専業主婦の夫にあまりにもモラハラが多いので
今日は思いついたまま書くのでまとまりがないかもしれませんが、良かったら読んでください。
読売新聞に「人生案内」という、読者からのお悩み相談コーナーがあるのをご存じでしょうか。
そこは毎日老若男女問わず色々な人からの相談が寄せられているのですが、月に数回ほど「ひどい夫案件」があるんです。
それはたいてい妻からの「こんな夫と生活していくのに耐えきれないけけれど、子供の為に家庭は維持するべきか?」みたいな相談なのですが、日々読んでいると「これ、こないだと同一人物じゃない?」と思うことがよくあります。
実際には同じ人の投稿はダメみたいなので、みんな別人なんですが、まるで妻たちが1人のダメ夫について話してるのかと思えるほど、どの夫も根底の部分に同じ精神を共有しているというか「マザーコンピューターで脳の意識が繋がってる」かのようにそれらのダメ夫は同じことを妻に言ったり、やったりしてるんです。
例
2016年1月26日
2016年6月17日
こんな感じ。
これらの夫って、たぶん一般的に「モラハラ夫」と言われてるやつだと思います。
で、このコーナーの相談を観ててやっぱり実感するのは「こういうモラハラ夫の家庭って、奥さんが専業主婦が多いな」ということです。
もともと私は実生活でも友人や親類の女性から家庭の相談を受けることがあるのですが、やっぱりそこでもここ数年は同じことを感じていて、新聞を観て「改めてそうよなぁ」という感じです。
中には完全な専業主婦ではなく、週に3回くらいパート勤めをしている女性もいるのですが、やはり生活のメインが家事育児なので、本人達も「専業主婦」に属している感覚があり、その夫もパート勤めを「労働」というより「息抜き」くらいに位置付けているようです。
ようは、妻も正社員で夫と同じくらいに外での稼ぎがある場合以外は、夫婦共に
「夫→お金を稼ぐ人、妻→家事育児をやる人」という役割意識がやっぱりあるみたいなんですね。
近頃は「女性も出産後に職場復帰が出来る社会」とさかんに言われていて、もちろん私もその動きに賛成ですが、仮に妻が「職場復帰」しなくとも、その夫婦ごとに双方が役割分担に納得していて、「夫が仕事、妻が家庭」となっていても、それ自体は悪いことだとは思いません。
それで夫婦が互いの役割に「ありがたみ」を感じあって、双方が「互いに大変だけどよくやってるよね、お互いガンバロー」と思ってれば、どちらかがどちらかを「下に見る」ことは無いと思うからです。
でも、この人生案内のモラハラ夫に関する相談件数の多さや、身近な主婦の方の悩みの数を観てるとやっぱり「下に見る」が起きちゃってるんですよね。
そして、その要因はやはり外でお金を稼ぐ男性の中に「金を稼ぐ人間が偉い」という意識があるからかな、と思います。
私にとってその1番身近な例は、私の育った家庭でした。
うちは4人きょうだいで母はずっと専業主婦、父は典型的な仕事人間だったので、この手の愚痴は母から耳にタコが出来るほど聞かされてきました。
モラハラ夫定番の「誰が養ってると思ってるんだ」という台詞も、幾度となく母は父の口から聞いたそうです。
母が父からそれを言われていたのは、およそ20年前くらいのことですが、こんなに時代が変わってもその台詞は死語になっていないということに私は「あーあ」となります。
現に、今年に入って私が相談を受けている、妻も夫も私とそんなに歳が変わらない(40代前半)2つの家庭でも、奥さん達は最近その台詞を夫に言われたと言っていました。
あーあ、ですよ。
最近は「専業主婦の労働を賃金に換算すると月収40万くらいになる」というようなデータでもって、このような「専業主婦を下に見るな」という話題が世間でもなされることが増えています。
でも、そのデータだけでは納得出来ない男性の声もあるようで「ちゃんとやってる主婦ならその金額だが、うちの妻の家事レベルはそこまでない」とか「金銭に置き換えるとか言い出したら、妻の分の宿泊費や食費などを考慮したら妻の働きなんぞ0かマイナスなくらいだ」という言い分もあるようです。
こうなってくると、私としては「夫婦ってそういうもんじゃないじゃん…」という感じになってきて、悲しくなります。
なんつーか、「妻の維持費」とか「妻の労働を賃金換算」とかを言い出す段階って、「もうその家庭には愛が無いから一緒にいないほうがいいよ」って感じがするんですが、お子さんがいる家庭はそう簡単に別れることが出来ないので、みんな仕方なく現状維持をしてるんですよね…。悲しいっす。
ところで、私はこないだこんなツイートをしました。
「自分以外の生き物の生命維持責任を持ち続けて生活する」って、実作業の大変さもさることながら、その責任意識だけでかなりしんどい仕事を請け負ってると思う。育児専業主婦を「家で子供の相手してるだけ」と見くびる人は「責任意識が生む精神的負担」は計算に入れず、実作業しか見えてないんだと思う
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2016年6月15日
これは、他の方のツイートで「育児の大変さを理解するには、海外で実践されている『卵の宿題』をやらせてみてはどうか」というのを見て、そこから思ったことです。
『卵の宿題』というのは私も初耳でしたが、内容は「生徒に何日間か生卵を割らないように持ち歩かせる」という課題らしくて、ようは生徒はその課題中、自分の生卵の安全に24時間留意しないといけないわけです。
自分が遊びに行く時などは卵を人に預けてもいいのですが、預ける相手を見極めないと、相手は簡単に卵をほったらかしにして割ってしまうかもしれませんし、預け相手選びから油断ならないので、とても大変そうです。
他の方で、この宿題を実践した方も「卵は自分から動くわけでも泣くわけでもないけど、課題中は神経を使って大変だった」とツイートされていました。
でも世の中には、「卵を一週間持ち歩く宿題が大変なんだよ。」とだけ聞いたら「卵なんて静かだし自分から動き回らないし重くもないし何が大変なんだ?」と思う人がいると思います。
私はそれがちょうど、主婦に対して「子供の遊びの相手してるだけじゃないか」「食事や風呂や寝かしつけも、一日中手間取る内容じゃない」という風に軽んじた発言をする人と同じ精神だと思ったのでこのツイートをしました。
卵の宿題の大変さは先述した通り、ただ「重さ60グラムの生卵を持つ腕の疲労」だけではなく、どちらかと言えば、卵の安全に24時間何日間も留意し、責任を背負いながら過ごさなきゃならない「精神的負担の大変さ」がメインです。
だから、学校がこの宿題を出す意図は、たぶん生徒に「自分以外の生き物の安全に留意し続けて生活することが、どれだけ大変か実感して知りたまえ」ということだと思います。
そこに気が付かずに「何が大変なんだよ?」と言うことは、想像力の欠如です。
自分のしていない役割をしている人の大変さをおもんばかるのは、想像力のなせるわざです。
私は常日頃「親切」とは「想像力」のことだと思っています。
だから、もし専業主婦に対して「ろくに働きもせんと」と小ばかにする気持ちがある人は「すべての主婦の大変さを想像しろ」とは言いませんが、せめて自分が愛して結婚した奥さんに対しては「それくらいの想像力を使ってあげなよ。」と思います。
この話を書いてて思い出したのでついでに書きますが、この手の「奥さん側の精神的負担」を感じ取らないわりに「働く側の精神的負担は感じ取って欲しい。」と言う男性に私は出会ったことがあります。
以前、職場にいた男性なのですが、その方は生後数ヶ月の赤ちゃんが居て奥さんがその時は専業主婦でした。
彼とは仕事では普通に気のいい同僚として働いていましたが、ある時、仕事のことで彼と意見が食い違うことがありました。
いきさつを簡単に言うと「上が指示する方針と、現場でやりたいこと」が少し違ったので、私は「現場の声として、上に言ったほうが良いと思う」と言ったのですが、彼は「簡単にいうけどそれは大変なことだよ。自分は上には立て付けない。」と言うんですね。
さらに彼は「桜島さんは、ここで一生働かないから簡単にそういう事が言えるんだよ。」と言うんです。
よくよく話すと、この仕事の件について、彼はすでに家でも何度か奥さんに愚痴ったりしていたらしく、奥さんにも「上に言えばいいのに」とアッサリ言われてたらしいんです。
それで、その後の彼の話を要約すると
「女は『一生その場所で働き続ける』という経験をしてないから、男が『一生誰かを養わなきゃ』というプレッシャーを抱えながら一生務めるつもりの職場で仕事く辛さを理解できない。だから女に仕事の話をすると簡単に『こうすれば』と言ってくる。男はそれが出来ないから辛いのに。もっと、こっちの立場を分かって言って欲しい。」
ということでした。
つまり、彼は「家族を養う」のも「今の職場で働く事」も両方一生ものだと思っているから、一生ものを2つ抱えた人間の精神的な負担は「仕事を一生もの」と思ったことがない女性には分からないと言いたかったようです。
これは一見すると、これまでの話と主旨が違うように見えますが、彼がこう思った背景まで書くと2つがつながるかと思います。
彼は仕事についての話以外にも、以前から家で家事について奥さんに少し文句を言ったら「あなたは仕事に行ってる時間だけが仕事だからいいでしょ。育児は一日中なの!だから大変なの!」という喧嘩がたびたびあったそうです。
喧嘩の際に彼は奥さんにうまく言えないそうなのですが、彼の中にはそういうことを奥さんに言い返される度に「外で働くということは、仕事に行ってる間だけのことを指すのではない。『一生外で働かざるを得ない立場』という重圧が24時間何年ものしかかっているのに。」という思いがあったそうです。
だから彼の意見としては「仕事の大変さ」のことを持ち出すならば、そこにまつわる『一生外で働かざるを得ない立場』の精神的な負担も考えて欲しい。というわけです。
まぁ、彼の言い分も分かりますよね。
でも、彼の場合、それを言うなら自分も奥さんの育児について「24時間何年も精神的な負担」を強いているものだと思ってあげないとフェアじゃない気が私はします。
なぜなら彼は職場では奥さんのことを「帰ると家の事なんもしてない。サボりすぎ。」とか「昨日も子供寝かしつけて一緒に寝てただけとか言ってた。」と、しょっちゅう愚痴っていたり、妊娠して辞める同僚に「これでゆっくり出来るね〜」と言ってたのです。
だからやはり「この人、育児をナメてるな」という風に見て取れました。
自分は育児にまつわる精神的な負担を考慮せず、奥さんの実労働だけ評価してるくせに、奥さんには実労働だけ評価されるのを不満に思い、「もっと精神的な負担を評価してくれ」というのは虫が良すぎます。
奥さんも彼もそこは「お互い大変だよね~ガンバロー」じゃないと。
ここん家は幸い、奥さんの気が強いから言い返せているけど、女性の性格によってはそのまま「お前は家にいてロクに働いていない」という夫の意見をうのみにして自分から「養ってもらってるし、言う事聞かなと…」と下に下がっていく人もいると思います。
そうして、だんだん「人として守られなければいけないもの」まで夫に奪われ続けて、ある時我慢ができなくなった人が読売新聞に相談することになるんだと思います。
まだ、誰かに相談しようと思う人はマシで、そのまま精神を病んでしまったりストレスで病気になってしまったりしたら本当にかなしいことです。
だから、私は彼や、世の中にいるかもしれない彼のような男性に言いたいのは、外で働く側の大変さを「その責任重圧ごと理解して優しくしろ」と奥さんに求めるなら、自分も育児に関して「自分以外の生き物の生命維持責任を持ち続けて生活する責任重圧を理解して」ということです。
夫婦になった時点で、お互いに対する愛情があるはずです。
そういう相手とは「こっちのほうが大変だ!」と大変さ合戦をしあわないで、「こっちも大変だけど、そっちも大変だよね。」と労わり合って暮らしたいじゃないですか。
最近、あんまりにも身近な女性や人生案内にこの手のケースが多いので、そんなことを思いました。
以上です。
ではまた。
女子大生に電車で尻を固定された話
けっこう昔の話なんですけど、今週のお題の「電車内での心温まるマナーの話」というのに心当たりがあるのでちょっくら書いとこうと思います。
あれはたしか15年くらい前のこと、私がハタチくらいの頃の話ですね。
当時、私が普段使ってた駅の隣の駅のそばには女子大がありました。
その路線の登り電車は私が乗る駅までは利用客がそう多くないので、平日15時くらいの中途半端な時間に乗ると、たいてい車内の乗客は3.4人くらいのガラガラ状態でした。
でも、そんなガラガラ電車でゆったりとした気分のまま過ごせるのは次の駅までの間だけ。
なぜなら、その女子大のある駅を境に電車内の空気が一変するからです。
そう、いつも女子大駅から乗り込む大量の女子大生パワーにより車内は女子大の構内と化してしまうのです。
彼女たちの勢いは本当にすごかった。
若い女の子の喋り声というのは、4.5人程度がキャイキャイしてるぶんには「多少騒がしくてもご愛嬌」という感じだと思いますが、彼女たちの場合、数が多すぎました。
おそらく1人1人だったらそんなことにはならないのかもしれませんが、人はマジョリティーになった時、無意識に傍若無人になるおそろしい生き物でございます。
だから車内人口の8割以上を占めた女子大生達は、チャーリーズエンジェルのようにヤンチャでした。
大声で話したり、裸足で椅子に乗ったり、お菓子を広げたりするのは当たり前。
車両の端から1人が大声で「誰か8×4持ってる~!?」「あるよー!」「投げて〜!」「オッケー!」ポーン、コロコロ「あはは!!!」なんて光景もザラにありました。
うるさいのです。とにかくわんぱくなのです。
私がもし若い子大好きおじさんならそういった甘酸っぱい8×4の香りや彼女達の金切声を「むふふクンクンたまらんZ」と楽しめたかもしれませんが、私は当時彼女達と同じくらいの小娘でした。
だから逆に同族嫌悪というのでしょうか、私はいつも彼女達のことを「ほんとうるさい…なんなのこの子達…」と苦々しく思っていました。
その頃の私のことをもう少しお話しますと、この頃の私はややトンガっていました。
いえ、そういう事ではなく、人として尖っていたんです。ララバイララバイおやすみよ、のほうのやつです。
つまり、今でこそ身なりにかけては「人畜無害」をモットーとしている私ですが、その頃はまだ、肌も出したい髪も染めたいメイクも盛りたい、見たい聞きたい歌いタイ!
そういうさかりだったんですね。
どギャルではなかったのですが、それなりに茶髪にして、ミニスカートや15センチヒールを履いて…ああ、もう説明が面倒くさいので写真載せときます。
この程度の中途半端な感じでした。
で、まだギリ実家に住んでいたので、親に「髪が赤すぎスカート短すぎ」というありふれたお小言を言われ、私も「うるさいなー私の勝手でしょー」というありふれた返しをして、ようするにまだ親をはじめとする大人への反抗心の残り火を、心に携えていた頃でもありました。
ひるがえって、そこの女子大生達身なりときたら、なんとまぁ全体的に薄ピンクなひざ丈か。
みんな白or黒orベージュを貴重としたパールのついたツインニットとか着て、髪色もメイクも楚々として、どこに出しても恥ずかしく無いお嬢様方という感じなんですね。
かたやこちらは実の親にも「夜鷹か!」と言われる恰好ですから、きっと巣鴨に居るおばさま100人に「息子が連れてきたら追い返すのはどっち!?」って聞いたら99人が私を指差すでしょうね、ええ。
つまり、私と女子大生たちは見た目と言う点では明らかに「異種」で、そして世の中的にもし私と女子大生を「いい子・悪い子」に分けるなら、絶対私のほうが「悪い子」に分類されるっていうのは分かっていたんです。
すでに色んな場面で大人からはそういう扱いをされていましたから。
だからこそ、この電車内の女子大生たちのワイワイガヤガヤな状況は、私にとって余計に腹立たしかったんです。
その気持ちとしては
私は身なりが派手でも公共の場で人に迷惑はかけないぞ、と。
身なりが清楚でもこんなにマナーの悪い子がここにいるぞ、と。
そういう感じ。
大人たちはいつもどっちが良い子か悪い子か見た目で判断するでしょう?
本当に見た目が真実なの!?今のこの状況を観てみなよ!?
大人はなにも分かってないよ!
先生あなたはか弱き大人達の代弁者なのか!
夜の校舎盗んだバイクで窓ガラスかち割ってミラジョボビッチ登場のバイオハザードなのか!と。
最後よくわかりませんが、要するに私は、普段は周囲が私に対して「こういう女子になれ」と引き合いに出すような「身なりの整った女子達」が、やってることは「見なりの乱れた私」より、悪いじゃんよ!という苛立ちをいつもその車内では感じていたんです。
で、そんなある日の電車内での出来事。
私はまた彼女たちと乗り合わせてしまって、いつもの喧騒から逃れるためイヤホンで音楽を聴き、夏だったのでサングラスをして、大人しくシートに座っていました。
すると女子大駅の次の駅で、1人のお年寄りが乗ってきたのが分かりました。
杖をついたお婆さんでした。
車内の乗車率はシートが全部埋まってて、立っている人が10人くらいいる感じです。
端のドアから乗ってきたお婆さんは空いている席がないか見ながらゆっくりとこちらへ歩いて来ました。
図にするとこういう具合です。
PCからじゃないと小さくて分かりずらい図になってしまいましたが、〇は人を表しています。そんで左下の赤丸が私で、右の赤丸がお婆さんです。
〇は全員ではありませんが、ほぼ女子大生です。
私はこの状況で、それまでの静かな苛立ちが、とうとう怒りに変わりました。
なぜかと言うと、おそらくお婆さんは右上のドアから乗って来てると思うんですが、このオレンジのゾーンらへんに座っている女子大生が一人も、ただの一人もお婆さんに席を譲らなかったからです。
譲らないどころか、お婆さんに気付いて「譲ろうかな…」という素振りが伺える子もいなくて、みんな相変わらずおしゃべりしてたり携帯をみてたりしたまんま。
「こんなに杖も突いて明らかなお婆さんが乗ってきているのに、この子らまじか!?」
私は彼女たちのマナーの無さにさすがに怒りがこみ上げました。
で、いても立ってもいられなかったので、私は立ち上がってお婆さんの所まで行き、声をかけました。
「あの席、もし良かったらどうぞ」
「ああ、わざわざどうもねぇ、助かります。」
お婆さんは普通に嬉しそうに席に座ってくれました。
今思えば、この時の私はお婆さんに親切にしたい優しい気持ちだけでなく、同じくらいその裏で汚い気持ちも働いていました。
つまり、女子大生達に対して「見てやがれ」的なイジワルな気持ちがあったんです。
その証拠に、私が席を譲ったところを目当たりにした私の近くの女子大生の何人かが「あ…」という表情をしたのを見届けた時、私はスッとした気分になりました。
「スッとした」ということは、席を譲ったのが親切心オンリーからじゃなくて、女子大生に反省を促すため「善い行い」を自分がしてみせる、その道具にお婆さんを利用して、表面的にはそれが「親切」に見える行為だった、だけです。
だから、ここまで話が終わると「なにが心温まるマナーの話だ桜島!お前のは自己満偽善行為だろ!」って怒られちゃう話なんですけど、まだ続きがあるんですよ。
私は席を譲った後特有の気恥ずかしさもあり、そそくさとドアの前で立って外を観ながらただ到着駅を待ちました。
車内の様子は見ていませんが、相変わらずイヤホン越しには女子大生たちの喋り声が響いていました。
私は少しスッキリはしたものの、やはり彼女たちの声を聴いていると反発心が刺激されるので目をつぶってイヤホンから流れる音楽に現実逃避をしていました。
図にするとこうです。
別に図にする必要が無かったかもしれませんが、とにかくこんな感じでいました。
すると、私の肩がちょんちょんと突かれて誰かに「すいません」と声を掛けられました。
「え?」と驚きつつイヤホンを外しながら振り返ると、1人の女子大生が立っていて、私にこう言うのです。
女子大性 「あの、席が1つ空いたのでどうぞ…」
私(????な、なん?)と思って、その子が指し示す座席を観ると
こうなってたんです。
一瞬意味が分からなくて「え?ああ、え?」となっている私に、お婆さんが言いました。
「この子らが詰めてくれたから、あなたも座れるよ。ここ座りんさい。」
なんということでしょう~!
匠の技で7人掛けの椅子が8人掛けに早変わり~!
って違います。
つまり私が譲った席のあるシートに居た女子大生の一人が、他の子全員に声を掛けてギューっと詰めさせ、無理矢理あと1人座れるスペースを作り出していたのですよ!!
言われてみれば喧騒に耐えている時、かすかに「そこ詰めて」とかいう声が聞こえてました!納得!
状況が呑み込めた時の私、顔真っ赤だったと思います。
でも女子大生も皆真っ赤でした。
なんだよ!いい子達じゃんかよ!なんだよ!
そして私に声をかけた女子生が先にその隙間に座り、私は(尻入るか?)と思いつつその0.8人分くらいの隙間に「へへ、どうも」と座らせて頂きました。
やっぱり隙間はちょっとはキツかったんですが、尻を押し込めてたらお婆さんが「だいじょぶ、みんなはババアと違ってちっちゃいお尻だからね。座れる座れる。」と言ったので、思わず女子大生も私も一緒に「あはは」と笑いました。
その笑いで場は和み、女子大生と私の垣根が無くなったような感じがしました。
お婆ちゃんありがとう!そして女子大生ズもありがとう!
この件があってから、それ以降も電車に乗ると女子大生集団のうるささは変わらなかったんですが、私も前よりは生ぬるい視線で眺めていられるようになりました。(暖かい視線まではいかないけど冷たい視線でもないという意味)
それに今でも私は電車に乗ると、この時の尻のキツキツな固定感を思い出しては心が温まります。
あの時の女子大生達もどこかで尻のキツキツ感を思い出してるといいなと思いますね。
そういう話です。
って、これ今日はJR西日本が企画した「電車内での心温まるマナーの話」っていうことで思い出して書いたんですが、ふつうにJRの人に「規定以上の人数で座らないで下さい」とか言われたらマナー違反の話ですかね、今気が付きました。
ありゃりゃ。まいっか。
では、今日はこのへんで、次回からはいつも通りギスギスした話を書きますのでよろしくです。
「ドSな男子にドキドキ」のドキドキはただの防衛本能だぞっ☆
はじめに
映画「パラダイス・キス」を初めてテレビで観た私は、北川景子に対して終始命令口調な向井理の役に「なんなんだこの偉そうな男は」と思った。
M家にはなんでも漫画好きのお姉さんがいるとのことで、彼女の家には「ザ・少女漫画!」な揃えの棚があり、Mちゃんと夜「まったりしよう」となった私は彼女が「もうこれホントにトキメクから!」と薦める一冊を読み始めました。
ところが、その漫画がまったくと言っていいほど面白くないんです。
確か読み切り作品の詰め合わせみたいな一冊だったのですが、私はどの話もまったくピンと来ませんでした。
なぜならどの話も主人公は「恋愛に奥手で元気だけが取り柄のいたってフツーなワタシ」みたいな女の子で、その恋の相手は「家庭環境の複雑さゆえ他人に心を開かない彼」や「過去につらい恋愛をしたトラウマで女子に優しくできない彼」だったのですね。(顔はとびきりイケてる設定)
まぁそこまでは人物設定としていいとしても、男の台詞がね、喋れば全部「お前〇〇なんだよ。」とか「俺に構うな。」とか、終始ぶっきらぼうな上から口調なんですよ。
で、主人公との交流はそんな感じなので、主人公は彼の言葉や態度に怒ったり悲しんだりするんですが、なぜか彼の事を好きになっていくわけです。
んで話が「起承転結」の「転」で主人公何らかのピンチになると、この男は今まで全然優しくしてこなかったくせに突如「俺の女を泣かすな!」とか「勝手に一人で行くんじゃねーよ。俺の手をはなすな。」とか言って女の子をグイと抱きしめたり、手を引いて走り出したりするんです。
もう「はぁ?」ですよ。
いや、お前なにその急ハンドル?いつこの子が「お前の女」になったよ?つーか彼女だとしても「お前のもの」じゃないし!こら勝手に抱えるな!物陰で強引なキスをすな!そして女!そいつに何回泣かされたか忘れるな!ポッとすな!
Mちゃんが横から覗き込んで「そこ超良くない!??」と煽ってくるまで私は脳内でディスりツッコみが止まりませんでした。
そして「この世界観なんなの…わからない世界がここにある…!」というプチカルチャーショックを受けていました。
あ、書き忘れましたが私は子供のころからかなり漫画を読んで育ちました。だから「漫画自体」にカルチャーショックだったわけではないんです。
でも私がそれまで読んできたのは兄が買ってくるジャンプ、ヤンジャン、ヤンサン、と、かなり歳上の姉が買っていたティーン向けではないやや大人向けの漫画雑誌か、往年の人気漫画(萩尾望都とか大島弓子とか山岸涼子あたり)だったので、M家にあったような「中高生向けの等身大の恋愛漫画」はたぶん私の人生初だったんです。
私は「ドS男子×普通女子の胸キュンストーリー」は、無愛想、乱暴、強引等々、ただのDV兆候がある男子を「ドSな彼」とか言って崇めるヤバい文化だと思ってるし、女子若年層が歪んだ男性観を身につけてしまう原因の1つだと思ってるので、政府発行の漫画までこんなだともう本当にこの国ヤバいと思う
— ふつうの桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2016年5月22日
こんな事を書くと既存の「ドS男子×普通女子のラブコメ漫画作品」には既にファンがいて、気分が悪くなるかもそれないので、そこは謝るけど、私が言いたいのは、私は個々の作品に恨みがあるわけではなく、あくまで、その男女の組み合わせばかりの恋愛物語が少女漫画の主流であることによって、
— ふつうの桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2016年5月22日
多くの若い女の子が「恋愛とは女子が強引な男に振り回されるものである」という間違った常識に洗脳されてしまうことを恨んでるの。私の周囲調べだと、大人になってから「彼氏がヤベぇ奴なのに逃げない女子」の共通点に「少女漫画育ち」というのがあるので、これは切実に思う。
— ふつうの桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2016年5月22日
「被災地女性は自衛隊に手を振って」のおかしな所をまとめた
このたび九州地方を襲った震災により被害を受けられた方々には、心よりのお悔やみとお見舞を申し上げます。
はじめに
twitterをされてる方はどなたも同じ状況だと思いますが、14日以降のTwitterでは震災関連の話題が多くを占めています。
その中で私の周辺では、あるひとつのツイートが問題になっていました。
私もそのツイートについては思うところがあったので、すでにTwitterではいくつかの呟きをしたのですが、その話題に触れている方々のツイートを観ると、ここ数日でもまだ賛否両論が相容れないバチバチ状態になっている様子なので、今日は改めてそのことに関して私が思ったことを整理して書き残しておこうと思います。
なお、私が今から書くことは元々のツイートをした方に対する敵意や攻撃が目的ではないのは前提としてご理解いただきたいです。
もちろん、こうして書いているのは元々のツイートに私が「ん?おかしくないか?」と思ったから書いているわけですが、それでも私は「おかしいだろ?あーん?」という難癖を付けたくて書いてるわけではないのです。
ただ、その元々のツイートに関して色々な人が「言ってる事がおかしい」VS「いや、おかしくねーよ」の言い争いになっている現状を眺めるうちに、私が「おかしいよ」と思う側の一人としてある程度まとまった意見を書くと「もしかしたら対立する両者の相互理解に役立つかもしれないな」と思ったので、そういう目的で書きます。
私はこのところ「偽善者」と言われることが時たまありますから、今回も「また善人ぶったウエメセ長文ババァ乙」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、どう思われても構いませんのでこの文章が「件のツイートをやり玉に挙げる」のが主旨ではないという事だけは伝わるとありがたいと思います。
おかしいと思う要点は2つ
さて、先ほどから「元々のツイート」と書いてる件のツイートですが、勝手にツイートを貼るのはご本人が不快に感じるかもしれないので、リンクは貼りません。(もしご本人の希望があれば貼りますが)
そのツイートは現役自衛官と思われる方によるもので「自衛隊車両を見かけた女性(女子高生)は隊員に手を振ってあげてください。元気の源になるし作業時間外の話の種になりますんでwww」というものでした。
私がこのツイートを初めて目にしたのはこれ単体ではなく、別の方による「支援者が支援対象に笑顔やら感謝の言葉を期待してはいけない。」という旨の引用ツイートと合わせてでした。
その時点ですでに「賛否」で言えば「否」のバイアスがかかっているので、その点を「桜島は元ツイを公平に判断できてない、身内目線で観てる。」と指摘されたら確かに私には「そうじゃないよ。」と証明するすべがありません。
でもいくらかの反論をさせてもらえるなら、私はそこに書かれていた「支援者が支援対象に笑顔やら感謝の言葉を期待してはいけない。」というのは、既に心得ている事でした。
何と言ってもこれ「対人援助」を仕事にする上で「基本のき」なんです。
つまり、私はいちおう福祉畑の人間ですから、自分も含めてこれまでの仲間内でも介護や医療や福祉分野で真面目にやってる人にとってはこれは「そんなのは踏まえてて当然」のことで「言うのも野暮なこと」という認識でいました。
だから私は元々のツイートを単体だけで目にしたとしてもやっぱりその内容が「支援者が支援対象に笑顔を要求」している時点で、自分は「変なの」と思ったと思うんです。
まぁここは「たられば」の話なので、信じられなければ本題ではないですし、別にいいんですが、とりあえずそういうわけで、私はその元ツイートについて引っかかったので、よく考えて「自分はこのツイートのどこが変だと思うか」の要点をまとめてみました。
要点は2つ。
1つは、今すでにあがっているように
「プロとしての支援者が、支援対象に笑顔やら感謝の言葉を期待してはいけないんじゃないか?」ということ。
2つめは
「自分達が手を振ってほしい対象を女性(女子高生)に限定することの失礼さがすごい。」ということです。
私の言いたい事はそれだけですが、さすがにこれだけだと言葉足らずだと思いますので、次の章で1つめから順に説明をしていきたいと思います。
人助けのプロは「要支援者が助かること」以外を求めない。
まず1つ目の「プロとしての支援者が、支援対象に笑顔やら感謝の言葉を期待してはいけないんじゃないか?」について書きます。
元ツイは被災地の女性に向けて「手を振ってください。隊員の元気の源になるから」と呼び掛けている内容なのですが、これについて私は、自衛官の中のお一人がそう書きたいお気持ちはすごく分かります。
自衛官の方は自分の家族を差し置いてまで真っ先に現地に飛んでますから、そこで被災者が「来て当然」とばかりにシラーっとしてるより「笑顔でお礼を言われたり手を振られる」があったほうが、やりがいや喜びを感じるのは、もう人として当たり前の心情です。それがあるほう皆さん頑張れるに決まっています。
でも私はそれがいくら事実でも、支援者側から「乞う」たらアウトだと思うんです。
あくまでこれは
支援される人のお礼という『現象』⇒ 支援者の喜び・励みという『結果』
が正しくて、そこに大事なのは「現象」が生んだ「結果」であるという順番だと私は思います。
いくら過去の前例で「この因果関係はセットだ」というのが人々の常識だとしても、私はこの順番を破り「結果」のために「現象」を起こそうとした時点で、もうそれはプロの仕事ではなくなってしまう気がするんです。
この感覚は「美学」と言ったらクサいですが、その感覚が持てるか持てないかで同じ職業間でも「プロ」と「そうでない人」に分かれる所なのかな、と思っています。
もしこれに納得できない方は想像してみてください。
もし老人ホームの利用者入り口に「利用者の皆様へ、介護士が出勤したら笑顔で迎えて下さい。仕事の励みになります。」と張り紙がしてあったらどう思うでしょうか。
「え…なにここ…。そりゃそうだけど、それってそっちから言う事か…!?」って思いませんか?
つまり「支援者」が「要支援者が助かる事」以外の見返りを求めることは、そういう変な違和感を「支援される側」に感じさせる行為なんです。だから、それを1ミリも感じさせずに支援を提供するのが対人援助のプロの仕事かな、と私は思います。
さて、それでもやはり「被災地での話を老人ホームにすり替えるな!」と思われる方がいるかもしれません。
その場合は元ツイに登場する「自衛官と被災者」を「ボランティアと被災者」に置き換えて考えてみて下さい。
もし被災地へボランティアに出向いた人が現地で「県外からのボランティアを見かけた女性(女子高生)は手を振ってあげてください。元気の源になるし作業時間外の話の種になりますんでwww」とツイートしたら、どうなるでしょうか。
たぶん「てめーふざけんなし」「何目的で行ってんだよ」「こんなやつボランティアに来られても迷惑」という批判ばかりがこってり来るんじゃないかと思います。
今回の自衛官の方によるツイートは同じ内容なのに、なぜそういう「批判」だけでなく、ちゃんと「擁護派」もいるのかと推測すると、たぶん日本の多くの人の頭には、すでに3.11以降「自衛官」という職業へのリスペクトがあるから「彼らの本音を大目に見ろよ」という擁護心が働きやすいからじゃないかな、と思います。
でも私は話の本質として「支援者は支援対象者に何も求めるべきではない」については、ボランティアでも自衛官でも同じように適用(むしろ自衛官のほうがプロだからちゃんとするほう)だと思いますから、「自衛官だから何を言って批判するな」とするのは変かと思います。
もちろん自衛隊は大所帯ですから、色々な自衛官がいて、その中には「女の子が励みになるんだよぅ!」が本音の自衛官もいて当然ですし、自衛官の方は普段は一般人から「税金泥棒」とか言われつつも有事の際にはいきなり「聖人君子のスーパーマン」な言動を強要され、そういう「民間人からの扱いの乱高下」に飽き飽きしていると思いますから、内心「俺だってそこまで人間できてねーよ。」と思ってる方も非常に多いと思います。
だから、その点を踏まえれば元ツイは「一部の人間らしい正直な自衛官」による「ただポロっとこぼした呟きだったのかな」と私も思うんですが、だとしても「職業の看板背負ったまま」あの発言をしてしまったのは迂闊すぎると思いました。
なぜなら、やっぱり自衛隊という大所帯の中には、正義感と使命感で被災地での活動に力を尽くしているプロ意識の高い自衛官も存在していて、そういう精鋭の本音を言わせれば、元ツイとは間逆だと私は思うからです。
たぶん精鋭にツイートさせたら「被災された方々から自衛隊へのお気遣いはありがたく思いますが、どうか我々に気を使うことで余計な体力を使わないで下さい。」って感じになるんじゃないかと思います。
まぁ「こんなスーパーマン居ない!」と茶化したい人もいるかもしれませんが、私はどの分野にもプロは一定数居るものと思ってます。
実際、私が今まで観てきた医師や看護師や救命士といった「人の命関わる仕事」で「この人プロだわぁ」と思った方は、要救助者に見返りなんて全く求めていなくて、彼らを動かすのは命や仕事に対する使命感だけのように見えました。その気高さには「神聖さ」さえ感じます。
だから私は元ツイを読んだ時に「人命救助、対人援助のプロがいる職業」の看板を背負ったままこうやって軽はずみな発言をしてしまうと「職業そのもの」や「プロ意識を持ってやってる自衛官」の顔に泥をぬる行為になってしまうので、「やめた方が良かったのでは?」という感想を持ちました。
仮にこれが被災者側から自発的に出た「自衛隊さんに手を振れる人は振ると彼らも喜ぶよ」というツイートならば、同じ内容でもまだ事態はおかしくなかったのかも、と思いますが、よりによって自衛官側から発信していたので、次の章で書く要素とあいまって批判が多くなってしまったのだと思います。
要支援者に「色目」を意識させないで欲しい。
では、ここからは2つめの 「自分達が手を振ってほしい対象を女性(女子高生)に限定することの失礼さがすごい」について書きます。
これはもう読んで字のごとくそういうことなのですが、確かにこの世の中「女が好き♡しかもなるべくなら若いほうが好き♡」という心情をお持ちの男性がゴマンといるのはもう世の中周知の事実です。
その事実はあまりにも常識化し過ぎているので、この国に住む私たちは男女共にそれを「飲み込むこと・飲み込ませること」に慣らされてしまっている気もします。
だからこそ巷の安居酒屋に張ってある「20代女性は生ビール半額、ミニスカならさらに一杯無料!」みたいな「ガハハエロじじいノリ」の張り紙もこれまでの時代は「ちょっとしたシャレで~す」で通ってきてるわけで、それに対する「女性に失礼でしょ」という声も「うるさいフェミババア発言」としてスルーされてきてるんだと思います。
でも、酒場はある程度「下品なことを言っても許される場」ですから、こういう「女の子大好き~若い子大好き~♡」を前面に押し出した発言もまだ「他の場所で発言するよりは許容」されていますが、その発言が「失礼」な事に変わりはありませんから、時と場合が変われば、これは本当に「ただのゲス発言」でしかなくなります。
その「失礼さ、ゲスさ」がどういうものかという説明が分かりやすくなる為に、ここでひとつ私の友人の話を載せます。
友人の自衛官が東日本大震災で派遣された時の話。避難所で仕事してたら老夫婦が来て、お礼を言われたそう。なんでもお婆さんの方は水没した家から他の隊員に助け出された人らしく、その時はお礼を言いそびれたので、どの人でもいいから自衛官にお礼が言いたかったらしく、彼にお礼を言い始めた。
— ふつうの桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2016年4月18日
ところがお婆さんは「お兄さん達だって危ない場所に助けに来るんだから、若い女なら助け甲斐もあるだろうに、こんなババアまで助けてくれるなんて神様だ」というような事を言ってたそうで、彼は帰ってから「なんか複雑なきもちになった」と言っていた。そして「俺らさ『助け甲斐』なんて、若い女だから
— ふつうの桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2016年4月19日
とか意識してないよ。くさい事言うと『命』だったら何でも助け甲斐があると思ってるから、その助けた自衛官もきっと婆さんとか若い女とか意識無く助けてたと思うし。でも助けられた人はそう思ってるんだなーと分かったらなんか俺らの仕事ってそう見えてるのかと複雑な気持ちになっちゃって…」と話して
— ふつうの桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2016年4月19日
て、私はたまたまそんな話を聞いてたので、最初の「被災者の女性は自衛官に手を振ってね」ツイートを読んだ時に、なるほど、こういう自衛官も実際いるから周りも「ババアじゃなくて若い女助けたいでしょ」発想があるんだなと思ったわけです。
— ふつうの桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2016年4月19日
という話なのですが、私は彼が「複雑な気持ちになった」原因は、率直に言えばそのお婆さんの言葉に対して「そんな目線で自分はここに居ないのに。」と思ったからだと思うんです。
つまりこのお婆さんの発言は、彼や救助に当たった自衛官にとっては「失礼」だったと私は思います。
しかし同時にそれを「失礼だけど仕方ないこと」だとも思います。
なぜなら、お婆さんはこの世に浸透している「男の子は女が好きでしょ」っていう「シャレ」が染みついている世代の人だし、公人でもなく被災された1人の民間人の立場だけでものを言うのだから、そこでご本人の気が済むなら冗談でも失礼でも咎められる立場ではないと私は思うからです。
しかしそこに「失礼さ」があったのは確かですから、その「失礼さ」がどういうものかというのは明らかにしたいところです。
そこで考えてみたところ、そのお婆さんの発言の失礼さをまとめると、要救助者に対して「老若男女関係ない気持ち」で職務に当たっているプロに対して「男だから若い女をより好む目線を持ちつつ現場にいんでしょ。」という見方をしたこと。だと思いました。
で、私はこの「失礼さ」と元ツイの発している「被災女性に対する失礼さ」の根っこは同じ気がします。
それは、被災地という「生死に関わるレベルの話」がされている場所での話題を、一気に「色事目線(ようするにシモ関連の話)」に引きずり下ろしているところ。が共通するからです。
そういう風に「話のレベルをシャレや冗談の出るレベルに下ろす行為」っていうのは、被災者側から出るぶんには良い傾向だと思いますが、支援者側からやっちゃダメな事ではないかと私は思います。
なぜかというと、被災された方々にとって当面は自分達の生死や衣食住が深刻な状況で、まだその「命のレベルでものを観て考える」をしている段階なのでそこへ、安全圏に住む支援者が現地に「色事や冗談話ができるレベルで来ている」のが分かると被災者にとっては侮辱されているとも取れて、一言で言えば「こっちは真面目な話してんのにふざけんな」となるからです。
だから、私は元ツイが被災地の方へ向けたメッセージのテイを成しながら、色目冗談レベルの話だったのでそこがあまりにも失礼だと感じました。
あと、自分がもし被災していると想像してみたら「命単位で仕事に向かってる自衛官」や「生死の瀬戸際から生還した人々」の中に混じって平時の飲み屋ノリで「女の子が手を振ってくれたら嬉し~」「おばさんだとがっかり」と思ってる自衛官がいるということを知ったら、私は自衛官に失望します。
たとえそれが一部の方だけと分かっていても、自分から自衛官の方に手を振ろうかな、と思った時に「まてよ、手を振ったら後で彼らに『あの人可愛いかった』だの『いや、30超えてそうだから無いわ』だの「作業時間外の話の種にされる」かもしれないんだ…じゃあやめよ。」って思って手を振るのをやめます。
プライバシーが保たれない環境で避難生活をしている方は、ただでさえ「他人の視線」が煩わしいはずです。その視線にさらに「色目」も混じり、しかもそれが「支援に来てる男性自衛官からも向けられてる。」なんて事が分かったら、被災地の女性にとってはひどいストレス源です。
そういうわけで、元ツイは「だだ被災した女性に『自衛官による色目が少なからず向けられているよ』という事を知らせる不要な情報」だったのかな、と思います。
というわけで、今回、この元ツイを問題視された方にはそれぞれの視点があると思いますが私が「変」と思ったのは以上の2点です。
「本当にうるさい女はいちいち何言ってんの?」と思う方に「こちらが何言ってるのか」がいくらかでも伝われば幸いです。
最後に
ここまで散々と書いた内容が、元ツイ自衛官の方をこき下ろす文章になってしまいましたが、ただ一点だけ最後に自衛官の方を擁護したいと思います。
私は、この発言の「内容」はともかくとして、この自衛官の方はまだ「ネットでの発言」に関して「声の大きさが自分では選べない」ということに自覚がないだけで起きたこたかな、と思います。
「隣の席の人に向けた、ほんの冗談」としてつぶやいただけのことが、SNSだと拡散されていつの間にか街頭で拡声器で喋ってるくらいの声の大きさになります。
私もこのところ、その怖さや扱いの難しさに困惑することがありますので、元ツイの方もうっかり内輪ウケする事を書いたら大勢に批判されて驚いているかもしれません。
しかし震災関連についての発言はとてもデリケートです。
だから、このメッセージが軽いノリではあるものの「内輪ウケ」から「被災された女性の方へ」の呼び掛けの形をしていたので、多くの人が「被災者を思って」意見したくなったのだと思います。
いま、被災された方々を思う気持ちは、それぞれの心に大なり小なりあると思いますので、どうか協力してそれぞれが出来る支援を届けられると良いと思います。
被災された方々に1日も早く心休まる日が来る事を願って書きました。
ではまた。
「女の子はバカでいい」と思ってた私をグリーっとしてやりたい
はじめに
この件については「触れたら負け」感がするのでちょっと書くのをためらいました。
でもここは「沈黙はOKのしるし」とされるお国柄ですし、Twitterにぽろぽろ書くだけでは流れていってしまうので、やっぱし嫌だと思ったことは嫌だということを示し残しておくために、書いておこうと思います。
何がって?そりゃ「女の子はバカでいい」こと秋元康の書いた「アインシュタインよりディアナ・アグロン」の歌詞の件ですよ。
でも「秋元康が女の子をバカにしてて、バカにしつつも金儲けの道具にしてる」のは今に始まったことではありませんし、そういう話は前にさんざん書いたので今日は「秋元とアイドルががどうこう」って話は書きません。(↓欲しかったらこっち読んでください)
代わりにどうやって今の気持ちを表現しようかなぁと考えましたところ、自分の話を書くことにしました。
なにを隠そう今はこんな私ですが、私自身が若い頃「女の子はバカでいい」ということに「そうだよね」と思っていた女の子だったのです。
でも、人は変われば変わるもので今の私はその頃と考え方が180度違います。
だから、秋元康の歌詞の醜悪さはリンク先に書いてある皆様の感想がすごく私の気持ち通りなので、私にできるのは、自分なりに昔「女の子はバカでいい」と思っていた頃を振り返りつつ「そのころの自分がいかにバカだったのか」という反省文を書くことかなと思いました。
それで、もし読んだ方がそれぞれなにか思うことがあれば幸いです。そういう動機で書きます。
恋愛のことを書くにあたって
私はこれまで自分の具体的な恋愛史を書くのはなるたけ避けてきました。
でも今日は話の説得力を増すためというか、背景として書かなきゃどうにもならないので書きます。
ちなみになんで書くのを避けてきたかというと、単純に「恥ずかしい」というのもあるのですが実は正直なことを書くと、私は、16歳以降いわゆる「一度も男が途切れたことがない」のです。
「知るかよ」って感じでしょ?
そうなんです。
だからこれまでもこういうことを「書こうかな」となった時点で頭の中は
うー、卑屈な感じに「身の程知らずがいけしゃあしゃあとお恥ずかしい限り」みたいに書いても、逆に堂々と「私にとっては普通のことなので当たり前に書きますけど」みたいに書いても、どっちに転んでも文章では読み手は「なんかそんなことわざわざ書くなんてやなやつ」としか思わないだろうなぁ、ああ、どういう風にかけばいいのやら
という私の自意識がぐわーごちゃごちゃとなってもう自分自身が面倒くさくなってしまうので恋愛の話題を書くのをやめてきたんです。
でも、今日はこんだけの前置き自体うざいと思うんですけど、ここまで書いたので恋愛のことも含めて書きます。はじめに言っときますが、私のこと嫌いにならないでください!
私の色恋遍歴
私は末っ子で兄が2人いて、兄からの寵愛をだいぶ受けて育ったのと、おませだったせいか、小学生のころから色恋ごとを得意としていました。
私は「色恋ごとが得意か不得意か」というのは、結局のところ顔の良し悪しや性格はさほど関係なくて「他人への好奇心」が強いかどうかだと思います。
その点でいうと私はどうやら人一倍他人への好奇心が強かったので、その適正がありました。
だから、簡単に人のことを好きになってしまう性格もあいまって、結婚するまで(いや結婚後もわりとあった…清算済み)ひたすら恋愛にかまけていました。
「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったもので、人間、好きなものへの集中力・観察力といのは惜しみなく発揮するんですね。
若い頃の私の恋愛は、まるで蟻が好きな少年が「クッキーを置けば蟻が集まるのかミミズの死骸を置けば集まるのか色々と実験してみる」ように、好きな男性に対して「どういう振る舞いが好まれるのか」と色々と思いついては試してみるのが楽しみでした。
男性への試行錯誤の繰り返し、理科でいうところの「観察・仮説・実験・考察・検証」をひたすら続けて、相手や自分の気持ちの揺れ動きを味わうゲームのような恋愛を繰り返していると、20代になる頃の私には大抵の恋愛ハウツー本には書いてあるような一通りのこと(「男子の話には大きく頷き、聞いたことのある話でも初めて聞いたように振る舞う」とか「嫌なことでも無下に断らず、笑顔で代案を出して男子を傷つけないようにすること」とか「ボディタッチが効果的」とか諸々)が自然と身に付いていました。
そういう自分なりの「愛され女子マニュアル」の編集が脳内で進んでいて、それに従えばたいてい「いける」と思った男子は落とせました。なんなら後半「男子ちょろい」とさえ思ってました。(ごめんなさい!ぶたないで!)
今になって思い返すと、若い頃の私のしていた「恋愛」は交際相手がずっと夢見心地で居られるように振る舞う「一連のサービス業」みたいなもので、ようするに自ら進んで「男の人の需要を満たせる女」というのになっていたわけですから「そりゃそんだけ合わせてたら好かれるだろうよ。」ってだけのことなのですが、当時の私はそのことに全く気が付かずのんきに「男、途切れんもんだなー」と思ってました。
それで、恥と軽蔑をしのんで私の男性遍歴をさかのぼりますと、まず私は小学生、中学生の頃から片思い、両想い、チュー程度のことはあったのですが、それは子供のお遊びのようなことなのでノーカウントとして、本格的に男性とお付き合いをした高校2年生の頃からの話をします。
高校2年生の頃からずっと付き合っていたのが一回り以上年上の社会人男性(バイト先の社員)だったのですが、進路のことを考える年になると、彼が言いました。
「ニニちゃんは成人したら俺と結婚するんだから、卒業したら二年ぐらい家事手伝いでもしてなよ。」と。
私は当時「結婚してお嫁さんになる」ということの具体的なイメージは持ち合わせていなかったけど、ただ「好きだからいっか」と深く考えずその言葉をホイホイと聞き入れ、(確かその前にもっと本格的なプロポーズがありましたが)進学も就職もせず進路希望の紙にはマジで「進路:花嫁修業」と書きました。(ほんとうに恥ずかしい)
それでいて、周りの女友達が進路をああでもないこうでもないと悩んでいるのを観て、自分は特に悩まなくても進路が決まっていることに優越感を感じていました。
いまこれ書いてて自己嫌悪の嵐です。
結局は、卒業してフリーターになってぶらぶらしているうちに私は他に好きな人が出来てしまってその彼とは別れたのですが、双方の親に挨拶&婚約済み&20歳の誕生日に結婚を前提とした同棲を始めることが決まっていて、その引っ越しの2か月前に別れたものですから、その時は色々と大変でした。
でも、その頃もあんまり物事を深く考えてなくて、私は「とりあえず好きな男子と付き合えてればオールオッケー」という、とんでもビッチ脳でして、それなのにそんな婚約破棄までして付き合い始めた男子(専門学生)とは数か月であっけなく別れてしまいました。
でも専門学生と終りかけの時に知り合った男子(建設業)が間髪入れずすぐ好きになってくれたもんで、とっととその人と付き合いはじめて、その頃にはもう実家も出てフリーターをしながらその人と半同棲がはじまりました。
しかし私はとにかく色恋沙汰への好奇心旺盛で、一通りのことはしてみたかったし、需要があると答えたくなる性分もあって、その彼と付き合ってる3年間も、よその人とこちゃこちゃありました。
なんというか、今思うと「脳みそあんのか?」というくらい男の人が大好きで、いや、男の人に好かれてる自分が好き、だったのかもしれませんが、とにかく若い頃は恋愛してるのが好きでした。
「バカな私」に需要があった
私は別に「恋愛だけしてる女がバカ」だとは思いません。
でも後になって自分を思い返すと「もうちょっと恋愛のウエイトをほかのことに回して、自分の人生を真剣に考えていれば…」という後悔は実にあります。
いつも私は自分の人生を「隣にいる男」にゆだねていたわけですが、今になると相手がそんなに変わるなら「男にゆだねるのは不確かなこと」だと学習すべきなのに、なぜか私は全然学習しなくって、その学習の無さが我ながらバカだったと思うんです。
で、後々になって「私なんであんなバカだったのかな」と思い返すとですね、これはあれですよ、奥さん。
恐ろしいことに「男の需要」に応えようとすべく生きてたら、脳がそのように進化(退化か?)してたんだと思うんですよ。
あ、もちろん、これ「男子のせいにしたい」って話じゃないです。全部、自己決定の結果ですから私自身のせいだと思ってます。
でも、説明させてください。
実は私が高校生の頃からその23歳までの付き合ってきた相手には1つの共通点があったんです。
不思議なことに彼らは見た目も歳も職業もまったく違うのに、なぜか付き合って数か月すると、必ず同じフレーズを言ってきました。
それがこれ
「なんでそんな難しいこと言うの?」
私、いくつか恋愛を経て後から学習したんですけども、男女って交際数か月目までは「話」なんかしてないんです。してるのは「おしゃべり」なんです。(おしゃぶりじゃないですよ)
私にとって「おしゃべり」と「話」の決定的な違いは何かと言うと色々あるけど、決定的に違うのは「おしゃべり」は誰とでもできるけど「話」は出来る相手かどうか適性があるということです。
そしてその適正は実際に交際はじめの数か月の甘い期間(試運転みたいなもんですね)が過ぎてから「話」をしようと試みてみないと分からないんです。
で、私は好奇心が強いので、物事の「カラクリ」を知りたがる性格で、例えば彼氏との会話中に「いま●●と言ったけど、△△って言い方もあるのになんで●●のほうを選んだの?」というようなことを彼に尋ねたくなったり、テレビを観たり本を読んだりしても「これついて私はこう思うけど、そなたはどう思う?」という意見交換をしたいんです。
面倒くさいとお思いでしょうが、私はどういう形であれこういう「話」にちゃんと乗ってくれる人が私と「話が合う人」だと感じます。
べつに彼氏には必ず聞かれたことに答えて欲しいわけではなく、答えがないなら「これこれこういうわけだから答えたくない」でも良いんですが、とにかく笑ってごまかしたり、黙ったり、「わかんない」の一言で済ませたりしなければいいんです。(このニュアンス伝えるの難しいですが…)
でも、歴代彼氏らは軒並み「なんでそんな難しいこと言うの?」と言ってきました。
そりゃ交際当初の頃は付き合いでちゃんと答えてくれた人もいましたが、数か月すると皆がやや面倒くさそうにそのフレーズを出してきました。
「なんでそんな難しいこと言うの?」っていうのは、彼らの言い方のニュアンスを考慮して意訳すると「難しいこと聞くな」で、それって本心突き詰めると「うっせーな」ですからね。
つまり、試運転期間を過ぎて互いに本性を出し始めて、さぁ「話」をしてお互いの人間性を知ろうじゃないの、と私が思っても、返ってくるのがこの返事ということは、彼らがしたいのは「話」以下の、誰でも頭をそんなに使わず楽しくできる範囲の「おしゃべり」なんです。
だから、たぶん、私の付き合ってきた彼らの望んでいた彼女像というのは、自分の話に大きく相槌をうったり、少し難しいことには「んふふ、わかんない」と笑ってくれたり、ようするにpepperくん程度の受け答えだけして、しょっちゅうパンツを脱ぐ女だったんじゃないかと思います。
秋元康もそういう「頭カラッポ」な女の子を推奨していますし、たぶん一部の「男の需要」があるのは、そういう女の子なんじゃないでしょうか。
で、今35歳の私の脳みそで判断すればその時点で「はい、話あわないよー、やめときー」のストップ信号を出すんですけど、その頃の私の脳内では、まだ少女時代から編集してきた「愛され女子マニュアル」が絶賛大ヒット中でしたから、私はすぐ「あ、この人こういうの嫌なんだ!」と察知して、自分の質問をひっこめてたんです。
ばかー
今考えると、私は「男の人の需要を満たせる女」の威厳を保ちたかったのか、もう脳がそういう判断ありきの恋愛脳だったみたいで「好きな人とモメるくらいなら、嫌われるくらいなら、私が変わればいいんじゃん」という頭がすっかり出来ていて、そういう判断を無意識でやっちゃってたように思うんです。浜崎あゆみばりに何事も「だから分からないふりをしていた」んですね。
で、本当に恐ろしいのはここからで「質問をひっこめる」というのは、いうなれば「思考停止」なわけです。
人間の脳って思考停止を繰り返してると、筋肉が使わなければ減っていくのと一緒で、脳も思考力が減っていって、本当にバカになっていくんですよ…
つまり「バカのふり」が、いつしか「本物のバカ女」を作り上げていったんですよ!キャー
かのラーメンズ小林賢太郎氏は「?」が「!」に変わる瞬間が「STUDY(勉強)」だと言いました。
つまり人は「?」が「!」に変わる時に1つ賢くなる生き物なんだと思います。
でもその「?」が湧くたびに、そうやってつぶしていたら、そりゃあ私、1つも賢くなれませんよね。
そうして私は「男子の需要」にことごとく合わせたせいで、彼氏が嫌がりそうな私の「?」はいつもひっこめて思考停止して、ものを考える力を失って、いつの間にかバカの道を歩んでいたんだと思います。
しかも私が最大にバカを極めていた頃、私は自分でそういうバカさを開き直って肯定していました。
そういう恋愛を繰り返す私に「少しおちつけ」と助言をくれた友人に、口先だけで返事をして心の中では「でも私の方が男に愛されてるし女の子としては幸せだもん、ぷう」と思ってました。ああーごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!!!
今は本当に反省しています。(反省というか、もう、いま目から塩水出てます。)
「私がバカだから、バカ女好きの男が寄ってきた」のか「バカ女好きの男が寄ってきたから、私がバカになっていった」のか、始まりを突き止めるのは「卵が先か鶏が先か」みたいなことで、今となってはもうわかりませんが、とにかくその頃の私のバカさは、「バカな私」に需要があったからそうしていた。ということです…。
それが当時の私のバカさの理由で、今の私は今の自分のことが好きですが、それでも時々あの頃もっと「男子」以外の自分の好きなことを優先しておけば、あの頃もっと相手に自分の素を突き付けていれば、今頃どんな自分がいたのかな、と思ったり、迷惑をかけた人のことを思っては「女の子はバカでいいもん」と開き直ってた自分のこめかみをげんこつでグリグリーっとしてやりたくなります。
さいごに
昔の私は、正直言って自分でも「なんで私はそんなモテるんだろ?」と不思議でした。(ごめんなさい、ぶたないで!)
でも本当に、私は見た目全然ふつうなのになんで彼氏が途切れないのか、なんでちょこちょこ口説かれるのか、よく分かんないまま、男性に好かれることを心地よく思っていたんですね。
で、今思うとそれって、単に男性から見て私が「ちょろい女」だったからだと思うんです。
「お前が闇を観るとき、闇もまたお前を観ている」じゃないですけど、私が「男子ちょろい」と思って接する時、その男子もまた私を「ちょろい女」と思ってたんですよね。
だから互いの「ちょろい」という見下しから始まった恋愛は、結局愛情なんか本当は無くて、見下しと見下しの下層へ続く螺旋階段のいちばん下に「さみしいからなんとなく」とか「イケそうだったからなんとなく」という仄暗い水の底みたいな怨念が漂っていただけの関係性だったのかな、と思います。
もう過ぎてしまったことなので、私は今さら戻って色々やり直したいとは思いませんが、これを読んでいる若い女の子がもし私のような恋愛をしていて、大黒摩季の「恋愛中ってもっと楽しいと思ってた」という歌詞にグッときたりしてたら、それ脳の奥では危ないサイン感じ取ってる証拠ですからね。
どんなに好きでも、好きって実際あんましアテにならない感情ですから「今どんなにだませても、おまえ後で絶対目覚めるから、どうせなら今のうち若いうちに目を覚ませ!脳みそ使え!」と言ってあげたいです。
私は28歳の時に福祉の勉強をして、その後に介護の世界に入って自分の性格や適性が活かせる世界を知ることができました。
自分のスキルで得る報酬(それは金銭的なものもそれ以外のものも)の喜びは、昔男子に合わせてチヤホヤされていた頃の喜びの何倍もの感動がありました。
自分の頭を使って勉強をして知識を得てそれを生かすことの楽しさは、男性でも女性でも平等に味わってほしいことで、それが叶う社会であって欲しいと私は思います。
私の周りには20代後半になってからOL辞めて看護学校に入り直す子、中退した大学に入り直す子、ワーキングホリデーに行く子、そういう子が結構います。
彼女たちは一度はそれぞれ何かしらの道に(その時都合が良かった進路)進んでも、あとから自分の脳みそを使いたい欲求がくすぶり続けて、結局決心をして勉強して知識を得てそれを活かす道を選びなおした女の子たちです。
「バカ」で終わりたくない。
知らないことを知りたい。
知識を活かしたい。
生きてるうちにもっともっと楽しくなりたい。
私は彼女たちが自分の可能性に賭けて、そういう自分の欲求を押し通したところをとても愛おしく思います。
人の「可愛さ」って、そういうことに見出すものなんじゃないかな、と。
彼女達は、かつて「男子に愛される女として奔走していた頃の私」より絶対可愛いです。
年齢的には10も20も歳を取っていても、当時の私のほうが全部男に委ね任せて、脳みそ退化してましたから、それよりもみずみずしく少女らしいのは、いま勉強している彼女たちのほうだと私は本当に思います。
今の日本には「女の子はバカでいい」「女の子は頭カラッポでいい」という需要は、確かに一部の男性から根強くあると思いますが、私は「自分よりバカで非力な女」にしかそそられない男性は可哀相だなと思います。
なぜなら、その人達は自分の支配欲は満たせても真に愛情を感じる日が来ないからです。
「女の子という愛玩動物」でいくら遊んでも「人間同士の愛情のかかわり」の面白さにはとうてい及ばないからです。
なんかもう宣教師っぽくなってきたのでぼちぼち終わりにしますけど、とにかく女の子たちよ!
自分の人生は自分のために使ってね!隣にいる男子より、自分の脳みそと体の方が高確率であてになるよ!
何年も経ってから、過去の自分に「ありがとう」と言う快感は、隣にいる男に100回イカされるより快感だかんね!まじで!
未来の自分が幸せでいるためには、いまの自分ががんばるんばしかないんだよ!
どうか、この国に本当に素敵な女の子がたくさんふえますように。
最後にこれのせときまーす。
前に電車で男子大学生らしき2人組が「あの子は無いわーちょっとバカじゃん」「俺は彼女にすんならあんくらいバカのほうが扱いやすくていい。こっちが浮気しても充分言いくるめられる。」って会話してた。女の子はバカなふりしてるとこういう男子を引き寄せるからやっぱバカなふりしないほうが良いよ。
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2016年4月12日
素で「ゎたし本当にバカだから難しぃコトゎかんなぃ…」って女子も、感覚的に「なんか嫌だな」「おかしいな」って事を無視しないで「なんでだろう?」って考えてるとそのうち分かる時が来ると思うから、若いうちはその「なんか嫌だな」の部分に「ごまかして無視する癖」だけはつけないようにして欲しい
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2016年4月12日
ではまた。ねむい、おやすみなさい。
大の大人の「性欲がおさえられなかった」が信じられない。
これ↓あんまり報道されていなかったけど、先週の記事で児童自立支援施設の職員が元入所者の少女にわいせつなことをして捕まったってニュースです。
ここに犯人の「性欲が抑えられなかった」が出てきます。
「性欲が抑えられなかった」という供述を観るといつも私は「なんなん?」と思う。
その気持ちをもう少し言葉で表してみようと思います。
要点はこのニュースを観た日にすでにざっとツイートしたので、まずそのツイートをのせます。
睡眠欲も食欲も基本、抑えることは出来ない欲だけど「今ここではダメ!」という瞬間的な自制は出来るじゃない?性欲も強い人は抑えるの大変だろうけどでもその為に他人を傷付けて自分も犯罪者になってってなる位なら「今はダメ!」って抑えられないの?その「今はダメ」の理性を決壊させるほど
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) April 6, 2016
性欲って無軌道なものなの?もしそこまでマジに無軌道なら本人も困るし治療的なことをしたほうがいいと私は思う。でも「性欲が抑えられなかった」って言う人は、本当は抑える為の「今はダメ」すら「相手もしたがってるように見えるから多分大丈夫」て都合よく解釈する自己中な人ってだけな気がする。
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) April 6, 2016
この時のツイートで私が書きたかった要点をまとめるとこうです。
①】大の大人の性欲に「自制が効かない」というのが信じられない。
②】もし本当にそうなのだとしたら、その人は何らかの医学的アプローチで改善を図るべきだと思う。
③】でもそもそも私は①②の存在はあまり信じられない。(居たとしても稀だと思う)だから、大多数の性犯罪者は「自制が効かない人」ではなく「自制する気が湧かない人」だと思う。
④】なぜ「自制する気が湧かない」のかというと、被害者の言動を自分に都合良く「合意のサイン」に変換する脳みその持ち主だから。
言いたいことはこれだけなんですが、今日はこの4点について説明とか補足とかします。
まずは①大の大人の性欲に「自制が効かない」というのが信じられない。について。
私はいつも性犯罪のニュースで、ある程度普通に社会生活を送ってた犯人が言う「性欲が抑えられなかった」という台詞に戦慄を覚えます。全然信じられない。
なぜ信じられないかというと、これは自分基準になってしまいますが、今よりもっとお盛んだった自分の若かりし頃を思い返してみても「それはない」からです。
というのも、私はかつてどんなに性欲リンリンの時でもなにかコトを起こす前には頭の片隅で「法に触れるか?」ということが頭をよぎりました。
頭だか心だか場所は分かりませんが、私の中には「倫理審査委員会」みたいなのがあって、性的欲求に「解禁!」のゴーサインを出すのは、その審査「法に触れない?(場所、相手、行為に問題ない?)」にパスした時だけだったんです。(ちなみにその審査のあとに「倫理的にOK?」っていう審査もある)
酔ってても、やけくそな時でも倫理審査委員会は現れて、私はいつもその決定に従っていたので、その審査委員会を「どりゃー!!」と、踏み倒すほどの性欲というのが私には想像つかないのです。
ここで「なんでも自分基準にするな。性犯罪に至るヤツはそもそも心にそういう審査機関が無いんだろ」という意見もあると思います。
なるほど確かに性犯罪を犯すなんて「心に倫理審査委員会がない人だけ」と仮定すればやつらが「性欲に抑えが効かない」と言うのはたしかごもっともです。
でも私にとってそれは「逮捕した痴漢が無職のアル中&ギャンブル依存症のおっさんだった。」みたいな場合だけ納得できるケースで、性犯罪者の中では少数派だと思ってます。
つまり普段無軌道な生活ぶりをしてる人が「性欲が抑えられなかった」と言うなら私は確かに「なるほどこの人に倫理審査委員会は無さそうだ」と信じられるし納得できるわけですが、多くの性犯罪者は、窃盗とか道交法違反に比べて「まさかあの人が!?率」がすごく高いのです。
ということは、性犯罪者の多くを占める人は普段「性犯罪などしそうもない生活」を送っていた率が高いということで、私はそういう犯人が言う「性欲がおさえられなかった」が信じられないんです。
まさに、今回の自立支援施設の職員もそうですけど、そういう犯人はふだんは社会人として生活するくらいの法を順守しているわけだからそれなりに心に倫理審査委員会があるはずなんですよ。
なのに性犯罪を犯して捕まった時だけ、倫理審査委員が居ないふりをするのは変でしょう?
だから「そういう人には倫理審査委員会が無い説」を私は採用しません。
私は、彼らは「倫理審査委員があるのに、性欲の前では機能させなかった」が真実だと思うんです。
だから「抑えられなかった」って言うのを聞くと、え、抑えようとしてないのに、なに「抑えたけど無理だった」みたいに不可抗力感出してんの?ズルくない?という感じです。
そういうわけで「性欲が抑えられなかった」という言葉が本心だと私は信じられないんです。
ではここからは、②もし本当にそうなのだとしたら、その人は何らかの医学的アプローチで改善を図るべきだと思う。の説明です。
①に書いた通り私は「性欲が抑えられなかった」って言い訳が本心だということが信じられません。
でも仮にそれを本心だと仮定してみると、その人の心境は「俺だってこんなことしたくないのに、ダメなんだよぉ、ムラムラし出したら頭がボーッとして手が勝手に動いてて…気が付いたら触ってるんだよぉ」ってことですよね。
この言い草を本心だと信じるなら、つまりこの人は自分の意志でコントロールできない性欲魔物が暴走したので痴漢行為に至った。というわけですよ。
これってじゅうぶん「何らかの治療を受けるべき人」じゃないですか?
(現段階で、そういう施設や治療法があるのかは別として)
本人だってそんな不可抗力で今後も性犯罪を重ねるのは嫌でしょうし、周りだって迷惑するし、もし医学的なアプローチ(外出時は性欲減退の薬を飲むとか)で、なんとかなるなら、そうした方が全員のためによくないですか?と私は思います。
また自分基準ですが、もし私が電車でそそる異性を見つけてムラリときてぼーっとなっていつの間にか尻を撫でてしまう体質だったら、絶対治療して欲しいと思いますよ。怖いですもん、自分のことが。
だから、もしこの案に「病人扱いしたら可哀相」という意見があるなら私は「いや、意思でコントロールできない体で生きるほうが可哀相でしょ。あと、それで痴漢される人の方がもっと可哀相でしょ。」と言い返すし、「性欲は人の本能的な欲求だから、それを奪うのは人の尊厳を奪うことでいけない」という意見があるなら私は「性欲を全て奪うわけでなく、本人の望み通り人並みにコントロールできるように治すだけ。あと、痴漢された人はすでに尊厳を奪われてます。」と言い返すと思います。
もし犯人本人が「性欲が強いからって治療なんておおげさな…!」と思うなら、それは「本当はやろうと思えば性欲をコントロールできるけど、しなかった自覚」があるからそう思うわけなのでその時点で当初の「性欲が抑えられなかった」は本心ではないことになるから、本心でないならこの案は適用外です。
あくまで「お前、まじで『僕ちんのせいじゃなくて手が勝手にやったんだよ』的な主張を通すなら、それ相当の処置を受けろよ。」ということです。
ではここからは、話の都合上③と④の説明を混ぜてしていきます。
③でもそもそも私は①②の存在はあまり信じられない。(居たとしても稀だと思う)だから、大多数の性犯罪者は「自制が効かない人」ではなく「自制する気が湧かない人」だと思う。
④なぜ「自制する気が湧かない」のかというと、被害者の言動を自分に都合良く「合意のサイン」に変換する脳みその持ち主だから。
このふたつですね。
さっきまで書いてた②は、もし「性欲がおさえられなかった」が、仮に本心だとするなら「それは治療しなきゃじゃない?」という話でしたが、私はそもそも①の段階で「性欲がおさえられなかったって話が信じられない」と書いてるように、ほとんどの性犯罪者のその言い訳が「本心じゃない」と思っているので、②に当てはまるような「本当に治療が必要な性犯罪者」はいたとしてもごく稀なタイプだと思ってます。
では、残りの大多数の性犯罪者の「性欲を抑えられなかった」という人は「どういう心理でそれを言うのか?」と考えてみると、ずばり
「抑える気がなかったけど、それを言ったらめっちゃ怒られるから、抑えきれなかったことにしてる。」
これだと思います。
しかし結果的に性犯罪になるのに、その前段階で「性欲を抑える気がない人」というのは、いったいどういう神経をしてるんだ?抑える気が無いとはどういうこと?と思いますよね。
私が思うにそういう人はたぶん「本能教」の信者なんです。
「本能教」とは私が心の中でそう呼んでいるのですが、もうたいがいのことは「人間の本能」のせいにしておけば丸く収まると思ってる人の「本能」へのすがり方が宗教チックだなと思うのでそう名付けています。
誰が教祖というわけではないのですが、信者の人は「性欲、それは人類繁栄の礎…。古来より男の本能に組み込まれるその根源的な欲求により我々人類は栄え…」みたいに思ってて「本能の言う事は~?」「ゼッタイ!!」なのです。
信者の人は自分の性欲との付き合い方も普通とは違います。
多少のタブーを犯すことも「男の本能」が源と思えば本人の中では「そんならしゃーない!」と納得&思考停止。
また周囲にも心の中では「皆のもの男の本能である性欲に対しては寛容であれ」と求めてます。
こういう要素が多かれ少なかれある人が、性欲の高まる状況に置かれたときに相手を観ると(被害者が女性と仮定します)、見たもの、聞いたものを脳内が「合意サイン」にドバドバ変換してしまうんじゃないかと思います。
彼らにとって「やめて」とか「嫌」という拒絶の言葉は、脳内で「じらし」や「恥じらうフリ」に変換され「向こうもその気じゃん」の合意サインになるし、「住所も本名も知られている年上の強い男の機嫌を損ねたら怖いので、仕方なくホテルに付いて来た少女」も「自分のことが好きだからホテルについてきてる。」としか思えないんだと思います。
だから、本人にとってみたら「こんなに相手の合意サインが出てるのに、なんで性欲を抑える必要があるの?」って感じで、自制する気なんてサラサラないんじゃないかと思います。
でも、事が起きて、相手が訴えて、本人の「本能教フィルター」以外の「客観的事実」で言えば、それはただの性犯罪です。
だから彼らは捕まったり訴えられたりするわけですが、そのように実際捕まるまで彼らは本能教の信者だから、本能に従って起こした行動に関しての認識が楽観的で「まぁ大丈夫だろう」と思ってるんだと思います。
で、結局捕まった時に冷静に理由を聞かれても、答えなんて「自分がしたくて相手も合意だと思った」か「性欲が抑えられなかった」しかないんで、性犯罪ってその二つの供述が多いのかなと思います。
以上で説明はおわりましたのでまとめます。
私が、性犯罪者の「性欲が抑えられなかった」という言葉の何が嫌かと言うと、犯行場所や方法や相手選び(自分より立場が弱かったり、非力そうな女を見極めてる)まで、それなりに「頭使ってる」癖に、言い訳は子供みたいに幼稚なところです。
そいつの理性の使い所が「保身」にしか向いてなかったのがわかる一言だからです。
本当に性欲が抑えきれないヤツばっかりなら、もっと相手が上司の妻とか、職場で、とか一発で社会生活アウトになる犯行が多いはずなのに、そういう事件は稀で、たいていの性犯罪はちゃっかり「社会生活は維持しつつできる範囲の犯行」です。
そのために働かせた理性を否認して「何にも考えられなかったんですぅ男の生理だから許して~」は通じないと思います。
それを大の大人がしゃあしゃあと言うことがほんとに信じられません。
もし本心で「だってムラムラしたらどうしようもないんだもん」という人は、お腹が減ったら食い逃げしますか?眠くなったら商談中に寝ますか?
それが我慢できるなら、ムラムラも我慢できると思いますよ。
少なくとも、誰かの人生に傷をつける方法以外で発散できる場所まで我慢してください。
そんなわけで、今日はそういう話を書きました。
ではまた。
職場にパンチパーマのおばちゃんが入ってきた時の話
介護の仕事をしてた頃のこと。
介護職というのは、望んで門を叩いてくれる人もいますが、まぁご存じのとおり最後の受け皿といいますか、「リストラされて職安通いをしてたら勧められたので試しに来てみた。」てなクチの人も少なくありません。
要するにこの業界、一口に「新人さん」と言っても、若者とは限らず、むしろ中年以降の方のほうが多いんじゃないかという業種であります。
そんなわけで、私も5年勤めているうちに、老若男女さまざまな新人さんのお世話係をしてまいりました。
その中で一人とても印象に残ってるというか、忘れたいのに忘れられない人がいまして、今週のお題がまさに 「印象に残っている新人」だそうなので久々にこのお題でひとつ書こうと思います。
私の働いていた介護施設は、いちおうデイサービス(日帰り)とショートステイ(短期入所)の方のための施設だったのですが、短期入所の利用を組み合わせてずっと泊まりっぱなし(帰宅することは無いので実質入所してる状態)の方も数人いらっしゃる小規模な施設でした。
私はそこで介護員をしていたんですが、ある時パートタイムで入社されたのがその人、オダカさん(仮名)でした。
オダカさんは見るからにザ・おばちゃんという感じの人で、第一印象は「ちびまるこちゃんのお母さんぽい」と思いました。なによりその印象付けに一役買っていたのは、彼女の髪型。
パンチなんですよ。
しかも「さては、今さっきロッドを外したのでは…?」と思えるほどにグリングリンが効いてて「あーし、初出勤に備えて気合い入れてきたんでぇ、そこんとこ夜露死苦ゥッ!」と言わんばかりのかけたてホヤホヤ感のあるパンチパーマだったんですね。
それでいて、ご本人の態度はヤンキーどころか、これがめちゃくちゃ腰が低かったんです。
こんな感じ。(つーかこの絵iPhoneのメモ機能で描いたんですけど、今こんなカラーとか出来てすごいですね。便利。)
で、私の職場ではいつも朝ミーティングがあったんですが、その時にボスが「じゃあオダカさん自己紹介お願いします」と言うと彼女は一歩前に出てこんなような事を一気に言いました。
「エートね、オダカです、私ねオバちゃんでしょ、こんなね、オバちゃんですからね、足手まといにしかならないと思うんだけどね、こうしてね、若い皆さんに囲まれてね、出来ることやって、お役に立ちたいと思ってますんでね、エエ、介護はね、初めてなんですけどね、体力は自信あるの、頭はからっきしだけど、ってアハハ、まぁね、お手柔らかにね、オバちゃんのこといじめないでね、仲良くしてくださいっ」
挨拶1つでオダカさんが「こんなような人なんだ」というのが職員全員になんとなく伝わった見事な挨拶でした。読んでる皆さんにも分かったと思います。
で、最初は「ちょっと変わってるか?」と思ったオダカさんでしたが、慣れてくると確かに有言実行で体力仕事は本当に率先してやってくれたんです。
特に利用者さんの入浴介助って、うちはマンツーマン方式だったので、1人で2人続けて入れると介助者も汗ダクになる重労働なんですね。
夏場なんか男子でも3人続けて入用介助をやるのはキツいのに、オダカさんは2人続けて介助した後も「もうさ、面倒だからアタシもう1人やっちゃうわ!それで午前のお風呂は終わりだからお風呂掃除もしておくから!」という感じだったので、だんだんと職員の見る目も変化していき「オダカさん頑張るねー、いい人入って良かったねー」と評価は上がっていきました。
そういえばオダカさんのことをさっき「腰が低い」と書きましたが、オダカさんは歩くときにマジで腰を下げてました。
ふつうの人が歩く時の姿ってこう、背筋を伸ばしてスタスタと歩くと思うんですが、オダカさんは1人で歩いてる時そのようにスタスタ歩いていても、誰か他人と近づくと「へぇへぇ今日もいいお天気で」みたいな事を言いながらいつもぺこぺこして歩いてました。(下図参照)
結局オダカさんがなんでそんなに腰を下げてるのか理由は最後まで分からなかったのですが、思い出したので書きときました。話を戻しますね。
そのように他の職員からは評価を得てきたオダカさんでしたが、私だけは徐々に「オダカさんの腰の低さって色んボロを隠すためなんじゃ…?」と思うようになってきました。
なぜかというと、実際教育係の私はたびたび彼女の言動にギャフンとなることがあったのですが、その度にオダカさんはぺこぺこはするものの信念は何1つ変えないのです。
例えば、オダカさんには少しでも「体力仕事」以外のことを教えようとすると
「イヤイヤイヤイヤイヤイヤ!ムリムリムリムリムリ!!オバちゃんだから!アタシなんてオバちゃんだから!そういうのは頭の回る若い人が頑張って!無理だから!力仕事ならなんでもやるから!」
といつも全力で拒否られました。
私はこの時、なにも「通所介護計画書の書き方を教えます」とか言ってませんよ。
教えようとしたのは、うちの施設には毎月利用者さんの送迎に使う車が3台あるので「月末にその3台の車の走行距離の数字を見てメモっといて下さい」って仕事なんですよ。
これは月末の最後に車を使うに当たった職員は誰でも全員やることなので、事務仕事と呼べるほどのものでもないし大人なら「難しいからムリ」というレベルの仕事じゃないと思うんですね。
でもオダカさんには「事務仕事はダメなの!オバちゃんだから!」という因果関係の分からぬ言い訳の一点張りで拒否られ、私は「世の中にオバちゃんの事務員何人いると思ってんだよ…」と思いました。
こんな調子でオダカさんには普通の理屈が通じないことがよくありました。
そのつど私が「や、あのイヤとかじゃなくて、仕事なんでやって貰わないと…」と言っても「ムリムリムリムリ!」と拒否られ、二言目には「そんなら辞めるよ!」と「職を辞する覚悟」を突きつけられてしまうので、いつもこちらが折れる形になっていました。
オダカさんはおそらく自分の言いたいことを強調したい時になると、周りが見えなくなるというか論理がむちゃくちゃになる人なんだと思いますが、後にそのことがよく分かったエピソードが1つあります。
とある日のデイサービス。
利用者さん達と紙風船バレーをしていた時に20歳の男子職員田中くん(仮名)がリフティングみたいにして「ほっほっ」と紙風船を操って利用者さんを楽しませたんですね。
そしたら見守りをしていたオダカさんも「いや〜さすが若いわ!足があんなに上がって、ホラ○○さん見て田中くんが凄いことしてるよ!」と側にいた利用者さんに声かけをしてくれて、寝ていた利用者さんも目を開けて「本当だねぇ」と笑ったりして
こんな感じのすごく和やかでいい雰囲気だったんです。
しかし私の心の叫び虚しくオダカさんは火が付いてしまったようです。
「だいたいね昔なら60なんてとっくに死んでる歳なんだから!そんなあたしに出来るわけないでしょっ!年寄りからかってこの子は本当にもうっ!」
私が、さすがに止めねば…と思って立ち上がると、田中くんが言いました。
「もーオダカさん何言ってんですかー!
オダカさんの歳で棺桶ならここのみんなはとっくに燃やされてる頃でしょー!」
田中くん…
私はドキドキしました。
しかし次の瞬間
「そりゃあ違いねぇ!」と一人のお爺さんの合いの手が入りその場は笑いに包まれました。
…よかったぁあ~。
さすが老人は懐が深い。田中くん結果的にグッジョブ。
そんなわけでその場は丸く収まったのですが、田中くんの冗談が冗談として消化されたから良かったものの本来なら80歳超えの人の前で「60歳はすでに死んでもいい歳」と言うのは失礼ですよね。「80超えて生きてる俺はなんなんだよ」ってなりますから。
もしオダカさんがそこに気がつかなくて、今後気難しい利用者さんと一対一の時にまたそんな事を言ったらトラブるので、教育係として私は一応オダカさんに「その認識があるか確認しなくては」と思って「あの、さっき皆さんの前で言ったのけっこう失礼だって気がついてます?」と聞きました。
オダカさんは「ハテ?」という感じだったので、上記のようなことを説明をするとそのまま神妙な顔をして頷き、最後に顔を上げて
「あたし難しいことは分かんないけどさっ!とにかく頑張るねっ!」とニッコリされました。
このようにオダカさんと接する時に私は何度「暖簾に腕押しとはこのことか」と思ったか知れません。
しかし、オダカさんのとんでもない発言には、ギャフンを通り越して私も思わず笑ってしまったことがあるので最後にその話を書いておきます。
それは利用者さんに「お昼寝をしたい」と言われて、その対応をオダカさんに教えていた時のこと。
空いている寝室を見つけて、ベッドメイキングを確認して、トイレ介助して目覚まし時計を合わせて利用者さんをベッドへ移乗して、と私はオダカさんに教えながら一緒にやっていました。
オダカさんはずっと「ハイ」「ハイ」と熱心にやってくれていたので、私はそれだけで良かったのですが、すべて整い部屋から出る頃にオダカさんは「桜島さんがあんまり全部1人でテキパキやってくれてるから、最後くらい自分も何か気の利いた事を言わなきゃ!」と思っていたらしいのです。(後から本人談)
そんなことはつゆ知らず、私はふつうに部屋から出る際にドアを閉めながら「じゃあ○○さん、ゆっくり休んで下さいね~」と声かけをしました。
すると「なんか同じようなことを言わなきゃ!」と焦ったオダカさん。
とっさに出た一言がこれ
「○○さん、安らかにお眠り下さいね〜」
私
オダカさん、それ似て非なる!
似て非なるやつだから!!!
確かに「ゆっくり休んで」とニュアンス近いけど「安らかにお眠りください」って、永眠向けのやつだよ…!
利用者さんはお耳の遠い方だったので、たぶん聞こえてなかったと思うんですが、オダカさんはさすがに口に出してみて自分でも気がついたのか「アレ!?なんか今、あたし変なこと言ったね!??」とワタワタしていました。
そんな愉快なオダカさん、1年くらいお勤めしてくれたのですが、最後は「思ったより遠くて通うのが大変」という「高校生が初めてバイトを辞める時の言い訳」みたいな理由を残して辞めてしまいました。
オダカさんが辞めた後は残念なような、そうでもないような不思議な気持ちになりました。
そんなわけで今日は私が妙に忘れられない新人おばちゃんの話でした。
ではまた。
今週のお題 「印象に残っている新人」