限りなく透明に近いふつう

やさしい鬼です お菓子もあります お茶も沸かしてございます

「男らしさ」の押し付けは男子を歪ませる(そして歪んだ男子が女をいじめる)

 

はじめに
 
 ちょっと前の話を引っ張り出して恐縮ですが、昨年の秋頃に起きたミスしたワイフを怒鳴りつけたパン屋のブログ炎上事件を覚えてますでしょうか?
 
私は先日久々にその件を思い出したのですが、そのいきさつはこれまた少し前に炎上した「家事代行サービス会社のK氏のブログ」を読んだからなんです。
K氏のあの上から目線で書かれた、女性のマネジメントうんぬんの文章を読んでいたら「この感じ、前に読んだ何かに似てる……あぁ、炎上パン屋のブログだ!」という風に思い出しました。
 
なぜ私がK氏の記事からパン屋のことを連想したかというと、トイアンナさんの言葉を借りて端的に言うならば、炎上2人男の文章に共通した「マッチョッチョな男社会の精神」を感じたからだと思います。
 マッチョッチョな男社会の精神。
それは私が1番「うげー」となるものです。
 
なぜなら私はこの炎上したお2人に限らず、前々から実生活でセクハラやパワハラ案件に触れるたび、その加害者にそれを感じてきたからです。
それでぶっちゃけ私は「マッチョッチョな精神の持ち主は厄介だから、なるべくなら生涯関わりたくない。」と思ってきました。
でも私は厄介だと思ってると逆に彼らについて観察したり思いを馳せてしまう性格で、今日はそんな中マッチョッチョな男社会の精神について色々思うところが溜まったのでまとめて書こうと思います。
皆様も良かったら身近なマッチョッチョ精神の人を思い浮かべながらお読み下さい。
 
 マッチョッチョ精神の人の不思議なところ
 
 あのう、「マッチョッチョ精神の人」と書くと長いので、以降「マッチ」でいいですか?すいません。
 
さて、皆様にも似たような経験があるかと思いますが、身の回りのマッチを観察していると、彼らは時に武勇伝のごとく「妻や子供をこんな風に叱りつけた。」とか「使えない部下をこんな風に怒鳴りつけてやった。」というエピソードを語ることがあります。
私はそういうのを耳にする度にいつも嫌〜な気分になっていました。
だって「自分の方が立場が上」であることを誇示しつつ「自分より弱い立場の人(女性や子供や部下)を叱り飛ばしたエピソード」なんて聞いても全然楽しくないじゃないですか。
そんな話を「へぇー○○さんてすっご〜い!」と聞く人がいるとしたら、それは仕事中のホステスか下心のある部下くらいしか居ないと思うんですよ。
 
でもマッチは本当にそれらの面白くもないエピソードを意気揚々と「楽しい話を聞かせてやってる」くらいの勢いで、しかも「謎の誇らしげ感」まで漂わせて話すので、私はいつも「こいつと私の感覚はすごく違うぞ!」と思ってました。
 
炎上した例のお2人の記事についてもこれと同じようなことが言えます。
彼らは記事が炎上してみて初めてそれが「他人を不快にさせたり、怒らせたりする内容だったのかも」と気がついたかもしれませんが、書いた時点ではその自覚も予測も出来て無いから公開したわけですよね。
つまり、本人がその文章を公開する時の「どや!」と、世間がその文章を受け取った時の「ひでぇ!」のズレが炎上を生んだんだと思うんです。(マッチだけにね!と私の中の落語家が言ってますが無視します)
 
で、私はそれが世間知らずの子供が書いた記事ならまだそういうズレが生じるのも分かるんですけど「なんで経営者だったり、それなりに社会性があるからその地位にいるはずの人間が、そんな社会と自分の感覚の大きなズレに気がつかないんだ?」って疑問に思いました。
 
K氏に感じたその疑問は、いつも私が身近なマッチに感じる「ズレてるなぁ」と同じようなものなので、先日K氏の記事を読んでから私は改めてその理由を考えていました。
そしたら、おととい位に「彼らと私の感覚のズレがなぜこんなにあるのか?」が分かったんです。
正確には分かったというか「ズレちゃう原因の推測が出来た」なんですが、それについてはもっと後で書くとして、とりあえず次の章では私が思うマッチの厄介さについて書かせて下さい。
 
マッチョッチョな男社会の精神の厄介さ
 
えっと、ここまで私は説明無しに当たり前のごとく「マッチョッチョな精神」と書いてきたのですが、よく考えたら「待て、そもそもそれってどういうことなんだ?」と思ってる方もいるかもしれないですよね。今、気がつきました。
すいません。
なので、先に私の考える「マッチョッチョな男社会の精神」がどういうものなのかというところから書いていきます。
 
私の思う「マッチョッチョな男社会」というのは、男性が割合の多くを占める体育会系の団体やホストクラブような「序列のハッキリとした組織」などが挙げられるのですが、最も皆様にイメージが伝わりやすい環境は「軍隊」です。
 
その特徴を挙げると
・そこに存在する人間は「男性」のみ。
・トップが掲げる目標に「結果を出そうとする思想」だけが求められる。
・つまり個人の自由な思想は無用、というかむしろ邪魔。
「結果を出せる人間順」で階級分けががある。
「男なら泣くな!」みたいに男性性で行動を縛り付けるルールが通用する。(ついでに「風邪をひくのは精神がたるんでるせい」とか「結果が出ないのは頑張りが足りないから」みたいな精神論も通用する。)
 ・高い結果を出す男は「真の男・英雄」という称号が与えられて上からは褒められ仲間からも尊敬される。
・結果を出せない男は「下級の人間」という烙印が押される。(その際に掛けられる言葉は「女の腐ったような奴」「付いてるもんついてるのか?」という風な「男性性」を否定するものが多い)
 
こんな感じです。
要するに「超差別的なことがまかり通る階級社会」という環境ですね。
 
で、私なんかはこの環境を想像するだけで「げー」となりますし、さすがに今の日本では、まるきりこのようなルールが適用される環境は稀だと思いますが、かと言って「おとぎ話のような別世界の話」とまでは言い切れません。
 
なぜなら、戦時下にこれをモロに体験してきた方はいま齢90代くらいのお爺様方ですが、そのお爺様達が直に教育して、影響を色濃く受け継いだ団塊の世代の男性は、もしまだ現役ならば会社では会長、社長だったり議員なら大物議員だったりなにかと発言権の強い立場にいることが多いと思います。
さらに、その団塊Jr世代はいま40代ぐらいで脂ののった年頃ですから、今まさに沢山の会社や組織で幹部層を務めてるはずで、ようするに今の社会を構成する「権力のある層」には「マッチョッチョ精神」の影響を受けた男性が多く存在しているわけです。
もちろん、上の世代からマッチョッチョ教育をされた男性がそのまま全員マッチョッチョ精神を受け入れているわけでもありませんし、世代が下るにつれ多少マッチョッチョ教育もマイルドになっているとは思います。
しかしそれでも私自身生活していてマッチを目にする機会もよくありますし、上に書いた事を踏まえると、まだまだ「別世界の話」と言うには程遠いと思ってしまいます。
 
さて、そんなマッチ達の厄介さについてですが、私が彼らのなにが1番嫌かと言うと、ずばり彼らがそのマッチョッチョな男社会のルールを世の中全体適用のルールだと信じきっていて他人にも適用してくるところです!
私はマッチルールを「げー」と思いますが、それでも個人の思想は自由なので、別に誰がマッチルール至上主義で生きてようが、その人が1人で信じて1人で遂行する分には別にいいんですよ。
でもマッチって「俺のルールは世のルール」っていうイモータンジョー人間ばかりなので、周りの人間を当たり前のようにマッチョッチョルールで動かそうとして、周りの人がすごく迷惑するから厄介なんです。
「人権意識が世の中全体とはズレてるのに権力はある。」
それがマッチの1番嫌なところだと私は思います。
 
マッチの人権意識のズレがセクハラパワハラを生む
 
そんなわけで、私は昨今のセクハラやパワハラ案件はほとんどマッチとそれ以外の人との感覚のズレが原因だと思ってるんです。
「男女は等しく扱おうという風に動きつつある世の中」
「女や下の立場の男は従わせて当たり前のマッチ」
この両者の人権意識は相当ズレていて、もはやズレてるどころか対立しています。(さっき無視した私の中の落語家が「これが本当のデスマッチ」と言ってます。)
 
で、そのズレが引き起こすマッチの不可解な態度はいくつもありますが、よくある事で言えば彼らの「謝罪の態度」があります。
私は彼らが炎上したり何かセクハラ発言などで訴えられたりした時に「いちおう謝罪」する時の態度がいつもおかしいと思います。マッチは謝罪するわりに、たいてい「反省しているように見えない」ので、言葉と態度がちぐはぐな感じなのです。
 
で、今回そのことを考えててマッチがなぜ反省していない(ように見える)のか分かりました。
多分マッチにはそもそも世の中がこのようなランク別で見えているんだと思います。
 
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※うんこじゃありませんよ、ピラミッド型なのです。
 
おそらく彼らもそれなりに社会的地位のある人ですから「人権侵害」とは「人が不当な扱いを受けること」を指すという認識はあるんだと思います。
しかし彼らは「不当な扱い=本来いるランクから下げた扱い」だと思っています。
つまり
彼らにとってそもそもが自分より下のランク設定の、女性という存在を下に扱ったとて、それは「不当」ではなく「妥当」という認識なんです。
だからこそ女性や、自分より立場が低いと見なす男性に対して「人として不当な扱いをする=人権侵害を犯す」をしたとしてもマッチ目線では「その扱いが妥当だと思ってる相手にした事だから不当な事はしていない」ということで、人権意識の自覚も罪悪感も湧かず反省もしないんだと思います。
 
「桜島さん偏見が前に出過ぎ!」と言われるかもしれませんが、別に賛同しない方はそう思わなくて良いです。
ただ私は単に自分がそう考えれば彼らが反省しない様子に納得できますのでそう思うだけです。
 
セクハラやパワハラについて「どうしてこんなに最近は多いのか?」という声を聞くと私は「そんなの昔は行為はあっても世の中にマッチルールが浸透してたから、女も弱い男も泣き寝入りしてただけ。」だと思います。
でも、一部の強いマッチの機嫌を取るために、その他の人の「人としての尊厳が傷付けられて当たり前」という世の中は絶対おかしいと思いますよ。
今現在もしそういう被害を我慢してる人がいましたは「セクハラパワハラと、うるさい奴が増えた」ってヤジは気にしないで声をあげるといいと思います。
 
マッチには被害者意識がある
 
では、お待たせしました。
はじめに書いた「マッチとの感覚のズレがなぜこんなにあるのか推測が出来た」について書きます。
これまでマッチに対して私が謎に思う点は多々ありましたが、1番の謎は
なぜマッチが他人と接する時の態度は、あんなに威張ってるのか?
ということです。
私は自分と彼らとの感覚のズレはそこに集約されると思いまして、その疑問について考えていたらふと、このような考えが思い浮かびました。
マッチには人権に対して強い「被害者意識」があるのではないか?
 
どういうことか説明します。
私はいつもセクハラやパワハラなど、人権被害の事件に触れるとその加害者を「またこいつもマッチだわ」と思っていたので、つい「マッチ=加害者」という頭が出来てしまっていました。
しかし、今回よく考えたら「もしや、彼らもすでに過去に何かの人権被害を受けていて、その報復を無意識にしているから態度が横暴になっているのかも」と思ったんです。
わかりやすく例えるなら「学校でひどく弱い者いじめをするいじめっ子が、フタを開けてみたら実は家庭で親に暴力を振るわれてて、暴力は連鎖するのだ」って話と同じことで「マッチも過去に何かにいじめられたから、いま周りをいじめ返してる」ということです。
しかもそう考えたら、私は彼らがいつも事件後に「反省してなさそう」な点にもさらに納得できます。
それは、マッチに「加害の自覚が沸いてない=反省してない」ように私には見えたのは「無差別通り魔事件で捕まった犯人が『学校でも会社でもいじめられてきた。社会が悪いから仕返ししただけで自分は悪くない。』と言う犯人の反省の無さ」と同じことです。
つまり、本人の心には被害者意識が先に強く居座っているので、後から犯した罪への加害者意識が湧かないという心理で、マッチもそうなってると仮定すると話の筋が通るのです。
 
 
マッチに被害者意識を刷り込んだものとはなにか?
 
さて、そうなってくるとマッチは誰から被害を受けたのか?ということになりますが、この答えは明白で昔のマッチョッチョな男社会の精神がはびこっていた社会だと私は思います。
 
それがどういうことかと言うと、マッチ教育が当たり前だった頃の世の中は、学校の先生も親も男子が泣いたら「男の子なんだから泣かないの」と言ったり「罰として女子は雑巾がけ、男子はグラウンド5周!」みたいに「差」を付けたり、つまり「男の子はこう、女の子はこう」という各々の性別に合わせた指導を行う事が当たり前だったんですよね。
実際私の子供の頃もそうで、当時なら当たり前だったし私も子供の頃は何も思わなかったのですが、今の私はそれが「おかしな事」だと感じています。
 
なぜなら、例えばクラスで飼ってたカメが死んだとしましょう。
そこで、その哀しい出来事を受け同じように涙腺が備わった人間なら、同じように泣くのは男子も女子も関係ないことだと思うですが、当時は女の子は泣いてもそっとされて「男は泣くもんじゃない」と言い聞かされていたわけです。
 
それは「泣く」という人として当たり前の行為に対して大人が勝手に「その性別らしくないから」という判断基準で「キミは女子だから泣いてヨシ!キミは男子だからダメ!」と制限をかけてるということで、私は今となってはそれが男子への人権侵害に思えるのです
また、生徒への罰も、本来なら男女共通の罰(反省文とか)を与えるべきなのに、男子だけ確かにいつも体力的にキツイやつを与えられていたので、これも男子が可哀想です。
昔はそれが普通とされてきましたが、今の私はそういう教育を受けてきた男子のことが可哀想だと思います。
で、女子の立場でそれを見てきた私でさえそう思うという事は、実際にその教育の対象者だった男子はどういう風に思うかと推測すると「俺って可哀想」なんじゃないかと。
 
もちろんその「俺って可哀想」という被害者意識に自覚がある人と無い人はいると思いますが、しかしどんな男子でも一度は子供の頃に感じたであろう「なんで男子だけこんな目に?」っていう不公平感は種になって、その子の中に宿る気がします。
そして、その種がどれだけ成長するかはその人次第ですが、成長しながら男子差別を受けるたびに、その種は意識下で大きな被害者意識に育つのではないでしょうか。
ここまでが、私が「マッチには被害者意識があるのでは?」と思うに至った経緯です。
 
というわけでずっと謎だった彼らのあの「威張りっぷり」の原因がわかりました。
マッチはおそらく弱いものの前だと強く出て「自分は強い!」と見せびらかすことで、自分の被害者意識を慰めているんだと思います。
そしてそれがエスカレートすると「自分は厳しいこと言われて耐えてきた男だからすごい!女は厳しいこと言われてないからすごくない!同等の口きくな!」という歪んだ「男としての自負」を持つマッチになるんだと思います。
 
 
 最後にマッチにお願い
 
好きなように書いてきたので、ここまでの話に色々と納得できない方もいると思いますが、まぁ私も自分が言ってる事が全部合ってるなんて思いません。
でも「そう思うこと」として書き示すのは許してほしいです。
 
私は、この世の中を構成するのはたまたま男と女に産み分けられてしまっているけど、結局は全員ただの人間だと思ってますので、性別で扱いが変わることなくできる限りは同じ扱いを目指すほうが良いと思ってます。
「男は色々なものを守るために戦うんだ!だから強くなくてはならない!」という考えが主流の時代もありましたが、これからの時代はその「強さ」が腕力とか権力だけを指すのではないと思いますし、ましてそれを望まない男性にまで強制する教えではないと思います。
今そこに対して思うのは「それ別に男に任せなくて良くない?」とか「強さって腕力とか権力のことだけ言ってない?違う強さもあるよ?」てことです。
 
だから教育に当たる場面では、これからの男子が新たに「あー男子は損だなぁ、女子はラクしていいよな〜」という被害者意識の種を宿さないような教えを大人がしてくれることを願ってます。
 
さて最後にマッチの人へお願いを書きます。
私、さんざんあなたのことこき下ろして書いてるように見えたかも知れないけど、書いてたら以前よりは「うまく共存していかなきゃね」と思うようになりました。
ただ、まだお願いしたいことが一点あるので書きます。
それは「被害者意識の反撃するなら、どうか正しい的に当てて! 」ということです。
 
攻撃するなら、あなたの矛先は「マッチョッチョ教育のはびこる社会」ですから、そこが変わるようにやって下さい。
自分より偉いものには逆らいにくいでしょうし、相手が社会だと攻撃しずらいのは分かりますが、だからと言って標的を向けやすいものに簡単に変えないで下さい。 
あなたの横で「楽をしてきた女子」は一見ズルく見えますし、見るからにあなたより無力ですから攻撃したくなる気持ちも分かりますが、標的はそっちじゃないです。
「女子は甘やかされて育って憎たらしい」と思うなら、そうやって「男女の性差で役割を制限するような社会」を恨んで下さい。
そしてあなたがそういう社会を変えることのほうに力を尽くしてくれたら、私とあなたは同じところを目指す仲間になれますから、その暁には仲良くしましょうね。
 
では、今日から新年度なので皆様よいスタートがきれますように
 
※ 追記  書いてる側からまた新たに保育園問題で「生んだのはあなただ」とか言う政治家マッチが出てきて、パトラッシュぼくもう疲れたよ…
来週からここは巾着バッグの作り方でも載せる趣味ブログにするよ…
 

 

結婚出産の「規定コース」を外れても幸せな女は存在する

 

私はかなり幼い頃、女の人の出産について大きな勘違いをしていました。

それがどういうものかというと、私は女の人の出産というのは天命で勝手に決まってるものだと思ってたんですね。

女の人は年頃になるとひとりでに妊娠する人はするし、しない人はしない。妊娠する場合もそれがいつなのか?何回妊娠するのか?というのは本人にも分からないものなんだと思っていました。
その感じはなんというか、おたふく風邪水ぼうそうみたいな病気が、一生かからない人もいたり、かかる人もどんな順番でかかるかは本人も分からないような感じです。
 
だから私は少し大きくなって妊娠や出産ということが、そこに本人や相手の男性の意思があって「やることやって作った結果」だと知った時には結構驚きました。
 
この勘違いに対して、皆様は「変な説を考えついたもんだなぁ」と思われるかもしれませんが、実は私は自分では何故こんな説を勝手に作り上げて信じていたのかというその根拠を覚えてるんです。
 
その根拠は、私が物心ついた時から聞かされていた母の発言でした。
 
ここからちょっと重い話になってすいませんが、以前「産みたい女ー」の記事にも書いた通り、我が家は私が物心ついた時から両親が不仲だったんですね。
不仲と言っても毎日両親が喧嘩してたパターンではなくて、うちの場合はほとんど父が家に居なくて喧嘩する姿すらあまり見たことのないまま、母がとにかく父を嫌っている事だけが家族の常識になっている、冷戦パターンのやつでした。

父は典型的な仕事中毒&外面重視の人で、家にお金は入れるもののほとんど家で見かけることが無かったので、金銭面以外ではうちは母子家庭のような状態。
 
そんな中で、幼少期の私はいつも母に小言を聞かされていました。
その小言の内容は、主に父の文句なのですが時には母が自分の「今の状況を呪う言葉」として私に向ける内容もありました。
それは「あんたなんか産まなきゃ良かったわ」とか、その他にもうちは4人きょうだいで私が末っ子なのですが、上の2人と下の2人の間には8歳の年齢差があって、そのことからも「下の2人が居なければお母さんとっくに離婚してたのに。」と言われたりしました。
 
あと、最もよく言われたのはこれ。
「ニニちゃんが出来た時、お父さんは『堕ろせ』って言ったのよ。お母さんがそれに反対して産んだからニニちゃんは今生きてるんだからお母さんに感謝しなさい。お父さんのことはうんと怨みなさいね。」
 
うーん、こうして字面で見ると私、結構酷いこと言われてますね。
今考えると当時の母はそうとうこじらせていたんだと思いますが、まぁそれはさておき、私は幼い頃から母のこういう「子供がいなければ」系の発言を刷り込みのように聞いていた結果、物心ついた時にはてっきり先ほど書いたように勘違いをしてしまったんです。
つまり、幼心に「お母さんは子供がこんなに欲しくなかったけど現に私は居る」=「子供の誕生とは自分の意思でどうにかなるものではない。」と解釈したんです。
先入観の無い子供ならではの発想ですかね。
 
今、これをお読みの正しい子供の生誕システムを知ってる大人の方からすれば、母の発言は「自分で作っときながら、その後悔を子供本人に言うなんて、浅はかな女だ、毒親だ」と非難されるかもしれませんね。
私も生誕システムの真実を知った当初は、母に対して怒りでは無いものの、その理不尽さに首を傾げてしまいました。
「えっ、自分の意思で出産するしないが選択できるもんなら、次兄も私も作らなきゃ良かったじゃん。しかも産んだ後に後悔してるとしてもそれはお父さんに言うべきじゃん。私に言われても困るよ。」という感じに。
 
でも、私は性格的にぼけっとした子供だったのと、そんな事を言いつつもなんとなく私を可愛がってくれてる母のことが好きだったので、事実を知っても母に対して「お母さんひどい!」とは思わずに「そう言われてももうワシ産まれてるしなぁ…どうしようもないよなぁ。」といつも受け流していました。
 
大人になってから時々こういう話を人様にすると「よくグレなかったね」と言われたりしました。
確かに子供が小さい頃に「親から必要とされなかった感覚」を植えつけられると思春期にはそういう親に反抗してグレるという定石はあるので、私もグレてもおかしく無い環境だったのかもしれません。
でも、私がグレなかった理由は多分2つあって、1つ目はずっと「こういう事を親に言われるのは普通のことだと思っていたから」というのと、2つ目は「きょうだいが仲良くて姉や兄から十分な寵愛を受けていたから」だと思います。
 
まぁ、そんなわけで私はなんとなくグレずに無事大人になったのですが、最近になって当時の母の発言を改めて考えると「やっぱ子供に言うべきことではなかったんじゃないの?」とは思います。
 
でも、私はそういう事を子供に言い聞かせてきた母のことを恨んだり「愚かな親」と思えないところがあります。
確かに世間的に見たら自分で作っといた子供に「産むんじゃなかった」と直接言う母のような人は「酷い毒親、愚かな人間」という見方をされて仕方ないかなと思いますし、同じような事を言われて育った他の方がいたとして、その方がずっと親を恨んでいたりしてもおかしくはないと思います。
 
でも最近になってから私は「なぜ母はああいう事を私に言っていたんだろう?」と考えた時に、それが母1人の人間性が愚かだったせいではない気がしてきたんです。
簡単に言うと「母1人の頭がおかしいせい」で、私がそういう事を言われていたんではなくて「母の周りの環境によって、母もそういう事を言わなきゃやってられない精神状態だったんじゃないか」と思うようになったわけです。

まぁ、私がそう思うようになったのは、多分大人になってから身に付いた私の「考え方の癖」のせいだと思います。
昔の私はなにかの犯罪者が捕まった時に、ただ単に「この悪いやつめ!」と思ってたのですが、大人になってからの私はどうも犯罪者にも「こいつは悪いことをしたけど、生まれながらの悪人ではなくて、何か悪いことをせざるをえなかった環境が揃ってしまったのかもしれないな。」という考え方をするようになって、それが癖になっているんです。
 
なので、最近ではその当時のことを考える時、母のその当時置かれていた環境や事情について色々察するようになりました。

そうしているうちに私はこの頃、当時の母に対して同情を感じるようになりました。
それは世間にはびこる、ある風潮を私自身も感じ取れるようになったからだと思います。

その風潮とは、まず世間の男尊女卑的な空気。
それに付随して世間が女の人の生き方に対して「結婚を経て出産する事が女の幸せ」という型を押し付ける空気です。
 
私がなぜその空気を感じ取ることで、母に同情できるかというと、母は肩書きで言えば「4人の子供が居る専業主婦」だったんですね。
それは当時、子供を産めなくて周囲に責められていた女性や、生活苦で共働きをしなきゃならないような女性から見たら「羨ましい立場」と捉えられてもおかしくありません。
また、外でひたすら働き、家族を養う生き方が強制させられていた世の男性とっても「家でぬくぬく過ごせてなにが不満なんだ」と思われる立場でしょう。

つまり母は、その当時の風潮で言えば「幸せでなければおかしい立場」なんです。
 
私はそのように世の風潮が「結婚出産してこそ女は幸せになる」&「結婚出産しない女は不幸である」という常識に囚われていたということは、同時に「結婚出産しないで幸せな女はいない」&「結婚出産してるのに不幸な女はいない」という常識にも囚われていたのではないかと思うんです。

だから母のような人が、もし生活に不満があっても人にそれを言えない。
言ったとしても「そんな恵まれた環境を手に入れていて文句を言うなんてワガママだ、バチ当たりな女だ」と言われて口をつぐむしかない時代だったんじゃないかと。

でも実際の母は、子供にそんな事を言わなきゃやってられない精神状態なので、幸せを感じていなかったと思います。

 母はそういう、世間からは「幸せでしょうね」とされている立場でありながら、本当は幸せを感じられない自分の現状とのギャップに苦しんでいて、そのどうしようもない不満の行き場が私だったんじゃないかと思うんです。

今だったら、Twitterとかブログとか個人の発言ツールもあるし、各種の相談センターもあるので、母のように不満を持つ女性を「そうだよね」と受け入れてくれる受け皿が社会にあるかもしれませんが、「その当時の社会のどこにそういう受け皿があっただろう?」と考えると、私は母に同情してしまうのです。
 
もちろん、本来母の1番の受け皿になるべきなのは当然父のはずで、本当ならこんな風に、母が人生に後悔を感じるなら、その問題を根本から解決するためには父と母が家庭について良くするために話し合う事でしか解決はしないと思います。
 
でも、当時の父もきっと世間的には「家計を支える為にバリバリ働く立派な男」という評価を受けていて、本人も自分の落ち度を感じていなかったようでした。

それがなぜ分かるかと言うと、父は一昨年亡くなったのですが、亡くなる前の1ヶ月間に、色々あって私はそれまでの人生で父と喋ったのと同量になる位に父と話す機会がありました。
その時、私が父に「なんでお母さんと仲が悪くなってしまったのか」と聞いたら、父も「自分では思い当たるフシがない」と言っていて、色々話した結果、父は本当に自分が家庭を顧みなかった事が母をおかしくさせていたという自覚が無かったんです。

今だったら家計を支える為にとはいえ外で働くだけで、家庭的な事には一切関知しない父のような男性は、ある程度世間からも「ひどい男だねー」という見方をされますが、当時は「男は仕事だけしてればいい」という考え方が今よりはびこっていて、父もその考え方が浸透していた人間の1人だったんだと思います。

だから私は両親が不仲だったことも、母が私にぶつけていた言葉も、母1人の人間性の責任として背負わせるのは可哀想だと思うようになりました。
母のことを、その男尊女卑の風潮が強い時代背景の被害者だと思うからです。

で、今日私がなんでこんな話をわざわざ書いてるかというとですね、こないだまで話題になっていた雑誌FRAU山口智子さんのインタビューに関することがちょっと引っかかるからです。

あの山口智子さんのインタビューを読んで私は、彼女は何も嘘いつわりなく自身の結婚観や「子供を持たない意思」を語っていたと読み取れました。
そして、このように自身の生き方が「結婚出産」のいわゆるお決まりコースではなくても堂々と「幸せ」だと語れる山口智子さんに共感しましたし、素敵だと思いました。

でも、ネットニュースの日刊ゲンダイの記事では彼女のインタビューに関してこのように書いていたんです。

人気女優の大胆な告白は波紋を呼びそうだが、芸能評論家の肥留間正明氏はこう言う。

「インタビューの内容は衝撃的ですが、後悔のない人生だとことさら強調するところに逆に“懺悔の念”を感じさせます。若い女性たちに自身の生き方を勧めたり、さまざまな選択肢があることを示すというより、自身の生き方を反面教師にして欲しいという思いが強いのかもしれませんね」

もうね、私はこのネットニュース記事を読んだ時、この芸能評論家の人に対しては「よくこんな邪推が出来るもんだな!」と驚きました。
しかもこれをそのまま有識者の意見みたいに載せる日刊ゲンダイもどうかしてると思います。

で、その時したツイートがこちら。


最後のツイートに「時代逆戻り」と書いてますが、私が本当に怖いというか嫌なのがこれなんです。
昔の母のように「世の中の女性に対する風潮」と「自身の想い」とのギャップに苦しむ女性を、私はもう見たくないからです。

でもこの芸能評論家の「女は結婚して子供を産みたい生き物のはずだから、山口智子は後悔してる」「結婚出産コース以外を行く女に幸せはないはず」と言わんばかりの意見は、昔の母の周りにあったであろう風潮「結婚出産コースを行く女が不幸なわけがない」とセットのやつじゃないですか。

だから私はこれが現代にまだ堂々とメディアに載せられたところに「やっぱし、いくらマシになったとはいえ、いまだに世の中にはその固定概念をアリとする場所もあるんだなー、あーあ」と思いました。

私は世の中のこういう考えの人にも、本人にそう考えるなりの事情やそれなりの考えがあってでそこに留まってるのでしょうから「間違ってるから考えを改めろ」とか「この世から居なくなれ」とまでは言いませんが、こうやってメディアの一端を担う立場なら、もう少し立場を考えて発言して欲しいとは思います。

なぜなら、世の中の風潮ってやっぱりメディアの影響が大きいと思うので、こんな風にさも当たり前のように「子供を産めなかった女性は後悔してるものなんです。」という一個人の感想でも、受け手によってはそのまま「そうなんだなぁ」と信じてしまい、その信じた人が身近な女性に何気なく「子供産まなきゃ後悔するよ」と言ってしまう可能性があるわけで、そういう事態が世の中のあちらこちらで起こるということが「女性を縛る風潮がある」ということだと思うからです。

私はこの芸能評論家のコメントを読むと、山口智子さんのように)自らの意思で子供を欲しくないと思う女性を「普通ではない感覚の持ち主」に仕立て上げたいような意図を感じます。
でも、私は山口智子さんを「普通では無い感覚の持ち主」とは思いませんし、彼女のような生き方をする一般女性も、今の時代なら大勢居て当然だと思います。
それを「規定コースから外れてるくせに幸せぶりやがって、本当は後悔してるんだろ?」みたいな見方をするのは本当に人としてゲスいことだと思います。

私は、現に結婚出産の「規定コース内」を辿ったのに不幸せだった母を観て育ったおかげで、人の生き方、女性の生き方に「結婚出産すれば幸せ」「結婚出産しなければ不幸せ」なんていう「規定」がそもそも無いのだと芯から分かってます。
だから人の幸せに「他者から見て理想とする生き方をしていること」は関係なくて、大事なのは「本人が理想とする生き方ができること」それに尽きると思います。
なので、その妨げになるような「風潮」は無くなって欲しいだけです。

私の望んでいるこれからの女性に対する風潮は、山口智子さんのように
結婚して子供を望まないことも「アリ」
結婚すらしなくても「アリ」
もちろん結婚出産することも「アリ」
ようするにどんな生き方をする女性も「規定から外れた女」ではなく「アリ」
そもそも人の生き方に「規定」があるとすること自体が「ナシ」という風潮です。
その中で、誰が自分の生き方を語っても相手が「いや、本心はそんなことあるまい」と邪推せず、すんなり「あ、そうなの」と受け入れるようになると、ずいぶん女性が自由に生きやすくなるのかなと思います。

というわけで今回はこんなことを書いてみました。

ではまた。

 

期待外れの「ママたちが非常事態!?」

 

はじめに

 
書くのがすっかり遅くなってしまいましたが、今日は先月末のテレビ番組NHKスペシャル「ママたちが非常事態!?」を観て思ったことを書こうと思います。
 
本当は日々めまぐるしいスピードで新しい話題を取り上げるこのブログ界隈で、半月以上も前のテレビ番組の感想をノコノコと書くのはいくら更新頻度がマイペースな私といえど、今更感ありありで少し気が引けるのですが、これは逆に「半月経っても心のモヤモヤが消えない案件」ということであえて今更だけど書かねばなるまいと思った次第なのでお許しくださいませ。
 
まず件の番組「ママたちが非常事態!?」なのですが、観てない方のためにどんな番組だったのかをザッと説明します。
 
番組構成は、VTRとスタジオトークから成り、これまで「育児にまつわる謎」とされてきた数々の疑問点を最新の科学で解明したというVTRを3部構成で観せつつ、合間にスタジオの面々(恵俊彰眞鍋かをり北陽の虻ちゃん、と中盤から京都大学教育研究科の女性教授の方も)が、育児にまつわる現状やVTRの感想を話すというものでした。1時間番組です。
 
私は放送前に別のNHK番組でやっていた番組宣伝のVTRでこの番組がやることを知りました。
そこでは出演者達が「最新科学でこんなに育児の謎が解明されるなんて、もっと早く知りたかったことばっかりでした。」とか「今、育児に悩むママたちはもちろんのこと、この国に住む男女みなさんの育児に対する理解が深まる番組です!」と言っていたので、育児に関する情報番組は通常もよく放送しているNHK(及びEテレ)ですが、あえて「最新科学で育児を解明」という謳い文句でスペシャル番組を作るからには、さぞかし違った切り口というか、新しい視点の内容になっているのかな、面白そうだな、という期待が湧きました。
それで観てみたのですが蓋を開けてみて愕然としました。
なぜなら「面白かった」どころか、心にモヤモヤとした胸くその悪さしか残らなかったからです。
 
もちろんやたら「最新科学で解明!」と謳っていただけあって、確かに各パートの解説VTRの中には、最新科学ゆえ初耳の情報もあり「勉強になる」と思ったところは多々ありました。
ですが、もし私が明日誰かに「こないだのNスペ観た?私見逃しちゃったんだけど、どうだった?」と聞かれたら私は迷わず「胸くそ悪かった」と答えると思います。
つまり私にとってあの番組には「知識が増えた、長年の謎が解けた」という「面白さ」の上をいく「胸くその悪さ」が感じられたのです。
なんだか最近毎回私はテレビの文句ばっかり書いていて自分でも嫌になるのですが、今回も胸くその悪さの原因を自分なりにまとめないとずっと心のモヤモヤが晴れなさそうなので、今日はここにまとめたいと思います。
 
「期待はずれ」の原因
私は、番組後に柿ピーを食べながら自分なりに「なんでこんなに胸くそが悪くなるんだろうなぁ」と考えたところ、一言で言えば「期待はずれ」だったんです。
そして期待はずれの原因は色々ありますが、大きく分けるとその原因は以下の2つです。
1、ミスキャスト
2、育児について私の考えとのギャップが大きかった
 
ここからはそれぞれの原因別に説明しますので、まず1のミスキャストについて。
 
今のテレビ番組のキャスティングって、それぞれ演者に何らかの「役割」があるように思うのですが出演者の3人のうち、眞鍋かをりと虻ちゃんは最近ママタレントとして活躍しているので、彼女達の今回の番組における役割は「世の中の悩める育児ママ」が「共感できる存在」として置かれていたと思います。
 
案の定、2人は番組冒頭のVTRで一般の主婦の方が育児の大変さを「なんの地獄かと思った…。毎日、予想の下を行く生活です。」と語ったのを受け「わかる!私もそうです!」「こんなに大変なんだって、やってみて初めて思いました。」とそれぞれに共感の声をあげていました。
ここでは私も「うんうんそうだろうなー」と思いましたし、キャスティング目線で言うと2人は見事に「悩めるママ達の共感者」という役割を果たしていて、この2人のキャスティングは良かったと思います。(私は青木さやかも居て欲しかったけど)
 
ですが、問題なのは恵俊彰氏。
彼は眞鍋&虻ちゃんのコメントを聞いているあいだ、眉をちょっとしかめて小首を傾げる「よく分からんなぁ」みたいな顔をしていました。
その時点で私は「あ、感じ悪…」と多少嫌な予感がしたのですが、次の瞬間、彼の開口一番のコメントはこうでした。
「ねぇねぇ教えて?何がそんなに大変なの?」
それに対し虻ちゃんが「もう全部いっぱいいっぱいでとにかく大変なんですよ。」と言うとさらに
恵「生まれてきて可愛いかったり愛しかったりするんでしょ?」
虻「するんですよ、するんですけど、そこを上回る大変さが…」
「ハァー、何でそんなになるんだろうか…?」
 
 
私はこのやりとりを見ていて
「開始3分で早くも分からず屋登場か!」と思いました。
 
ここでちょっと話がそれますが、私は常日頃から世の育児ママ達を普段苦しめているものの1つが世間の「分からず屋」の存在だと思うんですね。
ベビーカーで外出して子供が泣くと「なんで母親のくせにそんなに泣き止ませられないんだ?」という目線を送る分からず屋。「子供の世話で忙しい」と言うと「家で子供の相手してるだけで外仕事してるわけじゃないのに、何がそんなに忙しいんだ?」と首をかしげる分からず屋。「子供は可愛いけど憎らしいことも多い」と言うと「母親なのに我が子が憎いなんて信じられない」と驚く分からず屋。
まぁ、世の中には色んな人がいるのでこういう人が「悪人だ」とまでは私も思いません。ただ「分からず屋」は多分たまたま育児に関わってこなくて育児者に共感出来なかったり、時に相手の気持ちを図れなかったりして、無意識やごく軽い気持ちで育児中の母親に対してそういう発言になってしまうことがあるというだけだと思います。
しかし、受け手となる育児中の母親というのは日々意思疎通の難しい乳幼児の相手をして「なんでわかんないの?」という感情を連続して痛感し、「自分と子供の気持ちが分かり合えない関係性に常にやきもきしている精神状態」だと思うんです。
だから、そこにきて目の前に「大人なのに話の分からない奴」が現れると多分「やっと言葉が分かる相手と喋ってるのに、ここでも気持ちは分かってもらえないんだ…」という感じの絶望感と強いストレスを感じるんじゃないかと思います。
もちろん人は誰だって身の回りの人を「理解者」と「分からず屋」に分けたら、なるべく「理解者」とだけ接点を持っていたいものだと思いますが、たぶん育児中じゃない人が「分からず屋」と対面した時に感じるストレスより、上記のような理由で、母親達のほうがそのストレスをより強く感じているものなんじゃないかと思うんです。
だから乳幼児を育児中の母親は通常よりもっと「分からず屋を遠ざけたい精神状態」であり、そんな中に現れる「分からず屋の存在」が育児中の母親を苦しめているものの1つになってる気がしています。
 
で、キャスティングの話に戻りますが、こういう番組を作る側は「育児に悩むママ必見!」と言うからには、この番組のメイン視聴者を「育児に悩み、なにかしら救いになる情報を求める母親」を想定しているはずだと思うんです。
つまり、観ている人の多くは「分からず屋から遠ざかりたい母親」であり、その母親達がこの番組を観て得たいものは「共感」や「育児に有益な情報」だと思うんです。
 
なのに、番組開始3分で恵俊彰のこの「分からず屋」具合を見せつけるとは、まさにNHKの鈍感さここに極まれり」という感じがしました。
世間の分からず屋を避けて、育児に救いの手を求めてチャンネルを合わせた母親達が「眞鍋かをりも虻ちゃんも私と同じだー」と彼女達に感情移入して心を開いたところに「あんたらの気持ちは分からん」という恵俊彰の分からず屋パンチを食らわす場面を観せられる。
「育児ママ必見!」どころか、これじゃママさんがっかりでしょ。
 
恵俊彰氏は番組を通して最後までだいたいこのような感じだったのですが、このような様子から彼はキャスティング的には「ママ達の共感者」という役割ではないのは確実にわかります。
では彼に当てられた役割がなんなのかと考えると、おそらく番組制作者としては女性2人は「世の母親達の共感できる存在」という役割、あと1人は「彼女達に質問を投げかける役割(質問するからには共感者でなくても良くて、バランス的には男性を)」という意向があり、
その上で「育児番組だし子沢山の男性タレントがいい」ということで恵俊彰氏を選んだのかなと私は推測します。
 
つまり恵俊彰の「分からず屋役」というのはキャスティングとして、わざとだったんじゃないかと。
 
それに対し私は、たしかに「番組ゲストに分からず屋を置くこと自体」は良いと思います。
「分からず屋」は池上彰番組における鈴木奈々の働きを観てわかるように、情報を伝える番組には1人そういう「わかんないの、おせーて」という役割が居ると、そこからメインの人の話を引き出せるので、番組進行上は必要な役割だからです。
おそらく製作者としては、いつも民放の昼番組で基本的に「僕ちんわかんないのおせーて」的な立ち回りが抜群に上手い恵俊彰を、この番組でもその役割としてキャスティングしていて、確かに一見それは妥当なキャスティングに思えます。
 
しかしですね、一見妥当に見えても、実は全然妥当じゃないと私は思うんですよ。
 
なぜかと言うと恵俊彰鈴木奈々と違ってその3人の中で1番立場が上のタレントですから、鈴木奈々のように「下からバカなフリして引っ掻き回す」のではなく、彼がそれをやると、単に「分からず屋の権力者男性が上から若い母親達に無理解を示す図」にしか観えなかったんです。
だからもう、冒頭3分で私は「あーこの、話の通じないおっさんと対面した時のヤな感じわざわざテレビで見せられて胸くそわるー」と思いました。
 
私としてはこのキャスティングに対して言わせてもらうならば
「どうせ、誰か男性タレントを1人『分からず屋役』にするなら、せめて未婚か子供が居ない人にしてくれ!」と思いました。
 
なぜかと言うと、まだ育児の機会が無い男性タレントが「分かんないのおせーて」な態度なら「まぁ、まだ育児したことないだろうし、仕方ないか」と思えるのですが、恵俊彰氏4人の子持ちです。
 
そんなの、テレビの前の各々の家庭で孤立奮闘してる世の母親達からしたら、4人の我が子の乳幼児期を知ってるはずの父親が「育児についてわかんないの、おせーて」って、どゆこと!?ってなるじゃないですか。
 
しかも、そういう気持ちで番組を観ている中盤で明かされた驚きの真実がこちら。

 
恵俊彰、オムツ替え1回しかしたことないそうです。「自分には向いてないから」という理由で。
この段階で、冒頭の恵俊彰の「なんでそんなになるんだろうか…?」という分からず屋具合には大納得ですけどね。
「そりゃ、わかんないの当然だろうな!!やってないもんな育児!」ですから。
 
虻ちゃんが恵俊彰に言われていた「子供が可愛いんでしょ?なんでそんなに大変なの?」という言葉は、世間の分からず屋が今日もどこかで母親達に何気なく言っている台詞で、それは彼らに言われるまでもなく、母親自身も自問自答し、育児にまつわる悩みの根源的な疑問ですらあると思います。
 
だから母親達はもうこのような「なんで大変なのか分からんなぁ」という無理解な声はうんざりで、なるべくなら聞きたくないはずの言葉だと思うんです。
 
私は、メイン視聴者のその気持ちを汲まずにそういう場面を冒頭で流す番組の作りに出鼻をくじかれた思いですし、世の育児ママ達の悩みの種になりがちな「父親の育児不参加」を堂々と、何故か誇らしげに語る恵俊彰の姿を観て「これはミスキャストだろ…」と思ってしまいました。
あと、恵俊彰の「育児しなかった話」は最終的に女性陣の「恵さんの奥さんすげー」で終わってたのですが、これも結局「父親がオムツ替えすらしなくても4人育てたすごい母親」という存在を意識するエピソードなわけで、番組を観ている悩める母親達にしてみると、中には「1人の子供も満足に世話出来ない私って…」という劣等感を感じる方も出てしまうんじゃないかなぁと思いました。
まぁ、世の中には色々な家庭があるので、恵家では育児は奥さんが専任になることが両者合意ならそれはそれで良いと思いますが、一般家庭で観ている母親達に、あえてここでそういうスーパー主婦の例を聞かされるのは酷なのでは、と思いました。
彼は本人の言うとおり「オムツ替えすら向いてない」のなら、今後「4児の父」という肩書きだけで育児番組にキャスティングされるのは「向いてない」んじゃないかと思いました。
 
そんなわけで、私がこの番組で胸くそ悪かった理由の1つはこのミスキャストにあります。
 
 
では、次に2の「育児について私の考えとのギャップが大きかった」ということの説明をします。
 
番組で取り上げた「育児にまつわる謎」の内容は大きく分けて以下の3部構成になっていました。
 
①現代の日本では出産後に孤独や不安に陥るママが急増していることを受け「なぜ産後うつになるのか?」「日本特有のママ友を作りたがる文化はなぜあるのか」について解明。
 
②多くのママが「私は母親失格?」と思ってしまう原因となる「夜泣き」や「イヤイヤ期」について解明。
 
③ 産後「パパにイライラしてしまうママが続出」その原因を解明。
 
これらはどの解説VTRも分かりやすくて、どれも「知識として知っておいて損はない」という内容でした。
しかし、私は見ていてところどころ「んー?」となってしまう場面がありました。
 
それがどういうところかと言うと、例えば「赤ん坊が何故夜泣きをするのか?」の解説VTR中。
番組を観てない方のために説明すると、赤ん坊が夜泣きをするのは、お腹の中で胎児が昼夜逆転の睡眠サイクルだった名残りなんですね。
それは「母体が睡眠中に胎児が起きるほうが母体の負担にならないからそうなっている」らしくて、番組ではその胎児の睡眠サイクルの仕組みを解明というVTRを流していました。
その終盤はナレーションで「胎児は、実はお母さんを守るために夜起きていたのです。」とまとめられていたのですが、その時にワイプの出演者達が口々に「(赤ん坊が)空気読んでるんだ〜」「気ぃ使ってるんだ〜」と言ってたんです。
私はこの時の出演者達の感想がなんだかモヤっとしました。
というのは、身もフタもない考え方かもしれませんが私の考えでは、胎児にとって母体の健康は自分の為でもあるし「ママの為にボクは夜に起きるね」と思うその脳みそ自体がまだ形成されてないのだから、これは「赤ん坊がママを気遣って夜起きてくれてる」という「ほっこり話」ではなく単に「そういう人体のシステム」ってだけのことだと思うんです。
それを「赤ちゃんがママのためにしていた行動の名残りだから」っていうストーリーにすると、そういうのが好きな人は受け入れやすいのかもしれませんが、私は醒めるほうなんです。
なんというか「番組の宣伝文句が『最新科学で育児の謎を解明』で、理系な話で種明かしをしたわりに、着地点はほっこりメルヘン話にするの?」という感じ。
それはまるで「女はこういう話が好きだからそう仕立てた」という風に見くびられてる感じで「こういう話(ほっこり)」にノレない私は「けっ」となりました。
 
あ、もちろん観てる人が個々にどう思うかは自由だと思いますし、どう思うママさんも「おかしい」とは思いません。
夜泣き対応をしている時にこのVTRを思い出し「ママの為だったんだもんね、仕方ないね〜」と思うと気が楽になるママさんもいるだろうから、そういうママはほっこりと受け止めれば良いんじゃないかと思います。
 
でも私みたいなタイプのママさんのこの部分の感想は「で?『赤ん坊がママのためにしてたことの名残だから』と思えば『夜泣きも耐えられるよね?』って言いたいの? 」と思うんじゃないかなーと思いました。
 
あと、他にも「なんか納得できない」と思った場面は、②の「世の母親達が『私って母親失格?』と思うのは何故か?」について解明していたくだりのところ。
 
そのVTR内では「母性はそもそも女性だからと言って生まれつき備わっているものではなく、育児経験によって育まれる」ということを科学的実験で立証するために「母性が育つか実験」として4人の女子大生が一定期間の擬似育児体験を経て、その前後で彼女たちの脳の「育児に関わる部分の活動」が「活発になったかどうか」を見比べていました。
 
そして全員の脳の働きが実験前より活発になったことを受けナレーションでは「脳内で、いわゆる母性を産む活動が起きたのです。」と説明していました。
ようは「育児経験を経たことで脳が育児向けに変化した」ということはたしかに立証されていたVTRだったのですが、私はそれを観ていていまいち「母性」というものの本質がなんなのか最後まで分かりませんでした。
母性とは「育児向けに変化した脳」のことなのか「脳の変化が引き起こす心理作用」のことなのか、はたまたそれ以外の何かなのか…私がバカなのかもしれませんが、その説明ではどうにも納得できず、私はいまだに「母性」というのが科学的な根拠のない「概念」に近いものなんじゃないかと思っています。
 
そしてその実験自体も、なぜ被験者が「女子大生」に限定されていたのか?という疑問が残りました。
VTRで「母性が女性なら生まれつき持ち合わせているものではない」と明言してくれた事はありがたいと思いましたが、この実験の被験者を女性に限定したことから、この番組の製作者が「男性でも母性は獲得できるor出来ない」というところまでは踏み込むつもりはなく、結局「母性=女性が獲得していくもの」という立証だけして「育児の話だから実験は女性だけでいいでしょ。」と思って作られている感じがしました。
 
私はこの実験がもし男子大学生2人、女子大生2人で行われていたら多少有意義な実験だったんじゃないかと思います。もし実験結果が「男女で差はあるものの男性も母性は獲得できる」なら、男性の育児を促進する材料になるし、逆に「男性に母性は獲得出来ない」と分かれば「なんで女ってだけで1人育児を背負わされるの?」と不満を抱えているママさんも、いくらか割り切る材料になるからです。
 
ただ、私は大前提として、こうした育児の話についてもともと「母性うんぬん」を持ち出すことが、どうも好きくありません。
母性の実態が分からないので「女性=母性持ち=育児担当者」とする流れに納得してないからです。
 
私は育児担当者を「母性のある方にお任せします。」で片付けていた時代は終わりのような気がしますので、もし育児に関して「適正による担当者」を定めるとするならば、その担当者に必要なのは、実体の分からない「母性」という謎の存在ではなく「親たる自覚」のほうが確かなものだと思います。
親たる自覚は、男女の性別は問わず父親も母親も本人が「その気になる」ことで持ち合わせることが出来るし、職業やすべての事柄について「性別による役割分担」から離れようとするこれからの時代には、そっちのほうが合っている気がします。
 
たぶん、番組を観ている現代の悩めるママさんたちが求めているのは「自分達の性別がどれだけ育児向きに作られているかの証明」より「夫も親として共同養育者の自覚を持てる方法」だと思うんですよね。
 
なのでこの番組で、育児に関して「母性」という単語を持ち出して「女性の話題」に限定しようとする事自体が、最新科学というわりには、新しくないものを感じましたし、私の感じる育児についての所感とギャップがあって、今の時代のママたちのニーズにもあってない気がしました。
 
あともう1つ、私の一番納得のいかないところは、③ の産後「パパにイライラしてしまうママが続出」その原因を解明のVTRのくだりです。
 
世の中には、産後急に夫の言動にイライラしてしまう母親が多く、父親も母親自身もそのことに悩む家庭が多いのはよく知られていることですが、番組ではその「イライラ」の原因を科学的に解説していました。
原因を簡単に説明すると、女性は出産や授乳に必要なオキシトシンというホルモンが出るのですが、そのホルモンの作用には「我が子への愛情を高める働きと同時に、我が子の害になることへは攻撃的になる働き」があって、物事の「快」「不快」が、母親の感情を過敏に「愛情」と「攻撃」のに動かしてしまうんだそうです。そのため、たとえパートナーの夫であっても育児に非協力的な部分が見えると「不快=攻撃対象」になってしまう、と番組では解説していました。
 
番組ではその後に「妻のオキシトシンを攻撃ではなく愛情に働かせる為に夫がすべきことは?」というVTRがあったのですが、この最後のVTRは「育児中のママさんに1日心拍計をつけてリラックス状態とストレス状態の波形を測り、結果を見る」というものでした。
 
結果ママさんはほぼ1日中ストレス状態にあることが判明したのですが、その中でわずかにリラックス状態だったのが「授乳中」と「夫と育児について話し合いをしている時」だったんですね。
 
で、ナレーションやスタジオの有識者の方のまとめは「旦那さんが育児で悩める妻に寄り添うことで奥様は愛情を強く感じてリラックスできる。」「パートナーが『ママすごい』と認めてくれる事が大事ですよね。」となっていました。
 
このまとめ、おかしくないですか?
いや、変な事は言ってないというか、もちろん「旦那さんが妻に寄り添う事」も「妻の働きを認める事」もすごく大事だとは思います。
でも「そこ止まり?」というか番組の提唱する「旦那さんの理想形」が『良き傍観者止まり』なんですよね。
 
私もこれが20年くらい前に放送するテレビ番組なら、これでよかったのかと思います。
その頃なら、男性が家事や育児をすることが本当に珍しくて、まだ「男性=外で働く役目」「女性=家で家事育児に専念する役目」の枠に疑問を持つ人が少なかった時代ですから、それより昔は夜泣きする赤ん坊と妻に旦那さんが「うるさい!俺は明日も仕事なんだからサッサと黙らせろ!」と言うこともザラだった時代なので、夜泣きに対して黙っていてくれるだけでも「優しい旦那さんねぇ」「皆見習って欲しいわよねぇ」だったのかなと思います。
つまりテレビで「ご主人は良き傍観者を目指しましょう」を提唱するのは、その時代から既に言われていたことなので、「2016年にまだそこ目標に掲げなきゃな地点なの?」という感じなんですよ。
 
もちろん、世の中には色々な男女がそれぞれの家庭の形を作り上げているので、現代でも「夫が怒鳴らないでくれるだけでありがたい」「育児の相談を聞いてくれるだけでも嬉しい」という奥さんも沢山いると思います。
そういう家庭にとっては「旦那さんが良き傍観者になること」すら「目標」になると思うのですが、この番組は「最新科学」「全く新しい育児の見方」という宣伝文句を謳ってるから、私としては観る前に「育児にまつわる最先端」を提唱してくれるのかな?っていう期待があったんです。
なので「これからの育児の理想形」として、これまで既に掲げられてきた地点より、高いところとして「男女の共同養育」を提唱しても良かったんじゃないの?と思いました。
 
あと、私は番組タイトルの「ママたちが非常事態!?」も謎でした。
というのは、私は普段周りの人やTwitterなどで聞くいろんな母親の声から
「昔からの育児負担が減らないまま、女性が仕事もしろしろと課せられてる最近の社会全体のいびつさ」をこの番組が「非常事態」と言っているんだと勝手に想像していたんですね。
なのでそうだったら面白いなーという期待で観ていたのに、そこにはほぼ触れてなかったので、結局肩すかしでした。
 
このように番組の掲げた「育児家庭の理想形」や②のように「育児=女性の話」と限定して終わっていたことなどが、私の育児に関する考えとギャップがあって、私がこの番組に「期待外れ」と思った原因です。
 
 
最後に
 
最後に、ここまで読んでいて
「そんなに育児に不満ばかり言って女性は育児がそんなに嫌なの?1番深く我が子と関われる素敵な仕事なのに何が不満なの?」と疑問に思う人に、母親達の気持ちを想像できる例えを出します。
 
自分がもし男性だとして、関わる女性みんな「あなたは男だから力仕事はあなたの仕事よね。」という態度だったらどう思うでしょうか。
2人にとって必要な荷物でも、荷物が出るたび「ハイ、これは男仕事ね」と渡してくる女性ムカつきませんか?
 
たぶん「そりゃこっちのほうが筋力あるから荷物運びの適正はあるけど、キミも手があるよね?少しは持てるよね?」と思うんじゃないでしょうか。
 
そういう女性より、自分から荷物を持って「私はこれだけ持つから、あなたは重い方持てる?」と、初めから「分担する気持ち」のある女性のほうが一緒に暮らしたい存在だと思うんです。
 
この男性の「男だからって無条件に荷物担当にするなよ…」という不満が、女性の「女だからって無条件に育児担当にするなよ…」と同じだと思います。
 
荷物運びも、育児も一方的に相手に「あなたの担当」と相手に決めつけられていたら誰しも「適正はこっちのほうがあるかもしれないけど、適正のある方に丸投げしていい事じゃないでしょ」と思うんじゃないでしょうか。
 
男性も初めから「荷物運びを分担する気持ち」がある女性と暮らしたいのと同じで、女性もはじめから「育児を分担する気持ち」がある男性と暮らしたいだけなんです。
多くの母親が1人で育児を背負うことに不満なのは、育児が嫌だとか、子供が可愛くないのではなく「2人で出来ることをはじめから放棄しているパートナーの態度」が嫌なんです。
 
私は、世の中のいろんな人がそこの気持ちを想像できると良いと思いますが、世の中には「我が子が可愛きゃなんでもできるはず」と根性論で押し通す人がいます。
そういう人は「育児を1人で背負わされて大変」と言う母親に「我が子が可愛いくないのか?」とトンチンカンな事を言います。
それは「荷物を1人で持たされて大変だよ」と言う男性に「女に荷物を持たせて恥ずかしくないのか!」と言うくらいトンチンカンな返しだと思います。
そういうトンチンカンが減っていくといいなと思います。
 
もちろん実質的な育児にどれだけ旦那さんが関わるかは、旦那さんの仕事や各家庭の事情で多かったり少なかったりすると思いますが、夫婦で旦那さんが「自分も担当者の1人だよ」という認識がある家庭が増えれば、実質的に育児作業の数が同じでも、妻の不満は減るんじゃないかと思います。
 
散々こき下ろしてきましたが、私はこの番組のことを「すごく為になった」「面白かった」というママさんも沢山いたとは思います。
そして、そういうママさんに「こんな番組で満足するなんてレベルが低い!」なんてことは本当に思いません。
育児に悩む方とって、どんな情報が役立つかは人それぞれなので、こういう科学的見地からの情報で「科学的根拠が分かったから、私明日からもっと頑張れる!」となったママさんが沢山居たなら、良い番組だったのだと思います。
 
ただ、私はこの番組が全てのママさんにとって「あ〜観て良かった〜」となる番組では無かったんじゃないかなぁと思ったので、その気持ちを書きました。
 
私がこの番組全体に感じた印象は
「というわけで、理屈が分かればあんた達も頑張れるよね?」という他人事目線のエールです。
 
再三書いてますが、現代の母親達の育児に対する悩みや不満の要因は「自分の出来なさ」だけではなく「女性だから無条件に育児責任を全任させられる不公平さ」にあると思います。
男女で作った子供を「産んだほうだから」で、女性に一任する慣習。
外での仕事には「女性も輝け」と参加を促すわりに、家での仕事には「男性も輝け」と参加を促さない政府。
その「育児に対する社会全体からの他人事感」が多くの母親達を苦しめているのに、番組からの1番のメッセージがその「他人事満載のエール」だったのが本当に残念です。
 
番組では「人類はそもそも共同養育仕様に出来ている」と明言して「女性はホルモンの関係で不安になるイライラする」と説明していました。
それなら話は「ホルモンの働きに左右されない男性は平常心で育児が出来る存在でしょう」と着地することも出来るはずなのに「育児をするママ(主体)のサポートがパパの役目」という着地点にとどまったこの番組。
 
締めが良くなかったので、私は結局この番組で色々と紹介されたせっかくの科学的根拠も、いうなれば「荷物が重いつらい」と言う男性に対して「男性の筋肉量はこれこれこうで、女性より何パーセント多いから荷物運びに向いています。女性が運んだ時の効率に比べ男性が運んだ時の効率は…」と説得してくる女みたいなウザさを感じました。
 
番組的には「国としては共同養育が実現しやすいように変わっていく必要性」や「これからの時代は男女共に主体的に育児責任者であるべきでしょう、という啓発」あとはせっかく最新科学と謳うなら「夜泣き対応はどこまで手を抜いても成長に問題ないか」の科学的検知みたいな「今夜から実質的に助かる情報」を出したほうが「悩める母親のために」とした番組ならニーズに答えていて、もっとたくさんの母親の心が軽くなるメッセージが発信できていたんじゃないかと思います。
 
 
というわけで、久々に長めの文章になりましたが、読んでくれた方はお疲れ様でした。
 
ではまた。
 

バカは死ななきゃ治らない

 

やや出遅れましたが、Copy__writingの中の人のインタビューを読んで、ある友人のことを思い出したので書きます。

彼女の名前はマユコ(仮名)

マユコと私はひと頃、とても親交が深くありました。

彼女は私より5つくらい歳下で、当時職場が同じでした。

仕事はシフト制なので毎日顔を合わせるわけではなかったけど、一緒の日は仕事が終わると、彼女の家に寄ってご飯を食べたり、休みを合わせて2人で買い物や遊びに行ったりしていました。

2人で旅行にも行ったことがあるので「友達との親交度合い」で言えばわりと深い方の付き合いをしていたと思います。

彼女の性格は一言で言えば「強気で奔放」でしたが、私は仲良くなった人に遠慮されるのは苦手なほうなので、歳の差を気にせず何でも喋ってくれる彼女の性格はありがたく思っていました。

そして彼女の特徴として特筆すべきなのは、彼女はとても流行のお洒落に敏感な女の子で、当時まだ流行り始めの各種SNSをフル活用し、SNS上の「マイミク」や「友人」も沢山いて、そんなSNSに自分のコーディネートスナップを載せたりもする、そういう子でした。

彼女と私はお互いに真面目な相談もできる傍ら、バカな話や下ネタでも多いに盛り上がれる感じで、とにかくその頃は本当に「互いに心を許せる友達」だったと思います。

しかし彼女とは、その後私が引っ越しした事で物理的に遠くなり、さらに2年前に別の理由から私が「距離を置いてもいい」と思うことがあったので、なんとなく連絡が気薄になり今は交流がないのですが、まだ交流があった頃に1度だけ私が彼女の人間性に疑問を持った出来事がありました。

それは、ある日の彼女のこんな一言がきっかけでした。

「ねぇ、これ、なんて返事書いたらいいと思う?」

彼女は手に持ったiPhoneから視線をそらさずに言い、私は「何が?」と聞き返しました。

すると、彼女は少しだけ躊躇するような顔をしてそのまま私の方は観ずに言いました。

「なんかね、こないだニニコがTwitterに書いてたことあるじゃん。あれを私のmixiに書いたら友達が結構マジなトーンの長文コメントしてきたんだよね。」

私は一瞬「はて?なんのことやら」と意味が分かりませんでしたが、続けて彼女が見せてきた画面を観て目が点になりました。

彼女が見せてきた彼女のmixiの画面には、見覚えのある文字列がまるまる句読点までそっくりそのまま書いてありました。

それは数日前に私がTwitterで書いた発言でした。

当該ツイート⇩

 

この3つのツイートがまとめて1つの文章となり、末尾に「by」とか「引用」という文字はなく彼女の「呟き」として投稿されていたのですが、文字列を見た私はちょっと何が起きてるのか理解するのに脳が追いつかず、言葉に詰まってしまいました。

するとマユコは続けて言いました。

「その友達ね、自分の子供にちょっと障がいがあるんだけど、その事で思うところがあったみたいで、反論じゃないんだけどすごい長い質問みたいな、『そういう見解のあるマユはこれについてどう思う?』っていうコメントしてきてさー、どうしよ?なんて返事書いたらいいと思う?」

 

 

 


バカなのか?

 私の脳裏にはそれしか浮かびませんでした。

百歩譲って、彼女が「私の発言をパクツイ(ツイートではなくmixiの呟きですが)した」という事実までは、まだ頭で理解出来ます。しかもせめて、私が1人でmixiを巡回していて彼女のページを発見して当該やりとりを発見したなら、まだ事態は飲み込めるんです。

でもそうではなく、堂々と「自分が勝手に引用した相手」にそれを自己申告してきたその思考回路が本当に本当に理解不能で、私は急にゾッとしました。

隣にいる友達のマユコが「得体の知れない理解不能な人間」に思えたからです。

そしてそのショックを受け止めると次は怒りが込み上げました。

しかし、ここでこれを私に見せられる彼女には、恐らく本当に「勝手に自分の発言にしちゃってゴメンね(^_^;)」的な思考が無いのです。

なので真っ当に「何やってんの!?」と怒っても100%彼女の性格では「何そんなキレてんの?」という反応が返ってくる予感しかしませんでした。

だから私は冷静に言いました。

「待って。とりあえず、マユは私のツイートを自分の発言にしちゃってる事についてはどう思ってる?」

すると彼女は私の声のトーンから少なからず怒りを感じ取ったのか、少しうろたえつつも「え、でも私、トップページに『Twitterで気になる発言も呟きます☆』って書いてるから…別にいいと思ってた。」と言いました。


なんじゃそりゃ。

Twitterで気になる発言も呟きます。」の意味が分からない。

Twitterで気になる発言も呟きます。」の一文に、彼女が期待した効力が理解できない。

Twitterで気になる発言も呟きます。」の一文を読んだマイミクが現に「彼女の発言」として受け取ってるコメントをした時点で、彼女が「ゴメン!これは他の人が言ってたことなの!」と訂正せず、まともにコメント内容への返事を考えてる事が理解出来ない。

極め付けは、それを私に聞いてくる思考回路が本当に分からない!!

私は小パニックに陥りました。

でも、人間そんな咄嗟に怒れないもんですね。

特に、私達は「これから渋谷へお買い物へ向かうバスの中」に居たのでそこで怒るのは至難の技。(怒り逃げ出来る状況ではない)

結局、私は声を荒げる事はなく、彼女に「あのね、どんな仲良しでも、断りもなく人の発言を自分の発言として書いちゃダメなんだよ。それはネットに限らないけど、ネットの中では特に常識なの。」と説明しました。

彼女はポカンとしていて「そういうもんなの?」と言いました。

私は愕然としました。

私よりずっと若くて学生の頃からネットに親しんできた彼女が、そんな「インターネットの常識の初歩の初歩」を「初耳」だということが本当に信じられませんでした。

何より、マユコが「普段から辻褄の合わない事を言ったり、理解不能な行動が見受けられる奴」なら私はもう「そういう奴」と見切る事が出来たでしょうが、彼女とは「仕事」という1番本性が見えやすい環境で長く時間を共にして、私の中では彼女の人となりに対する信用が少なからずあったのです。

だから、本当に「まじか…」というショックがありました。

でもちょっと考えてみると、もしかしたら彼女は「自分の作り出したものへの愛着」という感覚が本当に分からないだけの人なのかも、と思いました。

私のような「文章を書くこと」を趣味にする人間にとって、発言とは「物事を受けて自分の脳みそというフィルターで濾して生み出したもの」です。

もちろんそれは文章に限らず、人によってはイラストだったり、手芸作品だったり、写真作品だったり、するわけですが、とにかく「自分の頭や手で頑張って何か生み出すことの喜び」を知る人間にとって、生み出したものは「子供」のような存在だと思います。

だからその「子供」は決して他人に横取りをされていいものではなく、それは「著作権とかの法律があるから守る」という事より、大前提として人道的に「人の子供をさらったら親が悲しむからしちゃダメ」という事だと思うんです。

しかし、世の中にはその「自分の頭や手で頑張って何か生み出すことの喜び」を知らない人もいて、マユコもその1人だと考えると彼女のこの一連の言動がなんとなく理解できる気がします。

つまり、彼女がたとえいくら言葉の説明で今までも先ほどのような「常識」を教えられていたとしても、彼女の中にはその「自分の頭や手で頑張って何か生み出すことの喜び」や「自分の作り出したものへの愛着」自体がピンとこない感覚なので「その常識を守るべき理由」もピンと来なくて、それでそういう常識外れなことが出来てしまうのかもしれないと思ったのです。

私にとって、彼女のやったことは「自分の子供が知らぬ間に誘拐されて働かされていた。」みたいな事ですが、彼女にとってはそもそも私の子供とは認識されておらず、「友達の捨てた紙切れになんか書いてあってそれが面白かったから拡散した。」というだけの事なんだと思います。

そして、その時に「こんな紙切れ拾ったよ」という注釈をつけるのも「なんとなく面倒くさくて省いちゃった。」だけで、悪気ではなく、ただの「その程度の事で怒る人は居ないからどうでもいいでしょ」な感覚なんじゃないかと思いました。

私はこの場合、マユコに私の怒りを実感して貰うためには「彼女の感覚で実感できるもの」に置き換えて話さないと伝わらないと思って、少し考えた結果、このように聞きました。

「マユコはさ、よくインスタに自分のコーディネートを載せるでしょ。それはその都度『この色の靴下でこのヒール履くの、まだやってる人が居ないけどめっちゃ可愛いなー』とか『この上着で、下にこのスカート合わせると可愛いの発見した!』とか、自分で考えた結果のコーディネートなわけでしょ。それをもしある日、知らない人がまるっきりマユコのコーディネートを毎日真似して載せてて、コメント欄に『○○ちゃんのコーデ個性的ですごい!』とか『○○ちゃんにしか思い付かないコーデだよね!参考になります♡』とか書いてあるのを見つけたら、あんたどう思う?」


マユコは3秒くらい黙って上の方を見たのち言いました。

「めっちゃ、むかつく!」

マユコは「そんなん超むかつくんだけど、何勝手に自分発信にしてんの?って感じだよ!」といきり立ったので、私は「うん、そうな。」と言いました。

そして私が「しかもな、その○○ちゃんからマユコに『このコーデのコレどこで売ってます?ファンの子から質問が来たので教えて下さーい。』って聞かれたらどう思う?マユコがやったことは、私にとってそれなんだよね。」と聞くと彼女はやっと「あ…」と言って黙りました。

そして、小さい声で「ごめん…」と言いました。

友達に謝らせてスッキリするものではないので、私も後味が悪かったのですが、「とりあえずそのコメントしてきた友達には訂正して、自分なりの答えを新たに考えて返事してあげれば」と言って、「そうする」と言うのでその件は終わりました。

その後も私とマユコは私が引っ越すまで普通に今まで通りの友達付き合いをしていましたが、これは私の中で1つ彼女の人間性を疑った出来事でした。

今回、Copy__writingの中の人のインタビューを読んだ時、私はこの時の「ゾッとした感」が少し蘇りました。

ネットに転がってる数々の名言は、確かに明確に1つ1つの著作権があるものではありません。

だから、他人の名言を抜き取って、自分のものにして「100人分の珠玉の名言」を「1人が考えた100の名言」にしてしまうという事がまかり通ってしまったのだと思います。

でも、100人分の「生み出した子供への愛着」や、100人分の「めっちゃむかつく」を想像出来ず「その程度のこと」で済ませている人間が、「コピーライター」という「言葉を生み出す職業」を名乗るなんて「笑わせんな」としか言いようがありません。

Copy__writingの中の人は、自分が書いた言葉を誰かがさらっていったら「めっちゃむかつく」と思わないんでしょうか。

言葉を生み出す職業を名乗りつつ、他人の言葉を勝手にさらう行為を継続的にやれる神経が、本当に「得体の知れない理解不能の人間」に思えて、私はゾッとしました。

ちなみに、この文章を書いた後、公開するのに少し躊躇いました。

マユコが私のブログに辿り着く可能性はかなり薄いのですが、これを読んだら本人だけは分かると思ったのでさすがに少し悪い気がしたのです。

でも昨日マユコのFacebookを発見して見てみたら、なんと彼女は他にもいくつか私のツイートをそのまま自分の発言として載せていました。

治ってねぇ…


そんなわけでもう私はこの文章を躊躇なく公開します。

「バカは死ななきゃ治らない」というのは、真実なのかも知れないと思いました。

おわり。

トピック「パクツイ」について

 

「デブ、ブス、ハゲ、いい歳して独身の人は笑いものにしていい」というテレビの常識はおかしくないですか

 

前回、もっとお笑い全体について書きたい事があった気がしてたのに、気がついたら全然バカリズムについての話しか書けてなかったので小倉智昭ばりに「ど〜なってるの?」と思いました。


 さて前回、私は「なんとなくお笑い番組を観ていて自分が『これ、笑えないなぁ』と感じるネタや場面が多くなっているような気がしている。」と書いたのですが、今日はそのお笑いを全体的に見た時の「これ笑えないなぁ」について書こうと思います。(頭の中ではまとまってないのでうまく書けるか分かりませんが)
私は最近テレビのお笑いやバラエティ番組を見て笑えない場面がちょこちょこあるのですが、それを整理すると以下の2つのパターンになります。
 
身体的ダメージ系
芸人を落とし穴に落としたり、熱々おでんを顔につけたり、水槽に沈めたりするようなやつ。
精神的ダメージ系
「デブ、ブス、ハゲ、いい歳して独身」などの、芸人の容姿やプライベートな事情を本人以外が指摘するやつ。
 
こうして観ると「この2パターンで笑えないなら、ほとんどのバラエティ番組が笑えないんじゃないか?」と言われそうですが、まぁ実際そうなんですよね。
 
歳のせいで無駄に共感力が高くなった私は、まず身体的ダメージ系は、やられてる芸人が痛そうだったり苦しそうだったりすると、もう単純に「痛そ〜」「苦しそ〜」という頭になってしまって笑えるどころではなくなります。
さらに精神的ダメージ系は、例えば女芸人がモテたエピソードを話した時に司会者が「その顔でー?」とかチャチャを入れるくだりがあるともうその時点で、司会者を「やな奴!」と思ってしまってそいつのチャチャで笑うのが嫌になります。
一応頭では「そういういじり」だと分かってるんですが、普段から私の中には「人の見た目のことバカにする奴が好きくない」という気持ちがあるせいか、司会者に腹が立ってしまうんです。
 
もちろん全部の「身体的、精神的なダメージを受けて見える芸人いじり」が「お笑いの形」なのは頭では分かっているので、私が面白くなくともそういうお笑いを好きな人のことを「あんなので笑うなんて無神経過ぎる」とか「低俗」とかまでは思いません。
でも「私と違う感覚の人が随分沢山居るもんだな」とは思います。
それで、たまにこういう事を職場とかで人と話してると、だいたい途中で「自称お笑い通」の人が横から入ってきて言います。
「お笑いって、残酷なもんなんだよ。笑いから残酷要素を抜いたら、ほのぼの系の生ぬるい笑いだけになるよ。そうなったら日本のお笑いも終わりだね。」
 
私はわざわざ波風立てたくもないので、お得意の、否定も肯定もしない便利な返し「あぁはぁまぁ」でその場はおさめますが、そういう時心の中では「ほのぼの上等じゃんよ。」と思ってます。
だって、どう考えても人が踏んだり蹴ったりされてる様子を見て笑うより、柴犬専門チャンネル見てたほうが私はよっぽど幸せに笑えるんですもん。だからジブンほのぼの上等っす。
 
でも多分、これ「どっちが正しい間違ってる」ではなくて、ニーズの問題なんだと思うんですね。
お笑いに求めるものが「刺激」の人は「残酷と隣り合わせの笑い」を欲するし、お笑いに求めるものが「癒し」の人は「共感とかほのぼの系の笑い」を欲するんじゃないでしょうか。
私は後者で、そのお笑い通は前者ということだけな気がします。
 
だから私も「お笑いを見たいなら、多少の残酷さがあることは覚悟しろ」と言われたら、まぁそこまでは納得できるのですが、それでも「テレビのお笑い」と「刺激求める派」の人に対してはちょいと思うことがあります。
 
それは「お笑い=残酷なもの」ということがたとえ真実だとしても、テレビを作る人と観る人はそこの「残酷さ」に鈍感になったらダメなんじゃない?
ということです。
どういうことかと言うと、私は「お笑いの残酷さ」には種類や程度があって、時に「わっ、これ可哀想じゃない…?」と思われる場面がある場合、そこをひとくくりに「お笑いは残酷だから」で思考停止していいものではないと思うんです。
ようは「お笑いだから許される残酷さ」と「お笑いでも許されない残酷さ」があるということで、作る側も観る側もそのボーダーラインに無頓着ではいけないんじゃないかということ。
 
なんでそう思うかというと、やっぱり「笑い」って1つの「快感要素」だと思うのですが、人間は快感目的だと時にタガが外れることがあるじゃないですか。
性的な快感も、金銭を手にした時の快感も、褒められた時の快感も、全部「ほどほど」の「適正ライン」があるはずなのに、時々そこの感覚がおかしくなって社会的な適正ラインを超えてしまう時や人が出てくるから、世の中って、そういう時にトラブルが起きてると思うんです。
だから「笑い」という快感に対しても、各自が自分の倫理感で「ここまでは笑ってもいいけど、これ以上は酷いと思う」っていう適正ラインを頭の片隅ででも意識してないと、もし、そうでなくみんながそれぞれ「周りの様子見で合わせる」になっちゃったら、作る人は「見るやつが笑うからいいっしょ」で、見る人は「テレビでやってるんだから笑っていいっしょ」とやってるうちに、残酷さがエスカレートしている事に誰も気がつかないで、残酷な事が起きている上に、残酷な目にあってる人が「みんなが笑う事だからこれは耐える、べき…?」みたいに、もう全員のタガが外れた事態になる気がして、それが私はなんか怖いなぁと思います。
そういうわけで、テレビを作る側も観る側も「残酷さのボーダーライン」に無頓着ではいけない、と思ってます。
 
 
で、ここまで読んで「そうは言っても所詮テレビの中のことにそんなに目くじら立てんなよ。」とか「今更何言ってんの?昔のテレビのほうが今よりはるかに芸人に残酷な事をしてたし、観るほうも平気で笑ってきたじゃないか。」と言われたら、それは確かにそうです。
でも私は「今更」ではなくて「今だから」こそ、そこは注意しなきゃいけないと思うんですよね。
 
なぜなら、昔は「テレビの中」と「一般社会」に明らかな隔たりがある前提があったからこそ、そういう笑いが「見せ物としてアリ」だったんじゃないかと思うんです。
 
思い返せば、私が子供の頃「芸能人」というのははるか雲の上の存在でした。
その頃の世の中には「芸能人=一般人より飛び抜けた何かの才能を持つ人」という認識があって、テレビというのはその「芸能人」が出てくる「特殊なショーを見せる世界」という感じがしてました。
 
そういう前提が世の中に浸透していた時代には、テレビで芸人がひどい目にあわされていてもテレビ側からは「一般人がやったらダメだけど、テレビではお笑いとして放送するからみんなで笑ってね。」というちょっと理不尽ながらも「良い子は真似しないでね」的なメッセージが発信されていて、観ている人も中には批判が少しはあっても大半の人が「うん。これはテレビだもんね。」みたいに素直に納得していたんじゃないかと思います。
 
だから当時「お笑いウルトラクイズ」とか、芸人が酷い目にあってる風なお笑い番組がやってると、まぁうちの母親は特別気むずかしい人なので「あー、あんなことして!」と呆れてすぐチャンネルを変えていましたが、私や兄達は「この人らはそういう覚悟をしてその世界に入った芸人だし、嫌がるのはショーの演出だから別に笑ったっていいじゃん。」という気持ちで笑って観ていました。
 
つまりその当時の私の笑いは身の回りではタブーとなっている事だからこそ、逆にそれが解禁されてるテレビの中のお笑いの残酷さを「特別な人がやるフィクション」として安心して見てた。ということのような気がします。
 
でも今のテレビはもう昔の「特殊なショーを見せる世界」ではなく「身近に居そうな人がなんか面白げな事をしてるのを見せる場」という風に変化してきていると思います。
それは「芸能人」が雲の上の存在ではなくなったから。
ここ10年で、昨日まで素人だった人がひょんなきっかけでテレビに出るようになったり、読モとか若手芸人みたいな「半分芸能人、半分素人」の人たちがかつて「芸能人 」「一般人」の間にあった溝をどんどん埋めていったので、もはや「一般人」と「芸能人」の境目は、ほぼ無いに等しい状況だと言えます。
 
だから今の20代くらいの若い子達は、その「降りてくる芸能人」の過程のテレビを物心つく頃から見てきたはずなので、多分私のような上の世代の人には残ってる「テレビが特別な世界」という意識はハナから無くて「テレビと一般社会は地続き」という感覚が強いんじゃないかな、と思います。
 
ということは世の中の人の「お笑い」に対する認識も、かつての「テレビの中でやってるけど皆は真似しちゃダメ」ではなくなって「テレビで笑いとされてる事は皆もやっていい」になっていく気がするのですが、そうなると、自分のいる地続きの世界で笑いになってる内容が、ちょっと今のままではいかん気がするんですよね。
 
笑いのために、人の体を傷付けるものだったり、本人が買いたくないものを無理矢理買わせるだったり「ブス、デブ、ハゲ、いい歳して独身の人はそこをいじられて笑われてもいい存在」という扱いを受けたりすることは、本来は人の身近に転がってたらいけないことだと思うんです。(私はテレビでも嫌だけど)
「ひとの見た目のこと、お家の事情のこと、その人がどれだけ気にしているか分からないから、変だと思ってもからかったりしないようにしようね」は、小学生でも習うことなのに、なんで「笑い」の大義名分があるとここまで当たり前に破られてるのかな?と思います。

だからせめて、これ以上はエスカレートしないように、作る人と観る人とが、「これを笑うのって人としてアリ?ナシ?」の感覚に鈍感ではいけないと思うんです。
テレビの世界の笑いが残酷にエスカレートしていくことは、明日自分の周りで「残酷に笑われる人」を作ることになるかもしれないから。
 そういう訳で、私は今だからこそ、テレビを観て「笑っていいこと」「笑ったらダメなこと」を各自がジャッジしないといけないんじゃないかなぁと思うんですよね。
 
「笑い」って、みんなが好きで、良い事で、正義とまで言われてたりするけど、その側面ばかり見て行け行けドンドンになったらダメで、アクセルがあるからにはブレーキが必要というか、笑われる人が嫌だと思った時に「みんなが笑うんだからいいじゃん。」という暴力がなされない環境がいつも守られる為の、ブレーキを各自持ってるほうがいいんじゃない?っていう話ですね。
 
あー、やっと当初書こうと思ってたことの半分くらい書けましたけど、これ書くのにすごい手間取って、もう半分を文章にする能力が今の私には無いとわかったので、もう次回は別のこと書きます。
またいずれお笑いとかテレビに関する話はまとまったら書きます。すいません。
 
 
ではまた。
 

バカリズムのコントが酷かった件について

 

 

今さらですが年末年始の話を。

私は普段からテレビを見るのが大好きなのですが、この年末年始はいつにも増してごろごろとテレビを駄観ってたように思います。
あ、「駄観る(だみる)」というのは私が作った動詞で「なんとなく点いているテレビを惰性で無駄に長く観る行為」を意味します。便利なのでよかったら使ってくださいね。
 
 私は普段テレビは「頭を使うドキュメンタリーや情報系番組」と「頭を休める娯楽番組」で半々くらいの割合で観るようにしているのですが、年末年始は娯楽番組の数が圧倒的に増えるので、自然とそのバランスが偏り、お笑い芸人の姿ばかり見ていたように思います。
 
それでふと思ったのは、なんだかこのごろのお笑いは「面白くない」どころか「不愉快さ」を感じるものが増えたなぁということ。
 
 いま、自分でも「すごい安っぽくて、なおかつ沢山の反感を買いやすい一文」(安くて沢山買えるからある意味コスパ優秀)を書いた自覚があるのですが、(素人が「このごろのお笑いは面白くない」とか語りだしたら「なんかウザい」と思うのが人情です)すいません、続きを書きます。
 
私は今日なにも「このごろのお笑いは子供ウケするようなリズムネタばかりが流行ってそういうのがお笑い界のレベルを下げている!」みたいなお笑い論の話がしたいのではありません。
正直言って「お笑い界のレベルが昔と今とどう違う」とかは私は本当に分かりませんし、そこのところの真実にはそんなに興味がありません。
 
ただ、私は昨年からなんとなくお笑い番組を観ていて自分が「これ、笑えないなぁ」と感じるネタや場面が多くなっているような気がしていて、この年末年始は特にその感覚が濃縮して感じられたもので、その辺について思うことを今日は書こうかと思います。
 
はじめに断っておきますと、私、バカリズムはずっと好きでした。
もともと自分自身が絵を描くのが好きなせいか、芸人さんの中でもイラストのフリップネタをやる芸人さんに好感を抱きやすくて、その中でもいつもここからの「悲しい時ー!」とか、バカリズムの「都道府県の持ち方」みたいなネタは本当に好みのネタです。
ここ数年、バカリズムはネタよりも普通の番組に出る姿が多いですが、トークも特に嫌な感じはしないし、脚本を手掛けたドラマも「バカリズムが脚本なら」と思って観たのですが、期待を裏切らない面白さだったので、私の中でバカリズムはずっと「好きな芸人さん」という位置付けでした。
ところが昨年末「検索ちゃん」という番組のネタまつりで久々に見たバカリズムの新作コントがひどかったんです。
 
もちろん「ひどい」というのは私個人の感想で、そのコントが面白かった人もいたと思いますが、当時Twitterでも「これは酷い」という意見がわりと沢山あって、少し話題になっていました。
とりあえず観てない方の為に簡単にそのコントの内容を説明しますと…
 
舞台は会社の会議室らしきホワイトボードの前。
そこでバカリズム扮する男性社員が同僚だか後輩女性の「広瀬さん」に向けて終始1人語りをするコントなのですが、その話の内容が「広瀬さんのおっぱいを触らせて欲しい。」というお願いなんですね。
で、画面に広瀬さん役の女性は居ないんですけど、広瀬さんはなんやかんやと胸を触られたくない理由を言っているテイで話は進みます。
そしてバカリズムは広瀬さんから「なぜおっぱいを触らせたくないと思うのか」を冷静かつ執拗に聞き出し、広瀬さんが挙げる理由1つ1つに対し独自の理論で諭していき、最終的には丸め込まれた広瀬さんがおっぱいを触られる、というコントでした。
 
まぁ、文章で読んでも「なんじゃそりゃ」と思うかもしれないので、観たい方は魔法の箱で見てもらえればいいのですが、スタジオの反応は「ひどいな!」とか「よくこんなネタ作るな!」みたいに揶揄しつつも全体的にはネタとして「アリ」になっていて、「面白かった〜」と受け入れられてる感じでした。(ただ、コント中に映ったひな壇のオリラジの2人は結構引いてる表情をしているように見えた。)
 
私は、序盤の「おっぱい触らせて欲しいんだよね」の台詞から、最後まで1ミリも笑えず、むしろ「ここが笑いどころ」らしき独自の理論には恐ろしさすら感じて、それまでバカリズムを好きだっただけにかなりショックでした。
 
その時したツイート↓

 
もちろん私も大前提として「ただのコントでしょ」ってのは思いますし「こんなコントを作るなんて、実生活でバカリズムは女性にそんな事を言って迫ってるのね!」なんて飛躍した考えも無いです。
 
でも私がツイートで「純粋に怖い」と書いたのは昔自分が「なんでそうなる?」という理論で男性から性交渉を迫られた経験があって、このコントを観た時にその時の怖さとか嫌な気持ちが新鮮に蘇ったからです。
 
ちょっとここで「なんでそうなる?」という理論についてピンと来ない方の為に具体的に説明しようかと思いますが、私のケースは内容が混みいっているので、もっと説明の簡単に済む女友達のチカちゃん(仮名)のケースを紹介します。
 
チカちゃんは20代のはじめ、ある男性とお付き合いをして彼の初めての性交渉の相手になったのですが、やがてその男性と別れたくなってしまい、別れ話をしたら彼は別れることには同意したものの「体の関係は続けたい」言ってきたそうです。
 
チカちゃんが「それは出来ない」と言うと彼は「チカが女性の体の味を俺に教えたのに、いきなり相手をしなくなるのは卑怯だ。チカと付き合わなければ俺は1人でも生きていけたのに、チカに女体を教えられたせいでもう自分は女の体が必要な人間になってしまった。チカはこの責任を果たすべく、俺に次の彼女が出来るまで、体だけでも相手をするべきだ。」という持論を展開したそうです。
 
これがまさに「なんでそうなる!?理論」なのですが、彼はいたって真剣に言ったそうです。その彼には私も1度会った事があって、その時は至って社会性のある普通の人に見えたので「えー、あの人がそんな事言うんだ」と驚いたのですが、その後のやりとりメールなども彼女から見せて貰ったので、話は本当だと信じられたのと共に私はかなり驚きました。(彼女はその後無事に別れる事ができていました)
 
こういう「なんでこうなる?理論」はこうやって文章で読む分にはもしかしたら「面白い話」なのかもしれません。
ですが、私はこの「面白さ」は、その人が「安全地帯に居ること」が前提で「面白さ」に変換されるもののような気がします。
つまりどういう事かと言うと、実際に、もし皆さんが夜の繁華街を歩いていたとしましょう。
するとラブホテルの前にいる一組の男女の男のほうが土下座をして「1回だけだから!痛くしないから!終電までに終わるから!」と叫んでいる現場に出くわしました。
この時、皆さんはどう思いますか?
 
多分半分くらいの人は心の中で笑っちゃうんじゃないかと思います。
それは、その男の「無様さ滑稽さ」に対する「なにやってんだよ(笑)」っていう嘲りの笑いだと思います。
でも、その光景がまるでコントの一場面のように見えて笑えるのは、完全に見る人が第三者という安全地帯から観ている光景だからだと思うんです。
 
つまり、視点を変えて自分がその女の人だと思ってみると「その状況は笑えるものなのか」を考えてみて下さい。
それまで普通に会話が成り立っていた男性が性交渉の為に目の前で、血走った目で「お願い!」と土下座で懇願してくる状況。
その女の人の気持ちはおそらく「怖いし気持ち悪いし恥ずかしいし今すぐやめて欲しい」で、とうてい「笑える」ものでは無いと思うんです。
 
まぁ、実際はそれぞれの人の性格によるので、女の人全員が「怖いし気持ち悪い」と思わないにしても、そういう無茶苦茶なアプローチをウエルカム出来る女の人って少ないと思いますし、ほとんどの女の人にとって性交渉に関する無茶苦茶で強引なお願いは「笑えない迷惑行為」だと思います。(もちろん男女が逆でもそうだと思うし。)
 
私の時も、チカちゃんの時も、私達の感想は同じで、「実に怖いよね」でした。
その怖さは、単純に身の危険を感じる怖さもあるのですが、なんというか「性欲に取り憑かれたゆえの人間の狂気」を見せつけられる怖さもかなりありました。
 
そしてこれは別に男性に限った特性では無いと思いますが、私が男性からしか迫られた事が無いのでここでは「男性」と書かせて貰いますが、一部の男性は本当に性欲にかられると普段普通に生活してるような人でも、性交渉の為に無茶苦茶な事を言う時があります。
男性同士ではそんな一面を見せなくても「え、この人が?」という真面目そうな男性でも。
だから、男性の性対象になりやすい女の人の中にはそういう目に遭ったことのある人が結構います。
 
でも、バカリズムのコントが「面白さ」としている部分と、その土下座男の「面白さ」の根底にあるのは、同じ「女体目的に必死こいてる男の滑稽さ」だと思うんです。
そして、それは私やチカちゃんの目には「滑稽さ」として映らず「怖い」と感じた部分です。
このように視点が違えば「怖さ」は「滑稽さ」になってしまうということ自体も私は恐ろしいことだな、と思えます。
 
私は土下座男やバカリズムのコントの「滑稽さ」をすんなり「面白み」と捉えられるのはきっと「土下座されてる女性に感情移入しないでいられる人=そういう状況で怖い思いをしたことのない人(今後する想定のない人)」だけなんじゃないかと思います。
 
そして、前に痴漢の話の時にも似たような事を書きましたが、こういう「怖さ」が「被害を受けた当事者同士しか共有できないものなんだ」と思い知る度に私は世の中にガッカリします。
 
もちろん、所詮「コント」なんですけど、現実で女性が会議室で男性社員と2人きりになる機会は実際に起こる場面ですし、思いもよらぬ男性に滅茶苦茶な理論で押し切られて不本意な性交渉を断りきれなくて辛い思いをした女の人も世の中には沢山いるだろうに、そのような場面がコントという「笑っていいもの」として、テレビという万人向けの媒体で放送することが今の世の中だとまだ「アリなんだな」ということに私は今回ガッカリしてしまったんです。
それが完全に「笑い」として放送される事がまるで、そういう事で怖い思いをした女の人が「世の中に居ないものとされている感じ」がして。
 
テレビで、あのネタが「笑っていいもの」として放送される事は、友達同士が内輪で「この理論武装で女のおっぱい揉めるぜ!」と話してるのとは訳が違うわけで「このコントを見て過去の嫌な思いをぶり返して嫌な気分になる人がいるだろう」という配慮が無かったという事に「今のテレビを作る人の意識ってそんくらいなんだなー」と思えたのが、ガッカリという感じがしました。
 
一部の人には私の話は飛躍しているように思えるかもしれないですが、私はそう思えたのでそう書きます。
 
ただ、これをコントとして世に出そうと思ったバカリズムは恐らく「そういう怖さ」の経験が無いから面白がれるんだろうなぁ、と思うと彼が羨ましい気がしました。
彼の目から見える世の中には、「こんな事を言う奴」は居なくて、「こんな事を言われて怖がる女の人」も居ないから彼はあのコントが作れたんじゃないかと思うので、本当に現実にあのコントを見る人が全員「こんな奴いないっしょ、こんな状況自分に起きないっしょ」と思って第三者目線で楽しめる世の中になって欲しいなと思いました。
 
ちょっと今回、書きたかった事の3分の1にも到達してないのですが、(本当はもっとお笑い全体の事について書きたい事がありました。)今年の私のテーマというか目標が、「テンポよく」なので、昨年までのブログの文章より短くて、数をたくさん書くことをやっていきたいと思いますので、今日はここまでに致します。
 
それでは、皆様、本年も宜しくお願い申し上げます。
 
 
 
 
 

「女は働け、女は産め」と言われても、体が2個なきゃできません

 

はじめに

先日のNHKの「おはよう日本」の中で放送された「資生堂ショック」の特集を皆様は観たでしょうか?
私はたまたま早起きしてたので観ていて、一瞬「資生堂ショック」と聞いて「資生堂が頑丈な腕時計でも出したか?」と思ったんですけども、そんな呑気な話ではありませんでした。
番組を観てない方や「資生堂ショック」がなんなのか分からない人の為に一応この話題を取り上げたニュースサイトのリンクを貼っておきますが、
読むのが面倒な方の為に(リンク先の記事が無くなった時の為にも)
私なりにざっくりまとめますね。
 
資生堂ショック」とは一言で言うと「資生堂の、女性社員に対する処遇の方針が変わってびっくりぽんや!」という話です。
 
資生堂は言うまでもなく日本の一流企業で、化粧品メーカーという職種として女の人がたくさん働いています。
そしてこれまでの資生堂は、社内託児所の整備が整っていたり、時短勤務制度があったりと、他の企業に先駆けて育児支援に積極的で「資生堂=女性が働きやすい、女性に優しい企業」というイメージは一般の人にも広く知られていました。
 
しかし、そういった育児支援制度を活用する女性社員が増えるのと反比例する形で、ここのところ資生堂の業績は悪化していたようです。
そこで資生堂の上のほうの人は、この度そのことについて「どげんかせんといかん!」となり、これまで積極的に認めてきた育児中の女性社員が使える時短勤務制度の利用を厳しくしたり、普通の社員と同じ接客ノルマを科すことにしたのです。
つまり、資生堂の上のほうの人は、「制度を使って早く帰る女性社員が増えたせいで、他の普通の社員が大変になって不満ブーブーになって、やる気が落ちたせいで売り上げが落ちた」と判断したらしく、その解決策として「育児期間の女性社員に意識改革」させる事で、全体の士気が高まって業績が上向きになると読んだのでしょうね。
だから「育児中でも会社に保護されてぬくぬく働けると思うなよ!一人前に働け!」と育児期間中の女性社員にクギを刺すことにしたんだと思います。
 
この資生堂「女性社員を保護の対象から戦力へ変える方針転換」は今までとは180度の方針転換だったのでメディアが「資生堂ショック」という見出しを付けて報じました。
そして各方面にこれが知れ渡り、「あの資生堂が一転して!?」という驚きの波紋が広がっている最近の状況全体をひっくるめたものを「資生堂ショック」といいます。
 
おはよう日本」の番組内では、実際に資生堂にお勤めで、このたび産休を経て職場復帰していた一般女性のインタビューがありました。
その女性社員のもとには、産休明けの頃に会社から一本のDVDが届いたそうです。
そのDVDの内容も番組内では流していたのですが、それは会社の上のポストの女性が語る「職場復帰する女性の心得」みたいなものでした。
それは表面的には「皆さんは会社を支える大事な戦力なのです。」みたいな文言でしたが、私なりの意訳すると
「貴女方が当たり前のように育児期間だから時短勤務をすると他の社員の士気が下がるので、育児期間だからと言ってこれまでのように会社が融通効かせてくれると思う甘えは辞めて仕事に復帰して下さいね。」というもので、まるで洗脳ビデオのように私には思えました。
 
資生堂と無関係の私ですら「こんなん見せられたらショックだろ…」と思った内容でしたので、実際に産休明け前に、これからの育児と仕事の両立に不安ながらも「さぁまた頑張らなきゃ」と思おうとしているところに会社からこのような「突き放し宣言DVD」を見せられたその女性社員の方がどれだけショックだっただろうなぁ、と思うと、実にいたたまれなくなりました。
 
番組としては女性アナウンサーが「職場の不公平感を無くすことで、お互い助けあおうという意識がより強くなるのかもしれませんね」とコメントし、男性アナウンサーも「企業側も制度の運用をより柔軟にすることで、会社の業績アップと子育て支援のバランスをうまく取っていくことが大事になってきます」と綺麗にまとめていましたが、私は心の中に得体の知れないごちゃごちゃとした暗雲を置いて行かれたような気分になり、朝から心がとっちらかってしまいました。
 
私は「こういう時はTwitterだ!」と思い、早速「#資生堂ショック」で検索したタイムラインを見ると、「資生堂ショックひでぇ!」「どうした資生堂!?」という声が連なっていました。
このように私と同じような暗雲を感じた方々がいる事で、私は自分の感じた気持ちが自分1人だけの感覚ではないことに一瞬だけ安堵しましたが、それらを読んでいるうちに、段々とこの暗雲の正体を明かしたいと思いました。
 
私の性格的にこういう「よく分からないけどモヤモヤするなんか嫌な感じ」への対策は、考えないことよりも、よく考えて噛み砕いて吐き出してみて、誰かと共感する方がマシなのです。
なので今回、私と同じように「資生堂ショックにショック!」となっている方に読んで貰って、もし出来たら共感してもらえる方がいれば、私としてはいくらかスッキリしますので、このことを書いていこうと思います。
書くのに少し時間がかかってしまったので少し今更感があるかもしれませんが、興味があれば良かったらお読み下さいませ。
 
 
私は資生堂ショックの何がショックだったのか
 
私が資生堂の今回のこの「女性社員甘やかさない宣言」を知った時の率直な感想は「こわい」でした。
それで「私は何が怖いんだろう?」とよくよく考えてみたのですが、それは簡単に言うと「時代が逆戻りしてしまう恐さ」だと思いました。
どういう事かというと、日本には沢山の企業があって、元々資生堂よりももっとずっと遥かに「女性に優しくない企業」はあります。
知人から「うちの会社の女性社員は妊娠したら辞めるって感じが暗黙の了解でー」なんて話を聞くこともいまだに珍しくありません。
ただ、そんな会社の話を聞いても私はそういう会社は「古い体質の会社」だと思いますし、そういう会社は時代の流れとともに変わるか、淘汰されて無くなっていくものだと信じてきました。
それは、現に世界的に観て「女性は家庭、男性は仕事」というような「性別で役割を区切る」という考えそのものが古いものになってきていて、時代の流れは明らかに「女性も社会進出するもの、男性も家事育児をするもの」という考えが「新常識として望ましい」という風に浸透してきていますし、日本でもその新常識を元に会社のあり方が変わってきてるな、というのを少しずつですが感じていたからです。
そしてこれまで、私にその実感をさせてくれたのが、これまでの資生堂しかり、富士フィルムしかり、そういった「女性に優しい企業に」の取り組みを実施している企業でした。
 
こういう、大企業が資金面の強みを活かして「中小企業ではなかなか資金面の問題で実行には移せないけど、理想としてはこうなりたい」という社員雇用のモデルケースを実行してみせることは、社会に対して「ウチは男女共に働きやすい会社、働きやすい社会の実現に向けて頑張ってますよ〜」というアナウンスになり、他の企業や社会全体の人々の意識を新しい常識に向けて引っ張る役目を担っていると思います。
 
これはいわば「まだ見ぬ土地へ進むためには大きくて丈夫な車が先に進み、ある程度の轍を付けることで、後に続く小さな車もそこに続いて踏み込みやすくなる作業」みたいな事で、資生堂はその先頭車両集団のトップを走っていたと私は思っていましたし、たぶん他の多くの人も思っていたと思います。
 
それが一転して突然の今回の資生堂の方針転換「甘やかさない宣言」です。
 
これは、先ほどの例えで言うならば資生堂カーが先頭から後ろの車に対して「お〜い、ここから先はこの車でも無理っぽいわ〜」と言って、先頭車両集団を抜けてしまう行為のように思えます。
 私を怖がらせているのは、このように今まで先頭車両だった資生堂が「いち抜けた〜」をすることにより、後に続く他の車も「資生堂が抜けたならオラも抜ーけた!」となっちゃわないの?という予感だと思います。
 
1度は「女性に優しく」に向かっていた大企業が「やっぱ無理だから撤回」となった事が大々的に知れ渡ることは、ただの「一会社の方向転換」という情報に留まらず「社会的な財産の損失」だとさえ私は思います。
それは、その情報が発信されたことで、古い体質の会社を構成している古い考えの人達に「ホレ、言わんこっちゃない。だから女を頭数に入れるのは間違ってるんだ。ウチは間違ってないんだ。」という風な解釈を与えかねないからです。
もしそういった解釈が今後日本のあちこちにはびこると、せっかくコツコツとここ数十年で積み上げてきた「もっと女性の社会進出がしやすい会社を作ろうね!みんなで頑張ろうね!」という空気が薄れ、昔の「やっぱ女性がうまく働く方法なんて本当は無いんじゃない?女性の本分はやっぱり家庭なんじゃない?ある程度のところで女性の社会進出は留まるのがベストなんじゃない?」という空気がいくらか戻ってきてしまう気がするんです。
それは、時代の流れのストップであり、さらに進めば逆戻りですらあります。
 
そういう「働く女性、働く女性を家族に持つ男性」が困っていた時代に日本がまた戻ってしまう予感は前進を望んでいた多くの人々の心に「不安」を宿すものです。
不安が心に宿ると、人間は将来を悲観をしがちになり、将来を悲観すると、何事へも意欲が薄れ、生産性も下がります。
つまり、色々と良くない社会につながる気がするのです。
だから私は今回の資生堂ショックを「社会的な財産の損失じゃないの?」と思うんです。
 
これを読んでいて「また、桜島さんは大げさな心配してー。資生堂1社の事が社会全体にそこまで影響を与えないでしょう。」と思う方もいると思います。
ニュースの捉え方は人それぞれですから「ふーん」で終わる方もいるでしょうし、そのように楽観的に捉える方もいるでしょう。
私だって本当はそうやって楽観的に思いたいところですし、時間が経てば後からは私もそうなれるかもしれませんが、今の所はまだショックの直後なので、こうして考えることで、私のほかにも資生堂ショックを受けてる方と気持ちを共有したいのです。すいません。
という訳で以上が私の「資生堂ショック」から生まれた心の暗雲の正体かと思います。
 
もちろん、資生堂内でも色々な話し合いがあったと思いますし、今回の決定も「一時的な苦肉の策」だと私は信じています。
しかもそれは「資生堂が女性に優しい会社」だったからこそ多くの長く働きたい女性が資生堂に集中してしまい、制度がパンクしただけなのかもしれません。
だから、今回の資生堂ショックは「資生堂が悪い」という安易な答えではなくて、他の会社の育児支援制度がなかなか進まないこと、その進まない土台がある社会も悪いんだと思います。
なのでこれ以上悪い事態にしない為には、他の会社が「資生堂ですら難しいんだから、中小企業には到底無理」という判断をしないで「資生堂がやらない分頑張らなきゃ!」と奮起して今後も働く女性の推進には力を入れ続けてもらえたら良いと思います。
 
 
「甘え」とはなんなのか?
 
さて、なんだか社会派っぽいことを書いてきましたが、私は今回の資生堂ショックを受けて他にも色々考えたことがあるので、そのことをここから書こうと思います。
 
私は「おはよう日本」の放送内で1つ妙に引っかかったことがありました。
それは、執行役員の方が語られていたDVDの中の「制度に甘えちゃってる。」という言葉でした。
これを聞いた時に私は違和感を感じ「ん?」と引っかかりました。
 
と言っても、実は私は前から時々「甘え」という言葉を聞くとなにか原因のわからない引っかかりを覚えることがありました。
しかも全部が引っかかるのではなくて、何故か「引っかかる時」と「引っかからない時」があります。
 
今回のDVDの他にも私が「なんか引っかかるぞ」と思う時の「甘え」の使用例は、例えば育児をめぐる論争なんかでよく聞く「今のママ達は周囲の優しさに甘え過ぎ」という風に使われる時です。
その他のよくある「彼ったら、いつも2人になると甘えてくるの〜」とか「下の子が生まれてから上の子が妙に反抗するようになったけど、やっぱり甘えたいのかしらね」というような時の「甘え」は、聞いても特に引っかからないです。
 
皆様は前者と後者の「甘え」の使われ方に違いを感じるたことあるでしょうか?
私は自分でその2つの「甘え」の違いがなんなのか、ずっと謎だったのですが、今回を機に考えてみたところ、原因がわかりました。
 
それは、引っかかるほうの「甘え」は、私の考える「甘えの定義とズレてる」のだと思います。
 
それがどういうものなのかを説明するのがすごく難しいのですが、今日はせっかくなので説明したいと思います。
 
まずは「甘え」についてお話するにあたり、いくつかの辞書で調べた「甘え」という言葉の意味を載せます。
1番簡略的に書いてある説明には
あまえ 【甘え】人の好意をあてにする気持ち
とあり、他の辞書にも「節度を超えた愛情や信頼を表現することをいう。」とあったので、まぁ総合すると辞書による「甘え」とは「節度を超えて人の好意をあてにすること」を指すのだと思います。
 
これは私の「甘え」の定義と同じなのですが、私の「甘え」の定義を皆様に分かって頂くために、ここからもう少し詳しく書いていきたいと思います。
 
そもそも「甘え」というのは「人が他人に頼る」というところがスタートだと思いますが、この「人が人に頼る」って、実によくあることですよね。
直接的で分かりやすいのは、他人に何かを借りたり、用事をやってもらうというような事ですが、それ以外の広い意味でも「頼る」はあると思います。
それは、私達はほとんどの人が自給自足をしているわけではないので、インフラの整った社会で生きている以上、山田孝之の言う「この世界は誰かの仕事でできている」みたいな事で、間接的に「誰かの力に頼って生きている」と言えるからです。
そしてそれは、人が「1人でなんでもやろうとする」より、得意分野ごとにやることを分担したり、互いに手を貸し合う関係の人がいた方が、なにかと双方にとって「都合がいい」から世に溢れているわけで、世の中はそういう「助け合う関係」が沢山あることでうまく回っているのだと思います。
 
で、そういった「双方にとって都合が良い場合」に「人間同士が頼り頼られすること」を、私は甘えだとは思いません。
それは「助け合い」とか「相互援助」とか、そういう名前のもので、「節度を持って」人と人とが助け合うことは、人同士が共存していく上で「良きこと」の中に含まれると私は思います。
 
では一体どこからが「良きこと」から外れて「甘え」に及んでしまう節度のボーダーラインなのでしょうか?
 
それは一見「助け合い」をしているように見える関係性の2者の「負担」の量が、実は片方にとって「同じではない」と感じる時に始まると思います。
 
分かりやすく言うと、ここにAさんとBさんという「頼り頼られする関係の2人」がいたとします。
その2人の中で互いに受け持つ負担の量が「Aさん5、Bさん5」なら対等な「頼り合い」なので問題は無いのですが、実は頼り頼られしてるうちに「Aさんの負担が7で、Bさんの負担が3」という不平等な形になってしまったとします。
そしてある時、Bさんがその「2」の不平等さに気が付いたとしましょう。
そこから先にBさんが「おっと、これは申し訳ない!Aさんの負担を2軽くせにゃいかん!」と思い、なんとかしようとするなら、Bさんは人としてマトモだと私は思います。
しかしBさんが「まぁAさんなら2くらいは余分に受け持ってくれるだろうな」と勝手に思って、2の負担を放置してAさんを頼り続けたら、Bさんはズルい人だと思います。
そのズルさが出ることが「節度を超える」であり、それが「甘え」にカウントされる行為だと私は思います。
 
では、この前提の上で次の章で、私が「これは定義からズレている」と思う「甘え」の話をします。
 
 
節度の範囲内の「頼り」は「甘え」ではないと思う
 
さて、私が引っかかる「甘え」が上の定義とズレていると感じる点は、一言で言えば「節度を超えてないんじゃね?」という事だと思います。
 
私は、さきほどのAさんとBさんの関係のような場合に「Bさんは、Aさんの2の負担の不平等さを解決し、5対5で頼り合うべき」だと思いますが、なにも「BさんはAさんに頼るな」とは思いません。
つまり「頼り合う関係性ごと否定する」必要は無いということです。
 
これは、もし世の中の多くの人がそれぞれに「人に頼ること」を「なんだか面倒くさいから、自分は他人とは無関係でいいや」と思って、関係を断ち切ってしまうと、世の中がぜんぶ個人主義の人ばかりになって、殺伐としてしまう気がするからです。
 
なので、誰かが困った時に「助けて」の声が言いやすい世の中、その声を「一旦聞く耳だけは皆が捨てない」世の中の方が、皆が暮らしやすいと思うんです。
 
しかし、時に人はその「5対5で頼り合うことを求める声」にすら「他人に5を頼るなんて甘えだ!」とまるごと跳ね返すことがあります。
私は「甘え」という言葉がそういう使われ方をする時に違和感を感じます。
つまり「助けて」の声が節度の範囲内の『頼り』だとしても「甘え」という言葉で「節度超えてるよ!」と跳ね返している場合です。
 
私は資生堂のDVDの「甘えちゃってる」は、これに当てはまると思いました。
 
なぜそう思うかというと、育児期間中の女性社員が働きやすいように時短勤務制度を設けたのは資生堂です。
それは、会社としても社員に長く働いてもらいたいし、女性が働きやすい会社であることは社会貢献にもなるし、資生堂にとってその制度を作った時は「社員に頼られていい範囲=5の範囲内」でスタートしてるはずです。
 
働く女性にしてみれば、その制度がある以上、使うのは当たり前で、そうやって「会社に5頼る」ことのお返しとして「長い期間、意欲的に働く」ことが「5対5の関係」だと思って働いていたと思います。
つまり女性社員が意欲的に働いている限り、会社と女性社員との関係は対等で、女性社員の「甘え」は発生していないと私は思います。
 
しかし今回資生堂DVDでは、制度を当たり前のように利用することを「女性社員の甘え」と言っていました。
 
という事は、会社側はいつの間にか育児女性と会社との関係が「5対5」ではなく「会社の負担の方が大きい=仕事に意欲的ではないのに制度だけは使うズルい女性社員が多くいる」という風に判断したということです。
これに関しては、私は社内の人間ではないので、果たして時短勤務制度を使う女性のうちどれだけの人の勤務態度が本当に「意欲的さに欠ける」だったのかは分かりませんが、少なくとも「勤務時間が短いこと」は制度の中で正当に決められた範囲なので「勤務時間が短いこと=意欲的ではない」と判断したのだとしたら、それは間違ってると思います。
 
そりゃあ、大勢の中には出産後に仕事がおろそかになったように見えた女性もいたのかもしれませんが、色んな女性と働いてきて私が感じたのは「意欲的でなくスキルの低い人」は未婚でも既婚子無し女性でもそうだし「意欲的でスキルの高い人」は出産後もそうでした。
だから人の持っている仕事スキルとか意欲というのは「出産」を期にそう変化するものでは無いと思いますし、「意欲的ではない」に「育児中の人だから」という因果関係は無いと思います。
なので、資生堂の多くの制度利用者は決められた勤務時間中は自分のスキルで精一杯働いていたんじゃないかな、と思います。
 
そうだとしたら、今回のように「制度を見直す必要がある事態」というのは制度利用者の落ち度が原因ではなくて、制度に落ち度があっただけだと思うんです。
なので、本当だったらこのように「5対5の節度を守っていた社員=落ち度のない相手」に対して「節度の範囲を変更する事態=こちらの負担が大きいことを告げなくてはならない事態」が起きた場合、会社側は「業績が下がってしまったので止むを得ず今までの制度よりも厳しくします。」ということを「こちらの落ち度で生じたお願い」という形でしなきゃいけなかったんじゃないかと思います。
しかし、資生堂は「甘え」という言葉で、まるで「あなた達は5のお返しが出来てないじゃん。ズルいじゃん。」という意味のDVDを産休明けの女性社員に送る方法を取りました。
 
これでは今まで、会社を信頼し制度を頼りつつ意欲的に働いていた女性社員は、びっくりぽんです。
いきなり信頼していた会社から「5の頼りをあてにしないで」と言われたら、女性社員は信じていた会社に突き放されたように感じて、信頼関係も揺らいでしまうと私は思います。
私は、会社の業績を上げるには、その会社が社員1人1人にとって「貢献したくなる会社」であることが大前提だと思いますし、それには「会社が社員を大切にしている姿勢」を常に社員に発信し続ける必要があると思いますので、なんで資生堂が「業績を上げるため」なのにこのように「社員の信頼を損ねるやり方」をとったのか理解が出来ません。
 
社内では段階的に何らかの説明会みたいなものがあったのかもしれませんが、おはよう日本の番組内でインタビューされていた女性社員はDVDを見て「本当にこれで大丈夫なのかな?という不安はすごく大きかったんですね」と話されていたので、会社に対して社員が不安を抱くやり方だったのは間違いありません。
 
なので、素人考えながら私は「資生堂はこの方向転換をもうちょっと、社員に優しいやり方でやれなかったものかな?」と思い、この放送は私にその疑問を抱かせるものでした。
 
以上のことをまとめると、私が資生堂DVDの「甘え」という言葉に引っかかったのは、「甘えじゃない範囲で会社を頼っていた女性社員」が急に会社から「甘えてること」にされてたからです。
業績不振だから制度を変える必要があったとしても、その告げ方が「育児をしながら働く女性を突き放す形」になっていたのは本当に冷たい気がしました。
そしてその冷たさが今の世相を反映している様に思えて私は悲しかったです。
 
あと、補足ですが、「甘え」という言葉の「子供が親に甘える」とか「彼氏が彼女に甘える」とかに私が引っかからない理由は、多分そういった場合の「親子」や「恋人」という関係性が「会社と社員」とか「他人と他人」のような関係性より1段階親密なもので、その関係性ならば、私は節度のラインが個々に違ったり、少し曖昧に緩いものでも良いと思ってるからです。
だから、そういう場合の「甘え」は、まぁ「その人がそう言うならそうなのね」くらいにしか思わなくて、特に引っかからないんだと思います。
 
ここまで説明が難しかったのですが、もし私と同じように「甘え」という言葉や、あの資生堂DVDに「んん?」となった方がいて、その中の1人でも「分かる!」と思ってもらえたら幸いです。
 
Twitterで言ったことの補足
 
さて、私は番組を見た後に、それを受けて「出産と働き方」にまつわる思いが止まらなかったので、Twitterで感想を書きなぐりました。
その反響が思ったよりあったのですが、その反響を受けて補足したいことをツイートに書くのが大変だったので今回ここに書いていきたいと思います。
 
では、とりあえず以下に私の一連のツイートを載せます。
 

と、まぁこんな感じなのですが、この中で特に反響というか「批判の声らしきもの」があったツイートは7番目のツイートで、恐らくその中の
「産まないが1番生きやすい社会」って、つまり「男性が生きやすい社会」ってことだかんね。
というところだと思います。
これは自分でも書いた後「誤解が生じるかな?」というか、言葉足らずな発言だったかなと思ったのですが、案の定、今の世の中を「男が生きやすい世界じゃねーよ」と思ってる人にとっては不快に感じられてしまったようで、少し批判的な声がありました。
なので、このツイートの真意をちょっと補足したいと思います。
 
私が「男性が生きやすい社会」と書いたのは、何も単純に「今の世の中、男ばっかりラクしてるよね」という意味ではありません。
今の社会は男性も男性なりに「男=仕事に生きるべき」とか「男なら泣くな!」みたいに、昔ながらの「男たるものこうであれ」という価値観を押し付けられて苦労している声はよく聞きます。
なので、けしてすべての場面に置いて「男がいつも得してる」とは私も思いません。
 
ですが、これまで私は色んな男女と話してきて、どうも【人生の中で「子供を産むこと」と「働くということ」にどう折り合いをつけていくか?】に限定して語る時、その深刻度は男女で差があるように感じていました。
 
なぜそう感じるかというと、私も含め、私の周りの多くの女性は個人差はあれど、年頃になると「私は産むの?産まないの?産むならいつがいいの?」を自分の中で自問自答したり、会社や他人から問われたりつつ生きています。
そして選択の結果、その女性に産む意思が固まったとしても、その先、出産予定と自分の仕事の都合と折り合いを付けるのはその女性自身が悪戦苦闘して確保しなければ難しい状況で、産んだら当然「育児」の問題が出てくるわけですが、これも直接苦労してやりくりしているのはほとんど女性だけのような気がします。
(男性側が育児しやすいシステムが全然無く、女性側の育児支援制度の利用ですら「甘え」扱いされる世の中のですから)
 
しかし、女性がこのように苦悩する中、周りの既婚者男性や将来を見据えた彼女がいる男性に話を聞くと、彼らはそれなりに多少「俺達は子供どうするかなー」くらいは考えることがあるようなのですが、それでも最終的には「パートナーの女性の希望でなんとかするだろう」とか「出来たら出来たでなんとかなる」というところに留まり、実際育児の為に仕事を犠牲にしているのは奥さんばかりなので、そこについての考えの掘り下げ具合は女性に比べて「人任せ」で、楽観的な人の方が多いのです。
 
だから、男性なりに「生きにくさ」が色々あるこの現代でも、やはり多くの男性には女性特有の「産むべきか産まざるべきか、産んだらどう育てるか」という悩みは自分の問題として付きまとっていないのかな、と思えます。
さらに、それは特に「いけないこと」ではなく「それが当たり前でしょ」という社会の空気も感じます。
 
上のツイートの「産まないが生きやすい世の中=男性が生きやすい世の中」というのは、今の世の中は「男性のように出産育児と切り離されることが出来れば、仕事するにはラクな世の中」だろうね。ということと、さらにそんな『男性だけが仕事をしやすい世の中』のままだったら、仕事を持つ女性が、男性と同じように産まない生き方を選ぶのは当たり前じゃん。ということが言いたかったのです。
 
もちろん男性の中には少数ですがしっかり育児に励む方もいますし、ちゃんと自分の問題としてパートナー女性との間に子供を設けることと真剣に向き合っている方もいると思います。
だから全ての男性を批判してるわけでもないですし、私はなにも「女性に比べて深刻度が足りない男性」を攻撃したいわけでもありません。
 
それは、私はたまたま女性だったから出産や育児について考える機会が多かっただけで、「もし自分が男性だったら?」と考えると、もともと人生の中で出産という仕事が初めから免除されているので「俺は産むの?産まないの?産むならいつにするの?」を真剣に自問自答したり、周りにも聞かれないかもしれないと思いました。
だから「男性がそういうことへの考えが浅くても仕方ない環境に居る」のは理解できるので「攻撃するほどの悪さではない」と思うんです。
 
でも、たとえそこに悪意が無くとも、世の中の多くの男性が発する「出産育児関係の事は女がなんとかしてくれ」という空気が、多くの女性にとってすごく重荷なので、
「攻撃」はしませんが、「お願い」はしたいと思います。
昔の名残で、世の中に「男性=仕事、女性=出産や育児関連」「出産育児関連のことは女性の問題」とする空気が残る環境なのは分かりますが、ぼちぼち1人1人の頭からその古い概念を取り払って「出産育児関連のことを男女で同じくらい考える問題」という認識が広まった環境になったほうがいいと思うんです。
 

そして、その為に私は「特に悪意はないけどただ機会が無かったから考えなかっただけ」の男性にも気が付いてもらえればいいなの「お願い」を込めてそのツイートは書きました。

男性の中にはこれを読んで「そこまで考えてなかったなぁ、今後は考えてみよう」と素直に思う人もいるでしょうし、頑なに「子供は女が産むんだから出産育児関連のことは女がなんとかしろよ、知るかよ」と思う人もいると思います。
 
私は、後者のような男性は、ちょっとお手上げなのですが、前者のような無自覚に「昔からそういうものだから」で、あまり考えずに来た男性の中には「そういうもの」で、苦労してる女性の立場からの声を聞けば「ああ、重かったんだ。なんとかせにゃ。」と気がつく人もいると信じて、こういうことを書いてます。
 
そういう訳で、ツイートが誤解を招きやすい書き方だったのはお詫びしますが、根底にはそういう考えがあるというのはここで補足説明しておきます。
ツイートやこの文章を読んで、これまでより「出産育児関連にまつわる諸々の苦悩」に女性と同じように深く向き合ってくれる男性が増えたら嬉しいです。
 
 
政府の言う「女性活躍」が不愉快
 
さて、そんなわけで話が段々とそっち方面に及んだので「少子化」についての話も書いておこうと思います。
 
私は今、少子化が進んでいるのは当然の事だと思います。
なにしろ、ほとんどの女性のやることが「家庭で子供を産んで育てるだけ」だった時代から変わり、仕事を持つようになったので「産むと自分の仕事を犠牲にしないといけなくなる。」と悩むのが当たり前で、その結果「産まない人生=男性になりきった人生なら仕事はしやすい」という答えを出す人が増えたから、昔の「みんな産む時代」よりは減るのは当たり前です。
 
しかし、確かに私も少子化はなんとかしないといけない問題だとは思います。
でも、それには「女性の意識改革」に躍起になるのではなくて、まず「産まない方が働きやすくて生きやすい社会」を変えなくてはならなくて、それには、先ほど書いたように男女両方が「出産育児にまつわる責任」を「男女で均等に分け合うもの」という常識が人々の中に根付く必要があると思います。
 
しかし、世の中には「少子化」と聞くとまるで「女性が自分1人の生活を謳歌したいがためにワガママで産まなくなってるのが1番の原因だ!」という風に「女性だけの意識の問題」だと思ってる男性や年配の女性が実に多いです。
私は先ほども書きましたが、このように「少子化」とか「女性の働き方」の話題を「あ、ここは自分のノータッチなゾーンね」と無関係な立場になろうとする人の空気が減らないと本当に少子化はどうにもならないと思います。
 
なので私は、ここのところ政府がやたら「女性の活躍」や「女性も戦力に」と言っていることが、とても不愉快なのです。
その不愉快さは、そのスローガンが「産む問題を抱えた人ゾーン」の外側から「女性も家庭でくすぶってないで経済活動に参加しなさい」と他人事のように言っているニュアンスが感じられるところにあります。
 
確かに男性政治家目線で見れば女性が「妊娠、出産」で仕事から離れることは、経済活動的には一時離脱であり、戦力外かもしれません。
でも、その妊娠出産期間を多くの女性が自分の人生から排除すると、今度は世の中に子供が居なくなってしまいます。
だから「産む前後」の女性は経済活動的には戦力外だとしても、少子化食い止め活動の主戦力なわけです。
それは、けして「家庭でくすぶってる」ではないと思うんです。
 
でも、女性がそっちほうの戦力になろうとすると会社は「女は子供を産むから雇用したくない」と迷惑がるし、政府は「女性も社会で活躍を!」と言って仕事をしない女性を「怠け者」扱いするし、一体どうしろって言うんでしょう。
 
男性に背負わすものは昔通りに『仕事』だけのままなのに、女性にはこれまでの『出産、育児』に加えて『仕事』をそのままプラスして背負わせようとする今の政府の動きは「ただ女性をこき使いたいだけ」のように私は思います。
 
私は、時代が進むことで過去の社会の
    男性=仕事 
    女性=出産育児家事
という図式が、
   男性=仕事育児家事
   女性=仕事出産育児家事
になるならいいと思うんです。
 
まぁ、希望としては男性にも「出産」が受け持てれば本当にフェアでいいのですが、出産だけはまだ男性に行えない役割なのでそれは仕方ないとして、でもそれ以外の「育児と家事」の役割分担は、女性が仕事を受け持つようになる以上、男性も同じように新たに分担を受け持つ必要があると思います。
つまり「出産する女性が働きやすい社会作り=男性が家事育児で活躍しやすい社会作り」であり「女性の社会進出」と「男性の家庭進出」は同時進行で促進するべきだと思うんです。
 
でも今の政府の理想としてる図式は
   男性=仕事
   女性=仕事出産育児家事
のように思えます。
 
なんせ「女性の活躍」ばかり言って男性に向けてのアナウンスを何もしてないのですから。
政府の言うことは「女性の活躍を!女性は戦力に!」だったり、「出生率の向上に向けて学生のうちから女性としての自覚を持つ授業を!」みたいに「女よ、もっと頑張れ!」というメッセージばかりです。
そんなに「女は働け、女は産め」と言われても「女の身体は1人2体無いんだよ!」って感じです。
 
1人1体しかない女性の身体を「出産、仕事」の両方に使わせたいなら、せめてそれぞれの事を女性がしやすいように環境を整えて下さいな、と思います。
だから、政府は女性に向けて「社会で活躍」を呼びかけるなら、同じだけ男性に向けて「育児家事に活躍」を呼びかけて、男性の育児支援制度が整った会社を増やすようにして欲しいのです。
 
そうやって「産んだ後の協力体制は整ってるから安心して産みなよ」という空気が政府からも、社会の男性からもたくさん感じられる社会であることが、少子化対策には最も必要なことだと思います。
 
そして、世の中にまだ沢山いる「男の癖にカミさんに育児も任せられないのか」とか言って、せっかく現れ出した育児を積極的にやる男性を批判するような古い価値観の人が、そういうことを言わない社会になることを私は願ってます。
少子化について私が思うのはそんなところです。
 
最後に
 
さて、今日はなんだかお固めの漢字が多い話を長々書いてきて読んでる方も疲れたかと思います。
でももういっちょ今日は前半で「甘え」について書いたので、前々から書きたかった事が1つあるので最後に書いておきたいと思います。長くてほんとすいません。
 
それは「ベビーカーを使い電車で外出するママさん批判」についてです。
 
ベビーカーママさんは、巷でよく迷惑がられ、ネットでもテレビでも時々「ベビーカー論争」というのが巻き起こるの見ることがあります。
そんな論争の中には必ず「私の頃はそんな道具もなくて、周りの人も子育てに協力的じゃなかったから全部1人でやったのよ。今の母親は周りの優しさに甘え過ぎよ。」というどこかのオバサマの声があります。(この「甘え」も定義ズレの使い方ですね)
こういう意見に対して私は「そりゃあ大変でしたね」と思いますが、その「大変だった過去」と、そのオバサマがベビーカーママさんに「厳しくしたい理由」は別物だと思います。
なぜならいくら自分が子育て中に大変だったとしても、ベビーカーママさんに優しく出来るオバサマもいるのですから「自分が大変だったから厳しくしたい」というのは「厳しくする」の正当な理由にはならないと思うからです。
 
こういうオバサマに限らず、ベビーカーママさんに厳しくしたい人は時々います。
私が思うに多分そういう人って、単純にベビーカーママさんに対して「なんらかの気に入らない要素」を感じているんだと思います。
母親なのに化粧が濃いとか、ヒールを履いてるとか、ベビーカー連れなのに態度がデカいとか、そういう「気に入らない要素」があるから、優しくしたくないんだと思うんですよ。
でもそれをそのまま口にすると、自分が他者の態度に厳しく「心の狭い人間」だと言っているように聞こえてしまうから「ママさんが甘えててダメ」という言い方をすることで、自分が優しくしない理由を「ママさんの甘えという落ち度」にすり替えているんじゃないかと思うんです。
 
でも、世のベビーカーママさんは、そんなに電車に乗る時に化粧を薄く、ペタンコ靴を履き、周囲にぺこぺこしないと「甘えてて、落ち度がある」んでしょうか?
 
私は「そんなことはない」と思います。
服装に関しては個人の自由ですから、そこは当然どんな格好でも「落ち度」ではないと思いますし「態度」についても「ぺこぺこしない」ことが落ち度とは思いません。
 
これについて、なぜそう思うか説明しますと、そもそも「普通に1人で電車に乗る大人」と「ベビーカーで赤ん坊を連れて電車に乗るママさん」の何が違うのか?というのを「何を頼って電車に乗っている」のかという視点で考えればわかります。
 
その2者の違いは、普通の大人は「何にも頼らずに電車に乗っている」ですが、ベビーカーママさんは「ベビーカー1つ分大きなスペースを使い、周囲の人に赤ん坊の声がうるさくても我慢してもらう優しさを周囲に頼っている。」というところです。
 
でも私はそれが「5」の節度を超えた「頼る」だとは思いません。
ママさんが当たり前に周囲に「頼っていい、頼るべき範囲内」だと思います。
 
なぜなら「私が今していない育児という仕事をそのママさんがしてくれている」と思うからです。
 
それはつまり、そのママさんの育てた子がいずれ私の老後に私のオムツを替えてくれるヘルパーになるかもしれませんし、私が着る服を作る縫製工場に勤めるかもしれませんし、さらに想像を膨らませると、その子が画家になったら、その絵が老後の私の楽しみになるかもしれないし、つまり、赤ん坊である時点で将来の可能性が無限なので、将来どういう形で自分と関わるかも分からないわけです。
だから現時点での赤ん坊は、「将来そうやってなんらかの形で自分が頼る人になるかもしれない。と思えば、どの赤ん坊も「他人の子で自分とは無関係」ではないと私は思うんです。
 
私は将来その赤ん坊の作る社会で自分が「周りに5頼りつつ生きる予想」があるから今、その子を育ててくれてりママさん達に「5頼られる」ことは相互援助関係で、フェアなことだと思います。
だからあえてぺこぺこされなくても私は「どうぞ頼って下さい」と思うんです。
 
ですがベビーカー連れのママさんをやたら目の敵にする人はその「頼り」を「甘え」としているので、自分はこの「周囲の優しい人要員」ではないと表現しているのです。
私はそれは「5対5の相互支援関の拒絶」だと思います。
 
彼らは、目の前の泣く赤ん坊、泣き止ませられない母親、ベビーカーの存在、それら全てに「目の前から消えてくれ」と言わんばかりの視線をぶつけます。
赤ん坊やママさんに「目の前から消えて欲しい」という視線を送ることは「こちらを頼るな」というメッセージです。
それはママさんと自分の「たまたま電車に乗り合わせたという関係性」の中で「自分は5の範囲内ですら頼りを受け持ちたくない」という意思表示だと思います。
彼らは目の前の他人の赤ん坊及びその代行者であるママさんのことを「自分とは無関係」と思っているから「頼られる筋合いは無い」と思っているのかもしれません。
ですが、自分がその赤ん坊の将来作る社会とも無関係だとなぜ言えるのでしょうか?
 
自分がいくつまで生きるつもりなのか知りませんが、赤ん坊やその代行者であるママさんを今は邪険にしておいて将来はその赤ん坊の作る社会をちゃっかり頼って生きるんですよね?
私はそっちのほうがよっぽど赤ん坊への「甘え」でズルいと思います。
 
しかもそういう人が世の中に増え続けるのを見ていたら、誰も子供を産む気が失せてしまう気がします。
そんな「こっちを助けてくれないのに、将来は助けてあげなきゃいけない大人」がうじゃうじゃいる社会に、自分の分身を残したいと思わなくなりますもん。
少子化って、こういう事も原因の1つで進んでるんじゃないかな?と私は思います。
 
私は電車で見かけるママさんが必要以上にぺこぺこしてるのを見ると本当にいたたまれなくなります。
将来を担う赤ん坊を今育ててくれてるママさんが、なぜそんなに周囲にぺこぺこしないといけない社会なんだろう?と思います。
会社で育休を貰うにも、電車に乗るにもぺこぺこしなきゃ「甘えてる」と言われるなんて、日本は「母親という仕事をしている人」に本当に優しくない国だと思います。
 
私は育児をしていませんが、育児をしている人に感謝しないといけないと思うし、育児をしている人の大変さは社会全体でフォローするべきだと思います。
 
フォローとは「街で接する人が冷たくしない」というのと「社会のインフラが女性だけに育児家事を押し付けなくて済む形になる」という2つのやり方があって、そのどちらのフォローも今より進むことを私は願ってます。
 
最後の最後ですが、私は最近になってTwitter越しに育児をしっかり女性と同様にやっている少数派の男性の存在を知り感動する、ということがありました。
こういう男性の存在を知ることで私は本当に希望が持てたのですが、同時に彼らのツイートから「男性で育児をするに当たり社会に感じる不満や悩み」も知ると、彼らは男性の中では少数派な分、ある意味では育児する女性よりも世間の風当たりが強い部分があるのだなと知りました。
 私は彼らのような男性が増えやすい社会になって、今の努力が報われる時代が来ることも願っています。

 
 
長くなりましたが、最後までお読みいただいてありがとうございます。
お疲れ様でした。
ではまた。