限りなく透明に近いふつう

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期待外れの「ママたちが非常事態!?」

 

はじめに

 
書くのがすっかり遅くなってしまいましたが、今日は先月末のテレビ番組NHKスペシャル「ママたちが非常事態!?」を観て思ったことを書こうと思います。
 
本当は日々めまぐるしいスピードで新しい話題を取り上げるこのブログ界隈で、半月以上も前のテレビ番組の感想をノコノコと書くのはいくら更新頻度がマイペースな私といえど、今更感ありありで少し気が引けるのですが、これは逆に「半月経っても心のモヤモヤが消えない案件」ということであえて今更だけど書かねばなるまいと思った次第なのでお許しくださいませ。
 
まず件の番組「ママたちが非常事態!?」なのですが、観てない方のためにどんな番組だったのかをザッと説明します。
 
番組構成は、VTRとスタジオトークから成り、これまで「育児にまつわる謎」とされてきた数々の疑問点を最新の科学で解明したというVTRを3部構成で観せつつ、合間にスタジオの面々(恵俊彰眞鍋かをり北陽の虻ちゃん、と中盤から京都大学教育研究科の女性教授の方も)が、育児にまつわる現状やVTRの感想を話すというものでした。1時間番組です。
 
私は放送前に別のNHK番組でやっていた番組宣伝のVTRでこの番組がやることを知りました。
そこでは出演者達が「最新科学でこんなに育児の謎が解明されるなんて、もっと早く知りたかったことばっかりでした。」とか「今、育児に悩むママたちはもちろんのこと、この国に住む男女みなさんの育児に対する理解が深まる番組です!」と言っていたので、育児に関する情報番組は通常もよく放送しているNHK(及びEテレ)ですが、あえて「最新科学で育児を解明」という謳い文句でスペシャル番組を作るからには、さぞかし違った切り口というか、新しい視点の内容になっているのかな、面白そうだな、という期待が湧きました。
それで観てみたのですが蓋を開けてみて愕然としました。
なぜなら「面白かった」どころか、心にモヤモヤとした胸くその悪さしか残らなかったからです。
 
もちろんやたら「最新科学で解明!」と謳っていただけあって、確かに各パートの解説VTRの中には、最新科学ゆえ初耳の情報もあり「勉強になる」と思ったところは多々ありました。
ですが、もし私が明日誰かに「こないだのNスペ観た?私見逃しちゃったんだけど、どうだった?」と聞かれたら私は迷わず「胸くそ悪かった」と答えると思います。
つまり私にとってあの番組には「知識が増えた、長年の謎が解けた」という「面白さ」の上をいく「胸くその悪さ」が感じられたのです。
なんだか最近毎回私はテレビの文句ばっかり書いていて自分でも嫌になるのですが、今回も胸くその悪さの原因を自分なりにまとめないとずっと心のモヤモヤが晴れなさそうなので、今日はここにまとめたいと思います。
 
「期待はずれ」の原因
私は、番組後に柿ピーを食べながら自分なりに「なんでこんなに胸くそが悪くなるんだろうなぁ」と考えたところ、一言で言えば「期待はずれ」だったんです。
そして期待はずれの原因は色々ありますが、大きく分けるとその原因は以下の2つです。
1、ミスキャスト
2、育児について私の考えとのギャップが大きかった
 
ここからはそれぞれの原因別に説明しますので、まず1のミスキャストについて。
 
今のテレビ番組のキャスティングって、それぞれ演者に何らかの「役割」があるように思うのですが出演者の3人のうち、眞鍋かをりと虻ちゃんは最近ママタレントとして活躍しているので、彼女達の今回の番組における役割は「世の中の悩める育児ママ」が「共感できる存在」として置かれていたと思います。
 
案の定、2人は番組冒頭のVTRで一般の主婦の方が育児の大変さを「なんの地獄かと思った…。毎日、予想の下を行く生活です。」と語ったのを受け「わかる!私もそうです!」「こんなに大変なんだって、やってみて初めて思いました。」とそれぞれに共感の声をあげていました。
ここでは私も「うんうんそうだろうなー」と思いましたし、キャスティング目線で言うと2人は見事に「悩めるママ達の共感者」という役割を果たしていて、この2人のキャスティングは良かったと思います。(私は青木さやかも居て欲しかったけど)
 
ですが、問題なのは恵俊彰氏。
彼は眞鍋&虻ちゃんのコメントを聞いているあいだ、眉をちょっとしかめて小首を傾げる「よく分からんなぁ」みたいな顔をしていました。
その時点で私は「あ、感じ悪…」と多少嫌な予感がしたのですが、次の瞬間、彼の開口一番のコメントはこうでした。
「ねぇねぇ教えて?何がそんなに大変なの?」
それに対し虻ちゃんが「もう全部いっぱいいっぱいでとにかく大変なんですよ。」と言うとさらに
恵「生まれてきて可愛いかったり愛しかったりするんでしょ?」
虻「するんですよ、するんですけど、そこを上回る大変さが…」
「ハァー、何でそんなになるんだろうか…?」
 
 
私はこのやりとりを見ていて
「開始3分で早くも分からず屋登場か!」と思いました。
 
ここでちょっと話がそれますが、私は常日頃から世の育児ママ達を普段苦しめているものの1つが世間の「分からず屋」の存在だと思うんですね。
ベビーカーで外出して子供が泣くと「なんで母親のくせにそんなに泣き止ませられないんだ?」という目線を送る分からず屋。「子供の世話で忙しい」と言うと「家で子供の相手してるだけで外仕事してるわけじゃないのに、何がそんなに忙しいんだ?」と首をかしげる分からず屋。「子供は可愛いけど憎らしいことも多い」と言うと「母親なのに我が子が憎いなんて信じられない」と驚く分からず屋。
まぁ、世の中には色んな人がいるのでこういう人が「悪人だ」とまでは私も思いません。ただ「分からず屋」は多分たまたま育児に関わってこなくて育児者に共感出来なかったり、時に相手の気持ちを図れなかったりして、無意識やごく軽い気持ちで育児中の母親に対してそういう発言になってしまうことがあるというだけだと思います。
しかし、受け手となる育児中の母親というのは日々意思疎通の難しい乳幼児の相手をして「なんでわかんないの?」という感情を連続して痛感し、「自分と子供の気持ちが分かり合えない関係性に常にやきもきしている精神状態」だと思うんです。
だから、そこにきて目の前に「大人なのに話の分からない奴」が現れると多分「やっと言葉が分かる相手と喋ってるのに、ここでも気持ちは分かってもらえないんだ…」という感じの絶望感と強いストレスを感じるんじゃないかと思います。
もちろん人は誰だって身の回りの人を「理解者」と「分からず屋」に分けたら、なるべく「理解者」とだけ接点を持っていたいものだと思いますが、たぶん育児中じゃない人が「分からず屋」と対面した時に感じるストレスより、上記のような理由で、母親達のほうがそのストレスをより強く感じているものなんじゃないかと思うんです。
だから乳幼児を育児中の母親は通常よりもっと「分からず屋を遠ざけたい精神状態」であり、そんな中に現れる「分からず屋の存在」が育児中の母親を苦しめているものの1つになってる気がしています。
 
で、キャスティングの話に戻りますが、こういう番組を作る側は「育児に悩むママ必見!」と言うからには、この番組のメイン視聴者を「育児に悩み、なにかしら救いになる情報を求める母親」を想定しているはずだと思うんです。
つまり、観ている人の多くは「分からず屋から遠ざかりたい母親」であり、その母親達がこの番組を観て得たいものは「共感」や「育児に有益な情報」だと思うんです。
 
なのに、番組開始3分で恵俊彰のこの「分からず屋」具合を見せつけるとは、まさにNHKの鈍感さここに極まれり」という感じがしました。
世間の分からず屋を避けて、育児に救いの手を求めてチャンネルを合わせた母親達が「眞鍋かをりも虻ちゃんも私と同じだー」と彼女達に感情移入して心を開いたところに「あんたらの気持ちは分からん」という恵俊彰の分からず屋パンチを食らわす場面を観せられる。
「育児ママ必見!」どころか、これじゃママさんがっかりでしょ。
 
恵俊彰氏は番組を通して最後までだいたいこのような感じだったのですが、このような様子から彼はキャスティング的には「ママ達の共感者」という役割ではないのは確実にわかります。
では彼に当てられた役割がなんなのかと考えると、おそらく番組制作者としては女性2人は「世の母親達の共感できる存在」という役割、あと1人は「彼女達に質問を投げかける役割(質問するからには共感者でなくても良くて、バランス的には男性を)」という意向があり、
その上で「育児番組だし子沢山の男性タレントがいい」ということで恵俊彰氏を選んだのかなと私は推測します。
 
つまり恵俊彰の「分からず屋役」というのはキャスティングとして、わざとだったんじゃないかと。
 
それに対し私は、たしかに「番組ゲストに分からず屋を置くこと自体」は良いと思います。
「分からず屋」は池上彰番組における鈴木奈々の働きを観てわかるように、情報を伝える番組には1人そういう「わかんないの、おせーて」という役割が居ると、そこからメインの人の話を引き出せるので、番組進行上は必要な役割だからです。
おそらく製作者としては、いつも民放の昼番組で基本的に「僕ちんわかんないのおせーて」的な立ち回りが抜群に上手い恵俊彰を、この番組でもその役割としてキャスティングしていて、確かに一見それは妥当なキャスティングに思えます。
 
しかしですね、一見妥当に見えても、実は全然妥当じゃないと私は思うんですよ。
 
なぜかと言うと恵俊彰鈴木奈々と違ってその3人の中で1番立場が上のタレントですから、鈴木奈々のように「下からバカなフリして引っ掻き回す」のではなく、彼がそれをやると、単に「分からず屋の権力者男性が上から若い母親達に無理解を示す図」にしか観えなかったんです。
だからもう、冒頭3分で私は「あーこの、話の通じないおっさんと対面した時のヤな感じわざわざテレビで見せられて胸くそわるー」と思いました。
 
私としてはこのキャスティングに対して言わせてもらうならば
「どうせ、誰か男性タレントを1人『分からず屋役』にするなら、せめて未婚か子供が居ない人にしてくれ!」と思いました。
 
なぜかと言うと、まだ育児の機会が無い男性タレントが「分かんないのおせーて」な態度なら「まぁ、まだ育児したことないだろうし、仕方ないか」と思えるのですが、恵俊彰氏4人の子持ちです。
 
そんなの、テレビの前の各々の家庭で孤立奮闘してる世の母親達からしたら、4人の我が子の乳幼児期を知ってるはずの父親が「育児についてわかんないの、おせーて」って、どゆこと!?ってなるじゃないですか。
 
しかも、そういう気持ちで番組を観ている中盤で明かされた驚きの真実がこちら。

 
恵俊彰、オムツ替え1回しかしたことないそうです。「自分には向いてないから」という理由で。
この段階で、冒頭の恵俊彰の「なんでそんなになるんだろうか…?」という分からず屋具合には大納得ですけどね。
「そりゃ、わかんないの当然だろうな!!やってないもんな育児!」ですから。
 
虻ちゃんが恵俊彰に言われていた「子供が可愛いんでしょ?なんでそんなに大変なの?」という言葉は、世間の分からず屋が今日もどこかで母親達に何気なく言っている台詞で、それは彼らに言われるまでもなく、母親自身も自問自答し、育児にまつわる悩みの根源的な疑問ですらあると思います。
 
だから母親達はもうこのような「なんで大変なのか分からんなぁ」という無理解な声はうんざりで、なるべくなら聞きたくないはずの言葉だと思うんです。
 
私は、メイン視聴者のその気持ちを汲まずにそういう場面を冒頭で流す番組の作りに出鼻をくじかれた思いですし、世の育児ママ達の悩みの種になりがちな「父親の育児不参加」を堂々と、何故か誇らしげに語る恵俊彰の姿を観て「これはミスキャストだろ…」と思ってしまいました。
あと、恵俊彰の「育児しなかった話」は最終的に女性陣の「恵さんの奥さんすげー」で終わってたのですが、これも結局「父親がオムツ替えすらしなくても4人育てたすごい母親」という存在を意識するエピソードなわけで、番組を観ている悩める母親達にしてみると、中には「1人の子供も満足に世話出来ない私って…」という劣等感を感じる方も出てしまうんじゃないかなぁと思いました。
まぁ、世の中には色々な家庭があるので、恵家では育児は奥さんが専任になることが両者合意ならそれはそれで良いと思いますが、一般家庭で観ている母親達に、あえてここでそういうスーパー主婦の例を聞かされるのは酷なのでは、と思いました。
彼は本人の言うとおり「オムツ替えすら向いてない」のなら、今後「4児の父」という肩書きだけで育児番組にキャスティングされるのは「向いてない」んじゃないかと思いました。
 
そんなわけで、私がこの番組で胸くそ悪かった理由の1つはこのミスキャストにあります。
 
 
では、次に2の「育児について私の考えとのギャップが大きかった」ということの説明をします。
 
番組で取り上げた「育児にまつわる謎」の内容は大きく分けて以下の3部構成になっていました。
 
①現代の日本では出産後に孤独や不安に陥るママが急増していることを受け「なぜ産後うつになるのか?」「日本特有のママ友を作りたがる文化はなぜあるのか」について解明。
 
②多くのママが「私は母親失格?」と思ってしまう原因となる「夜泣き」や「イヤイヤ期」について解明。
 
③ 産後「パパにイライラしてしまうママが続出」その原因を解明。
 
これらはどの解説VTRも分かりやすくて、どれも「知識として知っておいて損はない」という内容でした。
しかし、私は見ていてところどころ「んー?」となってしまう場面がありました。
 
それがどういうところかと言うと、例えば「赤ん坊が何故夜泣きをするのか?」の解説VTR中。
番組を観てない方のために説明すると、赤ん坊が夜泣きをするのは、お腹の中で胎児が昼夜逆転の睡眠サイクルだった名残りなんですね。
それは「母体が睡眠中に胎児が起きるほうが母体の負担にならないからそうなっている」らしくて、番組ではその胎児の睡眠サイクルの仕組みを解明というVTRを流していました。
その終盤はナレーションで「胎児は、実はお母さんを守るために夜起きていたのです。」とまとめられていたのですが、その時にワイプの出演者達が口々に「(赤ん坊が)空気読んでるんだ〜」「気ぃ使ってるんだ〜」と言ってたんです。
私はこの時の出演者達の感想がなんだかモヤっとしました。
というのは、身もフタもない考え方かもしれませんが私の考えでは、胎児にとって母体の健康は自分の為でもあるし「ママの為にボクは夜に起きるね」と思うその脳みそ自体がまだ形成されてないのだから、これは「赤ん坊がママを気遣って夜起きてくれてる」という「ほっこり話」ではなく単に「そういう人体のシステム」ってだけのことだと思うんです。
それを「赤ちゃんがママのためにしていた行動の名残りだから」っていうストーリーにすると、そういうのが好きな人は受け入れやすいのかもしれませんが、私は醒めるほうなんです。
なんというか「番組の宣伝文句が『最新科学で育児の謎を解明』で、理系な話で種明かしをしたわりに、着地点はほっこりメルヘン話にするの?」という感じ。
それはまるで「女はこういう話が好きだからそう仕立てた」という風に見くびられてる感じで「こういう話(ほっこり)」にノレない私は「けっ」となりました。
 
あ、もちろん観てる人が個々にどう思うかは自由だと思いますし、どう思うママさんも「おかしい」とは思いません。
夜泣き対応をしている時にこのVTRを思い出し「ママの為だったんだもんね、仕方ないね〜」と思うと気が楽になるママさんもいるだろうから、そういうママはほっこりと受け止めれば良いんじゃないかと思います。
 
でも私みたいなタイプのママさんのこの部分の感想は「で?『赤ん坊がママのためにしてたことの名残だから』と思えば『夜泣きも耐えられるよね?』って言いたいの? 」と思うんじゃないかなーと思いました。
 
あと、他にも「なんか納得できない」と思った場面は、②の「世の母親達が『私って母親失格?』と思うのは何故か?」について解明していたくだりのところ。
 
そのVTR内では「母性はそもそも女性だからと言って生まれつき備わっているものではなく、育児経験によって育まれる」ということを科学的実験で立証するために「母性が育つか実験」として4人の女子大生が一定期間の擬似育児体験を経て、その前後で彼女たちの脳の「育児に関わる部分の活動」が「活発になったかどうか」を見比べていました。
 
そして全員の脳の働きが実験前より活発になったことを受けナレーションでは「脳内で、いわゆる母性を産む活動が起きたのです。」と説明していました。
ようは「育児経験を経たことで脳が育児向けに変化した」ということはたしかに立証されていたVTRだったのですが、私はそれを観ていていまいち「母性」というものの本質がなんなのか最後まで分かりませんでした。
母性とは「育児向けに変化した脳」のことなのか「脳の変化が引き起こす心理作用」のことなのか、はたまたそれ以外の何かなのか…私がバカなのかもしれませんが、その説明ではどうにも納得できず、私はいまだに「母性」というのが科学的な根拠のない「概念」に近いものなんじゃないかと思っています。
 
そしてその実験自体も、なぜ被験者が「女子大生」に限定されていたのか?という疑問が残りました。
VTRで「母性が女性なら生まれつき持ち合わせているものではない」と明言してくれた事はありがたいと思いましたが、この実験の被験者を女性に限定したことから、この番組の製作者が「男性でも母性は獲得できるor出来ない」というところまでは踏み込むつもりはなく、結局「母性=女性が獲得していくもの」という立証だけして「育児の話だから実験は女性だけでいいでしょ。」と思って作られている感じがしました。
 
私はこの実験がもし男子大学生2人、女子大生2人で行われていたら多少有意義な実験だったんじゃないかと思います。もし実験結果が「男女で差はあるものの男性も母性は獲得できる」なら、男性の育児を促進する材料になるし、逆に「男性に母性は獲得出来ない」と分かれば「なんで女ってだけで1人育児を背負わされるの?」と不満を抱えているママさんも、いくらか割り切る材料になるからです。
 
ただ、私は大前提として、こうした育児の話についてもともと「母性うんぬん」を持ち出すことが、どうも好きくありません。
母性の実態が分からないので「女性=母性持ち=育児担当者」とする流れに納得してないからです。
 
私は育児担当者を「母性のある方にお任せします。」で片付けていた時代は終わりのような気がしますので、もし育児に関して「適正による担当者」を定めるとするならば、その担当者に必要なのは、実体の分からない「母性」という謎の存在ではなく「親たる自覚」のほうが確かなものだと思います。
親たる自覚は、男女の性別は問わず父親も母親も本人が「その気になる」ことで持ち合わせることが出来るし、職業やすべての事柄について「性別による役割分担」から離れようとするこれからの時代には、そっちのほうが合っている気がします。
 
たぶん、番組を観ている現代の悩めるママさんたちが求めているのは「自分達の性別がどれだけ育児向きに作られているかの証明」より「夫も親として共同養育者の自覚を持てる方法」だと思うんですよね。
 
なのでこの番組で、育児に関して「母性」という単語を持ち出して「女性の話題」に限定しようとする事自体が、最新科学というわりには、新しくないものを感じましたし、私の感じる育児についての所感とギャップがあって、今の時代のママたちのニーズにもあってない気がしました。
 
あともう1つ、私の一番納得のいかないところは、③ の産後「パパにイライラしてしまうママが続出」その原因を解明のVTRのくだりです。
 
世の中には、産後急に夫の言動にイライラしてしまう母親が多く、父親も母親自身もそのことに悩む家庭が多いのはよく知られていることですが、番組ではその「イライラ」の原因を科学的に解説していました。
原因を簡単に説明すると、女性は出産や授乳に必要なオキシトシンというホルモンが出るのですが、そのホルモンの作用には「我が子への愛情を高める働きと同時に、我が子の害になることへは攻撃的になる働き」があって、物事の「快」「不快」が、母親の感情を過敏に「愛情」と「攻撃」のに動かしてしまうんだそうです。そのため、たとえパートナーの夫であっても育児に非協力的な部分が見えると「不快=攻撃対象」になってしまう、と番組では解説していました。
 
番組ではその後に「妻のオキシトシンを攻撃ではなく愛情に働かせる為に夫がすべきことは?」というVTRがあったのですが、この最後のVTRは「育児中のママさんに1日心拍計をつけてリラックス状態とストレス状態の波形を測り、結果を見る」というものでした。
 
結果ママさんはほぼ1日中ストレス状態にあることが判明したのですが、その中でわずかにリラックス状態だったのが「授乳中」と「夫と育児について話し合いをしている時」だったんですね。
 
で、ナレーションやスタジオの有識者の方のまとめは「旦那さんが育児で悩める妻に寄り添うことで奥様は愛情を強く感じてリラックスできる。」「パートナーが『ママすごい』と認めてくれる事が大事ですよね。」となっていました。
 
このまとめ、おかしくないですか?
いや、変な事は言ってないというか、もちろん「旦那さんが妻に寄り添う事」も「妻の働きを認める事」もすごく大事だとは思います。
でも「そこ止まり?」というか番組の提唱する「旦那さんの理想形」が『良き傍観者止まり』なんですよね。
 
私もこれが20年くらい前に放送するテレビ番組なら、これでよかったのかと思います。
その頃なら、男性が家事や育児をすることが本当に珍しくて、まだ「男性=外で働く役目」「女性=家で家事育児に専念する役目」の枠に疑問を持つ人が少なかった時代ですから、それより昔は夜泣きする赤ん坊と妻に旦那さんが「うるさい!俺は明日も仕事なんだからサッサと黙らせろ!」と言うこともザラだった時代なので、夜泣きに対して黙っていてくれるだけでも「優しい旦那さんねぇ」「皆見習って欲しいわよねぇ」だったのかなと思います。
つまりテレビで「ご主人は良き傍観者を目指しましょう」を提唱するのは、その時代から既に言われていたことなので、「2016年にまだそこ目標に掲げなきゃな地点なの?」という感じなんですよ。
 
もちろん、世の中には色々な男女がそれぞれの家庭の形を作り上げているので、現代でも「夫が怒鳴らないでくれるだけでありがたい」「育児の相談を聞いてくれるだけでも嬉しい」という奥さんも沢山いると思います。
そういう家庭にとっては「旦那さんが良き傍観者になること」すら「目標」になると思うのですが、この番組は「最新科学」「全く新しい育児の見方」という宣伝文句を謳ってるから、私としては観る前に「育児にまつわる最先端」を提唱してくれるのかな?っていう期待があったんです。
なので「これからの育児の理想形」として、これまで既に掲げられてきた地点より、高いところとして「男女の共同養育」を提唱しても良かったんじゃないの?と思いました。
 
あと、私は番組タイトルの「ママたちが非常事態!?」も謎でした。
というのは、私は普段周りの人やTwitterなどで聞くいろんな母親の声から
「昔からの育児負担が減らないまま、女性が仕事もしろしろと課せられてる最近の社会全体のいびつさ」をこの番組が「非常事態」と言っているんだと勝手に想像していたんですね。
なのでそうだったら面白いなーという期待で観ていたのに、そこにはほぼ触れてなかったので、結局肩すかしでした。
 
このように番組の掲げた「育児家庭の理想形」や②のように「育児=女性の話」と限定して終わっていたことなどが、私の育児に関する考えとギャップがあって、私がこの番組に「期待外れ」と思った原因です。
 
 
最後に
 
最後に、ここまで読んでいて
「そんなに育児に不満ばかり言って女性は育児がそんなに嫌なの?1番深く我が子と関われる素敵な仕事なのに何が不満なの?」と疑問に思う人に、母親達の気持ちを想像できる例えを出します。
 
自分がもし男性だとして、関わる女性みんな「あなたは男だから力仕事はあなたの仕事よね。」という態度だったらどう思うでしょうか。
2人にとって必要な荷物でも、荷物が出るたび「ハイ、これは男仕事ね」と渡してくる女性ムカつきませんか?
 
たぶん「そりゃこっちのほうが筋力あるから荷物運びの適正はあるけど、キミも手があるよね?少しは持てるよね?」と思うんじゃないでしょうか。
 
そういう女性より、自分から荷物を持って「私はこれだけ持つから、あなたは重い方持てる?」と、初めから「分担する気持ち」のある女性のほうが一緒に暮らしたい存在だと思うんです。
 
この男性の「男だからって無条件に荷物担当にするなよ…」という不満が、女性の「女だからって無条件に育児担当にするなよ…」と同じだと思います。
 
荷物運びも、育児も一方的に相手に「あなたの担当」と相手に決めつけられていたら誰しも「適正はこっちのほうがあるかもしれないけど、適正のある方に丸投げしていい事じゃないでしょ」と思うんじゃないでしょうか。
 
男性も初めから「荷物運びを分担する気持ち」がある女性と暮らしたいのと同じで、女性もはじめから「育児を分担する気持ち」がある男性と暮らしたいだけなんです。
多くの母親が1人で育児を背負うことに不満なのは、育児が嫌だとか、子供が可愛くないのではなく「2人で出来ることをはじめから放棄しているパートナーの態度」が嫌なんです。
 
私は、世の中のいろんな人がそこの気持ちを想像できると良いと思いますが、世の中には「我が子が可愛きゃなんでもできるはず」と根性論で押し通す人がいます。
そういう人は「育児を1人で背負わされて大変」と言う母親に「我が子が可愛いくないのか?」とトンチンカンな事を言います。
それは「荷物を1人で持たされて大変だよ」と言う男性に「女に荷物を持たせて恥ずかしくないのか!」と言うくらいトンチンカンな返しだと思います。
そういうトンチンカンが減っていくといいなと思います。
 
もちろん実質的な育児にどれだけ旦那さんが関わるかは、旦那さんの仕事や各家庭の事情で多かったり少なかったりすると思いますが、夫婦で旦那さんが「自分も担当者の1人だよ」という認識がある家庭が増えれば、実質的に育児作業の数が同じでも、妻の不満は減るんじゃないかと思います。
 
散々こき下ろしてきましたが、私はこの番組のことを「すごく為になった」「面白かった」というママさんも沢山いたとは思います。
そして、そういうママさんに「こんな番組で満足するなんてレベルが低い!」なんてことは本当に思いません。
育児に悩む方とって、どんな情報が役立つかは人それぞれなので、こういう科学的見地からの情報で「科学的根拠が分かったから、私明日からもっと頑張れる!」となったママさんが沢山居たなら、良い番組だったのだと思います。
 
ただ、私はこの番組が全てのママさんにとって「あ〜観て良かった〜」となる番組では無かったんじゃないかなぁと思ったので、その気持ちを書きました。
 
私がこの番組全体に感じた印象は
「というわけで、理屈が分かればあんた達も頑張れるよね?」という他人事目線のエールです。
 
再三書いてますが、現代の母親達の育児に対する悩みや不満の要因は「自分の出来なさ」だけではなく「女性だから無条件に育児責任を全任させられる不公平さ」にあると思います。
男女で作った子供を「産んだほうだから」で、女性に一任する慣習。
外での仕事には「女性も輝け」と参加を促すわりに、家での仕事には「男性も輝け」と参加を促さない政府。
その「育児に対する社会全体からの他人事感」が多くの母親達を苦しめているのに、番組からの1番のメッセージがその「他人事満載のエール」だったのが本当に残念です。
 
番組では「人類はそもそも共同養育仕様に出来ている」と明言して「女性はホルモンの関係で不安になるイライラする」と説明していました。
それなら話は「ホルモンの働きに左右されない男性は平常心で育児が出来る存在でしょう」と着地することも出来るはずなのに「育児をするママ(主体)のサポートがパパの役目」という着地点にとどまったこの番組。
 
締めが良くなかったので、私は結局この番組で色々と紹介されたせっかくの科学的根拠も、いうなれば「荷物が重いつらい」と言う男性に対して「男性の筋肉量はこれこれこうで、女性より何パーセント多いから荷物運びに向いています。女性が運んだ時の効率に比べ男性が運んだ時の効率は…」と説得してくる女みたいなウザさを感じました。
 
番組的には「国としては共同養育が実現しやすいように変わっていく必要性」や「これからの時代は男女共に主体的に育児責任者であるべきでしょう、という啓発」あとはせっかく最新科学と謳うなら「夜泣き対応はどこまで手を抜いても成長に問題ないか」の科学的検知みたいな「今夜から実質的に助かる情報」を出したほうが「悩める母親のために」とした番組ならニーズに答えていて、もっとたくさんの母親の心が軽くなるメッセージが発信できていたんじゃないかと思います。
 
 
というわけで、久々に長めの文章になりましたが、読んでくれた方はお疲れ様でした。
 
ではまた。
 

バカは死ななきゃ治らない

 

やや出遅れましたが、Copy__writingの中の人のインタビューを読んで、ある友人のことを思い出したので書きます。

彼女の名前はマユコ(仮名)

マユコと私はひと頃、とても親交が深くありました。

彼女は私より5つくらい歳下で、当時職場が同じでした。

仕事はシフト制なので毎日顔を合わせるわけではなかったけど、一緒の日は仕事が終わると、彼女の家に寄ってご飯を食べたり、休みを合わせて2人で買い物や遊びに行ったりしていました。

2人で旅行にも行ったことがあるので「友達との親交度合い」で言えばわりと深い方の付き合いをしていたと思います。

彼女の性格は一言で言えば「強気で奔放」でしたが、私は仲良くなった人に遠慮されるのは苦手なほうなので、歳の差を気にせず何でも喋ってくれる彼女の性格はありがたく思っていました。

そして彼女の特徴として特筆すべきなのは、彼女はとても流行のお洒落に敏感な女の子で、当時まだ流行り始めの各種SNSをフル活用し、SNS上の「マイミク」や「友人」も沢山いて、そんなSNSに自分のコーディネートスナップを載せたりもする、そういう子でした。

彼女と私はお互いに真面目な相談もできる傍ら、バカな話や下ネタでも多いに盛り上がれる感じで、とにかくその頃は本当に「互いに心を許せる友達」だったと思います。

しかし彼女とは、その後私が引っ越しした事で物理的に遠くなり、さらに2年前に別の理由から私が「距離を置いてもいい」と思うことがあったので、なんとなく連絡が気薄になり今は交流がないのですが、まだ交流があった頃に1度だけ私が彼女の人間性に疑問を持った出来事がありました。

それは、ある日の彼女のこんな一言がきっかけでした。

「ねぇ、これ、なんて返事書いたらいいと思う?」

彼女は手に持ったiPhoneから視線をそらさずに言い、私は「何が?」と聞き返しました。

すると、彼女は少しだけ躊躇するような顔をしてそのまま私の方は観ずに言いました。

「なんかね、こないだニニコがTwitterに書いてたことあるじゃん。あれを私のmixiに書いたら友達が結構マジなトーンの長文コメントしてきたんだよね。」

私は一瞬「はて?なんのことやら」と意味が分かりませんでしたが、続けて彼女が見せてきた画面を観て目が点になりました。

彼女が見せてきた彼女のmixiの画面には、見覚えのある文字列がまるまる句読点までそっくりそのまま書いてありました。

それは数日前に私がTwitterで書いた発言でした。

当該ツイート⇩

 

この3つのツイートがまとめて1つの文章となり、末尾に「by」とか「引用」という文字はなく彼女の「呟き」として投稿されていたのですが、文字列を見た私はちょっと何が起きてるのか理解するのに脳が追いつかず、言葉に詰まってしまいました。

するとマユコは続けて言いました。

「その友達ね、自分の子供にちょっと障がいがあるんだけど、その事で思うところがあったみたいで、反論じゃないんだけどすごい長い質問みたいな、『そういう見解のあるマユはこれについてどう思う?』っていうコメントしてきてさー、どうしよ?なんて返事書いたらいいと思う?」

 

 

 


バカなのか?

 私の脳裏にはそれしか浮かびませんでした。

百歩譲って、彼女が「私の発言をパクツイ(ツイートではなくmixiの呟きですが)した」という事実までは、まだ頭で理解出来ます。しかもせめて、私が1人でmixiを巡回していて彼女のページを発見して当該やりとりを発見したなら、まだ事態は飲み込めるんです。

でもそうではなく、堂々と「自分が勝手に引用した相手」にそれを自己申告してきたその思考回路が本当に本当に理解不能で、私は急にゾッとしました。

隣にいる友達のマユコが「得体の知れない理解不能な人間」に思えたからです。

そしてそのショックを受け止めると次は怒りが込み上げました。

しかし、ここでこれを私に見せられる彼女には、恐らく本当に「勝手に自分の発言にしちゃってゴメンね(^_^;)」的な思考が無いのです。

なので真っ当に「何やってんの!?」と怒っても100%彼女の性格では「何そんなキレてんの?」という反応が返ってくる予感しかしませんでした。

だから私は冷静に言いました。

「待って。とりあえず、マユは私のツイートを自分の発言にしちゃってる事についてはどう思ってる?」

すると彼女は私の声のトーンから少なからず怒りを感じ取ったのか、少しうろたえつつも「え、でも私、トップページに『Twitterで気になる発言も呟きます☆』って書いてるから…別にいいと思ってた。」と言いました。


なんじゃそりゃ。

Twitterで気になる発言も呟きます。」の意味が分からない。

Twitterで気になる発言も呟きます。」の一文に、彼女が期待した効力が理解できない。

Twitterで気になる発言も呟きます。」の一文を読んだマイミクが現に「彼女の発言」として受け取ってるコメントをした時点で、彼女が「ゴメン!これは他の人が言ってたことなの!」と訂正せず、まともにコメント内容への返事を考えてる事が理解出来ない。

極め付けは、それを私に聞いてくる思考回路が本当に分からない!!

私は小パニックに陥りました。

でも、人間そんな咄嗟に怒れないもんですね。

特に、私達は「これから渋谷へお買い物へ向かうバスの中」に居たのでそこで怒るのは至難の技。(怒り逃げ出来る状況ではない)

結局、私は声を荒げる事はなく、彼女に「あのね、どんな仲良しでも、断りもなく人の発言を自分の発言として書いちゃダメなんだよ。それはネットに限らないけど、ネットの中では特に常識なの。」と説明しました。

彼女はポカンとしていて「そういうもんなの?」と言いました。

私は愕然としました。

私よりずっと若くて学生の頃からネットに親しんできた彼女が、そんな「インターネットの常識の初歩の初歩」を「初耳」だということが本当に信じられませんでした。

何より、マユコが「普段から辻褄の合わない事を言ったり、理解不能な行動が見受けられる奴」なら私はもう「そういう奴」と見切る事が出来たでしょうが、彼女とは「仕事」という1番本性が見えやすい環境で長く時間を共にして、私の中では彼女の人となりに対する信用が少なからずあったのです。

だから、本当に「まじか…」というショックがありました。

でもちょっと考えてみると、もしかしたら彼女は「自分の作り出したものへの愛着」という感覚が本当に分からないだけの人なのかも、と思いました。

私のような「文章を書くこと」を趣味にする人間にとって、発言とは「物事を受けて自分の脳みそというフィルターで濾して生み出したもの」です。

もちろんそれは文章に限らず、人によってはイラストだったり、手芸作品だったり、写真作品だったり、するわけですが、とにかく「自分の頭や手で頑張って何か生み出すことの喜び」を知る人間にとって、生み出したものは「子供」のような存在だと思います。

だからその「子供」は決して他人に横取りをされていいものではなく、それは「著作権とかの法律があるから守る」という事より、大前提として人道的に「人の子供をさらったら親が悲しむからしちゃダメ」という事だと思うんです。

しかし、世の中にはその「自分の頭や手で頑張って何か生み出すことの喜び」を知らない人もいて、マユコもその1人だと考えると彼女のこの一連の言動がなんとなく理解できる気がします。

つまり、彼女がたとえいくら言葉の説明で今までも先ほどのような「常識」を教えられていたとしても、彼女の中にはその「自分の頭や手で頑張って何か生み出すことの喜び」や「自分の作り出したものへの愛着」自体がピンとこない感覚なので「その常識を守るべき理由」もピンと来なくて、それでそういう常識外れなことが出来てしまうのかもしれないと思ったのです。

私にとって、彼女のやったことは「自分の子供が知らぬ間に誘拐されて働かされていた。」みたいな事ですが、彼女にとってはそもそも私の子供とは認識されておらず、「友達の捨てた紙切れになんか書いてあってそれが面白かったから拡散した。」というだけの事なんだと思います。

そして、その時に「こんな紙切れ拾ったよ」という注釈をつけるのも「なんとなく面倒くさくて省いちゃった。」だけで、悪気ではなく、ただの「その程度の事で怒る人は居ないからどうでもいいでしょ」な感覚なんじゃないかと思いました。

私はこの場合、マユコに私の怒りを実感して貰うためには「彼女の感覚で実感できるもの」に置き換えて話さないと伝わらないと思って、少し考えた結果、このように聞きました。

「マユコはさ、よくインスタに自分のコーディネートを載せるでしょ。それはその都度『この色の靴下でこのヒール履くの、まだやってる人が居ないけどめっちゃ可愛いなー』とか『この上着で、下にこのスカート合わせると可愛いの発見した!』とか、自分で考えた結果のコーディネートなわけでしょ。それをもしある日、知らない人がまるっきりマユコのコーディネートを毎日真似して載せてて、コメント欄に『○○ちゃんのコーデ個性的ですごい!』とか『○○ちゃんにしか思い付かないコーデだよね!参考になります♡』とか書いてあるのを見つけたら、あんたどう思う?」


マユコは3秒くらい黙って上の方を見たのち言いました。

「めっちゃ、むかつく!」

マユコは「そんなん超むかつくんだけど、何勝手に自分発信にしてんの?って感じだよ!」といきり立ったので、私は「うん、そうな。」と言いました。

そして私が「しかもな、その○○ちゃんからマユコに『このコーデのコレどこで売ってます?ファンの子から質問が来たので教えて下さーい。』って聞かれたらどう思う?マユコがやったことは、私にとってそれなんだよね。」と聞くと彼女はやっと「あ…」と言って黙りました。

そして、小さい声で「ごめん…」と言いました。

友達に謝らせてスッキリするものではないので、私も後味が悪かったのですが、「とりあえずそのコメントしてきた友達には訂正して、自分なりの答えを新たに考えて返事してあげれば」と言って、「そうする」と言うのでその件は終わりました。

その後も私とマユコは私が引っ越すまで普通に今まで通りの友達付き合いをしていましたが、これは私の中で1つ彼女の人間性を疑った出来事でした。

今回、Copy__writingの中の人のインタビューを読んだ時、私はこの時の「ゾッとした感」が少し蘇りました。

ネットに転がってる数々の名言は、確かに明確に1つ1つの著作権があるものではありません。

だから、他人の名言を抜き取って、自分のものにして「100人分の珠玉の名言」を「1人が考えた100の名言」にしてしまうという事がまかり通ってしまったのだと思います。

でも、100人分の「生み出した子供への愛着」や、100人分の「めっちゃむかつく」を想像出来ず「その程度のこと」で済ませている人間が、「コピーライター」という「言葉を生み出す職業」を名乗るなんて「笑わせんな」としか言いようがありません。

Copy__writingの中の人は、自分が書いた言葉を誰かがさらっていったら「めっちゃむかつく」と思わないんでしょうか。

言葉を生み出す職業を名乗りつつ、他人の言葉を勝手にさらう行為を継続的にやれる神経が、本当に「得体の知れない理解不能の人間」に思えて、私はゾッとしました。

ちなみに、この文章を書いた後、公開するのに少し躊躇いました。

マユコが私のブログに辿り着く可能性はかなり薄いのですが、これを読んだら本人だけは分かると思ったのでさすがに少し悪い気がしたのです。

でも昨日マユコのFacebookを発見して見てみたら、なんと彼女は他にもいくつか私のツイートをそのまま自分の発言として載せていました。

治ってねぇ…


そんなわけでもう私はこの文章を躊躇なく公開します。

「バカは死ななきゃ治らない」というのは、真実なのかも知れないと思いました。

おわり。

トピック「パクツイ」について

 

「デブ、ブス、ハゲ、いい歳して独身の人は笑いものにしていい」というテレビの常識はおかしくないですか

 

前回、もっとお笑い全体について書きたい事があった気がしてたのに、気がついたら全然バカリズムについての話しか書けてなかったので小倉智昭ばりに「ど〜なってるの?」と思いました。


 さて前回、私は「なんとなくお笑い番組を観ていて自分が『これ、笑えないなぁ』と感じるネタや場面が多くなっているような気がしている。」と書いたのですが、今日はそのお笑いを全体的に見た時の「これ笑えないなぁ」について書こうと思います。(頭の中ではまとまってないのでうまく書けるか分かりませんが)
私は最近テレビのお笑いやバラエティ番組を見て笑えない場面がちょこちょこあるのですが、それを整理すると以下の2つのパターンになります。
 
身体的ダメージ系
芸人を落とし穴に落としたり、熱々おでんを顔につけたり、水槽に沈めたりするようなやつ。
精神的ダメージ系
「デブ、ブス、ハゲ、いい歳して独身」などの、芸人の容姿やプライベートな事情を本人以外が指摘するやつ。
 
こうして観ると「この2パターンで笑えないなら、ほとんどのバラエティ番組が笑えないんじゃないか?」と言われそうですが、まぁ実際そうなんですよね。
 
歳のせいで無駄に共感力が高くなった私は、まず身体的ダメージ系は、やられてる芸人が痛そうだったり苦しそうだったりすると、もう単純に「痛そ〜」「苦しそ〜」という頭になってしまって笑えるどころではなくなります。
さらに精神的ダメージ系は、例えば女芸人がモテたエピソードを話した時に司会者が「その顔でー?」とかチャチャを入れるくだりがあるともうその時点で、司会者を「やな奴!」と思ってしまってそいつのチャチャで笑うのが嫌になります。
一応頭では「そういういじり」だと分かってるんですが、普段から私の中には「人の見た目のことバカにする奴が好きくない」という気持ちがあるせいか、司会者に腹が立ってしまうんです。
 
もちろん全部の「身体的、精神的なダメージを受けて見える芸人いじり」が「お笑いの形」なのは頭では分かっているので、私が面白くなくともそういうお笑いを好きな人のことを「あんなので笑うなんて無神経過ぎる」とか「低俗」とかまでは思いません。
でも「私と違う感覚の人が随分沢山居るもんだな」とは思います。
それで、たまにこういう事を職場とかで人と話してると、だいたい途中で「自称お笑い通」の人が横から入ってきて言います。
「お笑いって、残酷なもんなんだよ。笑いから残酷要素を抜いたら、ほのぼの系の生ぬるい笑いだけになるよ。そうなったら日本のお笑いも終わりだね。」
 
私はわざわざ波風立てたくもないので、お得意の、否定も肯定もしない便利な返し「あぁはぁまぁ」でその場はおさめますが、そういう時心の中では「ほのぼの上等じゃんよ。」と思ってます。
だって、どう考えても人が踏んだり蹴ったりされてる様子を見て笑うより、柴犬専門チャンネル見てたほうが私はよっぽど幸せに笑えるんですもん。だからジブンほのぼの上等っす。
 
でも多分、これ「どっちが正しい間違ってる」ではなくて、ニーズの問題なんだと思うんですね。
お笑いに求めるものが「刺激」の人は「残酷と隣り合わせの笑い」を欲するし、お笑いに求めるものが「癒し」の人は「共感とかほのぼの系の笑い」を欲するんじゃないでしょうか。
私は後者で、そのお笑い通は前者ということだけな気がします。
 
だから私も「お笑いを見たいなら、多少の残酷さがあることは覚悟しろ」と言われたら、まぁそこまでは納得できるのですが、それでも「テレビのお笑い」と「刺激求める派」の人に対してはちょいと思うことがあります。
 
それは「お笑い=残酷なもの」ということがたとえ真実だとしても、テレビを作る人と観る人はそこの「残酷さ」に鈍感になったらダメなんじゃない?
ということです。
どういうことかと言うと、私は「お笑いの残酷さ」には種類や程度があって、時に「わっ、これ可哀想じゃない…?」と思われる場面がある場合、そこをひとくくりに「お笑いは残酷だから」で思考停止していいものではないと思うんです。
ようは「お笑いだから許される残酷さ」と「お笑いでも許されない残酷さ」があるということで、作る側も観る側もそのボーダーラインに無頓着ではいけないんじゃないかということ。
 
なんでそう思うかというと、やっぱり「笑い」って1つの「快感要素」だと思うのですが、人間は快感目的だと時にタガが外れることがあるじゃないですか。
性的な快感も、金銭を手にした時の快感も、褒められた時の快感も、全部「ほどほど」の「適正ライン」があるはずなのに、時々そこの感覚がおかしくなって社会的な適正ラインを超えてしまう時や人が出てくるから、世の中って、そういう時にトラブルが起きてると思うんです。
だから「笑い」という快感に対しても、各自が自分の倫理感で「ここまでは笑ってもいいけど、これ以上は酷いと思う」っていう適正ラインを頭の片隅ででも意識してないと、もし、そうでなくみんながそれぞれ「周りの様子見で合わせる」になっちゃったら、作る人は「見るやつが笑うからいいっしょ」で、見る人は「テレビでやってるんだから笑っていいっしょ」とやってるうちに、残酷さがエスカレートしている事に誰も気がつかないで、残酷な事が起きている上に、残酷な目にあってる人が「みんなが笑う事だからこれは耐える、べき…?」みたいに、もう全員のタガが外れた事態になる気がして、それが私はなんか怖いなぁと思います。
そういうわけで、テレビを作る側も観る側も「残酷さのボーダーライン」に無頓着ではいけない、と思ってます。
 
 
で、ここまで読んで「そうは言っても所詮テレビの中のことにそんなに目くじら立てんなよ。」とか「今更何言ってんの?昔のテレビのほうが今よりはるかに芸人に残酷な事をしてたし、観るほうも平気で笑ってきたじゃないか。」と言われたら、それは確かにそうです。
でも私は「今更」ではなくて「今だから」こそ、そこは注意しなきゃいけないと思うんですよね。
 
なぜなら、昔は「テレビの中」と「一般社会」に明らかな隔たりがある前提があったからこそ、そういう笑いが「見せ物としてアリ」だったんじゃないかと思うんです。
 
思い返せば、私が子供の頃「芸能人」というのははるか雲の上の存在でした。
その頃の世の中には「芸能人=一般人より飛び抜けた何かの才能を持つ人」という認識があって、テレビというのはその「芸能人」が出てくる「特殊なショーを見せる世界」という感じがしてました。
 
そういう前提が世の中に浸透していた時代には、テレビで芸人がひどい目にあわされていてもテレビ側からは「一般人がやったらダメだけど、テレビではお笑いとして放送するからみんなで笑ってね。」というちょっと理不尽ながらも「良い子は真似しないでね」的なメッセージが発信されていて、観ている人も中には批判が少しはあっても大半の人が「うん。これはテレビだもんね。」みたいに素直に納得していたんじゃないかと思います。
 
だから当時「お笑いウルトラクイズ」とか、芸人が酷い目にあってる風なお笑い番組がやってると、まぁうちの母親は特別気むずかしい人なので「あー、あんなことして!」と呆れてすぐチャンネルを変えていましたが、私や兄達は「この人らはそういう覚悟をしてその世界に入った芸人だし、嫌がるのはショーの演出だから別に笑ったっていいじゃん。」という気持ちで笑って観ていました。
 
つまりその当時の私の笑いは身の回りではタブーとなっている事だからこそ、逆にそれが解禁されてるテレビの中のお笑いの残酷さを「特別な人がやるフィクション」として安心して見てた。ということのような気がします。
 
でも今のテレビはもう昔の「特殊なショーを見せる世界」ではなく「身近に居そうな人がなんか面白げな事をしてるのを見せる場」という風に変化してきていると思います。
それは「芸能人」が雲の上の存在ではなくなったから。
ここ10年で、昨日まで素人だった人がひょんなきっかけでテレビに出るようになったり、読モとか若手芸人みたいな「半分芸能人、半分素人」の人たちがかつて「芸能人 」「一般人」の間にあった溝をどんどん埋めていったので、もはや「一般人」と「芸能人」の境目は、ほぼ無いに等しい状況だと言えます。
 
だから今の20代くらいの若い子達は、その「降りてくる芸能人」の過程のテレビを物心つく頃から見てきたはずなので、多分私のような上の世代の人には残ってる「テレビが特別な世界」という意識はハナから無くて「テレビと一般社会は地続き」という感覚が強いんじゃないかな、と思います。
 
ということは世の中の人の「お笑い」に対する認識も、かつての「テレビの中でやってるけど皆は真似しちゃダメ」ではなくなって「テレビで笑いとされてる事は皆もやっていい」になっていく気がするのですが、そうなると、自分のいる地続きの世界で笑いになってる内容が、ちょっと今のままではいかん気がするんですよね。
 
笑いのために、人の体を傷付けるものだったり、本人が買いたくないものを無理矢理買わせるだったり「ブス、デブ、ハゲ、いい歳して独身の人はそこをいじられて笑われてもいい存在」という扱いを受けたりすることは、本来は人の身近に転がってたらいけないことだと思うんです。(私はテレビでも嫌だけど)
「ひとの見た目のこと、お家の事情のこと、その人がどれだけ気にしているか分からないから、変だと思ってもからかったりしないようにしようね」は、小学生でも習うことなのに、なんで「笑い」の大義名分があるとここまで当たり前に破られてるのかな?と思います。

だからせめて、これ以上はエスカレートしないように、作る人と観る人とが、「これを笑うのって人としてアリ?ナシ?」の感覚に鈍感ではいけないと思うんです。
テレビの世界の笑いが残酷にエスカレートしていくことは、明日自分の周りで「残酷に笑われる人」を作ることになるかもしれないから。
 そういう訳で、私は今だからこそ、テレビを観て「笑っていいこと」「笑ったらダメなこと」を各自がジャッジしないといけないんじゃないかなぁと思うんですよね。
 
「笑い」って、みんなが好きで、良い事で、正義とまで言われてたりするけど、その側面ばかり見て行け行けドンドンになったらダメで、アクセルがあるからにはブレーキが必要というか、笑われる人が嫌だと思った時に「みんなが笑うんだからいいじゃん。」という暴力がなされない環境がいつも守られる為の、ブレーキを各自持ってるほうがいいんじゃない?っていう話ですね。
 
あー、やっと当初書こうと思ってたことの半分くらい書けましたけど、これ書くのにすごい手間取って、もう半分を文章にする能力が今の私には無いとわかったので、もう次回は別のこと書きます。
またいずれお笑いとかテレビに関する話はまとまったら書きます。すいません。
 
 
ではまた。
 

バカリズムのコントが酷かった件について

 

 

今さらですが年末年始の話を。

私は普段からテレビを見るのが大好きなのですが、この年末年始はいつにも増してごろごろとテレビを駄観ってたように思います。
あ、「駄観る(だみる)」というのは私が作った動詞で「なんとなく点いているテレビを惰性で無駄に長く観る行為」を意味します。便利なのでよかったら使ってくださいね。
 
 私は普段テレビは「頭を使うドキュメンタリーや情報系番組」と「頭を休める娯楽番組」で半々くらいの割合で観るようにしているのですが、年末年始は娯楽番組の数が圧倒的に増えるので、自然とそのバランスが偏り、お笑い芸人の姿ばかり見ていたように思います。
 
それでふと思ったのは、なんだかこのごろのお笑いは「面白くない」どころか「不愉快さ」を感じるものが増えたなぁということ。
 
 いま、自分でも「すごい安っぽくて、なおかつ沢山の反感を買いやすい一文」(安くて沢山買えるからある意味コスパ優秀)を書いた自覚があるのですが、(素人が「このごろのお笑いは面白くない」とか語りだしたら「なんかウザい」と思うのが人情です)すいません、続きを書きます。
 
私は今日なにも「このごろのお笑いは子供ウケするようなリズムネタばかりが流行ってそういうのがお笑い界のレベルを下げている!」みたいなお笑い論の話がしたいのではありません。
正直言って「お笑い界のレベルが昔と今とどう違う」とかは私は本当に分かりませんし、そこのところの真実にはそんなに興味がありません。
 
ただ、私は昨年からなんとなくお笑い番組を観ていて自分が「これ、笑えないなぁ」と感じるネタや場面が多くなっているような気がしていて、この年末年始は特にその感覚が濃縮して感じられたもので、その辺について思うことを今日は書こうかと思います。
 
はじめに断っておきますと、私、バカリズムはずっと好きでした。
もともと自分自身が絵を描くのが好きなせいか、芸人さんの中でもイラストのフリップネタをやる芸人さんに好感を抱きやすくて、その中でもいつもここからの「悲しい時ー!」とか、バカリズムの「都道府県の持ち方」みたいなネタは本当に好みのネタです。
ここ数年、バカリズムはネタよりも普通の番組に出る姿が多いですが、トークも特に嫌な感じはしないし、脚本を手掛けたドラマも「バカリズムが脚本なら」と思って観たのですが、期待を裏切らない面白さだったので、私の中でバカリズムはずっと「好きな芸人さん」という位置付けでした。
ところが昨年末「検索ちゃん」という番組のネタまつりで久々に見たバカリズムの新作コントがひどかったんです。
 
もちろん「ひどい」というのは私個人の感想で、そのコントが面白かった人もいたと思いますが、当時Twitterでも「これは酷い」という意見がわりと沢山あって、少し話題になっていました。
とりあえず観てない方の為に簡単にそのコントの内容を説明しますと…
 
舞台は会社の会議室らしきホワイトボードの前。
そこでバカリズム扮する男性社員が同僚だか後輩女性の「広瀬さん」に向けて終始1人語りをするコントなのですが、その話の内容が「広瀬さんのおっぱいを触らせて欲しい。」というお願いなんですね。
で、画面に広瀬さん役の女性は居ないんですけど、広瀬さんはなんやかんやと胸を触られたくない理由を言っているテイで話は進みます。
そしてバカリズムは広瀬さんから「なぜおっぱいを触らせたくないと思うのか」を冷静かつ執拗に聞き出し、広瀬さんが挙げる理由1つ1つに対し独自の理論で諭していき、最終的には丸め込まれた広瀬さんがおっぱいを触られる、というコントでした。
 
まぁ、文章で読んでも「なんじゃそりゃ」と思うかもしれないので、観たい方は魔法の箱で見てもらえればいいのですが、スタジオの反応は「ひどいな!」とか「よくこんなネタ作るな!」みたいに揶揄しつつも全体的にはネタとして「アリ」になっていて、「面白かった〜」と受け入れられてる感じでした。(ただ、コント中に映ったひな壇のオリラジの2人は結構引いてる表情をしているように見えた。)
 
私は、序盤の「おっぱい触らせて欲しいんだよね」の台詞から、最後まで1ミリも笑えず、むしろ「ここが笑いどころ」らしき独自の理論には恐ろしさすら感じて、それまでバカリズムを好きだっただけにかなりショックでした。
 
その時したツイート↓

 
もちろん私も大前提として「ただのコントでしょ」ってのは思いますし「こんなコントを作るなんて、実生活でバカリズムは女性にそんな事を言って迫ってるのね!」なんて飛躍した考えも無いです。
 
でも私がツイートで「純粋に怖い」と書いたのは昔自分が「なんでそうなる?」という理論で男性から性交渉を迫られた経験があって、このコントを観た時にその時の怖さとか嫌な気持ちが新鮮に蘇ったからです。
 
ちょっとここで「なんでそうなる?」という理論についてピンと来ない方の為に具体的に説明しようかと思いますが、私のケースは内容が混みいっているので、もっと説明の簡単に済む女友達のチカちゃん(仮名)のケースを紹介します。
 
チカちゃんは20代のはじめ、ある男性とお付き合いをして彼の初めての性交渉の相手になったのですが、やがてその男性と別れたくなってしまい、別れ話をしたら彼は別れることには同意したものの「体の関係は続けたい」言ってきたそうです。
 
チカちゃんが「それは出来ない」と言うと彼は「チカが女性の体の味を俺に教えたのに、いきなり相手をしなくなるのは卑怯だ。チカと付き合わなければ俺は1人でも生きていけたのに、チカに女体を教えられたせいでもう自分は女の体が必要な人間になってしまった。チカはこの責任を果たすべく、俺に次の彼女が出来るまで、体だけでも相手をするべきだ。」という持論を展開したそうです。
 
これがまさに「なんでそうなる!?理論」なのですが、彼はいたって真剣に言ったそうです。その彼には私も1度会った事があって、その時は至って社会性のある普通の人に見えたので「えー、あの人がそんな事言うんだ」と驚いたのですが、その後のやりとりメールなども彼女から見せて貰ったので、話は本当だと信じられたのと共に私はかなり驚きました。(彼女はその後無事に別れる事ができていました)
 
こういう「なんでこうなる?理論」はこうやって文章で読む分にはもしかしたら「面白い話」なのかもしれません。
ですが、私はこの「面白さ」は、その人が「安全地帯に居ること」が前提で「面白さ」に変換されるもののような気がします。
つまりどういう事かと言うと、実際に、もし皆さんが夜の繁華街を歩いていたとしましょう。
するとラブホテルの前にいる一組の男女の男のほうが土下座をして「1回だけだから!痛くしないから!終電までに終わるから!」と叫んでいる現場に出くわしました。
この時、皆さんはどう思いますか?
 
多分半分くらいの人は心の中で笑っちゃうんじゃないかと思います。
それは、その男の「無様さ滑稽さ」に対する「なにやってんだよ(笑)」っていう嘲りの笑いだと思います。
でも、その光景がまるでコントの一場面のように見えて笑えるのは、完全に見る人が第三者という安全地帯から観ている光景だからだと思うんです。
 
つまり、視点を変えて自分がその女の人だと思ってみると「その状況は笑えるものなのか」を考えてみて下さい。
それまで普通に会話が成り立っていた男性が性交渉の為に目の前で、血走った目で「お願い!」と土下座で懇願してくる状況。
その女の人の気持ちはおそらく「怖いし気持ち悪いし恥ずかしいし今すぐやめて欲しい」で、とうてい「笑える」ものでは無いと思うんです。
 
まぁ、実際はそれぞれの人の性格によるので、女の人全員が「怖いし気持ち悪い」と思わないにしても、そういう無茶苦茶なアプローチをウエルカム出来る女の人って少ないと思いますし、ほとんどの女の人にとって性交渉に関する無茶苦茶で強引なお願いは「笑えない迷惑行為」だと思います。(もちろん男女が逆でもそうだと思うし。)
 
私の時も、チカちゃんの時も、私達の感想は同じで、「実に怖いよね」でした。
その怖さは、単純に身の危険を感じる怖さもあるのですが、なんというか「性欲に取り憑かれたゆえの人間の狂気」を見せつけられる怖さもかなりありました。
 
そしてこれは別に男性に限った特性では無いと思いますが、私が男性からしか迫られた事が無いのでここでは「男性」と書かせて貰いますが、一部の男性は本当に性欲にかられると普段普通に生活してるような人でも、性交渉の為に無茶苦茶な事を言う時があります。
男性同士ではそんな一面を見せなくても「え、この人が?」という真面目そうな男性でも。
だから、男性の性対象になりやすい女の人の中にはそういう目に遭ったことのある人が結構います。
 
でも、バカリズムのコントが「面白さ」としている部分と、その土下座男の「面白さ」の根底にあるのは、同じ「女体目的に必死こいてる男の滑稽さ」だと思うんです。
そして、それは私やチカちゃんの目には「滑稽さ」として映らず「怖い」と感じた部分です。
このように視点が違えば「怖さ」は「滑稽さ」になってしまうということ自体も私は恐ろしいことだな、と思えます。
 
私は土下座男やバカリズムのコントの「滑稽さ」をすんなり「面白み」と捉えられるのはきっと「土下座されてる女性に感情移入しないでいられる人=そういう状況で怖い思いをしたことのない人(今後する想定のない人)」だけなんじゃないかと思います。
 
そして、前に痴漢の話の時にも似たような事を書きましたが、こういう「怖さ」が「被害を受けた当事者同士しか共有できないものなんだ」と思い知る度に私は世の中にガッカリします。
 
もちろん、所詮「コント」なんですけど、現実で女性が会議室で男性社員と2人きりになる機会は実際に起こる場面ですし、思いもよらぬ男性に滅茶苦茶な理論で押し切られて不本意な性交渉を断りきれなくて辛い思いをした女の人も世の中には沢山いるだろうに、そのような場面がコントという「笑っていいもの」として、テレビという万人向けの媒体で放送することが今の世の中だとまだ「アリなんだな」ということに私は今回ガッカリしてしまったんです。
それが完全に「笑い」として放送される事がまるで、そういう事で怖い思いをした女の人が「世の中に居ないものとされている感じ」がして。
 
テレビで、あのネタが「笑っていいもの」として放送される事は、友達同士が内輪で「この理論武装で女のおっぱい揉めるぜ!」と話してるのとは訳が違うわけで「このコントを見て過去の嫌な思いをぶり返して嫌な気分になる人がいるだろう」という配慮が無かったという事に「今のテレビを作る人の意識ってそんくらいなんだなー」と思えたのが、ガッカリという感じがしました。
 
一部の人には私の話は飛躍しているように思えるかもしれないですが、私はそう思えたのでそう書きます。
 
ただ、これをコントとして世に出そうと思ったバカリズムは恐らく「そういう怖さ」の経験が無いから面白がれるんだろうなぁ、と思うと彼が羨ましい気がしました。
彼の目から見える世の中には、「こんな事を言う奴」は居なくて、「こんな事を言われて怖がる女の人」も居ないから彼はあのコントが作れたんじゃないかと思うので、本当に現実にあのコントを見る人が全員「こんな奴いないっしょ、こんな状況自分に起きないっしょ」と思って第三者目線で楽しめる世の中になって欲しいなと思いました。
 
ちょっと今回、書きたかった事の3分の1にも到達してないのですが、(本当はもっとお笑い全体の事について書きたい事がありました。)今年の私のテーマというか目標が、「テンポよく」なので、昨年までのブログの文章より短くて、数をたくさん書くことをやっていきたいと思いますので、今日はここまでに致します。
 
それでは、皆様、本年も宜しくお願い申し上げます。
 
 
 
 
 

「女は働け、女は産め」と言われても、体が2個なきゃできません

 

はじめに

先日のNHKの「おはよう日本」の中で放送された「資生堂ショック」の特集を皆様は観たでしょうか?
私はたまたま早起きしてたので観ていて、一瞬「資生堂ショック」と聞いて「資生堂が頑丈な腕時計でも出したか?」と思ったんですけども、そんな呑気な話ではありませんでした。
番組を観てない方や「資生堂ショック」がなんなのか分からない人の為に一応この話題を取り上げたニュースサイトのリンクを貼っておきますが、
読むのが面倒な方の為に(リンク先の記事が無くなった時の為にも)
私なりにざっくりまとめますね。
 
資生堂ショック」とは一言で言うと「資生堂の、女性社員に対する処遇の方針が変わってびっくりぽんや!」という話です。
 
資生堂は言うまでもなく日本の一流企業で、化粧品メーカーという職種として女の人がたくさん働いています。
そしてこれまでの資生堂は、社内託児所の整備が整っていたり、時短勤務制度があったりと、他の企業に先駆けて育児支援に積極的で「資生堂=女性が働きやすい、女性に優しい企業」というイメージは一般の人にも広く知られていました。
 
しかし、そういった育児支援制度を活用する女性社員が増えるのと反比例する形で、ここのところ資生堂の業績は悪化していたようです。
そこで資生堂の上のほうの人は、この度そのことについて「どげんかせんといかん!」となり、これまで積極的に認めてきた育児中の女性社員が使える時短勤務制度の利用を厳しくしたり、普通の社員と同じ接客ノルマを科すことにしたのです。
つまり、資生堂の上のほうの人は、「制度を使って早く帰る女性社員が増えたせいで、他の普通の社員が大変になって不満ブーブーになって、やる気が落ちたせいで売り上げが落ちた」と判断したらしく、その解決策として「育児期間の女性社員に意識改革」させる事で、全体の士気が高まって業績が上向きになると読んだのでしょうね。
だから「育児中でも会社に保護されてぬくぬく働けると思うなよ!一人前に働け!」と育児期間中の女性社員にクギを刺すことにしたんだと思います。
 
この資生堂「女性社員を保護の対象から戦力へ変える方針転換」は今までとは180度の方針転換だったのでメディアが「資生堂ショック」という見出しを付けて報じました。
そして各方面にこれが知れ渡り、「あの資生堂が一転して!?」という驚きの波紋が広がっている最近の状況全体をひっくるめたものを「資生堂ショック」といいます。
 
おはよう日本」の番組内では、実際に資生堂にお勤めで、このたび産休を経て職場復帰していた一般女性のインタビューがありました。
その女性社員のもとには、産休明けの頃に会社から一本のDVDが届いたそうです。
そのDVDの内容も番組内では流していたのですが、それは会社の上のポストの女性が語る「職場復帰する女性の心得」みたいなものでした。
それは表面的には「皆さんは会社を支える大事な戦力なのです。」みたいな文言でしたが、私なりの意訳すると
「貴女方が当たり前のように育児期間だから時短勤務をすると他の社員の士気が下がるので、育児期間だからと言ってこれまでのように会社が融通効かせてくれると思う甘えは辞めて仕事に復帰して下さいね。」というもので、まるで洗脳ビデオのように私には思えました。
 
資生堂と無関係の私ですら「こんなん見せられたらショックだろ…」と思った内容でしたので、実際に産休明け前に、これからの育児と仕事の両立に不安ながらも「さぁまた頑張らなきゃ」と思おうとしているところに会社からこのような「突き放し宣言DVD」を見せられたその女性社員の方がどれだけショックだっただろうなぁ、と思うと、実にいたたまれなくなりました。
 
番組としては女性アナウンサーが「職場の不公平感を無くすことで、お互い助けあおうという意識がより強くなるのかもしれませんね」とコメントし、男性アナウンサーも「企業側も制度の運用をより柔軟にすることで、会社の業績アップと子育て支援のバランスをうまく取っていくことが大事になってきます」と綺麗にまとめていましたが、私は心の中に得体の知れないごちゃごちゃとした暗雲を置いて行かれたような気分になり、朝から心がとっちらかってしまいました。
 
私は「こういう時はTwitterだ!」と思い、早速「#資生堂ショック」で検索したタイムラインを見ると、「資生堂ショックひでぇ!」「どうした資生堂!?」という声が連なっていました。
このように私と同じような暗雲を感じた方々がいる事で、私は自分の感じた気持ちが自分1人だけの感覚ではないことに一瞬だけ安堵しましたが、それらを読んでいるうちに、段々とこの暗雲の正体を明かしたいと思いました。
 
私の性格的にこういう「よく分からないけどモヤモヤするなんか嫌な感じ」への対策は、考えないことよりも、よく考えて噛み砕いて吐き出してみて、誰かと共感する方がマシなのです。
なので今回、私と同じように「資生堂ショックにショック!」となっている方に読んで貰って、もし出来たら共感してもらえる方がいれば、私としてはいくらかスッキリしますので、このことを書いていこうと思います。
書くのに少し時間がかかってしまったので少し今更感があるかもしれませんが、興味があれば良かったらお読み下さいませ。
 
 
私は資生堂ショックの何がショックだったのか
 
私が資生堂の今回のこの「女性社員甘やかさない宣言」を知った時の率直な感想は「こわい」でした。
それで「私は何が怖いんだろう?」とよくよく考えてみたのですが、それは簡単に言うと「時代が逆戻りしてしまう恐さ」だと思いました。
どういう事かというと、日本には沢山の企業があって、元々資生堂よりももっとずっと遥かに「女性に優しくない企業」はあります。
知人から「うちの会社の女性社員は妊娠したら辞めるって感じが暗黙の了解でー」なんて話を聞くこともいまだに珍しくありません。
ただ、そんな会社の話を聞いても私はそういう会社は「古い体質の会社」だと思いますし、そういう会社は時代の流れとともに変わるか、淘汰されて無くなっていくものだと信じてきました。
それは、現に世界的に観て「女性は家庭、男性は仕事」というような「性別で役割を区切る」という考えそのものが古いものになってきていて、時代の流れは明らかに「女性も社会進出するもの、男性も家事育児をするもの」という考えが「新常識として望ましい」という風に浸透してきていますし、日本でもその新常識を元に会社のあり方が変わってきてるな、というのを少しずつですが感じていたからです。
そしてこれまで、私にその実感をさせてくれたのが、これまでの資生堂しかり、富士フィルムしかり、そういった「女性に優しい企業に」の取り組みを実施している企業でした。
 
こういう、大企業が資金面の強みを活かして「中小企業ではなかなか資金面の問題で実行には移せないけど、理想としてはこうなりたい」という社員雇用のモデルケースを実行してみせることは、社会に対して「ウチは男女共に働きやすい会社、働きやすい社会の実現に向けて頑張ってますよ〜」というアナウンスになり、他の企業や社会全体の人々の意識を新しい常識に向けて引っ張る役目を担っていると思います。
 
これはいわば「まだ見ぬ土地へ進むためには大きくて丈夫な車が先に進み、ある程度の轍を付けることで、後に続く小さな車もそこに続いて踏み込みやすくなる作業」みたいな事で、資生堂はその先頭車両集団のトップを走っていたと私は思っていましたし、たぶん他の多くの人も思っていたと思います。
 
それが一転して突然の今回の資生堂の方針転換「甘やかさない宣言」です。
 
これは、先ほどの例えで言うならば資生堂カーが先頭から後ろの車に対して「お〜い、ここから先はこの車でも無理っぽいわ〜」と言って、先頭車両集団を抜けてしまう行為のように思えます。
 私を怖がらせているのは、このように今まで先頭車両だった資生堂が「いち抜けた〜」をすることにより、後に続く他の車も「資生堂が抜けたならオラも抜ーけた!」となっちゃわないの?という予感だと思います。
 
1度は「女性に優しく」に向かっていた大企業が「やっぱ無理だから撤回」となった事が大々的に知れ渡ることは、ただの「一会社の方向転換」という情報に留まらず「社会的な財産の損失」だとさえ私は思います。
それは、その情報が発信されたことで、古い体質の会社を構成している古い考えの人達に「ホレ、言わんこっちゃない。だから女を頭数に入れるのは間違ってるんだ。ウチは間違ってないんだ。」という風な解釈を与えかねないからです。
もしそういった解釈が今後日本のあちこちにはびこると、せっかくコツコツとここ数十年で積み上げてきた「もっと女性の社会進出がしやすい会社を作ろうね!みんなで頑張ろうね!」という空気が薄れ、昔の「やっぱ女性がうまく働く方法なんて本当は無いんじゃない?女性の本分はやっぱり家庭なんじゃない?ある程度のところで女性の社会進出は留まるのがベストなんじゃない?」という空気がいくらか戻ってきてしまう気がするんです。
それは、時代の流れのストップであり、さらに進めば逆戻りですらあります。
 
そういう「働く女性、働く女性を家族に持つ男性」が困っていた時代に日本がまた戻ってしまう予感は前進を望んでいた多くの人々の心に「不安」を宿すものです。
不安が心に宿ると、人間は将来を悲観をしがちになり、将来を悲観すると、何事へも意欲が薄れ、生産性も下がります。
つまり、色々と良くない社会につながる気がするのです。
だから私は今回の資生堂ショックを「社会的な財産の損失じゃないの?」と思うんです。
 
これを読んでいて「また、桜島さんは大げさな心配してー。資生堂1社の事が社会全体にそこまで影響を与えないでしょう。」と思う方もいると思います。
ニュースの捉え方は人それぞれですから「ふーん」で終わる方もいるでしょうし、そのように楽観的に捉える方もいるでしょう。
私だって本当はそうやって楽観的に思いたいところですし、時間が経てば後からは私もそうなれるかもしれませんが、今の所はまだショックの直後なので、こうして考えることで、私のほかにも資生堂ショックを受けてる方と気持ちを共有したいのです。すいません。
という訳で以上が私の「資生堂ショック」から生まれた心の暗雲の正体かと思います。
 
もちろん、資生堂内でも色々な話し合いがあったと思いますし、今回の決定も「一時的な苦肉の策」だと私は信じています。
しかもそれは「資生堂が女性に優しい会社」だったからこそ多くの長く働きたい女性が資生堂に集中してしまい、制度がパンクしただけなのかもしれません。
だから、今回の資生堂ショックは「資生堂が悪い」という安易な答えではなくて、他の会社の育児支援制度がなかなか進まないこと、その進まない土台がある社会も悪いんだと思います。
なのでこれ以上悪い事態にしない為には、他の会社が「資生堂ですら難しいんだから、中小企業には到底無理」という判断をしないで「資生堂がやらない分頑張らなきゃ!」と奮起して今後も働く女性の推進には力を入れ続けてもらえたら良いと思います。
 
 
「甘え」とはなんなのか?
 
さて、なんだか社会派っぽいことを書いてきましたが、私は今回の資生堂ショックを受けて他にも色々考えたことがあるので、そのことをここから書こうと思います。
 
私は「おはよう日本」の放送内で1つ妙に引っかかったことがありました。
それは、執行役員の方が語られていたDVDの中の「制度に甘えちゃってる。」という言葉でした。
これを聞いた時に私は違和感を感じ「ん?」と引っかかりました。
 
と言っても、実は私は前から時々「甘え」という言葉を聞くとなにか原因のわからない引っかかりを覚えることがありました。
しかも全部が引っかかるのではなくて、何故か「引っかかる時」と「引っかからない時」があります。
 
今回のDVDの他にも私が「なんか引っかかるぞ」と思う時の「甘え」の使用例は、例えば育児をめぐる論争なんかでよく聞く「今のママ達は周囲の優しさに甘え過ぎ」という風に使われる時です。
その他のよくある「彼ったら、いつも2人になると甘えてくるの〜」とか「下の子が生まれてから上の子が妙に反抗するようになったけど、やっぱり甘えたいのかしらね」というような時の「甘え」は、聞いても特に引っかからないです。
 
皆様は前者と後者の「甘え」の使われ方に違いを感じるたことあるでしょうか?
私は自分でその2つの「甘え」の違いがなんなのか、ずっと謎だったのですが、今回を機に考えてみたところ、原因がわかりました。
 
それは、引っかかるほうの「甘え」は、私の考える「甘えの定義とズレてる」のだと思います。
 
それがどういうものなのかを説明するのがすごく難しいのですが、今日はせっかくなので説明したいと思います。
 
まずは「甘え」についてお話するにあたり、いくつかの辞書で調べた「甘え」という言葉の意味を載せます。
1番簡略的に書いてある説明には
あまえ 【甘え】人の好意をあてにする気持ち
とあり、他の辞書にも「節度を超えた愛情や信頼を表現することをいう。」とあったので、まぁ総合すると辞書による「甘え」とは「節度を超えて人の好意をあてにすること」を指すのだと思います。
 
これは私の「甘え」の定義と同じなのですが、私の「甘え」の定義を皆様に分かって頂くために、ここからもう少し詳しく書いていきたいと思います。
 
そもそも「甘え」というのは「人が他人に頼る」というところがスタートだと思いますが、この「人が人に頼る」って、実によくあることですよね。
直接的で分かりやすいのは、他人に何かを借りたり、用事をやってもらうというような事ですが、それ以外の広い意味でも「頼る」はあると思います。
それは、私達はほとんどの人が自給自足をしているわけではないので、インフラの整った社会で生きている以上、山田孝之の言う「この世界は誰かの仕事でできている」みたいな事で、間接的に「誰かの力に頼って生きている」と言えるからです。
そしてそれは、人が「1人でなんでもやろうとする」より、得意分野ごとにやることを分担したり、互いに手を貸し合う関係の人がいた方が、なにかと双方にとって「都合がいい」から世に溢れているわけで、世の中はそういう「助け合う関係」が沢山あることでうまく回っているのだと思います。
 
で、そういった「双方にとって都合が良い場合」に「人間同士が頼り頼られすること」を、私は甘えだとは思いません。
それは「助け合い」とか「相互援助」とか、そういう名前のもので、「節度を持って」人と人とが助け合うことは、人同士が共存していく上で「良きこと」の中に含まれると私は思います。
 
では一体どこからが「良きこと」から外れて「甘え」に及んでしまう節度のボーダーラインなのでしょうか?
 
それは一見「助け合い」をしているように見える関係性の2者の「負担」の量が、実は片方にとって「同じではない」と感じる時に始まると思います。
 
分かりやすく言うと、ここにAさんとBさんという「頼り頼られする関係の2人」がいたとします。
その2人の中で互いに受け持つ負担の量が「Aさん5、Bさん5」なら対等な「頼り合い」なので問題は無いのですが、実は頼り頼られしてるうちに「Aさんの負担が7で、Bさんの負担が3」という不平等な形になってしまったとします。
そしてある時、Bさんがその「2」の不平等さに気が付いたとしましょう。
そこから先にBさんが「おっと、これは申し訳ない!Aさんの負担を2軽くせにゃいかん!」と思い、なんとかしようとするなら、Bさんは人としてマトモだと私は思います。
しかしBさんが「まぁAさんなら2くらいは余分に受け持ってくれるだろうな」と勝手に思って、2の負担を放置してAさんを頼り続けたら、Bさんはズルい人だと思います。
そのズルさが出ることが「節度を超える」であり、それが「甘え」にカウントされる行為だと私は思います。
 
では、この前提の上で次の章で、私が「これは定義からズレている」と思う「甘え」の話をします。
 
 
節度の範囲内の「頼り」は「甘え」ではないと思う
 
さて、私が引っかかる「甘え」が上の定義とズレていると感じる点は、一言で言えば「節度を超えてないんじゃね?」という事だと思います。
 
私は、さきほどのAさんとBさんの関係のような場合に「Bさんは、Aさんの2の負担の不平等さを解決し、5対5で頼り合うべき」だと思いますが、なにも「BさんはAさんに頼るな」とは思いません。
つまり「頼り合う関係性ごと否定する」必要は無いということです。
 
これは、もし世の中の多くの人がそれぞれに「人に頼ること」を「なんだか面倒くさいから、自分は他人とは無関係でいいや」と思って、関係を断ち切ってしまうと、世の中がぜんぶ個人主義の人ばかりになって、殺伐としてしまう気がするからです。
 
なので、誰かが困った時に「助けて」の声が言いやすい世の中、その声を「一旦聞く耳だけは皆が捨てない」世の中の方が、皆が暮らしやすいと思うんです。
 
しかし、時に人はその「5対5で頼り合うことを求める声」にすら「他人に5を頼るなんて甘えだ!」とまるごと跳ね返すことがあります。
私は「甘え」という言葉がそういう使われ方をする時に違和感を感じます。
つまり「助けて」の声が節度の範囲内の『頼り』だとしても「甘え」という言葉で「節度超えてるよ!」と跳ね返している場合です。
 
私は資生堂のDVDの「甘えちゃってる」は、これに当てはまると思いました。
 
なぜそう思うかというと、育児期間中の女性社員が働きやすいように時短勤務制度を設けたのは資生堂です。
それは、会社としても社員に長く働いてもらいたいし、女性が働きやすい会社であることは社会貢献にもなるし、資生堂にとってその制度を作った時は「社員に頼られていい範囲=5の範囲内」でスタートしてるはずです。
 
働く女性にしてみれば、その制度がある以上、使うのは当たり前で、そうやって「会社に5頼る」ことのお返しとして「長い期間、意欲的に働く」ことが「5対5の関係」だと思って働いていたと思います。
つまり女性社員が意欲的に働いている限り、会社と女性社員との関係は対等で、女性社員の「甘え」は発生していないと私は思います。
 
しかし今回資生堂DVDでは、制度を当たり前のように利用することを「女性社員の甘え」と言っていました。
 
という事は、会社側はいつの間にか育児女性と会社との関係が「5対5」ではなく「会社の負担の方が大きい=仕事に意欲的ではないのに制度だけは使うズルい女性社員が多くいる」という風に判断したということです。
これに関しては、私は社内の人間ではないので、果たして時短勤務制度を使う女性のうちどれだけの人の勤務態度が本当に「意欲的さに欠ける」だったのかは分かりませんが、少なくとも「勤務時間が短いこと」は制度の中で正当に決められた範囲なので「勤務時間が短いこと=意欲的ではない」と判断したのだとしたら、それは間違ってると思います。
 
そりゃあ、大勢の中には出産後に仕事がおろそかになったように見えた女性もいたのかもしれませんが、色んな女性と働いてきて私が感じたのは「意欲的でなくスキルの低い人」は未婚でも既婚子無し女性でもそうだし「意欲的でスキルの高い人」は出産後もそうでした。
だから人の持っている仕事スキルとか意欲というのは「出産」を期にそう変化するものでは無いと思いますし、「意欲的ではない」に「育児中の人だから」という因果関係は無いと思います。
なので、資生堂の多くの制度利用者は決められた勤務時間中は自分のスキルで精一杯働いていたんじゃないかな、と思います。
 
そうだとしたら、今回のように「制度を見直す必要がある事態」というのは制度利用者の落ち度が原因ではなくて、制度に落ち度があっただけだと思うんです。
なので、本当だったらこのように「5対5の節度を守っていた社員=落ち度のない相手」に対して「節度の範囲を変更する事態=こちらの負担が大きいことを告げなくてはならない事態」が起きた場合、会社側は「業績が下がってしまったので止むを得ず今までの制度よりも厳しくします。」ということを「こちらの落ち度で生じたお願い」という形でしなきゃいけなかったんじゃないかと思います。
しかし、資生堂は「甘え」という言葉で、まるで「あなた達は5のお返しが出来てないじゃん。ズルいじゃん。」という意味のDVDを産休明けの女性社員に送る方法を取りました。
 
これでは今まで、会社を信頼し制度を頼りつつ意欲的に働いていた女性社員は、びっくりぽんです。
いきなり信頼していた会社から「5の頼りをあてにしないで」と言われたら、女性社員は信じていた会社に突き放されたように感じて、信頼関係も揺らいでしまうと私は思います。
私は、会社の業績を上げるには、その会社が社員1人1人にとって「貢献したくなる会社」であることが大前提だと思いますし、それには「会社が社員を大切にしている姿勢」を常に社員に発信し続ける必要があると思いますので、なんで資生堂が「業績を上げるため」なのにこのように「社員の信頼を損ねるやり方」をとったのか理解が出来ません。
 
社内では段階的に何らかの説明会みたいなものがあったのかもしれませんが、おはよう日本の番組内でインタビューされていた女性社員はDVDを見て「本当にこれで大丈夫なのかな?という不安はすごく大きかったんですね」と話されていたので、会社に対して社員が不安を抱くやり方だったのは間違いありません。
 
なので、素人考えながら私は「資生堂はこの方向転換をもうちょっと、社員に優しいやり方でやれなかったものかな?」と思い、この放送は私にその疑問を抱かせるものでした。
 
以上のことをまとめると、私が資生堂DVDの「甘え」という言葉に引っかかったのは、「甘えじゃない範囲で会社を頼っていた女性社員」が急に会社から「甘えてること」にされてたからです。
業績不振だから制度を変える必要があったとしても、その告げ方が「育児をしながら働く女性を突き放す形」になっていたのは本当に冷たい気がしました。
そしてその冷たさが今の世相を反映している様に思えて私は悲しかったです。
 
あと、補足ですが、「甘え」という言葉の「子供が親に甘える」とか「彼氏が彼女に甘える」とかに私が引っかからない理由は、多分そういった場合の「親子」や「恋人」という関係性が「会社と社員」とか「他人と他人」のような関係性より1段階親密なもので、その関係性ならば、私は節度のラインが個々に違ったり、少し曖昧に緩いものでも良いと思ってるからです。
だから、そういう場合の「甘え」は、まぁ「その人がそう言うならそうなのね」くらいにしか思わなくて、特に引っかからないんだと思います。
 
ここまで説明が難しかったのですが、もし私と同じように「甘え」という言葉や、あの資生堂DVDに「んん?」となった方がいて、その中の1人でも「分かる!」と思ってもらえたら幸いです。
 
Twitterで言ったことの補足
 
さて、私は番組を見た後に、それを受けて「出産と働き方」にまつわる思いが止まらなかったので、Twitterで感想を書きなぐりました。
その反響が思ったよりあったのですが、その反響を受けて補足したいことをツイートに書くのが大変だったので今回ここに書いていきたいと思います。
 
では、とりあえず以下に私の一連のツイートを載せます。
 

と、まぁこんな感じなのですが、この中で特に反響というか「批判の声らしきもの」があったツイートは7番目のツイートで、恐らくその中の
「産まないが1番生きやすい社会」って、つまり「男性が生きやすい社会」ってことだかんね。
というところだと思います。
これは自分でも書いた後「誤解が生じるかな?」というか、言葉足らずな発言だったかなと思ったのですが、案の定、今の世の中を「男が生きやすい世界じゃねーよ」と思ってる人にとっては不快に感じられてしまったようで、少し批判的な声がありました。
なので、このツイートの真意をちょっと補足したいと思います。
 
私が「男性が生きやすい社会」と書いたのは、何も単純に「今の世の中、男ばっかりラクしてるよね」という意味ではありません。
今の社会は男性も男性なりに「男=仕事に生きるべき」とか「男なら泣くな!」みたいに、昔ながらの「男たるものこうであれ」という価値観を押し付けられて苦労している声はよく聞きます。
なので、けしてすべての場面に置いて「男がいつも得してる」とは私も思いません。
 
ですが、これまで私は色んな男女と話してきて、どうも【人生の中で「子供を産むこと」と「働くということ」にどう折り合いをつけていくか?】に限定して語る時、その深刻度は男女で差があるように感じていました。
 
なぜそう感じるかというと、私も含め、私の周りの多くの女性は個人差はあれど、年頃になると「私は産むの?産まないの?産むならいつがいいの?」を自分の中で自問自答したり、会社や他人から問われたりつつ生きています。
そして選択の結果、その女性に産む意思が固まったとしても、その先、出産予定と自分の仕事の都合と折り合いを付けるのはその女性自身が悪戦苦闘して確保しなければ難しい状況で、産んだら当然「育児」の問題が出てくるわけですが、これも直接苦労してやりくりしているのはほとんど女性だけのような気がします。
(男性側が育児しやすいシステムが全然無く、女性側の育児支援制度の利用ですら「甘え」扱いされる世の中のですから)
 
しかし、女性がこのように苦悩する中、周りの既婚者男性や将来を見据えた彼女がいる男性に話を聞くと、彼らはそれなりに多少「俺達は子供どうするかなー」くらいは考えることがあるようなのですが、それでも最終的には「パートナーの女性の希望でなんとかするだろう」とか「出来たら出来たでなんとかなる」というところに留まり、実際育児の為に仕事を犠牲にしているのは奥さんばかりなので、そこについての考えの掘り下げ具合は女性に比べて「人任せ」で、楽観的な人の方が多いのです。
 
だから、男性なりに「生きにくさ」が色々あるこの現代でも、やはり多くの男性には女性特有の「産むべきか産まざるべきか、産んだらどう育てるか」という悩みは自分の問題として付きまとっていないのかな、と思えます。
さらに、それは特に「いけないこと」ではなく「それが当たり前でしょ」という社会の空気も感じます。
 
上のツイートの「産まないが生きやすい世の中=男性が生きやすい世の中」というのは、今の世の中は「男性のように出産育児と切り離されることが出来れば、仕事するにはラクな世の中」だろうね。ということと、さらにそんな『男性だけが仕事をしやすい世の中』のままだったら、仕事を持つ女性が、男性と同じように産まない生き方を選ぶのは当たり前じゃん。ということが言いたかったのです。
 
もちろん男性の中には少数ですがしっかり育児に励む方もいますし、ちゃんと自分の問題としてパートナー女性との間に子供を設けることと真剣に向き合っている方もいると思います。
だから全ての男性を批判してるわけでもないですし、私はなにも「女性に比べて深刻度が足りない男性」を攻撃したいわけでもありません。
 
それは、私はたまたま女性だったから出産や育児について考える機会が多かっただけで、「もし自分が男性だったら?」と考えると、もともと人生の中で出産という仕事が初めから免除されているので「俺は産むの?産まないの?産むならいつにするの?」を真剣に自問自答したり、周りにも聞かれないかもしれないと思いました。
だから「男性がそういうことへの考えが浅くても仕方ない環境に居る」のは理解できるので「攻撃するほどの悪さではない」と思うんです。
 
でも、たとえそこに悪意が無くとも、世の中の多くの男性が発する「出産育児関係の事は女がなんとかしてくれ」という空気が、多くの女性にとってすごく重荷なので、
「攻撃」はしませんが、「お願い」はしたいと思います。
昔の名残で、世の中に「男性=仕事、女性=出産や育児関連」「出産育児関連のことは女性の問題」とする空気が残る環境なのは分かりますが、ぼちぼち1人1人の頭からその古い概念を取り払って「出産育児関連のことを男女で同じくらい考える問題」という認識が広まった環境になったほうがいいと思うんです。
 

そして、その為に私は「特に悪意はないけどただ機会が無かったから考えなかっただけ」の男性にも気が付いてもらえればいいなの「お願い」を込めてそのツイートは書きました。

男性の中にはこれを読んで「そこまで考えてなかったなぁ、今後は考えてみよう」と素直に思う人もいるでしょうし、頑なに「子供は女が産むんだから出産育児関連のことは女がなんとかしろよ、知るかよ」と思う人もいると思います。
 
私は、後者のような男性は、ちょっとお手上げなのですが、前者のような無自覚に「昔からそういうものだから」で、あまり考えずに来た男性の中には「そういうもの」で、苦労してる女性の立場からの声を聞けば「ああ、重かったんだ。なんとかせにゃ。」と気がつく人もいると信じて、こういうことを書いてます。
 
そういう訳で、ツイートが誤解を招きやすい書き方だったのはお詫びしますが、根底にはそういう考えがあるというのはここで補足説明しておきます。
ツイートやこの文章を読んで、これまでより「出産育児関連にまつわる諸々の苦悩」に女性と同じように深く向き合ってくれる男性が増えたら嬉しいです。
 
 
政府の言う「女性活躍」が不愉快
 
さて、そんなわけで話が段々とそっち方面に及んだので「少子化」についての話も書いておこうと思います。
 
私は今、少子化が進んでいるのは当然の事だと思います。
なにしろ、ほとんどの女性のやることが「家庭で子供を産んで育てるだけ」だった時代から変わり、仕事を持つようになったので「産むと自分の仕事を犠牲にしないといけなくなる。」と悩むのが当たり前で、その結果「産まない人生=男性になりきった人生なら仕事はしやすい」という答えを出す人が増えたから、昔の「みんな産む時代」よりは減るのは当たり前です。
 
しかし、確かに私も少子化はなんとかしないといけない問題だとは思います。
でも、それには「女性の意識改革」に躍起になるのではなくて、まず「産まない方が働きやすくて生きやすい社会」を変えなくてはならなくて、それには、先ほど書いたように男女両方が「出産育児にまつわる責任」を「男女で均等に分け合うもの」という常識が人々の中に根付く必要があると思います。
 
しかし、世の中には「少子化」と聞くとまるで「女性が自分1人の生活を謳歌したいがためにワガママで産まなくなってるのが1番の原因だ!」という風に「女性だけの意識の問題」だと思ってる男性や年配の女性が実に多いです。
私は先ほども書きましたが、このように「少子化」とか「女性の働き方」の話題を「あ、ここは自分のノータッチなゾーンね」と無関係な立場になろうとする人の空気が減らないと本当に少子化はどうにもならないと思います。
 
なので私は、ここのところ政府がやたら「女性の活躍」や「女性も戦力に」と言っていることが、とても不愉快なのです。
その不愉快さは、そのスローガンが「産む問題を抱えた人ゾーン」の外側から「女性も家庭でくすぶってないで経済活動に参加しなさい」と他人事のように言っているニュアンスが感じられるところにあります。
 
確かに男性政治家目線で見れば女性が「妊娠、出産」で仕事から離れることは、経済活動的には一時離脱であり、戦力外かもしれません。
でも、その妊娠出産期間を多くの女性が自分の人生から排除すると、今度は世の中に子供が居なくなってしまいます。
だから「産む前後」の女性は経済活動的には戦力外だとしても、少子化食い止め活動の主戦力なわけです。
それは、けして「家庭でくすぶってる」ではないと思うんです。
 
でも、女性がそっちほうの戦力になろうとすると会社は「女は子供を産むから雇用したくない」と迷惑がるし、政府は「女性も社会で活躍を!」と言って仕事をしない女性を「怠け者」扱いするし、一体どうしろって言うんでしょう。
 
男性に背負わすものは昔通りに『仕事』だけのままなのに、女性にはこれまでの『出産、育児』に加えて『仕事』をそのままプラスして背負わせようとする今の政府の動きは「ただ女性をこき使いたいだけ」のように私は思います。
 
私は、時代が進むことで過去の社会の
    男性=仕事 
    女性=出産育児家事
という図式が、
   男性=仕事育児家事
   女性=仕事出産育児家事
になるならいいと思うんです。
 
まぁ、希望としては男性にも「出産」が受け持てれば本当にフェアでいいのですが、出産だけはまだ男性に行えない役割なのでそれは仕方ないとして、でもそれ以外の「育児と家事」の役割分担は、女性が仕事を受け持つようになる以上、男性も同じように新たに分担を受け持つ必要があると思います。
つまり「出産する女性が働きやすい社会作り=男性が家事育児で活躍しやすい社会作り」であり「女性の社会進出」と「男性の家庭進出」は同時進行で促進するべきだと思うんです。
 
でも今の政府の理想としてる図式は
   男性=仕事
   女性=仕事出産育児家事
のように思えます。
 
なんせ「女性の活躍」ばかり言って男性に向けてのアナウンスを何もしてないのですから。
政府の言うことは「女性の活躍を!女性は戦力に!」だったり、「出生率の向上に向けて学生のうちから女性としての自覚を持つ授業を!」みたいに「女よ、もっと頑張れ!」というメッセージばかりです。
そんなに「女は働け、女は産め」と言われても「女の身体は1人2体無いんだよ!」って感じです。
 
1人1体しかない女性の身体を「出産、仕事」の両方に使わせたいなら、せめてそれぞれの事を女性がしやすいように環境を整えて下さいな、と思います。
だから、政府は女性に向けて「社会で活躍」を呼びかけるなら、同じだけ男性に向けて「育児家事に活躍」を呼びかけて、男性の育児支援制度が整った会社を増やすようにして欲しいのです。
 
そうやって「産んだ後の協力体制は整ってるから安心して産みなよ」という空気が政府からも、社会の男性からもたくさん感じられる社会であることが、少子化対策には最も必要なことだと思います。
 
そして、世の中にまだ沢山いる「男の癖にカミさんに育児も任せられないのか」とか言って、せっかく現れ出した育児を積極的にやる男性を批判するような古い価値観の人が、そういうことを言わない社会になることを私は願ってます。
少子化について私が思うのはそんなところです。
 
最後に
 
さて、今日はなんだかお固めの漢字が多い話を長々書いてきて読んでる方も疲れたかと思います。
でももういっちょ今日は前半で「甘え」について書いたので、前々から書きたかった事が1つあるので最後に書いておきたいと思います。長くてほんとすいません。
 
それは「ベビーカーを使い電車で外出するママさん批判」についてです。
 
ベビーカーママさんは、巷でよく迷惑がられ、ネットでもテレビでも時々「ベビーカー論争」というのが巻き起こるの見ることがあります。
そんな論争の中には必ず「私の頃はそんな道具もなくて、周りの人も子育てに協力的じゃなかったから全部1人でやったのよ。今の母親は周りの優しさに甘え過ぎよ。」というどこかのオバサマの声があります。(この「甘え」も定義ズレの使い方ですね)
こういう意見に対して私は「そりゃあ大変でしたね」と思いますが、その「大変だった過去」と、そのオバサマがベビーカーママさんに「厳しくしたい理由」は別物だと思います。
なぜならいくら自分が子育て中に大変だったとしても、ベビーカーママさんに優しく出来るオバサマもいるのですから「自分が大変だったから厳しくしたい」というのは「厳しくする」の正当な理由にはならないと思うからです。
 
こういうオバサマに限らず、ベビーカーママさんに厳しくしたい人は時々います。
私が思うに多分そういう人って、単純にベビーカーママさんに対して「なんらかの気に入らない要素」を感じているんだと思います。
母親なのに化粧が濃いとか、ヒールを履いてるとか、ベビーカー連れなのに態度がデカいとか、そういう「気に入らない要素」があるから、優しくしたくないんだと思うんですよ。
でもそれをそのまま口にすると、自分が他者の態度に厳しく「心の狭い人間」だと言っているように聞こえてしまうから「ママさんが甘えててダメ」という言い方をすることで、自分が優しくしない理由を「ママさんの甘えという落ち度」にすり替えているんじゃないかと思うんです。
 
でも、世のベビーカーママさんは、そんなに電車に乗る時に化粧を薄く、ペタンコ靴を履き、周囲にぺこぺこしないと「甘えてて、落ち度がある」んでしょうか?
 
私は「そんなことはない」と思います。
服装に関しては個人の自由ですから、そこは当然どんな格好でも「落ち度」ではないと思いますし「態度」についても「ぺこぺこしない」ことが落ち度とは思いません。
 
これについて、なぜそう思うか説明しますと、そもそも「普通に1人で電車に乗る大人」と「ベビーカーで赤ん坊を連れて電車に乗るママさん」の何が違うのか?というのを「何を頼って電車に乗っている」のかという視点で考えればわかります。
 
その2者の違いは、普通の大人は「何にも頼らずに電車に乗っている」ですが、ベビーカーママさんは「ベビーカー1つ分大きなスペースを使い、周囲の人に赤ん坊の声がうるさくても我慢してもらう優しさを周囲に頼っている。」というところです。
 
でも私はそれが「5」の節度を超えた「頼る」だとは思いません。
ママさんが当たり前に周囲に「頼っていい、頼るべき範囲内」だと思います。
 
なぜなら「私が今していない育児という仕事をそのママさんがしてくれている」と思うからです。
 
それはつまり、そのママさんの育てた子がいずれ私の老後に私のオムツを替えてくれるヘルパーになるかもしれませんし、私が着る服を作る縫製工場に勤めるかもしれませんし、さらに想像を膨らませると、その子が画家になったら、その絵が老後の私の楽しみになるかもしれないし、つまり、赤ん坊である時点で将来の可能性が無限なので、将来どういう形で自分と関わるかも分からないわけです。
だから現時点での赤ん坊は、「将来そうやってなんらかの形で自分が頼る人になるかもしれない。と思えば、どの赤ん坊も「他人の子で自分とは無関係」ではないと私は思うんです。
 
私は将来その赤ん坊の作る社会で自分が「周りに5頼りつつ生きる予想」があるから今、その子を育ててくれてりママさん達に「5頼られる」ことは相互援助関係で、フェアなことだと思います。
だからあえてぺこぺこされなくても私は「どうぞ頼って下さい」と思うんです。
 
ですがベビーカー連れのママさんをやたら目の敵にする人はその「頼り」を「甘え」としているので、自分はこの「周囲の優しい人要員」ではないと表現しているのです。
私はそれは「5対5の相互支援関の拒絶」だと思います。
 
彼らは、目の前の泣く赤ん坊、泣き止ませられない母親、ベビーカーの存在、それら全てに「目の前から消えてくれ」と言わんばかりの視線をぶつけます。
赤ん坊やママさんに「目の前から消えて欲しい」という視線を送ることは「こちらを頼るな」というメッセージです。
それはママさんと自分の「たまたま電車に乗り合わせたという関係性」の中で「自分は5の範囲内ですら頼りを受け持ちたくない」という意思表示だと思います。
彼らは目の前の他人の赤ん坊及びその代行者であるママさんのことを「自分とは無関係」と思っているから「頼られる筋合いは無い」と思っているのかもしれません。
ですが、自分がその赤ん坊の将来作る社会とも無関係だとなぜ言えるのでしょうか?
 
自分がいくつまで生きるつもりなのか知りませんが、赤ん坊やその代行者であるママさんを今は邪険にしておいて将来はその赤ん坊の作る社会をちゃっかり頼って生きるんですよね?
私はそっちのほうがよっぽど赤ん坊への「甘え」でズルいと思います。
 
しかもそういう人が世の中に増え続けるのを見ていたら、誰も子供を産む気が失せてしまう気がします。
そんな「こっちを助けてくれないのに、将来は助けてあげなきゃいけない大人」がうじゃうじゃいる社会に、自分の分身を残したいと思わなくなりますもん。
少子化って、こういう事も原因の1つで進んでるんじゃないかな?と私は思います。
 
私は電車で見かけるママさんが必要以上にぺこぺこしてるのを見ると本当にいたたまれなくなります。
将来を担う赤ん坊を今育ててくれてるママさんが、なぜそんなに周囲にぺこぺこしないといけない社会なんだろう?と思います。
会社で育休を貰うにも、電車に乗るにもぺこぺこしなきゃ「甘えてる」と言われるなんて、日本は「母親という仕事をしている人」に本当に優しくない国だと思います。
 
私は育児をしていませんが、育児をしている人に感謝しないといけないと思うし、育児をしている人の大変さは社会全体でフォローするべきだと思います。
 
フォローとは「街で接する人が冷たくしない」というのと「社会のインフラが女性だけに育児家事を押し付けなくて済む形になる」という2つのやり方があって、そのどちらのフォローも今より進むことを私は願ってます。
 
最後の最後ですが、私は最近になってTwitter越しに育児をしっかり女性と同様にやっている少数派の男性の存在を知り感動する、ということがありました。
こういう男性の存在を知ることで私は本当に希望が持てたのですが、同時に彼らのツイートから「男性で育児をするに当たり社会に感じる不満や悩み」も知ると、彼らは男性の中では少数派な分、ある意味では育児する女性よりも世間の風当たりが強い部分があるのだなと知りました。
 私は彼らのような男性が増えやすい社会になって、今の努力が報われる時代が来ることも願っています。

 
 
長くなりましたが、最後までお読みいただいてありがとうございます。
お疲れ様でした。
ではまた。

 

タイトルをつけるほどでもない駄文

 

 

私の文章は長いらしい。
なにしろ私がはてなブログを始めて1番多い感想が「長い」だ。
これに対し、自分ではもっと長い文章のブログもよく読むし、自分なりにいつも削りに削っての長さなので「そんなに長いかなぁ」と思うのだけど、まぁ人それぞれ「ブログたるもの何千字以内がほどよい」というモノサシがあるのだろうし、長く感じる人には長いんだろうなぁと思っている。

ところで今日私が「ですます調」ではないのにお気づきだろうか。
私は普段ブログの文章をほとんど「ですます調」で書くことにしている。
これは、私はとかく読む人に向けて「説明」をするような話を書く傾向があるので「不特定多数の人に向けて何かを説明するのにタメ口は失礼だろう」という頭が自然と働きそうなっているのだけど、今回は特に説明することもなく、主張したいこともなくただダラダラなんか書いてみようという試みなので、あえてかしこまった「ですます調」を取り払い「である調」で書いてみたのである。

不思議なもので、私はふだんtwitterでは基本「ですます調」ではないのだけど、こうしてブログ編集画面で「ですます調」ではないのは非常にやりにくい、書きにくい。
なんだか、何を書いても偉そうにみえるというか、脳科学者か何かが自分に乗り移って書かされてるような変な気分になってくる。
これは新たな発見だ。
媒体が違うだけで、なぜ文体の変化に違和感を感じるのか謎だけども、そこは深く考えずに私は初志貫徹がわりと好きなので今回は頑張って「である調」で書き切ろうと思う。

さて、なんで今日はダラダラと書こうかと思ったかというと、一言で言うと「怖くなったから」だ。
何が「怖くなった」のかと言うとまず、この頃はてなブログになにか書くとおかげさまで、当初の私の予想をはるかに超える人数の方々に読んでもらえるようになった。
それはとても嬉しいのだけど、このままの調子でいくと私は浅ましい人間なので「読む人が多くなりそうな内容を」という心境が働き、どんどん書く内容に自分で制限を加えてしまいそうなのだ。

こんな事を書くと「誰もお前の書くものなんかに期待してねーよ」と言われるかもしれない。
確かにそれはそうなのだけど、私はこの頃なんとなく「女性差別を訴える的な事を書く人」と思われてる気が少していて、私のブログを読みに来てくれる方は主にそういう文章を読むことが目的なんじゃないかと思う事が増えたのだ。

というのも、twitterで私に「何かのリストに加えられましたよ」という通知が来るとたいてい「フェミの人」とか「ジェンダー」とかそういうリストなのだ。
この通知を見ると私は、世の中のそういう事を訴えてしっかり運動している方の端くれに私が追加されたということなのか?と思い、ありがたい反面「私なんかが…」という申し訳ない気持ちになる。

話は逸れるが良い機会なので書くと、正直、私は自分で自分がフェミ二ストなのか分からない。
そもそも横文字に疎いので、「桜島さんのようなフェミ二ストが増えればいい」と言われたとしても「フェミ二スト」というのの実態がどういうもので、何をもってしてそう名付けられるのかが分からずにいるので、素直に「フェミ二ストとして褒められる」事を受け入れることに今は慣れてないのだ。
私はただ、普段暮らしていて思った事をブログに書いてたら、それが女性の立場で「女性性の押し付けを嫌う訴え」だったり「一部の男尊女卑的考えの人への文句だったり」する内容のものが多くなっていて、それでいつの間にかその位置付けをしてくれる人が居たというだけで、自分では書きながらそれが「フェミ二ストとしての訴え」というつもりが無かったので、それに驚いたという感じだ。

もちろん、私が誰かに「あなたは立派なフェミ二ストですよ!」と言われたらそれは「そうなのかー」と思う。けして「私はフェミ二ストじゃない」と反発する気は無い。
逆に「あなたはフェミニズムをっちとも分かっちゃいない」と言われたらそれも「そうかもなぁ」と思う。

しかし、そういうリストに加えられるようになった今日この頃、それなら私もそれなりにフェミニズムを勉強しないといけないのかな、と思うようにはなってきた。なので、そこは私のこれからの課題だと思う。

「怖さ」の話に戻すと、つまり要約すると私は「私の書くものを毎回『女性差別うんぬん、一部の男性批判うんぬんの話だろう』という期待だけで読まれるようになったら、ちょっと怖いなと思っている。

もちろん「面白い何かが書いてあるはず」と期待されるのはかなり嬉しい。
でも、どうも私は「社会における女性差別うんぬん」を書くための経験のストックがそれなりにあるほうの人間で、そういうのを考えたり書いたりするほうが頭が冴え、文章に熱が宿り、熱が宿ると、そういう文章は沢山読まれ易い。
いわば「そういう文章を読みたい人が私のところに集まる&私はそういう文章を書きたくて書いてる人」状態なので需要と供給が合っているんだけど、それが合い過ぎていると怖くなることがあって、1つは近頃ブログを書こうとする時に「そういうテーマで次も書こう」と勝手に「自分でテーマを狭めてる自分」が怖いのだ。

「なにが怖いの?別に自分が書きたいなら同じテーマばかりでもいいんじゃ?」と思う人もいるだろうけど、私が思うに、趣味ブログとか何かのライフハックブログみたいなのはテーマが一貫していても差し支えないけど、私のような「女性差別うんぬん」の話だと少し違う気がする。
それはどういうことかと言うと、あまりにも私のブログ一覧が「そういう事関連の話」ばかりになると、初めて私の書いたものを読みに来た人が「なるほど、この人はいつもこういう話を書いてる。つまりこれはジェンダー意識が相当高い女性が書いたものだ。」と思われてしまうと思う。私が1番怖いのはそれなのだ。

私の1番怖いのは、私の文章を読んだ人に「まぁこの人は特別にジェンダー意識を強く持って生活してるからさ、こんな事まで考えてるけど、世の中の普通の女は、こんな事まで考えてないでしょ。」というふうに「普通の女」と「そうでない女」に分けられ「そうでない女の話」に思われてしまうことなのだ。

私のブログタイトルは「限りなく透明に近いふつう」である。
これはお分かりの方も多いと思うが、作家村上龍のデビュー作「限りなく透明に近いブルー」のもじりだ。
最後が「ふつう」なのは、ただの言葉遊びではなくて、実は私がいたって「ふつうに暮らしてる人間」だという主張がちょいと含まれている。
さらには、読む人に「あなたの隣にいる一見普通の女がこれを書いてる可能性」を少し意識して欲しいという願いもあった。

だから、私の文章を読みに来た人に、私の事を「毎日ジェンダー関連の本を読みあさり、そういう運動に参加して『女性の人権をー!』と声を上げて、男性とそこらで喧嘩して暮らす田嶋陽子的な人物」を想像されると困るのだ。田嶋陽子扱いが嫌なのではない。
「こういうことに声を上げるのはどうせ田嶋陽子的な女だろう」という決め付けをされるのが嫌なのだ。

私は確かに男性が読んで耳の痛い話を書きがちだ。
それでも私は普段ふつうに暮らしている。
男性ばかりのエレベーターに乗ってしまいなんとなくボタンを押す係に任命されてもそこで「女性がみんなエレベーターガールでは無いんですよ!」と主張するわけでもなく、ボタンを押す。
男性社員に「お茶ちょうだい」と言われれば「女はお茶汲み係じゃないよ!」と反発する事もなく、まぁ自分も飲みたかったら同僚のよしみで「はいよ」と2人分淹れてあげたりもしていた。
つまり、私は普段から周りの男性に文句を付けたりバチバチやりあってる人間ではない、一見したらふつうのその辺の女だ。
だから、私の文章を読んだ人の中の「耳の痛くなった男性」が「こういううるさい女もいるみたいだけど、俺の周りの普通の女はもっと素直だし、俺らの事を受け入れて暮らしてるもんね〜。」と思うのは間違いなのだ。
私は決して「異質な女」ではなく、あなたがエレベーターに乗った時におとなしくボタンを押してくれた「その辺の素直な女」にあなたがカウントしてるほうの女だ。

もちろん「読む人の心構え」を強制はできないのだけど、なるべく「どこかのうるさい女の話」ではなく「自分の身近な話」だと思って読んで欲しい。

私がいつも一部の男性へ批判的な事を書いて、ピンと来てくれるのは主に女性で「ピンと来る」というのはつまり女性の多くはわりとすんなり「本当にこういうことあるある」と思ってくれてるっぽい手応えがあるのだ。

それは私の書くことが比較的「女の人のほうが被害を受けやすい出来事」だからだと思う。「された身」だから「身に覚えのある話」としてその辺の普通に起きる出来事として捉えてくれてるように思う。


でも男性の中には自分がそういう批判対象の男性像と違えば「桜島さんの周りには酷い男がいるもんだ。」と、他人事というか、どこか違う世界の話に思われている事が多い気がする。
でも痴漢しかり、セクハラしかり、性差別しかり、目立ったものではない水面下の悪事は、された本人しか察知出来ず(した方すら無意識のこともあるからね)ましてまっとうな男性のような外野が日常生活を送っているその「ま隣」で起きていても、気が付かれなかったりする。
だから私が書く「女で生きててこんな目に遭いました話」は、身に覚えのない男性にとっては「女の人も大変だなぁ、かわいそうだなぁ、でも痴漢もセクハラも性差別もどこでそういうの起きてるんだろうなぁ」という、私にとっては「女性に比べてピンと来てはいない感想」に感じる。

そもそも私が女性うんぬんを書く理由は1つは、自分とおなじ目に遭った、遭ってる女の人に「我慢しないで」欲しいから。
嫌なことをされたのを、心の中で無かったことにして一人で耐えないで、「嫌だったら怒る」という選択肢もあるんだよ、と言いたいから。


2つ目の理由は悪事をせずにまっとうに生きてる男性に「ま隣」の悪事に気づいて欲しいから。
ちょっと前に、現実の知り合いの知人男性の中で優しい人が私に「俺も性差別とか許せない」「言ってることよくわかるよ」と言ってくれたことがあった。
でもそういう人でさえ、「自分が攻撃される立場」じゃないせいか、アンテナがすこし鈍いように思えた。
それはどうしてそう思ったかというと、その知人男性と電車に乗っている時に、目の前でどこかの上司らしき男性が若い部下の女子に「なんだ今日、彼氏の家から来たのか?じゃあ昨夜はお泊まりか?」という質問をしていたんだけど、私はこの上司の質問をすぐ「セクハラだなぁ」と思ったけどその知人はきょとんとして後から話しても「あれはただ聞いただけでしょ?」ということを言っていた。
これがアンテナの感度の差というか、私が「アンテナの強いうるさい細かい女」だから感じて、知人男性はアンテナが鈍いから「何事も起きてない」にカウントしているという状態で、これが日本のどこかしこでも起きてるから、いま男女でセクハラとか性差別の話が噛み合わないんじゃないかと思う。
だから、私はまっとうな男性に実例を読んでもらうことで、ちょっとアンテナが鋭くなると助かる、と思う。
私の書く話を、どこか違う世界の話ではなく、あなたの隣にいる友達が、同僚が、上司が、「もしかしたら桜島にこういうことを思わせた人かもしれない」と思って受け取って欲しい。

まっとうな男性ですでにアンテナ感度ビンビンの人もすでにいると思うけど、もっと増えてほしい。
そういう一部の「悪事を働く男性」は、女性にとってだけでなく、まっとうな男性にとっても迷惑な存在だと思うから。

 

というわけで、私が「特殊ではないふつうの女」だとなるべく思ってもらうためには、私の記事一覧は時に「飼っていた犬の話」や「最近行ったカフェの話」とか混ぜ込む必要があると思ったのだ。
でも、見返すと最近は立て続けに女性うんぬんのことを書いてるし、自分で勝手にテーマを絞ってるような気がして、今回はそんな自分を戒める為に「一回適当なことを書いてお茶を濁す必要がある」と思って、こんな感じの駄文を書いてみているのである。

面倒くさい。面倒くさい人間だ。私は本当に自分で嫌になるくらい自分が面倒くさい。でも仕方ない。
今この段階で5,000文字を超えた。もう「長い」だろう。
でも私の筆が乗るのはだいたい6000文字超えた辺りからだから、自分ではまだまだ全然書き足りない。
今回、「長くない」のを書こうという試みもしていたのだけど、5,000文字でこんなに満足出来ないとは思わなんだ。なので、8,000文字くらいまでは書くと思う。
ちなみに今回は推敲もしていない。自分への「戒めの為」だからだ。
「ちゃんとしたものだけを世に出したい」なんていう望みは捨てると、7月に決心したのに、いつの間にか読者が増えたらまた「ちゃんとしたもの」を書こうとしてる自分が嫌だ。
だから「ちゃんと推敲した文章じゃないのを書いて出してやれ!ざまーみろ自分!」という気持ちで今回は公開する。
それに付き合ってここまで読んでくれてる人がいたら謝りたい。すいません。こんな駄文に付き合わせてごめんなさい。情緒不安定か。

 

さて、ここからはお茶を濁すのが目的なので、思いついたことを書くとする。
私が前回書いた高校時代から20歳までバイトしていた先の店長のことだ。
彼の愚痴を書く。

ある時、彼は店を数日休んで旅行に行った。
どこだかは忘れたけど、とにかく彼はアルバイト全員にお土産を買ってきた。
その店のアルバイトは男子が5人くらいで、女子が8人くらいいた。
いずれも高校生から大学生、フリーターという若い面々だ。私は19歳くらいだったと思う。
彼は誇らしげに土産袋を開けると、お土産を配った。
その日いたバイトのメンバーは確か男子が2人、女子が3、4人くらいだったのだけど、女子へのお土産は全員、ご当地キティちゃんのキーホルダーだった。
私はキティちゃんが好きではない。
というか幼少の頃からあらゆるキャラクターものに一切の興味が無い。
だから全く嬉しく無かった。
他の女の子はきゃあきゃあと喜んだ。
彼女達も本心から嬉しかったのかは定かでは無いが、マナーだとしてもとにかく「嬉しそうに」していた。
でも私はなんだかその日ムシの居所が悪かったのかもしれないけど、全然「ふーん」という感じを隠さず露骨に出していた。
店長の彼はその時はあまり私の様子を気にせず、次に男子にお土産を配った。
男子へのお土産はビーフジャーキーと貝ひもだった。
店長は「2人で好きな方取れよ」と言って男子は「俺貝ひも〜」「じゃ、俺ジャーキー頂きます」と言ってそれぞれを手にした。

悔しかった。
私はビーフジャーキーが好きだ。口に入れるとはじめは硬いボール紙みたいな異物感なのに、噛むほどに柔らかくなって肉の味が滲み出て美味しいところが大好きだ。
私は女子だから貝ひもとビーフジャーキーを選択する余地すら与えられず、無条件でご当地キティちゃんを手にしなきゃならないことが悔しかった。
店長は旅先でお土産を選ぶ時になんで「女子はキティ、男子は何かしょっぱいお菓子系」と思ったんだろう。
これが「女子はキティ、男子は武田信玄のキーホルダー」とかなら、百歩譲ってわかる。
もしくは「ビーフジャーキーか貝ひもを全員の人数分」なら全然わかる。
選ぶのが面倒だったんだな、と思うことも出来る。
でも「女子はキティちゃんで男子はキティちゃんは嫌だろうから何か食べ物」と、男女で分けたところが、何故かその時は猛烈に悔しかった。

私が「ふーん」という顔をしていたら店長は「桜島は嬉しくなさそうだな」と、言った。
私は今ならマナーとして「貰ったものに不平を表さない」くらいのことは出来る。
でも、その頃は子供だった。
そして日頃の彼への不満もあったかもしらない。
気がついたら「私もジャーキーが良かったですよ」と言っていた。
彼は「なんだよ、お前キティちゃん嫌いなのか、可愛くないな笑」と鼻で笑った。
そして「社会に出たらな、こういう時は素直にありがとうと喜んで見せないと、可愛がられないぞ。こいつらを見ろ(喜んでる他の女子を指して)こういうのが男は嬉しいんだ。」と言った。

私は「ビーフジャーキーだったら素直に喜んだのになぁ」と思った。
あと、もう1つ思ったのは、
彼は普段バイトの女子がブランド物の話をしていると、(その頃、私以外の女子はブランド物の財布とかカバンに目がない子が多かった)
「お前ら、ブランド物なんてみんなが欲しがるから欲しいだけだろ?本当にアレを好きなのか?お前らの年でああいうもんが似合うと思うか?今からブランド物なんて追いかけてたらバカ女になるぞ」というような説教をしていたのだけど、その話と「女ならキティを喜ぶもの」と勝手に決めつけてるのは矛盾してるような気がした。
今思うと、お土産に不満気だったのは確かに私がとても悪い。

でも、彼の怒りは「お土産を喜んで見せないマナーの悪さ」に対してというよりも、自分が「女子はみんなキティちゃんやれば喜ぶだろうな」と読んだのに、私という女子の1人がその思惑から外れた事に怒っているように感じた。
彼は女子の「軒並みブランド物を欲しがる特性」は批判するのに女子に「軒並みキティちゃんを喜ぶ特性」は求めてるんだ、と思った。
それが矛盾に思えた。

この話にオチはない。
なんでこの話を書いたかと言うと、今私はガソリンスタンド併設のドトールでこの文章を書いていて、店に入る前に給油をしたらドトールの店員であるおじさんが走ってきて、私になんとかカードの入会を勧めてきたくだりが関係している。

おじさんにカードを勧められた私が即答で「いやぁいりません」と断ったら、おじさんは「ウーン…」と悩んで見せて、その後「じゃっ、今ならキティちゃんの貯金箱あげますよ!」と満面の笑みで言った。
その言い方は「これでどうだ!」みたいな「これならいいでしょ!」みたいな、さもキティちゃんの貯金箱が良いもので、「これなら落ちる!」と確信しているかのような言い方だった。

そして私が「いや…そんなに欲しくないですね…はい」と言ったらおじさんは「えっ?なんで?この世にキティちゃんでグラつかないおなごがいるとは…!」みたいな顔で「そうですか?非売品なんですよ?本当に?」と言った。

私が「すいません、いりません」と断るとおじさんはさらに「じゃあ特別にキティちゃんのボックスティッシュも付けますよ」と言ってきて、「そういうことではない…」と思ったけど、また断ったらさすがにおじさんは諦めた。

それで店に入ってから私は「なんか前にもこんなような事あったな…」と思ってたら、バイト先のことを思い出したので書いたまでだ。

おじさんにとってそれまで「女性客へのキティちゃんアピール効果は絶大」だったんだろう。
みんないい女の人で「えっ、キティちゃんの貯金箱?わー欲し〜い!うーん、それならカード作ろうかしら〜」くらいのリアクションを本心か小芝居かで、してくれたのかもしれない。
でも、私は出来ないよ…。
欲しくないもん、キティちゃんの貯金箱…。
後ろ頭に横長の穴の空いたキティちゃん状の置き物を持って帰るのは、カードを作る面倒がチャラになるご褒美どころか、不用品回収だもん…。
おじさんの仕事っぷりに敬意を払い「そんなガラクタ貰っても困る〜」と本心は言わなかっただけで、素直に引き下がって欲しかった。
まさかキティ度数を上げるべくキティティッシュを付けようとしてくれるとは…。

それでも私は「気にしい」なので、今さっきおじさんの期待通りのリアクションをしてあげなかった事をちょっと不親切だったかな、と反省している。
でも、私がキティを欲しがらないことでおじさんの中に「キティが嬉しくないおなごもいる」という新常識が根付く事を願ってもいる。

ついでにお得意の「話を広げる」をやらせてもらうと、
世の中の「おなごたるもの、コレに飛びつく」という概念のある人々には「おなご」は「1人1人好みも思考も違う個々の特性を持った生き物だから、男子にビーフジャーキーと貝ひもの選択肢が初めから与えられてるように、すんなりとおなごにも数々の選択肢が許される頭を持って接して欲しい」と願っている。

あら!?今回も結局そういう話?ということになってしまったが、もうこういう思考回路が染みついているのかもしれない私。

というわけで、約束の8000文字を少しオーバーしたのでダラダラした話をやめさせてもらう。
ああ、やっぱり「である調」は偉そうだよ…。すいません。
次回からはまたいつもの調子で書くのでお付き合い下さる方はどうぞよろしくお願いします。
それではまた。

 

 

痴漢被害女性の話はなぜ「自慢」と言われるのか?

 

 

はじめに

話題になっている田房永子さんのコラム、私も読みました。
田房さんのコラムは毎回反響が大きく、やはり今回も多くの女性による「その通り。よく言い表してくれました!」というような賛同の声と、逆に「フェミ女の被害妄想が!」と批判するような声の賛否両論あるようでした。

今回のコラムに対して私も色々と思うところはありましたが、その内容に関してはすでに色々な方が文章を書いていますので、私はもう控えることにして、私はあのコラムにまつわる全体の流れを眺めていたらなんだか「なぜ痴漢被害女性の話は、とかく『うるせぇブス』と叩かれがちなんだろうなぁ?」ということについて考えてしまったので、それについて今回はちょっと書こうと思います。
(なお、今回は本来今月書いていた話を中断してこちらを書くので「取り急ぎ」の乱文になるかもしれません。分かりにくい箇所があったらご容赦下さい。)

私がなぜ「痴漢被害女性の書く文章はこうも批判されがちなんだろう?」と疑問に思ったかと言うと、1つは田房さんのコラム以外にもこれまで色々な女性が書いた痴漢やセクハラのような性被害を訴えた文章には必ずと言っていいほどコメント欄に暴言的なコメントが残されていたからです。
「痴漢されたと騒ぐ女はたいてい自意識過剰なんだよ。」とか「痴漢された話を自分からする神経って何なの?自慢?」とかですね。

今回の田房さんのコラムにも、Twitterでその話題になっている発言を辿っていくとやはり似たような暴言はありました。
私はこういうコメントを見ると、こういう暴言を書く人の心境が分からず「どうして赤の他人の被害体験を読み、気に入らないなら無言で去ればいいのに、わざわざ傷付くような事をサラリと書くんだろう?」と不思議に思っていました。それは腹立たしいというより、本当に「なんで?」という疑問です。

私自身も以前からこのブログで書いているように、痴漢に遭う経験は過去多くありました。
そして、現実社会で「痴漢された」と話すと、そこまで露骨に「自慢?」とか「被害妄想でしょ」とは聞かれないまでも、こちらが「アレ?」と思うような反応をされる事が時々ありました。

そういった意味では「ネット上でよく見かける痴漢被害女性の声につく暴言コメント」と私が実際に痴漢経験を話して言われた「アレ?」となる言葉達は、どちらも「なんで被害経験についてそんな事を言われるのかな?」と疑問に思う部分が共通しています。

なので私は今回改めて、なぜ痴漢被害女性の声が一部の人にとって「被害妄想」や「自慢」に聞こえてしまうのか?ということについて考えてみます。
もし私と同じように疑問に思っていた方がいましたら良ければお付き合いください。

 

私が「アレ?」と思った反応

私は今はネット上で過去の痴漢経験をまじえた文章を書いたりしていますが、現実の生活の中ではここ10数年間そういう話を身近な人にすることは滅多にありませんでした。
その理由を簡単に言うと、痴漢経験を話した相手の反応に「アレ?」と思う事に疲れたからです。
私が痴漢経験を、何の気なしに人に話していたのは20代前半の頃までです。その頃の私はまだ若くて、「人に話すことの怖さ」を知りませんでした。
だから単純に痴漢に遭った直後や、グループで話題が痴漢の話になった時に、普通に「私もこんな事があったよ」と話していました。
今思うと、痴漢経験を話す時の私がどういう気持ちで話し、相手にどういう反応を求めていたのかというと(当時はそんな意識なく話してましたが)たぶん単純に「話すことで憂さ晴らししたい。」というのと「共感されることで癒されたい。の2つだったのだと思います。
そして、話した相手も「そう受け取ってくれるだろう」と思っていました。

しかし、現実はそういうものではありませんでした。
私が覚えている「アレ?」な反応を書く前に、まずは先に私の高校時代の痴漢経験がどういうものだったかを書きます。

私の高校の制服は少し変わったデザインで、一言で言うなら「萌え系アニメに出てくるような」制服でした。
そのせいもあるのか、周りにも「痴漢された」という女生徒が多かったです。
痴漢というと電車を連想する方が多いかと思いますが、私は自転車通学をしていましたが、痴漢によく遭いました。
通学路で後ろから低速で車に後を尾けられるのは日常茶飯事で、それも1人の時じゃなくとも、朝からでも、あることでした。
高校に入ってその細い小道である通学路を使うようになって、はじめの何度かは、延々と車にノロノロ運転(自転車を追い抜かない速度)で後をずっと尾けられても「車にとっては抜け道なんだろうな。自転車が邪魔で追い越せないんだな。」と思っていました。
しかし、そういう低速尾行車の半分くらいは、こちらが一旦道の脇に自転車を止めて先に行かせても、100mほど先で停車していて結局またこちらが追い越すことになり、しばらくしてまたこちらが止まって車に追い抜いてもらい、それを繰り返しながら大通りに出るまで3kmくらいノロノロと追いかけっこを繰り返すという具合でした。
私ははじめの何度かは、このような車の動向の意味が分からなかったのですが、数回目の時に停車している車の横を通りながらふと運転席を見ると、運転手の男性は股間に手をやり上下に動かしていたのです。
その瞬間、ゾッとするのと同時に「なるほど」と思いました。
ようするに怪しい車の運転手はそういう目的の為にいつも通学路を使っていたんですね。


謎が解けたと同時にそこから私の痴漢被害ライフは始まりました。
残念ながら私の住む街は小田舎なので道を変えても、そんな細い道はどこでもあり、大通りだけでは学校に行けず、どの小道にもそうした怪しい車はいました。常連の車もいましたし、1度きりの車もいましたし、数ヶ月おきの周期的に現れる車もいました。

正確な刑法では、このような「低速尾行だけ」は「痴漢」と見なさないのかもしれません。でも、こうしたノロノロ車のうちの半分くらいは「なにか」をしてきました。

ノロノロと自転車の横に来てクラクションを鳴らしてわざと裸の陰部を見せて走り去ったり、車窓から「道を聞きたいんですが」と声をかけられ、膝に地図を広げた男性の地図をよく見ると器用にまぁるく地図に穴を開けて「こんにちは」といわんばかりにモノを突起させて無表情で道の話をする男性がいたり、つまりそういうノロノロ車に尾けられている段階では事が起きるか起きないかは起きてみるまで分からなくて、その数十分間の怖さは「事が起きる時も未遂の時も同じ」なので、私の中で「低速で長距離を尾けてくる車=痴漢と同じ怖さ」にカウントしてしまいます。

ちなみに大人になって自分が車を運転をするようになって新たに分かったのは、本当に細い道だと脇に退避スペースが現れるまで仕方なく自転車をノロノロ追う形になる時がたしかにあるのですが、その時の運転席からの眺めって、なんというか実に視覚的に「狩り」っぽい気がするんですよね。

自転車に乗っている人は別にこちらから逃げてるわけじゃなく、ただのその人の進行方向なのに、なんとなく「私が追いかけるので、この自転車が逃げてる途中」みたいな感覚に陥るんです。

大きさ的にも「大きな車で細っこい自転車を追う」感じが「自分が大きな動物で、小さな獲物を追ってる状況」に錯覚しやすい感じ。

私はそういう時「あ~急がなくてもいいですよ~すいませんね~。」と申し訳なくなり心で謝ってるのですが、可虐心の強い人にとってはこの状況は楽しめるものになるんじゃないかと思います。

だから私の通学路にあんな頻繁に怪しい車がいたのは、そういう車の運転手達が、接触はしてこなくても「目の保養」くらいの気持ちで気軽に通学路に現れて気が済むまでその眺めを楽しんでいたからじゃないかと、推測ですが思います。


あと、高校時代には、他にも「痴漢にカウントするのか」が、いまだに謎な経験が多々ありました。
制服でコンビニのトイレに入ろうとすると、トイレ入り口の狭い空間でぶつかるように体を滑り込ませてくる男性がいたり、電車に乗ると隣の男性が腕組みをしながら居眠りをしていて、その握りこぶしがさりげなくグイグイ押してきているような事はよくあり、こういうのは「痴漢なのかそうじゃないのか非常にグレー」なのですがハッキリと「痴漢された!」と思う経験より、こういう「グレー経験」の方がとても多く、当時は慣れてしまい普通のことのように思っていました。

でも制服を着なくなると格段にそういうグレー経験は減ったので、今思えばそれらも、そういう事をする男性が「女子高生」の私にセーフな範囲での接触を試みた行為だったのかなと思えてきます。

私の高校時代の痴漢経験は、こうしたグレーのも含めて「痴漢経験」とみなすのならば痴漢は週3回はあることで、登校時&下校時と1日に2回遭うこともありました。書いてないケースもあといくつかありますが省きます。


さて、それで痴漢経験を話した時の「アレ?」と思った相手の反応というのは、まさに学校帰りにそういう車の運転手の1人に陰部を見せられた時の後の事です。

その日は下校後すぐバイトの予定だったので、私はバイト先に着くと思わずバイト先の店長(40代のおじさん)やバイト仲間に「今、そこで痴漢に遭ったわ~」と話しました。
私が事の詳細を話すと、同じ通学路を使っていて女子高生である数人のバイト仲間は「あの道?あそこ特にひどいよね!」とか「こわいね~ヤダ~」というような反応でしたが、店長はひとしきり女の子達が話を終えるまでニヤニヤしながら聞いた後に「そんなの、握りっ潰しちまえばよかったんだよ(笑)」と笑いました。
私は「は?」と思いました。
店長にとっては冗談なのでしょうが、なんで「仕返しの方法」が「見せられるだけで不快なモノに触って握る」なの?と、その発想は本当に訳が分かりませんでした。
女の子達は店長の発言に対し「ヤダ~」「きも~い」とキャアキャア言いましたが、店長はそのキャアキャアさえ嬉しいというような満足気な表情で、さらに桜島みたいな女っ気のないのでも、そういう目にあうんだなぁ(笑)」と言ってきました。
私はショートヘアで、顔も地味で、自分でも確かに「女性性」とか「美少女」という要素が全くない自覚があったので、「確かにそれはそうだけど…」と思ったのですが、店長の言葉に「え、こんな反応あるんだ…」という感じで、その時はショックまではいかないものの「思ってたのと違う反応だ」ということに、モヤモヤしました。
そして、こういう風に私が「アレ?」となる反応は他にもありました。

登校時に車に尾けられ、車を撒くために大通りに迂回していたら学校に遅刻してしまった時は、教育指導の男性教師に「なんで遅れたんだ?」と聞かれたので私は「変な車に追いかけられて逃げてたので…」と言いました。すると教師は即答で「お前がそんな短いスカートを履いてるからだ」と言い、その後に「…で?何かされたのか?」と聞かれました。
その時の男性教師の目には、ただの「聴き取り調査のため」とは違う、彼の「内なる好奇心」みたいなものが感じられました。
これこそ「それはお前の邪推だろ!」と言われればそうかもしれませんし、教師の思惑がどうだったのかなんて本人以外にはわからないのですが、店長のニヤニヤも男性教師の「…で?」の言い方のニュアンスも、対面した私が「アレ?これは慰めとは違う何かだ。」と思ったのですから「そう感じた」と書かせてもらいます。
また、これは話す相手が男性に限って起こることではなく、女性同士と思って油断して痴漢話をすると「それだけ魅力的って事だと思えばいいじゃないの~」とか「女は狙われるうちが華よ~」という「なにそれ?」な反応が返ってくる事もありました。
「赤の他人にむやみに性的興奮材料にされたことを、どうして好意的に受け止められるの?この人は自分がされてもそう思って来たの?」と私はまた「慰めとは違う反応をされた」ということが不思議に思えました。

そういう、痴漢経験を話した時に相手に「なんか変なこと言われた。」と思う回数は、歳を重ねると徐々にたまっていきました。

当時は若かったので、自分の感じたその「何か変な感じに受け取られてる。」の正体がなんなのか分からなかったのですが、すごく後になって(20代前半くらいに)それを表す言葉がいわゆる「セカンドレイプ」だと知りました。

私が無邪気に痴漢被害経験を話す時、それが聞く人に寄っては「同情」や「いたわり」の心を産むものではなく『「性的刺激を誘うエンターテイメント」のようなものになってしまう事や、「若さ・魅力自慢」に取られてしまう事がある。』
そのことを知って初めて私は「人に話すことの怖さ」を知りました。


しかし他人がそれぞれ人の話に対して「何を思いどう反応するか」を強制することはもちろん出来ません。
痴漢経験を話した相手が、私の思った通りに「憂さ晴らしをただ無心で受け止めて」くれたり「可哀想に思って慰めて」くれなくても、それは仕方がないことなのです。
私は自分の望む反応だけを他人に期待する私のほうが間違いなのだと気がつきました。
それで私はそれ以降、現実の生活では痴漢経験を話すことは滅多にしなくなりました。
痴漢経験を話して「この人には、なんか違う受け取られ方をされた」と思うことは、痴漢被害そのものよりレベルは低くても、小さく心が傷付くことだからです。
小さな心傷も溜まれば心がやさぐれますから、私はその心傷を増やしてまで人に話す事じゃないと自分で判断しました。

今の私が文章で痴漢経験を書く理由

そういった訳で私はここ10数年間は現実でもネット上でも自分の痴漢経験を語る事はなるべく避けてきました。
しかし、自分もブログを始め、ネット上で他の女性達の痴漢経験の話を読む機会が増えるようになると、自分の痴漢被害のピークは過ぎたものの現時点で被害のピークにあたる年齢の子達が可哀想に思えてきました。

それがどういう事かというと、私の高校生時代はネットが無かったので、身の回りに情報が少なくて、そもそも自分がされてる事が「痴漢」なのか何なのかすら分からず、グレーな事にはそのつど「嫌だったけど、わざとじゃないのかもしれないし…」と良い方に考えれば、世の中がそんなに悪い男性ばかりじゃないと思えました。
明確な痴漢は居ても、それはごく一部の人で、グレーな事をしてきた人には「シロ」だと思い込むことが出来たのです。
また、今に比べて世の中に「女子高生」を性的視点で見ることがまだ一応「いけないもの」という認識があったように思うので、私は世の中の男性に対して希望を持つことが出来ていました。

それが、今はネットで簡単に「JKにこんなことしてやった」とか「電車でJKの髪の毛の匂い嗅いだった」というような、明らかに「性的興奮を得るためにグレーな事に及んでいる」成人男性の自白を読むことが出来てしまいます。
また、コンビニでも女子高生ものの成人向け雑誌があったり、バナー広告も制服を着た少女の姿が溢れていたり、それらの大人による『女子高生は俺らにとって充分性対象ですよ』という事実を女子高生自身に突きつけるものが、昔より当たり前のように世の中に溢れてしまっています。
これでは今の女子高生にとって「グレー」をシロと思い込むことはとても難しく、この中で時に実際にグレーな事をされ、時に明らかな痴漢をされていたら、女子高生が世の中の男性を「シロ」と思う材料が少な過ぎて、男性全体に希望が持てなくなってしまうんじゃないかと思うのです。

「世の中には善良で素晴らしい男性がいるという事実」は、本来なら女の子自身が良い恋愛経験をしたり、良い対人関係を築きながら徐々に各々の人生で知っていく事だと思います。
そしてそれは、わずかにでも女の子自身に「異性への希望」がないと、まず異性との一般的な対人関係を作る事すら難しいのです。

それなのまだろくに社会に出ておらず異性に対する希望が未確定の幼い少女のうちに「クロ」の経験ばかりを積まされる今の女子高生達は、本来なら順当に築いていけるはずだった男性に対する希望の芽を摘まれ、しかもそれは「どこかの誰かの一時の性的満足を得る為の道具にされた結果そうなってしまう」というのでは、あまりにも可哀想だなと私は思うわけです。

なので、昨今の「幼い少女を大人が性的視点で露骨に見る習慣や、あまつさえ実際に性対象として接近して何らかの痴漢行為を働くことが頻繁に起きる社会」は、今後の世の中に男性不信や男性嫌悪の女性を新たにどんどん作っていく事態だと思います。
これは、女性にとって悲しいばかりでなく男性にとっても悲しい未来だと思います。
若い頃に性的な被害を受けるとその心の傷は、少女にとって一生ものの男性不信を植え付けることになりかねません。
女子高生に対して痴漢や、それに近いグレー行為をギリギリで楽しんでいる男性にとっての女子高生は、「一時の快楽の為の道具」かもしれません。
でも、どの女の子も心を持った、その先の一生を明るく過ごす権利のある人間なんです。


「女子高生可愛いな~俺は女子高生好きだな~」と思うなら、どうかその彼女達を性的な道具ではなく、人として尊重して欲しいです。

というわけで、私はこんなような事を言う時に、この想いが自分の経験からの願いだという事に説得力が少しでも増すために、ここ最近は自分の痴漢経験をネット上では書くようになったのです。
男性が女子高生をそういう目で見る事に対して批判的になるのは、けして「ババアは男が若い女を追いかけると自分が見向きされないからって批判してんだ」ではないのです。

なぜ痴漢経験談は自慢だと思われてしまうのか?

さて、ここからまた本来の疑問に戻ります。
さきほど私は、過去に気軽に痴漢経験を話していた頃、好奇心から状況を根掘り葉掘り聞かれたり、なんだか謎のアドバイスをされたり「女にとって勲章でしょ」と言われたり、とにかく私の思惑通りに「痴漢経験が辛いものだった」という受け止められ方をされなかったことが不思議だったという話を書きました。

このたび改めて、暴力的なコメントをする人の心境も含めて「なんであの人達にこの辛さが伝わらなかったんだろう?」と考えてみたのですが、ひとつ思ったのは、そういう伝わらない人達が「そもそも痴漢に対して大きな勘違いをしている」可能性です

それは、どういう勘違いかと言うと「痴漢=男性から見てそそる女に対して行なわれる行為」だという思い込みです。
これは確かに、完全なる間違いではないのですが、私からすると「そうとは言い切れないんだよな…」という部分があります。

もちろん単純に、お婆さんとかいかにもオバちゃんオバちゃんした中年女性がほとんど痴漢されないことから分かるように、「ある程度の容姿、年齢」がクリアしてないと痴漢は起きないという事実はあります。
だからこそ「痴漢=それなりのリスクをかけて挑むからにはそれに見あう獲物を狙う」という一般的な人の考え方が成り立つのだと思いますが、しかし、それよりももっと深いところに痴漢本人と、被害者女性にしか知りえない「真実」があります。

それは、痴漢行為をする人にとって獲物に対して重要な条件は「女としてそそる・そそらない」ではないことです。

では何が最重要条件なのかということについては後で詳しく書きますが、
私は自分が痴漢されるようになった当初は、他の人と同じように「やっぱり可愛い子とか綺麗な子を狙うんだろうな」と思っていたので、実際痴漢に遭遇してみて「痴漢はなんで私のようなボーイッシュな女に??」と思いました。
その頃の私の中にあった「痴漢をされる女の人」というのは、志村けんが変なおじさんのコントで最初に近づいて行き「何この人~?きゃあ~」と言う役のあの、2人くらいのボディコンでワンレンの女の人のイメージでした。
つまり男の人が痴漢したくなるのは「髪の長い、スタイルの良い、可愛い綺麗なお姉さん」だと思っていたのです
なので、女性としてまだ体裁の整っていないちんちくりんな自分がそのお姉さん役に配役された事が「???」でしかありませんでした。

多分、店長がニヤニヤしていたのも「お前みたいなのも狙われるんだなぁ」も、この「変な配役」に対しての率直な感想だったのだと思います。
また、高校教師が私に事情聴取した時にどこか「好奇心」が見えたのも、こういう「いかにもそそる」ではないただの女生徒にそそられた痴漢の心理について「どれどれ、痴漢の男はこの女生徒のどこにそそられたっていうんだ?」という目で私を検分しようとした結果なのではないかと思いました。
さらに、歳上の女性が「魅力的ってことよ。」などと言ったのも、まさに「あなたも男性から見てそそる女の役が回ってくる年頃になったのよ。(でもそんな事を自慢できるのは今だけよ)」という意味だったのかなと思います。

このように「痴漢された=そそるイイ女認定」だと思っている人達には、いくら痴漢が辛かったと訴えても、通じません。

なぜなら彼らは痴漢の真実を知らないので、「辛かった」という目の前の女の言葉よりも、古来からの思い込み「そうは言っても所詮、人間とは異性に欲情されることは嬉しいものである。そそる女しか男は相手にしないものである。」という一般常識のほうが信じやすいからです。
だから辛さの訴えを受け止めるよりも「でもちょっとは嬉しいんでしょ?だから結局自慢なんでしょ?」という感想を持たれてしまうのではないか、と私なりに答えを出しました。
うまく説明出来たかわかりませんし、私なりの解釈なのですが、痴漢経験談に対して「痴漢の話して何がしたいの?自慢なの?」と本当に疑問に思う人が1人でも納得できて、今後「ただ受け止めたり、慰めたり出来る側」にまわってくれたら幸いです。

 

痴漢が獲物を定める時の第一条件とは?

 では先ほど後回しにした「痴漢にとって獲物にする女性の最重要条件がなんなのか?」ということが残っていますのでそれについて書きます。

私は高校生になって、自分のようなそそらない女でもなぜか痴漢をされるという事を嫌というほど思い知り「そそる・そそらない」があまり関係ないという所は身をもって実感しました。
では「そそる、そそらない」より痴漢にとってさらに重要なものがなんなのか?考えたのですが、おそらくそれは

保身です。

私がこの事を分かるようになったのは、もう大人になってからでした。
大人になって、周りの色々な男性を見ていると、男性にとって社会的地位がどれほど大切なものか分かりました。
そして、痴漢は犯罪なので捕まれば社会的地位を失う大変リスクの高い行為です。
私は痴漢をしたい男性は、もしかしたらその社会的地位をかけた「賭け」のようなスリルすら、性的興奮に加味して楽しんでいるのではないか、と思いました。
そして多くのギャンブル依存者が、あまり一点買いの大穴狙いをせず、長くギャンブル生活を続けるためにある程度頭を使って「手堅いところ」を攻めるのと同じ心理で、痴漢をする人も、きっと「手堅い獲物」を狙うのです。
だから、痴漢にとっての獲物の最優先条件はズバリ「捕まらないこと」=「騒ぎそうもない獲物であること」なんだと思います。

そして、それをクリアしていてなおかつ女子高生が好きな男性にとっては「制服を着ていること」が第2条件に来るんです。
彼らは恐らく女子高生1人1人を人間とは思っていないので「制服」という記号を身につけた女の子であれば、本当に著しく見てくれが悪くない限りは狙います。
ブスでも地味でも髪が短くても色黒でも運動部でも、狙います。特に細めで小さい子ならなおのこと狙います。
もちろん、その中でもより可愛い子のほうが望ましいのでしょうが、可愛い子は「どこかギャルっぽい要素がある子」だったり「世慣れしていそうな子」だったりして「騒ぎそうもない」という条件を満たさない事が多いです。

普通の一般的な感覚なら、「どうせ危険を冒してまで触るなら可愛い子に決まってんだろ」なのですが、痴漢はその「危険を冒して」の危険値を最大限まで落としたいのです。
だから分かりやすく言うと、女子高生であるという条件を満たしてさえいれば、その中で「可愛い」という贅沢オプションを付けるより「騒ぎそうもない」という安全オプションを付けたがるのです。
痴漢は「そそるそそらない」より「安全第一」なのです。

そう思うと痴漢をする人は、自分は見知らぬ女の子の人生に一生ものの傷をつける行為をしながら、自分の人生は守りたいという本当に本当に卑劣極まりない神経の持ち主だと思います

 

これは全部私の憶測ですから「一理ある」と思い、信じたい人が信じてくれればいいです。
ただ、女の子で「私なんて痴漢に狙われないよ~」と思って無用心に生活している子には親心で「ちゃんと気をつけて!」と言いたいです。
私も本当に自分が狙われるなんて思ってなかったのに被害はあったし、周りの痴漢被害者の子も結構みんなはじめはそういう「私なんて平気でしょ」という油断から、夜道を一人歩きしたりして被害に遭ってます。

あなたは「私なんてブスだし、周りにもっと可愛い子いっぱいいるし…」と思ってても、大人になった私から見ると女学生って若い女の子って、本当にそれだけで全員とてもとても可愛いものなんです。全員じゅうぶん気をつけて貰いたいです。
もちろん気をつけない女の子が悪いのではなく、悪いのは当然痴漢をする大人なのだけど、そういうことを用心しないで済む理想の社会にはまだまだ現実は追いついてないので、仕方ないけど頑張って自衛して下さい。

 

最後に

というわけで、初心に戻りまして、まとめます。
今回は「なぜ痴漢被害女性の話は、こうも『うるせぇブス』と叩かれがちなのか?」という疑問に始まったのですが、その答えを端的に言うならば
『痴漢経験者と未経験では「痴漢の獲物になる女性像」に違いがあるから』ということになりますかね。
未経験者が痴漢経験談を聞く時「やれやれ、またどっかのクソブスが少しの事を痴漢されたと騒いで、自分がモテるって言いたいわけ?」と思うのは「クソブスが狙われないと思っているのと、狙われるのは女にとってありがたいこと」だと思っているからだと思います。

本当はクソブスでも「弱そう」なら狙われますし、痴漢に狙われるのは女にとってありがたくもなく、一時の性的興奮材料として認定されるという人として最も屈辱的な事です。
そこは本当に多分、痴漢に遭った女性のほとんどが「屈辱的」と感じていると思います。

女性の中で、たまたま周りに酷い男性ばかりの環境にいたり、性被害の経験があったりして、世の中男性全部が不信で男性嫌悪の人がいますが、男性にも同じように女性に対して「いつも悪いのは男だって顔しやがって。」みたいに、女性全体を嫌悪する人がいます。

 

私はみんな仲良く幸せにくらせる社会を望んでますけども、そういう人たちにまで「まぁまぁあなた方仲良くしなさいな」とは思いません。

その人たちはおのおの異性から酷いことをされて、異性全体に対する恨みが一生消えないほどに残っているわけなので、それを他人が簡単に「もう水に流した方が楽だよ」なんて言うのはその人の傷を「こんなの浅い浅い!」と軽視している行為だと思うからです。

酷いことをされた人の心に一生消えない恨みが残るのは人の気持ちとして理解できるので「和解しなさいなー」なんて私は思わないんです。

ただ、いくら恨んでも恨まれても互いに人間ですから寿命まではおなじ世の中に生きていくわけです。なので、せめて「関わらないで」生きていけばいいと思います。

だから「何を聞いても女の話はムカつくんだよ」というような男性は、今後誰かの痴漢経験談を見たり聞いたりしたら「慰めてあげたり」とか「肯定的な事を言ってあげたり」なんて願わないので、せめて「黙って立ち去ってあげて」欲しいです。お願いします。

今回、痴漢について女性側からの意見をつらつらと書くことで「被害話ばかりで、痴漢冤罪についてどう思うんだ?」みたいな事言われるのかなーとも思うのですが、それは私が書くことではなく、痴漢冤罪被害について思うところのある人が書くべきことだと思います。
私は痴漢に限らず「冤罪」は、まぁ許せません。
でも、痴漢被害の話をする時に「そうは言っても冤罪被害だって多い!」という言葉で痴漢被害の話をかき消されるのを見かけると「その話は違う話だよ。」と思います。
世の中には痴漢冤罪被害もあるし、痴漢被害もあります。
2つは全く別の話だから話す時は分けて話そうよ、という感じです。
今回私から出来るのは痴漢被害談の話です。

私はこれからも現実生活では多分こういう話をしないと思います。
誰が「自慢?」という反応をするか分からなくて、身近な人にそれをされる時の失望感が怖くていまだにそれは出来ません。
それでも、ネットにこういう文章を書くのは、まぁこれを読んで多少誰がが納得したり慰められたりすればいいかなという気持ちからです。

特に既に若い女の子で男性に痴漢や性暴力をされて「男の人が怖い、嫌い」と思ってしまっている子に、私は「全部の男の人が悪い人じゃないからどうか希望は捨てないでね。」と伝えたいです。

ついた傷が深いとなかなかそう思えないかもしれないけど、どうか希望を持って生きて欲しいと、元女子高生だった女が今の女子高生に思います。

あと、これを読んで改心するような人は初めから痴漢などしないと思うのですが、それでも痴漢予備軍というか「もし機会があれば…」なんて思ってる男性がいたら思い改めて下さい。

本当にやめろ。


「ちょっと」と言っておいてまた長くなってしまいましたが、最後までお読み頂いた方、どうもありがとうございました。