態になったんですね。
それで私はとうとう歌詞を調べ、ついでだからYouTubeでPVを観てみることにしました。
正直な感想は「なんかムカつく」でした。
と言ってもこのPVは特に目新しい「ムカつく構成」なわけではありません。
明るいプールサイドでメンバーの少女達が水着姿で歌い踊るという、いつものAKBグループ系ではお決まりの感じで、もちろん「誰々が可愛くない」とかそういう不快感じゃなくて、彼女たちは文句なしにみんな可愛かったです。
しかし何度PVを観てもなんかムカつくんです。
そこで「コレのなにがそんなに私のカンに触るんだろう」と考えてみました。
とりあえず一つはすぐ分かりました。この曲は冒頭から書いてるように「歌詞が無茶苦茶」なんです。
具体的に私がどこを無茶苦茶だと思ったかというと
①女の子同士の友情をナメてるところ
②言ってることとやってること(やらせてること)の矛盾
この2つです。
これだけだと少し意味が分からないと思うのでこれから解説します。
①女の子同士の友情をナメてるについて
まずこの歌詞のあたま、そもそもの物語の始まりを分かりやすく漫画にすると
状況はこういうことですよね。
で、まず普通にこの友達「人としてめちゃくちゃ失礼」だと思うんですよ。
だって主人公の女の子(以下独断で夏子とする)は、素で彼氏のこと「かっこいい」と思って写真公開してるんですよ。
それに対し「本当にかっこいいね!」と同調ができないにしても「ありえないでしょ!」は無いでしょ、友達として。
自分に置き換えて考えてみると、私も10代や20代前半の頃は確かにこういう「友達の彼氏公開」な場面はよくありました。
けど、いくらそこに本当にどブサイクな男が写ってたとしても、友達が本気で好きで付き合ってるのが分かってたら、私もその場にいる他の友人も誰1人「ありえないでしょ!」なんて言うことはありませんでした。
まぁ本人が退場した後には残った友達同士が「アレはちょっと…」と多少本音を言うことはあるし、本人が「今の彼氏ブサイクだけど観る〜?」と自ら「ブサイク」と振った場合ではノリで「ほんとだ~めっちゃブサイクじゃーん!」とか直接言っちゃう子はいたのですが、それでも夏子のように本人が「格好良くて好き」と思い込んでる場合はこれに面と向かって「ブサイクじゃん!」と告げるような子は本当に私の周りにはいなかったです。(というか、そういう非常識な子には友達が出来なかったのかも。)
そういう気遣いを「いや、友達なら気なんか使わずに本心を言うよ」と思う人もいるかもしれませんが、私はそれは違うと思います。
「本心を言う」って、「そのほうが友達の為になる時」は必要だと思いますが、どういう場面かをそのつど判断せず「私はいつも本心を言うの!」と決めてるのって、ただの「他人の気持ちを推し量る努力を怠った自称毒舌家の嫌な奴」だと思うんです。
だからこういう時に「相手が好きなものを見た目だけで無下に否定はしない判断」っていうのは、言うなれば相手の尊厳を尊重することであって「人として人付き合いをする上で最低限の常識」だと思います。
そして現実の私の周りの友人達は、10代でもこの常識がありました。
そう思い返すと、この歌の「夏子と友達」の友情関係はひどく薄っぺらい非現実的なものに感じます。
でもこの歌はこの事をきっかけに夏子が「うそッ…私の彼氏ってブサイク過ぎ!?」と気が付くことで展開していくストーリーなので『歌のお膳立ての為』には「失礼な友達との友情関係」は必要なものなんですね。でも、あくまで「設定」として必要な架空の話で、全然リアルな友情関係じゃ無いと思うんです。
まぁ、べつに歌詞の世界なんて100%妄想の事を書いたっていいのだから、これを「リアルじゃない!」という怒り方はたしかに私のいちゃもんに過ぎません。
でも私が嫌なのは、女子の生態をよく知らないのにこういう歌詞とか漫画とか、フィクションの世界観を真に受けてるのか、世の中には「女同士の友情って薄いよな〜」って本当に思ってて言う人が現実にいるじゃないですか。
私はその「女同士の友情が薄い」って決めつけが嫌なんです。
そもそも「友情」の「濃い・薄い」という定義はすごく曖昧だし、「女同士の友情」とやらも、世の中の「女」というものが一個のカタマリじゃないのだから、女によって違う、個人個人で違う、と私は思うんですが、男の人の中で、時々ことあるごとに『女同士の友情って薄いよな〜』と言ってくる人がいます。
現実にそれを言われると私は「別に男同士の友情がとりたてて濃いと思ったことも無いなぁ」と思うので、そう反論すると相手は「それは桜島さんが男じゃないから分からないんだよ」とかぬかすんですよ。
ハァ?ですよ。
私は「えっ、そんならキミはなんで女じゃないのに女同士の友情ことが分かるの!?ふしぎふしぎ!」と矛盾に思うわけですが、それを言うとたいていは酒の席なので「まーいいじゃん」と話を打ち切られたりします。
理不尽。
それで私思ったんですけど、たぶんそういう事を言う人は『女同士の友情は薄い』と思いたいだけなんですよね。その方が彼らにとって何かと都合が良いのかもしれません。
その件はとりあえず置いておくにしても、秋元康がこの歌詞を書く時に、これを「こんな友達関係、実際無いよなー」と思いながらフィクションとして書いたか、本気で今の若い子のリアルな会話を想定して書いたか分かりませんが、もしも後者だとしたら、あんなに女の子を沢山見てる立場なのに「よくこんなデタラメ書くよな」と思ったんです。
秋元康がどういうつもりで歌詞を書いたにせよ、こういう女の子同士のあり得ないほど薄い友情描写を見る事で「女同士の友情は浅い」と思ってる人が「やっぱり女ってこんな会話してんだなー友情薄いよなー」みたいな思いの裏付けに加担するのかと思ったら、なんかムカついたというわけです。
②言ってることとやってること(やらせてること)の矛盾について
これについては説明が単純です。
「秋元康がこの曲を誰に向けて書いたのか?」と考えると、秋元康が1番この歌詞で喜ばせたかった層=世の中の「ブサイクな自覚のある男性層」だと思います。
それはたぶん「ブサイクな男性=身の回りの女性に相手にされない=アイドルにハマる層」という単純な連想で、ようはNMBとかAKBとかの中心的なファン層を指していて、キャバクラで言えば「太い客」です。
つまり私はこの曲は、ズバリ秋元康が「太い客」を喜ばせるために「女の子」に「太い客が喜ぶこと」を言わせてるだけの「接待ソング」なんだと思うんです。
で、それゆえ「ブサイクもイケメンも紙一重、ブサイクもイケメンも同じこと」という歌詞がサビでたたみかけるわけですが、これを聞くと私はどうしても秋元康に対して
「お前、そんなら毎年女の子に順位付けさせんなよ!」と思うんです。
ファンの皆様は彼女達の何を評価して順位を付けるのかというと、内面的な性格も考慮しているものの、結局は顔立ちとかスタイルとか外見的な好みが一番の理由なんじゃないかと思います。
これに対し「ちゃんと性格で判断してる!」と言いたいファンの方もいるでしょうが、彼女達はアイドルなので、「ファンが見ることが出来る内面」というのはとても限られた一部分だけだと思います。
実際に私達が他人と出会った時、どうやって「その人を好きか嫌いか」と判断するかというと、見た目の印象よりも話して意見を交わしたり、日頃の言動を観た上で総合的な判断をするのが普通です。
でもアイドルに対して、実際に話したり日頃の言動を観ることは難しいですから、どうしたってそのままの見た目と、彼女達が「見せる」と判断した内面だけ(画面ごしに見える部分やブログやTwitterに書いたりする内容から分かる性格)になります。
なので、私はAKB総選挙とは「女の子を見た目で順位付けする行事」だと思うんです。
で、彼女達一人一人がそれを喜んでるか嫌だと思っているかは分かりませんが、参加をしている立場である以上「ブサイクも可愛い子も同じこと」では全然無いわけですよね。
秋元康がもし本当に世の中の男性陣に対して「ブサイクもイケメンも同じ、ブサイクもイケメンも紙一重」と思ってるなら、それは女の子にも等しく適用されるべきで、「可愛い子も可愛くない子も同じ」だから「見た目で順位付けさせよう」なんて発想は浮かばない筈だと思うんです。
でも、実際はそれを毎年やってます。
NMBのメンバーには「私達、ブサイクもイケメンも同じだと思ってるんですよ〜ブサイクな男の人も大好きですよ〜(見た目は関係ないのよ〜)」と歌わせといて「彼女達本人はキッチリ見た目で評価させられる立場に置く」という仕打ち。
この矛盾に私はムカつくんです。
女の子が肌を晒すことの意味
さて、ここまでは「歌詞」について、どう私がムカついてるか書いてきました。でも実はここからが私が今回本当に書きたかった本題で、私がPVを観ていて湧き上がった怒りとはどういう事なのか?を書いてきます。
これは腹が立つというより、正確に言うと「悲しさが通り越して怒りになった」という感じです。
と言うのも、私は今回の「ドリアン少年」のPVに限らず、少女達がメディアに出る時に下着同然に肌を晒している姿を見ると、いつも悲しくなってくるんですね。
「何それどういう悲しさなの?」と疑問に思う人のために説明すると、夜中にテレビ点けるとなんかのバラエティ-番組がやってて、ふと気が付くと「男性芸能人と司会者女性は着衣なのに、ひな壇の後ろにいる数人の女の子だけが意味もなく水着」ってことありますよね。
あれを見た時ってなんか悲しくならないですか?
今回のPVを見た気持ちも私にとってあれと同じ種類なんです。
え?わかりくにいですか?共感できない?
うーん、それならちょっと小池栄子の話をしますね。
昔、小池栄子がまだ谷間を出してバラエティーに出てた頃こんな話をしてました。
「イエローキャブ(所属事務所)の女の子って、デビューの時は露出度のたっかい水着着て世に出るんですよ。それでだんだんと売れてくると水着も可愛い系のだったり、ミニスカートとか薄着の洋服になっていくんです。それで運良くブレイク出来たらやっとこうやって皆さんと同じようなお洋服着がさせてもらえるんですよ!」
と。
この話、なんか悲しくないですか?
「 やっぱり分からん」という方の為に説明しますと、私はこの「無名な女性タレントだけが水着姿」現象や小池栄子の話にあるような「タレントとしての価値上昇に比例して布の面積が増えるルール」の根底には同じ空気があると思います。
その空気とは、芸能界において女の子だけが『肌の露出度=商品価値』として扱われる存在になってるという事です。
ちょっとここ上手く表現出来なくてもどかしいのですが、つまり、もし無名の若手男性タレントがもっと売れたいとします。その男性タレントは、顔がある程度整ってる事以外に特に芸能人としての「価値」がまだ無いとしたら本人やマネージャーの人は何か彼に「売り」を作ろうとしますよね。
変わった資格を取るとか、変わった経歴をくっ付けるとか、歌やダンスをさらに向上させるとか、色々と画策すると思うんです。
でもその中のアイデアとして「いっそちょっと脱ぐか!」とは、ならないですよね。
それは「『男性が肌を晒す』ということが、必ずしも『人々が喜ぶこと』では無い」という感覚が世の中に浸透しているからだと思うんです。
芸能界にも一般社会にも「男性の裸は笑いを誘うものであっても、視覚的に喜ばしいものではない。」という感覚ってなんとなくありますよね。
でも、この場合の「喜ばしい・喜ばしくない」って、一体「誰目線」の話なのかと言うと結局は
「多くの一般男性にとって」ってことだと思います。
そしてこの「喜ばしい」という意味を突き詰めて考えると結局それは「性的にそそる」ということなんじゃないかと。
つまり世に浸透している「男性が肌を晒すということが、人が喜ぶことでは無い」という感覚は言い換えれば「男が脱いでも俺たち男は興奮しないから、男の裸は要らん。」ていう男性目線の総意ってことです。
これが世の中の常識として浸透しているから、男性タレントには「売れるために肌を晒す」という選択肢がほとんど無いんだと思うんです。
でも、女の子にはその選択肢があるんです。
この「選択肢がある」という事を「女はいざとなったら脱げばいいから羨ましい。」という風に捉える人もいますが、私は逆で、性別で「この選択肢が無条件にくっ付けられてしまう」事の悲しさを感じます。
先ほど書いたように芸能界には「女の子の無名タレントでも水着姿なら画面に華を添える的な役割」があったり「『タレントとしての価値』と『身に着ける布の面積』が比例するイエローキャブの女の子」みたいに、女の子の肌露出を商品価値とする現状があります。
つまり現状「女の子は脱げば商品価値が出る」「女の子には肌を晒す選択肢がある」が人々の常識になっている以上、女性は男性に比べて「あれこれと画策する機会」が奪われてるんじゃないか?と思うんです。
だから、伸び悩んだタレントが女性だった場合、手っ取り早く人々の目に留まるために「とりあえず脱げば喜ばれるものだから脱ごうか」という短絡的な選択肢が女の子には真っ先に押し付けられてしまうと私は思うんです。
その選択肢って、あくまで色々な案の中から本人が選ぶならいいけど「女の子だからそういう目線を受ける対象物なんだから、まずはソレでしょ」という風に押し付けられるとしたら悲しいし、なんかタレントとして、人として色々見せたい部分があるのをすっ飛ばして「女体扱い」で見てもらう方法を選ばせられるのって、その子達が可哀想な気がします。
で、こういう「男女で差が生じる現象」って本当なら時代が進むごとにどんどん無くなっていくべきことだと私は思うのですが、近頃の芸能界はこの現象がむしろ加速してる気がします。
それは秋元康率いるAKBグループの子の出現から如実に感じます。
しかもさらに悲しいのはその「性対象として男性を喜ばせる存在としての女の子」がどんどん低年齢化してることです。
AKBグループ(NMBとかHKTとか含む)の子達って、平均年齢10代後半くらいで、実際は成人してる子が居ても水着じゃない時の舞台衣装って、制服風なものですから、つまり、制服という未成年の記号をまとう傍ら、胸や足をあんなに晒してるわけです。
それをホイホイ「若くて可愛い女の子の水着姿嬉しいな〜」って飛び付く男性が世の中に沢山いるっていうのが私は変だと思います。
まともな感性なら「こんな若いうちから不特定多数の男の目に肌を晒してオカズにされて笑ってるって、この子達のやってる事、可哀想過ぎるだろ」って思うのがスジじゃないかと。
でもそれを平気で先頭切って女の子達にやらせる秋元康って、大人として、成人男性として、ほんとどうかしてると思いますし、それをメディアも「国民的グループ」とか「国」背負わせてるのもこの国の感性自体がどうかしてると思います。
可愛い若い女の子のアイドルが足や胸の谷間を見せてくれれば、それは見る方は喜んで見ちゃうと思います。
だけど、それで得る人気って、彼女達の歌唱力とかダンスとか、いわゆる「芸」が評価されてるのか、単に「女体」として評価されてるのか本人達も分からなくなるんじゃないかと思います。
「女体として評価されるのって、本当のアイドルの姿としてどうなんだろう?」とアイドルに詳しくないながらも私は疑問に思います。
アイドルプロデューサーという仕事は、本当なら若い彼女達の親代わりになって、親心で「芸事」の成長が出来る環境を保障してあげないといけないんじゃないかと思います。
なのに最近の秋元康のやり方って、若くて可愛い彼女達を「男性の性的興奮を掻き立てて男性から金を引き出す道具」としてしか見てない感じがするんです。
ちなみに少し調べて分かったは、NMB48はAKBグループの中でも特にそういう「色モノ」というか「男性喜ばせソング」を歌わされてるグループなんですよ。
「イビサガール」という曲の「真夏日は恋をしよう、こんなに暑いと他にやる事も無いだろう」という歌詞も女の子達が水着のPVで歌ってる姿は実に性的な誘惑を連想させるし、「カモネギックス」という曲は「経験上危険でも女は懲りないもの、短い間でも幸せだったわ」というような「女の子がヤリ逃げされたのにその事に肯定的」というとんでもない歌詞です。
今回のドリアン少年の歌詞も「ブサイクな男を喜ばせる為」に特化した、現実にはあり得ない空想の女の子が登場する滅茶苦茶な歌詞を作り上げて、現実のメンバーに歌わせて、女性として男性へ特に媚びた感じの曲です。
私がもしNMB48のメンバーの親だったら、もう秋元康の靴に画びょう入れたくなります。
だから私はドリアン少年のPVを観てると、秋元康のこういう手法とか、それが受け入れられてる世の中全体に対して悲しくなってきて、悲しいの通り越して怒りになってくるわけです。
最後に
私は多くのアイドルの子達が持つ「世に出たい」「自分の歌や踊りを沢山の人に喜んで貰いたい」という気持ちは純粋なものだと思います。
でも、彼女達が得たい「評価」は、本当は1人の人としての評価であって、
けしてただの「若くて可愛い女体」としての評価では無いと思うんです。
なんせ小池栄子はさっきの話の後に「やっぱり、こうやって服を着られるようになると嬉しいですよ!」と言ってたので、本当は「裸に近い格好をしなきゃ芸能人でいられない」ってことが、嫌だったのかなと思うんです。(だから私は初めてカンブリア宮殿でパンツスーツ姿の小池栄子を観た時、泣けました。)
だからまだ世の中のルールもろくにわからないような若い彼女達の「アイドルで有名になりたい」という純粋な気持ちを、大人が逆手にとって「この世界はそういうものだから」と安置に肌を晒させて金儲けの道具にするようなことは絶対いけないと思います。
アイドルの中には「女体として褒められるのでも嬉しい」という子もいるとは思いますが、多くの子はそこに付きまとう「不特定多数の異性にエロい目で見られる対象」となると嬉しいわけないと思うんです。
入り口は単純に「見てもらって褒めてもらえる」という嬉しさがあっても、それがただの女体としての評価だと分かったら悲しくなるというか、やはりどういう子でも「人として評価されたい」気持ちのほうが強くて根本にあるものなんじゃないかと思うんです。
だから「若い女の子が肌を晒す」ってことに、世の中の人がみんな慣れ過ぎてて、今のようにアイドルの露出のインフレ状態なのは、なんとかならんもんかなぁと思います。
「男性が見て嬉しいものだから世の中に氾濫する」っていうのは、男性にとっては心地よい世の中なのかもしれないけど、その影で沢山の女の子が「自分を商品価値のある女体として差し出すのが常識」みたいになるのは、私は下品な文化だと思います。
芸能界の「芸」って、そういうのでないんじゃないかと。
もっと彼女達の「若くて可愛い」という身体的な見た目部分だけでは無くて、歌とかダンスとか頑張り具合とかを作る側も見る側も大事にしていかないと、これから先アイドルになりたい子なんて居なくなっちゃうんじゃないかと思います。
最後になりますが、さっき「ドリアン少年 歌詞」でYahoo検索したら「ドリアン少年 歌詞 ひどい」という候補が出てきたので「あ、世の中案外まともかもしれない」と思い直しました。
でも、今売ってるプレイボーイの表紙はAKBの子達が派手な下着っぽい水着で並んでて本当ランジェリーパブ感ハンパないので「あーあ」って思います。
思ってることが上手く書けてないところもありますが、今日はここまでにします。
ではまた。